暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

増田館(深谷市)

2018-09-19 20:25:08 | 城館跡探訪
今回は、増田四郎重富公の増田館(深谷市)を再訪問してみました。

前回訪問からもう30年以上が経ちましたが、どうなっているのでしょうか?

調査日は2018年08月14日です。

前回、1985年の秋の写真です。



この写真で背後の農家を見ると屋敷林が見えます。

実際、今でも覚えているのですが、深谷の段丘から大きく一段下がった、利根川氾濫原にこんもり盛り上がった

島のような上増田の集落でした。

畑脇には宝篋印塔があり、のどかな雰囲気でした。



今回も、こんな変わらぬ状況を頭に描いていた・・・・

私がバカでした・・・・。

深谷北部は群馬方面に抜ける大型のバイパスが敷設され、屋敷林等見る影も無い一面の水田地帯・・・・。


さて、わたしはすっかり困り果ててしまい、迷走の果てに、ようやく上増田集落を探し出しました。

集落に入って気が付いたのですが、何度も脇を通り過ぎていたんですね。

屋敷林を目印にしているからこんなことになる(笑)

とはいえ、周囲がこれだけ変っていれば、集落内部が当時のままであるはずもありません。

炎天下の砂漠のような大通りから集落内に入って、諏訪山神社前にたどり着きます。



前回は未熟者で、遺構もろくに撮影しなかったので、とりあえず諏訪山神社を拠点に調査開始です。

地図によれば諏訪山神社の西側すぐのところにあるのですが、とりあえず神社内を探索です。







諏訪山神社内は本殿付近が高く盛り上がっており、それが境内脇まで続いているなど、

西側館跡の位置関係から見ても、土塁の一部を利用しているものと推測されます。

当然、館跡は単郭式では無く、連郭、複郭式であると想定しています。

諏訪山神社本殿です。







大きなケヤキです。というか、ケヤキでしょうね。









本殿の乗る盛り土はかなり高いです。

本殿裏には堀跡と思われる低地が残っています。



さて、館跡に移動です。

諏訪山神社とあまり距離は離れていない田んぼの沿いの道端に、解説板が設置されていました。

しかし30年前の面影はもはや微塵も無しですね・・・。農村の風景ではなく、郊外の風景です。






ああ、あれは一目、堀跡ですね。



ただ、以前きたときには、痕跡程度に残った土塁、堀跡も多かったはず・・・です。

しかし当日はものすごい高温と炎天下で、正直、この日中に外を出歩いているような奇人は私以外にいません。

だれかぁぁぁ!

やっぱ誰もいない。

勢いよく飲み干してしまったペットボトルを片手に、熱中症におびえながら館跡南側を探索します。














南側の農地の中に堀跡らしい低地を発見しました・・・、というか、私の感覚では堀跡なのですが、

人家などもあって、周囲の遺構との位置関係が少し把握しづらいですが、どうも、遺構が諏訪山神社と

つながっていそうに見えますね。

一番はっきりと残っている解説板背後の堀が取り囲んでいたエリアを主郭とし、

その周囲をもう一つの郭が囲んでいたのでしょうか。







次に主郭を。

主郭は東側に先ほどあげた土塁及び堀跡、北側に土塁をよく残しています。北側の堀跡は現在は道路になっています。



北側から堀跡を見てみました。



東側土塁側面です。



北側土塁です。



石造物がありますが、摩滅が激しく何であったのかはわかりません。







細かく見ていけばきりがないですが、一番向うの民家まで続いていたようですね。



東側堀の撮影が不十分なので、追加で撮影しました。







館跡南側に、桝形になった細い道路がありました。そこには地蔵が安置してありました。

この辺りが、城跡の虎口であったのではないでしょうか。





周囲の状況が大きく変化し、到着まで非常にてこずった増田館でした。

とはいえ、今回の調査では広範囲に遺構と考えられる構築物が残り、

また、虎口と推察される桝形の小道もありました。

城館跡は重要な遺跡だと思いますが、それでもそれらがいつまでも残っているとは限りません。

私も自分で調査ができる限り、記録を残したいと思いました。

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