《「ミロのヴィーナス」考 その7 ハヴロック氏のアフロディテ(ヴィーナス)論まとめ》
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1820年に出土した「ミロのヴィーナス」は、発掘された時に付いていたとされる台石の字体は大体紀元前120~100年ころのもので、後期ヘレニズム期の年代と合致していたことは先述した。この年代は、クラ―マーの言うところの開放的様式と新古典主義的特性の混ざった、彫刻自体のもつ折衷様式とも一致していた。
さて、それでは、「ミロのヴィーナス」が制作されたとされる後期ヘレニズム時代とは、美術史的にどのような時代として捉えれているのか?
この点について、ハヴロックは、1921年に発表されたヴィルヘルム・クラインの見解を紹介している(W. Klein, Vom antiken Rokoko, Vienna, 1921.)。
クラインは、このギリシャ美術後期において、「ロココ」対「バロック」の図式を想定した。ふつう「ロココ」とは、17世紀のヨーロッパ美術におけるバロック様式に続く、フランス王ルイ15世(1715~74年)の時代に栄えた装飾的な芸術様式の言葉であるが、クラインはこれを借用した。
クラインによれば、古代のバロック様式は、紀元前3世紀から紀元前150年ころまでのペルガモンの彫刻に明らかに見られるという。しかし紀元前175年には、やはり小アジアに端を発するロココ様式がとってかわる兆しを見せ、この様式はおおよそ紀元前25年まで続くと考えた。
クラインの定義する古代バロックはモニュメンタルで、英雄的で、神話的なテーマが主流で、動きと表現は力強いと理解した。一方、古代のロココは、サイズが小さくなり、装飾的かつエロティックで、音楽や文学、にぎやかな祝祭のテーマが好まれた。気楽で繊細、時にもの悲しく、時に喜劇的で、目的としては公的というよりも私的なものである。テーマとしては、じゃれあう子供や踊り子などが広く見られるが、ディオニュソス的なテーマや女性像が重要である。
クラインは「うずくまるアフロディテ」(ローマの国立博物館所蔵)とその後世のヴァリエーションと考えられるものを例に挙げて、バロックからロココへの移行を説明している。
クラインが紀元前3世紀前半のドイダルサスの手によるものと考えたローマの国立博物館所蔵の「うずくまるアフロディテ」の方は、豊満な体つきで、そこから重量感のある四肢が伸びてトルソーを支えており、端的に言うと、ルーベンスの裸体像に近い。それに対して後世のヴァリエーションは、体がより正面を向いており、膝を落として落ち着いて安定した姿勢になっている。トルソーはずっと細身である。言ってみれば、18世紀の優美な理想美を体現している。このような特徴は、ロドス島の「うずくまるアフロディテ」にも見られる。
ただ、クラインの説には、時代的制約もあることも事実である。クラインの執筆当時、18世紀のヨーロッパ美術は、革命前の退廃的なフランス宮廷との関連もあり、多くの人に軽薄で表面的で軟弱なものと捉えられていたが、クライン説にも、こうした軽蔑的態度が見られるとハヴロックは評している。
ところで、ロココはバロックのお膝元である小アジアで始まったが、主に栄えたのはアレクサンドリアであったとクラインは考えた。ヘレニズム期の都市、アレクサンドリアでは、ファラオ時代のように巨大な建造物を建てることはできなくなっていた。その代わりに、小さく魅力的なものや、きらびやかな祝祭や、アフロディテの恋人だったアドニス信仰に目が向いた。アフロディテもアドニスも、プトレマイオス朝の女王たちによって人気が高まっていたそうだ(クライン説では、アレクサンドリアは紀元前4世紀後半からプラクシテレスに充分に感化されていたため、バロックの強い影響に屈することがなかったとされている)。
「バロック」という用語は紀元前2世紀のペルガモンとその周辺の作品の華やかな様式を表す語として定着している。しかし、ヘレニズム美術におけるロココ様式を独立した存在と見ることについては、クラインの発表当時から疑問視されてきた。ロココを独立した様式や時期としてではなく、連続した伝統の中でとらえている学者もいる。例えば、「古代美術においてロココ的潮流は紀元前3世紀に始まり、その後ずっとローマ時代に至るまで続いている」とする。
著名なギリシャ美術史家J・J・ポリットは、ヘレニズム美術におけるロココ期を定義することが正しいかどうか疑問視している。年代を断定する作品が少なすぎるという理由からであるが、もしロココ的性質を持つヘレニズム時代があるとすれば、紀元前2世紀後半の可能性が高いという。
ハヴロックの見解では、少なくとも紀元前2世紀になって群像立体彫刻に新しいテーマが加わったという点に関しては、クライン説は正しいとしている。
そのような等身大よりほんの少しだけ小さい群像は、広く複製された。そのサイズと独創的なデザインは偉大な業績で、ギリシャ美術史において新しい関心が生じた。そして女性のヌードがいわゆるロココ期に人気があったテーマだということについても、ハヴロックはクライン説に賛成している。
しかし、ハヴロックにクラインと意見を異にするところがある。それはこの新しい方向性が示されたのは紀元前175年ではなく、紀元前2世紀も終わりになってからである点である。そしてクラインが提案したような紀元前2世紀前半のペルガモン王国の重厚なバロックに対する反動として生まれたのではなく、このロココ様式はむしろ新しいタイプの注文主の趣味に応えたものであるとハヴロックは考えている。
後期ヘレニズム時代(紀元前150~100年)に新しく起きたエロティックな匂いのする裸体に対する好みは、アフロディテ像だけに限らず、いわゆるロココ様式の作品に多く見受けられる。例えば、「アフロディテとパン(牧神)とエロスのデロス島の群像」は、その好例である。それは、紀元前100年ころに刻まれ、おそらく紀元前2世紀後半の彫刻家ヘリオドロスの手によるものと考えられている。全体の構図こそ独創的であるが、個々の像は類似例がある。アフロディテはクニディアのしぐさのパロディーである。
先述したように、陰部を覆う片手のポーズが模倣されているのが、はっきり見て取れるのは、この時が初めてであるが、プラクシテレスは複雑な意味を伝えようとしたが、デロス島の彫刻では、その宗教的な含意は風刺とユーモアに覆われてしまった。
古代ロココ期の主題では、アフロディテとディオニュソスの人気が高く、二人とも人生の喜びを司る女神である。デロスの「パンとエロスとアフロディテの群像」を見てもわかるように、物語的な興味を引き、見ている人を引き込みやすい。しかし、これらの彫刻を包括的に見れば、特に優雅で上品でもなく、18世紀のロココ美術になぞらえるのにはかなり無理があるとハヴロックはみている。むしろ、がさつで、単刀直入で、ユーモラスである。
さらに18世紀美術の注文主の多くが女性だったのに対し、これらの群像はかなり単純な男性の好みを反映しているともいう。紀元前2世紀後半に始まったこれらの群像の革新性についてのクラインの評価は的確だったが、その様式的特性についてはいま一つ理解が欠けているとハヴロックは批判している。
さて、一方で、紀元前2世紀後半から紀元前1世紀にかけては、激しいエロティシズムよりも、情緒を高揚させる効果を求めるパトロンもいた。彼らは、活気溢れる動きよりも緩やかな動作を、あけすけな性的表現よりも何かをじっくり考えさせる物語的群像を好んだ。
南イタリア生まれのギリシャ人、パシテレスの作品はその好みに合ったものである。彼は彫刻家であると同時に、学者でもあった。彼の一番弟子であるステファノスと、その弟子のメネラオスは、紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけてローマで活動し、師の路線に沿った作品を作り続けた。対立するというよりも親しく語らうような構図の二人組が構成されており、簡素で質素なその人物像を見ていると、内省的な気分にさせられる。ポーズやドレープのあしらいは、過去の芸術からの程良い影響を感じさせる。
例えば、現存する「ステファノスの若者像」のコピーには、若者が謎めいたささやき合いや以心伝心の意志疎通をしているペアとして表されているものも多い。ナポリの国立博物館にある「オレステスと姉のエレクトラ」の像はその一例である。
いわゆる「ステファノスの若者像」である男性像は、ドリュファロスのポーズよりも物憂げなコントラポストのポーズで立っている。このような群像でヌードになるのは、男性像に限られていた。おそらく裸体に肉欲よりもヒロイズムや向上心を映し出したかったのだろうとハヴロックは推測している。硬質な表面の質感や抑制された輪郭と、気取った上品な雰囲気のコントラストは、刺激的でさえあるともいう。
さて、以上のように見てくると、後期ヘレニズム時代のモニュメンタルな彫刻においては、図像学的に見て、少なくとも二つの潮流が判別できる。
一つ目は、「ロココ」様式である(ハヴロックは他に適切な言葉がないので仕方なく使うと断わっている)。エロティックで、煽情的で、陽気という特徴を持つ。
もう一方は、古典主義的で、礼節を保ち、品位を感じさせるようなパシテレス一派に集約される系統である(古典主義は、当時の芸術理論でも明言されている)。
紀元前1世紀には、クィンティリアヌスやキケロ、そしてパシテレスが表明した、高尚な道徳観が突出しはじめている。したがってフェイディアスやポリュクレイトスの優位性が主張されるようになった。
クラインによれば、ロココ群像に付きものとされる軽やかさや官能性は、プラクシテレスの影響であるが、後期ヘレニズム時代からローマ時代にかけての恋愛詩にも鮮やかに反映されているとハヴロックはみている。ともあれ、二つの潮流は、同じ現象の表裏であるようだ(ハヴロック、2002年、109頁~110頁、127頁~134頁)。
ハヴロックの著作を要約する前に、「クニドスのアフロディテ」「ミロのヴィーナス」などについて、補足をしておきたい。
「クニドスのアフロディテ」は、ポリュクレイトスの「ドリュフォロス(槍を持つもの)」と同様に、ギリシャ美術の中核をなしている。「クニドスのアフロディテ」の柔和で穏やかな姿は、抑制された理想的な輝かしい女性美を表現している。
フリュネはギリシャの高級娼婦だが、プラクシテレスが愛人フリュネをモデルにしてアフロディテ像を彫ったという逸話があるが、彼女は主にフィクションの人物であり、プラクシテレスとの関係は彼の死後捏造された架空の物語であるとハヴロックは考えている。ただ、19世紀の終わりには、これらの物語や詩は、クニドスのアフロディテの解釈の手だてとして確立していた。
ところで、ヘレニズム期も終わりに近づいて、急にプラクシテレスの彫刻が新たな強い関心を引くようになった。風刺詩(エピグラム)にクニディアの裸体美に関する言及が見られ、またフリュネとプラクシテレスの男女関係についてのフィクションがその頃出回り始めた(モデルと恋に落ちるプラクシテレスという発想には、オウィディウスの書いた象牙の乙女に恋するピグマリオンと相通じるものがある)。
紀元前1世紀前半、ギリシャが完全にローマの支配下にあった頃、クニディアの評判は高まり、東方の富裕な王が高値で競り落とすまでに至った。
