ずっと在宅とはいえ、やはり土日は格別に開放的な気分になって、休息できているなと思います。そういうこともあってか、土曜日に更新することが続き、これで4週目です。
コロナも東京では感染者がひとケタになってきて、緊急事態宣言も解除が見えてきました。やっと、学校も少しずつ始まっていくのかなという所まできました。少しずつですね。
関西3府県も緊急事態宣言解除で、ほっとされているところでしょうか?
さて、3年生の日本史Bの授業代わりの補足を続けます。本校でも、オンライン授業はいずれ実施する方向ですが、当面は紙ベースで自習の形です。
卑弥呼の話は前回でおしまいにしまして、教科書p.23から、古墳時代に入ります。
教員になった最初の頃は、古墳時代が嫌いでした。もともと、最初の大学では飛鳥・奈良時代の律令制度などの文献史学を専門にしていたので、文字のない時代のことなど、確かなことはわからない。しかも古墳なんて要するにお墓のことなのに、どうして教科書ではこんなにお墓のことに延々とページを割いてあるのだ(10ページもある)?それより自分が研究していた、天武天皇や持統天皇の律令国家の形成のあたり(1ページしかない)にページを割いてよ。と思っていました。
ところが、奈良大の通信教育に編入学した6年前くらいから、自分で勉強するようになって、古墳時代が面白くなってきてしまいました。教科書に書いてあることだけの勉強では面白くない、ということを如実に感じたのがこの古墳時代でした。
奈良大の文化財学においては、「現地主義・現場主義」というポリシーがあり、私もスクーリングの講義で「現地に行って来てください。」という言葉を聞いて、いたく感銘を受けました。
文献だけで完結していた自分の学生時代とは大違いです。考古学を専攻する各大学の学生さんは、夏休みに何日も泊まり込んで、古墳の発掘などをやったりするとのこと。私も、奈良大で勉強して、考古学にも足を突っ込んだわけですが、本格的にやるにはもう若くないし、体力がありませんから、発掘までは難しいです。やはり、考古学者はアウトドア派で体力がなければなりません。
私の教え子が、考古学の道に進み、発掘作業をしている所に差し入れを持って行くのが夢です。誰か、お願いします!(笑)
授業では、古墳時代を前期・中期・後期に分けて、まとめて特徴を整理しています(プリントの表参照)。それを覚えるだけでもかなり問題は解けると思います。
大雑把に分けると、4世紀が前期、5世紀が中期、6~7世紀が後期です。4C,5C,6Cと100年単位です。覚えやすいですね。
ここでは、前期・中期・後期でブログの記事を1個ずつ書くことにします。
まず、古墳時代前期ですが、
教科書p.23に写真もあるように、卑弥呼の墓ではないかとも考えられている箸墓古墳が、出現期の前方後円墳として最大規模ということになっています。箸墓古墳はヤマトトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命)という、孝霊天皇の娘の墓ということになっているので、宮内庁が所管しています。ですから、立ち入り禁止です。被葬者がどういう人だったのかといったことは、ほとんど調査できません。出土したという土器を調べることによって、いつ頃古墳が作られたかが推定されています。卑弥呼が死んだ頃とすると、3世紀の後半です。一応、このあたりも古墳時代と重なるということになります。
私が箸墓古墳を見学した時の記事はこちら。大きさを見てください。
卑弥呼さんの墓なのだろうか?―箸墓古墳(学外授業から)
とにかく巨大です。東京に住んでいると、古墳はあまり身近にありませんし、この箸墓古墳は大きくて、古墳というより山というイメージで、その大きさに驚きます。鍵穴の形をした前方後円墳だなんていうことは、地上から見ても全くわかりません。上記記事の写真を参考にしてください。くびれはちょっとわかるかな、という程度です。
古墳時代前期を3~4世紀と考えると、この時代に関係するブログ記事は以下です。教科書は、p.23~24。
卑弥呼の鏡か?黒塚古墳見学記
