化粧はしばしばエロチックで
すが、それは「それをしなくて
も生きてゆける」余剰文化に属
するものだからとも思えます。
化粧する女は、さみしがりやで
す。一人では、生きられないか
ら化粧するのです。
化粧を、女のナルシシズムのせ
いだと決めつけてしまったり、
プチブル的な贅沢だと批判して
しまうのは、ほんとうの意味で
の女の一生を支える力が、想像
力の中に在るのだということを
見抜くことを怠った考え方です。
虚構をもたない女なんて、退屈
な家政婦にしかなれないでしょう。
あの少年の秋の日に
あの子の心から盗んだ
恋心が
今も胸の中に甘い果実
みのらせて
こんな秋の日の光をあび
るたびに
すこしずつ育ってい
放課後の長い時間を私はひとり、
学校ではなくて、町のはずれに
ある図書館で過ごすようになっ
ていた。
いつ閉鎖されてもおかしくない
ような、さびれた図書館だった。
日曜の午後、たいてい四時過ぎ
くらいに、西陽がまぶしくなっ
て私が席を移動したあとか、移
動する直前に、彼はふっと姿を
現した。
そうして、まっすぐに、私がそ
れまで座っていた椅子を目指し
て歩いてくる。それからそこに
腰をかけて、ぶあつい本を開く。
「こんにちは、あの・・・・」
ある日、思い切って、私の方か
ら声をかけてみた。
どうしていつも、ここに?私の
座っていた場所に。ここ、まぶ
しくないですか?
訊いてみたかったけれど、そこ
までの勇気はなかった。
声はかけたものの、何も言えな
くてもじもじしていると、彼の
疑問文が飛んできた。
「きみの方こそ、どうしていつ
もこの席に?」
そのあとに言った。目を細めて、
まぶしそうに、私の胸のあたり
に視線をのばして。
「ここ、僕の指定席なんだけど」
そんな風にして、私たちはぼつ
ぼつと会話をするようになり、
日曜ごとに図書館で「デート」
をするようになった。
デートだと思っていたのは、
――名づけていたのも――私だ
け、だったと思うけど。
あの、もしもよかったら、この
本」ある日、思い切って、私の
方から「告白」をしてみた。
好きです、つきあって下さい、
なんて言えるはずもなく、その
代わりに私は、私の気持ちを代弁
してくれているかのような恋愛
小説を選んで、彼に差し出して
みた。
「いろ」は体でするもの。
「あい」は、五十音の一番
はじめのニ文字でできて
いる。
そして、
「いろ」はいろはにほへとの
一番はじめのニ文字で
できている。
「あい」と「いろ」は、
今も昔も人間が生きていく
中で、
最も大切なものであるとい
う証か。
ドラマ「北の国から」が話題
だったころ、脚本家の倉本聰さん
が新聞のロングインタビューで
「この国はどこへ行こうとして
いるのか」でこんな話をしてい
ます。
「ここでの生活ぶりを描く
うちに、文明対自然、都会対
地方みたいな要素が出てきて
しまいましたが、
本来は、豪華な家に住む
仲の悪い家族と貧しいけど
仲の良い家族はどっちが幸
せか、という単純ななげか
けが原点なんです。
今の日本では親と子供が
一緒に感動することが非
常に少なくなりましたよね。
一人一人は感動してもそれ
を共有している家族がどれ
ほどいることか。
・・・今は親が子供に感動
を与える機会が少なすぎま
す。
親には子供が成人するまで
の間に感動という遺産をき
ちんと伝える責任があるは
ずです。
死んでからカネや土地を
残しても何の意味もない。
本当の遺産とは何か、い
つ伝えるのが最も有効な
のか、親たちは考えない
と。
親子で感動をともにして
きた家族からは、絶対に
曲がった子供は出てきま
せん」
パソコンが登場し、僕がま
ごまごしているあいだにみ
るみる普及し、むかし夢物
語のように話していたケー
タイが出てきたらと思った
ら、たちまち、もうこれを
持たない国民はいなくなっ
た。
こうして、人は人とさらに
会わなくなるのだろうか。
これから先も、さらにいろ
いろな通信手段が生まれ、
そのたびあっけにとられな
がらも、いつの間にかちゃ
っかりと事務所の戦力とし
ておさまり、ますます、
会わなくても事がすむ時代
になっていくのだろうか。
そんなことをしんみり考え
たことを覚えている。
「会う、贅沢。」
は、そんな狂奔の時代が
始まるのでしょう。
もちろん、人と人が会う
ことはなかなかに大変
で、今もむかしも贅沢
なことに変わりはない。
ただ、むかしは、交通手段
がおそろしく不便で会えな
かったのに対し、これから
は、通信手段が便利すぎて
会わなくなる。
どう考えても、通信手段
の進化に行き止まりがな
い気がして、心の中に、
小さな不安がポツンと
生まれる。