また、デロス島で見つかった「アフロディテとエロスとパン(牧神)の群像」は後期ヘレニズム期(紀元前150~100年)にクニディアが再発見されたことの証拠であるとハヴロックはみなしている。陰部を覆う右手のポーズが模倣されているのが見て取れるのは、この時が初めてである。このポーズを考案したプラクシテレスは、それによって複雑な意味を伝えようとしたが、デロス島の彫刻では、その宗教的な含意は風刺とユーモアで覆われてしまったとハヴロックはみている。
「クニドスのアフロディテ」のレプリカは、デロス島の三神像が作られたのとほぼ同時期から、数多く制作されるようになるが、その大半は縮小型である。後期ヘレニズム期における未曾有のクニディア人気を示している。この頃、プラクシテレス作品に想を得て、多くのヴァリエーションの像が現われた。手で陰部を覆うポーズのものもあれば、衣服のドレープで隠し、自由になった手で髪をまとめたり盾を持ったりしているものもある。立っていたり、跪いていたり、かがんでいたり、腰を曲げていたり、振り向いていたりと、様々なポーズを取ったアフロディテの裸体像が作られている。若い愛の神エロスが、母アフロディテと遊んでいたり、鏡を持ってあげたりしているものもある。ただ、これらの作品をデザインした彫刻家はほとんど無名である。あまりにも多いため、クニディアとその他の7タイプに限定してハヴロックは検討している。
そこには、時系列と解釈にまつわる問題や、制作年代についての問題があるが、その問題の中心には、ヴィンケルマンの意見がある。それはヴィンケルマンの唱えたギリシャ美術に関しての根強い信念、すなわちヘレニズム期は政治的下降期であり、結果その芸術も衰退に向かっていたという意見である。ハヴロックはヴィンケルマンをはじめとする学術界の性癖(つまり題材ではなく作品を扱わなければいけないことを忘れがちな傾向)を批判している。
またアフロディテ像については、ある種の父性原理的なバイアスが培われてきており、その偏見のせいで受け止め方に悪影響が生じているのは、クニディアだけではなく、別の有名な彫刻、メロス島のアフロディテ(「ミロのヴィーナス」として著名)も同じであるという(史上最も有名な彫刻の一つにふりかかった学術界の不思議な出来事についてもハヴロックは言及している)。
ハヴロックは持論として、等身大のレプリカの方が縮小されたコピーやミニチュアの像よりオリジナルに近いということは決してないと主張している。小さいコピーは、彫刻家が既存のタイプをどのように捉えていたかを知るのに格好の材料であるという。
そして、かつて古代ギリシャ彫刻のローマ時代におけるコピーとされてきたものの多くが、実は後期ヘレニズム期もしくは初期ローマ時代の創作であったことが明らかになりつつあり、その結果、後期ギリシャ美術の評価は好転してきているそうだ。
そして、アフロディテ像の7タイプに、例えば壺絵や小像の前例があったか否かも、調べるべき問題である。というのは、そのタイプは目新しい創作なのか、過去の芸術からの借り物なのかという疑問は、後期ヘレニズム期の業績の評価は関わってくるからである。つまり、ヘレニズム期はまだ活気と創造性を保っていたのか、それともヴィンケルマンがいうように、新たな着想のない衰退する時代だったのかに関わる問題であるからである。
最も早い時期のコピーがどこで発見されたかは、それが宗教的用途のものか世俗的用途のものか判断する材料になりうる。小像が発見された場所、例えば個人宅か、公園か、墓所か、といったことが、その用途を明らかにすることになると、ハヴロックは考えている。
ハヴロックは、ギリシャの全域の遺跡とポンペイから例を集め、年代的には後期ヘレニズム期からイタリアにおける初期帝政ローマ時代までをカバーして調べているが、かなり多くのアフロディテの彫像が、どちらかといえば世俗的な場所で発掘されていることから、そうした像が万人に共通の願いを体現していると仮定している。その上で、等身大のレプリカが公共の場に飾られるようになったのは、後期ローマ時代以降のことであると付言している。
後期ヘレニズム期における女神アフロディテの彫像には、ある種の趣向が見られる。古代の「ロココ」と呼ばれた。それは後期ギリシャから初期ローマ時代にかけての、巧妙に作られたエロティックな感情を喚起する群像について、付けられた呼称である。これらの作品は遊びと快楽中心の性的な出会いを主題とし、女性の裸体の露出と鑑賞を目的としたものである。古代の「ロココ」群像のディオニュソス的な活気とセクシュアリティには宗教的な意味合いがあり、アフロディテの身体美も神々しいものである。ただ、古代の「ロココ」美術は、軽薄であり、不運にもギリシャ美術の崇高な理想から外れて生まれたということから、必ずしも評価は高くない。けれども、アフロディテの彫像は、後期ヘレニズム期の活気ある文化全体のかけがえのない証拠でもあるとハヴロックは考えている。
こうして、ハヴロックは次のようにまとめている。「女性の裸体が彫刻の題材として主流となる気運が本当に高まるのは、古典期でも初期ヘレニズム期でもなく、ギリシャとローマが画期的な交代を迎える紀元前2世紀後半から紀元前1世紀にかけての洗練された世俗的文化が花開いた時代である」と(ハヴロック、2002年、9頁~17頁)。
<「クニドスのアフロディテ」の安置場所>
「クニドスのアフロディテ」の安置場所はどこだったのか。古代都市クニドスは、トルコ南東部の狭隘な半島に位置しており、現代のテキールにあたる。アフロディテの聖域は、その街を見下ろす高台に立っていた。海に臨んだその高台からは、半島を周回する航路の難所をよく見渡すことができた。「よき旅路の」アフロディテに捧げられた聖域としては、うってつけの立地条件だった(ハヴロック、2002年、72頁)。
ハヴロックは、アフロディテの7つのタイプはすべて紀元前150年以後に新しく作り出されたものだと結論づけている(実際にはもう少し新しいと言ってもよいとする)。
というのは、デロス島の「アフロディテとパンとエロスの群像」は、台座に残された寄贈者の銘から紀元前100年ころのものだと分かるが、これより古いと確証をもって断定できる作例は存在しないからだという。
同じように、刻まれた文字から年代が確定できる作品に、「ミロのヴィーナス」がある(紀元前125~100年)。このことから、官能的なアフロディテの形を取った裸体の女性は、紀元前2世紀の終わりになって初めて、一般的な彫刻のテーマになったものと考えている。
また、クニディアや仲間のアフロディテたちのレプリカは、紀元前2世紀から帝政期に至るまでのギリシャ・ローマ世界全域から発見されている。ただ、像の分布域よりもその像の果たしていた役割、とりわけ創生期にどのような目的で創られたかが重要なポイントである。ついで、後期ヘレニズム期から帝政ローマ時代にかけて、女神像がどこにどのように置かれていたか、代表例を集めることが大切である。
等身大より大きな「ミロのヴィーナス」は、当時としてはかなり珍しかったようである。劇場そばのニッチのような場所で発見されたと言われているが、もともとの周辺状況を知ることができない。
「アルルのアフロディテ」と「カプアのアフロディテ」については、劇場にあったことがより確実に断言できるが、紀元後2世紀までは劇場のような壮麗なシチュエーションに等身大の彫像をおくことは、数として多くなかった(そのため、ハヴロックは、小規模の彫刻に焦点をあてて、第5章で「文脈の中のアフロディテ」と題して論を進めている)。
(ハヴロック、2002年、119頁~120頁)
デロス島で見つかった「アフロディテとエロスとパンの群像」は、後期ヘレニズム期(紀元前150~100年)にクニディアが再発見されたことの証拠である。それは、1904年にフランスの考古学者が発見し、現在はアテネの国立考古学博物館に所蔵されている(それはギリシャ時代のオリジナルであり、群像としてのレプリカではない)。発掘された場所は、ベリュトス(今日のベイルート)のポセイドン信者たちが建設した巨大な建造物跡であった。
その建造物は、紀元前153年から152年に、旅行者のための宿泊施設のようなものとして、東方の流儀でポセイドン神をあがめていたベリュトスの船主と商人たちによって建設されたものである。そして、それは紀元前69年にデロスを占拠した盗賊によって破壊されるまで、使われた。
デロス島発見の群像の台座には、奉納者の名前が刻まれており、そこからは注文した正確な日付と理由が分かる。また、発見された場所もその意味と用途を物語っている。
ところで、その群像を見ると、にやついた笑顔を浮かべた獣のパンは、女神の気を引こうとしており、片手で女神の腕をつかみ、片方の手を背中に回している。アフロディテは全体的に肉付きが良く、柔らかく、肉感的な印象を与える。髪はスカーフを結んで束ねられ、右手を挙げ、今にもパンをサンダルでひっぱたきそうである。エロスは笑いながら、両者をつなぐ橋のように宙に浮いている。
この群像でもっとも意味があるのは、アフロディテが片方の手(この像では左手)で恥部を覆い隠している点である。というのは、年代の明らかなオリジナルが残っているものの中では、プラクシテレスが考案したこのしぐさの最初の作例であるからである。この作者がクニディアを知っていたことは、数々のデロス島の家から、クニディアの複製が発掘されていることから確かである。
プラクシテレスの著名も見つかっていることから、彼の名前とそのクニドスの彫像とは、ヘレニズム後期のデロス島ではかなり知られていたことが分かる(ハヴロック、2002年、13頁、69頁~72頁)。
古代の著述家たちは、プラクシテレスのアフロディテに関する詩や賛辞を残した。この像は、単なる大理石の彫像ではなく、アフロディテ自身が乗り移った、生きた女性として認識されることが多かったようだ。その柔和な表情とつつしみを示したしぐさは、エロティックさと神々しさを体現していたが、その裸体像は、いつでも容易に神殿で鑑賞することができ、多くの見物客を集めた。
数々の逸話があるが、プラクシテレスの「クニドスのアフロディテ」は、形而上的なプラトンのイデアのようなものを表現したのではなく、実体のある愛人フリュネの体をモデルにして作られたということをそれらは物語っている。フリュネが高級娼婦であったことから、二人の恋愛関係は危ないエキゾティックな香りのするものになったが、逸話による限り、彼女こそ彫刻の女性そのものであると想像してしまうほどである。
ただ、注意すべき点をハヴロックは指摘している。つまり、こうした古代の風刺詩や文献は、プラクシテレスの名作に対して、19世紀から20世紀の美術史家などのバイアスに影を落とした点である。ベルヌーイもその一人であるとみる。ベルヌーイこそ、クニディアやその他の古代アフロディテ彫刻に関する後世の研究の素地を作ったのだが、彼が生きていた時代は、父権主義的な色彩が強く、売春の招いた惨状に攪乱された時代だった。
古代の文学者が、既婚男性と愛人との情事をこっけい味と皮肉をこめて表現していたのに対し、近代の著述家はフリュネの振る舞いを倫理に反した不適切なものと見なした。そして、その見方はアフロディテやプラクシテレスの作品、本人自身にまで及び、その責を負わされることになったとハヴロックはいう。