1997年ですから平成時代のこと、三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面という大量の鏡がここで発掘されました。黒塚古墳は、奈良県の天理市にある古墳時代前期(4世紀初~前半)の古墳です。ここから大量に発見された三角縁神獣鏡が、卑弥呼が魏からもらった鏡ではないかと考え、ここが卑弥呼の墓であるという説もあります。箸墓でも黒塚も、奈良ですから邪馬台国畿内説の方になります。
この古墳の三角縁神獣鏡のように、前期の古墳から出土する副葬品は、鏡や玉など呪術的な要素が多いことから、この時期の被葬者は、司祭者的性格をもつ、と教科書にも記述されています。卑弥呼などがそのイメージですね。
そして、上に書いた、箸墓古墳の被葬者と考えられているヤマトトトビモモソヒメですが、これが卑弥呼ではないかという説があり、『魏志』倭人伝に出てくる「男弟」を崇神天皇にあてる説もあります。孝霊天皇は7代天皇、崇神天皇は10代ですので、ありえないことはないです。私もちょっと、同じように考えています。そして、前回書いたように、崇神天皇の時代に疫病が流行し、オオタタネコを探し出して祀らせたのが大神神社につながるということ、またヤマトトトビモノソヒメは、『日本書紀』に三輪山の神様・大物主と結婚するという話がありますので、卑弥呼の時代・古墳時代前期の頃の話なのだろうと考えることにします。
前回の記事も参照してください。
崇神天皇の時代の疫病退散方策は・・・
卑弥呼の死後、後を継いだのは、トヨ(壱与)という女性だと考えらえれていて、トヨの墓ではないかといわれているのがホケノ山古墳です。奈良大の学外授業で行った時の記事がこれです。
トヨの墓なのか?―ホケノ山古墳(学外授業から)
この古墳の被葬者は「豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)」と考えられていて、崇神天皇の皇女です。「とよ」という文字が入っているので「トヨ」かもしれないと思わされます。
こちらは、古墳の頂上まで簡単に登ることができます。古墳の裾に畑が作られていたりして、とてものどかです。奈良大のスクーリングの時には雨で上に登れなかったのですが、後で自分でレンタサイクルで回った時に登った時の写真はこちらにあります。
オオタタネコの神社・若宮社の写真もこちらです。あちこちに散らかっていて恐縮ですが、お時間がありましたらどうぞ。
お彼岸に太陽を追いかける女・・・2015春彼岸奈良弾丸ツアーC
以上、前期古墳の記事の紹介でした。前期(出現期)の規模の大きい古墳は、奈良(大和)に多いため、この大和地方を中心とする政治連合が形成されていたと考えられ、これをヤマト政権といいます。前方後円墳は、ヤマト政権の権威の象徴と考えられています。この形のお墓を作っていいと許された人だけが作ることができたという考え方があります。
どうしてあのような形をしているのか、古墳の向きには何か意味があるのか、など、解明してみたい謎はいろいろあります。皆さんも考えてみてください。
適当な写真がなくて、1年前の5月12日に、奈良大通信教育の同窓会の遠足で山の辺の道を歩いた時の写真から。
大神神社を後にして、歩いていくと、狭井川を通過しました。その橋のたもとで、ガイドをしてくださった方が、勢夜陀多良比売の絵を掲げながら丹塗矢(にぬりや)伝説の話をしてくださいました。
その狭井川のほとりで、大神神社のささゆり奉献神事(6月16日)、奈良市内の率川神社の三枝祭(さいくさのまつり)(6月17日)に使うささゆりが育てられているとのことで、写真にはそのお世話をしている方が写っています。ささゆりはまだ咲くのは先で、支柱がたくさん立てられていました。
三枝祭は世にも美しいお祭りということで、私もいつか見に行きたいと憧れるお祭りです。
http://isagawa-jinja.jp/omatsuri/saikusa/
ああこんなふうにささゆりは大切に育てられているんだなあと感銘を受けました。
とてもよいお天気で、写真のように、空気がきれいで、緑も、空もとても鮮やかな色をしていました。本当にすばらしい5月の一日でした。
今度はささゆりが咲いている季節に行ってみたいものです。
今日はこんなところで。
コロナも東京では感染者がひとケタになってきて、緊急事態宣言も解除が見えてきました。やっと、学校も少しずつ始まっていくのかなという所まできました。少しずつですね。
関西3府県も緊急事態宣言解除で、ほっとされているところでしょうか?
