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杉内、仰天交渉!終身雇用迫る

2011年12月10日 | オヤジのひとり言

杉内、仰天交渉!終身雇用迫る 

巨人は、ソフトバンクからFA宣言した杉内俊哉投手と都内で初交渉を行った。

原沢敦球団代表兼GMは、4年総額20億円の好条件を提示したが、

杉内側は「残りの野球人生全部を受け止めて」と“終身雇用”を要望。

入団即決には至らなかった。

一方、横浜からFA宣言した村田修一内野手は横浜市内でDeNAと2度目の交渉を行った後、

巨人移籍を表明。こちらのFA交渉は成功裏に終わった。

 想像を超えていた。過去のFA交渉で清原、工藤ら大物を口説き落としてきた巨人のフロント陣。

4年総額20億円という最高の条件で、杉内と代理人の弁護士と向き合った。


 ところが、杉内サイドの要求は、まさに想定外。

残りの野球人生を巨人で全うさせることだった。

4年では足りないと熱弁した。

 「杉内には45歳までやって、250勝するという目標がある。

この4年間で終わるよ、というのは忍びない。

野球人生を巨人で全うできる環境、そういう覚悟がわかるように示してほしい」と 大胆要求だ。

金銭面には「非常に光栄なオファーを頂いた」と満足。

ソフトバンクに不信を持つきっかけとなった「年俸変動制」ではなく、固定制であったことも評価。

だが、

契約期間には不満が残ったようだ。

 「本人はここで権利を行使するからには、残りの野球人生全てを巨人に捧げるつもりでいる」と杉内の気持ちを代弁。

さすがの原沢代表も「きょう初めて伺ったことなので分かりません。

何かしら答えを出して、次のお話ではお示ししなければならないでしょう」と即答はできなかった。

 交渉中には原監督が生電話。「悔いのない決断をしてほしい」と自らの思いを杉内に伝えた。

それでも、杉内は「すごくいい評価を頂いた」と話す一方、

「移籍となれば、愛着がある福岡を捨てるということなので、それがネックではある」と即断はしなかった。

弁護士によれば、あす以降にソフトバンクとの残留交渉を行うが、

巨人との今後の交渉には本人は同席しない。

杉内側は年内に答えを出す意向で、原沢代表は「話し合っていくしかない」と厳しい表情を浮かべた。

巨人かソフトバンクか。杉内の決断に注目が集まる。

FA慣れしている巨人もビックリの“終身保障”を希望した杉内。

福岡への愛着を口にするなど、

意外と交渉上手のようですなぁ~・・しかし、

 

イマドキの若者らしい安定路線志向ですなぁ~ 

 

 

 


草庵茶室の原型

2011年12月10日 | オヤジのひとり言

12/10

 

千年の古都のタイムトンネル 

京都の歴史 その弐百六拾壱

 

慈照寺の建築物のうち、東求堂と 銀閣は、

 

その美しさだけではなく、

 

建築様式の面でも特筆するものがあります。

 

持仏堂の東求堂は書院造りの原型とも云われ、

 

入母屋造り、桧皮葺の単層建築です。

 

内部は四畳・四畳半、六畳の小間・仏間からなり、

 

東北の四畳半の間は同仁斉と呼ばれている。

 

ここには造営された当初から、

 

いろり・違い棚などがあったことが知られ、

 

草庵茶室の原型とされている。

 

一方で書院とも記されており、

 

文台が置かれ、硯や筆・筆架・墨のほか多くの漢籍も持ち込まれ、

 

義政は書斎としても使っていたようです。

 

今回はここまで・・   

 

続きは次回に・・    

 

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 必ずや立ち上がってくれると・信じてる。

 

5年10年掛かるかも知れないけれど・

 

ずっと・ずっと・応援してる・

 

みんなでがんばろう!! 日本

 

 

銀閣寺を創建したのは室町幕府8代将軍の足利義政です。

義政は祖父である足利義満が建てた金閣寺を参考に、

京都東山・大文字山の麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めました。

義政は建築を始めた翌年(1483年)にはここに移り住み、

別荘としてだけでなく表向きの仕事にも使っていました。

金閣寺ほどの規模はありませんが、

銀閣寺にも会所、常御所(つねのごしょ)などの大規模な建物が建ち並んでいました。

しかし、現存するのは銀閣(観音殿)と東求堂(とうぐどう)だけです。

義政は東山山荘の完成を待たず1490年1月に死去しました。

義政の菩提を弔うため東山殿は寺に改められ、

相国寺の末寺として慈照寺が創建されました。

銀閣寺は戦国末期に前関白の近衛前久の別荘にもなったこともありましたが、

前久の死後再び相国寺の末寺となりました。