日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

起源は古い・・・武蔵国一之宮 小野神社を知っていましたか? その2

2015-06-27 23:58:02 | 古墳時代
小野神社の近くに、落川遺跡という4世紀末から14世紀にかけての遺跡(集落跡)があり、そこも見る予定でした。小野神社に先に行くつもりだったのですが、道をちょっと間違えて、多摩川の土手で少し放浪したりしながら、先に落川遺跡を見ることにしました。



落川遺跡は、都営アパート?に隣接した公園として整備されていて、子どもが二人ほど、サッカーをして遊んでいました。

ちなみにここは日野市。小野神社は多摩市。多摩川の向こうは府中市、という各市の境界の地にあります。





その平らな公園の地表に、ここにどういう住居があった、という小さな表示板が埋め込まれていました。また来る必要があるだろう、と考え、とりあえず写真だけ撮って、先を急ぐことにしました。このあたりで出たどんな考古遺物を調べたいのかは、やはり内緒にしておきましょう。

ここから300mくらいで、小野神社です。

南向きと西向きの入り口(鳥居)だったと思います。


西向きの方が、大きく立派な石柱に「武蔵一之宮 小野神社」の文字。



こちらが南向きの小さめの鳥居で、横の石柱には「延喜式内 小野神社」の文字。

どちらの鳥居にも菊の花びら16枚の紋が鳥居に入っていました。






西側が正面ぽいのですが、西側から入ると、境内は広くて奥行きがありました。がらんとした空間。


祭神は、ホームページによると、

•天ノ下春命
•瀬織津姫命

しか書いていないのですが、境内にある掲示板を見ると、他にもたくさん書いてあるんです。
上の二つの神様の次に、

伊弉冉(イザナミ)尊
素戔嗚(スサノオ)尊
大己貴(オオナムチ)大神  つまり オオクニヌシ
瓊々杵(ニニギ)尊
彦火火出見(ヒコホホデミ)尊
倉稲魂(ウカノミタマ)命  ・・・女神でありいわゆるお稲荷さんのようです。

これらの神様の名前が列挙されていました。
私としては、スサノオやオオナムチが入っているのが興味深いです。それ以前に、上にある天ノ下春命や瀬織津姫命も興味ありますけど・・・

ウィキペディアの丸写しで恐縮ですが、天ノ下春命について、
「ウワハル・シタハル(天表春命・天下春命)」とウィキペディアにはまとめて記述があり、

『先代旧事本紀』(「天神本紀」)によると、八意思兼神の御子神で、饒速日命が天磐船に乗って天降った時、護衛として随従した32柱の神のうちの2柱。
天表春命(あめのうわはるのみこと)は信乃阿智祝部(しなののあちのほうりべ)等の先祖とされ、天下春命は天表春命の弟神と見られ、知々夫(ちちぶ)国造の先祖とされる。また大伴部氏の祖ともいわれる。

また、「天下春命は開墾の神として祀られる事が多い」とのこと。なるほど。

ここでもがらんとした空間で子どもが遊んでいましたが、拝殿前には参拝客はいませんでした。
建物に特徴はありませんでしたが、これだけの広々とした空間がとられているのは珍しいと思いました。恐らく、武蔵国一之宮とはいっても、あまり知られていないと思われるので参拝客が殺到するようには思えず、ちょっとさびしい感じもしました。

スポーティーな自転車に乗った二人組が、ツーリングの途中の経路として小野神社を目標としていたのか、「ここが一の宮なのか?」と拍子抜けしたようなニュアンスで話しながら外の道を走り抜けて行きました。そう感じるのも無理はないです。ちょっと残念ですけどね。

私は、奈良の飛鳥にもロマンを感じるように、ここにもロマンに似たような、さまざまな思いをかきたてられるような感覚を得ていました。それは、さる考古遺物が近くから出ていることもあって、例えば明治に造られた靖国神社などとは違って、ここはとてつもなく古くからの祭祀が行われていたということが考えられるからです。もちろん、多摩川の氾濫があったでしょうから、この神社の位置が昔からここだったというのではないかもしれませんが、このあたりであったでしょう。


境内にたたずんでいると、ねこさんが悠然と登場。
結構フレンドリーな雰囲気も醸していました。


私の目の前でユーモラスに爪とぎを始めたり、なでても拒むこともなく、のんびりしていました。
よい場所なんでしょうね。






神社の横に水路がありました。子供が水路で魚とりじゃないでしょうけど、遊んでたような・・・冬でしたが、他の場所との勘違いだったか、いずれにせよ、確かに遊んでいる場所がありました。
私が自分の調べ物で訪れる場所には近くに川やこうした水路がある所が多いです。

