今日の記事は、前日に引き続き、大内沢郷と恒持王の遺跡について書きたいと思います。
調査日は、2019.07.31です。
前回の調査では、同行者が「腹減った~ぁ、つまんない~!マック食べたい~」とやりだしたので、
撤退しました。
そこで日を改めて調査に入りました。
御堂貝戸について、ご教示をもとに車を走らせます。
御堂貝戸の目印の一つに挙げられたのは、「北向地蔵」。
県道沿いに北を向いた地蔵がたっているということです。
まあ、県道は東西に抜けていきますから、西に向かって走っていれば左側に立っている地蔵は
すべて北向き地蔵なわけです。
といっても、走っているときはそんなこと思いも至らず、寄居に抜けてしまったので
もう一度戻って、峠付近にある公衆トイレの駐車場に入ると周囲の民家で、御堂貝戸について
確認をします。
ようやく、御堂貝戸の正確な場所がわかりました。
これが北向地蔵です。
ここは、井戸と呼ばれる場所だそうです。
さて、御堂貝戸はこの奥です。
御堂貝戸(ミドガイト)は奥の旧家の屋号で、下の写真の坂道付近が御堂貝戸(ミドガイト)に含まれます。
さて、御堂貝戸(ミドガイト)のお宅で、お話を伺うことができました。
昭和40年代~50年代にかけて、平将門ブームがあり、伝承を知って訪問してくる方が時々いらっしゃったそうです。
恒持王の遺跡についてお尋ねしたところ、苦笑いをなさって言いました。
「この坂の入口のあたりが御堂貝戸の名の起こりになった場所・・・」
「入口付近には集落のお墓がありましたが・・・・」
「そう。その下の猫の額みたいな平場があったんだけど、そこが御堂貝戸」
え!?
「そこの平場に、お堂があって、そこが御堂貝戸の起こりになった」
「今は、ありませんよね。」
「うん、今は、うちの裏山に移築されたよ」
「行けますか?」
「うん。行ける。」
「恒持王の館跡と言われる場所は・・・」
すると苦笑しながら、
「そのお堂のあったあたりなんだっていうんだけど、あんな場所には館は建たないな。
普通のうちも無理。お堂で精いっぱい」
「井戸という場所に、平将門が館を建てたという伝承がありますが・・・」
「井戸は、この山の下の街道沿いのことだけど、あんなところだってこんなちっちゃい猫の額みたいなもんでしょ。」
「平将門と恒持王が同一視されたということはないのでしょうか?」
「う~ん。そういうこともあるかもしれないけどね・・・。正直、館の跡は今言った土地だよね。
むかしはね、もう少し細かい話も覚えていたんだけど、今になると説明できないな。大分忘れてるよ」
ということで、御堂貝戸の調査に入ります。
どうも、ここが御堂貝戸の名の起こりになった平場付近です。
下の写真の平場にお堂があったのです
お堂の上は墓地になっていて、舌状に突き出た大地の上には平場があるようです。
館を作るならばこの台地状が適当だったのではないでしょうか。
地形的に見ても、立地の面から見ても、伝恒持王館跡にはこちらの方がふさわしいですね。
次に、下が伝平将門館跡の井戸の平場です。
では、御堂貝戸の起こりになってお堂はどこなのでしょうか。
ご教示いただいた通り、御堂貝戸(ミドガイト)のお宅の裏山に登ります。
アクセスは案外簡単で、花桃の郷に行く途中にありました。
慈雲堂です。ご覧になったことのある方も多いのではないでしょうか。
これが御堂貝戸の名の起こりになった、恒持王ゆかりのお堂だったとは・・・。
(本記事、終わり)
※ このシリーズは、不定期連載です。新しい調査取材を行った時に、新しい記事を書きたいと思います。
調査日は、2019.07.31です。
前回の調査では、同行者が「腹減った~ぁ、つまんない~!マック食べたい~」とやりだしたので、
撤退しました。
そこで日を改めて調査に入りました。
御堂貝戸について、ご教示をもとに車を走らせます。
御堂貝戸の目印の一つに挙げられたのは、「北向地蔵」。
県道沿いに北を向いた地蔵がたっているということです。
まあ、県道は東西に抜けていきますから、西に向かって走っていれば左側に立っている地蔵は
すべて北向き地蔵なわけです。
といっても、走っているときはそんなこと思いも至らず、寄居に抜けてしまったので
もう一度戻って、峠付近にある公衆トイレの駐車場に入ると周囲の民家で、御堂貝戸について
確認をします。
ようやく、御堂貝戸の正確な場所がわかりました。
これが北向地蔵です。
ここは、井戸と呼ばれる場所だそうです。
さて、御堂貝戸はこの奥です。
御堂貝戸(ミドガイト)は奥の旧家の屋号で、下の写真の坂道付近が御堂貝戸(ミドガイト)に含まれます。
さて、御堂貝戸(ミドガイト)のお宅で、お話を伺うことができました。
昭和40年代~50年代にかけて、平将門ブームがあり、伝承を知って訪問してくる方が時々いらっしゃったそうです。
恒持王の遺跡についてお尋ねしたところ、苦笑いをなさって言いました。
「この坂の入口のあたりが御堂貝戸の名の起こりになった場所・・・」
「入口付近には集落のお墓がありましたが・・・・」
「そう。その下の猫の額みたいな平場があったんだけど、そこが御堂貝戸」
え!?
「そこの平場に、お堂があって、そこが御堂貝戸の起こりになった」
「今は、ありませんよね。」
「うん、今は、うちの裏山に移築されたよ」
「行けますか?」
「うん。行ける。」
「恒持王の館跡と言われる場所は・・・」
すると苦笑しながら、
「そのお堂のあったあたりなんだっていうんだけど、あんな場所には館は建たないな。
普通のうちも無理。お堂で精いっぱい」
「井戸という場所に、平将門が館を建てたという伝承がありますが・・・」
「井戸は、この山の下の街道沿いのことだけど、あんなところだってこんなちっちゃい猫の額みたいなもんでしょ。」
「平将門と恒持王が同一視されたということはないのでしょうか?」
「う~ん。そういうこともあるかもしれないけどね・・・。正直、館の跡は今言った土地だよね。
むかしはね、もう少し細かい話も覚えていたんだけど、今になると説明できないな。大分忘れてるよ」
ということで、御堂貝戸の調査に入ります。
どうも、ここが御堂貝戸の名の起こりになった平場付近です。
下の写真の平場にお堂があったのです
お堂の上は墓地になっていて、舌状に突き出た大地の上には平場があるようです。
館を作るならばこの台地状が適当だったのではないでしょうか。
地形的に見ても、立地の面から見ても、伝恒持王館跡にはこちらの方がふさわしいですね。
次に、下が伝平将門館跡の井戸の平場です。
では、御堂貝戸の起こりになってお堂はどこなのでしょうか。
ご教示いただいた通り、御堂貝戸(ミドガイト)のお宅の裏山に登ります。
アクセスは案外簡単で、花桃の郷に行く途中にありました。
慈雲堂です。ご覧になったことのある方も多いのではないでしょうか。
これが御堂貝戸の名の起こりになった、恒持王ゆかりのお堂だったとは・・・。
(本記事、終わり)
※ このシリーズは、不定期連載です。新しい調査取材を行った時に、新しい記事を書きたいと思います。
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