歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

《「ミロのヴィーナス」考 その11 若桑みどり氏のヴィーナス論》

2019-12-16 17:55:34 | 西洋美術史
《「ミロのヴィーナス」考 その11 若桑みどり氏のヴィーナス論》
 

【はじめに】


周知のように、「ミロのヴィーナス」は、1820年にメロス島から発見され、脚光を浴びた。つまり、その発見は、19世紀初頭で近代になってからで、その歴史上の登場は、遅きに失した感がある。
愛と美の女神ヴィーナス像は、古代ギリシャ・ローマ文化の復興運動である西洋のルネサンス以降、どのように捉えられてきたのか。著名な画家によって、ヴィーナスはどのように描かれ、どのように変遷していったのか。
さて、若桑みどり『ヴィーナスの誕生―ルネサンスの女性像』(ジャルパック・センター、1983年)は、中世から近代への過渡期であるルネサンス期の女性像を絵画と通して考察している。聖母マリアとヴィーナスという、ヨーロッパ人の理想とする女性像の中でも典型的な二つの像に焦点をあてて、ルネサンス以降の思想的背景や美術様式の変遷に触れながら、わかりやすく解説している。
「ミロのヴィーナス」を直接扱ってはいないが、先の問いに、若桑みどりの著作は重要な示唆と道筋を与えてくれるはずである。
 以下、次のような項目を中心に、その内容を紹介してみたい。ボッティチェリ、ティツィアーノ、ブロンズィーノが描いたヴィーナス像、そしてミケランジェロの彫ったアポロン像を解説しながら、若桑みどり氏のヴィーナス論を紹介しておきたい。

執筆項目は次のようになる。


・ルネサンスと古代ギリシャ・ローマ
・ボッティチェリの「ラ・プリマヴェーラ(春)」
・ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」
・新プラトン主義とフィチーノ
・ティツィアーノの「天上の愛と地上の愛」
・イタリア・ルネサンスの終焉
・マニエリスム芸術
・ミケランジェロの「勝利の群像」
・ブロンズィーノの「愛の寓意」のヴィーナス
・人間性を失ったマリア
・【まとめ】







ルネサンスと古代ギリシャ・ローマ


ルネサンスというのは、フランス語で再び生まれたもの、再生という意味である。再生という限りは何かが過去にあり、死んでいたことを示している。そのルネサンスの「ル」、再び甦ってくるものというのは、古代の文芸であり、思想であり、政治体制である。その政治体制とは民主主義であり、文芸というのはギリシャ・ローマなどの人間的な文学であり、そのベースにあるのはギリシャ神話である。古代復興とは、政治的にはローマの共和制を復興し、封建領主を抑えようというイデオロギーであり、精神史的にいえば、ローマの古代文明をキリスト教にかえて復興しようという二つの側面がある。

ルネサンスという言葉の意味である古代復興がいつから始まったのか。若桑みどりは、ルネサンスは14世紀のペトラルカ(1304~74)に始まると考えている。ペトラルカこそ、中世とルネサンスを分ける重要な線を引いた人で、古代復興の政治的、思想的な二つの側面を初めて文章に書いた人であるという(俗に言われているダンテではなく、ダンテは全く中世の人である)
(若桑、1983年、51頁~52頁。ダンテが、フィレンツェの詩人として、中世の思考の枠内にふみとどまっていた点に関して、山岸健も、『神曲』を例にあげて指摘している。山岸健『レオナルド・ダ・ヴィンチ考――その思想と行動』NHKブックス、1974年、156頁~157頁)。

ボッティチェリの「ラ・プリマヴェーラ(春)」


そして美術史的には、マリアの上にヴィーナスが重なり、一致すると若桑は理解している。15世紀の後半、つまりルネサンスが最高の黄金時代に達した時に生まれてきたルネサンスを代表する画家のひとりに、ボッティチェリ(1445頃~1510)がいる。
俗に「ラ・プリマヴェーラ(春)」といわれる絵を、ロレンツォ・デ・メディチのために描いた。この絵の真ん中にいる女の人こそ、マリアであり、ヴィーナスであるとする(ボッティチェリは別にこれをヴィーナスだとは言っていないし、誰言うとなくヴィーナスということになっている)。
この中央の女性を見ると、慎ましく、シンプルだけれども、威厳のある洋服を着て、ベールを被った結髪をし、敬虔な清らかな顔付きをしている。ボッティチェリのこの絵の中で、マリアとヴィーナスが区別がつかなくなっている。このマリア=ヴィーナスというのは、15世紀後半のルネサンスの最高のモメントである。この時期、聖母とヴィーナスの表現が一致したというのである。
この「ラ・プリマヴェーラ」という絵こそ、聖母マリアがもっていた聖なるものと、ヴィーナスがもっていた地上的な、世俗的な女の面を思想的にも造形的にも、見事に一致させたと若桑はみている(若桑、1983年、54頁~58頁)。

ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」


ボッティチェリには、もう1枚「ヴィーナスの誕生」という有名な絵がある。「ラ・プリマヴェーラ(春)」は板絵であったが、こちらは布、キャンバスに描かれている。どちらも大きさはほぼ同じで(約2m×3m)、ロレンツォ・デ・メディチのために描かれたといわれ、もともと対幅だろうということになっている。「春」の方が、“地上のヴィーナス”といわれるのに対して、「ヴィーナスの誕生」の方は“天上のヴィーナス”といわれる。というのは「春」のヴィーナスは着衣像で陸地にいるのに対して、「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスは裸体像で海にいるからである。

ギリシャ神話によると、周知のように、天の神であるウラノスの生殖器が切り落とされ、海に落ち、そこから泡が生じて、ヴィーナスが生まれたと伝えられている。このヴィーナスは天から降ってきて、地上に来たというので、“ウェヌス・ウラニア”つまり“天上のヴィーナス”と呼ばれた。

絵を見ると、ゆらゆらと風に吹かれてやっと来ているように見え、まるで重心がとれていないように軽い。この軽さというのは、このヴィーナスが天の賜であることを示している。この天上的な存在であるヴィーナスが、陸地に吹き寄せられてきて、“地上の衣”を着せられようとしている場面が描かれている。

さて、新プラトン主義者のフィチーノは、ヴィーナスや愛には二つあると考えた。天のヴィーナス、ウェヌス・ウラニアと、大地のヴィーナス、ウェヌス・パンデーモスの二人である。二人はどちらも美しい双子だという。
ボッティチェリは、大地に囲まれたヴィーナスと、天から降りてきたヴィーナスの二つを描いて、完璧だと思った。彼だけではなく、ロレンツォもそうである。
ボッティチェリは、ロレンツォ豪華公の黄金時代に生き、1494年のピエロ・デ・メディチの追放も、これに続くサヴォナローラの政治とその処刑も、すべて見た画家であったと、若桑は解説している。
(若桑、1983年、65頁~72頁、若桑みどり『世界の都市物語13 フィレンツェ』文芸春秋、1994年、21頁)。



若桑みどり『フィレンツェ』(講談社学術文庫)はこちらから


新プラトン主義とフィチーノ


ルネサンスの思想として新プラトン主義がある。新プラトン主義とは一言でいえば、ヴィーナスとマリアを合体させる思想であると若桑は説明している。
新プラトン主義をボッティチェリに吹き込んだのが、マルシリオ・フィチーノ(1433~1499)である。フィチーノは、ロレンツォ・デ・メディチの家庭教師であり、ルネサンス最大の哲学者である。フィチーノの父はロレンツォの父親の侍医だった人で、その子フィチーノは、優れた哲学的才能をもち、ギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語に通じていた。15世紀末に新プラトン主義という新しいイデオロギーをたてて、ルネサンスに大きな貢献をした。フィチーノは、ギリシャの昔からあった三美神を自分の紋章にし、その三美神に新しい近代的な愛の弁証法の意味を与え、「ラ・プリマヴェーラ」の図柄をも与えた。

その画面の左側に立つ三人の女性は、“貞節”“愛欲”“美”の三美神を表現している。愛を示すのに単独ではなく、三つの対立する概念によって、その対立する概念のジンテーゼ、統合によって、初めて人は愛に至る。貞節と愛欲というのは、霊魂と肉体のように相克し、それを一つにまとめるのが美であるという新プラトン主義の考え方をこの絵はよく示している。