私なりに、収穫を感じながら帰途に就きました。
延喜式内社であることから平安時代にあったことは確実ですが、神社の名前がどうであったかとかそういうことは別にして、このあたりで4~6世紀頃から祭祀が行われていたことも考えられるのではないかという考えをあたため中です。
そういうわけで、このブログはタグが一つしかつけられないので、前の記事は「平安時代」のタグですが、自分の覚え用としても、「古墳時代」のタグとして整理しておきます。
それでは今日はこのへんで。

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武蔵国一之宮 小野神社を知っていましたか? その1

2015-06-21 23:04:33 | 平安時代
平安時代の『延喜式』神名帳に載っている神社を延喜式内社といいます。『延喜式』の完成は927年であり、そこに名前があるということは、その頃から存在していた古い神社であることがわかります。

また、「一宮」とか「一之宮」といって、出雲国とか武蔵国という国ごとに一つずつ、最も社格の高い神社が選ばれています。それらはみんな「式内社」でもあるようです。これが決められたのは『延喜式』よりも後の時代のことですが、いつ頃、何のために決められたのかはっきりしないそうです。
一の宮の起源は、国司が任国内の諸社に巡拝する順番にある、というのが通説のようです。国司が一番にお参りする神社が一の宮になります。

一の宮だとかということは一般には気にとめる人は多くはないかもしれません。
一応、代表例を挙げておくと、出雲(島根)は出雲大社、大和(奈良)は大神神社、常陸(茨城)は鹿島神宮、など、その地域の代表的な神社が一の宮になっています。

それでは、東京・武蔵国は?というと、簡便的にウィキペディアを見ると、小野神社(多摩市)と氷川神社(埼玉県)が一の宮ということになっています。
氷川神社は比較的有名ですが、小野神社をご存じでしたでしょうか?
意外と、知られていないと思います。
一の宮と聞けば、何となく、お正月に初詣に行く代表的な神社のように思われますが、東京の人は、初詣で有名な所といったら明治神宮や浅草寺ですよね?小野神社は、さて初詣には、東京23区内の人は目が向かないのではないでしょうか?

しかも、小野神社は多摩川をはさんで二つあって、どちらが先にあったのかもよくわかっていないようです。

私は、ある考古遺物に興味があり、それが出土した地点と、小野神社が近いことに興味があり、小野神社に行ってみました(2月の末のことです)。その記録を以下に簡単ですがまとめます。




京王線聖蹟桜ヶ丘駅を降りて、少し歩くと、「一ノ宮渡し」と書かれた石碑がありました。
このあたりの地名は「一ノ宮」というんですね。その地名の由来などが書かれた銘板がありました。


またその近くにもう一つ、説明板があり、そこには
「神奈川県水量標識の由来」
と書いてありました。


近くに、文字が書かれた石が埋め込まれていて、その石(水量標識)についての説明でした。
要するに、このあたりは、100年前は神奈川県所管の地で、多摩川の水位を測る目安になっていた石だということのようです。確かに「神奈川県庁」は読めます。



また、すぐそばにある大きなケヤキの木についての説明もあり、これは小野神社の御神木であり、昔はこのあたりに小野神社の一の鳥居があったとのことです。
結構大きくて雰囲気のある木でしたよ。

今日はこのくらいにして、続きはまた後日。

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称徳天皇陵~夕日を追いかけて 2月の奈良スクーリングその3

2015-06-14 20:10:46 | 奈良時代
2月の奈良スクーリング拾遺の続きです。スクーリングでは三日目にポスターで各自が研究テーマを発表するということもあり、また、個人的に図書館の蔵書を調べたかったので、二日目の放課後、ちょっと滞在したら思いのほか時間が経過していて、大学を出たのは16時半過ぎでした。

その日の放課後は、田原本あたりで沈む夕日を見たいと考えていました。二上山の近くに沈むのではないかと。
しかし、その前に、平城駅で降りて、いくつかの古墳(佐紀盾列古墳群=さきたてなみこふんぐん)を見ようと考えていました。そのうち平城駅の近くには、称徳天皇陵、成務天皇陵、日葉酢媛(ひばすひめ)命陵などがあります。
それらを見たかったのですが、いろいろ時間が押してしまって、結局称徳天皇陵だけ見て、引き返しました。日没時刻に合わせて田原本方面に行きたかったので。