そして、次に注意すべき点は、「クニドスのアフロディテ」の解釈に大きな影響を与えた文献が、彫刻が安置されてから何世紀も経って記された点である。同時代はおろか、ヘレニズム期の文献ですら、クニディアに言及していない。
時代の確定している文献の中では、紀元前70年のキケロ(紀元前106~紀元前43)の作品が最も古く、クニドスの市民は女神像を売る際にどれだけの金額を要求したのだろうかと問いかけているそうだ(『ウェッレス弾劾』)。そして、重要な情報源として信頼されているプリニウス(紀元後23~79)、パウサニアス(2世紀後半)、ルキアノス(紀元後約120~200年)は、キケロから200年後の著述家である。
一方、紀元前4世紀のギリシャ人の反応は、かなり違ったものだったとハヴロックは推測している。すなわち、当時のクニディアは崇拝対象で、巡礼者が入れないような小さな祠に奉られた神聖な像であったとみる。当時の状況では、この像を生身の女性(フリュネにしろ他の誰にしろ)と見まがうことは信じがたく、アフロディテの全身は神の現れと見られるべきものであったとハヴロックは捉える。当時、この像が衝撃や興奮を巻き起こしたという記録は残されておらず、おそらくその壮麗さのあまり、プラクシテレスの同時代人は沈黙するほかなかったと想像している。
さて、時代が移れば、状況も変わってくる。紀元前2世紀後半からローマ帝国が地中海世界の統一を図り始めると、交通や交易や観光が発展してくる。ローマから東方ヘレニズム地域のギリシャ都市への道が開かれ、比較的安全に旅行できるようになる。
クニドスも、紀元前129年にローマから自由港の認可を受け、商船や貿易商人は増す一方だった。紀元前31年のアクティウムの海戦後、アウグストゥスは、スペインからシリアまでを傘下に収めた。プリニウスやルキアノスなどの著述から、クニドスが人気の寄港地だったことがうかがわれる。こうして、エキゾティックな裸体像であったクニディアは、国際色豊かな好みを持つ観客の賛美の的となった。
また、アペレスが描いたアナデュオメネを見ることができたコス島も、少なくともアウグストゥスがその絵をローマに持ち去るまでは、クニドスと並ぶ人気の寄港地だったのである。
クニディアの名声が高まるにつれて、それにまつわる風刺詩も作られるようになった。そうした詩の中には、おそらく後期ヘレニズム時代かそれ以後の作と思われる年代不詳の詩があり、芸術家プラクシテレスと高級娼婦フリュネのつながりを明言している。二人が初めて関係づけられたのも、この時期だとハヴロックは推測している。二人は、当時の風潮に乗って創作されたとみる。
紀元前4世紀にアテナイにいたとされる高級娼婦フリュネと、クニドスにある愛の女神像(ヘレニズム後期のその頃にいたって脚光を浴びるようになったクニディア)を彫ったアテナイ人の彫刻家プラクシテレスが結びついても、理論上はおかしくないというのである。そしてフリュネは、モデル兼愛人の原型として歴史に残ることになった。
ところで、後期ヘレニズム時代から帝政ローマ時代初期にかけて書かれた詩文や風刺詩は、クニディアを理解するのには役立たないかもしれないが、他のアフロディテ像の解釈と年代同定には大きな意味を持つ。この点、オウィディウスの哀歌形式の詩は興味深いという。彼の詩はその優雅さとエロティシズムとユーモアゆえに、「ロココ」的だと考えられてきた。彼のヴィーナス、彼の恋人コリンナは、まるで美しい彫刻であるかのように対象化され、崇拝された。恋愛そのものは、オウィディウスより前の世代から既に中心的テーマになっていたが、エロティックな哀歌という新しい文学ジャンルの誕生は、アフロディテ彫刻がグレコ・ローマン美術に広まり始めたのと、時を同じくしている。そして、これらの詩のほとんどが、女神や高級娼婦の愛人に向けて歌われたものであるそうで、プラクシテレスとフリュネの恋愛関係も、この流れに位置づけられるとハヴロックはみている。
そして、フリュネとプラクシテレスの逸話は、デロス島から出土した「アフロディテとパンとエロスの大理石製群像」(ポセイドン信者の集会所から出土)と共通点があるともいう。文献から読み取れるフリュネのじらすような振る舞いは、デロス島のアフロディテに体現されているとする。
ところで、ベルヌーイ以降、「クニドスのアフロディテ」は、後続のギリシャの彫刻家に、インスピレーションを与えたと正しく認識されてきた。ハヴロックが紹介した7タイプのアフロディテは、プラクシテレスの彫刻の影響を受けており、古代の女性裸体彫刻に関する近代の議論を支配してきた。
ただ、その中で、ギリシャ時代のオリジナルが残っているのは、「ミロのヴィーナス」だけであるとハヴロックは指摘している。その他の名前の付いた彫像の大半は紀元後2世紀から3世紀にかけてのローマ時代のコピーである。
ローマを中心にイタリアに集まっていたそれらの彫刻は、ヴィンケルマンやベルヌーイなどによって聖典化され、以後、芸術家たちに賛美されることになる。20世紀になっても、これらの作品が私たちの思考や知識を過度に支配してきたし、そしてこれらの作品によって直線的進化がたどられてきたとハヴロックは批判している(そして、より古い時代に作られた違ったタイプの小さなコピーは、年代的な問題に重要な光を投げかけるものであったのにもかかわらず、ほとんど顧みられることはなかったと不満を記している)。
それはさておき、アフロディテの7つのタイプは、ギリシャ時代後期の創作である。それらをひとつのグループとしてとらえれば、その出現の持つ重要性も増す。
紀元前4世紀中ごろのプラクシテレスの作品に続いて、間髪開けずにオリジナルが連なっていったのではなく、全裸や半裸の女神像が華々しく開花するまでには、およそ紀元前330年から紀元前100年までの間、2世紀にも及ぶ空白期間があったということが、立証されていることに注意を促している。
そして、この後、官能的アフロディテは初めて人気のタイプとして揺るぎない座を築くこととなった。これらの後世のアフロディテ像のうち、カピトリーノとメディチの2タイプは、ずっと昔のクニディアからヒントを得たものとハヴロックは考えている。
それに対し、「うずくまるアフロディテ」、半裸や全裸の「アフロディテ・アナデュオメネ」、「サンダルを脱ぐアフロディテ」「ミロのヴィーナス」「アフロディテ・カリピュゴス」は完全に新しい創作であるとみている。
「アフロディテ・カリピュゴス」以外の各タイプについては、人々が多くのコピーを欲しがったことで、急速に複製が作られるようになり、それと同時に芸術活動にも拍車がかかった。
ところで、アフロディテの裸体像は、紀元前150年以後生まれ変わったとする見解をハヴロックは支持している。プリニウスも、第156オリンピア期間(紀元前156~153年)を境に芸術は復興したと『博物誌』に記していることも、その論拠としている。
ほとんど同時期に、小さな大理石やテラコッタ製の複製も出回り始め、広域に分布するようになった。複製は多様性に富み、ポーズの左右が逆だったり、頭部の角度が違っていたり、しぐさが異なっていたりする。また、イルカやリンゴや壺や鏡や柱といった付属物が、必要に応じて、添えられたり外されたりした。
ただ、タイプの数は比較的限られており、レプリカ同士でかなりの類似を示すものもあることから、単一の工房内において協同作業で工程が進められていたようだ。また、デロス島の発掘結果から、特定の工房が一つないしは二つのタイプを得意にしていたことがわかる。
壺の形も彫像もそうであるが、ギリシャ美術は定式によって限定された範囲内で製作される傾向があった。職人の一人一人が、柔軟性のある、一般的なタイプに基づいて作った自分なりのヴァージョンに誇りを持っていたとハヴロックは推測している(クレオメネスも、そのような気持ちで「メディチ家のアフロディテ」にサインしたとする)。
ブロンズや大理石やテラコッタといった素材は、像を置きたい場所に応じて選ばれ、デロス島で圧倒的に大理石像が多かったのは、陶土が採れなかったからであるらしい。
また、テラコッタの小像は、年代がはっきりしているものが多いため、そのタイプが生まれた時期を決定するのに特に役立つ。個人宅から多数発見されているほか、家庭内の神殿や墓地からも見つかっている。しかし“純粋芸術偏重主義の偏見”にとらわれすぎて、これらのモニュメンタルな作品群から学ぶべきものを学んでこなかったとハヴロックは不満を抱いている。
ところで、プラクシテレスの女神像は、神殿に立っている、穏やかな女神の姿である。この像のポーズの由来を分析した結果、それが紀元前4世紀中盤に作られた真の古典主義的表現だという確証を得た(ただ、ハヴロックは、しぐさや付属物から物語的なコンテキストを読み取ることはできないという)。
しかし、後期ヘレニズム期のアフロディテ像の場合はだいぶ違い、そのしぐさには人を動かさずにいられないところがあった。カピトリーノとメディチ家の像の恥じらいのしぐさ、「うずくまるアフロディテ」、アナデュオメネ、「サンダルを脱ぐアフロディテ」の優雅な動きは、人々に感嘆と尊敬の意を起こさせる。
恥じらいのしぐさを取る彫像は、女神の力の中心や、女性の体の美と豊かさを肯定しているという。そして、「うずくまるアフロディテ」の豊かな肉付きは、より肉感的な女性像の表現として賞賛されたであろう。
そして半裸の「ミロのヴィーナス」の誇り高く自律的な態度は、私たちの同情を引こうと感傷的に訴えかけてくることはしないとハヴロックは捉えている。そして、この像は官能的でありながら、よそよそしく作られているともいっている。
ところで、ヘレニズム期は創造性の欠如した模倣の時代で、衰退は必至であったという説が、ヴィンケルマンによって広められた(このことは、「ミロのヴィーナス」理解・評価に影響を与えた)。今日では、ヘレニズム期全体というよりも、後半もしくは後期3分の1に限定して、この概念が適応されることが多い。
その結果、紀元前150年以降に広まった数多くのアフロディテ像のタイプは、より想像力に富んだ時代のギリシャ美術のモデルから着想を得たものでなければならないという、基礎的な前提ができあがったそうだ。この理屈から考えれば、初期および盛期ヘレニズム期は、より時期的に早いため、後期ヘレニズム期よりも無条件に革新的だということになってしまう。たとえば、後期ヘレニズム時代に作られた本物の傑作である「ミロのヴィーナス」は、二級品のローマ時代のコピーしか残っていないオリジナル作品のコピーに格下げになっていた!! これはばかげた論理であると、ハヴロックは非難している。
そして、現代では、後期ヘレニズム期は極めて創造力ある時代であり、無味乾燥な枯渇した時代ではないということを証明しようとするのが、研究の推進力になってきていると付言している。
さて、ヘレニズム期のアフロディテ像の発展について、どのように考えられてきたのか。
まず、ベルヌーイの歴史観を基にして進化の枠組みが考えられ、それが19世紀全体の考え方の基礎となった。ベルヌーイは、紀元前4世紀のクニディアを出発点として、その後、女性裸体彫刻がただちに興隆したものと考えていた。
そして、クラーマーがヘレニズム彫刻全体の形態に関する基本的な発達理論を確立すると、その後の学者はベルヌーイの描いた図式を完成させていくことになった。
