この人生、なかなか大変だぁ

日々の人生雑感をつれづれに綴り、時に、人生を哲学していきます。

無縁社会の孤独死

2010-04-10 19:38:38 | 人はなぜ生まれ、そして死んでいくのか
1月にNHKで「無縁社会」という特集が放送されたところ、三、四十代に大きな反響があったという。ネットの「ツィッター(つぶやき)」には彼らの不安がつづられていたようである。
番組を詳しく覚えているわけではないが、ひとり孤独に亡くなり、引き取り手が誰もいない「無縁死」が年間約3万2千人にも昇っているという。身寄りがなかったり、親戚、兄弟姉妹との縁が切れていたり、人付き合いがなくなった都会の孤独者たちの死を取り上げていた。

どうして三、四十代の琴線にふれたのだろうか。われわれのような五十代、六十代なら切迫した問題だが、彼らにはまだ間遠い話ではないか。
今回「追跡AtoZ」(4月3日放送)は、反響のあった三、四十代に取材したものがまとめられていた。
彼らのほとんどは家を離れ都会にひとりで暮らす。職業は様々だが、暮らしのスタイルはほぼ同じ。結婚してなかったり、離婚していたり、職場以外での人付き合いがなく、仕事を終えて部屋に帰るといつもパソコンに向かっていた。
親が心配するから電話もかけないという。

まっさきに考えたのは、彼らの今は彼らが選択した結果の人生ではないかということである。
人付き合いを好まず、結婚もせず、または離婚してしまうというのは、そういった人間関係のどろどろしたものを一切拒絶して来たからではないか。
人に煩わされず勝手に気ままに生きていたいと考えて来たからではないか。
友人関係も恋愛関係も、また家族や親戚づきあいにしても、思い通りにいくものではない。譲ったり、譲られたり、時には諍いし、また仲直りしながら続いていくものではないか。これまでの生き方の結果として今があるのだ。
番組の中で「二十年後は俺も孤独死だ」とつぶやいていた彼は、今の自分を変えようとしているだろうか。

十年以上前だったと思うが、ある若い夫婦の生き方にスポットを当てている番組があった。共働きのふたりはお互いに趣味を持ちながら自由な時間を楽しんでいた。
子どもは部屋が汚れるし、時間が奪われる。ふたりの自由な時間がなくなるので作らない、その代わり犬を飼っているというのだった。
人生をうまくコントロールしているつもりの若いふたりに、わたしはきっとしっぺ返しがくると確信した。
人生は自分だけのものであるはずがない。自分のために、自分のためだけにお金を使う人生は虚しい。喜びとしては最下等なレベルではないか。
われわれは誰かのためにあるということ、誰かのためになることで深い喜びを与えられるものだと思う。

翻って考えてみれば、「孤独死」や「無縁死」という名前がつけば特別な何かと思われがちだが、人は死ぬときはいつもひとりではないか。例えたくさんの人に囲まれて死のうともひとりの死であり、死の寂しさが癒されるものではない。
自分の家で床の上で静かに死を迎えるというのは、古今東西稀有なことではないか?
つれ合いもなくひとりで死を迎える。自分の屍の引き取り手がいないということを気に病んでも仕方ないだろう。死んでしまえばそれはどうでもいいことなのだから。自分が死んだ後に仏壇に花を生けてくれる人がいるかどうかということを、死んだ後に気に止んでも仕方ないことなのだから。

やはり、死ぬまでの生き様が問題なのである。本当に生きているという実感に溢れていれば、どんな形で死のうと、自分を弔ってくれる人があろうが、なかろうが気にするものではない。
三、四十代の彼らに捧げたい。わたしの戒めとしても、自分がこれまで避けてきた半生のもろもろに今一度対面し、それらを自分の中に統合化していくことである。拒絶したつもりでもそれらはゾンビのように甦りあなたを襲ってくる。
今、あなたを脅かしているそれは、あなたのシャドウである。逃げてもずっとあなたの後ろからひたひたと追いかけてくる存在なのであるから。

付録
「きょう夕食は何食べよう」「・・・・・・・」「少し並ぶけど定食屋にしよう」。
ツィッターでの会話は虚しい。ネット上のうわべだけの交歓はうわべだけの触れ合いでしかない。孤独はより深まるだけだ。べったりとした関係を拒絶して、毒にも薬にもならない会話に埋もれていく。しかし心の隙間は埋まらない。毒や薬になる言葉こそずしりと心に届くのだ。

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