日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

これからの日本史教育について その3

2014-12-31 14:34:08 | 日記
時間はたくさんあると思っていたら、いつの間にか、今年もかなり押し詰まってきました。前回の続き。書きかけの話題は年内に終わらせて。

2012年の文部科学省の調査による、大学全体の入学者の入試別比率は、一般入試56.2%、推薦入試が34.8%、AO入試が8.5%となっています。特に、私立大では推薦・AO入試による入学者が、全体の半数以上になる50.5%を占めているとのことです。

私立大だと、付属高校からの内部進学者も多いし、推薦・AOで合格した人も含めて半分以上はそういう学生なんですね。

あくせく日本史の用語を覚えて大学受験するなんてばかばかしくなってしまう気持ちもわからなくはないです(あくせくやらなくてもできるんですが)。推薦で受かってしまえば、必要ないですもんね。

推薦・AO入試の比率は、かといって急激に高まる傾向でもないようですが、減って行くことはないでしょう。

○○○○細胞はあったのかなかったのかで騒然とした2014年でしたが、渦中の人となった研究者はW大学にAO入試で入学したそうで、その大学のコピペ文化についてもネットでは話題になっているようで、大学名と「コピペ文化」というキーワードでいろいろ出て来ます。私も読んで驚きました。

日本の理化学系のノーベル賞受賞者は、ほとんど(全員?)国立大学出身者でしたよね。
○○○○細胞は本当だとしたらノーベル賞級の発見だったのでしょうけれども、私が昔から聞いていたことは、理系について、国立大学は、大学院に進んで基礎研究をできる環境がある大学が多いが、私立大学は、基礎研究はできない。応用研究が中心。学生も、大学院に進むよりは、ほとんど学部卒で理系といってもメーカーの営業になるくらい、ということでした。今もそうなのかはわかりません。

AO入試もまだ新しい制度で、その方式で入学した学生が社会に出てどのように活躍するのかは今後結果が出てくるのだと思います。

ノーベル賞受賞に値するような研究者の方々は、幅広く分厚い教養を身に付けており、苦労して勉強し、研究に打ち込んだ経験が必ずあるはずです。

私立大学を悪く言っているようですみませんが、言わざるをえない気がするので書いています。私立大学専願の入学者は、早い段階から5教科のうち2,3科目を受験科目から捨てているし、さらに推薦やAO入試で合格すれば、もっと早い段階からすべての科目の受験勉強から下りています。

そのようにして入学した後、その大学において重厚で深遠な学問を極めたいという人は、なかなか大変な努力が必要だと思います。私立大学卒からはノーベル賞(理系)はあきらめなさいと言っているわけではないのですが・・・しかし、現状で本当に「学問」している大学はどれだけあるのかな?と、某大学のコピペ文化の記事を読んで思ったりしました。私大トップでもこんな状態では・・・と。

自分の興味関心のある狭い分野のことだけ恐ろしく博学な人というのがいますが、それだけでは、人間としても、社会人、組織人、としても、バランスを欠いていると思います。自分の好きな分野以外の世界についても、幅広く知識や関心を持ち、理解しようとする姿勢を持っているべきだと思います。自分と関係がなさそうな分野からも、思わぬヒントを得ることもあります。

AO入試の弊害としてよく言われるのは、プレゼンテーションがうまければ合格してしまうということです。確かにそういう面があります。ただし、AO入試の手間のかけ方や、求める学力の高さ深さは大学によって千差万別です。私の母校も国立大学ですが一部でAOをやっており、その要項を読むと、要求している内容はかなり高度で、これはこれで大変です。

要は、学力トップの高校生は、どういう入試制度を選択して行くのだろう、ということに興味があります。AOや推薦で行く、となるのか、今までの東大を頂点とする知識詰め込み型の学習成果を答案にぶつける形の入試を選択するか。どちらで行くかによって、高校における日々の学習スタイルが大きく違って来ますし、その後の人生にも微妙に影響を及ぼすと思います。

また、日本史の試験問題はどうあるべきか。日本史を必須としない大学がひたすら増えていくか、入試科目に残っても、これまでと異なり、知識活用型であったり、論述式であったりという試験に変わって行くのか。それとも今後も当分、旧態依然の問題を出し続けるのか。