男性像の段階的発達は、不変的上昇としてとらえられてきた。例えば、男性裸像の発達は、次のように解釈されてきた(ハヴロックは、男性裸体像も女性裸体像の発展と平行して展開したと考える方が自然であろうと批判している)。
ギリシャ美術初期の男性裸体像は、戦士・運動家に対する英雄崇拝や神性を、暗に感じさせるものとして、常に意味を持ち、衣服を着けていないことに対して何の理由付けも要らなかった。
しかし、「クニドスのアフロディテ」の場合は裸であることの口実として、沐浴という状況を用意する必要が考えられていた。脇に添えられた衣服は、トラブルを回避するための安直な手段として受け止められた。しかし、クニディアは、アポロンやゼウスと同じように、神であるから裸なのである。
男性裸体像の発達が倫理的・知的な完全性に向かっていたとされているのに対して、女性の裸体像における時間的・空間的な解放は、不当にも退廃という烙印を押されることが多すぎた。それは、神から人へ、道徳から不道徳への堕落を意味するとされてきた。
ポリュクレイトスとその代表作「ドリュフォロス」がギリシャ美術史の中核をなしていたのに対し、プラクシテレスとクニディアが周辺的存在だったのはどうしてなのだろうかという疑問をハヴロックは抱いたという。
そして、それは、近代の偏見に基づくものであるという結論に達している。
古代ギリシャの彫刻家は男性の体の理想を追求したのと同じように、女性の体の理想も追求し続けていたとみる。さらに、古代ギリシャにおいて、ポリュクレイトスが芸術の代弁者として第一人者だったとか、彼の男性裸像が芸術の規範だったという証拠は、美術作品にも文献にも見出せないという。プラクシテレスは当時の文筆家の深い尊敬を集めており、ポリュクレイトスに匹敵する存在だった。ローマ時代の複製とヴァリエーションの数が「ドリュフォロス」の人気の指標だとすれば、クニディアの数はもっと多いそうだ。
後期ヘレニズム美術には、「閉じられた」形態も、「開かれた」形態も、また正面性の強調も「バロック」的なものも、三次元の構図としてはすべてが共存していた。多様なアフロディテの形態に関する単一の原則は存在せず、クラ―マーの年代同定法は通用しなかった。
そして、ハヴロックは、これまでアフロディテ彫刻に関して適用されてきた発達理論は捨て去るべきであると主張する。
プラクシテレスのクニディアは確かに後世の彫刻家たちにインスピレーションを与えたが、完成直後からそうだったわけではない。紀元前3世紀になってアフロディテは徐々に自分が裸であるという苦境を認識し出したというこれまでの主張や、紀元前2世紀においては自分の体を隠そうとながらも、結果として体を解放することが必要だったという議論も、正しくないとする。
それよりも、焦点を当てるべきは、裸であることの宗教的な意味合いであるとハヴロックは強調している。その像が性にまつわる力と御利益を体現していたということが理由の一つであると考えている。ヌードの女神像は、生命そのものに対する支配力やその起源に対する尊敬の念の象徴だったが、古代において、アフロディテ像はこのような宗教的目的を持っていたというのである。
古代のアフロディテ像は、宗教的意味合いとともに、商業的な意味合いもあった。例えば、ニコメデスは、クニディアを崇拝偶像として崇めていたが、同時に交換用の商品としてもとらえていた。また、デロス島の「アフロディテとパンとエロスの群像」も、ポセイドン信者の集会所に集まる商人や船主にとっては、商業的な意味合いがあった。
そして古代ギリシャ・ローマの一般の女性にとって、女神像は賞賛と理想化の表れと考えられていた。アフロディテ像は、家庭や家の神棚や庭や墓地に置かれた。
結果的に、後期ヘレニズム期において女神像が浸透し、その「英雄的な裸体」が巧妙に飾り立てられたが、このことはヘレニズム期の女性の社会的地位が古典期に比べ向上したことの表れとなっているとハヴロックは考えている。
プラクシテレスとその作品を理解する上で役に立つ基本的な問題のひとつとして、ハヴロックは次の点を指摘している。古代ギリシャ・ローマにおけるアフロディテや女性は生来的に無垢であるのに対し、19世紀におけるアフロディテや女性は生来的に罪深い存在だということである。
彫刻において女性のヌードというテーマの人気が高まった要因として、ローマ人の支援と影響力をハヴロックは挙げている。
例えば、紀元前3世紀後期に、「エリユクスのアフロディテ」がシチリア島からローマにもたらされ、カピトリーノの丘にその神殿が建てられた。ヴィーナス[ウェヌス]と名前を変えたアフロディテは、古代ローマの主要な神となり、その像は家々に据えられた。ポンペイはその好例である。
また古代ローマ世界において、デロスはローマと東方を結ぶ商業活動の中心地として栄えるようになる。ポセイドン信者の集会所には、地中海一帯から貿易商人が訪れた。デロスからローマへ向かう途中のアンティキュテラ沖の難破船から「クニドスのアフロディテ」の複製のトルソーが発見されている。おそらくローマのパトロンが注文した最も古い時代の複製の一つだと推測されている。
そして、帝政ローマ後期になっても、「クニドスのアフロディテ」と、その他のタイプのアフロディテは、重要なものであった。女神たちは、ローマ帝国内の劇場や浴場や噴水や邸宅を飾るようになった。例えば、ティボリにあるハドリアヌス帝の円形神殿は、クニディアのコピーを見せびらかすために建設された。
ところで、アフロディテの長期にわたる人気を最もよく示しているのは、古銭の分野であるといわれる。紀元後2世紀から3世紀にかけてのローマ帝国東部では、「アフロディテ・カリピュゴス」以外の各タイプのアフロディテをかたどったコインが鋳造されている。さらに、同一のタイプの彫像が複数の都市で発行された貨幣に使われた。
例えば、211年から218年にかけてカラカラ帝と后プラウティラによって作られたコインは、プラクシテレスのクニディアが刻まれ、クニドスから見つかっている。一方、235年にはマクシミヌス帝治下のキリキア地方のタルソスでも、同じ像が使われている。紀元後3世紀の初期には、ビテュニアでも、ポントスでも、「うずくまるアフロディテ」がコインに選ばれている。裸体の「アナデュオメネ」の貨幣は、2世紀後半にはアカイアで、3世紀前半にはリュディアで鋳造されている。
それらの像をコインに使うということは、複数の都市国家が名高い秘蔵の芸術作品を所有しており、そのことが富と市民の誇りの表明であったことを意味しているとハヴロックは解釈している。そして、アフロディテ=ヴィーナス信仰は、ローマ帝国の東西を問わず、ユリウス・カエサルに始まるローマ皇帝の血筋の神話的起源と結びついていたことも付言している。
また、後期帝政期においてアフロディテの各タイプが、コインの図案として圧倒的に選ばれたが、その多くには、皇后の名が刻まれており、中にはセプティミウス・セウェルス帝の2番目の妃であったユリア・ドムナ、ハドリアヌス帝の妃サビナなどである。
彼女たちは政治的権力を持ち、野心に満ち、夫である皇帝や息子の後ろ盾を持っていた。彼女たちは、政治的・宗教的理由からアフロディテ=ヴィーナスとの同一化を、自らの力の表明として図っていたとハヴロックは捉えている。
後期ヘレニズム期に人気を博した主題である愛の女神アフロディテは象徴としての力を持ち続けた。芸術作品としてのアフロディテの裸体像は、神話世界における女性の寛容と人間性を象徴している。同時に、そこには理想のセクシュアリティの概念とか愛の本質の姿といった普遍的な意味もある。
後期ヘレニズム期において、アフロディテは美術史上の新時代の活気をも表現しており、衰退していく時代でないことをハヴロックは強調している。ギリシャの芸術家は、それまでとは異なった挑戦に対して想像力豊かに応じていたが、その道を指し示したのがプラクシテレスであったというのである(ハヴロック、2002年、149頁~162頁)
訳者(左近司彩子)は、「訳者あとがき」(203頁~204頁)において、このハヴロックの著作の特徴を2つ挙げている。
1 ハヴロックの明解な論の展開と文章
このため、翻訳の作業そのものは、スムーズに筆を進めることができたそうだ。そして、「当初女性学的観点からの裸体彫刻研究と聞き及んでいたが、全体の論調としては、フェミニズム色は薄く、むしろ歴史的な観点からの推論や精査に基づく年代確定などが際立った論文となっている」と評している。
すなわち、ハヴロックによる「歴史的な観点からの推論や精査に基づく年代確定」に関して訳者は高く評価している。
内容紹介で述べたように、「クニドスのアフロディテ」以外の7つのタイプのヴィーナス像の年代確定について、原著者は様々な学説を例示しながら、紀元前2世紀以降とする点など、参考になるかと思う(半裸のアナデュオメネは後期ヘレニズム時代以前とするが)。
2 いわゆる等身大の「彫刻」だけではなく、小像や工芸品、貨幣などを重要な作例として扱っている点も評価している。
日本人は工芸品や実用品を古くから「美術品」としてとらえる習慣があったが、西洋人は近代に至るまで、それらを低くみる傾向があった。それに対して、ハヴロックはそれらの作品を彫刻と並べて論じ、「純粋芸術優位主義」という偏見や先入観にも挑戦していると訳者は評価している(ハヴロック、2002年、203頁~204頁)。
1 ハヴロックは、後期ヘレニズム期を衰退期と規定してよいかどうか、重要な問題提起をしている。
これは、プリニウスの『博物誌』で示された、古代ギリシャ美術史の見方だが、ハヴロック自身は、そうではないと主張している。「ミロのヴィーナス」が制作されたとされる時代が果たして衰退期なのか、豊かな展開をとげた時代なのか、今後、多様な視点からの研究がなされるべきであろう。
2 女神の裸体像彫刻の美術史において、紀元前4世紀半ばの「クニドスのアフロディテ」を源流とする7つのタイプのアフロディテ像に注目している点、言い換えれば、「クニドスのアフロディテ」を祖先とする、いわば“7人姉妹”に注意を払っている(神様なので、厳密には“7柱の姉妹神”かもしれないのだが)。
その“7人姉妹”の一人が、ルーヴル美術館所蔵の「ミロのヴィーナス」である。その“7人姉妹”の中でも、なお、美術史上の制作年代に関しては、今後の研究の進展に期待したいが、「カプアのヴィーナス」と「ミロのヴィーナス」との関係が焦点となるべきではないかと思う。
古代ギリシャ美術の発展についての二つの体系について、わかりやすく表にまとめておきたい(ハヴロック、2002年、51頁~52頁の記述をもとに筆者作成)
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【後期ヘレニズム時代の特徴について】
1820年に出土した「ミロのヴィーナス」は、発掘された時に付いていたとされる台石の字体は大体紀元前120~100年ころのもので、後期ヘレニズム期の年代と合致していたことは先述した。この年代は、クラ―マーの言うところの開放的様式と新古典主義的特性の混ざった、彫刻自体のもつ折衷様式とも一致していた。
さて、それでは、「ミロのヴィーナス」が制作されたとされる後期ヘレニズム時代とは、美術史的にどのような時代として捉えれているのか?