フィチーノの書いた代表作は、『テオロギア・プラトニカ』(1487年[ママ])であり、プラトン神学である。“プラトン”というのはヴィーナスであり、古代であり、人間である。“テオロギア”というのは神様、マリアである。この矛盾する二つを一つに一致させてこそ、初めて全人間的な宗教ができると提唱した。フィチーノの新プラトン主義なしには、ルネサンスは語れない。そしてジョルダーノ・ブルーノ(1548~1600)まで、16世紀の哲学もこの新プラトン主義の影響を受けた。

ただ、若桑みどりは、別の著作において、プラトン主義の負の側面についても指摘している。すなわち、フィレンツェの知識人の関心を引いたプラトン主義の精神主義は、現実から知識人の目をそらさせ、少数の選ばれた仲間とともに、目には見えない精神の世界へと関心を集中させるようになったというのである。それは、「黄金時代」を標榜するメディチ家の貴公子や貴婦人たちを主人公とする祭りが、内外の危機や困難から市民の目をそらさせる役割を果たしたのに、似ているともいう。

そして、ボッティチェリの優雅な絵についても、次のようにコメントしている。
「自然主義からはほど遠い、夢幻的なまでに美しいボッティチェリの優雅な(優しき)世界は、それがペストや戦争のさなかに描かれていたことを思えば、まさに、現実を忘れるための陶酔であったことがわかる」と記す。
プラトン主義は、自然主義と違い、現実を逃避し、神秘の世界へ向かわせ、夢幻的・自己陶酔的な負の側面をもつ思想でもあったというのである。
(若桑、1983年、62頁~64頁、若桑みどり『世界の都市物語13 フィレンツェ』文芸春秋、1994年、234頁~235頁)。

一方、こうしたメディチ家を中心としたフィレンツェのアカデミー、サークルにほとんど縁がなかった芸術家が、レオナルド・ダ・ヴィンチであったと、社会学者の山岸健は理解している。
当時のフィレンツェの知的状況は、新プラトン主義と、科学的探究の精神を支柱としてかたちづくられていたとみられるが、ボッティチェリが新プラトン主義に強い関心を寄せていたのに対して、レオナルドは実証的・分析的科学精神をもって芸術活動にとりくんだ。そして「レオナルドがメディチ家によって積極的にとりたてられていれば、彼の生涯も大きくかわっていたであろう」とも山岸はみている(山岸健『レオナルド・ダ・ヴィンチ考――その思想と行動』NHKブックス、1974年、46頁~48頁)。



ティツィアーノの「天上の愛と地上の愛」


15世紀において、フィレンツェで盛んだったヴィーナス表現は、16世紀の初頭には、ヴェネツィアに移って、そのピークを迎える。中でも、一番典型的な例は、巨匠ティツィアーノ(1477頃~1576)の「天上の愛と地上の愛」という絵である。これがきわめつけである。
このボルゲーゼ美術館にある絵は、ボッティチェリの中で二つに分かれていた“天上のヴィーナス”と“地上のヴィーナス”を一つの画面に描いてしまった。そういう点では、はるかに進んだ段階を示している絵であるという。

向かって左側には、洋服を着た女性がおり、泉をはさんで、右側には彼女にそっくりの裸体の女性がいる。ボッティチェリの絵と同じく、裸体こそ天の印で、裸体の女性が聖なる愛を表している。新プラトン主義のヴィーナス論、思想を伝えている。
左側の服を着た女性は、先述したように、洋服を着ているということで地上性を表現した。その彼女の物質性を表現するために、宝物の入った大きな壺を抱え、摘み取った花を持っている。この花は、すぐに枯れてしまうもの、はかない愛、短い幸福のシンボルである。
右側の女性は裸で、魂を表わす赤の衣を腕にかけて、かすかに炎をあげる小さな壺を持っている。炎とか煙というのは、昔から精神性のシンボルである。それは神の愛で、永遠に燃える炎である。二人の女性の真ん中には愛の神、クピドがいて、ふたりの間の泉をかき混ぜている。天上の愛も、地上の愛も、よく混ざるように。

このティツィアーノの絵は、新プラトン主義の、ヴェネツィアにおけるひとつの成果といわれている。キリスト教とギリシャ哲学、そして霊魂と肉体、地上の愛とキリスト教への愛という、二つの難しいバランスを、ほんの一瞬間、完成したと信じた画家の傑作を示していると若桑は解説している(若桑、1983年、73頁~76頁)。

