日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

卒論執筆におけるWordの機能活用(覚書)

2015-12-28 21:38:02 | 大学通信 卒論関係
今日は冬休み中で家におります。
卒論を書いていて、おおー、この機能(Word)はすばらしい!と思ったので、覚書として残しておきます。

10月に草稿を脱稿した後、現在は、その後に調査した遺跡の部分を加筆しているのですが、写真を追加するのに、途中に新しい写真を割り込ませると、番号を全部ずらさなきゃいけないのかな??面倒だな。と思っていました。

それに、自分で作った写真の枠に、どうやって写真を貼り付けたのか(写真のサイズをそろえたりしたのか)や、番号をつけたのかなども、忘れてしまっていました。

一応、草稿執筆の段階で、『卒論執筆のためのWord活用術』(田中幸夫 ブルーバックス・講談社)という本を借りてきて参考にしていました。最近のWordにはきっと私の知らない便利な機能があるに違いないと思ったからです。全部は理解できませんでしたが、図表の通し番号を自動的にふることができるらしいということがわかり、それらしくやってみた記憶が残っていました。他にも、章建てについても便利な機能があるようでしたが、そんなに壮大な論文ではないし、構成が固まっていたわけではないので、実践しませんでした。

図表番号を自動的にふってくれるらしいというおぼろげな記憶(たかだか3ヵ月前なんですが)があって、写真を追加して、ちょっと操作してみたら、思い出しました。また忘れてしまうので書いておきます。参考になればご活用ください。

私の場合ですが、卒論提出用の様式(B5縦)に、上下2枚の写真を配置するために、罫線で枠を作りました。
この枠に写真を挿入するとき、写真のファイルをコピーして貼り付けると、データが大きいままではみ出してしまいます。そのため、画面左上のタブ?に「挿入」というものがありますのでそこをクリックすると、「図」というアイコンが左から5番目にあります(私のWordのバージョンの場合)。それをクリックすると、写真を選択する画面が出てくるので、それで写真を指定すると、ちょうど枠内にきれいに収まるように写真が挿入されます。
さらに、挿入された写真の上で右クリックすると、「図表番号の挿入」というものが出てきますので、それをクリックして、「ラベル」は「写真」とか「図」とか選べます(作れます)ので、「写真1」などにしたい場合はラベルを「写真」とし、「図1」にしたい場合は「図」にし、「位置」は「選択した項目の下」か「選択した項目の上」かを選びます。私は「写真」にして「選択した項目の下」に設定しました。
こうして「写真1」からスタートすると、写真追加ごとに順番に番号をふってくれます。

そして今回、3ヵ月ぶりに写真を追加しようとして、追加したら後の番号は手作業で一つ一つ直さなきゃいけないのかな、と思っていたら、どうやら、このような作業をしていれば、追加した後の写真の番号も全部自動的に変わってくれるようです。ありがたい機能でした。

でも、本文中の写真番号は、入れ直さないとだめです。それも、もしかしたら最初に設定しておけば自動的に変えられるのかもしれないですけどね。

ちなみに、本文と、写真のファイルは別々です。写真は最終的に70枚になりました。

卒論のテーマは、現状では伏せておきますが、古墳時代です。古墳そのものがテーマではないのですが、古墳を見てきた所もあるので、その写真を1枚紹介します。



夏の盛り・8月に行って来た、福島県郡山市にある大安場(おおやすば)古墳(国指定史跡)です。前方後方墳としては東北地方最大のもので、1991年に発見されたばかりです。前方後方墳は、比較的東日本に多いですね。なかなか立派でした。副葬品として発見された、石釧(いしくしろ)=腕輪のような装飾品も、とても美しく繊細な造形で、うっすらと緑色をしていました。同じくここで発見された、底部穿孔土器(底に穴のあいた土器)もあわせて、興味を持ちました。こういったものが出土する古墳には、どういう共通性があるのでしょうね。
卒論とは直接関係ないのですが、少し考えています。詳しい方、教えてください。

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SLばんえつ物語号乗車 他 近況

2015-12-26 20:13:27 | 大学通信 レポート・試験等
学校も冬休みに入りまして、私もしばらく学校に行きません。例年そうですが、年末、学校が終わると、かなりほっとして気が抜けます。そして風邪をひいたりするのですが、今年は大丈夫です。ただ、昨夜は気が抜けたためか筋肉痛のようなものなどさまざまな疲れが出たようです。
冬休みの間に少しずつここも書き進めて行きたいと思います。
夏のスクーリングのことも書いていませんが、とりあえず、直近の話など。