この点について、ハヴロックは、1921年に発表されたヴィルヘルム・クラインの見解を紹介している(W. Klein, Vom antiken Rokoko, Vienna, 1921.)。
クラインは、このギリシャ美術後期において、「ロココ」対「バロック」の図式を想定した。ふつう「ロココ」とは、17世紀のヨーロッパ美術におけるバロック様式に続く、フランス王ルイ15世(1715~74年)の時代に栄えた装飾的な芸術様式の言葉であるが、クラインはこれを借用した。
クラインによれば、古代のバロック様式は、紀元前3世紀から紀元前150年ころまでのペルガモンの彫刻に明らかに見られるという。しかし紀元前175年には、やはり小アジアに端を発するロココ様式がとってかわる兆しを見せ、この様式はおおよそ紀元前25年まで続くと考えた。
クラインの定義する古代バロックはモニュメンタルで、英雄的で、神話的なテーマが主流で、動きと表現は力強いと理解した。一方、古代のロココは、サイズが小さくなり、装飾的かつエロティックで、音楽や文学、にぎやかな祝祭のテーマが好まれた。気楽で繊細、時にもの悲しく、時に喜劇的で、目的としては公的というよりも私的なものである。テーマとしては、じゃれあう子供や踊り子などが広く見られるが、ディオニュソス的なテーマや女性像が重要である。
クラインは「うずくまるアフロディテ」(ローマの国立博物館所蔵)とその後世のヴァリエーションと考えられるものを例に挙げて、バロックからロココへの移行を説明している。
クラインが紀元前3世紀前半のドイダルサスの手によるものと考えたローマの国立博物館所蔵の「うずくまるアフロディテ」の方は、豊満な体つきで、そこから重量感のある四肢が伸びてトルソーを支えており、端的に言うと、ルーベンスの裸体像に近い。それに対して後世のヴァリエーションは、体がより正面を向いており、膝を落として落ち着いて安定した姿勢になっている。トルソーはずっと細身である。言ってみれば、18世紀の優美な理想美を体現している。このような特徴は、ロドス島の「うずくまるアフロディテ」にも見られる。
ただ、クラインの説には、時代的制約もあることも事実である。クラインの執筆当時、18世紀のヨーロッパ美術は、革命前の退廃的なフランス宮廷との関連もあり、多くの人に軽薄で表面的で軟弱なものと捉えられていたが、クライン説にも、こうした軽蔑的態度が見られるとハヴロックは評している。
ところで、ロココはバロックのお膝元である小アジアで始まったが、主に栄えたのはアレクサンドリアであったとクラインは考えた。ヘレニズム期の都市、アレクサンドリアでは、ファラオ時代のように巨大な建造物を建てることはできなくなっていた。その代わりに、小さく魅力的なものや、きらびやかな祝祭や、アフロディテの恋人だったアドニス信仰に目が向いた。アフロディテもアドニスも、プトレマイオス朝の女王たちによって人気が高まっていたそうだ(クライン説では、アレクサンドリアは紀元前4世紀後半からプラクシテレスに充分に感化されていたため、バロックの強い影響に屈することがなかったとされている)。
「バロック」という用語は紀元前2世紀のペルガモンとその周辺の作品の華やかな様式を表す語として定着している。しかし、ヘレニズム美術におけるロココ様式を独立した存在と見ることについては、クラインの発表当時から疑問視されてきた。ロココを独立した様式や時期としてではなく、連続した伝統の中でとらえている学者もいる。例えば、「古代美術においてロココ的潮流は紀元前3世紀に始まり、その後ずっとローマ時代に至るまで続いている」とする。
著名なギリシャ美術史家J・J・ポリットは、ヘレニズム美術におけるロココ期を定義することが正しいかどうか疑問視している。年代を断定する作品が少なすぎるという理由からであるが、もしロココ的性質を持つヘレニズム時代があるとすれば、紀元前2世紀後半の可能性が高いという。
ハヴロックの見解では、少なくとも紀元前2世紀になって群像立体彫刻に新しいテーマが加わったという点に関しては、クライン説は正しいとしている。
そのような等身大よりほんの少しだけ小さい群像は、広く複製された。そのサイズと独創的なデザインは偉大な業績で、ギリシャ美術史において新しい関心が生じた。そして女性のヌードがいわゆるロココ期に人気があったテーマだということについても、ハヴロックはクライン説に賛成している。
しかし、ハヴロックにクラインと意見を異にするところがある。それはこの新しい方向性が示されたのは紀元前175年ではなく、紀元前2世紀も終わりになってからである点である。そしてクラインが提案したような紀元前2世紀前半のペルガモン王国の重厚なバロックに対する反動として生まれたのではなく、このロココ様式はむしろ新しいタイプの注文主の趣味に応えたものであるとハヴロックは考えている。
後期ヘレニズム時代(紀元前150~100年)に新しく起きたエロティックな匂いのする裸体に対する好みは、アフロディテ像だけに限らず、いわゆるロココ様式の作品に多く見受けられる。例えば、「アフロディテとパン(牧神)とエロスのデロス島の群像」は、その好例である。それは、紀元前100年ころに刻まれ、おそらく紀元前2世紀後半の彫刻家ヘリオドロスの手によるものと考えられている。全体の構図こそ独創的であるが、個々の像は類似例がある。アフロディテはクニディアのしぐさのパロディーである。
先述したように、陰部を覆う片手のポーズが模倣されているのが、はっきり見て取れるのは、この時が初めてであるが、プラクシテレスは複雑な意味を伝えようとしたが、デロス島の彫刻では、その宗教的な含意は風刺とユーモアに覆われてしまった。
古代ロココ期の主題では、アフロディテとディオニュソスの人気が高く、二人とも人生の喜びを司る女神である。デロスの「パンとエロスとアフロディテの群像」を見てもわかるように、物語的な興味を引き、見ている人を引き込みやすい。しかし、これらの彫刻を包括的に見れば、特に優雅で上品でもなく、18世紀のロココ美術になぞらえるのにはかなり無理があるとハヴロックはみている。むしろ、がさつで、単刀直入で、ユーモラスである。
さらに18世紀美術の注文主の多くが女性だったのに対し、これらの群像はかなり単純な男性の好みを反映しているともいう。紀元前2世紀後半に始まったこれらの群像の革新性についてのクラインの評価は的確だったが、その様式的特性についてはいま一つ理解が欠けているとハヴロックは批判している。
さて、一方で、紀元前2世紀後半から紀元前1世紀にかけては、激しいエロティシズムよりも、情緒を高揚させる効果を求めるパトロンもいた。彼らは、活気溢れる動きよりも緩やかな動作を、あけすけな性的表現よりも何かをじっくり考えさせる物語的群像を好んだ。
南イタリア生まれのギリシャ人、パシテレスの作品はその好みに合ったものである。彼は彫刻家であると同時に、学者でもあった。彼の一番弟子であるステファノスと、その弟子のメネラオスは、紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけてローマで活動し、師の路線に沿った作品を作り続けた。対立するというよりも親しく語らうような構図の二人組が構成されており、簡素で質素なその人物像を見ていると、内省的な気分にさせられる。ポーズやドレープのあしらいは、過去の芸術からの程良い影響を感じさせる。
例えば、現存する「ステファノスの若者像」のコピーには、若者が謎めいたささやき合いや以心伝心の意志疎通をしているペアとして表されているものも多い。ナポリの国立博物館にある「オレステスと姉のエレクトラ」の像はその一例である。
いわゆる「ステファノスの若者像」である男性像は、ドリュファロスのポーズよりも物憂げなコントラポストのポーズで立っている。このような群像でヌードになるのは、男性像に限られていた。おそらく裸体に肉欲よりもヒロイズムや向上心を映し出したかったのだろうとハヴロックは推測している。硬質な表面の質感や抑制された輪郭と、気取った上品な雰囲気のコントラストは、刺激的でさえあるともいう。
さて、以上のように見てくると、後期ヘレニズム時代のモニュメンタルな彫刻においては、図像学的に見て、少なくとも二つの潮流が判別できる。
一つ目は、「ロココ」様式である(ハヴロックは他に適切な言葉がないので仕方なく使うと断わっている)。エロティックで、煽情的で、陽気という特徴を持つ。
もう一方は、古典主義的で、礼節を保ち、品位を感じさせるようなパシテレス一派に集約される系統である(古典主義は、当時の芸術理論でも明言されている)。
紀元前1世紀には、クィンティリアヌスやキケロ、そしてパシテレスが表明した、高尚な道徳観が突出しはじめている。したがってフェイディアスやポリュクレイトスの優位性が主張されるようになった。
クラインによれば、ロココ群像に付きものとされる軽やかさや官能性は、プラクシテレスの影響であるが、後期ヘレニズム時代からローマ時代にかけての恋愛詩にも鮮やかに反映されているとハヴロックはみている。ともあれ、二つの潮流は、同じ現象の表裏であるようだ(ハヴロック、2002年、109頁~110頁、127頁~134頁)。
ハヴロックの著作を要約する前に、「クニドスのアフロディテ」「ミロのヴィーナス」などについて、補足をしておきたい。
【補足】「クニドスのアフロディテ(通称クニディア)」について
「クニドスのアフロディテ」は、ポリュクレイトスの「ドリュフォロス(槍を持つもの)」と同様に、ギリシャ美術の中核をなしている。「クニドスのアフロディテ」の柔和で穏やかな姿は、抑制された理想的な輝かしい女性美を表現している。
フリュネはギリシャの高級娼婦だが、プラクシテレスが愛人フリュネをモデルにしてアフロディテ像を彫ったという逸話があるが、彼女は主にフィクションの人物であり、プラクシテレスとの関係は彼の死後捏造された架空の物語であるとハヴロックは考えている。ただ、19世紀の終わりには、これらの物語や詩は、クニドスのアフロディテの解釈の手だてとして確立していた。
ところで、ヘレニズム期も終わりに近づいて、急にプラクシテレスの彫刻が新たな強い関心を引くようになった。風刺詩(エピグラム)にクニディアの裸体美に関する言及が見られ、またフリュネとプラクシテレスの男女関係についてのフィクションがその頃出回り始めた(モデルと恋に落ちるプラクシテレスという発想には、オウィディウスの書いた象牙の乙女に恋するピグマリオンと相通じるものがある)。
紀元前1世紀前半、ギリシャが完全にローマの支配下にあった頃、クニディアの評判は高まり、東方の富裕な王が高値で競り落とすまでに至った。
また、デロス島で見つかった「アフロディテとエロスとパン(牧神)の群像」は後期ヘレニズム期(紀元前150~100年)にクニディアが再発見されたことの証拠であるとハヴロックはみなしている。陰部を覆う右手のポーズが模倣されているのが見て取れるのは、この時が初めてである。このポーズを考案したプラクシテレスは、それによって複雑な意味を伝えようとしたが、デロス島の彫刻では、その宗教的な含意は風刺とユーモアで覆われてしまったとハヴロックはみている。
