クズラのブログ

日頃の農作業や社会活動、そして両親の介護などを綴ります(22年1月記)

母がショートステイから帰り、父母2人の介護が始まりました

2022-03-23 | 介護

↑ 田舎に大根と人参の種を蒔いてみました。雨の後の3/19、大根の芽が出ていました。3日後には人参の芽も出ていました。

 3月7日から、腰を打撲して歩けなくなった母と、要介護3の父を介護する生活が始まりました。体調が万全でない妻もよく手伝ってくれて、2人で2人の介護をする生活が始まりました。

 3月10日から22日まで、母は介護施設のショートステイを利用することができ、父を介護するだけでよかったので、この少し余裕のある時間で、共産党でこれまで任されていた仕事を減らしてもらう折衝などをすることもできました。

 22日、母がショートステイから田舎の家に帰ってきました。少し元気を取り戻しているように見えました。母は車いすで玄関まで送ってもらい、玄関からは四つん這いになって自分で自室に入りました。やがて父もデイサービスから帰ってきました。父が寝るまでは、母の世話は妻が(妻は以前、障がい者施設で働いていた)、父の世話は僕がして、夜は、母のおしめ交換のやり方を実地で妻から教えてもらいました。

 23日、田舎の家にいた妻が自宅に帰り、夕方には父がデイサービスから田舎の家に帰り、今は 僕が2人の介護をしています。母のおしめ交換は、うまく行く時と行かない時があります。父はほぼ自分で交換します。ゴミ箱は、使ったおしめですぐ一杯になります。

知らぬ間に母が山に入り、腰を打って担架で救出されました

2022-03-14 | 介護

↑担架に固定されている母

(この記事は、3月11日投稿の「父が新型コロナの濃厚接触者になりました」の続編です)

 3月6日、母は、新型コロナの濃厚接触者となった父(=感染はしていなかった)に近づかないようにと、僕たちからは見えないところで、家の裏の柚子の木から落ちた柚子を拾おうとしていました。

 母は、元々「もったいない教」の信者だったのですが、昨年の暮れにはその信仰が柚子に向かい、柚子の木から落ちた柚子も拾って食べるようになりました(前年までは、落ちた柚子は放っておいて土に還らせていたのですが)。僕は、母が落ちた柚子を食べている様子を見て、「ようやるわ」と冷めた目で見ていたのですが、実は1週間ほど前、そんな柚子を食べてみました。すると、落ちた柚子もまだ食べられるのです! 酸味が弱くなっていて、ほのかに甘みも感じられました。

 この日は、ときどき強い風が吹いたので、家の裏の柚子の木から、柚子が揺れ落ちていました。しかし、僕がそれを先に拾っていたのです(母さんごめん)。最近視野が狭くなってきている母は、柚子の木の近くでは落ちた柚子を見つけることができず、手押し車を押しながら、柚子を探して山の方に入っていったそうです。古い山道を登って行くと、手押し車は押しにくくなり、途中からは手押し車を引っぱって登ったそうです(根性のある人!)。近ごろ脚が弱ってきている母は、引っぱるのがきつくなりました。でも、ここまで来たんだから、上の砂防ダム(10年ほど前に設置されたものです)を見ておこうという気になったみたいで、手押し車をそこに置いて、登って行ったそうです。砂防ダムに近づくと更に勾配がきつくなりましたが、母は後ろ向きになってお尻を地面につけ、足のかかとで地面を押しながら、少~しずつ登って行ったそうです。砂防ダムに着いてみると、期待に反して、水は全く溜まっていませんでした。ダムの中央に進み出すと、急に下り坂になり、そこに落ちて、腰を打ち、痛くて痛くてほとんど動けなくなったそうです。そこで、「おーい」「おーい」と大きな声で助けを呼んでいました。辺りは最初明るかったのですが、夕方から夜になり、暗くなっていきました。

