ビスクドール・雛人形店・オーディオ販売 佐久市 ヤナギダ店長ブログ

ビスクドール64体他お節句雛人形をフランスへ輸出128年、軽井沢方面がお店の場所。

富良野の森で、いちばんよく泣く生き物は、人間でした。

2023年06月28日 13時00分54秒 | owarai
 
 
 
打ち合わせを終えたあと、わたし
たちははごく短い時間、たわいな
い世間話しを、カフェを出た。腕
時計を見ると、三時過ぎ。まるで
冬の幕間のような、ぽかぽかと
暖かい午后だった。わたしは、

「ちょっと散歩してから、帰り
ます」
と、本多さんに言って、駅の近く
の横断歩道の手前で、彼女と別
れた。

新宿の街を歩くなんて、久しぶり
だった。わたしの足は自然に西
新宿へ、新宿中公園の方へ向い
ていた。

西新宿は、アラシといっしょに
暮らした街だった。

そこで出会いがあり、そこで、
別れがあった。恋と愛が出会
って、
すれ違って引き裂かれた場所。
一生分の涙を、わたしはそこで
使い果たしてしまった。

今はさらさらと流れる砂のよう
な記憶に包まれて、ひっそりと
たたずんでいる街、涙も、心の
痛みも、傷も、情熱も、おそらく
この世には、何ひとつとして、
同じ形で同じ場所にとどまる
ことのできるものなど、ない
かもしれない。

公園に着くと、わたしは陽あたり
の良いベンチに腰かけて、鞄の
中から、うす茶色の封筒も取り出
した。ついさっき、本多さんから
から受け取ったばかりの、封筒。
中には仕事の資料が入っている。

企画書やあらすじをまとめた
文章やあらすじをまとめた文章
や構成案や、誰かの過去の作品
のコピー。
わたしは、封筒を膝の上に乗せ
てその重みを、てのひらでその
厚みを、味わった。

愛おしさにも似た感情が、山奥
で人知れず湧く泉のように、
あとからあとから、あふれ出し
てくりのがわかった。

アラシ、また会えたね。
わたしたち、また、つながった
ね。
カフェで読んだその文章を、わ
たしはもう一度、ゆっくり読んだ。
なつかしい、アラシの声が、愛
した人の魂が、粒子になって飛
んできた。
       *
これは、風に聞いた話しです。
柳の木の枝を揺らし、白樺の
木の葉を踊らせ、

アザミの綿毛を見えない手で
掬い上げながら、
静かに草原を通り過ぎてゆく、
風に聞いたお話。

仕事にも暮らしにも、人を愛す
ることにも疲れて、
何も信じることができず、自分
さえ信じることができず、
すべての希望を失い、立ち上が
る元気もなくし、

悲しみだけを抱えて、絶望の谷
底を眺めていた僕に、
風がそっと、囁いてくれた物語。

「いつだったか・・・」優しいひとに

2023年06月28日 13時00分20秒 | owarai
 
 
 
いつだったか、優しい人に
語って聞かせたことがあった。
十年以上も前の、男らしい人と
の恋愛の思い出。

「失恋物語」は
すでに、水彩絵の具で描かれた
淡い風景画のようになって、そ
の絵にぴたりと合った額縁が
はまっていた。

過去にわたしが抱いた激情は、
優しい人に話すたびに角が取れ、
いつのまにか、手のひらに乗る
ほどの丸い化石になっていた。

わたしはときどきその石を膝の
上に置き、両方の手のひらで包
んで、温めながら、独りぼっち
の肌寒い夜をやり過ごしていた
のだった。

「そこまで思い詰めて、死のう
とするなんて、僕にはできない
だろうな。

でもそこまで誰かを思えるとい
うことが、僕には羨ましような、
でも怖いような気がする」
そう言ったあとで、優しい人は
わたしの顔を見て、微笑んだ。

哀しそうな笑顔だった。
「僕のためには、死んだりでき
ないでしょう?」
「わたしは柔らかな笑顔を作っ
て、言った。
「うん、できない」
だって、わたしはすでに、あなた
に殺され続けているのだもの。

