有馬記念が近づくとなんとなくうら悲しい気持ちになる。これが終わるとしばらく競馬とお別れという、卒業前のような気持ちになるからだろうか。ところが、なんのことはない、正月三ヶ日が明ければすぐ金杯がくる。たった一週間ぐらいの休みなのに年末年始のひとくぎりがつくとずいぶん経ったように感じるから不思議だね。
さあいよいよ最終ラウンドだ。しっかりものにして行きたい。予告しておいたようにラジオNIKKEI2歳Sを買って的中したらそれを有馬記念にコロガシていくことにしたい。中山大障害GⅠもあるが、障害は苦手だし、落馬のあるレースはリスクが高すぎるので対象レースから外している。
有馬記念の思い出といえば、やはり一番最初に見た有馬記念だろう。昭和49(1974)年のことだからもう35年前になる。
競馬第一次ブームを巻き起こしたハイセイコーが宿敵タケホープとともにこの有馬記念を最後に引退することになっていた。
師匠につれられて競馬場に行ったのはまだ三度目だった。新聞の買い方も赤鉛筆の使い方も、板についておらず、午前中は午後の本番に向かって、無理をせず、小さく買っては勝ったり、負けたりしていた。2200円の鰻重定食も、競馬場では高いと思わずうまかった。
7レースと記憶しているが3歳(現2歳)二百万下(現五百万下)だったと思う。特別戦のひいらぎ賞があった。パドック出入り口の屋根の上に馬主専用のスペースがあったが、その後ろから見下ろす形でパドックを眺めていた。すると一頭黒光りする好馬体の馬が目にとまった。目の前を通りすぎて向こう側へ回ったとき、その大きくたくましいお尻に感動した。馬を見る目などまったくなかったが惚れ込んで、師匠にあの馬から買おうとせがんだ。
その馬は新馬戦で、勝ったダイヤモンドアイに最後方から、しかも大外を回って追い込んでハナ差届かずの2着だったが、次戦は一転して逃げきり、3馬身の楽勝を演じていた。次のレースが3戦目のこのレースだった。師匠もレースぶりからマークしていたようで意見は一致し、その馬の3枠から流すことになった。何を隠そうその馬こそがカブラヤオーだったのである。わたしが最初に惚れて、ずっと思い続けている最愛の馬である。
レースはカブラヤオーが終始逃げて、さらに6馬身の楽勝で終わった。単勝を買っておけば良かったとずっと後悔している。その頃は枠連一本やりで単勝を買うほど長けていなかったのだ。カブラヤオーは確か4、5番人気と見くびられていたと思う。そのレースで師匠が必ず抑えておけよと言われた7枠のハザマヒカリが2着に入って連勝3-7は9,070円だった。特券(千円券)で取ったので、一万円が予算だったわたしにもう負けはなかった。
8レースを終えていよいよメインレースの有馬記念を迎えた。当時9レースがメインでそのあと特別競走と平場戦の2レースが組まれ全部で11レースだった。残りの2レースはきっと敗者復活戦のようなものだったと思う。なき一、なき二まであったということになるが、逆に挽回しようともくろんだ皆の身ぐるみすべて剥ぎ取る結果になったことだろう。
人気のハイセイコー、ライバルのタケホープと続き、3番人気に関西から来たタニノチカラがいた。師匠は人気志向ではなかったから、引退試合と言えども、ハイセイコーとタケホープを買うなんて芸当はできなかった。
また、当時関東と関西は現在ほど交流はなくて、GⅠぐらいしか手合わせがなかった。今からでは信じられないだろうが、関東の方が圧倒的に優位だったし、関西馬何するものぞという空気があった。お互いにライバル意識むき出しだったのである。そうそう、競馬四季報も関東版、関西版と別々に売っていた。東京に住んでいたので師匠にも関東贔屓があったから、関西のタニノチカラは無視していた。
資料がなくて記憶に頼るしかないが、他にはストロングエイトやカーネルシンボリなどがいたと思う。カーネルシンボリで思い出したが、確かこの馬に乗っている野平祐ちゃんのラストランでもあったと思う。
われわれは穴を狙って、キチガイ馬と言われたベルワイドから入った。たしか秋の天皇賞(府中3200m)で着順は良くなかったが34秒台の末脚を見せていたのである。
ゴール前の群集の中にいて伸び上がりながらレースを見ていた。オーロラビジョンなどは夢のまた夢で、掲示板のランプに先行する5頭の馬番が点滅していた。
レースはなんのことはない、タニノチカラが逃げ、ハイセイコーとタケホープも2、3番手を先行するがお互いに牽制しあって、そのままゴールするという腑抜けた結果になった。われわれには盛り上がりもないまま討ち死にだった。
考えてみれば、中山の2500mの先行有利なコースでど追い込み馬を買ってはいけなかったのである。
