今回は、川越市の名刹、喜多院内にある小仙波堀の内について、書きたいと思います。
調査日は2019.01.30です。
川越市といえば、喜多院内に移築された江戸城の一部や、市内に保存された町並みから
小江戸と称されて有名です。
喜多院には、私も小学生のころ、家族と毎年、初詣に来たなじみのある寺院です。
さて、喜多院は水のない深い堀によって囲まれています。
このことからなのか、堀の内という小字が残されており、平安末期から仙波氏の城館跡とされているのですが、
川越城との関係性や、喜多院の再興や増築などとの関係から、現在残る堀は川越城の支城としてつくられたもの、
喜多院と関係するものであるなどの考え方も有力のようです。
今回はそのあたりも検討できればいいなあなどと考えながら、JR川越駅に到着します。
JR川越駅から素直に歩いたのですが、静かな通りを選んだせいか、喜多院の裏口であるドロボウ橋付近に
到着してしまいました。
早速、立派な堀がお出迎えです。
ごらんのとおり、この堀は非常に深く、幅広の立派なもので、こういう点が、平安末から鎌倉期のものとは思えない
印象を与えているのだと思います。
私的な見解ですが、喜多院一帯は、仙波氏の館跡である小仙波堀の内に、室町期の川越城の支城の遺構が複合した
ものであると推測しています。
せいげつ橋です。
下の築山状の構築物も、川越支城の土塁ではないかと推測します。
せいげつ橋の先には、有名などろぼう橋があります。
ここに伝わる伝説については看板を読んでいただくとして、ドロボウ橋直下の堀です。
この辺りから、小仙波堀の内の遺構が複合していると思います。
小仙波堀の内があったのは、川越東照宮一帯と推測できますが、ここは東照宮の裏手に当るからです。
慈眼堂の脇に、先ほどの空堀が続いており、その向こうに東照宮があります。
ここが目的の小仙波堀の内の館跡です。
厳島神社が奉納されており、この辺りは夏場湛水するようですね。
東照宮の堀は長方形です。
東照宮は神社なんですね。鳥居があります。
ここも堀が深いですね。
郭内です。
中央には東照宮の座する山があります。これも城館遺構なら、かなり風格のある館跡になりますね。
仙波氏は鎌倉幕府の有力武士でもありましたから、可能性はあると思います。
堀端を歩いてみます。
土塁遺構らしきものもあるにはありますが、ちょっと?ですね。
立派な構え堀が印象的な館跡です。
調査日は2019.01.30です。
川越市といえば、喜多院内に移築された江戸城の一部や、市内に保存された町並みから
小江戸と称されて有名です。
喜多院には、私も小学生のころ、家族と毎年、初詣に来たなじみのある寺院です。
さて、喜多院は水のない深い堀によって囲まれています。
このことからなのか、堀の内という小字が残されており、平安末期から仙波氏の城館跡とされているのですが、
川越城との関係性や、喜多院の再興や増築などとの関係から、現在残る堀は川越城の支城としてつくられたもの、
喜多院と関係するものであるなどの考え方も有力のようです。
今回はそのあたりも検討できればいいなあなどと考えながら、JR川越駅に到着します。
JR川越駅から素直に歩いたのですが、静かな通りを選んだせいか、喜多院の裏口であるドロボウ橋付近に
到着してしまいました。
早速、立派な堀がお出迎えです。
ごらんのとおり、この堀は非常に深く、幅広の立派なもので、こういう点が、平安末から鎌倉期のものとは思えない
印象を与えているのだと思います。
私的な見解ですが、喜多院一帯は、仙波氏の館跡である小仙波堀の内に、室町期の川越城の支城の遺構が複合した
ものであると推測しています。
せいげつ橋です。
下の築山状の構築物も、川越支城の土塁ではないかと推測します。
せいげつ橋の先には、有名などろぼう橋があります。
ここに伝わる伝説については看板を読んでいただくとして、ドロボウ橋直下の堀です。
この辺りから、小仙波堀の内の遺構が複合していると思います。
小仙波堀の内があったのは、川越東照宮一帯と推測できますが、ここは東照宮の裏手に当るからです。
慈眼堂の脇に、先ほどの空堀が続いており、その向こうに東照宮があります。
ここが目的の小仙波堀の内の館跡です。
厳島神社が奉納されており、この辺りは夏場湛水するようですね。
東照宮の堀は長方形です。
東照宮は神社なんですね。鳥居があります。
ここも堀が深いですね。
郭内です。
中央には東照宮の座する山があります。これも城館遺構なら、かなり風格のある館跡になりますね。
仙波氏は鎌倉幕府の有力武士でもありましたから、可能性はあると思います。
堀端を歩いてみます。
土塁遺構らしきものもあるにはありますが、ちょっと?ですね。
立派な構え堀が印象的な館跡です。
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