歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

《「ミロのヴィーナス」考 その9 ケネス・クラーク氏のヴィーナス論2》

2019-12-14 19:11:41 | 西洋美術史

《「ミロのヴィーナス」考 その9 ケネス・クラーク氏のヴィーナス論2》


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【西洋美術の中のヴィーナス】
<ボッティチェリの絵>
<レオナルドと「レダと白鳥」>
<ミケランジェロと「アポロン」像と「ピエタ」>
<ヴィーナスの至上の巨匠としてのラファエロ>
<「クニドスのヴィーナス」とジョルジョーネの絵>
<「水から上るヴィーナス」とティツィアーノの絵>
<ルーベンスの絵>
<アングルの絵>
<「クニドスのヴィーナス」のポーズとルノワールの絵>







<ボッティチェリの絵>


クラークによるボッティチェリ作品の解釈


高階本で紹介したように、ボッティチェリの有名な絵に「春(プリマヴェーラ)」という絵がある。この絵の画面中央にひとりだけ他の登場人物より高い位置に描かれているのが、ヴィーナスである。鬱蒼とした森の背景も、そこだけアーチ形に開かれ、ヴィーナスを強調している。そもそもこの絵の題名「春(プリマヴェーラ)」は後世つけられたもので、以前には「ヴィーナスの国」という題名でも呼ばれていたようだ。このヴィーナスは、礼儀正しく衣裳を着けて聖告をうけるマリアのように片手を挙げている(高階秀爾氏によれば、右掌を相手に向けるヴィーナスの仕草は、相手を迎え入れる仕草である。また、この絵の中で、アトリビュートである羽根の生えた靴をはくヘルメスを別とすれば、ただひとり、裸足ではなくサンダルをはいており、地上のヴィーナスであることを示しているという[高階、2014年、43頁~50頁])。

さて、クラークは、ボッティチェリという画家を「ヴィーナスの最大の詩人のひとり」と位置づけている。「春(プリマヴェーラ)」のヴィーナス像は、ゴシック的であるとクラーク氏は捉えている。この中央のヴィーナスのポーズや腹部のゆるやかな曲線は、「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」でアダムを誘惑する小さなエヴァのそれに近いというのである。
クラーク氏は、この「春」という作品を次のように理解している。すなわち、この「春」は古典思想と中世思想とのちょうど平衡のとれた接点に立っており、一見相容れることのない二つの考え方をひとつに結びつけるやり方で作られた作品である。あたかも人文主義者が古典的知識をスコラ的な思考の枠に嵌めこんだように、ボッティチェリの人物のイオニア的な優美さはゴシックの枠に組み入れられた。しかも新プラトン主義者が理性を犠牲にして象徴に変幻自在な解釈を施したように、ボッティチェリは空間とか量体性を表そうとせず、ビロードのクッションに置かれた宝石のように、個々の美しい形態をただその美しさの故に並べたてた。そのような作品としてクラークは理解している(クラーク、1971年[1980年版]、130頁~135頁)。

<レオナルドと「レダと白鳥」>


クラークは、「第4章 ヴィーナスⅡ」の書き出しを、次のように、レオナルドの「レダと白鳥」について書き始めている。
「「天上のヴィーナス」は、かつてフィレンツェの地で新プラトン主義的な思索の海から生まれ出た。しかし彼女の妹はヴェネツィアで厚く生え揃った芝草、丸太造りの井戸、豊かな樹葉からなるもっと感触的な環境から生まれた。以来今日まで四百年にわたって、「自然のヴィーナス」はその起源から言っても本質から言ってもヴェネツィア人であると画家たちに認められている。とはいえ天才の奇妙な気まぐれというべきか、創造的で生殖的な生命のシンボルとしてはだかの女を最初に表現したルネッサンス芸術家は、フィレンツェ人レオナルド・ダ・ヴィンチであった。一五0四年から一五0六年の間に彼は少くとも三点の≪レダと白鳥≫の習作をつくっており、そのひとつは油絵に仕上げられてフォンテーヌブロオに運ばれ、十七世紀の末までこの地に残っていた。なぜ彼がこうした主題を描く気になったのか、その動機はレオナルド特有の謎めいたものである。表面的に見ればこの主題はまったく彼にふさわしくないであろう。レオナルドは古典神話に心動かされなかった。新プラトン主義の空想に我慢がならなかったし、古典的裸体像の源流をなす人体の幾何学的な調和化といったことに何ら感興を覚えなかった。何よりもまず彼は、情緒的にも官能的にも女たちに惹かれなかったのである。ところでこの女に惹かれないという事実が、決定的な因子となって働いていること疑いない。女は何ら肉欲の情を掻き立てない、さればこそかえってますます、彼は生殖のもつ神秘な性格に好奇の目を向けたのであった。」
(クラーク、1971年[1980年版]、159頁)。

「天上のヴィーナス」は、メディチ家の支配するフィレンツェの地で、新プラトン主義の思想の中から誕生した。しかしその妹の「自然のヴィーナス」は、ヴェネツィア人であると画家たちに認められた。
とはいえ、生殖的な生命のシンボルとして「はだかの女」を最初に表現したのは、ルネサンスの芸術家である天才レオナルド・ダ・ヴィンチであったとクラークは主張している。それは、1504年から1506年の間に描かれた「レダと白鳥」という作品である。
なぜレオナルドがこうした主題を描いたのか、その動機はレオナルド特有の謎めいたものであるとする。レオナルドは古典神話に心動かされなかったし、新プラトン主義の空想に耐えられなかったし、情緒的にも官能的にも女たちに惹かれなかったから、「レダと白鳥」というのは、不思議な主題である。
ただ、女に惹かれなかったからこそ、生殖のもつ神秘な性格にレオナルドは好奇の目を向けたものとクラークは推察している。

レオナルドは、1504年頃から生殖過程の科学的な研究を始め、正確な挿図を付している。「レダ」の最初のスケッチも、こうした一連の解剖デッサンの1枚のかたわらに描かれた。
レオナルドの「レダ」は、少なくとも立像による2つの下図(カルトン)と、膝をついている姿の1つの下図がある。
その最初のものは、ラファエロの模写したデッサン(現在ウィンザー宮王室図書館蔵)が残っているので、1505年以前の作と推測されている。第2の下図ははるかに後年のものであり、この立像の全体的観察は何か古代作品から得られているはずだが、両腕が体重を支えている方の脚から反対方向に回転されている点で、「水から上るヴィーナス」とは異なるとクラークは指摘している。そして膝をついているレダ像も、石棺に彫られているような貝の中に膝をついている「水から上るヴィーナス」から影響されたとクラークは考えている(クラーク、1971年[1980年版]、487頁~488頁原註55)。
レオナルドのレダ像は、「水から上るヴィーナス」と影響関係があるかもしれないとクラークはいう。