日本史が従来のような暗記型の入試形態でなくなるとしたら、それはそれで授業する側としては喜ばしいことです。
センター試験のような内容ならば、許せるかなと思いますし、今後も残って行ってもいいかなと思います。国公立ではセンター試験を受験することを条件とした推薦入試があり、そういう入試もよいですね。

あと1年、というスパンで、私も日本史の授業はどうあるべきか、深く考え、変えていくための行動を着実に進めていきたいと思います。時間があるかと思うと、大学通信教育もやっているので、そうでもないんですよね。でも時間を大切にしてがんばりたいと思います。
受験生ほど、時間を意識し、懸命に勉強している人達はいないと思います。私も受験生の気持ちになって、自分の勉強を冬休みも続けます。
では、よいお年を。来年もよろしくお願いいたします。



写真は、夏のスクーリングの帰りに訪れた西大寺。東大寺に対する西大寺。乗換駅としてもちょくちょく名前を聞く西大寺。行ったことがなかったので行ってみました。東大寺を作った聖武天皇の娘、称徳天皇勅願の寺。大きくて立派な、穏やかな空気の漂う、いいお寺でした。しばし称徳天皇に思いをはせました。

天平祭のイルミネーション(夏)

2014-12-23 14:41:29 | イベント
夏休みの話題で恐縮です。今頃こんな記事では季節外れすぎて全然だめかなと思ったのですが、ちょうどクリスマスイルミネーションの季節で、もしかしたらかえって合ってるかも?ということで、しばしお付き合いください。

夏休みの最終盤、8月29~31日の間、大学通信教育のスクーリングで奈良に行っていました。二日目の夕方だったと思います。宿から大学に通う電車の窓から見える平城京跡で、何やらイベントをやっている様子。しかも、夕方で、きらきら光るものが並べられている。何だろう?と思ってネットで調べると天平祭というものをやっているらしい。

奈良は、8月上旬からお盆にかけて、「なら燈花会(とうかえ)」という、ろうそくの光によるイルミネーションで街がいろどられます。今年はその時期のスクーリングはなかったので見られなかったのですが、その名残りは街の所々に残っていました。この天平祭は、平城京跡を舞台として、それと似たことを、この夏休みの最後にやってくれているようでした。

スクーリング二日目は、授業が終わってから急いで西大寺と垂仁天皇陵を見に行き、その帰りの車内から天平祭のことを知ったわけです。いろいろアトラクションがあるようだから、夜に出直して行ってみようかな?と思いましたが、案の定、体がくたくた疲れ切って、行ったら大変なことになりそうだと思って、自重しました。
それで、三日目、帰りの新幹線は、遅めの時間に予約してあるから、その間を利用して、行ってみることにしました。時間的に、ちょっと見て暗くなる前にすぐ帰る、くらいしかできないなと思いましたが、せっかくなのでと・・・・

夏は本当に苦手で、バテバテだったのですが、夜はいくらか涼しいし、自分を鼓舞して、西大寺から徒歩15分、平城宮跡へ向かいました。

平城宮へは、遷都1300年記念の2010年に行ったことがあります。当時の大極殿や朱雀門が復元されていて、大極殿の中には天皇が座る玉座もあって、とても立派で雄大な建築です。大極殿前のスペースがまたとても広大で、大極殿に天皇が立って、お正月などに人々が集って、天皇陛下万歳!なんてやったらとても絵になりそうな場所になっています。映画の撮影などにもいいんじゃないでしょうか?

奈良はシルクロードの終着点、とも言われ、この天平祭でもそれにちなんで、エスニックフードのお店、地元奈良や近県のおいしいもののお店がたくさん出店しているフードコートがありました。
私も十津川の串こんにゃくを買って食べました。確か十津川だったと思うのですが・・・もう記憶が薄れてきてしまいました。ゆずの風味でした。分厚くておいしかったです。いつかそっちの方も訪ねてみたい、という憧憬の気持ちを持ちながら食べたので、多分十津川でしょう。

