≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その3 私のブック・レポート≫
(2020年4月11日投稿)
【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】
はじめてのルーヴル (集英社文庫)
今回は、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])の第7、8、9章の3章の内容を紹介してみたい。
次の3点の絵画が中心に解説されている。
〇ボス『愚者の船』
〇グルーズ『壊れた甕』
〇ムリーリョ『蚤をとる少年』
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
ボス(1450頃~1516)
『愚者の船』
1500~1510年頃 58cm×33cm リシュリュー翼3階展示室6
ネーデルランドの奇想画家ボス(ボッシュ、1450頃~1516)は、「悪魔を創らせることにかけては右に出る者がいない」と言われた。本名はヒエロニムス・ファン・アーケンという。
ボスという通称は、彼が暮らした町ス・ヘルトーヘンボスの、「ボス=森」から取られた(長崎のハウステンボスの「ボス」と同じだそうだ)。
「大公の森」という意味の町名だが、フランス語では「フクロウの森」と同じ綴りであることから、ボスはよく画面にフクロウを登場させた。
(研究者によっては、それをボスの自画像とみなす者もいる)
ボスは、痛烈な社会諷刺、奇想天外な生き物の造型などで、生前から人気が高かった。
にもかかわらず、その生涯も絵の制作年度もほとんどわかっておらず、謎めいた存在である。わずかに知られているのは、画家(当時は職人扱い)の家系だったこと、富裕な女性と結婚して以来、独創性を発揮したこと、子はなく1516年に町の名士とは葬られたことである。
活動期間は、ほぼレオナルド・ダ・ヴィンチと重なっている。
ふたりの画風を比べてみると、北方絵画とイタリア絵画の違いがわかる。ファン・エイク、ボス、デューラー、ブリューゲルといった北方の画家は、長く中世を引きずり、細部にこだわった精緻な描写をし、解釈の多義性が魅力のひとつとなっている。
現在では、ボス真筆とみなされる作品は、わずか30点である。そのうち多くの作品がスペインのプラド美術館所蔵である。これは、フェリペ2世(1527~1598)がボスに魅了され、収集したおかげである。
プラドは最高傑作『快楽の園』や『干草の車』をはじめ、ボスの一大宝庫である。
フェリペは、スペインを「陽の沈まぬ国」へと押し上げ、自らカトリックの守護神を任じていたが、当時から異端性を疑われていたボスを、批判を承知でコレクションした。
さらに、彼はボスと並んで、ティツィアーノのファンとしても知られている。毛色の違うこのふたりの画家を、フェリペは愛した。
ボスの主要作品の大部分をプラドに握られ、もはやルーヴルがボスを入手する見込みはんさそうに見えた。20世紀も20年近く過ぎた時、個人から『愚者の船』が寄贈された。
それは縦長であるので、『快楽の園』と同じく、三連画の翼部であった。もう片方の翼部は、『大食の寓意』(アメリカのエール大学付属美術館蔵)とされている。ただ中央パネル部分は戦乱や宗教改革後に散逸したようだ。
ボスの活躍した時期は世紀末である。1500年を迎える前に、この世は終わると信じられ、こうした終末の予感は、とりわけ北方に強かった。南国イタリアはルネサンスの花が開いても、寒風の地に中世の夜は明けるとも思えなかった。戦争、疫病、飢饉がくり返し、教会は魂を救うどころか、免罪符を乱発し金儲けに走る。
北国ドイツのルターがカトリックに異議申し立て(つまりプロテスト)するのは、1517年のことである。ここからキリスト教は、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)に分かれてゆくが、その前段として、教会への失望があった。聖職者を揶揄する図版が世紀末に増えていた。