さて、クラークは、レオナルドの「レダと白鳥」について、次のように続けて叙述している。
 かりにこの種の断片的な証拠がないとしても、レオナルドの≪レダ≫を模写した何点かの現存するコピーを見れば、彼の意図が疑いもなく生殖のアレゴリーの表現にあったことは明瞭だろう[91図]。彼は≪クニドスのヴィーナス≫やその子孫たちが覆い隠していた肉体の部分を巧みに強調するポーズを発明した。これと似たポーズが古代にも知られていたかもしれない。テルメ美術館の≪バッカスの石棺≫[218図]には片腕を曲げて胸にまわし、下半身をさらけ出しているバッカスの巫女が含まれていたし、この種の像をレオナルドが知っていたと考えることができるからである。とはいうものの彼が「発明」したことに変りはないであろう。なぜなら古代の作例では腕が乳房を覆っているに対し、同じ動作が乳房を露わにし、これに東方的(オリエンタル)な隆起を与えるより、レオナルドは巧みにやってのけているからである。」(クラーク、1971年[1980年版]、159頁~160頁)。

「レダ」を描いたレオナルドの意図は、生殖のアレゴリーの表現にあったとクラークはみている。そして、レオナルドは、「「クニドスのヴィーナス」やその子孫たちが覆い隠していた肉体の部分を巧みに強調するポーズを発明した」という。
これと似たポーズは、「バッカスの石棺」(グレコ・ローマン彫刻、ローマにある国立美術館であるテルメ美術館)にみられるバッカスの巫女の舞踊の姿にもあるといい、レオナルドはこの種の像を知っていたとクラークは推測している。ただ、古代の作例とは異なるので、やはりレオナルドの「発明」とみなされるとする。
レオナルドの「レダ」像には、くねるような、錯綜した成長のリズムが流れており、あらゆる形態と象徴とを一貫した意図のもとに統御されているため、それは「否定すべからざる天才の作品」であるとする。

そして、レオナルドの「レダ」は、ちょうど同じ頃、ヴェネツィア人の感覚的な想像世界のなかで、「自然のヴィーナス」の概念が形をとりつつあったとき、これを知的に(科学的に)実現したものであったと評している。このポーズもヴェネツィアに知られていたかは正確には不明だが、レオナルドの他の作品は既にヴェネツィア芸術に影響を及ぼしていた。だから、「レダ」のコピーが、ジョルジョーネやティツィアーノの裸婦像にも影響したことも想像しうる。
ともあれ、ヴェネツィアの地で「自然のヴィーナス」が初めて偉大な姿を示すのは、ジョルジョーネの「田園の合奏」(ルーヴル美術館蔵)においてである(クラーク、1971年[1980年版]、159頁~162頁、352頁)。

<ミケランジェロと「アポロン」像>


クラークはミケランジェロに対して、次のような賛辞を呈している。
「紀元前四世紀のギリシャ人を別とすれば、ミケランジェロほど男性裸体像のもつ神的な性格を確信をもって感じとった者はいない。」と(クラーク、1971年[1980年版]、85頁)。

クラークは「第2章 アポロン」で上記のように述べているので、ここで言う「紀元前四世紀のギリシャ人」とはプラクシテレスを想定していることだろう。プラクシテレスには、「トカゲを殺すアポロン」(通称「クリーブランドのアポロン」)(原作紀元前350年頃のコピー、ブロンズ、クリーブランド美術館[アメリカ])や「ヘルメス」(ヘレニズム時代のコピー、原作紀元前4世紀半ば、大理石、オリュンピア考古博物館)がある(中村、2017年[2018年版]、136頁~139頁、189頁~192頁参照のこと)。

ルネサンス期の『芸術家列伝』を残したヴァザーリも、「そして裸体は彼にとって神的なものに思われた」とミケランジェロを記している。ミケランジェロの弟子であるヴァザーリは、ミケランジェロを英雄と仰いだが、上記の言葉は単なる修辞ではなくて確信の表明である。
ギリシャ人のようにミケランジェロも男性美に激しく心を駆り立てられたが、生来の生真面目でプラトニックな性向から、彼は自己の情動を理念と同一視したという。ミケランジェロの作品ではオリュンピア的な晴朗とかアポロン的な理性の明晰は決してありえないが、ミケランジェロは後世の誰よりも、酷烈なアポロン的権威、あの「正義の太陽」の性格を与えることができたとクラークはみている(クラーク、1971年[1980年版]、85頁~86頁)。

若きミケランジェロは、古代の完成された美を追求した。ミケランジェロの裸体像デッサンは、トスカナ的な力強さと、筋骨の逞しさがあるといわれる。ルーヴル美術館所蔵の裸体の青年を表わしたデッサンでは、神のごとき肉体がフェイディアス的な光彩を放っているいる。ただ、このデッサンを分析していくと、胴部の輪郭線は、古典的な肉体構成の基礎をなしていた旧い幾何学的分割がほとんど消え失せているなど、非ギリシャ的な側面も見られるという。
とはいえ、ミケランジェロは古典的な比例体系(ポリュクレイトスに関するプリニウスの記述から出たと思われる比例)を研究し、利用している。ミケランジェロのデッサンは古代に最も近い。
ミケランジェロは肩の軸線と臀部の軸線とを強く対比させ、また各筋肉を解剖学的な正確さで描き、ポリュクレイトス的スタンスを誇張して表わした(結果的にはポリュクレイトスよりも、アンドレア・デル・カスターニョによく似てしまったようだが)。

さて、ミケランジェロの作品のうち、アポロン的理念を最高度に具体しているものは、「ダビデ」の最初の大理石像であるとクラークは位置づけている。その胴部だけでも、ミレトス出土の断片や「クリティオスの青年」(紀元前480年頃)に端を発した調和の追求の絶頂をなすものである(クラーク、1971年[1980年版]、86頁~89頁)。
ミケランジェロは、30歳のとき、名声は確立したといわれる。