イタリア・ルネサンスの終焉


イタリア・ルネサンスは、1520年代に終わったといわれる。1520年は、ラファエロ(1483~1520)の死んだ年であるが、既に起こっていた現象に対して、ラファエロの死という象徴的な時間を重ね合わせて、1520年だとされている。
実際は、ルネサンスの思想である新プラトン主義も、新プラトン主義の土台をつくっていたロレンツォ・デ・メディチ(1492年没)の宮廷も、人文主義も、16世紀前半で崩壊する。
政治的には、イタリアは、フランス、オーストリア、スペインという大国の植民地戦争の場になって、国家的独立を失う(1527年には、ヴァチカンが襲われ、ローマ劫掠)。イタリア経済の基礎をつくっていた羊毛加工業、織物工業の仲介貿易および地中海貿易が衰退した。そして、宗教改革により法王の権威が失墜した。こうして、ルネサンス、カトリック、古代ローマ、イタリアのすべての権威が否定されてしまう。物心両面でイタリアが崩れてしまう。
システィナ礼拝堂にあるミケランジェロの有名な「最後の審判」は、この時の記憶を、法王クレメンス7世がとどめておこうとしたものであるといわれ、世界の終末のイメージである(若桑、1983年、77頁~80頁)。

マニエリスム芸術


このイタリアが完全な危機に陥った時期、1520年から1580年代半ばまで、この危機の時代を代表する芸術が、マニエリスム芸術である。この時代を精神史的にいえば、ルネサンス的なヒューマニズムが疑われ、ルネサンスを含めた中世的な世界観がすべて疑われた時代であると若桑は捉えている。
世界史的にみて、その懐疑の思想の代表者が、オランダではエラスムス、フランスではモンテーニュ、パスカル、文学的には、イギリスではシェイクスピア、スペインではセルヴァンテスといわれる(若桑、1983年、80頁~81頁)。

ミケランジェロの「勝利の群像」


イタリアにはそういう懐疑を代表する思想家は出なかったようだが、それを代表する美術家がミケランジェロ(1475~1564)である。
ただし、ミケランジェロはフィチーノの弟子で、ロレンツォ・デ・メディチの養子あったので、フィチーノやティツィアーノに教えられて幼年時代を育った。だから、ミケランジェロは、新プラトン主義、「ヴィーナスの誕生」や「天上の愛と地上の愛」を生んだ新プラトン主義の亜流ではなく、直系の後継者だったのである。それと同時に、15世紀末にドメニコ派の僧侶、あのサボナローラ(ルターの先駆者)の影響を強く受けてしまった。あのヴィーナスの画家だったボッティチェリは、サボナローラに出会ったことで、1490年以降、自分の描いたヴィーナスの絵を焼いてしまうことになった(晩年のボッティチェリは、宗教的な幻想に憑かれた悲愴な聖母マリアの画家になってしまう)。

ところで、愛、あるいは女性の表現をミケランジェロの作品で跡づけようとした場合、特殊性がそこに見られる。ミケランジェロは女性を愛さなかった(同性愛者だった)ので、ミケランジェロが愛という時、必ずしも女性への愛を示しているわけではなかった。つまり、ミケランジェロの愛は、ヴィーナスの形をとらず、アポロンの形をとった。アポロンという若い美しい男性の姿に、危機の時代における最も代表的な愛の表現を見なければならず、それが1530年頃に制作された「勝利の群像」(パラッツォ・ベッキオ所蔵)という彫像である。
ティツィアーノの「天上の愛と地上の愛」が、ルネサンスという幸福な時代の表現であるとすると、この「勝利の群像」こそ、マニエリスムという危機の時代にある人々の考えた愛の姿であろうと若桑は理解している(若桑、1983年、81頁~85頁)。

なお、女体にほとんど喜びを覚えなかったミケランジェロがヴィーナス像のイメージ形成に寄与したという、逆説的な見解をクラークは提示していた。その一例として、ブロンズィーノの「愛の寓意」に見えるヴィーナスのZ字型のポーズは、フィレンツェ大聖堂の「ピエタ」に見えるキリストの屍体から来ているとする。
ミケランジェロが作ったメディチ家礼拝堂の女性像は、以後半世紀にわたって、マニエリスムの装飾的裸体像のための基本材料を供給しつづけたと、注目すべき見解を述べていた。マニエリスムは、ミケランジェロの表現的な形象歪曲を起源とし、女性裸体像の場合はこれにパルミジャニーノの優雅が加わったものとしてクラークは理解している(クラーク、1971年[1980年版]、178頁~179頁)。