奈良大学の通信教育部について関心をもってこちらを覗かれる方が多いようですので、現状を整理しておきます。

編入2年目・4年生の私は、来年3月卒業を目指し、卒論の最終的な〆切日である1月14日までの提出に向けて仕上げに入っています。卒論に必要な単位については、10月24日に奈良大で受けた西洋史特殊講義の結果が11月下旬に返って来ました。一応合格ですが、75点と、あまりよくなかったです。これで、テキスト科目は終了、試験はもう受けなくていい身分になりました。今年度はテキスト科目で4科目・8単位修得しました。去年は10科目・28単位もよくやったものです。

今年は卒論もありましたし、テキスト科目も並行してやるのは少し大変でした。また、2年目に残った科目は、あまり、得意とは言いがたい科目でした。自分のためになるかなと考えてなんとか取り組んだものです。古文書学、民俗学、歴史文学論、西洋史特殊講義の四つでした。

時々、「美術史概論」というキーワードでこのブログにたどりつく方もいらっしゃるようなので一言書いておくと、美術史概論は、仏像史のようなもので、弥勒菩薩とか乾漆像とか用語が難しいという印象をもっていらっしゃる方が多いようです。実際、そうですね。それらを試験のために覚えるのは大変です。ただ、私の場合は、日本史の教員で、実は、この分野の用語の多くは教科書にも記述されているし、受験でも必要な知識であるし、私はもともと仏像が好きなので、結構楽しみながらできました。そういうアドバンテージはすみませんがありました。

高校の日本史でも、生徒は仏像にあまり興味がないみたいで、「不空羂索観音像」だの「半跏思惟像」だの、漢字も難しいし、「覚えなきゃだめなの?」とよく言われます。覚えなきゃだめだ、と答えますけれども。仏像は、観光旅行などでもよく出会うものですし、そういう時に、知識があった方が楽しいです。漢字は難しいけれども、割り切って覚えてしまった方が、いいです。意外と、役に立ちます。
通信教育での試験として、暗記しなきゃいけないのはつらいかもしれませんが、がんばりましょう、ということです。

高校では、文化史は飛ばしてしまうことも多いのですが、私は好きなのでできるだけやります。京都・六波羅蜜寺の空也像は、口から小さい仏様が6体、つらなって出ている不思議な像で、表情も豊かで、私も好きな像です。写真を見せると生徒にもウケます。これは、「南無阿弥陀仏」の1音1音が阿弥陀仏になって空也の口から出ているんですね。授業でも少し余計に説明します。

平安時代の浄土教を広めた僧ですが、この像が造られたのは鎌倉時代・康勝の作品です。空也が何世紀頃に布教したのかというのは受験でも出題されることがあります。「10世紀半ば」のことです。かわいがっていた鹿が死んだのを悲しんで、その鹿の角をつけた杖を持って、念仏を唱えて京の町を歩いていた姿だそうです。

山川の『詳説日本史B』では、74ページに像の写真とともに、本文に出てきます。空也の後が、源信なんですね。鎌倉時代の仏像だという点も受験的にはポイントですかね。

実際に、京都に旅行する時があったら、生徒だった皆さんは見て来てほしいですね。私も、20代の半ば頃に、京都旅行の際に、六波羅蜜寺に行き、空也像を見て来ました。清水寺の近くです。時間がないと、六波羅蜜寺まで立ち寄る余裕がないかもしれませんが、ぜひ、清水寺参詣とあわせて行ってほしいです。像は小さめで、かわいいです。写実的です。
この六波羅蜜寺には、他にも結構有名な平清盛像もありますので、ぜひ。

話がだいぶそれてしまいましたが、そういうわけで、美術史概論などは、なじんだ分野ですし、考古学概論とか、そもそも考古学で卒論を書く人間としてはメインの重要科目は、意欲的にがんがん取り組むしかないですよね。そういう科目は、1年目の昨年度にぞっくり履修・修得しました。今年度は逆に苦手意識・意欲低下などで、やや成績の面で苦戦しました。