称徳天皇陵の行き帰りは、あわただしいものでしたが、小道に建ち並ぶ古い蔵などがとても雰囲気があって、いい所でした。



称徳天皇陵では、西大寺を訪れた時と同じように、ちょっとさまざまな思いが頭をよぎり、いろいろあったけれども激動の時代に女性天皇としてがんばった称徳天皇に敬意を表して頭を下げて来ました。いつか、もうちょっと時間をとってこの古墳群のあたりも散策してみましょう。レンタサイクルとかで。

その足で、田原本付近で日没が見える場所があるのか、調査不足のまま、行ってみました。



平城駅から見た夕日です。

大和郡山を過ぎ、車中から、田原本の手前の区間で二上山がよく見えました。途中で日没を過ぎてしまい、田原本に着いた時には、かなり暗くなっていました。
なぜこのあたりにこだわるかというと、唐古・鍵遺跡をはじめ、いろいろ注目している遺跡や神社があるからです。詳しいことは内緒です(笑)。
以前、田原本のパンフレット・地図を入手しました。そこには「歴史のオーラがみえるまち」というキャッチフレーズが書かれていました。私もそのフィーリングに賛同できます。

田原本駅あたりから二上山などを見るにはあまり見晴らしがよくないということはわかりました。
三輪山も見えるはずなんです。
いつか、この周辺をゆっくり探索してみたいと考えています。今回は結果として、その下見みたいなものだったかな。

そして、引き返して夕食は近鉄奈良駅近くで。
「うどん亭」という気軽な店で、柿の葉寿司とにゅうめんをいただきました。
「大仏のしりもち」という面白いネーミングのメニューもありました。

三日目も無事終わり、帰宅の途に就きました。いつも留守番のだんなに、今回は柿の葉ずしをおみやげの一つにしました。

これでやっと、2月のスクーリングの巻はおしまいです。

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「法華滅罪之寺」へ・・・2月の奈良スクーリングその2

2015-06-07 11:36:47 | 大学通信 スクーリング
2月の奈良スクーリング拾遺です。
担当の講師の先生によると、奈良大学の図書館は、これから追加される予定の文献を含めると、日本で一番考古学関係の文献が充実している図書館になるとのこと。マイナーな文献でも、探せば笑っちゃうほど見つかるとのこと。私も、自分で探してみて同じように感じました。なかなかすばらしい図書館を使わせてもらっていますよ。

スクーリングの間に、雪が降っていたのですが、こちらの雪は、東京では見られないほどの大粒の雪が、ぼっさ、ぼっさと落ちてくる感じでした。あっという間に積もって、あっという間に解けました。
地域によって雪の降り方も違うんでしょうね。奈良で見る雪は、遠い昔の古代人に思いをはせさせられました。

今回の宿は、新大宮駅近くで、法華寺や海龍王寺に近いので行ってみようと思っていました。初日に、手袋を忘れて買ったりしていたら、意外にチェックインが遅くなってしまったのですが、法華寺方面に歩いて向かってみることにしました。

法華寺に着く頃には夕闇が迫っていました。

聖武天皇の時代、東大寺が総国分寺、法華寺が総国分尼寺という位置づけになり、法華寺は尼寺です。教科書的にも、「国分寺建立の詔」に国分寺は「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺は「法華滅罪之寺」となす、というくだりが出てきます。受験的にも覚える用語になっていますね。



実際に「法華滅罪之寺」の文字をこの目で見ると、また奈良時代からの時の流れを感じて圧倒されました。



そして、「不許酒肉五辛入門内」という石柱も。酒肉はわかると思いますが、五辛とは、ニラ、ニンニク、ネギ、ショウガ、ラッキョウのことで、これらを持ち込んではならないという意味です。



門は閉ざされていました。昼間来なければだめだなと思いつつ、そこに立っていると、人通りは全くなく、本当に完全な静寂に包まれました。かりにも現代においても県庁所在地、それなりの都市でありながら、こんな静けさにひたれる場所があるとは。

時々、自転車の人や車が通るのですが、本当に静かな夕暮れでした。



道端の道祖神かな?ピンボケしてしまいましたが、とてもかわいくて大切にされているんだなと思いました。

海龍王寺も行きたかったのですが、翌朝にしようと思ってやめました。結局、スクーリング中、朝は早起きできず、行けずじまいでした。

今日はひとまずこれにて失礼します。