さて甲州街道をテクテクと歩いて布田五宿に到着。
まずは布田五宿の概要を調べてみました。
布田五宿とは、江戸に近い方から国領・下布田・上布田・下石原・上石原の5つの宿場を総称した呼び方です。江戸から3つ目の宿場にあたります。この5つの宿場が6日交代で宿駅業務を担当していました。高井戸宿と同様、合宿(あいじゅく)です。宿場といいながら、その内実は農村と大差なかったようです。
【国領宿】
・本陣…なし
・脇本陣…なし
・旅籠屋…1軒
・宿場の家数…61軒
【下布田宿】
・本陣…なし
・脇本陣…なし
・旅籠屋…3軒
・宿場の家数…95軒
【上布田宿】
・本陣…なし
・脇本陣…なし
・旅籠屋…1軒
・宿場の家数…37軒※
・宿場の人口…173人※
※隣村の小島分村(加宿)を含む
【下石原宿】
・本陣…なし
・脇本陣…なし
・旅籠屋…なし
・宿場の家数…91軒
・宿場の人口…453人
【上石原宿】
・本陣…なし
・脇本陣…なし
・旅籠屋…4軒
・宿場の家数…73軒
では、布田五宿めぐりに出発!
【国領神社】
まず向かったのは国領神社。
国道20号線沿いなので、旧街道からは少々北側へ入ります。
国領宿の鎮守です。もとは多摩川の近くにあったそうですが、度重なる洪水を避けてこの地に移ったとか。春の藤は「千年藤」と呼ばれ見事なものだとか。今年、見に来たのですが、すでに終わっていたのは、以前にブログに書いた通りです。
【常性寺】
国領神社から再び旧街道へ向かうべく南へ下ると、常性寺。
鎌倉時代からのお寺だそうですが、江戸時代、成田山から不動尊を勧請し、調布のお不動様として地元の人々の信仰を集めてきました。
【常性寺・馬頭観音像】
境内にある馬頭観音像です。案内板によると、もともとは「すてば」(馬の埋葬地)に馬の供養のために建てられたものを、道路拡張で境内に移したとのこと。建立されたのは1824(文政7)年だそうです。馬による物品輸送の道だった甲州街道を物語る史跡ですね。
【常性寺・敷石の碑】
幕末、幕府から長州征伐の軍用金5000両の献金を求められた布田五宿は、その見返りに飯盛旅籠の設置を公式に認められました。それ以前からも非公認の飯盛旅籠は存在していたようですが…。また明治の初めには貸座敷(女郎屋)も置かれました。布田五宿は明治以降、近隣の遊興的な場所へと変化していったようです。
この敷石の碑は、明治11年に常性寺に敷石を寄進した貸座敷業者たちの名前が記されています。
【下布田宿辺り1】
常性寺を出て、西へと甲州街道を進みます。このあたりがちょうど下布田宿にあたるようです。
【下布田宿辺り2】
布田のバス停は、下布田宿と上布田宿の境界あたりでしょうか。それを示すものは何も残っていないので、推測しながら歩きます。
【蓮慶寺】
日蓮宗のお寺で、開基は小田原北条氏に仕えた布田領主・中将出羽守とのこと。徳川将軍家とのつながりも深く、山門はドドーンと葵の御紋付です。
【蓮慶寺・赤門】
3代将軍家光から赤門の設置を許された蓮慶寺。その一部が山門の脇に保存されています。
【蓮慶寺・本堂】
立派な本堂です。昭和42年の改修とのこと。
お寺には日蓮上人の坐像があるそうです。台座に天文19(1550)年と墨書されているので、制作された年まではっきりしているのだとか。見てみたいけど、公開されているのかはわかりませんでした。
【布多天神社参道】
次に目指すは布多天神社。旧甲州街道から天神通り商店街を北へ数百メートル歩きます。この商店街の通りが参道なわけです。この商店街の道端には鬼太郎ファミリーがここそこに。それを見つけながら歩くのも楽しいものです。もっとも、地元の人には見慣れた風景なのでしょうね。
そのまま国道20号線を渡ると布多天神社。詳しくは2015年6月14日の記事を合わせて参照していただければ、ということで。
