今回は、吉見町にある御所陣屋について書きたいと思います。
調査日は2019.02.14です。
御所陣屋は源範頼館跡に近く、延喜式内社の横見神社および隣接する稲荷神社境内がその跡とされています。
横見神社は横見神社古墳上、稲荷神社は御所稲荷塚古墳の上にあります。
両者とも円墳です。
御所陣屋跡は、地元での認知度はとても低く、先日、報告済みの首切り谷、地獄谷について、地元の口碑について
ご教示してくださった方は、「ここに、陣屋があったなんて聞いたこともない。範頼公の館は向うのお寺だよ」と、
驚きつつ話してくださいました。
横見神社です。この近くには延喜式内社の久伊豆神社もあり、古代吉見地区の特異性が感じ取れます。
さて、横見神社に隣接するように稲荷社があります。
見た目は、この祠の方がずっと古いのですが。
稲荷社の横には、空堀跡が確認できます。
正直、文献を調べているときは、あまり、館跡っぽくないような気がしましたが。
なんとなく良い感触を得て、横見神社に向います。
稲荷塚古墳を横から撮影しました。
横見神社は周囲を方形の堀で囲まれており、少なくとも古墳の周囲の堀とは違う目的で、
掘りなおされたものと考えられます。
堀はかなり深く、しっかりとしており、元々は水堀だったと思われます。
せっかく格式の高い神社なのに、寂しいのが残念な気もしました。
境内内を見てみましょう。
やはり古墳なのですね。なんとなく盛り上がっています。
遺構は、堀を中心に確認してみましょう。
やはり、堀は古墳の形状とは無関係に方形に彫り込まれており、古墳とは無関係に掘られたものだと考えられます。
社殿後方も見てみます。
とくに、土塁などの遺構は無いようですね。あるいは、私にはわからなかったのか・・・。
いつも思うのですが、城館跡は、知識以外の勘も非常に重要だと思います。
社殿後方にも堀があります。
境内を一周して、方形の堀を確認いたしましたが土塁はなかったようです。
稲荷神社脇の空堀、横見神社社殿を取り囲む方形の堀の状況から見て、陣屋内は横見神社境内と、稲荷塚古墳を中心に
二つに区画され、稲荷塚古墳は物見台とされていた。土塁がないのは、二つの古墳を要害としてそのまま利用するに
とどめた簡素なものだったからではないでしょうか。高台と周囲の低湿地を利用すればそれで充分であったということに
なると思います。陣屋の中心的機能がどこに置かれていたのかははっきりせず、居館ではなく、副次的防衛拠点だった
のではないかと考えます。
調査日は2019.02.14です。
御所陣屋は源範頼館跡に近く、延喜式内社の横見神社および隣接する稲荷神社境内がその跡とされています。
横見神社は横見神社古墳上、稲荷神社は御所稲荷塚古墳の上にあります。
両者とも円墳です。
御所陣屋跡は、地元での認知度はとても低く、先日、報告済みの首切り谷、地獄谷について、地元の口碑について
ご教示してくださった方は、「ここに、陣屋があったなんて聞いたこともない。範頼公の館は向うのお寺だよ」と、
驚きつつ話してくださいました。
横見神社です。この近くには延喜式内社の久伊豆神社もあり、古代吉見地区の特異性が感じ取れます。
さて、横見神社に隣接するように稲荷社があります。
見た目は、この祠の方がずっと古いのですが。
稲荷社の横には、空堀跡が確認できます。
正直、文献を調べているときは、あまり、館跡っぽくないような気がしましたが。
なんとなく良い感触を得て、横見神社に向います。
稲荷塚古墳を横から撮影しました。
横見神社は周囲を方形の堀で囲まれており、少なくとも古墳の周囲の堀とは違う目的で、
掘りなおされたものと考えられます。
堀はかなり深く、しっかりとしており、元々は水堀だったと思われます。
せっかく格式の高い神社なのに、寂しいのが残念な気もしました。
境内内を見てみましょう。
やはり古墳なのですね。なんとなく盛り上がっています。
遺構は、堀を中心に確認してみましょう。
やはり、堀は古墳の形状とは無関係に方形に彫り込まれており、古墳とは無関係に掘られたものだと考えられます。
社殿後方も見てみます。
とくに、土塁などの遺構は無いようですね。あるいは、私にはわからなかったのか・・・。
いつも思うのですが、城館跡は、知識以外の勘も非常に重要だと思います。
社殿後方にも堀があります。
境内を一周して、方形の堀を確認いたしましたが土塁はなかったようです。
稲荷神社脇の空堀、横見神社社殿を取り囲む方形の堀の状況から見て、陣屋内は横見神社境内と、稲荷塚古墳を中心に
二つに区画され、稲荷塚古墳は物見台とされていた。土塁がないのは、二つの古墳を要害としてそのまま利用するに
とどめた簡素なものだったからではないでしょうか。高台と周囲の低湿地を利用すればそれで充分であったということに
なると思います。陣屋の中心的機能がどこに置かれていたのかははっきりせず、居館ではなく、副次的防衛拠点だった
のではないかと考えます。
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