<ミケランジェロの「ピエタ」>


キリスト教と古典の図像の交錯は、「埋葬」と「ピエタ」という二つの偉大な悲劇性の主題にはっきりとうかがうことができる。ゴシックの想像力が生み出した最も記念すべき成果は、「ピエタ」であるといわれる。それは、キリストの遺体が聖母の膝に支えられたという伝説的出来事を見られるのは、14世紀ドイツの木彫像であるが、その表現が完成されるのは、15世紀半頃のことである。
そして15世紀の末頃には、ネオ・プラトニズムの思想にとっぷりと浸された芸術家ミケランジェロによって、発展させられたとクラークは理解している。サン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロの「ピエタ」は、1500年前後の数年間に、イタリア芸術がその視覚芸術を確立することのできた、あの古典哲学とキリスト教哲学との崇高な結合の一例であるというのである。
ミケランジェロは、キリストが聖母の膝の上に力なく横たわるというこの主題特有の北方の図像を受け入れはしたが、しかしそのキリストの身体に、見る者が思わず息を呑むほどの洗練された美しさを与えた。
ただ、ミケランジェロがどのような段階を経て、この最終的構想に達したかについてはわかっていない。というのは、サン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ」のためのデッサンがただの1枚も残っていないからである。
しかし、同じモティーフをラファエロが「埋葬」(1507年、ボルゲーゼ美術館[ローマ])を描いているので、これにより、その跡を辿ることができるようである。クラークによれば、この構図のためのラファエロのデッサンを見てみると、このキリスト教の主題に古代的性格を与えようとしており、まるで古代の悲劇のような趣きをそなえているという。ラファエロはこの主題を古代の墓石の浮彫、ないしは石棺によって影響されたとクラークは考えている。さらに言えば、その霊感源となったのは、グレコ・ローマン彫刻の「戦士の墓石」であるかもしれないとする。それは死んだ英雄を仲間たちが戦場から運び去るという構想のもとに彫られたものだった(クラーク、1971年[1980年版]、287頁~288頁、301頁~306頁)。

<ヴィーナスの至上の巨匠としてのラファエロ>


クラークは、ラファエロについて、次のように述べている。

「ラファエルロの多岐にわたる驚くべき天稟のうち、まったく彼自身のものに属し、彼の個性の光源から発していると思われるものは、感覚を通じて理想をつかむその能力であった。彼は調和によって人類に愛すべき完全性を与えるが、この調和とはけっして計算とか意識的な洗練の所産ではなく、彼生来の肉体的な理解力の一部をなしていた。ラファエルロはこうしてヴィーナスの至上の巨匠、古典世界以後におけるプラクシテレスたるべき天分を賦与されていたのである。だが保護者たちの意向は別のところにあったし、ラファエルロほど保護者に忠実に奉仕した芸術家もいなかった。ヴィーナスがつねに彼の念頭にあったことはデッサンから知られるが、彼はこのヴィーナスを一度も完全には絵に表わしていない。当時の人びとは、現代のわれわれほど仕事の肌理の細かさを気にかけず、ラファエルロが理想とするものを版画や弟子の作品のなかに捜し求めた。われわれとしても彼らの先例に従うよりほかはない。幸いにも彼の最も初期と目されるオリジナル作品が裸体像を主題としており、ラファエルロはここで十全に自己を表現している。シャンティイーの≪三美神≫がそれで[81図]、裏面には今日ロンドンにある≪騎士の夢≫が描かれてあった。もともとこれらの二点は、天上のヴィーナスを最終の目標として責任ある道を歩むよう、若きシビオーネ・ボルゲーゼのための鑑戒画として描かれたものではないかという主張がなされているが、いかにももっともな話と思われる。ラファエルロは在来の因襲的なモティーフやペルジーノの形骸化した様式の束縛から脱して、彼に生得のものであり、その指針に従うならば衒学(ペダントリー)に陥らずに古代芸術の高さに迫ることのできる、あの古典主義を自分の内部に見つけ出す。それまでに彼がどんな古代の三美神を実際目にしていたかはわからない。」(クラーク、1971年[1980年版]、143頁~144頁)。

ここでクラークは、画家ラファエロに、「ヴィーナスの至上の巨匠」という最大の賛辞を呈している。それのみならず、「古典世界以後におけるプラクシテレスたるべき天分を賦与されていた」と最高の評価を下している。
プラクシテレスといえば、前述したように、「クニドスのヴィーナス」の作者で、古代ギリシャ彫刻史において確固たる地位を築いた、紀元前4世紀の彫刻家であった。そのプラクシテレスに匹敵する天分を賦与されたとクラークは形容している。この評価により、クラークのヴィーナス論、美術史観の精髄に触れる思いがする。
ラファエロの古代観は古典的である。ヴェルフリンは古典芸術の諸特質に見事な定義を下したが、これらの諸特質のすべてがラファエロに現われているという。その諸特質とは、装飾の節約、途切れることのない輪郭線、本質的なものへの集中である(クラーク、1971年[1980年版]、143頁~144頁)。

ラファエロは、フィレンツェでの修業時代、男性裸体像の素描に明け暮れて、はだかの婦人習作はただの1点しか残っていない。当時のフィレンツェ人たちは、筋肉の盛り上がった背中とか、伸ばした腕の動態には喜びを覚えたが、穏和で静止的なヴィーナスのかたちには、興味を感じなかったようだ。そしてラファエロもそうしたフィレンツェ人の権威に従い、節くれ立った肉付けに対するある種の好みを持ち続けた。

ただひとつの例外がある。それは生きたモデルや古代作品を写したものではなく、レオナルドの「レダ」のための習作の模写である。そして、1年ほど後に、ラファエロがローマ教皇の居室の装飾を始めた時、そのほとんど最初の仕事が、「アダムとエヴァ」のエヴァの誘惑の場面である。このエヴァの下半身は「レダ」の模写から直接に来ている。
しかし、左腕の動きや肩への頭の据え方など、レオナルドのポーズに変更を加える必要のあった箇所では、人体のリズムが破綻している。このことは、ラファエロがそれまで裸婦についてはほとんど勉強できずにいたことを物語っているとクラークは指摘している。ラファエロ自身もこのエヴァには不満を覚えていたようで、マルカントニオの版画が伝えるように、ラファエロはもっと注目すべきエヴァの誘惑を描いている。

これと同じ頃の「オルレアンの聖母」のための紙の裏に、ラファエロの初めてのヴィーナス像が簡略な素描で表わされた。別にこれといった目的もなしにつくられた素描で、たまたま残ったらしいが、この素描からもラファエロが古代に親しんでいたことを推測できる。
古典時代このかた、ラファエロほど、裸体像の原理をこれほど完全に吸収した画家はいないといわれる。この素描の各部分の形態は、「カピトリーノのヴィーナス」のように、卵型にしっくり内接し、それ以上に堅固とすら言えるとクラークは評している。

