本日は村岡八郎こと平良文の居館と伝えられる、村岡館を紹介いたします。
荒川にかかる熊谷大橋のたもと、熊谷市内から東松山市へと向かう松山街道沿い、
立正大学熊谷校舎方面に向かう分岐点の右側に村岡の観音堂があります。
この観音堂一帯が村岡館と言われております。
観音堂は公民館も兼ねており、敷地内には茶臼塚と呼ばれる古墳があったそうです。
この塚は明治期に村役場を作る際にならされてしまって、その時に発掘された板碑が茶臼塚跡に立っています。
写真は、昭和57年(1982年)の夏のものです。
村岡館については当時からすでに遺構は無くなっておりました。
当時は、周囲にドライブイン施設などがあり、にぎやかな場所でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/1e/a68317a18afaac106e47d017878b62e6.jpg)
茶臼塚をならした当時は、そうした重要な遺跡という認識も無かったのでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/39/4ddf9415e9c839ff9538901e392e7087.jpg)
観音堂です。
正直味気ないですが、わたしが城館探しに熱中していた頃は、元の木造のお堂などにトタンなどを張り付けるというのは、
標準装備という時代でした。
平良文は将門とも縁の深い、関東の配流の貴公子の一人です。関東各地に彼の館跡とされる遺跡があり、
実際に、平貞文が住んだのか疑わしいようです。
この村岡付近は、堤防決壊常襲地域でもあり、文書など多く資料や遺跡が流出しているはずです。
平安期の名武将の館跡としては味気ないと思いますが、「配流の貴公子」について考えるという視点を持ってみると、
面白いのではないでしょうか。
荒川にかかる熊谷大橋のたもと、熊谷市内から東松山市へと向かう松山街道沿い、
立正大学熊谷校舎方面に向かう分岐点の右側に村岡の観音堂があります。
この観音堂一帯が村岡館と言われております。
観音堂は公民館も兼ねており、敷地内には茶臼塚と呼ばれる古墳があったそうです。
この塚は明治期に村役場を作る際にならされてしまって、その時に発掘された板碑が茶臼塚跡に立っています。
写真は、昭和57年(1982年)の夏のものです。
村岡館については当時からすでに遺構は無くなっておりました。
当時は、周囲にドライブイン施設などがあり、にぎやかな場所でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/1e/a68317a18afaac106e47d017878b62e6.jpg)
茶臼塚をならした当時は、そうした重要な遺跡という認識も無かったのでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/39/4ddf9415e9c839ff9538901e392e7087.jpg)
観音堂です。
正直味気ないですが、わたしが城館探しに熱中していた頃は、元の木造のお堂などにトタンなどを張り付けるというのは、
標準装備という時代でした。
平良文は将門とも縁の深い、関東の配流の貴公子の一人です。関東各地に彼の館跡とされる遺跡があり、
実際に、平貞文が住んだのか疑わしいようです。
この村岡付近は、堤防決壊常襲地域でもあり、文書など多く資料や遺跡が流出しているはずです。
平安期の名武将の館跡としては味気ないと思いますが、「配流の貴公子」について考えるという視点を持ってみると、
面白いのではないでしょうか。
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