そんな中、1494年に当時の社会悪を諷刺した寓意詩『阿呆船』(ドイツの法学者ブラント)が発表される。
この本は、グーテンベルクの活版印刷によりヨーロッパ中で大ベストセラーになる。そこに描かれたのは、神を忘れ、道徳を捨てた111人の阿呆(酒に溺れる者、偽医者、堕落坊主など)である。教会はしばしば船に喩えられたが、その船は愚かしい人間ばかりを運んで、極楽へゆくという。ここにはカトリック教会批判も含まれていた。
同時代人ボスは、この書を知らなかったとは考えにくく、おそらくボスも自分でも“阿呆船”を描いてみようと思ったであろう。本作の船は小さな舟で、10人ほどしか乗っていないが、主人公は修道僧たちである。
『愚者の船』は、ボスの他作品同様、謎だらけである。しかも未だ解明はなされていないそうだ。その一端を解説しておく。
中央で目を引くのが、ロープから大きなパンケーキがぶら下げられ、周りで男4人女1人が口を開けている。これはパン食い競争で、大食の諫(いさ)めと解釈されている。
また、中央の修道士と修道女は制服から戒律の厳しいフランチェスコ会の聖職者らしいが、けっこうな堕落ぶりである。リュートの伴奏で、声をはりあげて歌っているようだ。楽器は伝統的に「恋愛」の象徴である。
また、右端の男に目を向けると、目の前の木の枝には死んだ魚がぶら下がっている。キリスト教の比喩においては、魚はイエス・キリストを示すともいわれる。
さらに、中央の高い木の葉の茂みには、フクロウが隠れている。フクロウは多義的な定説がない。「愚か」なのか、「賢い」のか、「死」を意味するのか、それともボスの自画像なのか、謎であるようだ。
中野氏は、ボスの項を終えるにあたり、次の2点を付記している。
・フーコーの名著『狂気の歴史』には、狂人を移送したり追放するための船があったと書かれているが、史料の裏付けが乏しく、疑わしい。
・ボス自らが本作のタイトルを付けたわけではないこと。売買の時に画商か美術史家が付けたと考えられている。
以前の日本語訳は「阿呆船」であったが、差別用語にあたるとされ、『愚者の船』(ただし響きがよろしくない)というタイトルが一般的になったこと。
(中野、2016年[2017年版]、98頁~109頁)
グルーズ(1725~1805)
『壊れた甕』
1771年 109cm×87cm シュリー翼 3階展示室51
第⑧章では、「ルーヴルの少女たち」と題して、3人の画家により描かれた3人の少女像を紹介している。
1ベラスケス(1599~1660)(工房作)『王女マルガリータの肖像』
ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室30
2グルーズ(1725~1805)『壊れた甕』~18世紀後半のフランス人少女
ルーヴル美術館シュリー翼3階展示室51
3シャルダン(1699~1779)『食前の祈り』~庶民階級のフランス人少女
ルーヴル美術館シュリー翼3階展示室40
『ボレロ』で有名な作曲家ラヴェルと、ルーヴル美術館にあるスペイン人の少女像との関係から、中野氏は話を進めている。
19世紀末、パリ音楽院の学生だったラヴェルは、ルーヴル美術館のスペイン絵画、ベラスケス(工房作)の『王女マルガリータの肖像』に興味をもったそうだ。ぽっちゃり愛くるしい3、4歳の王女に24歳の音大生はすっかり魅了されてしまった。
ラヴェルにとってスペインは特別な国であった。生まれたのはスペインとフランスの国境の町であり、母親はバスク人である。幼い頃から母の口ずさむスペイン歌謡に親しみ、後年、著名な作曲家になってからも、『スペインの時計』『スペイン狂詩曲』『ボレロ』『ドゥルシネア姫に思いを寄せたドン・キホーテ』など、スペインにちなんだ作品を発表している。
だから、母方のルーツたるスペイン絵画にも興味があったようだ。まだ、パリ音楽院の学生だった頃は、スペインのプラド美術館へは行ったことはなく、ベラスケスの最高傑作『ラス・メニーナス』やマルガリータの生涯については知らなかったようだ。しかし、ルーヴル美術館で見た、つぶらな瞳の王女マルガリータはラヴェルに霊感を与えた。