「クニドスのアフロディテ」のレプリカは、デロス島の三神像が作られたのとほぼ同時期から、数多く制作されるようになるが、その大半は縮小型である。後期ヘレニズム期における未曾有のクニディア人気を示している。この頃、プラクシテレス作品に想を得て、多くのヴァリエーションの像が現われた。手で陰部を覆うポーズのものもあれば、衣服のドレープで隠し、自由になった手で髪をまとめたり盾を持ったりしているものもある。立っていたり、跪いていたり、かがんでいたり、腰を曲げていたり、振り向いていたりと、様々なポーズを取ったアフロディテの裸体像が作られている。若い愛の神エロスが、母アフロディテと遊んでいたり、鏡を持ってあげたりしているものもある。ただ、これらの作品をデザインした彫刻家はほとんど無名である。あまりにも多いため、クニディアとその他の7タイプに限定してハヴロックは検討している。
そこには、時系列と解釈にまつわる問題や、制作年代についての問題があるが、その問題の中心には、ヴィンケルマンの意見がある。それはヴィンケルマンの唱えたギリシャ美術に関しての根強い信念、すなわちヘレニズム期は政治的下降期であり、結果その芸術も衰退に向かっていたという意見である。ハヴロックはヴィンケルマンをはじめとする学術界の性癖(つまり題材ではなく作品を扱わなければいけないことを忘れがちな傾向)を批判している。
またアフロディテ像については、ある種の父性原理的なバイアスが培われてきており、その偏見のせいで受け止め方に悪影響が生じているのは、クニディアだけではなく、別の有名な彫刻、メロス島のアフロディテ(「ミロのヴィーナス」として著名)も同じであるという(史上最も有名な彫刻の一つにふりかかった学術界の不思議な出来事についてもハヴロックは言及している)。
ハヴロックは持論として、等身大のレプリカの方が縮小されたコピーやミニチュアの像よりオリジナルに近いということは決してないと主張している。小さいコピーは、彫刻家が既存のタイプをどのように捉えていたかを知るのに格好の材料であるという。
そして、かつて古代ギリシャ彫刻のローマ時代におけるコピーとされてきたものの多くが、実は後期ヘレニズム期もしくは初期ローマ時代の創作であったことが明らかになりつつあり、その結果、後期ギリシャ美術の評価は好転してきているそうだ。
そして、アフロディテ像の7タイプに、例えば壺絵や小像の前例があったか否かも、調べるべき問題である。というのは、そのタイプは目新しい創作なのか、過去の芸術からの借り物なのかという疑問は、後期ヘレニズム期の業績の評価は関わってくるからである。つまり、ヘレニズム期はまだ活気と創造性を保っていたのか、それともヴィンケルマンがいうように、新たな着想のない衰退する時代だったのかに関わる問題であるからである。
最も早い時期のコピーがどこで発見されたかは、それが宗教的用途のものか世俗的用途のものか判断する材料になりうる。小像が発見された場所、例えば個人宅か、公園か、墓所か、といったことが、その用途を明らかにすることになると、ハヴロックは考えている。
ハヴロックは、ギリシャの全域の遺跡とポンペイから例を集め、年代的には後期ヘレニズム期からイタリアにおける初期帝政ローマ時代までをカバーして調べているが、かなり多くのアフロディテの彫像が、どちらかといえば世俗的な場所で発掘されていることから、そうした像が万人に共通の願いを体現していると仮定している。その上で、等身大のレプリカが公共の場に飾られるようになったのは、後期ローマ時代以降のことであると付言している。
後期ヘレニズム期における女神アフロディテの彫像には、ある種の趣向が見られる。古代の「ロココ」と呼ばれた。それは後期ギリシャから初期ローマ時代にかけての、巧妙に作られたエロティックな感情を喚起する群像について、付けられた呼称である。これらの作品は遊びと快楽中心の性的な出会いを主題とし、女性の裸体の露出と鑑賞を目的としたものである。古代の「ロココ」群像のディオニュソス的な活気とセクシュアリティには宗教的な意味合いがあり、アフロディテの身体美も神々しいものである。ただ、古代の「ロココ」美術は、軽薄であり、不運にもギリシャ美術の崇高な理想から外れて生まれたということから、必ずしも評価は高くない。けれども、アフロディテの彫像は、後期ヘレニズム期の活気ある文化全体のかけがえのない証拠でもあるとハヴロックは考えている。
こうして、ハヴロックは次のようにまとめている。「女性の裸体が彫刻の題材として主流となる気運が本当に高まるのは、古典期でも初期ヘレニズム期でもなく、ギリシャとローマが画期的な交代を迎える紀元前2世紀後半から紀元前1世紀にかけての洗練された世俗的文化が花開いた時代である」と(ハヴロック、2002年、9頁~17頁)。
<「クニドスのアフロディテ」の安置場所>
「クニドスのアフロディテ」の安置場所はどこだったのか。古代都市クニドスは、トルコ南東部の狭隘な半島に位置しており、現代のテキールにあたる。アフロディテの聖域は、その街を見下ろす高台に立っていた。海に臨んだその高台からは、半島を周回する航路の難所をよく見渡すことができた。「よき旅路の」アフロディテに捧げられた聖域としては、うってつけの立地条件だった(ハヴロック、2002年、72頁)。
【補足】「ミロのヴィーナス」について
ハヴロックは、アフロディテの7つのタイプはすべて紀元前150年以後に新しく作り出されたものだと結論づけている(実際にはもう少し新しいと言ってもよいとする)。
というのは、デロス島の「アフロディテとパンとエロスの群像」は、台座に残された寄贈者の銘から紀元前100年ころのものだと分かるが、これより古いと確証をもって断定できる作例は存在しないからだという。
同じように、刻まれた文字から年代が確定できる作品に、「ミロのヴィーナス」がある(紀元前125~100年)。このことから、官能的なアフロディテの形を取った裸体の女性は、紀元前2世紀の終わりになって初めて、一般的な彫刻のテーマになったものと考えている。
また、クニディアや仲間のアフロディテたちのレプリカは、紀元前2世紀から帝政期に至るまでのギリシャ・ローマ世界全域から発見されている。ただ、像の分布域よりもその像の果たしていた役割、とりわけ創生期にどのような目的で創られたかが重要なポイントである。ついで、後期ヘレニズム期から帝政ローマ時代にかけて、女神像がどこにどのように置かれていたか、代表例を集めることが大切である。
等身大より大きな「ミロのヴィーナス」は、当時としてはかなり珍しかったようである。劇場そばのニッチのような場所で発見されたと言われているが、もともとの周辺状況を知ることができない。
「アルルのアフロディテ」と「カプアのアフロディテ」については、劇場にあったことがより確実に断言できるが、紀元後2世紀までは劇場のような壮麗なシチュエーションに等身大の彫像をおくことは、数として多くなかった(そのため、ハヴロックは、小規模の彫刻に焦点をあてて、第5章で「文脈の中のアフロディテ」と題して論を進めている)。
(ハヴロック、2002年、119頁~120頁)
【補足】<デロス島の「アフロディテとエロスとパンの群像」について>
デロス島で見つかった「アフロディテとエロスとパンの群像」は、後期ヘレニズム期(紀元前150~100年)にクニディアが再発見されたことの証拠である。それは、1904年にフランスの考古学者が発見し、現在はアテネの国立考古学博物館に所蔵されている(それはギリシャ時代のオリジナルであり、群像としてのレプリカではない)。発掘された場所は、ベリュトス(今日のベイルート)のポセイドン信者たちが建設した巨大な建造物跡であった。
その建造物は、紀元前153年から152年に、旅行者のための宿泊施設のようなものとして、東方の流儀でポセイドン神をあがめていたベリュトスの船主と商人たちによって建設されたものである。そして、それは紀元前69年にデロスを占拠した盗賊によって破壊されるまで、使われた。
デロス島発見の群像の台座には、奉納者の名前が刻まれており、そこからは注文した正確な日付と理由が分かる。また、発見された場所もその意味と用途を物語っている。
ところで、その群像を見ると、にやついた笑顔を浮かべた獣のパンは、女神の気を引こうとしており、片手で女神の腕をつかみ、片方の手を背中に回している。アフロディテは全体的に肉付きが良く、柔らかく、肉感的な印象を与える。髪はスカーフを結んで束ねられ、右手を挙げ、今にもパンをサンダルでひっぱたきそうである。エロスは笑いながら、両者をつなぐ橋のように宙に浮いている。
この群像でもっとも意味があるのは、アフロディテが片方の手(この像では左手)で恥部を覆い隠している点である。というのは、年代の明らかなオリジナルが残っているものの中では、プラクシテレスが考案したこのしぐさの最初の作例であるからである。この作者がクニディアを知っていたことは、数々のデロス島の家から、クニディアの複製が発掘されていることから確かである。
プラクシテレスの著名も見つかっていることから、彼の名前とそのクニドスの彫像とは、ヘレニズム後期のデロス島ではかなり知られていたことが分かる(ハヴロック、2002年、13頁、69頁~72頁)。
【ハヴロックの著作の要約】
プラクシテレスの「クニドスのアフロディテ」と近代的バイアス
古代の著述家たちは、プラクシテレスのアフロディテに関する詩や賛辞を残した。この像は、単なる大理石の彫像ではなく、アフロディテ自身が乗り移った、生きた女性として認識されることが多かったようだ。その柔和な表情とつつしみを示したしぐさは、エロティックさと神々しさを体現していたが、その裸体像は、いつでも容易に神殿で鑑賞することができ、多くの見物客を集めた。
数々の逸話があるが、プラクシテレスの「クニドスのアフロディテ」は、形而上的なプラトンのイデアのようなものを表現したのではなく、実体のある愛人フリュネの体をモデルにして作られたということをそれらは物語っている。フリュネが高級娼婦であったことから、二人の恋愛関係は危ないエキゾティックな香りのするものになったが、逸話による限り、彼女こそ彫刻の女性そのものであると想像してしまうほどである。
ただ、注意すべき点をハヴロックは指摘している。つまり、こうした古代の風刺詩や文献は、プラクシテレスの名作に対して、19世紀から20世紀の美術史家などのバイアスに影を落とした点である。ベルヌーイもその一人であるとみる。ベルヌーイこそ、クニディアやその他の古代アフロディテ彫刻に関する後世の研究の素地を作ったのだが、彼が生きていた時代は、父権主義的な色彩が強く、売春の招いた惨状に攪乱された時代だった。
古代の文学者が、既婚男性と愛人との情事をこっけい味と皮肉をこめて表現していたのに対し、近代の著述家はフリュネの振る舞いを倫理に反した不適切なものと見なした。そして、その見方はアフロディテやプラクシテレスの作品、本人自身にまで及び、その責を負わされることになったとハヴロックはいう。
古代文献の注意点
そして、次に注意すべき点は、「クニドスのアフロディテ」の解釈に大きな影響を与えた文献が、彫刻が安置されてから何世紀も経って記された点である。同時代はおろか、ヘレニズム期の文献ですら、クニディアに言及していない。
