前回の続きです。この石見鏡作神社から見ると、冬至の日に、三輪山山頂から朝日が出て、夕日は二上山の鞍部に沈むといわれています。真南に多神社があるということに着目している人もいます。多神社については、いずれ紹介したいと思いますが、太安万侶に縁のある神社で、三輪山が真東、二上山が真西にあります。
以下のサイトなどに興味深い話がまとまっています。
http://kamnavi.jp/mn/nara/iwamika.htm
http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/46386865.html

石見鏡作神社はそういうわけで、冬至の日に三輪山の方角から日が昇るということですから、私が訪れた2月も太陽の位置は似たような所から昇ると思われ、太陽が見える場所は・・・と、神社の向かって右手奥の方に行ってみました。

すると、「遥拝所」と刻まれた石柱がありました。ここから三輪山の方角を遥拝していたのか??と、ちょっとわくわくしました。そこから三輪山の方角と思われる方向を見ると、民家が建ち並んでいて、三輪山が見える感じではありませんでした。昔は見えたんでしょうか?

そろそろ帰らねば、と、神社を出て、裏手の方を回りながら帰ったのですが、表からは入れない、見えない場所に、小さな三つのおやしろなどが隠れるような形で建っていました。

別の田原本町の鏡作神社も三つあるようですし、三つということに、祀られている神様の意味があるようですが、これは他のブログなども参照していただければと思います。
石見駅まで戻って来て、電車が来るまでの間に、ホームから、二上山はどう見えるのだろうか?と確認しました。

道路が走っていて見えにくいですが、見えました。

冬至の日にはおおよそあそこに夕日が沈むのでしょうか?鏡作神社からは見えそうもありません。いつか、冬至の頃にこのあたりに来てみるとしましょうか。
三輪山は見えませんでした。
以下の写真は、スクーリングも終えて、帰る前に奈良町などを放浪した時のもの。

身代り申がつるしてあったりして、おもむきがあって、静かで、すてきでした。

ひがしむき商店街だったか、もちいどの商店街だったか、の、細い路地から三笠山方面を見ると、月が昇って来ていました。いい風情だな、と、それを撮ったつもりだったのですが、月がうっすらとしか写りませんでした。
というわけで、鏡作神社。今後も多神社をはじめとして、神社の立地等に関する私の興味関心に基づく記事を書いていきたいと思いますが、鏡作神社に関する小さいまとめを終わりたいと思います。
『万葉集』を読んでいると、三輪山(三諸山 みもろ みむろ)を詠んだ歌がたくさんあります。二上山もです。
例えば
「三諸の神の神杉夢のみに見えつつ共に寝(い)ねぬ夜ぞ多き」(156番 高市皇子)
これの次の歌も「神山」とありますが、これは三輪山をさしています。
「隠口(こもりく)」の「泊瀬(はつせ)」とかいう言葉もよく出て来て、このあたりに関心のある私はその語感にわくわくします。
授業の拾遺という感じでもなくて自分の興味のおもむくままに書いてしまいました。
高校日本史の授業では、奈良の興福寺や東大寺、法隆寺などの建物や仏像等に関する学習はしますが、三輪山周辺(桜井)の話題にはなかなか及びませんし、万葉集の中の歌までは具体的に見ている暇はありませんので残念です。日本という国のはじまりは、このあたりからだったのかもしれないのです。
大人になってからでも、各自でこちら方面を探求してみてもらえたらと思います。私も目が向くようになったのはつい最近ですので。
以下のサイトなどに興味深い話がまとまっています。
http://kamnavi.jp/mn/nara/iwamika.htm
http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/46386865.html

石見鏡作神社はそういうわけで、冬至の日に三輪山の方角から日が昇るということですから、私が訪れた2月も太陽の位置は似たような所から昇ると思われ、太陽が見える場所は・・・と、神社の向かって右手奥の方に行ってみました。

すると、「遥拝所」と刻まれた石柱がありました。ここから三輪山の方角を遥拝していたのか??と、ちょっとわくわくしました。そこから三輪山の方角と思われる方向を見ると、民家が建ち並んでいて、三輪山が見える感じではありませんでした。昔は見えたんでしょうか?

そろそろ帰らねば、と、神社を出て、裏手の方を回りながら帰ったのですが、表からは入れない、見えない場所に、小さな三つのおやしろなどが隠れるような形で建っていました。

別の田原本町の鏡作神社も三つあるようですし、三つということに、祀られている神様の意味があるようですが、これは他のブログなども参照していただければと思います。
石見駅まで戻って来て、電車が来るまでの間に、ホームから、二上山はどう見えるのだろうか?と確認しました。

道路が走っていて見えにくいですが、見えました。

冬至の日にはおおよそあそこに夕日が沈むのでしょうか?鏡作神社からは見えそうもありません。いつか、冬至の頃にこのあたりに来てみるとしましょうか。
三輪山は見えませんでした。
以下の写真は、スクーリングも終えて、帰る前に奈良町などを放浪した時のもの。

身代り申がつるしてあったりして、おもむきがあって、静かで、すてきでした。

ひがしむき商店街だったか、もちいどの商店街だったか、の、細い路地から三笠山方面を見ると、月が昇って来ていました。いい風情だな、と、それを撮ったつもりだったのですが、月がうっすらとしか写りませんでした。
というわけで、鏡作神社。今後も多神社をはじめとして、神社の立地等に関する私の興味関心に基づく記事を書いていきたいと思いますが、鏡作神社に関する小さいまとめを終わりたいと思います。
『万葉集』を読んでいると、三輪山(三諸山 みもろ みむろ)を詠んだ歌がたくさんあります。二上山もです。
例えば
「三諸の神の神杉夢のみに見えつつ共に寝(い)ねぬ夜ぞ多き」(156番 高市皇子)
これの次の歌も「神山」とありますが、これは三輪山をさしています。
「隠口(こもりく)」の「泊瀬(はつせ)」とかいう言葉もよく出て来て、このあたりに関心のある私はその語感にわくわくします。
授業の拾遺という感じでもなくて自分の興味のおもむくままに書いてしまいました。
高校日本史の授業では、奈良の興福寺や東大寺、法隆寺などの建物や仏像等に関する学習はしますが、三輪山周辺(桜井)の話題にはなかなか及びませんし、万葉集の中の歌までは具体的に見ている暇はありませんので残念です。日本という国のはじまりは、このあたりからだったのかもしれないのです。
大人になってからでも、各自でこちら方面を探求してみてもらえたらと思います。私も目が向くようになったのはつい最近ですので。