というのは、珠玉のピアノ曲『亡き王女のためのパヴァーヌ』(のちに管弦楽曲に編曲)が生まれたからである。
そのタイトルは Pavane pour une infante défunte [パヴァーヌ プル ウンヌ アンファント デファント]である。
・「スペインの王女(infante)」と「故人(défunte)」が「ファント」で韻を踏み、響きが美しい。だから、このタイトルに決められたという。
・王女のまま亡くなったという意味ではなく、はるか昔(ラヴェルより250年ほど前)にこの世に生きていた王女との含みだったらしい(défunteには「過ぎ去った」という意味もある)。
・「パヴァーヌ」とは、スペイン起源説をもつ宮廷舞踊で、一列に並んだ女性たちを孔雀(スペイン語でpavon、フランス語でpaon)に見立てたことから生まれた言葉であるという。
※後に、マルガリータ像と『亡き王女のためのパヴァーヌ』には関連がないと否定する研究者も出たが、もうその時には両者は強く結びついた。ノスタルジーに満ちた叙情的なメロディーと、どこかしら儚さを醸し出す少女は、それほど調和していた。伝説とはそういうものらしい。
ところで、王女マルガリータは、スペイン・ハプスブルク家フェリペ4世の愛娘である。純金のネックレスを身につけ、この年齢相応のあどけなさと年齢不相応の威厳とを絶妙に兼ね備えている。
もっとも、マルガリータはスペイン凋落期に生まれた。曾祖父フェリペ2世の代で「陽の沈まぬ国」として、世界に君臨したスペインであったが、その後衰退し、フランスに逆転され、世継ぎの王太子も次々亡くなり、ハプスブルク家存亡の危機に直面していた。父王はマルガリータを女王にたてる選択まで考えていた。しかし、ぎりぎりのところで弟が生まれ、彼女は輿入れが決まる。
その後、15歳で親戚筋のオーストリア・ハプスブルク家の王妃となった。しかし、21歳で産褥で赤子とともに亡くなる。
一方、故国で王位についた弟も世継ぎを残せず、若死にしたため、スペイン・ハプスブルク家は断絶する。何代にもわたって血族結婚をくり返したせいである。
一見、ただ可愛らしいだけの少女像の背景には、これだけの歴史の闇が蠢いていると中野氏は述べている。そして『亡き王女のためのパヴァーヌ』に流れる感傷性を思うという。
ラヴェルにも、切ないエピソードが残っているそうだ。ラヴェルはこの曲を発表すると、たちまち人気作曲家となったが、晩年、認知症を患い、偶然この曲を町なかで耳にし、「美しい曲だ。誰が作ったのだろう」とつぶやいたという。
次に中野氏は、18世紀後半の市民階級のフランス人少女が描かれた、グルーズの『壊れた甕』を取り上げている。
絵を見ると、古代風の噴水を前に、少女が佇んでいる。単なる肖像画に見えて、実はそうではない。少女は噴水まで水を汲みに来たのだが、右腕に掛けた甕には大きな穴があいている。彼女にはどこか緊迫した雰囲気が漂っている。
甕や壺は女性(子宮)を象徴するといわれる。そして腹部あたりで、散った薔薇をドレスの裾で抱えている。これらは純潔の喪失を意味する。つまり教訓画と解釈されている。
ところで、本作の成立には、かのデュ・バリー(ルイ15世の寵姫)がからんでいるそうだ。どうやら夫人が直接グルーズに依頼して描かせたらしい。
デュ・バリーの生い立ちといえば、社会の末端に生まれ、美貌を武器に高級娼婦として名を馳せ、ついには頂点までのし上がる。若くて無邪気だった、この女性は、もしかすると若者と真に恋におちたのかもしれないと、中野氏は想像を巡らしている。
3番目に、シャルダン『食前の祈り』に描かれた、庶民階級のフランス少女を取り上げている。
この少女は先のふたりより、ずっと恵まれた境遇である。ここには小さな弟を持つ、おしゃまなお姉ちゃんが登場している。
このように記すと、この絵のどこに男の子がいるのか、と誰もが疑問を抱くはずである。
