歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈




深大寺参拝を終えて再びバスで調布駅へ戻り、それではいざ、西へ!
前回は西光寺まで歩いたので、調布駅から一駅だけ電車に乗り、西調布駅から歩きます。

【西調布駅】


西調布駅は、下石原宿と上石原宿のちょうど中間あたりに位置するようです。ここから上石原宿を抜けて、一路、府中宿を目指します。

【上石原宿付近】


雰囲気のある邸宅。名主とか、昔からの旧家でしょうかね。

【飛田給薬師堂・行人塚】


上石原宿を出ると、飛田給。珍しい地名ですが、その昔(平安時代ころでしょうか?)、飛田さんの給田だったので飛田給、だとか。
で、飛田給駅を少し西に行ったところにあるのが、飛田給薬師堂。
仙台藩士・松前意仙が、諸国巡歴の果てにこの地に落ち着き、お堂を建て、薬師如来像を作ったのだそうです。
こじんまりとしたお堂で、中には意仙の薬師如来が安置されているようですが、確認はできませんでした。

【行人塚】


そして境内の行人塚。
意仙が入定、つまり、自らの意志で生きながらにして埋められ、即身仏になった地。意仙の入定後、村人によって築かれたという塚を、昭和になってから改修した際、ちゃんと遺骨が出てきたそうです。

【府中市へ突入】


飛田給の薬師堂を後にして、しばし歩くと府中市へ入ります。

【府中市突入直後の甲州街道】


道はあいかわらずのんびりとした雰囲気。
このまま一気に次のポイントへ。

【染屋不動尊】


次なるポイントは、ここ、染屋不動尊。
なんと、ここの阿弥陀如来は畏れ多くも重要文化財!新田義貞が鎌倉を攻める際に「陣中守護」とした、ありがたい仏像です。
残念ながら拝観はできないようでした。

【染屋不動尊・本堂】


重要文化財の阿弥陀如来を差し置いて、お堂には「不動尊」の扁額。まぁ、そもそもが染屋「不動尊」とうたっているのですから、当然と言えば当然ですが。
阿弥陀如来は境内の片隅の、小さな「宝物殿」に安置されているようです。

【謎の(?)石像】


なんかユーモラス。
神社にはそぐわない雰囲気。どちらかというとマヤやインカの遺跡から発掘されそうな石像です。それとも中国かな。

【上染屋について】


この辺りは上染屋という地名だそうです。
調布、染屋、そして少し先には白糸台という地名。この一帯は江戸時代よりもずっと前の律令時代、布を税として納めていたと言われています。歴史で習いましたよね、租庸調。覚えていますか?
その頃の名残が地名に残っているということでしょうか。

【染屋不動尊付近の甲州街道】


それでは、染屋不動尊を後にして、さらに西へと向かいましょう。

【蔵のある風景1】


染屋不動尊から白糸台、そして常久あたりを歩いていると、蔵がけっこう目に付きます。江戸時代から続く蔵なのか、それとももっと新しい時代のものなのか、その辺はよくわかりませんが、いい雰囲気です。

【蔵のある風景2】


この辺りはかつて常久村(つねひさむら)と呼ばれた地区です。もともとは多摩川の畔にあったそうですが、洪水によりこの地に移ったとか。この一帯、多摩川の洪水で移ってきた…という寺院や集落がけっこうあります。多摩川の威力、恐るべし。

【常久八幡宮】


かつての常久村の鎮守様。
甲州街道に面して縦長に奥(北の方角)へと参道が延びています。鳥居の付近は小さな公園といった感じでした。

【常久八幡宮・拝殿】


常久八幡宮については、創建された年代とか、あまり詳しいことはわからないようです。
拝殿の裏側は国道20号線、現代の甲州街道。新旧の甲州街道に挟まれた地に常久八幡宮はひっそりとたたずんでいます。

【常久八幡宮前の甲州街道】


八幡宮の前を、甲州街道は西へ続いていきますが、実は一里塚が少し南へ入ったところにあります。そんなわけで、いったん進路を南へとり一里塚を目指します。

【茶屋ならぬ酒屋でひと休み】


一里塚を目指して歩いていると、目に付いたのが「どぶろく」の幟。
呑兵衛ぞろいの同行者たちの間に、これは避けては通れまい!といった雰囲気が漂います。
そんなわけで、酒屋さんで買ったどぶろく、お店の横にまさに飲んでいってください的な休憩スペースがありまして…コップをお店からお借りして、ひと休みです。
普段、どぶろくなんて飲む機会がない私です。甘酒っぽい?ちょっと酸味?これはどう表現すればいいのかな?

