日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

【note】甲州街道・関野宿から鶴川宿まで歩いてみた(5)-鶴川宿へ-

2017-10-13 | 旧甲州街道を往く

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道1】


上野原宿の西端(と思われる)三差路を小道に入り、鶴川宿へと向かいます。この近辺で、声をかけてきた近所の方が鶴川宿へ向かう道筋を教えてくれました。感謝!

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道2】


段丘の上にある上野原宿を出ると、徐々に下り坂になっていきます。道沿いは長閑な感じ。

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道3】


この辺り、古碑古仏が道端に続きます。
ガイドブックによると、文政10(1827)年の木食白道上人の井戸跡碑(完全に見落としました)、同じく文政10年の大乗妙典廻国供養塔(何の碑かわからずに深く考えずに通過)、文政5(1822)年の馬頭観音(前に車がデデーンと駐車していて、ほとんど見えませんでした)。わずかに写真に撮れたのが、この道祖神。いつのものなのかな?

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道4】


道祖神のすぐ先で、道は左右に分かれます。旧街道は右側です。標識が出ているので迷うことはないかと思います。そういえば道を教えてくれた方も、ここを右だよ!って念を押していました。間違えてしまう人もいるのかな?確かにぼーっと歩いていたら、そのまま左へ行ってしまうかもしれない…と、ボチボチ疲れが出てきた私は思うのでした。

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道5】


道はまだまだ下ります。道端の小川(用水路かな?)の水も、かなりの速さで流れ下っていきます。

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道6】


秋です。柿の実の下のトンネルをくぐるように進んでいきます。まだまだ下り坂が続きます。

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道7】


柿の実のトンネルを抜けると、歩道橋となり国道20号線を越えます。その先、県道30号線を進みます。

【甲州街道案内板】


歩道橋の先に甲州街道の案内板。国道を越えると、目指す鶴川宿はそう遠くないようです。こういったガイドブック的な案内図は、視覚的にも親切です。素人の私でも、位置関係がよ~くわかりました。

【遥かに鶴川を望む】


そうこうしているうちに、木々の切れ間から鶴川と、川に架かる鶴川橋が見えてきました。あの橋を渡れば本日のゴール・鶴川宿です。それでも、まだかなり下るような感じです。上野原宿、ほんとに高い段丘上にあるのですね。

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道8】


県道から分かれる小道を行くのが旧街道のようです。結局は大きくS字を描いて下っていく県道に、また合流するのですが…。

【鶴川橋】


鶴川に架かる鶴川橋に到着。川を渡れば鶴川宿です。もちろんこの橋は後世になってかけられたもので、鶴川は甲州街道で唯一、増水時には川越し人足による渡河が行われる川だったそうです(冬の間だけ仮橋が架けられたとのこと)。通常の水量の時は、人足の世話にならずに、旅人が歩いて渡河したということでしょう。濡れちゃうけど仕方ないのかな?それとも飛び石伝い?

【鶴川】


鶴川橋の上から見た下流方面です。現在の橋の位置よりやや下流の地点が、川越しのポイントだったそうです。
なんでも、ここの川越し人足は番所役人より恐れられていたとのこと。荒くれ者どもがそろっていたのでしょうね。渡し賃のトラブル(ゆすり・たかり・ぼったくりの部類でしょう)もあったようです。

◆◆2017.10.14追記◆◆
日野宿方面から歩いてきて八王子宿に入る手前の浅川も、一部徒歩渡しで、増水時には川越し人足による渡河が行われていたそうです(「新八王子市史」など)。
すると、鶴川が「甲州街道で唯一、増水時には川越し人足による渡河が行われる川」ではないことに…。ガイドブックやネットを鵜呑みにしてはいけないということか…。

【鶴川宿】


鶴川を渡ると、本日のゴール・鶴川宿の入口に到着です。何だか立派なモニュメント。
時刻は午後2時半少し前。藤野駅を出発してから4時間弱。もう少しかかるかと思いましたが、あまり寄り道をしなかったので早い到着となりました。
それでも、久しぶりだから疲れました。どんだけ、普段運動不足なのでしょうかね…情けなや。

さて、ここからどうしようか?
やはり上野原駅に戻るのが無難という意見にまとまりました。幸い1時間に1本のバスがもう間もなく来るとのことですし。さすがに歩いて戻ろうとは誰も言い出しませんでした。