古い美術書などでは、「母親とふたりの娘」と解説されていたようだ。だが、赤い帽子にスカートの子は、妹ではなく弟である。
というのは、かつて世界中で(日本も例外ではない)、上流階級から下層階級まで、男の子は幼年時代に女の子と同じ恰好をさせられていた。女児より男児の死亡率が高かったため、一種の魔除けの意味合いがあったようだ。
(私の以前のブログである井出洋一郎氏の著作紹介で、このシャルダンの絵について言及した)
シャルダンのこの子が男児ということは、椅子の背に掛けられた小太鼓が男の子の遊び道具なのでわかる。そして何より本作の複製版画に「姉が弟をこっそり笑っている」と記されていると、中野氏も解説している。
少女は弟を睨んでいるけれど、内心では「笑っている」。母親も厳しい表情である。これはフランス語タイトルが示すとおり(『主のお恵みがありますように』)、食前の祈りをすませない限り食べられない、という敬虔な生活態度を教訓的に描いた風俗画である。
ただ、シャルダンらしく、ただの道徳画を超え、見る者に家庭の温かさ、ほほえましさを思い起させる幸せな絵になっている、と中野氏は評している。
本作はロココ時代の作品である。サロンに出展されて、すぐルイ15世に買い上げられた。煌びやかな王の居室に飾られたというから皮肉である。
(制作された1740年は凶作で、庶民は食べられるだけありがたい、という暮らしであった)
(中野、2016年[2017年版]、110頁~123頁)
ムリーリョ(1618~1682)
『蚤をとる少年』
1645~1650年頃 134cm×110cm ドゥノン翼 2階展示室26
前章が「ルーヴルの少女たち」であったのに対して、第⑨章では、「ルーヴルの少年たち」題して、やはり3人の画家により描かれた3人の少年像を紹介している。
1ムリーリョ(1618~1682)『蚤をとる少年』
ルーヴル美術館ドゥノン翼 2階展示室26
2リベラ(1591~1652)『エビ足の少年』
ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室26
3レイノルズ(1723~1792)『マスター・ヘア』
ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室32
ムリーリョはスペインのセビリアに生まれ、生涯をここで送った。
セビリアは、オペラ『セビリアの理髪師』や『カルメン』(カルメンはセビリアの煙草工場で働いていた)などで、日本人にもなじみのある町である。16世紀スペイン絶頂期に、新大陸との貿易港として繁栄を誇ったが、無敵艦隊がイギリスに敗れてからは景気が傾き、17世紀半ばにはペストの追討ちで人口が半減するほど衰退する。
ムリーリョが『蚤をとる少年』(別名『乞食の少年』)を描いたのは、ちょうどその頃である。戦争や疫病で親を亡くした孤児が激増して、社会問題化した。貧しい人々の風俗画がよく描かれた背景には、富者に慈愛の心を喚起する目的もあったようだ。
ムリーリョ描く少年は、廃屋の片隅で、一心不乱に蚤や虱を潰している。この時代の人々は、蚤が鼠に寄生し、病原菌を媒介することをまだ知らなかった。ペストの原因は淀んだ大気と水にあるとされた。
ムリーリョはなぜこのような絵画を描いたのか。すでに宗教画として、セビリアのフランシスコ会修道院の連作を手がけたり、宮廷画家の誘いまで受けていた。そのムリーリョが、慈愛の主題を描いた理由は、彼の生い立ちが関わると中野氏は理解している。
ムリーリョは、医者を父に、おおぜいの兄弟の末子として生まれた。しかし、9歳のとき、両親を相次いで亡くし、兄妹たちは離散し、孤児状態となった(おそらくストリート・チルドレンか)。その後の数年は不明だが、遠戚の画家に引き取られて、13歳から才能を発揮しだす。
このような生い立ちがあるからこそ、必死に生きる子どもたちの姿に、かつての自分を重ねずにいられなかったと推測でき、『蚤をとる少年』のような作品を描いたのであろう。