ラファエロの描いたヴィーナスは、身体をいったんよじらせ、最後に顔を正面向きにさせることによって、各形態を螺子(ねじ)のように締めこんでいるからという。このヴィーナス像は、古典的な実在感をもっており、まるでたったいま海の泡から生まれ出たかのようである。それでいて、このヴィーナスはどっしりと重みがあり、率直に肉としての存在を受け容れていることにより、ラファエロとその古典趣味的模倣者との間に本質的な相違があるとクラークはみている(この点、マラッタやメングスよりもルーベンスの方が近かった)。

さて、この「水から上るヴィーナス」のような構想は実現を見ずに終わった。ラファエロはキリスト教世界の中心地で「教会」の首長のために仕事をした人であったから、この構想が実現しなかったのは、むしろ当然のこととクラークは考えている。
ただ、この時期に「ウェヌス・ゲネトリクス」と「アリアドネ」という古代の最も名高い範例をモデルにして、着衣の裸体像(濡れた衣[ドラプリ・ムイエ])の入念な習作や教皇庁の一室つまり枢機卿ビビエーナの浴室に、はだかのヴィーナスを装飾のために描いている。後者は、マルカントニオによって版画に移され、それらを通じて、プーサンの時代まで、ヴィーナス図像を豊かにしたという(クラーク、1971年[1980年版]、144頁~147頁)。

<「クニドスのヴィーナス」とジョルジョーネの絵>


クラークによれば、マルカントニオの版画を研究すると、盛期ルネサンス期のヴィーナス像は、ローマではなく、ヴェネツィアの地で創造されたという感を深くするという。ヴェネツィア派の古典的な裸体像は、ジョルジョーネの創意になるという。

ジョルジョーネは、紀元前4世紀ギリシャ以後のどんな芸術家にもまして精妙な肉体美に対する彼生来の愛着をもち、欲求の形状と色彩とを突如として発見したと理解している。ジョルジョーネこそが、「裸体像に関して真の発明者」であったというのである。

そして、クラークは、ジョルジョーネの「眠るヴィーナス」について、次のように記している。

「 さらに彼はただひとりの裸婦を主題とした作品も残している。ジョルジョーネ独特の優雅が最も鮮やかに現われた、ドレスデンの≪眠るヴィーナス≫がこれである。
 ヨーロッパの絵画において≪ドレスデンのヴィーナス≫が占める地位は、古代彫刻における≪クニドスのヴィーナス≫のそれに匹敵するであろう[図80]。彼女のポーズがあまりに見事であるため、以後四百年にわたって優れた裸体像の画家たちは――ティツィアーノ、ルーベンス、クールベ、ルノワールそしてクラナッハすら――同じモティーフの変奏曲を作曲しつづけることになった。彼女は長くマルチエルロ邸に秘蔵され、そのため≪クニドスのヴィーナス≫とちがって比較的人に知られなかったが、そのヴァリアントであるティツィアーノの≪ウルビーノのヴィーナス≫や≪パルドのヴィーナス≫は当初から王者のごとくに迎えられていた。彼女のポーズがあまりに静かで自然であるため、われわれはその独創性にすぐには気づかない。だがジョルジョーネのヴィーナスは古代的でない。裸体婦人の横たわる姿は、バッカス石棺の隅の方に時に見られるとは言っても、古代の著名な芸術作品の主題とはならなかったようである。また先例が見当らぬばかりでなく、形態的に見ても彼女はヘレニスティックではない。(中略)ヴィンケルマンが主張したように、古典美とはひとつのそれと把握できる形態から次の形態への移行が完璧な暢達さをもってなされている点にありとするならば、≪ドレスデンのヴィーナス≫は古代の裸体像と同様に古典的に美しい。
 プラクシテレスのヴィーナスは短い外衣をわきに置いて、儀式的水浴につつましく歩を移すところであった。ジョルジョーネのヴィーナスは、はだかでいることも知らぬげに蜜色の風景のなかに睡っている。しかしその輪郭線は彼女を「自然のヴィーナス」と同一視することを許さない。」
(クラーク、1971年[1980年版]、153頁~154頁)。

上記の文からもわかるように、ドレスデンの「眠るヴィーナス」が占める地位は、ヨーロッパの絵画において、古代ギリシャ彫刻家プラクシテレスの「クニドスのヴィーナス」のそれに匹敵すると最大級の賛辞をおくる。プラクシテレスのヴィーナスは、短い外衣をわきに置いて、儀式的水浴につつましく歩を移すところであるのに対して、ジョルジョーネのヴィーナスは、はだかでいることも知らぬげに蜜色の風景のなかに睡っている。
そのポーズは、ティツィアーノ、ルーベンス、クールベ、ルノワールそしてクラナッハといった優れた裸体像の画家たちに、以後400年にわたって影響を与え続けたとみる。

ただ、「眠るヴィーナス」は秘蔵されていたので、「クニドスのヴィーナス」と違い、比較的人目に触れなかったが、この絵のヴァリアントであるティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」や「パルドのヴィーナス」が大いに影響を及ぼしたようだ。ただ、クラークは、ジョルジョーネのヴィーナスは古代的でないとも断っている。形態的に見ても、このヴィーナスはヘレニスティックでないという(クラーク、1971年[1980年版]、151頁~154頁)。

<「水から上るヴィーナス」とティツィアーノの絵>


クラークは、ティツィアーノの「水から上るヴィーナス」について、次のように述べている。

「 これに対して例外がひとつある。エルスミア・コレクションの≪水から上るヴィーナス≫(95図)のことである。彼女は長い年月と修復によっていたんでおり、その洋紅色(カーマイン)は色褪せ、左腕と肩の線は誰か無神経な修復者の手で改変されてしまった。またティツィアーノ自身が彼女の頭部を塗り直し、今では頭と胴体がぴたりと合っていない。にもかかわらず彼女は古代以降の芸術における最も完全で最も密度の濃いヴィーナス像の表現にかぞえられよう。≪田園の合奏≫の笛を吹く女が十九世紀の女性裸体像の形状を予告的に表わしているとすれば、エルスミアの≪ヴィーナス≫は今世紀のルノワールの裸婦に至って終りを告げるこの主題の全概念を先取りしている。つまり女体はここで、いっさいの感覚的な重みともども、それ自体を目的として、単独で提示されている。物語とか周囲の道具立てを口実に使うことなくこのように裸婦を提示することは、十九世紀以前にはきわめて稀であった。ティツィアーノがどんな状況のもとでこの構想を得たかを知ることができたら面白いにちがいない。おそらく彼がジョルジョーネといっしょにドイツ人商会
の装飾に幾人もの単独裸体像を描いた際、そのうちのひとりを油絵具で描いて保存しておくよう依頼されたのであろう。彼の出発点はむしろ古代の作品にあり、それはおそらくマルカントニオの髪の水をしぼっているヴィーナスの版画の発想源と同一のものであった。ただティツィアーノはヘレニスティックの原作の流れるリズムを両腕によるがっちりとした矩形的なデザインに変え、大腿部すらもある程度までこれに呼応させている。」
(クラーク、1971年[1980年版]、168頁)。