【常久の一里塚】


江戸から7番目の一里塚です。立派な記念碑が建っていますが、もちろん塚そのものの痕跡はありません。
甲州街道から南へ200メートルくらいの位置です。もともとは、ここを甲州街道が通っていたのですが、江戸時代のいつの頃か、北側、私たちがずっと歩いてきたところに、道そのものが付け替えられたそうです。

【東府中駅付近】


再び北側へ戻り、府中宿へと歩を進めます。
東府中駅を過ぎると、もう府中宿は目前です。

【八幡宿付近】


この付近は八幡宿と呼ばれていました。江戸時代には大國魂神社に属していた集落でしたが、そもそもは国府八幡宮近辺に成立した村で、甲州街道が開通した時にこの地に移転したそうです。

【武蔵国府八幡宮】


その八幡宿の名のもとになった国府八幡宮。
聖武天皇の時代が創建と伝わる由緒ある神社です。現在は大國魂神社の末社とされているそうです。
甲州街道から一の鳥居をくぐり、南へ長い参道を進んでいきますと…

【国府八幡宮参道】


お、参道を京王線の線路が横切っていました。その向こうに二の鳥居が見えます。

【国府八幡宮・社殿】


長い参道の果てにたどり着いた社殿は、意外なほどにこじんまりとしていました。
周囲は森といった雰囲気。太古からの神々の息吹を感じるような、そんな場所です。

【府中宿へ到着】


国府八幡宮に参拝して、甲州街道に戻れば、すぐそこが府中宿。
西調布駅から歩いて、もっと時間がかかるかと思いましたが、2時間弱でした。
この距離だったら、昔の旅人が布田五宿は通りすぎて、府中宿を目指したというのも納得。身をもって体験したのでした。

【大國魂神社】


本日のゴール地点、大國魂神社です。
西暦でいうと111年の創建。そのころの関東地方って、どんな状況だったんだろう?まだ弥生時代だし、東国は未開の原野だったのかな。
そんな場所に神社とは。

武蔵惣社とも呼ばれ、江戸時代には社領500石。名門中の名門といったところですね。
規模もその名に恥じないほどにドドーンって感じです。

【大國魂神社・社殿】


少し早いものの、七五三もちらほら。あと、赤ちゃんのお宮参りも。
なんとなく家族連れで和気あいあいな雰囲気の境内でした。
ちなみに私、今年の初詣ではここでした。混雑を避けて、日にちは大幅にずらしましたが…。



そんなわけで、予定よりもかなり早く府中宿に到着してしまったため、反省会を行うお店が開いていないという緊急事態発生。
探しに探して、府中駅の南側の蕎麦屋でとりあえずお疲れ様。
その後、場所を変え、反省会は延々と続くのでした。

いったい、何時間飲んだんだ?
翌日は朝から休日出勤だというのに…。


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布田五宿に到達したのは7月。
やっぱり真夏の期間は避けようね~と言っている間に、私は引越しという人生の一大イベントを迎えたわけです。
そんなこんなで、布田五宿をようやく出立できたのは10月24日。
本来なら、甲州街道を一路西へ!となるところ、ここまで来たら、やっぱり深大寺へ行かないとね。
美味しい蕎麦…ではなくて、関東有数の古刹を目指して、いきなり寄り道です。

【江戸名所図会の深大寺】


【東参道】


深大寺へ行くにはいくつかのルートがありますが、私たちがとったのは京王線調布駅からバスで向かうルート。まぁ、甲州街道を歩いて布田五宿まで来たのだから当然と言えば当然。
パルコの前のバス停からバスに乗ります。深大寺行きに乗って終点まで行くのもいいのですが、土日休日の車内は大混雑。なので、「深大寺小学校」のバス停に停まる他の行き先のバスに乗るが吉。私たちは杏林大学病院行きに乗りましたが、吉祥寺駅行きでもいいようです。で、深大寺小学校前で降りるとすぐに東参道。ここを進めば10分もしないうちに山門に到着します。
ちなみに深大寺行きは、深大寺や植物園の彼方をぐるっと一周して山門前に着くので、時間的にもかなりロスします。座れなかった場合は「深大寺小学校」で降りた方が楽です。

【山門】


深大寺の山門に着いたのは10時30分頃。参拝客もようやく増えてくる時間帯でしょうか。門前の土産店や茶屋も始動!といったところでした。

【本堂】


ところが。
本堂前は意外なくらい人がいませんでした。以前(ゴールデンウィーク)に訪れた時は随分と混雑していたので、今日もワイワイガヤガヤ…かと思いきや。
10時半頃だとまだ混みだす前なのでしょうかね。

【釈迦如来倚像】


深大寺には見どころがたくさんあるのですが、そのひとつがこちら。本堂左手奥の釈迦堂に安置されている、白鳳時代のお釈迦様。重要文化財に指定されています。
お堂のガラス越しに拝観できるようになっていて、奈良や京都のお寺で出会うような、優しく柔らかな雰囲気に癒されます。

