今回は、設楽氏館跡について書きたいと思います。
設楽氏館跡は皆野町金沢(かねざわ)の諏訪平東方の山中にある館跡です。
設楽氏は鉢形北条氏の家臣で、鉢形城落城後、当地に帰農したと伝えられています。
中田正光氏の『秩父路の古城址』には、館跡とされる石垣、石組のしっかりした井戸跡、
櫓台跡があることが書かれており、ほかに、設楽氏の祭神である狩所大神、戦国末期から
現在まで伝えられる桑畑など、埼玉県下の山城マニアならば関心をもたずにはいられない館跡です。
さて、今回の調査方針ですが、中田氏の著書では、館跡の背後の尾根に櫓台が残るとするのみで、
城跡の有無については何も語っていません。この見解はその後も踏襲されているようですが、
帰農後、新たに櫓台を構築する必要があったのか、そう考えると不自然です。
自分のゆかりのある領地に帰農するのが自然の成り行きであり、それならば、櫓台も元々あったことになり、
櫓台があれば、そこには城跡があった可能性が捨てきれません。
そこで、今回は、設楽氏館跡を訪ねること及び関連遺跡を探索することはもちろんですが、
特に、尾根上に櫓台以外の城跡を示す構築物を探し出す方向で調査に臨みたいと思います。
今回、わたしが利用した設楽氏館跡にむかう登山口は、金沢の西光寺という寺の近くにある登山口です。
ここは、狩所(かると)集落の中を通過していくルートです。
山城調査の場合、単独行は道に迷うリスクを常に抱えていて、時間ロスも怖いので、地元の人達からの情報収集で、
ルートに見当をつけることにしました。
調査の日、数日来の厳寒の峠は越えたものの、温かいなどといえる状態ではありませんでしたが、
意外にも、通行人がいます。早速、男性に声をかけて、狩所という場所について尋ねると、
「この道登ったところ。この上の方が狩所だよ」と、あっさり判明いたしました。とりあえず間違いが
ないことを知ってホッと碑ました。
また、館跡の有無にも、実に明快に「石垣があるよな」と答えていただきました。
「かなり最近まで、人が住んでたんだよ、あそこには。いまみたいな世の中じゃもう不便だって、下に降りちゃったけど。」
更に男性は重要なことを教えてくれました。
「昔は、あそこには大きな通りがあって、随分、盛った場所なんだよ。」
「え!?」
わたしは瞬間的に、早い時期に林道が通されたのかなと思いました(これは、もちろん誤解だったのですが)。
林道があると思い込んだ私は、自動車で現場近くまで登れると思い込み、橋を渡ったのですが、
1月22日豪雪の残雪が凍ってしまい、坂を登ることができません。金沢川が冷たそうです。
仕方なく、広く空いた歩道の中に車を止めて、登ることにしましたが、とにかく足が滑って坂を登れません。
集落入り口付近から、ざっと見た限り、石積みが数か所ありました。明らかに集落の痕跡ですね。
こうした石積みは、館跡の石垣よりも新しいものなのでしょうが、それはあくまで比較の問題で、
もちろん、昨日今日積まれたものではありません。
山の入り口にたどり着きました。
右側のルートが正解の方です。
左に行くと、奥の集落跡に入ってしまいます。
言っては何ですが、今風に言うところの廃墟ですか・・・急いで元の場所に戻りました。
山の管理はかなりなされている様子で、新しい山仕事の後がたくさん残っていますが、雪の影響が残っているため、
足場はかなり悪いです。とにかく滑りました。
上り坂は急ですが、距離はさほど長くなく、10分ほどで尾根にたどり着きますが、冬場だからきつくないものの、
夏だったら、きついでしょうね。
尾根の平場が見えました。
あ!!
