今回は、熊谷市三尻地区にある「三宅屋敷」について書きたいと思います。
調査日は、2019.08.18及び2019.08.21の2日です。
熊谷市三ヶ尻(三尻)地区は、熊谷市の西部にあります。熊谷扇状地の扇頂部に位置するため、
旧熊谷市域には珍しく、観音山という小さな山があります。
三尻といえば、渡辺崋山の調査記録『訪瓺録』(ほうちょうろく、ほうへいろく)が有名で、
三宅屋敷は『訪瓺録』に記録されていますが、同じ館跡ならば、黒沢屋敷の方が有名です。
埼玉県の城館跡に関心をお持ちの方なら、黒沢屋敷の名前くらいは聞いたことがあるかもしれません。
黒沢屋敷は土地改良事業にかかって、昭和58年に発掘調査が行われた後に、
機場(ポンプ場)が建設されてしまいました。
一方の三宅屋敷ですが、ここは、安土桃山時代末期、徳川家康の家臣で三ヶ尻地区の3,000石の領主であった
三宅康貞の屋敷跡です。その後、三宅氏は大名になり、三河国挙母藩(ころもはん)-田原藩と国替えされました。
渡辺崋山は、田原藩藩士で、第13代藩主の三宅康直の命によって、田原藩の家譜を作るため、
天保2年(1831)三ヶ尻を調査しました。その成果が『訪瓺録』です。
三宅屋敷は、三宅氏の挙母藩に向かった後、笠原氏(三宅氏の縁者か)という農民が居住していましたが、
渡辺崋山の調査時には、既に荒廃していたようです。
三宅屋敷周囲は水堀があり、「堀ノ内」と呼ばれていました。屋敷跡の片すみには井戸があり、
三宅井戸と呼ばれていました。堀跡には蓮の花が咲いたと言われています。
三宅屋敷には、不気味なうわさがあり、周囲の蓮の花をとるものは必ず病にかかり、井戸を荒らすものがあると、
陰火が出現し、荒らすものに祟ったそうです。
こんな、三宅屋敷の場所を探し遺構を確認しようというのが、今回の調査の目的です。
まず、三ケ尻観音山のふもとにある名刹・龍泉寺をお参りし、三宅屋敷についてご教示いただくことにしました。
(つづく)
調査日は、2019.08.18及び2019.08.21の2日です。
熊谷市三ヶ尻(三尻)地区は、熊谷市の西部にあります。熊谷扇状地の扇頂部に位置するため、
旧熊谷市域には珍しく、観音山という小さな山があります。
三尻といえば、渡辺崋山の調査記録『訪瓺録』(ほうちょうろく、ほうへいろく)が有名で、
三宅屋敷は『訪瓺録』に記録されていますが、同じ館跡ならば、黒沢屋敷の方が有名です。
埼玉県の城館跡に関心をお持ちの方なら、黒沢屋敷の名前くらいは聞いたことがあるかもしれません。
黒沢屋敷は土地改良事業にかかって、昭和58年に発掘調査が行われた後に、
機場(ポンプ場)が建設されてしまいました。
一方の三宅屋敷ですが、ここは、安土桃山時代末期、徳川家康の家臣で三ヶ尻地区の3,000石の領主であった
三宅康貞の屋敷跡です。その後、三宅氏は大名になり、三河国挙母藩(ころもはん)-田原藩と国替えされました。
渡辺崋山は、田原藩藩士で、第13代藩主の三宅康直の命によって、田原藩の家譜を作るため、
天保2年(1831)三ヶ尻を調査しました。その成果が『訪瓺録』です。
三宅屋敷は、三宅氏の挙母藩に向かった後、笠原氏(三宅氏の縁者か)という農民が居住していましたが、
渡辺崋山の調査時には、既に荒廃していたようです。
三宅屋敷周囲は水堀があり、「堀ノ内」と呼ばれていました。屋敷跡の片すみには井戸があり、
三宅井戸と呼ばれていました。堀跡には蓮の花が咲いたと言われています。
三宅屋敷には、不気味なうわさがあり、周囲の蓮の花をとるものは必ず病にかかり、井戸を荒らすものがあると、
陰火が出現し、荒らすものに祟ったそうです。
こんな、三宅屋敷の場所を探し遺構を確認しようというのが、今回の調査の目的です。
まず、三ケ尻観音山のふもとにある名刹・龍泉寺をお参りし、三宅屋敷についてご教示いただくことにしました。
(つづく)
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