さて、3年生の日本史Bの授業代わりの補足を続けます。本校でも、オンライン授業はいずれ実施する方向ですが、当面は紙ベースで自習の形です。
卑弥呼の話は前回でおしまいにしまして、教科書p.23から、古墳時代に入ります。
教員になった最初の頃は、古墳時代が嫌いでした。もともと、最初の大学では飛鳥・奈良時代の律令制度などの文献史学を専門にしていたので、文字のない時代のことなど、確かなことはわからない。しかも古墳なんて要するにお墓のことなのに、どうして教科書ではこんなにお墓のことに延々とページを割いてあるのだ(10ページもある)?それより自分が研究していた、天武天皇や持統天皇の律令国家の形成のあたり(1ページしかない)にページを割いてよ。と思っていました。
ところが、奈良大の通信教育に編入学した6年前くらいから、自分で勉強するようになって、古墳時代が面白くなってきてしまいました。教科書に書いてあることだけの勉強では面白くない、ということを如実に感じたのがこの古墳時代でした。
奈良大の文化財学においては、「現地主義・現場主義」というポリシーがあり、私もスクーリングの講義で「現地に行って来てください。」という言葉を聞いて、いたく感銘を受けました。
文献だけで完結していた自分の学生時代とは大違いです。考古学を専攻する各大学の学生さんは、夏休みに何日も泊まり込んで、古墳の発掘などをやったりするとのこと。私も、奈良大で勉強して、考古学にも足を突っ込んだわけですが、本格的にやるにはもう若くないし、体力がありませんから、発掘までは難しいです。やはり、考古学者はアウトドア派で体力がなければなりません。
私の教え子が、考古学の道に進み、発掘作業をしている所に差し入れを持って行くのが夢です。誰か、お願いします!(笑)
授業では、古墳時代を前期・中期・後期に分けて、まとめて特徴を整理しています(プリントの表参照)。それを覚えるだけでもかなり問題は解けると思います。
大雑把に分けると、4世紀が前期、5世紀が中期、6~7世紀が後期です。4C,5C,6Cと100年単位です。覚えやすいですね。
ここでは、前期・中期・後期でブログの記事を1個ずつ書くことにします。
まず、古墳時代前期ですが、
教科書p.23に写真もあるように、卑弥呼の墓ではないかとも考えられている箸墓古墳が、出現期の前方後円墳として最大規模ということになっています。箸墓古墳はヤマトトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命)という、孝霊天皇の娘の墓ということになっているので、宮内庁が所管しています。ですから、立ち入り禁止です。被葬者がどういう人だったのかといったことは、ほとんど調査できません。出土したという土器を調べることによって、いつ頃古墳が作られたかが推定されています。卑弥呼が死んだ頃とすると、3世紀の後半です。一応、このあたりも古墳時代と重なるということになります。
私が箸墓古墳を見学した時の記事はこちら。大きさを見てください。
卑弥呼さんの墓なのだろうか?―箸墓古墳(学外授業から)
とにかく巨大です。東京に住んでいると、古墳はあまり身近にありませんし、この箸墓古墳は大きくて、古墳というより山というイメージで、その大きさに驚きます。鍵穴の形をした前方後円墳だなんていうことは、地上から見ても全くわかりません。上記記事の写真を参考にしてください。くびれはちょっとわかるかな、という程度です。
古墳時代前期を3~4世紀と考えると、この時代に関係するブログ記事は以下です。教科書は、p.23~24。
卑弥呼の鏡か?黒塚古墳見学記