反省会は、最近のお決まりコース・八王子にて。
4時前から開始です。
ところで、酒飲みには少なくとも2パターンあるようです。飲むときはモノを食べない人。飲んでも大いに食べる人。私は後者。食べないで飲むと酔いが一気にまわり、記憶をなくすなどロクなことにならない。でもこの日、昼に食べたラーメンと餃子とチャーハン+酒まんじゅうが、いまだに胃の中に居座り、とても食べるどころではありません。
そして、食べずに飲み続けた私は…

その夜の記憶をなくしましたとさ。

翌日、反省会の「反省」をひとりする羽目になったのでした。


おしまい。


にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ    





【note】甲州街道・関野宿から鶴川宿まで歩いてみた(4)-上野原宿を往く-

2017-10-10 | 旧甲州街道を往く

【上野原宿内の甲州街道】


ラーメンと餃子とチャーハンで空腹も満たされた我々は、いよいよ上野原宿に入ります。国道20号線と合流する辺りから、かつての上野原宿が始まるようです。JR上野原駅とは、ちょっと離れた位置関係にありますので、要注意です。

上野原宿の概略
(「甲州道中宿村大概帳」天保14(1843)年)

本陣…1軒
脇本陣…2軒
問屋場…2ヶ所
旅籠…20軒
宿場内の家数…159軒
宿場内の人口…784人

上野原宿を含む郡内地方の特産は、郡内織と呼ばれた絹織物。江戸時代の領主・秋元氏の殖産興業政策によって大いに発展したそうです。江戸の越後屋(現在の三越)でも、店頭に並べて商っていたとか。
そして上野原宿は、郡内地方で唯一、六斎市(月に6回開かれる定期市)が開かれる町として賑わったとのこと。しかしながら当時の宿並みは、ご多分に漏れず、明治以降の火災で焼失…だそうです。

ちなみに上野原という地名の起こりは、
「四方岸高く新田辺りよりは岸上の広原と見ゆ故に上の原と称せるなるべし」(「甲斐国志」)
地形からきているわけですね。

【上野原名物・酒まんじゅう1】


そしてこの地の名物といえば、「酒まんじゅう(さかまんじゅう)」なのだそうです。…という情報を事前に仕入れていましたが、確かにかつての宿場に入った途端、道の両側に「酒まんじゅう」のお店が目につくようになりました。
酒まんじゅうとは、「小麦粉の生地に酒を入れて作った皮であんを包んで蒸した饅頭」とのこと。この近辺ではかつて、祭りやお盆など、人が集まる折に各家庭で作られていたようですが、さすがに今はそういう風習もなくなっているそうです(以上、ネット情報の受け売りです、悪しからず)。

【上野原名物・酒まんじゅう2】


そんなわけで、最初に通りかかったお店で、満腹にもかかわらず我々も食べてみました。そう言われてみれば、ほのかに酒の香りというか味がするかなぁ…?

【上野原宿内の案内板】


道沿いには、こういった案内標識があちこちに立っています。古い町の記憶を残そうとしていることに、温かみを感じたのでした。

【上野原宿脇本陣跡】


ホテルルートインコート上野原のある場所が、かつての脇本陣・若松屋の跡。ガイドブックによると、和宮が江戸に降嫁する際の荷を扱い、屏風が下賜されたとのこと。現在は脇本陣の面影は皆無でした。

【上野原宿商人宿(あきんどやど)跡】


脇本陣と街道を挟んでちょうど向かいあう位置に、商人宿(主に行商人を泊める比較的お安い旅籠)「たち花屋儀兵衛」があったそうです。現在は駐車場になっていて、とくに面影はありませんが、ガイドブックには門を残しているとありました。最近、変わってしまったのですね。

【上野原宿本陣跡】


脇本陣から少し歩いて、消防団の脇の小道を入ると、かつての本陣跡に出ます(かつては街道に面していたらしいです)。立派な門が残されています。明治天皇行幸の際には行在所となりました。いろんなエピソードがありそうな感じなのですが、ネットで調べてみても、あまり詳しいことは出ていないようです。