16世紀のイタリア人が、激しい感情を理念化することによって、生活を静穏柔和なものにするには、二つの大きな伝統的な型があったと、ウォルター・ペイターは指摘している。すなわち、ダンテ的な伝統の型とプラトン的なそれである。ミケランジェロの詩を形成したのは、ダンテではなくプラトンの伝統である。ミケランジェロのヴィットリア・コロンナへの愛ほど、ダンテのベアトリーチェへの愛と趣を異にしているものはないという(ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社、2004年、91頁~92頁)。

ブロンズィーノの「愛の寓意」のヴィーナス


その後、ある種のヴィーナスの堕落した形が、16世紀の末期に現われる。そのきわめつけの作品は、アーニョロ・ブロンズィーノ(1503~1572)というフィレンツェの宮廷画家が描いた「ヴィーナスとアモール」(「愛のアレゴリー」もしくは「愛の寓意」、1545年頃、ロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵)という傑作である。
これがヴィーナスの完全に下降した姿、神性を剥ぎ取られたヴィーナスの姿である。つまり、ルネサンス期のように、ヴィーナスと聖母マリアが一致することができた姿とは全く違う、ヴィーナスの最後の姿を示している。

中央のヴィーナスが、年若いアモール(クピド)と口づけを交わしている。しかし、二人の背後には、おばあさん(嫉妬の寓意像)、不気味な笑いを含んだ少年(快楽のアレゴリー)、蜂の巣と蠍を手にした奇妙な乙女(欺瞞のアレゴリー)がいる。
愛のあるところには嫉妬、はかなさ、欺瞞といった否定的な存在が蠢いていることをこの絵は描いている。
だから真ん中にいるヴィーナスというのは、もはや聖なる性格というものを完全に剥奪されている。ルネサンスからわずか1世紀もたたず、地上の愛というものが、気高い天に到る道だとされてきたのに、ここで完全に閉ざされたと若桑は解釈している。
このヴィーナスは、完全に悪であり、あらゆる不道徳、嘘、謀り、欺瞞、虚飾の巣であるというのである。絵画表現はあくまで美しいけれども、16世紀においては、特にこのメディチの宮廷社会においては、愛というものが、このように複合したマイナスのイメージになってしまった。これこそ、ルネサンスの終末であり、ヴィーナスとマリアの調和の終わりであるという。
この16世紀のブロンズィーノの「愛の寓意」を終わりとして、1585年以降、ヴィーナスの表現は、ほとんど消滅するそうだ。なぜかといえば、反宗教改革、つまりバロックの芸術が起こってきた時には、ヴィーナスというのは異教の存在として完全に葬り去られてしまうからである(それが、再び甦ってきたとしても、かつての栄光は二度ともつことはなかった)(若桑、1983年、87頁~92頁)。




【補論】 ケネス・クラーク氏によるブロンズィーノの「愛の寓意」の解説


なお、このブロンズィーノの「愛の寓意」に対して、ミケランジェロの作品が与えた影響について、ケネス・クラークは興味深いことを述べている。すなわち、

「女体にほとんど喜びを覚えなかったミケランジェロがヴィーナス像のイメージ形成に寄与したとは、逆説的とも言えよう。しかし形態を発明する彼の力量は同時代人に非常な支配力を及ぼしたので、彼のポーズは幾つかの思いがけない文脈(コンテクスト)の中に再び出てくることになった。その一例はブロンツィーノの≪愛の寓意≫に見えるヴィーナスである[101図]。このヴィーナスは洗練され、華奢でしかも冷たく淫らなメディチ家の時代のエレガンスを要約しているようだが、彼女のZ字型のポーズはフィレンツェ大聖堂の≪ピエタ≫に見えるキリストの屍体から来ている。こうした変容への道は、フェラーラ公を喜ばせようと≪夜≫のポーズを≪レダ≫の下図(カルトン)の基本に利用した際に、ミケランジェロ自身が開いたものであった。こうしてメディチ家礼拝堂の二つの女性像は、以後半世紀にわたって、マニエリスムの装飾的裸体像のため基本材料を供給しつづけたわけである。」(クラーク、1971年[1980年版]、178頁~179頁)。

