秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡した後、家康が八王子の再建を託したのが大久保長安。八王子市街の西方・小門(おかど)町にある産千代稲荷神社(うぶちよいなりじんじゃ)は、長安が陣屋を構えた跡地と伝わります。
この神社は、長安が陣屋を構えた際に、五穀豊穣・殖産興業・陣屋守護を祈願し倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀り、稲荷社を創建したのが起源とのこと。1590年頃と言われていますので、家康の関東入国の直後ですね。家康も関東の西の固めとして、八王子の整備を重要視して急いだのでしょう。
現在は、村の社といった雰囲気でこじんまりとしています。夕暮れ時だったので、なおさらひっそりとした感じでした。
鳥居をくぐって、すぐ右手に陣屋で使ったとされる井戸が残っています。社務所の横ですが、案内が出ているのですぐにわかります。長安もこの井戸の水を飲んだのでしょうかね?
社殿の左手は少し開けたスペースになっています。そこに客殿を兼ねた大久保長安記念館があります。どうもつい最近出来上がったようです。長安に関する資料の展示をしているようですが、この日は、なんとなく入りにくい雰囲気だったので(そもそも開館しているの?)、また後日、訪ねてみようと思います。
さて、八王子の礎を築いた功労者・大久保長安。どんな人物だったのか?
・1545(天文14)年生まれ、1613(慶長18)年死去。
・もともとは猿楽師の出身と言われる
・武田氏に仕え、武田氏滅亡後、家康に転仕。
・石見銀山や佐渡金山の代官・奉行として敏腕を振るった。
・家康の六男・松平忠輝の家老を務めた。
・一里塚の設置など、各街道の整備にも参与した。
・無類の女好き、そして派手好みだったとも…。
といった感じで、戦場を駆け回る武将というよりも、行政官ですね。その政治的才覚と実績で、徳川家臣団の中でもメキメキと頭角をあらわします。婚姻などで大久保閥を形成、絶大な権勢を誇り、「天下の総代官」と称されました。とくに石見銀山や佐渡金山とともに語られることが多い人物ですよね。
八王子関連では、街道や宿場の整備、八王子千人同心の創設があげられます。八王子城が落城した後の、新生・八王子の建設の元締めだったわけですね。地元の書店では、長安に関する書籍も並んでいるので、早い機会に読んでみようと思います。
しかし…。
長安の死後、生前に不正があったと糾弾され、息子7人は死罪となり、大久保閥を形成していた大名たちも改易などの処分にあいました。
世にいう「大久保長安事件」です。
長安の遺骸も引きずり出され磔にされたとか。そんなダークなイメージがあるため(大河ドラマ「独眼竜政宗」での描かれ方は酷かったですね)、イマイチ長安にはいい印象がなかったのですが、八王子市民になった以上、長安の冤罪を信じようではないか!と思うのでした。
この一件、ことの真相はよくわかりませんが、どうも幕府内の派閥争いのようですね。そのあたりは、また別の機会に調べてみようと思います。