そして、大極殿前の広場でろうそくのあかりが入ったカップをたくさん並べるイルミネーションが行われている場所に着きました。まだ薄明るくて、東の遠く彼方から、カナカナ・・・とヒグラシの声が聴こえていました。奈良は、というか関西地方は、だと思うのですが、セミの鳴き声が暑苦しいのです。東京は、ミンミンゼミの、ミーンミンミン、という声か、アブラゼミのジー・・・という声が主流ですが、関西は、クマゼミの、ワシワシワシ・・・という声が大きいです。以前、静岡の三島に夏に行った時もクマゼミの声が大きかったので、東京より少し西・南に行くとクマゼミが多いのでしょう。
でも、この平城宮は、風情があって涼しげなヒグラシの声が聴こえて、さすが・・・と思いました。
東京も、今後あの、ワシワシワシ・・・と鳴くクマゼミが繁殖しすぎたらどうしましょう?ちょっと堪忍してほしいです。



それで、大極殿前の燈火の様子は写真のとおりなのですが、一つ一つ、ボランティアの人達?がろうそくの火を灯して歩いていました。一通り点火し終わると、次第に暗くなってきて、いい雰囲気になってきました。大極殿を遠景に、幻想的で、砂利にじかに座ってぼーっと眺めていると、とても心が和みました。





しかし、真っ暗になるまでここにいると、新幹線に間に合わなくなってしまうので、名残り惜しいですがそこを離れ、朱雀門の方に向かって歩いて行くと、不思議な形をして華やかな光のモニュメントが四つ、広い空間に離れて置かれていました。それは、四神でした。キトラ古墳や高松塚古墳の壁画でおなじみの、四神=東が青龍、南が朱雀、西が白虎、北が玄武です。
何しろ、それぞれの距離が遠くて、時間もないので近くまで行って見る余裕がなく、一番近くにあった北側の玄武だけ、近くでじっくり見ました。玄武は亀と蛇が合体したような動物です。何となくそんな雰囲気が表現されています。



その遠く向こうに、赤い朱雀も見えましたが、行って見て来る余裕はないと判断し、そこで帰途につくことにしました。

願い事を書いた紙?を着けて原っぱに光る風船(光るものを装着している)を置く、というアート?に参加している人達もいました。遠くから見るとこれも幻想的でいい雰囲気です。近くで見ているとバンバン風船が割れたりもするのですが。



そんなこんなで、駆け足で天平祭を見て、西大寺から特急に飛び乗り、京都で新幹線に乗って帰って来ました。新幹線の指定席って、1回は無料で時間を変更できるのですね。初めて知りました。それでちょっと予定より早い新幹線に変えて少しでも早く帰宅し、翌日からのお勤めに備えました。

古都奈良を、ろうそくなどの光でいろどるというイベントの定着は、なかなかよいものですね。夏は暑くて、観光客がどのくらい来ているのかわかりませんけど、夜、夕涼みで奈良の街を散策するのはすてきだと思います。今回は、「天平祭」で、「なら燈花会」ではありませんでしたが、いつか燈花会の時期に行ってみたいですね。

「天平祭」は、夏だけでなく、秋も春も?やっているようです。会場のスケールが大きいだけに、イベントも大規模で数多いです。天平行列といって、奈良時代の衣装を着た人達による行列も見てみたいものです。

http://www.tenpyosai.jp/index.html
このリンク先に天平祭の情報が載っていますが、開催趣旨も立派なことが書かれています。
一般にはなじみ深い、京都の平安絵巻・十二単の世界とはまた違う、古都奈良の文化を、視覚で確認し、楽しむことができるこういうイベントは、奈良びいきの私には、とてもいいですね。
事前のリサーチが苦手な私ですが、天平祭に気がついて、ちょっと見て来れたのはスクーリングの収穫でした。

これから年明けにも2回ほどスクーリングの予定があります。厳寒の奈良を、限られた時間の中で、楽しんで来たいと思います。

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邪馬台国はキビの影響のもとに・・・?纏向出現―邪馬台国東遷説を考える その3

2014-12-20 14:11:01 | イベント
やはり師走・平日の更新は無理でした。もう少しで冬休みですから、ここでたまっているものをガンガンアップしていきたいと思います。

11月16日の纏向学研究センター東京フォーラムの続きです。今日は、鼎談「邪馬台国東遷説を考える」から私自身の整理のために必要と思う所をピックアップして紹介します。