まぁ、それでもマイナスではなかったから、元気にオケラ街道を歩いて帰った。
さあいよいよ最終ラウンドだ。しっかりものにして行きたい。予告しておいたようにラジオNIKKEI2歳Sを買って的中したらそれを有馬記念にコロガシていくことにしたい。中山大障害GⅠもあるが、障害は苦手だし、落馬のあるレースはリスクが高すぎるので対象レースから外している。
有馬記念の思い出といえば、やはり一番最初に見た有馬記念だろう。昭和49(1974)年のことだからもう35年前になる。
競馬第一次ブームを巻き起こしたハイセイコーが宿敵タケホープとともにこの有馬記念を最後に引退することになっていた。
師匠につれられて競馬場に行ったのはまだ三度目だった。新聞の買い方も赤鉛筆の使い方も、板についておらず、午前中は午後の本番に向かって、無理をせず、小さく買っては勝ったり、負けたりしていた。2200円の鰻重定食も、競馬場では高いと思わずうまかった。
7レースと記憶しているが3歳(現2歳)二百万下(現五百万下)だったと思う。特別戦のひいらぎ賞があった。パドック出入り口の屋根の上に馬主専用のスペースがあったが、その後ろから見下ろす形でパドックを眺めていた。すると一頭黒光りする好馬体の馬が目にとまった。目の前を通りすぎて向こう側へ回ったとき、その大きくたくましいお尻に感動した。馬を見る目などまったくなかったが惚れ込んで、師匠にあの馬から買おうとせがんだ。
その馬は新馬戦で、勝ったダイヤモンドアイに最後方から、しかも大外を回って追い込んでハナ差届かずの2着だったが、次戦は一転して逃げきり、3馬身の楽勝を演じていた。次のレースが3戦目のこのレースだった。師匠もレースぶりからマークしていたようで意見は一致し、その馬の3枠から流すことになった。何を隠そうその馬こそがカブラヤオーだったのである。わたしが最初に惚れて、ずっと思い続けている最愛の馬である。
レースはカブラヤオーが終始逃げて、さらに6馬身の楽勝で終わった。単勝を買っておけば良かったとずっと後悔している。その頃は枠連一本やりで単勝を買うほど長けていなかったのだ。カブラヤオーは確か4、5番人気と見くびられていたと思う。そのレースで師匠が必ず抑えておけよと言われた7枠のハザマヒカリが2着に入って連勝3-7は9,070円だった。特券(千円券)で取ったので、一万円が予算だったわたしにもう負けはなかった。
8レースを終えていよいよメインレースの有馬記念を迎えた。当時9レースがメインでそのあと特別競走と平場戦の2レースが組まれ全部で11レースだった。残りの2レースはきっと敗者復活戦のようなものだったと思う。なき一、なき二まであったということになるが、逆に挽回しようともくろんだ皆の身ぐるみすべて剥ぎ取る結果になったことだろう。
人気のハイセイコー、ライバルのタケホープと続き、3番人気に関西から来たタニノチカラがいた。師匠は人気志向ではなかったから、引退試合と言えども、ハイセイコーとタケホープを買うなんて芸当はできなかった。
また、当時関東と関西は現在ほど交流はなくて、GⅠぐらいしか手合わせがなかった。今からでは信じられないだろうが、関東の方が圧倒的に優位だったし、関西馬何するものぞという空気があった。お互いにライバル意識むき出しだったのである。そうそう、競馬四季報も関東版、関西版と別々に売っていた。東京に住んでいたので師匠にも関東贔屓があったから、関西のタニノチカラは無視していた。
資料がなくて記憶に頼るしかないが、他にはストロングエイトやカーネルシンボリなどがいたと思う。カーネルシンボリで思い出したが、確かこの馬に乗っている野平祐ちゃんのラストランでもあったと思う。
われわれは穴を狙って、キチガイ馬と言われたベルワイドから入った。たしか秋の天皇賞(府中3200m)で着順は良くなかったが34秒台の末脚を見せていたのである。
ゴール前の群集の中にいて伸び上がりながらレースを見ていた。オーロラビジョンなどは夢のまた夢で、掲示板のランプに先行する5頭の馬番が点滅していた。
レースはなんのことはない、タニノチカラが逃げ、ハイセイコーとタケホープも2、3番手を先行するがお互いに牽制しあって、そのままゴールするという腑抜けた結果になった。われわれには盛り上がりもないまま討ち死にだった。
考えてみれば、中山の2500mの先行有利なコースでど追い込み馬を買ってはいけなかったのである。
まぁ、それでもマイナスではなかったから、元気にオケラ街道を歩いて帰った。
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