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八王子城攻略の第2回目です。前回は御主殿へ到達するまででした。いよいよ城の中枢の攻略にかかります。
前回はこちら→ 八王子城攻略記(1)-御主殿へ向けて、いざ出陣-
【御主殿跡全景】
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当時の門をイメージして作られた冠木門を潜ると、広大な御主殿跡が広がっています。御主殿は城主・北条氏照が生活した区域と考えられます。ここの主要遺構(発掘後、埋め戻されていて、現在は調査をもとに復元・整備されています)は、正面の御主殿とその奥にある会所。
【御主殿跡の遺構分布図】
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現地の案内図に主要遺構を大雑把に書き入れてみると、こんな感じになります。
【御主殿跡】
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門を潜ってまず正面に位置するのが、氏照の居館である御主殿。平屋建てで広さは15間半×10間(29.4メートル×19.8メートル)、屋根は板葺きか檜皮葺きだったようです。氏照はここで政務を執り行ったとのこと。発掘された礎石が復元されて配置されています。調査後、礎石は埋め戻されたとのことなので、オリジナルではないようです。
【会所】
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主殿を右手に奥へ進むと会所があります。ここは宴会などを行った建物と考えられるそうです。広さは11間×6間(20.9メートル×13.3メートル)。御主殿と同様、平屋建てをイメージしている模様。御主殿とは廊下でつながっていたようです。
【会所の間取り】
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調査をもとに床の間取りが復元されています。
【庭園】
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会所の北側に石を配した庭園がありました。居館地区の北側には本丸をはじめ曲輪が連なる尾根があります。この山を借景とした枯山水の庭園といったところでしょうか。現在は鬱蒼と木が生い茂っているため、脳内でイメージをフル稼働させましょう。
氏照は教養も高い人物だったようなので、この庭園を眺めながら風流な宴が開かれたのでしょう。そう言えば、何となく越前朝倉氏の一乗谷を思い起こさせます(一乗谷に行ったのは、もう25年以上前のこと…)。
【会所から眺める庭園】
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「武蔵名勝図会」によると、氏照は横笛の名手で大黒と名付けられた立派な笛を持っていたとのこと。
「陸奥守氏照は横笛の上手にて、在城閑暇の時みずから横笛を吹き臣下に乱舞致させ興を催されける…」
この大黒は、「金の高彫りをすえて、その形あるゆえに斯くは名付るところなり。この横笛は天下の名器にて、これに対する名管は神祖大君(家康)御秘蔵の獅子と号する名管なり。このニ管を天下の名器とす。」
残念ながら、天下の名器・大黒も落城の際、炎の中で城と運命を共にしたとのこと。ちなみに家康秘蔵の名管・獅子も1605(慶長10)年の駿府城の火事で焼失したとのことです。
【敷石通路】
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会所の南側に建物に沿って、幅4.2メートル、長さ19.2メートルに渡り石が敷き詰められています。何らかの儀式に使われたと推測されています。通路には溝が2本ありますが、建物側の溝は会所の雨落溝(あまおちみぞ)と考えられ、もう1本は用途不明とのこと。
【舶載磁器集中出土地域】
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会所の西側に隣接する東西約7.5メートル、南北約4メートルの区域から、舶載磁器(主に中国で焼かれた磁器)の破片が34,000点も出土しました。
【出土した舶載磁器(現地の案内プレートより)】
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この遺構が何に使われたか不明と現地の案内プレートにはありましたが、同行のW氏曰く、
「台所じゃないの?」
なるほど!
会所(宴会所)に隣接していることを考えたら、そうかもしれませんね。思わず納得してしまいましたが、やはり素人考えでしょうか?
【ベネチアのレースガラス器】
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実は私が海外旅行したのはたった1度。もう10数年前です。その時に行ったのがイタリア。ローマ、フィレンツェ、ミラノ、そしてヴェネチア。何といってもヴェネチアには魅了されてしまいました。ツアーだったのですが、自由時間に出歩いていたら思いっきり迷ってしまい、それがかえって迷宮都市・ヴェネチアを垣間見れて良い思い出になっています。今でもヴェネチアと聞くととっさに反応してしまうのです…。
で、突然のこの長い前振りは何かと言うと…。
八王子城からはヴェネチアのレースガラスの器の破片も出土しているとか。これは国内の城ではここだけ。う~ん、すごいぜ。氏照が求めて直接手に入れたものか、それとも信長や秀吉が、北条氏懐柔のために贈ってきたものなのか…。
いずれにしても戦国時代のヴェネチアのガラス器が八王子に。やっぱりすごいぜ。
(写真はパンフレットから転載)
【城山川】
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さて、居館地区もほぼ制圧した我々、最後に目指すのは御主殿の滝。ところが、滝へ降りる道がわかりません。仕方なく御主殿を後にして、冠木門を出て曳橋を渡り大手門外へ戻って、そこから城山川沿いを江戸時代に出来た林道を歩いて滝を目指します。
林道は先程通った大手道と城山川を挟んで平行に続き、曳橋の下を通り、右手に御主殿のある高台を見上げるような形で滝へと向かいます。
【湧き水】
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林道の途中、地面からの湧き水を発見。山城は水の確保が最重要課題のひとつだと思いますが、城山川をはじめ、水には恵まれた場所だったのでしょう。
【御主殿の滝1】
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居館地区攻略の最後は、こちら御主殿の滝。御主殿から下ってすぐの位置にあり、滝の高さは3メートルくらいでしょうか。想像していたより低い滝でした。
そしてここ、知る人ぞ知る恐怖の心霊スポットとも言われているとかいないとか。
なぜここが心霊スポットと言われているのか?
それは落城時の悲劇の言い伝えにあります。城が落ちると、籠城した婦女子がここで自害して滝に身を投じ、その血で城山川は三日三晩、赤く染まったとか。
さらにこの辺りの言い伝えでは、
城山川の水で米を炊くと赤く染まった
落城の日には、あずきの汁で米を炊き、あかまんま(赤飯)の習わしを続けてきた
自刃した者たちは蛭となり赤い城山川を泳いでいった
城山川の蛭は村人に吸い付かないが、越後など北国出身のものには吸い付いて歩けなくしてしまう(城を攻めたのが越後の上杉勢、加賀の前田勢だったため)
などなど。
言い伝えはそれとして、この地で落城時に悲劇があったのは多分、事実でしょう。御主殿からすぐ下の滝へと追い詰められ、ここで自害したり討ち死にした武将や婦女子も多かったのかもしれません。そういう歴史的な状況を知った以上、ここを訪れるときには、軽く手を合わせる気持ちを持ってもよいのでは、と思います。
もちろん、私も手を合わせてきました。
合掌。
【御主殿の滝2】
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「武蔵名勝図会」には
「御守殿淵 落城のとき本丸大奥の婦人、ここの川へ入水せし処ゆえ、この名を唱う。いまはただ谷川の流れありて、淵なし」
という記述があります。御主殿の滝のことでしょうか。
そんなわけで、御主殿の滝をもって居館地区は制圧完了。
いよいよ、本丸を目指して要害地区へとチャレンジするのであります。