【布多天神社】
布多天神社は創建が平安時代までさかのぼる多摩有数の古社で、布田五宿の総鎮守として信仰されてきました。江戸名所図会にも絵入りで紹介されています。
【調布駅近辺】
天神通り商店街から調布駅前のパルコあたりが、この辺りでもっとも賑やかな一画らしいです。街道はパルコの北側を西へ延びています。
【小島の一里塚】
パルコの北側を進んでゆくと、ほどなく一里塚跡の跡です。仙川の一里塚の次、江戸から6番目になります。もちろん当時の面影は何もなく、記念碑が残っているだけです。
この辺りは、上布田宿と下石原宿の中間地点で、小島分村と呼ばれていました。小島分村は上布田宿の加宿(宿駅業務を手伝いなさい…ってことですね)とされていました。
【小島の一里塚近辺の甲州街道】
調布駅前のパルコからはそんなに離れていませんが、人通りはめっきり減ってしまいます。車の通行量は相変わらず多いのですが、なんとなく雰囲気としてはのどかな感じです。
【下石原宿辺り1】
小島の一里塚からすぐ、下石原宿に入ります。もちろん何か案内板があるわけではないのですが、地名がきっちり残っています。
【下石原宿辺り2】
さらに進むと、古い石碑が街道沿いにあります。天明3(1783)年と側面に刻まれていますが、ここにもきっちりと「下石原宿」とあります。ちなみに何の石碑なのかな?
【上石原宿辺り1】
布田五宿のいちばん西側、上石原宿に入りました。完全にのどかな甲州街道に戻りました。
【上石原宿辺り2】
数珠つなぎに連なる布田の5つの宿を合をわせても小さな宿場だったことから、多くの旅人はここを通過してしまったようです。
【上石原宿辺り3】
おお、ナイスなネーミング。布田五宿、かつての心意気を示す店名に乾杯!
ちなみにお店は開店前のためシャッターが下りていました。残念でした。
【西光寺】
天台宗のお寺です。もともとは修験道の寺院だったとも言われていますが、そのあたりよくわからないようです。天台宗にあらためたのは江戸時代になってからだとか。
【西光寺・仁王門】
調布市内で唯一残っている仁王門。寺の記録によると宝永年間(1700年初頭)に建てられたようです。こんな立派な仁王門を持つお寺ですから、布田五宿の人たちの信仰もさぞ厚かったのだろうと推察。
【西光寺・近藤勇坐像】
上石原宿と言えば、知る人ぞ知る、かの新撰組局長・近藤勇の出身地です。山門の脇に、ドーンと近藤局長が鎮座しています。
慶応4(1868)年3月、甲陽鎮撫隊を率いて甲州街道を甲府に向かった近藤は、この西光寺で休憩したそうです。その時は幕府から大名格の身分を与えられていたそうですから、まさに故郷に錦を飾ったというところですね。その後の悲運はさておき、近藤としても万感の想いだったのではないでしょうか。
【上石原宿名主・中村家跡1】
西光寺と道路を挟んで真向かいの駐車場は、上石原宿の名主を務めた中村家の跡です。
甲陽鎮撫隊を率いて西光寺に入った近藤勇は、ここ、中村家で歓待を受けたそうです。
【上石原宿名主・中村家跡2】
駐車場のフェンスの上に案内板が掛かっていますが、文字がかすれて、う~ん、読みにくい。
新撰組関連の史跡なら、もっと整備してアピールすればいいのに…と思うのですが、調布市としてはそこまで乗り気ではないのでしょうか?
そんなところで布田五宿めぐりも無事終了。
あとは、美味しいお酒を飲みながら、今日の反省と次回の道中に想いを馳せるのみ…。
次回はきっと、布田五宿から府中まで歩くことになりそうです…なんて書いているこの時点で、すでに府中まで歩き終わっているのでした。
その報告は、また近日中に。
長らくのお付き合い、ありがとうございました。
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