鼎談は、元國學院大學教授 柳田康雄さん、日本考古学協会会員で俳優の苅谷俊介さん、桜井市纏向学研究センター所長の寺沢薫さんの3人で行われました。寺沢さんは、このディスカッションのコーディネーターという立場で、ご自身の意見はほとんどおっしゃいませんでした。私は寺沢さんの本を読んでいて、ナマでお話が聴けるのならとこのフォーラムにも応募したのですが、とても弁舌さわやかな紳士でいらっしゃいました。

「東遷」というタイトルについて、以前も書いたように首をかしげつつの参加であったのですが、これは、前回から書いている考古学界の古き重鎮・功労者である柳田さん(九州出身)のためにそのような取り上げ方をしたのかなと思いました。
この鼎談は、簡単に言うと、邪馬台国は九州からの勢力が大和に東遷して成立したという柳田さんVS九州からではない(キビからである)という苅谷さん、という構図でした。

この頃、考古学の分野の方が書いたものをよく読むのですが、大塚初重さんとか、白石太一郎さんとか、森浩一さんとか・・・そうすると、考古学の方々は、無邪気で、ロマンチックな、子どものような心を持った人が多いのかなという印象を持つのです。私は大学では文献史学の方でしたので、とにかく論理的で(文献を扱う上で)実証的で緻密な文章を書く先生ばかりの本を読んできました。そういう世界とだいぶ違うなという気がします。
それから、考古学は発掘調査をしますから、体力もあって活動的な方々なのだろうと思います。文献史学は、最近生徒に教えてもらった言葉で、インキャラ(陰キャラ)な人が多いのかも???現に、私の恩師だって(文献史学は)「家でゴロゴロしながらでも考えられる」と言ってましたから。

考古学の方々は、思い込みも強いような印象を受けます。思い込みという言葉が悪ければ、思い入れでもいいですが。
そういう主張の強さも必要な時もあるとは思いますし、私も自分で勉強をしていく上ではそういうものが足りない方なので、考古学の方々の姿勢も見習い、少しは取り入れた方がいいのかなとも思います。

柳田さんは御年71歳、九州男児とお見受けしますが、子どものような純粋さで、邪馬台国のルーツは九州・伊都国にあるということ、そして、ご自身がたくさん発見した鏡の重要性を主張していらっしゃいました。

鼎談の具体的な内容の紹介に入りたいと思いますが、もう、現在では、邪馬台国が九州かヤマトかという議論は古いのだそうです。ヤマト(畿内)にあったということで大体一致しているとのことで、ここでは、ヤマトに存在した邪馬台国の中心勢力は、どこから来たのかというのが焦点でした。

私自身は、今の学校では日本史A(近現代)しかやっていないので、ここ2年、古代は教えていないのですが、2年前までの授業では邪馬台国は九州じゃないかと思う、と話していました。実は、当時は、邪馬台国がどこにあったって興味ない、という態度でした・・・すみません。当時は、文字の使われていない時代のことは興味がなかったのです。私が興味なければ、生徒は輪をかけて邪馬台国がどこにあろうが興味がない感じ・・・すみません。私が悪いんです。あまり邪馬台国や卑弥呼の話をしても盛り上がりませんでした。
自分がなぜ九州と思うのかについては、もしヤマト(畿内)だとしたら、卑弥呼も天皇家の系譜につらなることになると思われるが、そうは思えないからです。そうだとしたら、もっと『記紀』でもそのように書かれるはずですが、そうなっていないですから。

しかし、今では、その点についても別の考え方をするようになり、九州ではなくてヤマト(畿内)なのかなと思うようになりました。そういう、自分の話はまた別の機会にしましょう。いずれにせよ、授業で九州だと言ったけれども、鵜呑みにしないで、当時の生徒の皆さんは、自分で探求してくれたらな・・・と願っています。
あとは、今まで九州だと言われてきたのに、そうでなくなってしまうと、九州の人達がかわいそうだ・・・というのも九州に肩入れしていた理由の一部でもあります。