この絵では、描き手の眼差しの温かさがあるという。やわらかな光が全身を照らし、画家のやさしい愛が見る方に伝わってくる。
また、ムリーリョが描く聖母像は愛らしく親しみやすいことで、人気を博した。例えば、『無原罪の御宿り』(スペインのプラド美術館蔵)がそうである。
それにしても、優しい人に運命は優しくなかったことを中野氏は付言している。後年ムリーリョは、まだ若い妻と5人の子をペストで亡くす。親を亡くし、妻を亡くし、子を亡くし、それでもムリーリョの絵は優しさを失わなかった。
2人目は、リベラの『エビ足の少年』で、セビリアの少年とほぼ同時代の少年で、イタリアのナポリの子である。
描いたリベラはスペイン生まれのスペイン人だが、生涯の大部分をナポリで送り、母国へは帰らなかった(とはいえ、当時のナポリはスペイン領)。
この『エビ足の少年』は、先の『蚤をとる少年』より明確に、見る者へ「慈善」を促しているそうだ。というのは、画中の少年が左手に持つ紙片には、ラテン語で「神への愛のため、わたしに施しを」と書かれているから。これは、当時のナポリにおける公的な物乞い許可証でもあったようだ。
少年は足の奇形があり、右手にも障害の可能性があり、小人症(こびとしょう)でもあったらしい(本作がルーヴルに購入される際、『小人』とタイトルが記録されていた)。
少年は、乱杭歯(らんぐいば)をむき出して笑っている。画家リベラは厳しいリアリズムに徹して描いている。
リベラが描いた多くの聖人画は、たるんだ皮膚、骨ばった手足などに徹底したリアリズムを持ち込み、見る者を怯ませたそうだ。もしベラスケスなら、少年の顔つきにもっと気品を与えたであろうと、中野氏は想像している。
3人目は、イギリス上流階級の男の子である。
ロイヤル・アカデミー初代会長レイノルズによる、もっとも有名な作品が『マスター・ヘア』である。レイノルズは、それまで“画家砂漠”であったイギリスで最初に国際的になった画家である。
美しい金髪をなびかせ、モスリンのドレスを着たこの少年は、前の2人と違い、名前も知られている。名前が知られているので、この子が美少女ではなく、少女服を着せられた男の子だと見る者にも納得される。
(中野、2016年[2017年版]、124頁~134頁)
(2020年4月11日投稿)
【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】
はじめてのルーヴル (集英社文庫)
【はじめに】
今回は、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])の第7、8、9章の3章の内容を紹介してみたい。
次の3点の絵画が中心に解説されている。
〇ボス『愚者の船』
〇グルーズ『壊れた甕』
〇ムリーリョ『蚤をとる少年』
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
第7章この世は揺れる船のごと ボス『愚者の船』
・ボスという画家
・ボスの作品とプラド美術館
・ルーヴル美術館の『愚者の船』
・『愚者の船』の謎の一端
第8章 ルーヴルの少女たち グルーズ『壊れた甕』
・作曲家ラヴェルと『王女マルガリータの肖像』
・グルーズ『壊れた甕』について
・シャルダン『食前の祈り』について
第9章 ルーヴルの少年たち ムリーリョ『蚤をとる少年』
・ムリーリョ『蚤をとる少年』について
・リベラ『エビ足の少年』について
・レイノルズ『マスター・ヘア』について
第⑦章 この世は揺れる船のごと ボス『愚者の船』
ボス(1450頃~1516)
『愚者の船』
1500~1510年頃 58cm×33cm リシュリュー翼3階展示室6
ボスという画家
ネーデルランドの奇想画家ボス(ボッシュ、1450頃~1516)は、「悪魔を創らせることにかけては右に出る者がいない」と言われた。本名はヒエロニムス・ファン・アーケンという。