「水から上るヴィーナス」は、古代以降の芸術における最も完全で最も密度の濃いヴィーナス像の表現にかぞえられるとクラークはみなしている。そして「≪田園の合奏≫の笛を吹く女が十九世紀の女性裸体像の形状を予告的に表わしているとすれば、エルスミアの≪ヴィーナス≫は今世紀のルノワールの裸婦に至って終りを告げるこの主題の全概念を先取りしている。」と高く評価している。

クラークは、ボッティチェリを「官能の叙事詩人、肉を描かせたら無比の巨匠」と呼んでいる。
ティツィアーノの出発点はむしろ古代の作品にあるのではないかと推測している。おそらくマルカントニオの髪の水をしぼっているヴィーナスの版画の発想源と同一のものであったとする。ただし、ティツィアーノは、ヘレニスティックの原作の流れるリズムを、両腕や大腿部に関して、がっしりとした矩形的なデザインに変えてしまったという(クラーク、1971年[1980年版]、168頁)。


 なお、「水から上るヴィーナス」は、高階秀爾も「海から上がるヴィーナス」として紹介している(高階、2014年、42頁~43頁)。


<「うずくまるヴィーナス」とルーベンスの絵>



マントヴァ公の宮廷画家として雇い入れられたルーベンスは、「自然のヴィーナス」の巨匠として、当時の最大の宗教画家として、クラークは捉えている。
ルーベンスを「肥った裸婦の画家だと片付け」られない理由について、ルーベンスの均衡のとれた性格および絵画技法の習得に費やした修業の跡に、クラークは求めている。
ルーベンスは「純粋な喜悦の泉はけっして汚されることがない」と信じて疑わなかったが、これこそが、ルーベンスの裸婦に無垢の気配を漂わせているとクラークはみている。ルーベンスは、楽天的な自然観の体現者であったようだ。

ルーベンスの制作方法は、ある種の理想が胸の裡に確固と刻みつけられるまで、古代作品のデッサンを繰り返し、先人の作品を模写し、次に写生に移ると、眼で捉えた事実を想像力のなかに出来上がっているパターンに従属させるものであったそうだ。概して画学生は、こうしたやり方をとっても、様式をつくる方にとびついて、本質を見過ごしてしまうため、うまくいかないという(クラーク、1971年[1980年版]、182頁~186頁)。

そして、クラークは次のように述べている。
「ルーベンスがやったことはその反対であった。彼の場合、他から学び取りながらすでに無意識の記憶となっているものに自身の独自な様式と独特の鋭敏な自然感覚をきわめて多量に盛りこんでいるため、何をもとにして描いているのかなかなか気づかれない。その例外をなすものがカッセルにある≪ヴィーナスとアレア≫で、アレアの姿勢は明らかにドイダルソス(ママ)の≪うずくまるヴィーナス≫から、ヴィーナスはミケランジェロの≪レダ≫のメモからとられている[105図]。だがその盛り上った、浮彫のような処理から言って、この絵はルーベンスの作品中最も古典的な構図に属している。ごく数年後に同じミケランジェロ的モティーフが≪レウキッポスの娘たちの掠奪≫[106図]に使われる際には、バロック的構成に同化されてしまう。事実ルーベンス作品において、他からの借りものがそのまま使われている例は珍しい。」
(クラーク、1971年[1980年版]、186頁)。

ルーベンスの「ヴィーナスとアレア」は、その作品の中では、何を典拠としているかがわかるという点で珍しいようだ。
アレアの姿勢は、古代ギリシャのドイダルサスの作とされる「うずくまるヴィーナス」に拠っているとクラーク氏は指摘している。そして、ヴィーナスの方はミケランジェロの「レダ」のメモからとられているという。
 
この絵を見ても、ルーベンスが古代作品のデッサンを繰り返し、先人の作品を模写し、形態の訓練をしていたことが想像される。ただ、ルーベンスの場合、そうしたデッサンを繰り返して、ある点まで来れば、古典形式に気がねせずに、自由な写生により、独自な様式に達することを彼自身知っていたそうだ。こうして、ルーベンスの描く裸体像は、輪郭線の重ね合わせと、豊かな内部の肉付けによって、ふくよかで、重量感がある。

画家ルーベンスは、外交官としても活躍したが、その思想が反映された絵として、「平和を守るミネルヴァ」(1629-30年、203.5×298cm、ナショナル・ギャラリー[ロンドン])がある。
この絵では、武具に身を包んだアテナ(ミネルヴァ)が、平和と秩序の女神パクスを守り、軍神マルスを退けている場面を描いている。
外交官ルーベンスは、この絵を、時の英国王チャールズ1世に献上した。ルーベンスは、武力ではなく、知恵(外交)によってもたらされた英国の平和と繁栄を祝して、この絵を贈ったとういわれている(高階、2014年、107頁~108頁)。

バロックの大家ルーベンスは、ワトーとブーシェのふたりに霊感を与えた画家であった。

「クニドスのヴィーナス」とアングル


<アングルの「ヴァルパンソンの浴女」>
アングル(1780-1867)に、ヴィーナスを解放し、「クニドスのヴィーナス」に返す試みを実現した画家として、クラークは理解している。アングルはある種の表現的形状を永遠化しようとする欲求が結びついていた。ボードレールは、アングルの絵を「古代の愛のように逞しく充実した絵」と形容している。
アングルは、「憑かれたる形態」を自身の内部から発掘することに努め、個別的なものに対する執着を古典美の理想と和解させるべき必要を認めていた(当時の批評家はアングルを「アテネの廃墟をうろつくシナ人」と比喩している)。