スクーリングはあと2回受講します。
それで、卒論が合格ならば、めでたく卒業です。

卒論のための遺跡調査は、10回以上は行きました。遠くは震災被害のあった南相馬市まで。
12月12日の旅をもって、調査も終了しました。あとは書くだけです。本当は、もうちょっと行きたい所もあるのですが、卒論の本題からは少し離れるので、後でゆっくり行こうか、と思っています。今年は、旅をしすぎました。

11月28~29日に、会津若松・西会津町方面を旅してきました。卒論の調査がメインの目的です。
その際、たまたま、磐越西線を蒸気機関車・SLが走っている日であることを知ったので、SLに初めて乗車してきました!
冬は運行していないようで、秋のシーズン最後に滑り込みました。前日予約でも全然大丈夫でした。
詳しいことは、後で書ければ書きますが、今日は簡単に。
乗車した区間は、野沢駅から会津若松駅まで。
野沢駅で遺跡の調査をした帰りに乗車しました。


野沢駅に入線するSLばんえつ物語号です。

到着前の、何kmも先から、姿が見えないのに汽笛がよく聴こえてくるんです。感動しました。
乗車中も、折々に鳴らされる汽笛に、なんとも、旅情をかきたてられます。窓から見える煙もすごかった。

私の母方の祖父は、SLの運転士だったのです。ですから、なんとなく感慨深く、初乗車しました。

沿線にはシャッターチャンスを狙う「撮り鉄」もたくさんいました。


車窓から見えた、星のような柿。

新潟県の新津から、会津若松まで、4時間かけて走っています。
よい季節に、ぜひ、乗ってみてください。

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鎮魂祭を行う三つの神社・・・石上神宮訪問記 番外

2015-12-05 02:29:06 | 旅行
学校は秋のイベントが終わり、先週土日は福島県会津地方に卒論関係の調査のため旅に出ていたのですが、明日はやっとどこにも出かけない日にして、今夜は夜更かしも可能なくつろぎタイムを確保しました。石上神宮の記事が意外に長引いてしまいましたが今回で終わりにしたいと思います。

もう少し書きたかったのは、石上神宮の他に、同様に鎮魂祭を行っている二つの神社についてです。
私は出雲地方、ひいては島根県が好きで、同じ島根でも石見地方には行ったことがなく、世界遺産になった石見銀山もあるし、いつか行ってみたい地域なのですが、その石見国一宮が、鎮魂祭を行っている物部神社です。祭神は宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)で、前回も書いたニギハヤヒ(饒速日命)はウマシマジのお父さんになります。

物部神社HPからそっくり引用で恐縮ですが、ニギハヤヒやウマシマジがどのような活躍をしたのかをおおよそこれで理解してください。

「御祭神(宇摩志麻遅命)の父神である饒速日命は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯に天降り、御炊屋姫命を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。

神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)

その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源)とされました。

次いで、御祭神は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。(折居田の起源)」

そして、この中にも出てくる新潟県の弥彦神社が、もう一つの鎮魂祭を行っている神社です。

弥彦(彌彦)神社は、越後国一宮です。祭神は、物部神社の祭神・宇摩志麻遅命とともに物部の兵を率いて尾張・美濃・越国を平定したと上記にも書かれている、天香山命(アメノカゴヤマノミコト)です。

私の父親が新潟県の長岡市(旧与板町)の出身で、私が子供の頃、夏休みには毎年のように、父親の実家から近い、寺泊の海水浴場に泳ぎに行っていました。寺泊は、「海のアメ横」と呼ばれているらしいですね。子供の頃は知りませんでした。そんなに海産物が安く買えたのかなあ?

その寺泊の海で泳いでいると、海に向かって右手の方に、三角の山が大きく見えて、父親に、「あれが弥彦山だ」と教えてもらいました。
新潟は広大な平野がひろがっていて、米どころであります。父親の実家の周辺にも山はほとんど見えません。ですから、その中で弥彦山は、標高はそれほど高くないとしても、とてもよく目立ちました。

父親が弥彦山弥彦山と折々に口にするので、新潟の人にとっては、なじみ深い山なのだろうかと思っていました。一度だけ、海水浴の帰りに、弥彦山の山頂付近まで車を走らせ、車内から軽く、遊園地などの施設を眺めて帰って来たことがありました。弥彦山に神社があるなどとは当時全く知らず、その神社が越後の一宮であるということも、ごく最近知ったのです。