ボスという通称は、彼が暮らした町ス・ヘルトーヘンボスの、「ボス=森」から取られた(長崎のハウステンボスの「ボス」と同じだそうだ)。
「大公の森」という意味の町名だが、フランス語では「フクロウの森」と同じ綴りであることから、ボスはよく画面にフクロウを登場させた。
(研究者によっては、それをボスの自画像とみなす者もいる)
ボスは、痛烈な社会諷刺、奇想天外な生き物の造型などで、生前から人気が高かった。
にもかかわらず、その生涯も絵の制作年度もほとんどわかっておらず、謎めいた存在である。わずかに知られているのは、画家(当時は職人扱い)の家系だったこと、富裕な女性と結婚して以来、独創性を発揮したこと、子はなく1516年に町の名士とは葬られたことである。
活動期間は、ほぼレオナルド・ダ・ヴィンチと重なっている。
ふたりの画風を比べてみると、北方絵画とイタリア絵画の違いがわかる。ファン・エイク、ボス、デューラー、ブリューゲルといった北方の画家は、長く中世を引きずり、細部にこだわった精緻な描写をし、解釈の多義性が魅力のひとつとなっている。
ボスの作品とプラド美術館
現在では、ボス真筆とみなされる作品は、わずか30点である。そのうち多くの作品がスペインのプラド美術館所蔵である。これは、フェリペ2世(1527~1598)がボスに魅了され、収集したおかげである。
プラドは最高傑作『快楽の園』や『干草の車』をはじめ、ボスの一大宝庫である。
フェリペは、スペインを「陽の沈まぬ国」へと押し上げ、自らカトリックの守護神を任じていたが、当時から異端性を疑われていたボスを、批判を承知でコレクションした。
さらに、彼はボスと並んで、ティツィアーノのファンとしても知られている。毛色の違うこのふたりの画家を、フェリペは愛した。
ルーヴル美術館の『愚者の船』
ボスの主要作品の大部分をプラドに握られ、もはやルーヴルがボスを入手する見込みはんさそうに見えた。20世紀も20年近く過ぎた時、個人から『愚者の船』が寄贈された。
それは縦長であるので、『快楽の園』と同じく、三連画の翼部であった。もう片方の翼部は、『大食の寓意』(アメリカのエール大学付属美術館蔵)とされている。ただ中央パネル部分は戦乱や宗教改革後に散逸したようだ。
ボスの活躍した時期は世紀末である。1500年を迎える前に、この世は終わると信じられ、こうした終末の予感は、とりわけ北方に強かった。南国イタリアはルネサンスの花が開いても、寒風の地に中世の夜は明けるとも思えなかった。戦争、疫病、飢饉がくり返し、教会は魂を救うどころか、免罪符を乱発し金儲けに走る。
北国ドイツのルターがカトリックに異議申し立て(つまりプロテスト)するのは、1517年のことである。ここからキリスト教は、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)に分かれてゆくが、その前段として、教会への失望があった。聖職者を揶揄する図版が世紀末に増えていた。
そんな中、1494年に当時の社会悪を諷刺した寓意詩『阿呆船』(ドイツの法学者ブラント)が発表される。
この本は、グーテンベルクの活版印刷によりヨーロッパ中で大ベストセラーになる。そこに描かれたのは、神を忘れ、道徳を捨てた111人の阿呆(酒に溺れる者、偽医者、堕落坊主など)である。教会はしばしば船に喩えられたが、その船は愚かしい人間ばかりを運んで、極楽へゆくという。ここにはカトリック教会批判も含まれていた。
同時代人ボスは、この書を知らなかったとは考えにくく、おそらくボスも自分でも“阿呆船”を描いてみようと思ったであろう。本作の船は小さな舟で、10人ほどしか乗っていないが、主人公は修道僧たちである。
『愚者の船』の謎の一端
『愚者の船』は、ボスの他作品同様、謎だらけである。しかも未だ解明はなされていないそうだ。その一端を解説しておく。
中央で目を引くのが、ロープから大きなパンケーキがぶら下げられ、周りで男4人女1人が口を開けている。これはパン食い競争で、大食の諫(いさ)めと解釈されている。