しかし、纏向遺跡の発掘調査が進んだり、箸墓古墳がクローズアップされたりして、大和説が動かしがたいものになってきました。
そういう中での、柳田さん苅谷さんのバトル?だったわけですが。寺沢さんは、その中間くらいの考えだそうでしたが、苅谷さんも寺沢さんも、キビ(吉備)の勢力が邪馬台国成立に大きく関わっていると考えているようです。

以下、正しいかどうかは別として、私のメモとしても記録しておきます。

「東遷」というよりは「東漸」である。戦争があったというよりは、自然な流れとして(九州から東へと)広がっていくイメージ、北部九州人が青銅器を携えて東に進んだ(柳田)

ひすいは縄文時代は東日本にあったが、弥生時代になると北部九州に集中する。これは日本海に北部九州人が取りに行ったのだ 古墳時代は全国にひすいが広がる(柳田)

前方後円墳の中身を見れば出自がわかるのではないか(パンフレットp.29の表)
鏡・玉・剣の三種の副葬は九州
九州とキビの要素が強いと考える (キビの要素は特殊器台・壺、弧帯文様、墳丘の葺石など)
(以上寺沢)



↑パンフレットp.29です。 「前方後円墳諸属性の系譜と変遷」(寺沢1984)


九州は鏡玉剣を重視するが、キビにはない。別々に葬送儀礼を行っていた(苅谷)

鏡を尊重した政治体制が古墳時代につながる(柳田)

瀬戸内海の制海権をキビが握った。キビが九州の鏡をよこせという発言権を得た(苅谷)

ここで、寺沢さんが、
「倭国乱れ・・・一女子を立てた」というのをわかりやすく言うと?」
と投げかけました。

キビ系のものが纏向には多い。卑弥呼擁立にはキビの力があった(苅谷)

魏志倭人伝の「その国」は倭であって邪馬台国ではない(柳田)

さらに寺沢さんが
「卑弥呼はどこの人?」

「伊都国の血縁の人」(柳田)

「キビの楯築墳丘墓に葬られた被葬者がヒミコのお母さんにあたるくらいの人」(苅谷)
「倭王の筆頭はキビだ」(苅谷)

柳田さんと苅谷さんの壇上でのバトルもやや熱を帯びたところで、寺沢さんが、
「キビと伊都国がなければ邪馬台国は生まれなかった、『倭国乱れる』がこの壇上に現出している」
と言って会場を笑わせました。

寺沢さんは、三人とも大和説であることには違いなく、出自についてはいろいろな考え方がある。纏向がどうしてできたのかに集中していく必要がある。前方後円墳に象徴される新しいヤマト王権は、各地の要素が統合されてできたのではないか、と、寺沢さん自身の言葉はこうではなかったかもしれませんが、そんな趣旨のことを言っていました。要するに、前方後円墳には、九州の要素、キビの要素などが入っている。全部合わせて新しいものを作ったのではないかということです。

大体鼎談の内容は以上ですが、キビの影響を重視しているのが新鮮でした。今の学界の情勢はそうなってきているのだろうか?そして、出雲びいきの私は、出雲の四隅突出型墳丘墓だってあるし、出雲の影響もあるはずだ・・・と考えます。箸墓古墳と同じく、出雲の四隅突出型墳丘墓でも、吉備の特殊器台が発見されています。その特殊器台があるということをどう考えるかです。
吉備を重視すると、瀬戸内海の海運が中心になりますが、私は弥生時代も早い時期は、日本海側から入ってくるルートが重要だと考えます。日本海側は大陸に面していますしね。

ともあれ、このフォーラムを踏まえて、吉備の影響というものを念頭に置きつつ、私も自分なりに纏向遺跡や箸墓古墳について考えていきたいと思いました。

岡山は桃の産地だし、纏向遺跡で大量の桃の種が出たっていうのも単純に気になりますよね(笑)
では今日はこのへんで。

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邪馬台国東遷はあったのか? 纏向学研究センター東京フォーラム その2

2014-12-14 21:47:55 | イベント
まさに師走真っ只中。学校行事やら、大学通信教育のレポートやら試験やらで身動きがとれず、久しぶりにこちらを更新します。

そういえば、東博の「日本国宝展」、終わってしまいましたが、そのチケットの半券を持っている人は、12月23日まで、総合文化展(平常展)を一般310円、大学生210円の割引料金で見ることができるそうです。普段より200円安いのですね。行ってみてはいかがでしょうか?