死にたくても、死にようがない
じゃないの。底抜けに明るく、
そう言い放ってみたかった。

けれど、わたしは言えなかった。
どんなに面白おかしく、冗談に
言ってみても、その瞬間に、
悲しい現実がわたしに、突き
刺さってくるだけだとわかって
いたから・・・・・。

君よ、散財にためらうなかれ。君の十銭で浅草が建つ。

2023年06月28日 11時55分24秒 | owarai
 
 
 
1923年、
関東大震災後の浅草には、
そんな看板が立てられた
という。

それから驚くべき速さを
もって、東京は世界規模の
大都市となった。
働いて、稼いで、そしてつ
かう。
そんな十銭たちが経済を回し、
東京は復興していったのだ。
あの時の看板は、今でも正しい。

土地も資源もない国は、
お金で生きていこうじゃないか。
日本人よ、散財にためらうな
かれ。

君のお金で
国が建つ。


※新コロナ・ウイルス発生後
の社会について。
何を発言するにもデリケート
だ。いたずらに希望を語らず
とも、僕らには偉大な先輩が
先人でいるではないか。
その真実を提示することこそ、
今やるべきことではないか。

「カレシはセックスが上手」

2023年06月28日 11時54分58秒 | owarai

 

ある女性が「カレシは背が高いの」 
というときは標準の身長から考え 
て、「大体170センチ以上かなー 
?」思い浮かべることができる。 

そこに共通の基準があるからだ。 
イケメンというルックスだって、 
もっと抽象的な優しさだって、 
大体のことは想像がつく。それ 
は皆にとってオープンとなって 
いる基準があるからだ。 

古いがキムタクがイケメンだっ 
たというのは周知の事実だし、 
ヨン様のように優しい人がいい、 
と言えば「ああいう優しさね」 
と納得できる。 

ところが、「カレシはセックス 
が上手」と言われても、それが 
どの程度の上手さで具体的に何 
を指すのかは、よくわからない。 
大体カレシのセックスを自慢す 
る女なんか、見たことないし、 

もしも存在したとしても根掘り 
葉掘り聞くわけにはいかない。 
勝手に想像を膨らませるしかな 
いのだ。 

でもその想像だって自分の中の 
経験値による物差しが基準とな 
る。 

だから、もしも「カレシはセッ 
クスが上手」と三十歳のA子 
さんがのたまったとき、五人 
の同い年の女友達が「ふうん 
」と聞いたとしても、それぞ 
て頭の中で想像している「上 
手」は皆全然違うことになる。 

一人は「サイズが大きいのね」 
と思っているかもしれないし、 
「テクニシャンなのね」と勝 
手に四十八手を想像している 
かもしれないし、 

「手先が器用なのかしら?」 
と考える人もいるだろう。 
その物差しもすべて、その 
女性が培ってきた経験による 
ものなのだ。 

三十人以上経験した女性なら、 
あんなこともこんなことも考 
えて「上手」ということをと 
らえるだろう。 

でももし一人の男性しか知ら 
なければ、それが基準にとな 
ってしまう。そもそも自分の 
カレシが上手か下手かもわか 
らないかもしれない。 

女友達が酒のさかなに「実は 
ね・・・・」という前置きの 
後に吐露する話しで多いのが、 
この「基準」が変わったとい 
う告白。 

柔らかく表現するなら「やっと 
目覚めた」という話しである。 

例えば、二十代のときに長い 
付き合いをしていた同い年のカ 
レシとのセックスがずっと 
「スタンダード」だと思ってい 
た女性が、たまたま三十代にな 
って年上の男性とひょんなこと 
からエッチをしてしまったとす 
る。 

それがもうびっくりするくらい 
良くて、「セックスってこんな 
イイものだったの!」と開眼し 
てしまうという経験。この手 
の話しは負け犬からよく聞く。 

多分、勝ち犬ならば、その自 
分が勝手に誤解していたスタ 
ンダードの同い年のカレシと 
そのまま結婚しているだろう。 

そして、永遠に目覚めること 
なく、その夫とのセックスが 
基準だと思って余生を生きる 
のである。 

ところが目覚めちゃった負け 
犬はいまさら同い年のカレシ 
とのあっさりしたセックスで 
は満足できなくなる。 

果たして、女にとってどちらが 
幸せなのであろうか?