アングルは、裸体像の素描家としても知られている。アングルのラファエロ前派的段階や円熟期のデッサンは、ゴシック趣味が感じられるといわれる。それらのデッサンの多くは、突き出た腹などといったゴシック裸体像の特性(形態論的な特質)が見られる。形態構成上の理想形式は、アングルの霊感を導き出す契機となり、制作の拠り所となった。
アングルの裸体像の系列は、アングルが着想を得てすぐさま制作にかかれると感じて仕上げた絵「ヴァルパンソンの浴女」(1808年)に端を発する。この絵は、アングルの全作品中、最も穏やかで、彼が考える美の最も優れた例示であるとクラークはみている。
アングルの考える美とは、おおらかで単純で持続的で、切れ目なくつづく線で閉じられた豊かに満たされたものをいう。事実、「ヴァルパンソンの浴女」の構成は、古代ギリシャのそれに匹敵する単純さをもっている。

<アングルの「水から上るヴィーナス」と「泉」>
しかし、アングルには、女体に関するほかの理想形式もあった。それは自然らしいポーズに満足せず、もっと人工的な表現をとっていた。そのためか、アングルの脳裡に形成された時期よりずっと後まで実行に移されなかった。そうした理想形式のひとつが、「水から上るヴィーナス」(Venus Anadyomene、「海から上がるヴィーナス」とも)である(クラーク、1971年[1980年版]、198頁)。

アングルの「水から上るヴィーナス」と「泉」には、長々しく複雑な歴史があるといわれる。その最も早い記録(1807年)は、モントーバンにあるヴィーナスのための2点の簡略なデッサンである。ひとつは、「貞潔のヴィーナス」のポーズを示し、もうひとつは両腕を胸の下にまわしている。アングルは、翌1808年に、この図柄を発展させたとみられている。なぜなら、シャンティーの絵に「J・アングルが1808年と1848年にこれを描いた」という銘が入っているからだという。
しかし、アングルが右腕を頭の上で折り曲げるという主要モティーフをそれまで得ていたかどうかの証拠はない(というのは、このモティーフを表わしているデッサンは後の時期の作であるから)。

クラークは、アングルがこのモティーフを、グージョンの「幼児たちの泉」の有名なニンフの浮彫から借用したと考えている(シュリー館のレリーフ彫刻に由来するともいわれる)。
そしてこの借用は、次のような事実を説明するという。つまり、アングルは既に1820年にこの像の第2のヴァージョンに取り組んでいて、そこでは髪の水をしぼるというモティーフが、水甕から水を注いでいうるモティーフ(「泉」の起源をなすモティーフ)に代えられたという事実である。

また、1821年と1823年にアングルはパトロンに「水から上るヴィーナス」の完成を約束したといわれる。ただ、アングルは2人の弟子に制作を手伝ってもらったといわれる1856年まで、「泉」の制作にとりかかったように見えないとクラークはみている(クラーク、1971年[1980年版]、492頁原註68)。

さて、「水から上るヴィーナス」のデッサンから、アングルが古代の記録ばかりでなく、ボッティチェリのヴィーナスにも注目し、またその像にくねりながら形をつくってゆく自分の輪郭線のための保証を見出していたことがわかってくるとクラークはいう。これらのデッサンがすぐさま作品の準備に用いられたかどうかは不明だが、シャンティーにある「水から上るヴィーナス」という絵は、1848年の作である。ここではボッティチェリ的描線がふくよかなラファエロ的肉付けでもって実体化されている。

そしてその1848年から8年経って後、アングルは自分の家の門番の娘の姿を見て、グレゴリアーナ街に住んでいた日々を思い出し、再びこの「モティーフ」を取り上げて仕事にかかった。
先述したように、アングルは既に1820年に自分のヴィーナス像を水甕をもつ少女に変える考えをもっていたといわれる。これはアングルの理想形式のひとつの現われであり、1856年に至って完成させようと決意した。

その結果が美術史上最も名高い裸婦のひとつ、「泉」(La Source、1820年~1856年、163cm×80cm、オルセー美術館)である。主題は、若く美しい女性の姿で表現された泉の擬人像である。1856年に「泉」を完成させたとき、アングルは76歳に達していた。ただ、「メディチのヴィーナス」の場合と同じく、「泉」の名声は、シャルル・ブランがそれをフランス絵画で最も美しい裸婦像とよぶことのできた時期が過ぎると、衰えていったようだ。

<「クニドスのヴィーナス」とアングル>
クラークによれば、繊細な裸体表現の進化した定型は、18世紀の絵画ではなく、彫刻に見出されるそうだ。とりわけ、クローディオン(1738-1814)やファルコネ(1716-1791、代表作に「浴女」1757年、ルーヴル美術館)の名に結びつけられるテラコッタの小像、あるいはセーヴル焼きが挙げられる。

ヴィーナスは、クローディオンによって、18世紀のいかなる芸術家よりも審美的鑑賞的な眼で捉えられた。その作品として、「ニンフとサテュロス」(メトロポリタン美術館[ニューヨーク])があり、優雅で自由なロココ的作風で知られる。
ブーシェ自身は、クローディオンほど女体の感触を喚び起こす鋭敏な感覚に恵まれていなかったが、ブーシェもファルコネも理想への洗練のために、観察がもたらす感情を抑制することができた。かつての昔人間は自然的欲望を抑制して、「天上のヴィーナス」の精神性を得たが、それと劣らぬ欲望を抑制して、ここでは瀟洒に達しているという。

「事実≪ヴァルパンソンの浴女≫の構成は霊感の閃きから生まれたようであり、古代ギリシャのそれに匹敵する単純さをもっている。彼女の語りかける言葉には完全な充足の響きがあり、五十五年後のアングル作品に再び彼女が姿を現わすのを見ても驚くに当らない。しかし女体に関するほかの理想形式はもっと人工的な表現をとっていて、おそらくそのためか、彼の脳裡に形成された時期よりずっと後まで実行に移されなかった。そうしたもののひとつは「水から上るヴィーナス」(Venus Anadyomene)として二点のペン・デッサンに最初に現われている。これらを見ると、アングルが銅鏡の裏面に筋彫りしたものや他の古代の記録ばかりでなく、ボッティチェルリのヴィーナスにも注目していたこと、またその像にくねりながら形をつくってゆく自分の輪郭線のための保証を見出していたことがわかってくる。これらのデッサンがすぐさま作品の準備に用いられたかどうかはわからない。シャルル・ブランによれば、この主題の未完の絵が一八一七年には存在していた。つまりこの年にジェリコーがローマのアングルのアトリエでこの絵を見ているというのだが、何かの理由からそれ以上進められず、シャンティイーにある絵は一八四八年の作である[114図]。ここではボッティチェルリ的描線がふくよかなラファエルロ的肉付けでもって実体化されているが、例えば左の脇腹の輪郭のようなわずかの箇所では、あまりに普遍化が個別化に対して優越している。」
(クラーク、1971年[1980年版]、198頁~200頁)