【本陣付近の甲州街道】


ちょっと奥まった本陣の門から街道に復帰して、さらに西へ向かいます。駅から離れていることもあってか、とても静かで、一昔前の懐かしさを感じさせる町並みです。ただ、国道は車の通行量は多いので注意しながら歩きましょう。

【屋号】


道沿いに「三井屋」の屋号。どういったお店なのか、帰ってからネットで調べてみましたが、これといった情報にヒットしませんでした。それにしても、なかなかの重厚感です。

【上野原宿の西端辺り?】


しばらく進むと、道は三差路となります。真ん中が国道、右は県道、そして左に入る小道が旧甲州街道となります。
ところで、上野原宿の西の端はどの辺りになるのだろうか?ガイドブックによると、宿並み6町18間(約700メートル)とあるので、この三差路辺りがそうでしょうか。
ネットで調べてみても、上野原宿についてのストライクな記事にヒットしないのが残念です。それは上野原宿だけのことではなく、いよいよこの先、ディープな街道歩きになるのでしょうか?
ま、とにかく、ここで上野原宿を出た…ということにして、本日のゴール・鶴川宿へと向かいます。


にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ    





【note】甲州街道・関野宿から鶴川宿まで歩いてみた(3)-上野原宿を目指して-

2017-10-08 | 旧甲州街道を往く

【諏訪番所を越えて】


甲斐に入って最初の難関・諏訪番所を無事に通過したあと、今少し、上野原へ向かう坂道が続きます。

【慈眼寺】


10分程歩いたところで、街道から右手の小道に入っていくと曹洞宗のお寺、慈眼寺(じげんじ)。慶長7(1602)年開山の古いお寺です。

【慈眼寺・愚痴聞地蔵】


この慈眼寺の境内の一角にあるのが「愚痴聞地蔵」。建てられたのは10年程前のようですが、ガイドブックにも載っていたということは、地元では有名スポットなのかな?大きな耳で愚痴を聞いていただけるのだとか。
普段から愚痴ばかりこぼしている私たちとしては、それぞれが、これ幸いとばかりに
「ちょっと聞いてくださいよ、お地蔵様…」
となりました。少しはみんな、スッキリしたのかな?

【慈眼寺付近の甲州街道】


お地蔵様に愚痴を聞いてもらって、心も軽やかに街道に復帰します。

【船守寺】


慈眼寺から街道に戻って歩き出すと、すぐのところに船守寺(ふなもりじ)があります。日蓮宗のお寺です。
日蓮上人は、鎌倉幕府の弾圧にあい、伊豆のまな板岩(満潮になると海面下に沈んでしまう!)に流罪、というか置き去りにされました。その時、日蓮を救い出したのが上野原出身の漁師・弥三郎でした。ここ、船守寺には弥三郎の遺骨が分骨されておさめられているそうです。それにしても弥三郎、山国の甲斐出身で、伊豆で漁師か…。180度真逆の生活ですね。
私たちは、境内には入らずに先へ進みました。

【諏訪神社】


船守寺に続いて、諏訪神社。
現地の案内板によると、平安時代末期に武蔵国横山党の横山忠重がこの地で古郡忠重と名を改め、一族の氏神として古郡神社を創建したのが始まりとされます。鎌倉時代、古郡氏は和田義盛の乱に連座して滅亡しますが、建長寺開山の大覚禅師が荒廃した社殿を再建し、諏訪大社の御霊を分霊して祀り、古郡神社諏訪大明神と称したと伝わるそうです。
そうそう、先程無事に通過した諏訪番所は、もともとはこの辺りにあったのだとか。

【諏訪神社・拝殿】


横山党?八王子のわが家のすぐ近くではないですか。
あれ?こんなところで奇遇ですね!って、旅先でご近所さんに偶然会ったような、そんな感じ。
拝殿には古郡神社の扁額が掛かっています。

【諏訪神社・芭蕉句碑】


拝殿前にある松尾芭蕉の句碑。
「稲妻や悟らぬ人の尊さよ」
崩し字で、しかも摩耗しているから読みにくい(そもそも崩し字という時点で、私には判読不能です)。

【諏訪神社・古い石碑】


街道に向かって古い石碑が立っています。真ん中は二十三夜待ちの碑でしょうか?あとふたつは何かな?