これ、虎口ですよね・・・。
平場内部から虎口をみます。
たどり着いた尾根は、削平された細長い平場(ここを仮に郭1と呼んでおきます)になっており、
尾根の周囲は急斜面になって下に落ちています。
設楽氏館跡には、本城に付属するものであるという仮説はあながち間違えていない・・やはりこういう時は、
ワクワクします。
尾根伝いに進むと大きな平場(郭2)が現れます。しかし、今時、これほどきちんと山利用が行われているなんて・・・。
これは別の意味で驚きでした。
1日目の調査のときには、誰の姿もありませんでした。2日目には、現在山の管理をなさっている高齢の男性がいて、
館跡のことについて、いろいろなお話を聞かせていただきました。
さて、この大きな平場(郭2)は、ゆがんだ円形になっており、西側には土壇状になっており、上に登ると、
西に山々が見渡せます。
土壇の上から、平場を見ると、かなり高低差があるのがわかります。
北側には、山道がありました。
ふもとで地元の方に伺った「大きな通り」とは、これのことだったのです。
この通りは、野上方面に抜けるルートであり、自動車が普及する前には盛んに利用されていたそうです。
山中でも不自由しなかったのはこの街道のおかげだったのです。
この大きな平場は、馬つなぎ場としても利用されていたそうで、かつての設楽氏館が、生き生きと立ち上がって
くるような気がします。
この街道は平場の先で二つに分岐し、下にくだると館跡なのですが、わたしは尾根を直進しました。
街道沿いは土留めのために小さな石がモザイクのように積まれています。
尾根を直進すると噂の櫓台が現れました(郭3)。
街道と平場を分割する土塁があります。
更に直進すると、今度は社の平場が現れます(郭4)。
狩所大神かと思い勇んで近づきましたが、社がありませんでした。
社の前も、平場の入り口が盛り上がって、虎口状になっているのがわかります。
更に直進すると、街道は下り坂になり途中で消失してしまいます。
道は崖ギリギリに作られ、右側には平場があります。
道は消失してしまい、平場の周囲は、崖となっています。
「あれ?これも、虎口だよね・・・」
この街道が下り始める場所に、虎口と思われる構築物があります。
先ほども書いた通り、小道はがけギリギリのところにあるので、この土壇状のところに、
木製の盾を置くだけでも、防衛力を発揮できます。
また、下り坂に沿って一段高く段差がつけられた平場がついています(郭5)。
設楽氏館跡の背後にある尾根上には、山城特有の堀切などがないのですが、削平された平場や虎口と見られる
構築物があることから、恐らく設楽氏は、このルートの物資流通を押さえる目的で、
この場所に館を作っていたのではないかと考えられます。
設楽氏館跡自体、かなり最近まで生産活動が行っていたのは、間違いないところなので、そうした活動の過程で
遺構の形は崩れて痕跡が明らかではなくなっていることが考えられます。
また、防衛的構築物を持った平場の間に、ぼんやりとした平場があるのも、わかりにくくしている原因です。
こうした部分に、何らかの構築物があったのかどうかは見極めが必要と思われます。
設楽氏館跡は皆野町金沢(かねざわ)の諏訪平東方の山中にある館跡です。
設楽氏は鉢形北条氏の家臣で、鉢形城落城後、当地に帰農したと伝えられています。
中田正光氏の『秩父路の古城址』には、館跡とされる石垣、石組のしっかりした井戸跡、
櫓台跡があることが書かれており、ほかに、設楽氏の祭神である狩所大神、戦国末期から
現在まで伝えられる桑畑など、埼玉県下の山城マニアならば関心をもたずにはいられない館跡です。
さて、今回の調査方針ですが、中田氏の著書では、館跡の背後の尾根に櫓台が残るとするのみで、
城跡の有無については何も語っていません。この見解はその後も踏襲されているようですが、
帰農後、新たに櫓台を構築する必要があったのか、そう考えると不自然です。
自分のゆかりのある領地に帰農するのが自然の成り行きであり、それならば、櫓台も元々あったことになり、
櫓台があれば、そこには城跡があった可能性が捨てきれません。
そこで、今回は、設楽氏館跡を訪ねること及び関連遺跡を探索することはもちろんですが、
特に、尾根上に櫓台以外の城跡を示す構築物を探し出す方向で調査に臨みたいと思います。
今回、わたしが利用した設楽氏館跡にむかう登山口は、金沢の西光寺という寺の近くにある登山口です。
ここは、狩所(かると)集落の中を通過していくルートです。
山城調査の場合、単独行は道に迷うリスクを常に抱えていて、時間ロスも怖いので、地元の人達からの情報収集で、
ルートに見当をつけることにしました。
調査の日、数日来の厳寒の峠は越えたものの、温かいなどといえる状態ではありませんでしたが、
意外にも、通行人がいます。早速、男性に声をかけて、狩所という場所について尋ねると、
「この道登ったところ。この上の方が狩所だよ」と、あっさり判明いたしました。とりあえず間違いが