アングルはすでに一八二0年に自分のヴィーナス像を水甕をもつ少女に変える考えをもっていたと言われる。これは彼の理想形式のひとつの現われであって、一八五六年に至って完成させようと決意した。その結果が美術史上最も名高い裸婦のひとつ、≪泉≫である。≪メディチのヴィーナス≫の場合と同じく、彼女の名声はシャルル・ブランが反駁される危惧なしに彼女をフランス絵画で最も美しい裸婦像とよぶことのできた時期が過ぎると、衰えて行った。」
(クラーク、1971年[1980年版]、200頁)

「ヴィーナスをその閨房から解放し、彼女の≪クニドスのヴィーナス≫tの光彩を幾分でも返してやろうとする試み、そのためにはジロデに確信が欠けておりプリュードンにスタミナが欠けていた試み、これを遂行実現した画家がアングルである。ボードレールはこう言っている。『彼の放蕩は生真面目な、確信に満ちたものである、、、もしシテール島がアングル氏に絵を注文をしてきたら、きっとワトーのそれのような浮かれたものとはならないだろう。古代の愛のように逞しく充実した絵となろう。』」
(クラーク、1971年[1980年版]、196頁~197頁)

<「クニドスのヴィーナス」のポーズとルノワールの絵>


19世紀末には、ヴィーナス像は軽視されてしまっていたが、ルノワールは「浴女とグリフォンテリアの犬」(1870年、サン・パウロ美術館)をサロンに出品し、世俗的成功を収めた。
クラークは、ルノワールの「浴女とグリフォンテリアの犬」という絵について次のように述べている。

「一八八一年ともなると人びとの眼にヴィーナスはアポロンが蒙った運命を繰り返しているかに映ったかもしれない。つまり彼女は軽んじられ、変造され、断片化されてしまって、アカデミー派の冷たく堅苦しい構成とパリ生活(ラ・ヴィ・パリジェンヌ)がもたらすさまざまの卑俗な刺戟挑発の間で二度とかつての輝かしい完全性をもって人びとの想像力を占めることがなかろうと思われたかもしれない。この年、四十歳のルノワールは、妻と連れ立ってローマとナポリに新婚旅行に出かけたのであった。
 ルノワールについて書く人は誰でも彼の女体鑽仰に言及し、女体がこの世になかったら自分はまず画家になっていなかったろうという意味の彼の言葉をひとつ引用する。しかし、読者は、彼には裸婦の絵というものが四十歳までごくわずかで、稀にしか描かれていないことを思い出さなければならない。初めて名声を得たものは現在サン・パウロ美術館にある≪浴女とグリフォンテリアの犬≫である[120図]。これは一八七0年のサロンに出品され、ルノワールにとって以後二十年間に享受するただ一度の世俗的成功を収めた絵であった。彼はいつもの率直さから、自分の絵の起源となるものを強いて隠そうとしなかった。そのポーズは≪クニドスのヴィーナス≫の版画からとられ、光の当て方や物のつかみ方はクールベから出ていた。この相反する発想源は、以後の半生にわたって彼の心を占めるに至る問題が何であったかを示してくれる。それは、ギリシャ人の発明になるあの完全無欠の性格と秩序とをいかに女性裸体像に与えるか、同時にこのような秩序を女体という熱っぽい実在を愛する感情といかに結びつけるか、という問題だった。≪浴女とグリフォンテリアの犬≫は確かに感嘆すべき作品ではあるが、そこではまだ二つの構成要素が調和的に結びつけられてはいない。古代的ポーズがあまりにあからさまだし、クールベ様式の土臭さがルノワールのものである太陽のような気質を表わすに至っていないのである。」
(クラーク、1971年[1980年版]、211頁~212頁)。

「浴女とグリフォンテリアの犬」のポーズは、「クニドスのヴィーナス」の版画からとられ、光の当て方や物のつかみ方はクールベから出たという。
クラークによれば、この相反する発想源は、以後半生にわたる問題を示すという。その問題とは、ギリシャ人の発明した完全無欠の性格と秩序とをいかに女性裸体像に与え、同時に、このような秩序を女体という実在を愛する感情といかに結びつけるかということであったようだ。
この絵では、まだ二つの構成要素が調和的に結びつけられないと評している。古代的ポーズがあからさまで、クールベ様式の土臭さがルノワール的気質を表わすに至っていないらしい。

<ルノワール夫人と「クニドスのアフロディテ」のプロポーションの違いについて>
ルノワールは、裸体とは円柱とか卵のように単純であらねばならぬという確信をもっていたといわれるが、1881年、裸体像の概念の基盤たるべき範例を追求し始めた。その範例を、ファルネジーナのラファエロのフレスコやポンペイ、ヘルクラネウムから出た古代壁画に見出した。その結果、1881年、「金髪の浴女」という題の妻の絵を描いた。
その絵について、クラークは次のように述べている。

「同じ年の末ごろにソレントで描かれた≪金髪の浴女≫という題の妻の絵で[121図]、真珠のように青白くて単純な裸身が、杏色の髪と暗い地中海を背に、古代絵画に出て来るような確固とした輪郭をとっている。ラファエルロの≪ガラテア≫やティツィアーノの≪水から上るヴィーナス≫に似て≪金髪の浴女≫は、何か魔法のレンズを通してプリニウスの激賞した失われた傑作のひとつを目にしているかのような錯覚をわれわれに覚えさせる。そしてわれわれはここに改めて、古典主義とは規則の遵守によって達成されるものではなく――なぜなら若いルノワール夫人の胸囲や胴まわりの寸法は≪クニドスのヴィーナス≫と非常にかけ離れている――肉体的生命をそれ自身が静かな高貴を表わせるものとしてありのままに受け入れれば達成されるということを、納得するのである。」
(クラーク、1971年[1980年版]、212頁~213頁)。