1997年ですから平成時代のこと、三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面という大量の鏡がここで発掘されました。黒塚古墳は、奈良県の天理市にある古墳時代前期(4世紀初~前半)の古墳です。ここから大量に発見された三角縁神獣鏡が、卑弥呼が魏からもらった鏡ではないかと考え、ここが卑弥呼の墓であるという説もあります。箸墓でも黒塚も、奈良ですから邪馬台国畿内説の方になります。
この古墳の三角縁神獣鏡のように、前期の古墳から出土する副葬品は、鏡や玉など呪術的な要素が多いことから、この時期の被葬者は、司祭者的性格をもつ、と教科書にも記述されています。卑弥呼などがそのイメージですね。
そして、上に書いた、箸墓古墳の被葬者と考えられているヤマトトトビモモソヒメですが、これが卑弥呼ではないかという説があり、『魏志』倭人伝に出てくる「男弟」を崇神天皇にあてる説もあります。孝霊天皇は7代天皇、崇神天皇は10代ですので、ありえないことはないです。私もちょっと、同じように考えています。そして、前回書いたように、崇神天皇の時代に疫病が流行し、オオタタネコを探し出して祀らせたのが大神神社につながるということ、またヤマトトトビモノソヒメは、『日本書紀』に三輪山の神様・大物主と結婚するという話がありますので、卑弥呼の時代・古墳時代前期の頃の話なのだろうと考えることにします。
前回の記事も参照してください。
崇神天皇の時代の疫病退散方策は・・・
卑弥呼の死後、後を継いだのは、トヨ(壱与)という女性だと考えらえれていて、トヨの墓ではないかといわれているのがホケノ山古墳です。奈良大の学外授業で行った時の記事がこれです。
トヨの墓なのか?―ホケノ山古墳(学外授業から)
この古墳の被葬者は「豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)」と考えられていて、崇神天皇の皇女です。「とよ」という文字が入っているので「トヨ」かもしれないと思わされます。
こちらは、古墳の頂上まで簡単に登ることができます。古墳の裾に畑が作られていたりして、とてものどかです。奈良大のスクーリングの時には雨で上に登れなかったのですが、後で自分でレンタサイクルで回った時に登った時の写真はこちらにあります。
オオタタネコの神社・若宮社の写真もこちらです。あちこちに散らかっていて恐縮ですが、お時間がありましたらどうぞ。
お彼岸に太陽を追いかける女・・・2015春彼岸奈良弾丸ツアーC
以上、前期古墳の記事の紹介でした。前期(出現期)の規模の大きい古墳は、奈良(大和)に多いため、この大和地方を中心とする政治連合が形成されていたと考えられ、これをヤマト政権といいます。前方後円墳は、ヤマト政権の権威の象徴と考えられています。この形のお墓を作っていいと許された人だけが作ることができたという考え方があります。
どうしてあのような形をしているのか、古墳の向きには何か意味があるのか、など、解明してみたい謎はいろいろあります。皆さんも考えてみてください。
適当な写真がなくて、1年前の5月12日に、奈良大通信教育の同窓会の遠足で山の辺の道を歩いた時の写真から。
大神神社を後にして、歩いていくと、狭井川を通過しました。その橋のたもとで、ガイドをしてくださった方が、勢夜陀多良比売の絵を掲げながら丹塗矢(にぬりや)伝説の話をしてくださいました。
その狭井川のほとりで、大神神社のささゆり奉献神事(6月16日)、奈良市内の率川神社の三枝祭(さいくさのまつり)(6月17日)に使うささゆりが育てられているとのことで、写真にはそのお世話をしている方が写っています。ささゆりはまだ咲くのは先で、支柱がたくさん立てられていました。
三枝祭は世にも美しいお祭りということで、私もいつか見に行きたいと憧れるお祭りです。
http://isagawa-jinja.jp/omatsuri/saikusa/