【上野原宿を目指す甲州街道1】


諏訪神社を後にして、再び上野原宿を目指します。途中「油屋」の屋号の大きな門構えのお宅。立派な蔵もあります。奥で何かを販売している雰囲気でしたが通過します。

【旧甲州街道碑】


街道沿いに立派な石碑。
「あいさつをかわす思いやりの道」
「昔をしのぶ思いでの道」
と刻まれています。
個人的に立てたのかな?とも思える石碑です。

【上野原宿を目指す甲州街道2】


静かな住宅街の真ん中を街道を進みます。たまに畑なんかもあったりして、長閑な雰囲気。

【上野原宿を目指す甲州街道3・中央道越え】


中央道を越えます。高架を歩くというより、街道の下に中央道が潜り込んでいるような感じです。

【疱瘡神社】


中央道を越えるとすぐ、疱瘡神社と塚場一里塚跡に到着。
まずは疱瘡神社。万治4(1661)年の創建。案内板によると、この地で行倒れた老婆が村人の手厚い介護に感謝して、生国の越前から疱瘡神を勧請して祀ればこの地を疫病から守る、と言い残して亡くなったとか。その遺言通りに、ここに疱瘡神社が建てられました。
ここで言う疱瘡とは天然痘のこと。今では聞かなくなりましたが、江戸時代にはそれこそ死の病として恐れられていたことでしょう。

【塚場一里塚跡】


疱瘡神社の裏手に一里塚跡と伝わる小さな墳丘が残っています。拝殿の右側の狭いスペースを進むと見ることができますが、塚そのものへの立ち入りはできません。神社の鳥居の前、街道沿いに案内板が出ていますので、見落とすことはないと思います。
江戸から18番目、塚の上にはカヤの木が植えられていたとも。そもそもこの一里塚、古代の古墳の可能性もあるとか。

【上野原宿を目指す甲州街道4・塚場一里塚付近】


一里塚を過ぎると、街道は気持ちいいくらいに真っ直ぐ、上野原宿に向かって伸びていきます。

【上野原宿を目指す甲州街道5・上野原宿入口】


一里塚から10分弱で国道20号線と合流し、この先は再び国道を歩くことになります。この辺りから、かつての上野原宿となるようです。いよいよ到着しました。
ところで、藤野駅を出発したのが10時45分頃。今は午後1時。上野原宿を歩く前に、どこかこの辺で昼食を…となりました。

【来々軒】


どこか、食べる場所はないかな?
周辺を探すと、国道20号線を少し戻ったところに発見したのがラーメン屋さん。
ここでボリュームたっぷりのラーメンと餃子をそれぞれがオーダー、さらに大盛りチャーハンを4人でシェア。かなりの満腹度で、そして味も文句なし、とても美味しかったです。
でも結果的に言うと、ここで腹が大いに膨れてしまったことが、この日の夜の、とある悲劇につながることになるのですが-それはまた別の機会に。


にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ    





【note】甲州街道・関野宿から鶴川宿まで歩いてみた(2)-国境を越えろ!相模と甲斐-

2017-10-07 | 旧甲州街道を往く

【関野宿辺りの甲州街道1】


ウルトラ●ンの罠に落ちた我々ですが、ルートミスにもめげず国道20号線を進みます。相模川を左手にした相州四ヶ宿(小原宿・与瀬宿・吉野宿・関野宿)は台地上にあるのですが、関野宿を出た辺りから徐々に下り坂となっていきます。

【関野宿辺りの甲州街道2・えのき坂】


えのき坂の標柱。一里塚に多く植えられたという榎が語源でしょうか?この辺り、こういった標柱や道標があちこちに立っています。しっかり確認しながら進めば、本来は道筋を間違えようがないのでしょうが…。

【関野宿辺りの甲州街道3】


道はループを描き、下り坂が続きます。

【関野宿辺りの甲州街道4】


相模川を左に見下ろしながら進みます。本来の甲州街道はこの辺りから、川に向かって降りていくルートだったようですが、ガイドブックなどによると、道筋は正確には確認できていないそうです。
かつて獅子岩、衣滝と呼ばれた名勝が存在したのもこの辺り。「新編相模国風土記稿」によると、獅子岩は「高さ8尺(約2.4メートル)周囲1丈3尺(約3.9メートル)、甲州街道の傍らにあり」とのこと。その名の通り獅子の形のような岩だったのでしょうか?衣滝は「獅子岩の傍らにあり、瀑勢1丈2.3尺(約3.9メートル)、幅5.6尺(約1.5メートル)、その形象殆ど衣を翻すが如し」だったそうです。
獅子岩と衣滝、今も残っているのか、はたまた国道から見えるのかどうか?はわかりません。