時代の確定している文献の中では、紀元前70年のキケロ(紀元前106~紀元前43)の作品が最も古く、クニドスの市民は女神像を売る際にどれだけの金額を要求したのだろうかと問いかけているそうだ(『ウェッレス弾劾』)。そして、重要な情報源として信頼されているプリニウス(紀元後23~79)、パウサニアス(2世紀後半)、ルキアノス(紀元後約120~200年)は、キケロから200年後の著述家である。
一方、紀元前4世紀のギリシャ人の反応は、かなり違ったものだったとハヴロックは推測している。すなわち、当時のクニディアは崇拝対象で、巡礼者が入れないような小さな祠に奉られた神聖な像であったとみる。当時の状況では、この像を生身の女性(フリュネにしろ他の誰にしろ)と見まがうことは信じがたく、アフロディテの全身は神の現れと見られるべきものであったとハヴロックは捉える。当時、この像が衝撃や興奮を巻き起こしたという記録は残されておらず、おそらくその壮麗さのあまり、プラクシテレスの同時代人は沈黙するほかなかったと想像している。
ローマ帝国下のクニドス
さて、時代が移れば、状況も変わってくる。紀元前2世紀後半からローマ帝国が地中海世界の統一を図り始めると、交通や交易や観光が発展してくる。ローマから東方ヘレニズム地域のギリシャ都市への道が開かれ、比較的安全に旅行できるようになる。
クニドスも、紀元前129年にローマから自由港の認可を受け、商船や貿易商人は増す一方だった。紀元前31年のアクティウムの海戦後、アウグストゥスは、スペインからシリアまでを傘下に収めた。プリニウスやルキアノスなどの著述から、クニドスが人気の寄港地だったことがうかがわれる。こうして、エキゾティックな裸体像であったクニディアは、国際色豊かな好みを持つ観客の賛美の的となった。
また、アペレスが描いたアナデュオメネを見ることができたコス島も、少なくともアウグストゥスがその絵をローマに持ち去るまでは、クニドスと並ぶ人気の寄港地だったのである。
風刺詩の中のプラクシテレスとフリュネ
クニディアの名声が高まるにつれて、それにまつわる風刺詩も作られるようになった。そうした詩の中には、おそらく後期ヘレニズム時代かそれ以後の作と思われる年代不詳の詩があり、芸術家プラクシテレスと高級娼婦フリュネのつながりを明言している。二人が初めて関係づけられたのも、この時期だとハヴロックは推測している。二人は、当時の風潮に乗って創作されたとみる。
紀元前4世紀にアテナイにいたとされる高級娼婦フリュネと、クニドスにある愛の女神像(ヘレニズム後期のその頃にいたって脚光を浴びるようになったクニディア)を彫ったアテナイ人の彫刻家プラクシテレスが結びついても、理論上はおかしくないというのである。そしてフリュネは、モデル兼愛人の原型として歴史に残ることになった。
ところで、後期ヘレニズム時代から帝政ローマ時代初期にかけて書かれた詩文や風刺詩は、クニディアを理解するのには役立たないかもしれないが、他のアフロディテ像の解釈と年代同定には大きな意味を持つ。この点、オウィディウスの哀歌形式の詩は興味深いという。彼の詩はその優雅さとエロティシズムとユーモアゆえに、「ロココ」的だと考えられてきた。彼のヴィーナス、彼の恋人コリンナは、まるで美しい彫刻であるかのように対象化され、崇拝された。恋愛そのものは、オウィディウスより前の世代から既に中心的テーマになっていたが、エロティックな哀歌という新しい文学ジャンルの誕生は、アフロディテ彫刻がグレコ・ローマン美術に広まり始めたのと、時を同じくしている。そして、これらの詩のほとんどが、女神や高級娼婦の愛人に向けて歌われたものであるそうで、プラクシテレスとフリュネの恋愛関係も、この流れに位置づけられるとハヴロックはみている。
そして、フリュネとプラクシテレスの逸話は、デロス島から出土した「アフロディテとパンとエロスの大理石製群像」(ポセイドン信者の集会所から出土)と共通点があるともいう。文献から読み取れるフリュネのじらすような振る舞いは、デロス島のアフロディテに体現されているとする。
「クニドスのアフロディテ」と7タイプのアフロディテ
ところで、ベルヌーイ以降、「クニドスのアフロディテ」は、後続のギリシャの彫刻家に、インスピレーションを与えたと正しく認識されてきた。ハヴロックが紹介した7タイプのアフロディテは、プラクシテレスの彫刻の影響を受けており、古代の女性裸体彫刻に関する近代の議論を支配してきた。
ただ、その中で、ギリシャ時代のオリジナルが残っているのは、「ミロのヴィーナス」だけであるとハヴロックは指摘している。その他の名前の付いた彫像の大半は紀元後2世紀から3世紀にかけてのローマ時代のコピーである。
ローマを中心にイタリアに集まっていたそれらの彫刻は、ヴィンケルマンやベルヌーイなどによって聖典化され、以後、芸術家たちに賛美されることになる。20世紀になっても、これらの作品が私たちの思考や知識を過度に支配してきたし、そしてこれらの作品によって直線的進化がたどられてきたとハヴロックは批判している(そして、より古い時代に作られた違ったタイプの小さなコピーは、年代的な問題に重要な光を投げかけるものであったのにもかかわらず、ほとんど顧みられることはなかったと不満を記している)。
それはさておき、アフロディテの7つのタイプは、ギリシャ時代後期の創作である。それらをひとつのグループとしてとらえれば、その出現の持つ重要性も増す。
紀元前4世紀中ごろのプラクシテレスの作品に続いて、間髪開けずにオリジナルが連なっていったのではなく、全裸や半裸の女神像が華々しく開花するまでには、およそ紀元前330年から紀元前100年までの間、2世紀にも及ぶ空白期間があったということが、立証されていることに注意を促している。
そして、この後、官能的アフロディテは初めて人気のタイプとして揺るぎない座を築くこととなった。これらの後世のアフロディテ像のうち、カピトリーノとメディチの2タイプは、ずっと昔のクニディアからヒントを得たものとハヴロックは考えている。
それに対し、「うずくまるアフロディテ」、半裸や全裸の「アフロディテ・アナデュオメネ」、「サンダルを脱ぐアフロディテ」「ミロのヴィーナス」「アフロディテ・カリピュゴス」は完全に新しい創作であるとみている。
「アフロディテ・カリピュゴス」以外の各タイプについては、人々が多くのコピーを欲しがったことで、急速に複製が作られるようになり、それと同時に芸術活動にも拍車がかかった。
ところで、アフロディテの裸体像は、紀元前150年以後生まれ変わったとする見解をハヴロックは支持している。プリニウスも、第156オリンピア期間(紀元前156~153年)を境に芸術は復興したと『博物誌』に記していることも、その論拠としている。
ほとんど同時期に、小さな大理石やテラコッタ製の複製も出回り始め、広域に分布するようになった。複製は多様性に富み、ポーズの左右が逆だったり、頭部の角度が違っていたり、しぐさが異なっていたりする。また、イルカやリンゴや壺や鏡や柱といった付属物が、必要に応じて、添えられたり外されたりした。
ただ、タイプの数は比較的限られており、レプリカ同士でかなりの類似を示すものもあることから、単一の工房内において協同作業で工程が進められていたようだ。また、デロス島の発掘結果から、特定の工房が一つないしは二つのタイプを得意にしていたことがわかる。
壺の形も彫像もそうであるが、ギリシャ美術は定式によって限定された範囲内で製作される傾向があった。職人の一人一人が、柔軟性のある、一般的なタイプに基づいて作った自分なりのヴァージョンに誇りを持っていたとハヴロックは推測している(クレオメネスも、そのような気持ちで「メディチ家のアフロディテ」にサインしたとする)。
ブロンズや大理石やテラコッタといった素材は、像を置きたい場所に応じて選ばれ、デロス島で圧倒的に大理石像が多かったのは、陶土が採れなかったからであるらしい。
また、テラコッタの小像は、年代がはっきりしているものが多いため、そのタイプが生まれた時期を決定するのに特に役立つ。個人宅から多数発見されているほか、家庭内の神殿や墓地からも見つかっている。しかし“純粋芸術偏重主義の偏見”にとらわれすぎて、これらのモニュメンタルな作品群から学ぶべきものを学んでこなかったとハヴロックは不満を抱いている。
ところで、プラクシテレスの女神像は、神殿に立っている、穏やかな女神の姿である。この像のポーズの由来を分析した結果、それが紀元前4世紀中盤に作られた真の古典主義的表現だという確証を得た(ただ、ハヴロックは、しぐさや付属物から物語的なコンテキストを読み取ることはできないという)。
しかし、後期ヘレニズム期のアフロディテ像の場合はだいぶ違い、そのしぐさには人を動かさずにいられないところがあった。カピトリーノとメディチ家の像の恥じらいのしぐさ、「うずくまるアフロディテ」、アナデュオメネ、「サンダルを脱ぐアフロディテ」の優雅な動きは、人々に感嘆と尊敬の意を起こさせる。
恥じらいのしぐさを取る彫像は、女神の力の中心や、女性の体の美と豊かさを肯定しているという。そして、「うずくまるアフロディテ」の豊かな肉付きは、より肉感的な女性像の表現として賞賛されたであろう。
そして半裸の「ミロのヴィーナス」の誇り高く自律的な態度は、私たちの同情を引こうと感傷的に訴えかけてくることはしないとハヴロックは捉えている。そして、この像は官能的でありながら、よそよそしく作られているともいっている。
ヘレニズム期理解の見直し
ところで、ヘレニズム期は創造性の欠如した模倣の時代で、衰退は必至であったという説が、ヴィンケルマンによって広められた(このことは、「ミロのヴィーナス」理解・評価に影響を与えた)。今日では、ヘレニズム期全体というよりも、後半もしくは後期3分の1に限定して、この概念が適応されることが多い。
その結果、紀元前150年以降に広まった数多くのアフロディテ像のタイプは、より想像力に富んだ時代のギリシャ美術のモデルから着想を得たものでなければならないという、基礎的な前提ができあがったそうだ。この理屈から考えれば、初期および盛期ヘレニズム期は、より時期的に早いため、後期ヘレニズム期よりも無条件に革新的だということになってしまう。たとえば、後期ヘレニズム時代に作られた本物の傑作である「ミロのヴィーナス」は、二級品のローマ時代のコピーしか残っていないオリジナル作品のコピーに格下げになっていた!! これはばかげた論理であると、ハヴロックは非難している。
そして、現代では、後期ヘレニズム期は極めて創造力ある時代であり、無味乾燥な枯渇した時代ではないということを証明しようとするのが、研究の推進力になってきていると付言している。
ヘレニズム期のアフロディテ像について
さて、ヘレニズム期のアフロディテ像の発展について、どのように考えられてきたのか。
まず、ベルヌーイの歴史観を基にして進化の枠組みが考えられ、それが19世紀全体の考え方の基礎となった。ベルヌーイは、紀元前4世紀のクニディアを出発点として、その後、女性裸体彫刻がただちに興隆したものと考えていた。
そして、クラーマーがヘレニズム彫刻全体の形態に関する基本的な発達理論を確立すると、その後の学者はベルヌーイの描いた図式を完成させていくことになった。
男性像の段階的発達は、不変的上昇としてとらえられてきた。例えば、男性裸像の発達は、次のように解釈されてきた(ハヴロックは、男性裸体像も女性裸体像の発展と平行して展開したと考える方が自然であろうと批判している)。