ミケランジェロは“女嫌い”で有名であったが、その彼が、逆説的にも、ヴィーナス像のイメージ形成に寄与したことをクラークは指摘している。
ブロンズィーノの「愛の寓意」のヴィーナスは、洗練され、華奢でしかも冷たく淫らなメディチ家の時代のエレガンスを要約しているといい、そして、そのZ字型のポーズに、クラークは注目している。このポーズは、フィレンツェ大聖堂の「ピエタ」に見えるキリストの屍体から来ているというのである。そのポーズは、「夜」のポーズを「レダ」の下図(カルトン)の基本に利用した際に、ミケランジェロ自身が開いたものだそうだ。
そしてメディチ家礼拝堂の二つの女性像は、以後50年間、マニエリスムの装飾的裸体像のため、基本材料を供給し続けたようだ。


【補論】 フランソワ1世とブロンズィーノの絵


マニエリスム期のイタリア・フィレンツェの画家にブロンズィーノ(1503-1572)がいる。メディチ家のフィレンツェ公コジモ1世の宮廷画家として活躍する。
ロンドンのナショナル・ギャラリーにあるブロンズィーノの有名な絵「愛の寓意」(「時と愛の寓意」とも。1540年~1545年頃とも1546年頃とも。146×116cm)は、イタリアのメディチ家からフランス王フランソワ1世に贈られた絵である。
画面中央の女性は左手に黄金のリンゴ、右手に矢を持っている。彼女と口づけを交わしている少年は翼を生やしており、背中には矢筒をさげるベルトが見えており、矢筒は左足のそばにある。その右足の近くには、白い鳩のつがいがいる。少年の背後には、口を大きく開けて頭を両手で搔きむしる老婆が描かれている。その上には、女性が口を開けて青いカーテンを持つ一方で、その反対側には禿頭で白髭の老人がそのカーテンをつかんでいる。この老人は大きな翼を生やしており、右肩には砂時計を載せている。

画面中央の女性はヴィーナスであり、少年は羽と矢筒という目印からキューピッドである。ヴィーナスとキューピッドは愛の擬人像である。キューピッドの背後で頭を搔きむしっている老婆は、嫉妬の擬人像である。画面右上の男性は、老いていることと右肩の砂時計を載せていることから、時の擬人像である。

イコノロジー研究の第一人者パノフスキーは、ブロンズィーノの「潔白図」の壁掛(フィレンツェのガレリア・デリ・アラッツィに、ブロンズィーノの下絵にもとづいてフランドルの名織物師ジョヴァンニ・ロストが織り上げた壁掛[タピスリー])に、本来的に照応する絵がこの「愛の寓意」であるという。

また、パノフスキーはヴァザーリの次のような記述を引用している。
「彼は一枚の特異な美しさのある絵を描いたが、それはフランス国王フランソワに送られた。その絵には、裸のウェヌスと彼女に接吻しているクピドが描かれており、この二人の一方の側には快楽と戯れと他のクピドたちが、またもう一方の側には欺瞞と嫉妬と他の愛の情欲たちが描かれていた。」
この記述は、絵がフランスに行ってしまっていたので、記憶をもとにして書かれたものである。ヴァザーリの記述は、それなりに納得のいくものであり、快楽と戯れ、欺瞞と嫉妬といった具合に絵の構成を意味上の対比を示していると解釈した点は当を得たものとして、パノフスキーも評価している。またこの絵は一方で愛の快楽を、もう一方で愛の危険と苦悩を示している(エルヴィン・パノフスキー(浅野徹ほか訳)『イコノロジー研究――ルネサンス美術における人文主義の諸テーマ』美術出版社、1971年[1975年版]、75頁~78頁。なお、パノフスキーは「時の翁」と題して興味深い専論を展開している。65頁~84頁参照のこと)。


パノフスキー『イコノロジー研究―ルネサンス美術における人文主義の諸テーマ』はこちらから




人間性を失ったマリア


このように、ヴィーナスに象徴される人間の愛というものが、人間を堕落させるものとして、マイナスで表現されるようになってしまったが、マリアの方もその聖性がルターによって否定されてしまう。1000年にわたって神と同等の尊敬と崇拝を受けてきたマリアであったが、ルター派によると、尊いのはキリストだけであり、マリアを崇拝することは、偶像崇拝であるとされた。つまり、マリアの聖性剥奪が行なわれ、その結果、プロテスタント側は、一切マリアを描かなくなった(ヨーロッパの半分の国々が、マリアを表現しなくなってしまう)。