【関野宿付近の甲州街道5】


名倉入口の信号で国道と分かれ、左手の小道を相模川に向かって下っていきます。

【関野宿付近の甲州街道6】


道端のヒガンバナがまた見事に咲いていました。昔の旅人は、四季折々の景色をこうやって楽しむ余裕はあったのでしょうか?

【境沢橋】


名倉入口の信号から歩いて5分程度、やって来ました、神奈川県と山梨県の県境を流れる境川に架かる境沢橋です。昔は相模と甲斐の国境。ガイドブックなどによると、江戸時代には、ここから40メートルほど下流に、境川を越える長さが6間(約9メートル)、幅6尺(1.8メートル)の土橋が架かっていたそうで、茶屋が3軒ほどあったとか。江戸時代と場所こそ若干違うとはいえ、ま、それでも無事に国境を越えて、いよいよ甲斐の国、山梨県へと入ります。

【境川】


境沢橋から見た境川下流方面。相模と甲斐の国境を流れていたから境川。あと少しで相模川に流れ込みます。

【山梨県に入った甲州街道】


今までは高台からひたすら下って境沢橋へ到達しました。で、下りがあるということは上りもあるわけで。目指す上野原は、文字通り崖の上にある原(というのが地名の起源とのこと)。ヘアピンカーブをうねうねと上り、今来た道を見下ろしながら歩きます。真夏の日差しのもとだと、結構つらいかもしれませんね。秋でよかった~。

【諏訪番所(諏訪関)跡】


境沢橋から歩くこと約20分、坂道の途中にあるのがこの諏訪番所跡。そもそもは武田家が設置した甲斐二十四関のひとつで、江戸時代には、ここで通行の取り締まりと物資の出入りの調べを行っていたそうです。ただし解説板によると、通行手形は男は不要、女性は江戸方面へ行く者のみ改められたとか。結構、ゆるい番所だったのかな?ここに10名の役人(番所定番9名、獄舎取締1名)が詰めていました。
これまた案内板の解説によると、明治になって番所の役宅は、あの政財界の大物・渋沢栄一の別荘として移築されたとのこと。よっぽど素晴らしい建物だったのか、趣ある家屋だったのか…?

【諏訪番所前の甲州街道1・関野宿方面】


番所前で今来た道を振り返るとこんな感じ。随分と上ってきました。江戸時代の旅人も、坂道に息を切らせながらここへたどり着き、荒い息遣いのままお役人の改めを受けたのかもしれませんね。

【諏訪番所前の甲州街道2・上野原宿方面】


番所役人の改めも無事終わり、さて、上野原を目指そう!という旅人の前には、まだまだ続く上り坂が…。
そんなわけで、我々もまだ上り坂を進むわけですが、この先、上野原宿に入るまでには、もう少し歩かなければならないようです。


にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ    





【note】甲州街道・関野宿から鶴川宿まで歩いてみた(1)-関野宿を往く-

2017-10-04 | 旧甲州街道を往く

9月30日。久しぶりの甲州街道を歩く旅。いつもの旅の仲間4人が、日頃の残業の疲れをものともせず集結しました。
前回は相模湖畔の吉野宿へ入り、中華屋さんでお昼を食べていたら雨となり終了。藤野駅までお店の車で送っていただいた…というとこまで。あれは4月のことでしたので、かれこれ5ヶ月も過ぎてしまいました。

→前回はこちら

今日は藤野駅をスタートして、関野宿→上野原宿→鶴川宿を目指すルート。距離的には約5.6キロで大した距離ではありませんが、何しろ普段運動不足の身なれば、そこはかとなく不安が付きまといます。10時30分に集合ですが、私は一足先に現地入りして、前回、雨のためチェックできなかったポイントへ向かいました。

