日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

かんばこうじんだに!

2013-10-30 12:30:42 | 弥生時代
10月の初旬、出雲大社で行われる、あるイベントが開催されるのに合わせて、出雲へびゅんと飛び、1泊して帰って来ました。
8年前に一度訪れ、出雲そばや仁多米など、おいしいものがたくさんあって、史跡もすばらしく、こちらに住みたいと思うほど、私は出雲が大好きなのです。

今日は、1日目の最初の見学地、神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡のことに絞って書きましょう。この遺跡は、昨年度まで在籍していた高校では日本史Bの教科書を使っていましたので、弥生時代を学習した時に、簡単にですが触れました。

この遺跡は、1984年に358本もの銅剣がいっぺんに発見された驚くべき遺跡です。ぎっしりと銅剣が並べられて埋まっていた発見時の写真は衝撃的で、圧倒されます。
道路建設のための遺跡調査の際に発見されたものです。まだあるのではないかと磁気探知機で近くを探したところ、そのすぐ隣で銅矛16本と銅鐸6個がまとまって埋まっていたのが見つかりました。

神庭荒神谷遺跡から3km程度しか離れていない加茂岩倉遺跡では、銅鐸が39個も発見されました。1996年のことですからつい最近です。

これらの発見によって、出雲は一気に銅剣・銅鐸の保有国1位(旧国名別)に躍り出ました。本当にものすごい数量です。

それまで、出雲は、『古事記』や『日本書紀』などの神話に登場するけれども、考古学的にはあまり目立った出土物もなかったため、神話の中だけに語られる、権力の実態のない地域と考えられてきましたが、これらの発見によって、弥生時代の頃からの出雲にも、大きな勢力があったのではないかということが具体的に考えられるようになってきました。

両方の遺跡を訪ねたかったのですが、今回は時間がないため、神庭荒神谷遺跡だけとしました。

出雲空港からタクシーで10分ほどで神庭荒神谷遺跡に着きます。タクシーの運転手さんともせっかくだからお話をして、地元の情報や空気感を吸収したいと思っていました。出雲大社の話題ももちろんですが、神庭荒神谷については、運転手さんは
「あそこだけでなくてこのあたりを掘ればまだ出てきますよ」
と、神庭荒神谷に向かう道すがら話されていました。のどかな里山の風景なのですが、実際、そこらじゅう、まだ埋まってそうな雰囲気があるなあと感じました。全部掘るのは無理ですからね~。掘ってほしいですけどね。

神庭荒神谷遺跡には小さな博物館が建っていて、遺跡の簡単な紹介がされています。売店でも荒神谷遺跡にちなんだおみやげ品が置いてあります。
そこをざっと見てから、いざ、遺跡を見に行こう、と歩きだしたら、無料ガイドのおじさまに、ご案内しましょうか?と声をかけられたので、お願いすることにしました。

今回の旅は、個人的に研究したいことがあって、その関連する遺跡等を、自分の目で確かめ、周囲の地理的状況・雰囲気を確認するという目的もありました。この荒神谷遺跡も、そうです。
ガイドさんが、あれが神奈備(かんなび)山の仏経山です。と遠くに穏やかにたたずむ山を教えてくれました。あれがそうか!ガイドさんに教えてもらわなければわからなかったかな。



古代の人々は、山そのものを信仰の対象にしていました。教科書には、奈良県の三輪山の例が載っています。山の形が美しかったり、ちょうど振り仰ぐような位置にあったりする山を、神様が宿る山・神奈備として大切にしていたのです。『出雲国風土記』にも四つの山が神奈備として記されています。その中の一つがこの仏経山です。

博物館から数百メートルで、発掘現場に到着。

こじんまりとした崖の中腹に、ひっそりと遺跡はありました。
発掘当時のそのままの状態を見せるために、銅剣のレプリカが並べられています。写真で見た発掘時の状態とそっくりでリアルです。

現場にはすぐ近くまで行くことはできませんが、20mくらい離れた所から、ガイドさんの解説を聞きながら眺めることができました。私が知っている以上のお話はとくに聞けませんでした。


左側が銅剣が発掘された場所、右側が銅鐸と銅矛が発掘された場所。木が邪魔してあまりいい構図ではありませんが、正面からはこれが精一杯。

周囲は雑木林に囲まれていて、あの神奈備、仏経山は見えません。出土場所から神奈備山が見えるように撮った写真を見たことがあったのですが、木が生い茂ったせいなのか、見えませんでした。

