30数年ぶりに荏原氏館跡に行ってまいりました。
訪問日は2018年08月13日です。
荏原氏は猪俣党の支族で、この館跡は鎌倉期につくられたものとされていますが、
現状では、遺構は無いと伝えられています。
土塁が利根川堤防の一部として利用されたと伝えられていますが、いつの話なのか不明で、
他に石田堤に利用されたとかいう口伝もあるそうですが、正直、意味の分からないものです。
むしろ備前堀などの開削との関連などを疑った方がいいのではないかという気がします。
まあ、こんなことを考えられるのも、いまPCの前にいるからで、訪問日当日は少ない時間に
気を使いながら、しかも、重い熱気に耐えながらの訪問ですから、周辺を調査する気もありませんでした。
江原氏館跡の摩利支天神社は戦の神です。私が最初に訪ねた時には、かなり流行っていない神社でしたが、
現在の方がむしろ信仰を集めるようになっている様子で、不思議な気がします。
同好の方のブログを拝見すると、ピンク色の、田舎のカラオケスナックのような社務所が衝撃を与えますが、
現在は落ち着いた感じの社務所になっています。
本殿も、近年の活況が反映されて、手入れが行き届いているようです。
神社を1周すれば、霊場が回れるということです。
江原氏館と言えば、そのシンボルは下の小祠とエノキの古木です。
荏原氏一族の子孫は現在でも残っており、各地に散った一族が、摩利支天神社に参拝しに来ているようです。
直近の妻沼は地方農村としては元々文化的水準が高く、江戸期、寺門静軒が滞在した地として知られていますが、
下のような句碑を建立するような人物を輩出してもいるんですね。
念のため、境内裏の土地を見てみますが、特に遺構らしきものはありません。
やはり周囲を歩いてみないと何とも言えないようです。
ここには、一族の方々によって建てられた小さな碑もありましたが、あまりにもはっきりと
個人情報が書かれているので、載せられません。
遺構があるかないかは、実際に歩いてみないと分からないというのが正直なところで、
土塁が、現在の利根川の堤防の一部になったというのは、かなり眉唾ではないかと思います。
この、辺りを手掛かりにして、すこし、付近の確認をしてみたいと思います。
訪問日は2018年08月13日です。
荏原氏は猪俣党の支族で、この館跡は鎌倉期につくられたものとされていますが、
現状では、遺構は無いと伝えられています。
土塁が利根川堤防の一部として利用されたと伝えられていますが、いつの話なのか不明で、
他に石田堤に利用されたとかいう口伝もあるそうですが、正直、意味の分からないものです。
むしろ備前堀などの開削との関連などを疑った方がいいのではないかという気がします。
まあ、こんなことを考えられるのも、いまPCの前にいるからで、訪問日当日は少ない時間に
気を使いながら、しかも、重い熱気に耐えながらの訪問ですから、周辺を調査する気もありませんでした。
江原氏館跡の摩利支天神社は戦の神です。私が最初に訪ねた時には、かなり流行っていない神社でしたが、
現在の方がむしろ信仰を集めるようになっている様子で、不思議な気がします。
同好の方のブログを拝見すると、ピンク色の、田舎のカラオケスナックのような社務所が衝撃を与えますが、
現在は落ち着いた感じの社務所になっています。
本殿も、近年の活況が反映されて、手入れが行き届いているようです。
神社を1周すれば、霊場が回れるということです。
江原氏館と言えば、そのシンボルは下の小祠とエノキの古木です。
荏原氏一族の子孫は現在でも残っており、各地に散った一族が、摩利支天神社に参拝しに来ているようです。
直近の妻沼は地方農村としては元々文化的水準が高く、江戸期、寺門静軒が滞在した地として知られていますが、
下のような句碑を建立するような人物を輩出してもいるんですね。
念のため、境内裏の土地を見てみますが、特に遺構らしきものはありません。
やはり周囲を歩いてみないと何とも言えないようです。
ここには、一族の方々によって建てられた小さな碑もありましたが、あまりにもはっきりと
個人情報が書かれているので、載せられません。
遺構があるかないかは、実際に歩いてみないと分からないというのが正直なところで、
土塁が、現在の利根川の堤防の一部になったというのは、かなり眉唾ではないかと思います。
この、辺りを手掛かりにして、すこし、付近の確認をしてみたいと思います。
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