【緑のラブレター】


藤野駅のホームで電車を降りて、まず目につくのがこの巨大な「緑のラブレター」。芸術の町を謳う藤野のシンボルです。地元在住の芸術家が1989年に旧藤野町(現在は相模原市緑区です)から依頼されて作ったのだとか。

【関野の一里塚跡】


前回、雨のために断念したのがここです。江戸から17番目の一里塚。藤野駅から東へ5~6分歩いたところです。一里塚を示す碑や案内板はありませんが、鬱蒼とした木の前に「津久井の名木・エノキ」の解説板があります。ガイドブックによると、このエノキが一里塚跡なのだそうです。片塚で、塚の上には当時もエノキ。そのエノキが解説板の「津久井の名木」の木なのかどうかは、わかりませんが…。
この辺り、道幅が狭く歩道もあったりなかったり。車には要注意です。

【藤野駅付近の甲州街道】


関野宿は天保14(1843)年の「甲州道中宿村大概帳」によると

本陣…1軒
脇本陣…1軒
問屋場…1ヶ所
旅籠…3軒
宿場内の家数…130軒
宿場内の人口…635人

江戸方面から歩いてくると相模国最後の宿場で、西には甲斐との国境が控えています。
「甲州街道一條東西に亘り、道幅二間程。民家相対して軒を並ぶる二十四戸」(新編相模国風土記稿)
この辺り、江戸時代には奥三保とか桂里とも呼ばれたとか。風流な呼び名であることよ。

さて、歩こう。
ガイドブックや資料を見ると、旧街道は藤野駅付近でいったん国道20号から分かれて細道を行くのが正しい!というものもあり、そのまま国道を西進せよ!というものもあり、さて、どうしたものかと迷ってしまいます。我々はそのまま国道を進みました。

【関野宿内の甲州街道】


藤野駅からしばらく歩くと、歩道は車道より1段高くなります。JR中央線を高架で越え、中央道と並行して進んでいきます。江戸時代の宿並がどう続き、旅籠がどのあたりにあったのか?残念ながら明治以降の度重なる火災により、当時の面影は皆無に等しいようです。

【関野宿本陣跡】


中村家が勤めたという関野宿本陣跡。明治後の大火で灰燼に帰した関野宿、本陣もまた無事ではいられなかったそうです。
解説板が立っていますが、藤野駅方面(写真でいうと奥の方)から歩いてくると、絶対に見落としてしまう立ち位置です。実際に我々も通過後に、あれ、本陣は?ってことで戻ったのでした。

【増珠寺】


本陣跡から歩いてすぐ、関野宿の西端に位置する曹洞宗のお寺です。永正9(1512)年に開かれたそうです。ここ関野宿に生まれた江戸時代の大関・追手風喜太郎ゆかりのお寺で、彼が寄進したあれやらこれやら…が残されているとのことですが、残念ながら境内に入っただけではわかりませんでした。

【増珠寺のヒガンバナ】


街道から境内へと向かう参道沿いにヒガンバナ。今がまさに見頃!といった感じでした。

【増珠寺前の石塔】


甲州街道沿い、増珠寺のかつての参道脇(今は石段が使えないように閉鎖されています)にある古い石碑。

【増珠寺前の石碑・庚申塔】


ガイドブックによると、左側が天明元(1781)年の庚申塔。向かって左側面に「関野宿講中」とあります。この日歩いていて、関野宿を偲ぶことのできた唯一のものでした。

【増珠寺付近の甲州街道】


江戸時代、関野宿を含むこの辺りは小渕村でした。今も地名に残っています。上野原まで3キロ。でもそれは国道20号を行けば、ということなので、実際は、もう少しありそうな予感。

【関野宿のウ●トラマン】


上野原に向けて国道を進んでゆくと、右手に立ちはだかるウル●ラマン。思わぬ不意打ちにペースを乱された私たちは、本来進むべき右手の小道へ入らず、そのまま国道を直進してしまったのでした。ガイドブックによるとこの小道、石畳など「古道の面影を残す」とのこと。
まんまとウルト●マンのスペシウム光線にやられてしまった我々ですが、そんなことにもめげずに、この辺りで関野宿を抜けて、神奈川県と山梨県の県境(江戸時代なら相模と甲斐の国境)に向かって歩を進めるのでした。


にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