ギリシャ美術初期の男性裸体像は、戦士・運動家に対する英雄崇拝や神性を、暗に感じさせるものとして、常に意味を持ち、衣服を着けていないことに対して何の理由付けも要らなかった。
しかし、「クニドスのアフロディテ」の場合は裸であることの口実として、沐浴という状況を用意する必要が考えられていた。脇に添えられた衣服は、トラブルを回避するための安直な手段として受け止められた。しかし、クニディアは、アポロンやゼウスと同じように、神であるから裸なのである。
男性裸体像の発達が倫理的・知的な完全性に向かっていたとされているのに対して、女性の裸体像における時間的・空間的な解放は、不当にも退廃という烙印を押されることが多すぎた。それは、神から人へ、道徳から不道徳への堕落を意味するとされてきた。
著者ハヴロックの疑問と結論
ポリュクレイトスとその代表作「ドリュフォロス」がギリシャ美術史の中核をなしていたのに対し、プラクシテレスとクニディアが周辺的存在だったのはどうしてなのだろうかという疑問をハヴロックは抱いたという。
そして、それは、近代の偏見に基づくものであるという結論に達している。
古代ギリシャの彫刻家は男性の体の理想を追求したのと同じように、女性の体の理想も追求し続けていたとみる。さらに、古代ギリシャにおいて、ポリュクレイトスが芸術の代弁者として第一人者だったとか、彼の男性裸像が芸術の規範だったという証拠は、美術作品にも文献にも見出せないという。プラクシテレスは当時の文筆家の深い尊敬を集めており、ポリュクレイトスに匹敵する存在だった。ローマ時代の複製とヴァリエーションの数が「ドリュフォロス」の人気の指標だとすれば、クニディアの数はもっと多いそうだ。
後期ヘレニズム美術には、「閉じられた」形態も、「開かれた」形態も、また正面性の強調も「バロック」的なものも、三次元の構図としてはすべてが共存していた。多様なアフロディテの形態に関する単一の原則は存在せず、クラ―マーの年代同定法は通用しなかった。
そして、ハヴロックは、これまでアフロディテ彫刻に関して適用されてきた発達理論は捨て去るべきであると主張する。
プラクシテレスのクニディアは確かに後世の彫刻家たちにインスピレーションを与えたが、完成直後からそうだったわけではない。紀元前3世紀になってアフロディテは徐々に自分が裸であるという苦境を認識し出したというこれまでの主張や、紀元前2世紀においては自分の体を隠そうとながらも、結果として体を解放することが必要だったという議論も、正しくないとする。
それよりも、焦点を当てるべきは、裸であることの宗教的な意味合いであるとハヴロックは強調している。その像が性にまつわる力と御利益を体現していたということが理由の一つであると考えている。ヌードの女神像は、生命そのものに対する支配力やその起源に対する尊敬の念の象徴だったが、古代において、アフロディテ像はこのような宗教的目的を持っていたというのである。
古代のアフロディテ像は、宗教的意味合いとともに、商業的な意味合いもあった。例えば、ニコメデスは、クニディアを崇拝偶像として崇めていたが、同時に交換用の商品としてもとらえていた。また、デロス島の「アフロディテとパンとエロスの群像」も、ポセイドン信者の集会所に集まる商人や船主にとっては、商業的な意味合いがあった。
そして古代ギリシャ・ローマの一般の女性にとって、女神像は賞賛と理想化の表れと考えられていた。アフロディテ像は、家庭や家の神棚や庭や墓地に置かれた。
結果的に、後期ヘレニズム期において女神像が浸透し、その「英雄的な裸体」が巧妙に飾り立てられたが、このことはヘレニズム期の女性の社会的地位が古典期に比べ向上したことの表れとなっているとハヴロックは考えている。
プラクシテレスとその作品を理解する上で役に立つ基本的な問題のひとつとして、ハヴロックは次の点を指摘している。古代ギリシャ・ローマにおけるアフロディテや女性は生来的に無垢であるのに対し、19世紀におけるアフロディテや女性は生来的に罪深い存在だということである。
彫刻において女性のヌードというテーマの人気が高まった要因として、ローマ人の支援と影響力をハヴロックは挙げている。
例えば、紀元前3世紀後期に、「エリユクスのアフロディテ」がシチリア島からローマにもたらされ、カピトリーノの丘にその神殿が建てられた。ヴィーナス[ウェヌス]と名前を変えたアフロディテは、古代ローマの主要な神となり、その像は家々に据えられた。ポンペイはその好例である。
また古代ローマ世界において、デロスはローマと東方を結ぶ商業活動の中心地として栄えるようになる。ポセイドン信者の集会所には、地中海一帯から貿易商人が訪れた。デロスからローマへ向かう途中のアンティキュテラ沖の難破船から「クニドスのアフロディテ」の複製のトルソーが発見されている。おそらくローマのパトロンが注文した最も古い時代の複製の一つだと推測されている。
そして、帝政ローマ後期になっても、「クニドスのアフロディテ」と、その他のタイプのアフロディテは、重要なものであった。女神たちは、ローマ帝国内の劇場や浴場や噴水や邸宅を飾るようになった。例えば、ティボリにあるハドリアヌス帝の円形神殿は、クニディアのコピーを見せびらかすために建設された。
ところで、アフロディテの長期にわたる人気を最もよく示しているのは、古銭の分野であるといわれる。紀元後2世紀から3世紀にかけてのローマ帝国東部では、「アフロディテ・カリピュゴス」以外の各タイプのアフロディテをかたどったコインが鋳造されている。さらに、同一のタイプの彫像が複数の都市で発行された貨幣に使われた。
例えば、211年から218年にかけてカラカラ帝と后プラウティラによって作られたコインは、プラクシテレスのクニディアが刻まれ、クニドスから見つかっている。一方、235年にはマクシミヌス帝治下のキリキア地方のタルソスでも、同じ像が使われている。紀元後3世紀の初期には、ビテュニアでも、ポントスでも、「うずくまるアフロディテ」がコインに選ばれている。裸体の「アナデュオメネ」の貨幣は、2世紀後半にはアカイアで、3世紀前半にはリュディアで鋳造されている。
それらの像をコインに使うということは、複数の都市国家が名高い秘蔵の芸術作品を所有しており、そのことが富と市民の誇りの表明であったことを意味しているとハヴロックは解釈している。そして、アフロディテ=ヴィーナス信仰は、ローマ帝国の東西を問わず、ユリウス・カエサルに始まるローマ皇帝の血筋の神話的起源と結びついていたことも付言している。
また、後期帝政期においてアフロディテの各タイプが、コインの図案として圧倒的に選ばれたが、その多くには、皇后の名が刻まれており、中にはセプティミウス・セウェルス帝の2番目の妃であったユリア・ドムナ、ハドリアヌス帝の妃サビナなどである。
彼女たちは政治的権力を持ち、野心に満ち、夫である皇帝や息子の後ろ盾を持っていた。彼女たちは、政治的・宗教的理由からアフロディテ=ヴィーナスとの同一化を、自らの力の表明として図っていたとハヴロックは捉えている。
後期ヘレニズム期に人気を博した主題である愛の女神アフロディテは象徴としての力を持ち続けた。芸術作品としてのアフロディテの裸体像は、神話世界における女性の寛容と人間性を象徴している。同時に、そこには理想のセクシュアリティの概念とか愛の本質の姿といった普遍的な意味もある。
後期ヘレニズム期において、アフロディテは美術史上の新時代の活気をも表現しており、衰退していく時代でないことをハヴロックは強調している。ギリシャの芸術家は、それまでとは異なった挑戦に対して想像力豊かに応じていたが、その道を指し示したのがプラクシテレスであったというのである(ハヴロック、2002年、149頁~162頁)
【訳者(左近司彩子)によるハヴロックの著作に対する評価】
訳者(左近司彩子)は、「訳者あとがき」(203頁~204頁)において、このハヴロックの著作の特徴を2つ挙げている。
1 ハヴロックの明解な論の展開と文章
このため、翻訳の作業そのものは、スムーズに筆を進めることができたそうだ。そして、「当初女性学的観点からの裸体彫刻研究と聞き及んでいたが、全体の論調としては、フェミニズム色は薄く、むしろ歴史的な観点からの推論や精査に基づく年代確定などが際立った論文となっている」と評している。
すなわち、ハヴロックによる「歴史的な観点からの推論や精査に基づく年代確定」に関して訳者は高く評価している。
内容紹介で述べたように、「クニドスのアフロディテ」以外の7つのタイプのヴィーナス像の年代確定について、原著者は様々な学説を例示しながら、紀元前2世紀以降とする点など、参考になるかと思う(半裸のアナデュオメネは後期ヘレニズム時代以前とするが)。
2 いわゆる等身大の「彫刻」だけではなく、小像や工芸品、貨幣などを重要な作例として扱っている点も評価している。
日本人は工芸品や実用品を古くから「美術品」としてとらえる習慣があったが、西洋人は近代に至るまで、それらを低くみる傾向があった。それに対して、ハヴロックはそれらの作品を彫刻と並べて論じ、「純粋芸術優位主義」という偏見や先入観にも挑戦していると訳者は評価している(ハヴロック、2002年、203頁~204頁)。
【ハヴロックの著作を読んでの感想】
1 ハヴロックは、後期ヘレニズム期を衰退期と規定してよいかどうか、重要な問題提起をしている。
これは、プリニウスの『博物誌』で示された、古代ギリシャ美術史の見方だが、ハヴロック自身は、そうではないと主張している。「ミロのヴィーナス」が制作されたとされる時代が果たして衰退期なのか、豊かな展開をとげた時代なのか、今後、多様な視点からの研究がなされるべきであろう。
2 女神の裸体像彫刻の美術史において、紀元前4世紀半ばの「クニドスのアフロディテ」を源流とする7つのタイプのアフロディテ像に注目している点、言い換えれば、「クニドスのアフロディテ」を祖先とする、いわば“7人姉妹”に注意を払っている(神様なので、厳密には“7柱の姉妹神”かもしれないのだが)。
その“7人姉妹”の一人が、ルーヴル美術館所蔵の「ミロのヴィーナス」である。その“7人姉妹”の中でも、なお、美術史上の制作年代に関しては、今後の研究の進展に期待したいが、「カプアのヴィーナス」と「ミロのヴィーナス」との関係が焦点となるべきではないかと思う。
古代ギリシャ美術の発展についての二つの体系について、わかりやすく表にまとめておきたい(ハヴロック、2002年、51頁~52頁の記述をもとに筆者作成)
項目 | クセノクラテス(紀元前3世紀の彫刻家)(大プリニウスの著作『博物誌』に記載) | ローマ時代のキケロとクィンティリアヌス |
---|---|---|
究極の理想 | 写実性(リアリズム) | 威厳と美 |
作者 | プラクシテレス リュシッポス | フェイディアス ポリュクレイトス |
作品 | 「クニドスのアフロディテ」 | オリュンピアのゼウス像 パルテノンのアテナ像 |
下り坂の時期 | 紀元前4世紀後半リュシッポスと画家アペレスの後、ほどなくして停滞 | 紀元前4世紀 |
ハヴロック『衣を脱ぐヴィーナス―西洋美術史における女性裸像の源流』はこちらから