私もその国宝展の際に「チケットケース」なるもの(その時気に入った三千院の菩薩さまのデザイン)を購入し、たまたまそこにチケット半券を入れたままだったので、暇があったら、行ってまたミュージアムショップで買い物でもして来ようかなあ・・・とちらっと頭によぎりましたが、暇はあるかなあ?ちなみに私は大学生ですから210円です。



さて、11月16日にあった纏向学研究センター東京フォーラムの話題の続きです。
講演の2番目、「卑弥呼は伊都国から」(元國學院大學教授 柳田康雄さん)のお話から印象に残った点を書いておきます。

柳田さんは、九州・福岡県のご出身ということもあってか、邪馬台国や卑弥呼のルーツは九州にあるという強い思い入れが感じられる方でした。鏡の発掘についてはかなりの「当たり屋」だそうです。

平原王墓(福岡県)は、副葬された銅鏡などの製作年代から、卑弥呼共立直前から同時期の巫女王墓であるとのこと。

柳田さんは、ここが伊都国であるとしています。平原遺跡は中国鏡が大量に出土した大規模な遺跡です。要するに、ここの鏡の量は一番であって、2世紀終わり頃までは伊都国王が倭王であっただろうというのです。それが正しいかどうかはともかくとして、平原王墓の被葬者は女性=女王=巫女であるというような内容でレジュメにも書かれています。
どうして女性とわかるのか、今自分でよく確認していないので、後で調べるためにメモとして書いておきます。
男女の墓で、夫婦ではなくて父の横に娘?が埋葬されていたというようなことをおっしゃっていました。
足元に多量の銅鏡群が破砕されているのが特殊であるとのこと。
レジュメの結論は「卑弥呼は伊都国の平原巫女王の近親者から選ばれたと考えている」とあります。

その他、私のメモから・・・
「日本海の墳丘墓の被葬者は、鏡を持っていないのでヤマト王権に関わっていない」
「鏡を持っている地域に注目を」
「天竜川以東が狗奴国」これは、今日奈良大の科目修得試験を受けてきたその試験勉強の中でも、白石太一郎さんが狗奴国は濃尾平野を中心とした東日本の勢力であるという説を唱えているのに出会いました。そしてその勢力が前方後方墳を作っていると。

何しろ、柳田さんは、「鏡」に相当のこだわりがあるようでした。
卑弥呼の時代と、九州で鏡がたくさん見つかる時代のピークは少しずれている(九州は早い)かなあと私は今では考えています。

講演の3番目は、俳優の苅谷俊介さんでした。私は俳優さんはあまりよく知らないのですが、「花子とアン」やその他大河ドラマなどにもたくさん出ていらっしゃる方で、しかも考古学研究も熱心にされているようです。肩書は「日本考古学協会会員 俳優」とありました。講演も、お勉強されているんだなという雰囲気はありました。講演のタイトルは「東遷は本当にあったのか?」です。

レジュメで弥生から古墳時代の女性埋葬例を12例挙げています。弥生時代最大の墳丘墓、岡山県の楯築墳丘墓の被葬者も「熟年期の女性」とレジュメにあり、わざわざ下線が引いてありました(笑)。「熟年」って、考古学的に通じる用語なんだろうか?
「出土した歯牙は小ぶり」だから女性ということのようですが・・・これも自分で後で確認したいと思います。

苅谷さんの結論としては、まず、巫女的指導者の埋葬例は縄文時代から東日本に圧倒的に多い。
それから、楯築墳丘墓の被葬者が女性という根拠が少しまとめに書いてありました。
(以下引用)

『楯築墳丘墓の研究』1992を参考にすると、中心主体被葬者の頭位には翡翠製勾玉をはじめ大型の良質碧玉(青緑)があり頸飾や頭飾となる蓋然性が高く、その状況からも女性被葬者が妥当である。また小型弧帯文石(61cm)、大型弧帯文石(93cm)、特殊器台・特殊壺、円礫堆出土の人形土製品からは呪的要素が強く認められ、「宗教的呪術的王」である「特定巫女」と考えられる。縄文的精神性が感じられるのと同時に、この被葬者こそ、卑弥呼の同族で血縁関係のある人物に想定されるのではないだろうか。