 僕は、夕飯にご飯と人参グラッセと残り物のおかずなどを用意して、まず父の部屋に運んで食べてもらいました。それが午後6時半ごろでした。次に母の部屋に運んだのですが、母は部屋に戻っていませんでした。これまでは父も母もそろってから食べ始めていましたが、濃厚接触問題で別々の部屋で食べるようになりました。たまに母は、やりかけた片づけ事などを済ませて少し遅れて戻って食べ始めることもありました。この日は、母の様子がつかめなかったのですが、そのうち帰って来ると思い、僕も夕ご飯を食べました。その後、7時半ごろになると心配になり、家の中や周辺などを探して回りました。柚子の木の辺りとか、たまに行くことのある場所など思いつくところを何度か回り、もう探すところがなくなりました。

 午後9時ごろ、近所のKさんに相談の電話をすると、すぐにご夫婦で来てくれ、「早う言ってよ」と言いながらいっしょに探してくれ、その後、組内の6軒がすべて出てくれ、いっしょに探してくれました。僕は、我が家にいる妻に電話で状況を報告する中で、以前に母が裏山にウドを取りに行ったことがあることを知り、裏山を少し登ってみました。すると、母の手押し車を発見! 僕はその周辺を探し始めました。若手のFさんも裏山に来てくれ、FさんとKさんは森のようになっている山道を登って行きました。後で聴くと、若手のFさんには「おーい、おーい」という声が聞こえたそうです。20~30分後、「見つけたぞー」という声がして、母が発見されたことがわかりました。午後10時前でした。

←発見された母(腰が痛くて動けない状態)

 応援に駆けつけてくれた町内会長さんが消防署に電話してくれていて、発見されて間もなく救急車が着いて、救急隊員さんが登ってきてくれました。隊員さんたちは、母を板状の担架に載せて4角を持ち、他の隊員さんは草などをかき分けながら、途中で2回休憩して、救急車が待つ道まで母を下ろしてくれました。そして、家族である僕が救急車に同乗して出発。隊員さんが最初に連絡を取った地元の病院からは、受け入れができないと言われ、次に連絡を取った国立医療センターで受け入れができると言われてその病院に向かいました。12時前に病院に着いて、僕はそこで妻と合流。母はそこでCTを撮ってもらい、当直のドクターの受診があり、骨折は無いようだが、明日専門医が診て連絡すると言われました。母を自家用車に乗せて、いったん自宅に寄り、田舎の家に着いたのは翌日の明け方に近いころでした。

 翌日(7日)、病院の専門医さんから電話があり、微量の内出血があるが骨折はないと言われましたが、母は歩けない状態でした。
 その後、母は介護施設でショートステイを利用しながら、回復を待つことになりました。

(最近は、時間のゆとりがないのと、自分の文章作成能力が衰退してきたのとで、でき事とブログ掲載がずれてしまいました)

父が新型コロナの濃厚接触者になりました

2022-03-11 | 介護
←歩行訓練中の父です。

 3月1日、父の通う介護施設で新型コロナ感染者が発見されました。父は送迎の車に感染者と同乗していて、濃厚接触者になったと、施設から連絡がありました。施設から帰った父には、ほぼ自分の部屋だけで過ごしてもらいました。僕はマスクをして、父が触ったところをアルコールなどで消毒したり、父の部屋に食事を運んで一人で食べてもらったりしました。また、心臓の弱い母を感染から守るため、母にもマスクをしてもらい、手洗いに気を付けながら、母の部屋に食事を運んで一人で食べてもらいました。僕は父の部屋と母の部屋の中間の部屋で、一人で食事を摂りました。こうして、親子3人だけの半隔離の生活、来客を断り外出を自粛するという「おこもり」の生活が始まりました。父も母も、よく理解して耐えてくれました。