この「金髪の浴女」は、ラファエロの「ガラテア」やティツィアーノの「水から上るヴィーナス」に似て、「プリニウスの激賞した失われた傑作のひとつを目にしているかのよう」だと賞賛している。そして、ここに描かれた若いルノワール夫人を見ると、胸囲や胴まわりの寸法では「クニドスのヴィーナス」と非常に異なるが、古典主義のあり方を再考させられるともいう。つまり、規則の遵守によって達成されるものではなく、「肉体的生命をそれ自身が静かな高貴を表わせるものとしてありのままに受け入れれば」、古典主義は達成されるものと、この絵を見ると気づかされるという。


<ルノワールと古代ギリシャ>
「周知のようにルノワールはプラクシテレスと同じくモデルなしには描けなかった。女中を選ぶにも、「彼女らの肌が光をうまく引っかけた」という理由によらなければならないとルノワール夫人は嘆いていたし、足が萎え妻に先立たれた晩年に再び彼を絵の仕事に駆り立てたものは、新しいモデルの眺めであった。しかしながらルノワールの裸婦たちについて、彼がただ手をのばしさえすれば吊した壁からもぎとれる熟れた桃の実でもあるかのように書くことは、長期にわたる古典様式との苦闘、一八八七年の勝利の後にもつづけられた戦いを無視するものであろう。彼はブーシェやクローディオンのみならずラファエルロやミケランジェロすら参照し、とりわけ古代ギリシャを研究した。ポンペイの記憶やルーヴル美術館でたまたま目にしたブロンズやテラコッタの像が、彼を模刻参考室の公的な古典主義から遠ざけて、アレキサンドリア風のヘレニズムの胴長で西洋梨型の人体に向かわせた。これらの小芸術において裸体像は、いまだ古代の理想化された統一性を留めながらも、幾世紀にもわたる模倣によって原初の面影をすっかり失ってはいなかったし、それらの通俗的自然主義の香り――「植物的ヴィーナス」の感触――が彼を惹きつけたにちがいない。この比例を示した私が知る最初期の作例は、マラルメの『詩と散文のアルバム』の一八九一年版の扉絵に使われた≪水から上るヴィーナス≫のエッチングである。しかしこうしたアレキサンドリア型の人像はふつう一九00年より後、つまりこれらが古代神話の場面とりわけ「パリスの審判」と結びついて驚くばかりに甦った年よりも後の時期に属している。この一九00年以後の時期になるとルノワールは美しくまろやかで彼に名声をもたらした少女たちをしだいに棄て去り、量塊的に血色がよく非誘惑的だが偉大な彫刻の重みと統一性をもつ女の新種族を創造してゆくことが認められる(123図)。事実ルノワールのヴィーナスがその最も完成した形態に達するのは彫刻作品としてであり、奇妙な逆説からこの油絵の巨匠はは次代の絵画にほとんど影響を与えず、近代彫刻に決定的な影響を及ぼした(註74)(クラーク、1971年[1980年版]、216頁~218頁)。

註74では、ルノワールの後期の裸婦たちは、ピカソやローランスのように、未来に眼を向けているが、これに対してマイヨールの裸婦たちは過去に向いているとクラークは記している。
マイヨールの女性小像は古代芸術の模倣であるとという理由ばかりでなく(事実写実的である)、マイヨールが古代と同じ簡潔な官能性によって育まれた造形的確信の持主であるため、ギリシャ的に見えるとクラークは規定している。
マイヨールは異教という原初的な意味で異教徒であり、時間の流れの外にある国の住民であるとする(クラーク、1971年[1980年版]、494頁原註74)。

クラークによれば、「ルノワールはプラクシテレスと同じくモデルなしには描けなかった」という。


ルノワールは裸婦を描くにあたって、長期にわたり古典様式と苦闘したようだ。ブーシェやクローディオンのみならず、ラファエロやミケランジェロすら参照し、とりわけ古代ギリシャを研究した。また、ポンペイの壁画やルーヴル美術館の彫像を目にして、アレキサンドリア風のヘレニズムの胴長で西洋梨型の人体を描いたという。

例えば、マラルメの『詩と散文のアルバム』の1891年版の扉絵には、「水から上るヴィーナス」のエッチングが使われた。また1900年より後、アレキサンドリア型の人像が見られる。そして1900年以後の時期になると、ルノワールは量塊的で血色がよく、偉大な彫刻の重みと統一性をもつ女性像を創造してゆく。
事実ルノワールのヴィーナスがその最も完成した形態に達するのは、彫刻作品としてであるとクラークはみている。逆説的だが、この油絵の巨匠ルノワールは、次代の絵画にほとんど影響を与えず、近代彫刻に決定的な影響を及ぼしたというのである。

<ルノワールという画家>
そして、クラークは、「第4章 ヴィーナスⅡ」を次のように締めくくっている。

「 ルノワールが一八八五年から一九一九年の死までにつくった裸体像の数々は、大芸術家がこれまでヴィーナスに捧げた最も美しい供物にかぞえられ、この長い章に出て来るあらゆる絲をひとつに縒り合わせている。プラクシテレスとジョルジョーネ、ルーベンスとアングルは、たとえ互いに異なっているにせよ、すべてルノワールを自分の後継者に見立てたであろう。彼らもまた彼のように、自身の作品について、とびきり美しい個人の姿を巧みに描写しただけのものだと語ったであろう。それが芸術家のとるべき語り口というものである。しかしながら実を言えば、彼らはすべて記憶と必要と信念との合流、つまり昔日の芸術作品の記憶と、自分らの感受性が必要とするものと、女体とは世界の調和ある秩序のしるしであるとする信念との合流から、自身の心のなかに生まれ成長した何ものかを追求していた。彼らがこれほど熱烈に「自然のヴィーナス」に瞳を凝らしたのは、近より難い彼女の双児の姉妹の姿をすでにちらりと垣間見ていたからである。」
(クラーク、1971年[1980年版]、218頁)。

1885年から1919年の死まで、ルノワールは、裸体像を、「ヴィーナスに捧げた最も美しい供物」として描き続けた。ここで、クラークは大変興味深い比喩を用いている。すあんわち、「プラクシテレスとジョルジョーネ、ルーベンスとアングルは、たとえ互いに異なっているにせよ、すべてルノワールを自分の後継者に見立てたであろう」という。
この比喩に、ヴィーナス像を描いた芸術家ルノワールに対するクラークの高い評価が言い尽くされていよう。
ケネス・クラーク『ザ・ヌード』 (ちくま学芸文庫)はこちらから