一方、攻撃された方のカトリック側は、ヴィーナスとまぎらわしいような人間的なマリアを消すことに決めた。マリアを美しくしていたヴィーナス性をとってしまおうと考えた。人間的なマリア、例えば、マリアが授乳しているような場面は描かなくなる(このことは、逆に、ラファエロの絵の中で、19世紀まで一番人気があった「小椅子の聖母」(1514年頃)という聖母子像を想起してみればよい。このマリア様は、非常に世俗的なマリアで、ターバンを巻いて、肩かけをしていて、子供を抱きとって、今にも授乳しそうな場面である。しかもマリアの顔はラファエロの恋人そっくりにしている)。

そして、カトリック側は、極端に聖性化したマリアを描くようになった。その結果、光に包まれ、法悦境の中で天に昇っていくマリアが、16世紀から17世紀以降、マリアの共通する特徴となる。そのマリアは、もはや人間性をすべて失ったマリアである(若桑、1983年、26頁~27頁、92頁~94頁)。




【まとめ 若桑みどりによる「マリアとヴィーナス」の理解】


以上、若桑みどりのヴィーナス論について、『ヴィーナスの誕生―ルネサンスの女性像』(ジャルパック・センター、1983年)をもとに紹介してみた。

要点を箇条書き風にまとめておく。
・15世紀後半、フィレンツェに住むボッティチェリは、「ラ・プリマヴェーラ(春)」というイタリア・ルネサンス絵画において、聖母マリアがもっていた聖なるものと、ヴィーナスがもっていた地上的な女の面を、思想的にも造形的にも一致させていた。
・その思想的背景には、メディチ家と関わりの深いフィチーノの新プラトン主義が存在し、大きな役割を果たした。
・ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」という絵には、天上的な存在であるヴィーナスが描かれている。
・16世紀初頭、ヴェネツィアのティツィアーノは、「天上の愛と地上の愛」という絵画において、ボッティチェリの絵画で二つに分かれていた“天上のヴィーナス”と“地上のヴィーナス”を一つの画面に描いた。新プラトン主義のヴィーナス論を具現化し、地上の愛と、天上(キリスト教)への愛という二つのバランスを完成した傑作を残した。
・イタリア・ルネサンスは、政治的、経済的、宗教的理由から、1520年代に終焉を迎え、1580年代までマニエリスム芸術が続く。
・ミケランジェロは、15世紀後半に生まれ、新プラトン主義の影響を受けたが、15世紀末に、サボナローラの影響を強く受けた。
・ミケランジェロが1530年代に制作した彫刻「勝利の群像」は、女性への愛もしくはヴィーナスの形をとらず、アポロンの形をとった作品である。
・ティツィアーノの「天上の愛と地上の愛」が、ルネサンスという幸福な時代の表現であるとすると、ミケランジェロの「勝利の群像」は、マニエリスムという危機の時代の愛の姿であった。
・16世紀、マニエリスム芸術の代表的な画家であるフィレンツェのブロンズィーノの「愛の寓意」は、ヴィーナスの完全に下降した姿、神性を剝ぎ取られたヴィーナスの姿が描かれている。それは、ヴィーナスとマリアの調和の美しさの終わりであった。
・ヴィーナスに象徴される人間の愛が堕落した形で表現される中で、マリアの方もルター派により、その崇拝を否定され、その聖性も剥奪され、プロテスタント側では描かくなった。一方、カトリック側は、マリアを美しくしていたヴィーナス性を消し、人間的なマリアを描かなくなり、極端に聖性化したマリアを描くようになった。



要点のみを、表にまとめてみると、次のようになろうかと思う。

































芸術家 作品名 マリアとヴィーナスの関係

ボッティチェリ
「ラ・プリマヴェーラ(春)」「ヴィーナスの誕生」 聖母マリアとヴィーナスの一致

ティツィアーノ
「天上の愛と地上の愛」 天上と地上のヴィーナスを一つの画面に描く

ミケランジェロ
「勝利の群像」(アポロン像) ※独特の芸術観~ヴィーナスに興味なし

ブロンズィーノ
「ヴィーナスとアモール(愛の寓意)」 神性を剝ぎ取られたヴィーナス