この場所に、どうしてこんなに大量の銅剣が埋められたのか?それはいまだに明らかになっていない大きな謎です。

これについては、いくつかの説があります。

一つは、普段は土の中に埋めておいて、お祭りの時に取り出して使うために埋めてあってそのままになってしまったという説。

また、他の勢力との争いがあって、その勢力に奪われないように、埋めて隠していたという隠匿説。

などです。

特に、この銅剣358本のうち、344本に×印が刻まれているのですが、これがどういう意味なのかもわかっていません。加茂岩倉遺跡の銅鐸にも、同じように×印があるのです。


レプリカですが当時の発掘状況そのままの姿 横からだと結構近くから見られます

私自身も、授業で、弥生時代の遺跡を紹介する中の一つとして、神庭荒神谷や加茂岩倉遺跡について、数が多くてすごいですねえ、というくらいしか説明できず、どうして出雲にこれだけのものが?ということがわからないので、とてももどかしいのです。

私の大好きな出雲は、神話にはたっぷりと描かれていますが、日本史の教科書には、ほとんど出て来ない。神庭荒神谷は、旧課程教科書では欄外の注に書いてあるだけだったのが、今度の教科書では、大きな写真に昇格しました。しかし、なぜ出雲にということは相変わらず教科書には書けない。しかも、「出雲」という文字自体も、旧課程では、古墳時代からの祭祀の注の部分で伊勢神宮や住吉大社と一緒に記述されていた出雲大社が、新課程の山川教科書では消えてしまいました。それもなぜか、目次には「出雲大社」が残っているのですが、該当ページにはないのです。これは教科書会社のミスでしょう。旧課程の目次を直し忘れたのですね。

出雲には、他にも弥生時代のお墓の形として、四隅突出型墳丘墓というヒトデまたはコタツのような独特な形のものが分布していて、新課程ではゴシックで記述されるようになりました。それはよかったのですが、「山陰地方」に分布、とくくられてあって、ここでも残念ながら出雲の文字は出てきません。

そういうわけで、出雲は実は、歴史的には大きな影響力・ポテンシャルがありながら、教科書には「出雲」が出てこない状況です(目次に間違って載っているだけ)。
こういう状況を、いつか変えられないか・・・というのが私の願いです。

神庭荒神谷遺跡の話に戻りますが、ここに埋められたのは、祭祀のためだったのか、隠匿説なのか?それを自分の目で周囲の雰囲気を確かめるためにここに来たのですが、発掘現場は、思ったより見通しが悪く、仏経山も見えないし、現場に至る道も、この写真のように、かなり奥まった場所、という雰囲気で、開けた場所では決してありませんでした。弥生時代はまた周囲の風景は違っていたのかもしれませんが、直感的には、隠して埋めた(使わないために埋めた)のではないかなと思いました。


この道の先に発掘現場があります。

それにしても、本当に静かな、のどかな里山という雰囲気の場所に、荒神谷遺跡はありました。よくぞ発見された、と、思います。

なぜ出雲のこの場所に、こんなにたくさんの青銅器が・・・ということが、いつか解明されることを願います。私自身も解明していきたいと思いますし、皆さんも、考えてみてください。当時の文献も残されていませんから、本当のことはわからないのかもしれません。空想するのは自由です。

特に、神庭荒神谷の銅剣と加茂岩倉の銅鐸に付けられた×印の意味は何だと思いますか?推理してみた人は教えてください。

今日は詳しくは書きませんが、『古事記』などに描かれている、オオクニヌシの国譲りの話、『出雲国風土記』に出てくる「(オオクニヌシの)御財を積み置き給ひし処なり」とある、神原郡(加茂岩倉遺跡も近い)の記述などと、突き合わせて想像してみるのも楽しいです。

現地に足を運んで、見る価値のある、いろいろと想像をかきたてられる、いい遺跡でした。今回は時間がちょっと足りなかったのですが、またいつかゆっくり見たいと思います。

この旅の続きはまた。
今日は、振替えの休みをとっているので、このような時間にアップできました。

(参考)荒神谷遺跡の紹介HP
http://www.kojindani.jp/iseki/index.html