(引用終わり)

そして、他に印象に残ったのは、邪馬台国東遷説について、
「大陸との交渉に最も有利な地を離れるという理由が見当たらないのが東遷説の欠点であろう。」

つまり、北九州は大陸との交渉に有利な土地であるのに、わざわざそこを離れて大和に移って来る必要はないだろうというのです。まあ、ごもっともです。
今日の試験勉強の中でも、邪馬台国の頃、近畿から北九州への土器の動きはあるが、北九州から近畿に来た土器は少ないという指摘が書いてある本を読みました。また、中国鏡の分布も、3世紀初頭を境に、九州北部中心から畿内中心に一変するのだそうです。

そういうわけで、柳田さんと苅谷さんの主張は全く違うのですが、次回は、この二人と寺沢薫さんを交えた「鼎談」の様子を紹介したいと思います。



写真は、会場に来ていた桜井市のマスコット・ゆるキャラ、ひみこちゃんです。桜井市は「ひみこの里」をいつの間にか標榜するようになっていました。
ひみこちゃん、かわいいですが、デモンストレーションが終わって引き上げる時に、たまたま私の後ろをつけて歩くような形になって、カッポ カッポ と歩く足音が威圧感があってけだるくて、外見はかわいいけど中の人は男性なんだろうな・・・ご苦労さまです。


纏向出現―邪馬台国東遷説を考える― 纏向学研究センター東京フォーラム その1

2014-12-01 12:42:46 | イベント
目を見開いてアンテナを張っていれば、そういう機会に出会うものだ、ということで、今年2回目の講演会参加。11月16日によみうりホールで開かれました。主催は奈良県桜井市。毎年東京で開いているようです。
纏向学研究センター所長の寺沢薫さんの本を読んだことがあり、寺沢さんがいらっしゃるようなのでナマでお話を聴いてみたいなと思って応募しました。
テーマの「邪馬台国東遷」について私自身は「??」と思っていますが、纏向遺跡の最新事情がわかるならと。

  

10:30~16:00までという長時間のイベントでしたが、1000人前後の参加者で熱気ムンムンでした。
今回も若い人はごくまれで、年配の男性が多かったかな。働き盛りで仕事が忙しければ、こういうイベントも目にとまらないのでしょうか。
以下に、印象に残った点を紹介します。

最初は桜井市長の挨拶。今年はこれで、東京で奈良県知事と桜井市長を拝顔しました。東京にも奈良・桜井ファンがたくさんいますしね。以前にも紹介したように、翌17日に天皇皇后両陛下が大神神社に「御親拝」されるということでお会いできるのを楽しみにしているというお話でした。当日の参拝の様子を私もネットで見ました。纏向遺跡から出土した桃の種などもご覧になったようですね。
皇后さまは、誕生日のコメントで、大神神社の鎮花祭(はなしづめのまつり)に心ひかれると語られていたようです。さすがの目のつけどころですねえ。
また、桜井市長は、桜井は大和朝廷発祥の地だと確信しています、とおっしゃっていました。

次に、纏向学研究センターの森暢郎研究員による、「近年の纏向遺跡の調査とその成果」について講演がありました。まだお若くて、なにしろ奈良の方言が和みます。

纏向遺跡は、その面積は2×1.5kmと広く、去年国史跡に指定されました。現在までに182回の発掘調査が行われています。平成20年から範囲確認調査を始めたようですが、まだまだこれからなのでしょう。

パンフレットの記述から拾うと、

「建物D(※一列に並ぶ建物群の中で一番大きく線路に近い建物)南側の柱列は大型土坑と呼ぶ南北約4.3m、東西約2.2mの穴によって壊されている。大型土坑は出土土器から庄内3式期に埋められたものと考えられ、他に大型土坑からは桃核2769個や黒漆塗り弓をはじめ多量の遺物が出土している。桃が未成熟で食用に適さないものが含まれることや果肉がついたままのものがあること、ガラス製粟玉や黒漆塗り弓など特殊な遺物が含まれることなど、出土遺物の内容や状況が特殊なことなどから単なる廃棄土坑とは考えにくい。また、埋没時期が建物群の廃絶時期と近接することを勘案すると、庄内式期の建物群の廃絶にともなうマツリの痕跡である可能性が指摘されている。」
(※は私が補ったもの)