【深大寺蕎麦とビール】
深大寺と言えば、はずせないのが蕎麦。11時前でしたが、さあ、食べるぞ!ということで。



蕎麦の前に早くもビールで乾杯。
もちろん深大寺ビール。今流行の地ビールのはしりってところでしょうか。
ホッピーの2代目が深大寺に直々にお願いして、その名を冠することを許されたとか。



そしてお待たせ、深大寺蕎麦
江戸時代、すでに有名だったようですが、近隣の村里が「便乗商法」をしていたようで、
「おしなべてこの名を冠らしむるといへども佳ならず」
とのキツイ批評が、江戸名所図会に載っています。

この日のお店は、旅の仲間W氏ご推薦。秋の日差しの下、屋外のテーブルで食べる蕎麦は、また格別に「佳」だったのでした。

【江戸名所図会の深大寺蕎麦】


【鬼太郎茶屋】


深大寺に参拝し、蕎麦を食べたら、残るはここ、鬼太郎茶屋。喫茶スペース付の鬼太郎グッズ専門店です。
水木しげるさんと調布は切っても切れない縁。確か調布市の名誉市民だったはず。
そして鬼太郎が産声をあげたのは、布田五宿の下石原宿近辺だったかと。
そんなわけで深大寺を出発するにあたり、きっちりと鬼太郎グッズを物色したのでした。


さあ、ここから調布駅へバスで戻り、いよいよ甲州街道を府中に向かって歩く「本編」へと突入します。


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さて甲州街道をテクテクと歩いて布田五宿に到着。

まずは布田五宿の概要を調べてみました。
布田五宿とは、江戸に近い方から国領・下布田・上布田・下石原・上石原の5つの宿場を総称した呼び方です。江戸から3つ目の宿場にあたります。この5つの宿場が6日交代で宿駅業務を担当していました。高井戸宿と同様、合宿(あいじゅく)です。宿場といいながら、その内実は農村と大差なかったようです。


【国領宿】
・本陣…なし
・脇本陣…なし
・旅籠屋…1軒
・宿場の家数…61軒

【下布田宿】
・本陣…なし
・脇本陣…なし
・旅籠屋…3軒
・宿場の家数…95軒

【上布田宿】
・本陣…なし
・脇本陣…なし
・旅籠屋…1軒
・宿場の家数…37軒※
・宿場の人口…173人※
※隣村の小島分村(加宿)を含む

【下石原宿】
・本陣…なし
・脇本陣…なし
・旅籠屋…なし
・宿場の家数…91軒
・宿場の人口…453人

【上石原宿】
・本陣…なし
・脇本陣…なし
・旅籠屋…4軒
・宿場の家数…73軒


では、布田五宿めぐりに出発!


【国領神社】

まず向かったのは国領神社。
国道20号線沿いなので、旧街道からは少々北側へ入ります。
国領宿の鎮守です。もとは多摩川の近くにあったそうですが、度重なる洪水を避けてこの地に移ったとか。春の藤は「千年藤」と呼ばれ見事なものだとか。今年、見に来たのですが、すでに終わっていたのは、以前にブログに書いた通りです。

【常性寺】

国領神社から再び旧街道へ向かうべく南へ下ると、常性寺。
鎌倉時代からのお寺だそうですが、江戸時代、成田山から不動尊を勧請し、調布のお不動様として地元の人々の信仰を集めてきました。

【常性寺・馬頭観音像】


境内にある馬頭観音像です。案内板によると、もともとは「すてば」(馬の埋葬地)に馬の供養のために建てられたものを、道路拡張で境内に移したとのこと。建立されたのは1824(文政7)年だそうです。馬による物品輸送の道だった甲州街道を物語る史跡ですね。

【常性寺・敷石の碑】


幕末、幕府から長州征伐の軍用金5000両の献金を求められた布田五宿は、その見返りに飯盛旅籠の設置を公式に認められました。それ以前からも非公認の飯盛旅籠は存在していたようですが…。また明治の初めには貸座敷(女郎屋)も置かれました。布田五宿は明治以降、近隣の遊興的な場所へと変化していったようです。
この敷石の碑は、明治11年に常性寺に敷石を寄進した貸座敷業者たちの名前が記されています。

【下布田宿辺り1】

常性寺を出て、西へと甲州街道を進みます。このあたりがちょうど下布田宿にあたるようです。

【下布田宿辺り2】

布田のバス停は、下布田宿と上布田宿の境界あたりでしょうか。それを示すものは何も残っていないので、推測しながら歩きます。

【蓮慶寺】

日蓮宗のお寺で、開基は小田原北条氏に仕えた布田領主・中将出羽守とのこと。徳川将軍家とのつながりも深く、山門はドドーンと葵の御紋付です。

【蓮慶寺・赤門】

3代将軍家光から赤門の設置を許された蓮慶寺。その一部が山門の脇に保存されています。

【蓮慶寺・本堂】

立派な本堂です。昭和42年の改修とのこと。
お寺には日蓮上人の坐像があるそうです。台座に天文19(1550)年と墨書されているので、制作された年まではっきりしているのだとか。見てみたいけど、公開されているのかはわかりませんでした。