ないことを知ってホッと碑ました。
また、館跡の有無にも、実に明快に「石垣があるよな」と答えていただきました。
「かなり最近まで、人が住んでたんだよ、あそこには。いまみたいな世の中じゃもう不便だって、下に降りちゃったけど。」
更に男性は重要なことを教えてくれました。
「昔は、あそこには大きな通りがあって、随分、盛った場所なんだよ。」
「え!?」
わたしは瞬間的に、早い時期に林道が通されたのかなと思いました(これは、もちろん誤解だったのですが)。
林道があると思い込んだ私は、自動車で現場近くまで登れると思い込み、橋を渡ったのですが、
1月22日豪雪の残雪が凍ってしまい、坂を登ることができません。金沢川が冷たそうです。
仕方なく、広く空いた歩道の中に車を止めて、登ることにしましたが、とにかく足が滑って坂を登れません。
集落入り口付近から、ざっと見た限り、石積みが数か所ありました。明らかに集落の痕跡ですね。
こうした石積みは、館跡の石垣よりも新しいものなのでしょうが、それはあくまで比較の問題で、
もちろん、昨日今日積まれたものではありません。
山の入り口にたどり着きました。
右側のルートが正解の方です。
左に行くと、奥の集落跡に入ってしまいます。
言っては何ですが、今風に言うところの廃墟ですか・・・急いで元の場所に戻りました。
山の管理はかなりなされている様子で、新しい山仕事の後がたくさん残っていますが、雪の影響が残っているため、
足場はかなり悪いです。とにかく滑りました。
上り坂は急ですが、距離はさほど長くなく、10分ほどで尾根にたどり着きますが、冬場だからきつくないものの、
夏だったら、きついでしょうね。
尾根の平場が見えました。
あ!!
これ、虎口ですよね・・・。
平場内部から虎口をみます。
たどり着いた尾根は、削平された細長い平場(ここを仮に郭1と呼んでおきます)になっており、
尾根の周囲は急斜面になって下に落ちています。
設楽氏館跡には、本城に付属するものであるという仮説はあながち間違えていない・・やはりこういう時は、
ワクワクします。
尾根伝いに進むと大きな平場(郭2)が現れます。しかし、今時、これほどきちんと山利用が行われているなんて・・・。
これは別の意味で驚きでした。
1日目の調査のときには、誰の姿もありませんでした。2日目には、現在山の管理をなさっている高齢の男性がいて、
館跡のことについて、いろいろなお話を聞かせていただきました。
さて、この大きな平場(郭2)は、ゆがんだ円形になっており、西側には土壇状になっており、上に登ると、
西に山々が見渡せます。
土壇の上から、平場を見ると、かなり高低差があるのがわかります。
北側には、山道がありました。
ふもとで地元の方に伺った「大きな通り」とは、これのことだったのです。
この通りは、野上方面に抜けるルートであり、自動車が普及する前には盛んに利用されていたそうです。
山中でも不自由しなかったのはこの街道のおかげだったのです。
この大きな平場は、馬つなぎ場としても利用されていたそうで、かつての設楽氏館が、生き生きと立ち上がって
くるような気がします。
この街道は平場の先で二つに分岐し、下にくだると館跡なのですが、わたしは尾根を直進しました。
街道沿いは土留めのために小さな石がモザイクのように積まれています。
尾根を直進すると噂の櫓台が現れました(郭3)。
街道と平場を分割する土塁があります。
更に直進すると、今度は社の平場が現れます(郭4)。
狩所大神かと思い勇んで近づきましたが、社がありませんでした。
社の前も、平場の入り口が盛り上がって、虎口状になっているのがわかります。
更に直進すると、街道は下り坂になり途中で消失してしまいます。
道は崖ギリギリに作られ、右側には平場があります。
道は消失してしまい、平場の周囲は、崖となっています。
「あれ?これも、虎口だよね・・・」
この街道が下り始める場所に、虎口と思われる構築物があります。
先ほども書いた通り、小道はがけギリギリのところにあるので、この土壇状のところに、
木製の盾を置くだけでも、防衛力を発揮できます。
また、下り坂に沿って一段高く段差がつけられた平場がついています(郭5)。
設楽氏館跡の背後にある尾根上には、山城特有の堀切などがないのですが、削平された平場や虎口と見られる
構築物があることから、恐らく設楽氏は、このルートの物資流通を押さえる目的で、
この場所に館を作っていたのではないかと考えられます。
設楽氏館跡自体、かなり最近まで生産活動が行っていたのは、間違いないところなので、そうした活動の過程で
遺構の形は崩れて痕跡が明らかではなくなっていることが考えられます。
また、防衛的構築物を持った平場の間に、ぼんやりとした平場があるのも、わかりにくくしている原因です。
こうした部分に、何らかの構築物があったのかどうかは見極めが必要と思われます。
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