「建物Dは南北4間(約19.2m)×東西推定4間(約12.4m)をはかる大規模な建物と考えられ、庄内式期の建物としては列島最大級となる。」

建物Dよりも東側に、線路と重なるようにして建物E、線路の向こうに建物F、Gがあり、
建物群はさらに東側に伸びる可能性がある
とのこと。線路や現存の建物があったりして、調査も大変ですね。

「庄内式」とはいつ頃のことなのかというと、

庄内式期を3世紀初頭から3世紀中頃までとするならば、庄内式期の建物群も3世紀中頃以前の遺構として捉えうる。」

卑弥呼が魏に使いを送ったのが239年、死んだと思われるのが247年、これは3世紀の前半~半ば頃にあたり、纏向遺跡の建物群も近い時期のものであると考えられます。

「第168次調査大型土坑(SK-3001)出土遺物一覧」があって、そこから一部を拾いますと、

「動物遺存体」  イワシ類・タイ科(マダイ・ヘダイ)・アジ科・サバ科・淡水魚・ツチガエル・ニホンアカガエル・カモ科・齧歯類・ニホンジカ・イノシシ属(以上で表の全部)

「植物遺存体」 野生種は23種、栽培種は10種。栽培種は、モモ2769・スモモ52・イネ938・ヒエ2・アワ74・アサ535・ササゲ属3・エゴマ24・ウリ類2076・ヒョウタン類213(以上で全部)

その他、土器、木製品、ガラス製粟玉など。

動植物遺存体は調査途中で種類はさらに増える可能性があるとのことです。

これらは橋本輝彦2013『奈良県桜井市纏向遺跡発掘調査概要報告書―トリイノ前地区における発掘調査―桜井市埋蔵文化財発掘調査報告書第40集』(桜井市纏向学研究センター編 桜井市教育委員会)からの引用になります。

これらの遺構と周辺の古墳との関わりも考えてゆくべき課題である、として、周辺の古墳の表が掲載されています。



この表の引用元:橋本輝彦2006『東田大塚古墳 奈良盆地東南部における纏向型前方後円墳の調査』(財)桜井市文化財協会

これを見ると、以前の記事で話題にしたように、箸墓古墳よりもホケノ山古墳の方が時期が少し早いか同じであったり、メクリ1号墳という前方後方墳はさらに早いということがわかります。それより早いのが纏向石塚古墳です。

桃の種は一時期話題になりましたし、動物遺存体をよく見ると、銅鐸に描かれている生き物と一致するものもあることに気づきました。カエル、シカ、イノシシ?
淡水魚だけでなくてタイとかイワシとかアジなども供えられていた?のも興味深いです。

どんどん調査を進めてほしいですが、私達が生きている間にどのくらい進むものか・・・発掘を応援しに行きたいくらいです。

長くなりますので今日はここまでとします。ちなみに今日は私はお休み(代休)を取っています。

講演会参加もいろいろ学ぶことがあってよいものですが、来週、一つ参加しようと思っているものがあります。これは誰でも参加自由(先着順、申込み不要)らしいです。

日時 12月10日(水) 14~16時(開場13時15分)
内容 「前方後円墳終焉の意味するもの」  講師 白石太一郎(大阪市近つ飛鳥博物館長)
場所 さいたま市民会館うらわ 1Fホール(JR京浜東北線 浦和駅西口徒歩7分)
参加費 1,000円(資料代含む)


「奈良歴史地理の会 関東支部」主催の講座です。

http://event-saitama.jp/cgi-bin/A12/BE00/cgi-bin/result.cgi?id=2072

定員は400名だそうなので、平日だし、結構余裕がありそうじゃありませんか?
私はその日、やはり休みを取る予定にして、行ってみようと思っています。
白石太一郎さんは、有名な先生ですので、お話が聴ける貴重な機会です。
平日ですが、もし都合がつけば、行ってみてください。
それでは今日はこのへんで。

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