【布多天神社参道】

次に目指すは布多天神社。旧甲州街道から天神通り商店街を北へ数百メートル歩きます。この商店街の通りが参道なわけです。この商店街の道端には鬼太郎ファミリーがここそこに。それを見つけながら歩くのも楽しいものです。もっとも、地元の人には見慣れた風景なのでしょうね。
そのまま国道20号線を渡ると布多天神社。詳しくは2015年6月14日の記事を合わせて参照していただければ、ということで。

【布多天神社】

布多天神社は創建が平安時代までさかのぼる多摩有数の古社で、布田五宿の総鎮守として信仰されてきました。江戸名所図会にも絵入りで紹介されています。

【調布駅近辺】

天神通り商店街から調布駅前のパルコあたりが、この辺りでもっとも賑やかな一画らしいです。街道はパルコの北側を西へ延びています。

【小島の一里塚】

パルコの北側を進んでゆくと、ほどなく一里塚跡の跡です。仙川の一里塚の次、江戸から6番目になります。もちろん当時の面影は何もなく、記念碑が残っているだけです。
この辺りは、上布田宿と下石原宿の中間地点で、小島分村と呼ばれていました。小島分村は上布田宿の加宿(宿駅業務を手伝いなさい…ってことですね)とされていました。

【小島の一里塚近辺の甲州街道】

調布駅前のパルコからはそんなに離れていませんが、人通りはめっきり減ってしまいます。車の通行量は相変わらず多いのですが、なんとなく雰囲気としてはのどかな感じです。

【下石原宿辺り1】

小島の一里塚からすぐ、下石原宿に入ります。もちろん何か案内板があるわけではないのですが、地名がきっちり残っています。

【下石原宿辺り2】


さらに進むと、古い石碑が街道沿いにあります。天明3(1783)年と側面に刻まれていますが、ここにもきっちりと「下石原宿」とあります。ちなみに何の石碑なのかな?

【上石原宿辺り1】

布田五宿のいちばん西側、上石原宿に入りました。完全にのどかな甲州街道に戻りました。

【上石原宿辺り2】

数珠つなぎに連なる布田の5つの宿を合をわせても小さな宿場だったことから、多くの旅人はここを通過してしまったようです。

【上石原宿辺り3】

おお、ナイスなネーミング。布田五宿、かつての心意気を示す店名に乾杯!
ちなみにお店は開店前のためシャッターが下りていました。残念でした。

【西光寺】

天台宗のお寺です。もともとは修験道の寺院だったとも言われていますが、そのあたりよくわからないようです。天台宗にあらためたのは江戸時代になってからだとか。

【西光寺・仁王門】

調布市内で唯一残っている仁王門。寺の記録によると宝永年間(1700年初頭)に建てられたようです。こんな立派な仁王門を持つお寺ですから、布田五宿の人たちの信仰もさぞ厚かったのだろうと推察。

【西光寺・近藤勇坐像】

上石原宿と言えば、知る人ぞ知る、かの新撰組局長・近藤勇の出身地です。山門の脇に、ドーンと近藤局長が鎮座しています。
慶応4(1868)年3月、甲陽鎮撫隊を率いて甲州街道を甲府に向かった近藤は、この西光寺で休憩したそうです。その時は幕府から大名格の身分を与えられていたそうですから、まさに故郷に錦を飾ったというところですね。その後の悲運はさておき、近藤としても万感の想いだったのではないでしょうか。

【上石原宿名主・中村家跡1】

西光寺と道路を挟んで真向かいの駐車場は、上石原宿の名主を務めた中村家の跡です。
甲陽鎮撫隊を率いて西光寺に入った近藤勇は、ここ、中村家で歓待を受けたそうです。

【上石原宿名主・中村家跡2】

駐車場のフェンスの上に案内板が掛かっていますが、文字がかすれて、う~ん、読みにくい。
新撰組関連の史跡なら、もっと整備してアピールすればいいのに…と思うのですが、調布市としてはそこまで乗り気ではないのでしょうか?


そんなところで布田五宿めぐりも無事終了。
あとは、美味しいお酒を飲みながら、今日の反省と次回の道中に想いを馳せるのみ…。
次回はきっと、布田五宿から府中まで歩くことになりそうです…なんて書いているこの時点で、すでに府中まで歩き終わっているのでした。
その報告は、また近日中に。

長らくのお付き合い、ありがとうございました。


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