おととし、職場の同僚の先生が、新潟方面に旅行してきたおみやげとして、この弥彦のお菓子を買って来てくれました。私が日本史の教員だからということなのか、先生は、そのお菓子の菓子折に入っていた説明書きを私にくれました。その先生は、謎めいた雰囲気の先生で、実家は三重県の、伊勢神宮の神領のような所にあって、おうちの事情で、結局三重県に戻ってあちらで教員をすることになっておととし退職されました。やはりあちらでは伊勢神宮に対する信仰は生活に根ざしていて、毎月のおついたち参りのようなことは必ずやっているというお話でした。

その先生からいただいたお菓子の説明書きを引用させていただきます。

「昭和天皇・皇后両陛下(弥彦ご宿泊御料菓)」 

と書いてあります。昭和天皇さんが弥彦に宿泊されたことがあるんですねえ。改めて驚きです。
そして、そのお菓子は「玉兎」といい、その説明を、引用しようと思いましたが、画像をアップしますのでそれでお読みください。



また、弥彦観光協会Webサイトにもいろいろとこの玉兎にまつわる同様のお話が載っていますのでご覧ください。

http://www.e-yahiko.com/souvenir/usagi

画像の方に書いてあるように、兎が涙を流して神様の話を聞いていた、というくだりが、なんだか琴線にふれます。そして、同時に、出雲大社にあったオオクニヌシと兎の銅像を思い出します。兎がオオクニヌシの話を一生懸命に聞こうとしている像です。
シチュエーションは違いますが、神様と兎が話をしているという形は、因幡の白ウサギの話とこの玉兎の話は似ていると思いませんか?


こういう弥彦神社で、鎮魂祭が行われているのですね。

天津神国津神といった場合に、スサノオは天から降って来たから天津神?子供のオオクニヌシは国津神?ニギハヤヒは天から降って来たから天津神?しかし物部神社や出雲系の神様は地神ではないのか?などなど、私も勉強不足のせいもあるのですが、ややこんがらかっています。

混乱しつつも、ウマシマジやアメノカゴヤマといった神様が平定したという尾張、美濃、越国、播磨、丹波、石見、といった国名を見ると、出雲や海人族との関わりを感じるような気がします。製鉄との関わりをなんとなく感じます。今現在、その根拠を即刻示すことができないのですが、過去にいろいろ読んだものを総合すると、なんとなくそんな感じがするのです。

石上神宮から話が広がってしまいましたが、物部氏はどちらかといえば「負け組」であり、その物部氏にゆかりのある神社で鎮魂祭が行われているということ、新潟=越の国というと、オオクニヌシとヌナカワヒメの物語から連想されるように、出雲の勢力が越と結びついたのであり、その地域の弥彦山でも鎮魂祭が行われているということ。ただし、弥彦神社は物部の鎮魂法ではなく中臣の鎮魂法であると物部神社のHPに書いてありました(前回記事)。
私はその鎮魂祭が行われている日・時間にちょうど生まれたし、弥彦山は子供の頃から見慣れた山であることから、こうした鎮魂祭と縁があるような気が、します。

アメノカゴヤマノミコトはアマテラスの曾孫とのことで、国津神ではなく天津神なのかもしれませんが、それでいいのかな?とも思います。何しろ、日本海側は出雲をはじめ「敗者」の香り?が漂っている気がするからです。
どうしてこの三つの神社(と宮中)で鎮魂祭が行われるのかについては、もう少し自分でも追求してみたいと思います。

ある文献で、古代の人が、日本海を西の方から新潟方面に北上してくると、弥彦山が海上からよく見えた、ある種の目印のように見えただろうといった趣旨のことが書いてあるのを読んだことがあります。その印象は、実際に海水浴場で見ていたのでわかります。新潟平野の中ではかなり目立つ存在だと思います。海のそばになんでいきなりこんな高い山が突き出ているんだ?と感じます。

日本海側は、いろいろと謎めいた雰囲気を持っています。太平洋側に住む者にとっては、ちょっと遠いですけれども、探索・思索の旅に出てみたくなります。
私も、子供時代にはよく行きましたが、大人になってからじっくり訪れたことがないので、いつか、弥彦神社をはじめとして日本海側を旅してみたいと思っています。

先日の会津旅行では、空はどんよりとした雲に覆われていました。会津はどちらかというと日本海側の気候・文化に属していると感じます。日本海側では冬はなかなかスカッと晴れる日も少ないようで、憂うつな日々が続くのかもしれないですが、そんな気候に負けずに明るい気持ちで過ごせるといいですね。