 3月3日の朝、介護施設の職員さんが2人で田舎の家に来られて、父から検査用の唾液を採取して帰りました。

 3月4日の午前、介護施設から電話があり、検査の結果その施設の濃厚接触者全員が陰性だったと言われました。しかし、元看護師の妻や娘は、「唾液の検査でいいのかなあ?」、「1回の検査だけで正確に分かるのかなあ?」などと、まだ安心できないと言います。結局、6日の日曜日まで、半隔離とおこもりの生活を続けることにしました。

 3月5日、介護施設は父を受け入れるというので、父にはデイサービスに行ってもらいました。僕の介護負担が大きくなっていることもあるので、妻も賛成してくれました。施設から帰った父に聞くと、利用者はいつもより少なくて、新型コロナの感染を話題にする人はいなかったそうです。

 3月6日、日曜日、空は曇って風が吹いていました。母には、父に近づかないようにしてもらい、父は歩行器を押して、午前に1回庭を歩き、午後にも1回歩きました。田舎の家から県道までの道は下り坂で、最近は体力が衰えたので、この坂道を歩行することはほぼ無くなっていましたが、午後の父は、やや体調がよかったのでしょう、その坂道を歩行器で下って行きました。僕は心配になって「この辺で戻ろうや」と言うと、父も「分かった」と言って戻り始めました。坂道を少し上ったのですが、次第に体力がなくなって前に進まなくなりました。僕は、父に歩行器の腰掛に後ろ向きに座ってもらい、転倒しないように気を付けながら、上り坂を歩行器を押し、父は後ろ向きに座った状態で地面を蹴って、坂道を少しずつ上り、庭に戻ることができました。

 このとき母は、僕たちからは見えないところで、ある行動を始めていました。

(この続きは、後日のブログで書きます)

「帰るところが分からんようになった」母

2022-03-01 | 介護
←庭に咲いた水仙。

 2月19日(土)、母は週に1回、木曜日にデイサービスを利用していましたが、体がえらいので止めたいといいます。最近ご飯の量が少し減りました(以前から多目だったので、平均的な量になったのかも)。また、衣類の着脱がしんどいと言って、外出しない日は風呂に入りません(本来は清潔好きの母ですが)。

 21日(月)、僕の息子が妻(息子の母)といっしょに田舎に来て、母(息子の祖母)に鍼を打ってくれました。妻は、母の髪にドライシャンプーをして、体を清拭して着替えさせてくれましたが、僕は昼間は自宅に帰っていたので立ち会えていません。その後、少し母の顔色が良くなってきました。

 22日(火)、電話で妻と相談し、デイサービスで入浴介助を利用することを母に提案しました。母は、自分の入浴は衣類の着脱に手がかかりすぎるので施設のスタッフでは無理だろうなどと躊躇していましたが、試しに利用してみることになりました。

 22日の夜、母は花を切ってくると言って畑の方に出かけていましたが、しばらくして田舎の家の灯りのついた部屋のガラス戸をドンドンと叩きます。その部屋は玄関のすぐ隣の部屋です。僕は玄関から出て「どうしたん?」と言うと、母は「暗ろうて帰るところが分からんようになった」と言います。暗くても家に帰れなくなったということは、これまで一度もありません。

 23日(水)、僕は自宅に帰って妻と相談。母が夜に一人で田舎に居るのは危ないかもしれないと考え、父がショートステイのときも、夜は母一人にさせないことにしました。妻には毎月数日は田舎に泊まってもらい、僕も田舎に泊まる日を増やすことになります。23日は妻も僕といっしょに田舎に戻ってくれました。

 これからは、このブログを書く時間がなくなるかもしれません。

 24日(木)、妻が母のデイサービス利用の準備をして(僕も準備の要点を聴きながら)、僕は父のショートステイ利用の準備をして、2人を送り出しました。この日は、僕は自宅に帰っていて、デイサービスから帰ってきた母の様子を妻からの電話で聞き、母がずいぶん喜んでいて、入浴付きのデイサービスをもっと利用したいと言っていると言うようになったということでした。

(3月2日追加)
 2月27日、自宅の掲示板に「プーチンは侵略戦争やめろ!」という訴えを貼り出しました。