この人生、なかなか大変だぁ

日々の人生雑感をつれづれに綴り、時に、人生を哲学していきます。

「恋のハレルヤ」騒動

2021-09-30 13:28:10 | 歌は世につれ
黛ジュンの「恋のハレルヤ」という歌がある。(ちょっと古過ぎて恐縮)
「ハレルヤ、花が散っても~、ハレル~ヤ」とわたしが口ずさんでいたら、傍でテレビを見ながら晩酌をしていた父が「なんだそれは!?」と聞き返した。小学校4年生の頃だっただろうか。
「花が散っても晴れるんだよ」と答えると、「おかしい」と食いついてきた。
「ヒルガオのことじゃないの?」と言ったら、本腰を入れて父が絡んできた。

4月から5月にかけたシーミー(清明節)の墓参りの時、よくヒルガオ(当時は朝顔と思っていた)が咲いていた。花びらを摘むと雨が降るから取らないでねと叔父や叔母からよく言われていた。
お墓に親戚郎党が集まりご馳走を供えた後にお下がり(ウサンデー)しながら歓談・交流をするのである。だから雨が降ってもらっては困るのだ。
なぜヒルガオの花を摘むと雨が降るのだろうか。わたしが推測するに、雨の多いこの時期にこの花が開くのではないだろうか。
摘んでも摘まなくても雨の降る確率は高いということなのだろう。それでこんな言い伝えができたのだと思う。

父は理屈に合わないと絡んできた。おそらく「花が散ったら雨が降るのが当然である」という思いがあったのだろう。それにもかかわらず「花が散っても晴れるというのはどういうことだ!」と怒ったのだろう。
これは後付けの解釈だが、父は「花が散ってもハレル~ヤ」の接続助詞の「も」を考慮していなかったのだと思う。「も」には「にもかかわらず」というようなニュアンスがあって、逆説的な事象や思いが後段に続く。
本来なら花が散ったら雨になるのが当然だが、花が散って「も」雨が降らなかった。晴れた。という理屈である。(歌詞とは全く関係なかった)
酔った父の頭には理解が及ばなかったのだろう。

父と家族一同、母、姉、兄、わたしの4人を敵に回して大論争となった。
紙に書いてみんなで説明するが酔っ払った父は納得しない。
「それじゃあ、明日、琉大のナントカ先生に聞いてみよう!」と父の知り合いの琉大教授を引っぱり出そうという事態になった。
こんなことで琉大の先生を引っ張り出しては一家の恥だ。われわれは焦ったが、幸い父はその後酔いつぶれてしまったので、琉大のナントカ先生を煩わせることはなかった。

黛ジュンの「恋のハレルヤ」がもたらした家族騒動であったが、今思い返せば微笑ましい団らんのひとコマだったと言うべきかもしれない。

蛇足ながら、YouTube動画のダンスがウェストサイドストーリーを真似たようだが、完成度が低くて笑ってしまう。(悪い意味じゃないよ。微笑ましいのだ。一度ご覧あれ)

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