ああこんなふうにささゆりは大切に育てられているんだなあと感銘を受けました。
とてもよいお天気で、写真のように、空気がきれいで、緑も、空もとても鮮やかな色をしていました。本当にすばらしい5月の一日でした。
今度はささゆりが咲いている季節に行ってみたいものです。
今日はこんなところで。
私も三輪王朝に対して、葛城王朝(断言は危ういですが)の磐之媛についてブログ記事を揚げました。
私、正直なところ、三輪はawayと思っています(笑)、奈良県も地域性で細分化されていますので。
昨年、奈良大学通信同窓会の散策帰りに、ならまちでお会いしましたね。
平和でした、ほんとに。
矢田寺の紫陽花は、つぼみが全部、摘まれてしまいました。観光客を呼び込まないために、です。
花になんの罪があるのか。
夏は難しいかな、秋にでもまた来寧されましたら、ご一緒させてくださいね。
ありがとうございます。こんな講義を拝聴できて♡
以前もお話しましたが大神神社にもささゆりがあると聞いてますが(私の行ったときは、その時期ではなくて)、こうして別の所でも育てているのですね~
昔は実家の裏山にも普通に咲いてましたが今は乱獲されてないようです。
私も育てていたのですが、美味しいゆり根はもぐら?に食べられてしまうのですね。
遠くてとても無理ですが奈良大学の史学科面白そうですね。
ただでさえ忙しいので、こればかりは無理ですが・・・
磐之媛についてのブログ記事は、今回も、また以前のも読ませていただいています。
奈良大の上野先生の言語伝承論のテキストだったと思いますが、同じように磐之媛について詳しく心情を分析されていたと思います。
葛城王朝についても興味がありますが、交通の便があまりよくない印象で、なかなか行きづらいですね。いつか行かねばと思っていますが。瓊花さんも葛城が故郷ということになるのですか?磐之媛の魂と一緒に帰るなんて素敵です。
なぜかふと、五木寛之の『風の王国』を思い出してしまいました。全然関係ないかもしれませんが、確か登場人物に葛城という苗字の女性がいたなと。
ならまちのカフェの写真などは、この頃ネタ切れなので次回あたりに載せようかなというところです。本当に、各地でチューリップや藤の花や、切り落とす映像を見て、本当に悲しく残念な気持ちになりました。どこかで飾られているならいいかもしれませんが。
写真の場所は、大神神社のすぐそばです。
ゆり根をもぐらが食べるんですか?もぐらって結構いるものなんですね。
ゆり根でふと思い出しました。むかごというのを昔食べたような。むかごごはんだったのだろうか。今では全く縁がありませんね。地方ならではだったのでしょうかね。
奈良大通信はそうですね。時間がないと難しいですね。お忙しいのですね。
『風の王国』、葛城哀ですね。あれは二上山のサンカを題材にした話で、古代史はあまり関係なくて、最初読んだときは肩透かしな感じがしました。
でも、歌手のサエラがかわいそうで、読んだ後は2日くらい凹みます。ああいった社会のどぶ水をすすった存在への愛情をもった視線は、五木寛之の真骨頂だと。
葛城文化圏の中枢は、山際の一言主神社あたりかと。バスがなんとか出ています。車は、地元民はけっこう運転があらいので、多少不便ですが公共交通機関をおすすめします。
私は葛城文化圏の北西の辺境の出身です。当麻氏や平群氏がからむので、純粋な葛城文化圏ではないのですが。
やはり、二上山から葛城までを眺めると、ホッとします。
私の母胎なので。
そういえば二上山のサンカの話でしたね。実在するのでしょうか?私はまだ登ったことがありません。サエラのことで2日も落ち込むとは感受性が強いんですね。
一言主神社のあたり、行ってみたいですね。やはりふるさとの山はありがたいものなんでしょうかね。私の場合、那須の山ですね。