だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生まれてきた
そんな気がするのだけれど
それが だれかのか なになのか
あえるのは いつなのか
おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている
それでも 手のなかに
みえないことづけを
にぎりしめているような気が
するから
それを手わたさなくちゃ
だから
あいたくて
だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生まれてきた
そんな気がするのだけれど
それが だれかのか なになのか
あえるのは いつなのか
おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている
それでも 手のなかに
みえないことづけを
にぎりしめているような気が
するから
それを手わたさなくちゃ
だから
あいたくて
「人の心は生まれながらにして
善悪はない。善悪は緑に出会っ
て起きるものだ。
たとえば、仏道修行の心を起こ
して山に修行に入るときは、山
の中は静かでいいが、俗世間は
煩わしいことがいっぱいでよく
ない、と思う。
ところが最初の気持ちがどこか
へ飛んでしまって、退屈になっ
て山を出るときは、山の中は駄
目だと思う。
これは取りも直さず、心には、
一定の形があるわけではなく、
緑というものにめぐり会って、
どのようにも変わっていくもの
である、ということだ。
そういうわけだから、善い縁に
会えば心は自然とよくなるし、
悪い縁に近づけば自然に悪くな
る。
自分の心が最初から悪いと思っ
てはいけない。ただただ、善い
縁から善い縁へと、そちらの緑
に従っていくべきである」
子どもの非行などがよく問題に
なりますが、これも「縁」が原
因でしょう。
最初から悪い子がいるわけでは
ありません。
まず最初の交わりとなる親がど
ういう人格か、付き合う子がど
ういう子かが問題なのです。
日頃の身近なことにも気をつけ
てやることが大切です。
「ふところ手をして人を“殺して”
いないか」
お釈迦様が、馬の調教師に
「馬を調教するにはどうするの
ですか」と尋ねた。
「三つの方法がございます。
優しく。厳しく。後の一つは、
優しくなおかつ厳しく」
「その三つの方法で調教して
も、言う事を聞かなかったら、
どうするのですか」
「殺すしかありません」
次に、馬の調教師が尋ねた。
「あなたは、どのような方法で
人を育てられるのですか」
「私も、あなたと同じ方法です」
「もし、この三つの方法で人を
導き、言うことを聞かない人が
いたらどうしますか」
「この三つの方法で駄目なら、
私はその人を殺しています。
三つの方法をもって導けない
者は、共に悟ることもできな
いし、何も教えられない。
教えを授けられないというこ
とは、殺すことと同じと思わ
ないかね」
人の存在感を無視して黙殺
することは、その人を殺す
のと同じことです」
小さい子が親からの虐待を
大人に求めて聞き入れない、
働きたくても子どもを預け
れない現実は“黙殺”なの
です。
あれから、十二年という歳月が
流れた。
あの日、あの夜、闇の底を生き
物のように流れる河のほかには
何もない、
閉散とした駅のプラットホーム
に、おそらく永遠に取り戻すこ
とのできない何かを置き忘れた
まま、わたしはもうすぐ、三十
五歳になろうとしている。
こうして、スピードを上げながら
西へ西へ向かう新幹線の中でひと
り、遠ざかってゆく景色を眺めて
ると、記憶の虚空(こくう)から、
はらはらとこぼれ落ちてくるのは
あの年の記憶だけだ。あの年その
ものが、わたしにとって八番目の
曜日であり、十三番目の月だった
のかもしれない。
今はもう、痛みは感じない。そこ
にはひと粒の涙も、ひとかけらの
悲しみ宿っていない。あのひとの
記憶は愛よりも優しく、水よりも
透明な結晶となって、わたしの心
の海に沈んでいる。
この十二年のあいだに、わたしは
いくつかの恋をした。
出会いがあって、相手を求め、求
められ、愛しいと感じ、結ばれた。
二十七の時には、結婚もした。
不幸にも、夫に好きな人ができ
てしまったため、その結婚はた
った二年で壊れてしまったけれ
ど、それでも二年間、わたしは
とても幸せだった。
ただ、どんなに深い幸せを感じ、
それに酔い痴れている時でも、
わたしの躰の中に一ヶ所だけ、
ぴたりと扉の閉じられた、小
部屋のような領域があった。
扉を無理矢理こじあけると、
そこには光も酸素もなく、
植物も動物も死に絶えた、
凍てついた土地がだけが
広がっている。
だからうっかりドアをあけた
人たちは、酸素と息苦しさに
身を縮め、わたしから去って
いく。離婚の本当の原因は、
もしかしたらわたしの方に
あったのかもしれない。
こんな言い方が許されるな
らば、わたしは誰かに躰を
赦(ゆる)しても、心を救
したことはなかった。
YouTube
alan / BALLAD ~名もなき恋のうた~
https://www.youtube.com/watch?v=YTuiEbkXJS0
お金や欲望は酒とよく似て
いる。
「うまく酒と付き合えば薬に
なるが、酒に飲まれてアルコ
ール依存症にでもなれば、こ
れほどの毒はありません。
金や欲望も成長へのバネとな
っている間はいいが、
金や欲望の亡者となって手段
を選ばなくなり、金や欲望に
振りまわされ出すとたいへん
です。
酒好きな私から言わせれば、
どの段階で酒を切り上げる
かはきわめて難しいことで
す。
ほろ酔いかげんのうちにや
めればいいが、話が弾んで
つい深酒をして後で後悔す
ることが多いものです。
お金や欲望との付き合い方
も同じだと思います」
若い間は適度な欲望を持つ
ことが大切だが、年を取っ
て執着しているのは見苦し
いもの。
天国には何も持っていけな
いのだし、遺産がどうなる
かと未練を残していくのも
つまらない。
結局最後はみんな捨てて、
生まれたままの裸になって
旅立つのが理想です。
人を羨ましく思う気持ち、
憎らしいという気持ち、羨
ましいと思う気持ちの三つ
は、若いうちは生きるための
バネになるが、
いざ人生を楽しもうと思うと
邪魔になります。
これをまず捨てると、気持ち
はすーっと楽になりシンプル
に生きられるはずです。
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気づいて
いるほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気づいているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
ひかりを浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい
『江戸風小噺』
柳腰で、
姿のいい女が水を汲んで
いる。
「危ないよ。
俺が汲んでやろう」
余計な
世話をやいている
ところへ、
マツコ・デラックスみたいな
デップリ女がきて、
「五郎さん、わたしにも一ぱい
汲みなさいよ」
五郎、井戸を覗いて、
「ハテ、まだ水があったかな?」
価値がないと
思われるものでも、
宝にかわることは
数多く存在する。
たとえば、雨が降れば傘の
価値はあがり、晴れが続けば
価値がさがるように、
この現実世界では「価値」という
ものは宿命的に相対的であること
から免れない。
人生における価値も同様だ。
誰が定めたのかも明らかでない
世間の価値基準に一喜一憂した
ところで、あなたが得るものは
少ない。
むしろ、昨今では世間が低く
なってしまった愚直さとか
善意とかをあなた
が大切に保存しているとすれば、
やがて人類の宝として高い評価を
得ることになるだろう。