また、中央の修道士と修道女は制服から戒律の厳しいフランチェスコ会の聖職者らしいが、けっこうな堕落ぶりである。リュートの伴奏で、声をはりあげて歌っているようだ。楽器は伝統的に「恋愛」の象徴である。
また、右端の男に目を向けると、目の前の木の枝には死んだ魚がぶら下がっている。キリスト教の比喩においては、魚はイエス・キリストを示すともいわれる。
さらに、中央の高い木の葉の茂みには、フクロウが隠れている。フクロウは多義的な定説がない。「愚か」なのか、「賢い」のか、「死」を意味するのか、それともボスの自画像なのか、謎であるようだ。
中野氏は、ボスの項を終えるにあたり、次の2点を付記している。
・フーコーの名著『狂気の歴史』には、狂人を移送したり追放するための船があったと書かれているが、史料の裏付けが乏しく、疑わしい。
・ボス自らが本作のタイトルを付けたわけではないこと。売買の時に画商か美術史家が付けたと考えられている。
以前の日本語訳は「阿呆船」であったが、差別用語にあたるとされ、『愚者の船』(ただし響きがよろしくない)というタイトルが一般的になったこと。
(中野、2016年[2017年版]、98頁~109頁)
第⑧章 ルーヴルの少女たち グルーズ『壊れた甕』
グルーズ(1725~1805)
『壊れた甕』
1771年 109cm×87cm シュリー翼 3階展示室51
第⑧章では、「ルーヴルの少女たち」と題して、3人の画家により描かれた3人の少女像を紹介している。
1ベラスケス(1599~1660)(工房作)『王女マルガリータの肖像』
ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室30
2グルーズ(1725~1805)『壊れた甕』~18世紀後半のフランス人少女
ルーヴル美術館シュリー翼3階展示室51
3シャルダン(1699~1779)『食前の祈り』~庶民階級のフランス人少女
ルーヴル美術館シュリー翼3階展示室40
作曲家ラヴェルと『王女マルガリータの肖像』
『ボレロ』で有名な作曲家ラヴェルと、ルーヴル美術館にあるスペイン人の少女像との関係から、中野氏は話を進めている。
19世紀末、パリ音楽院の学生だったラヴェルは、ルーヴル美術館のスペイン絵画、ベラスケス(工房作)の『王女マルガリータの肖像』に興味をもったそうだ。ぽっちゃり愛くるしい3、4歳の王女に24歳の音大生はすっかり魅了されてしまった。
ラヴェルにとってスペインは特別な国であった。生まれたのはスペインとフランスの国境の町であり、母親はバスク人である。幼い頃から母の口ずさむスペイン歌謡に親しみ、後年、著名な作曲家になってからも、『スペインの時計』『スペイン狂詩曲』『ボレロ』『ドゥルシネア姫に思いを寄せたドン・キホーテ』など、スペインにちなんだ作品を発表している。
だから、母方のルーツたるスペイン絵画にも興味があったようだ。まだ、パリ音楽院の学生だった頃は、スペインのプラド美術館へは行ったことはなく、ベラスケスの最高傑作『ラス・メニーナス』やマルガリータの生涯については知らなかったようだ。しかし、ルーヴル美術館で見た、つぶらな瞳の王女マルガリータはラヴェルに霊感を与えた。
というのは、珠玉のピアノ曲『亡き王女のためのパヴァーヌ』(のちに管弦楽曲に編曲)が生まれたからである。
そのタイトルは Pavane pour une infante défunte [パヴァーヌ プル ウンヌ アンファント デファント]である。
・「スペインの王女(infante)」と「故人(défunte)」が「ファント」で韻を踏み、響きが美しい。だから、このタイトルに決められたという。
・王女のまま亡くなったという意味ではなく、はるか昔(ラヴェルより250年ほど前)にこの世に生きていた王女との含みだったらしい(défunteには「過ぎ去った」という意味もある)。
・「パヴァーヌ」とは、スペイン起源説をもつ宮廷舞踊で、一列に並んだ女性たちを孔雀(スペイン語でpavon、フランス語でpaon)に見立てたことから生まれた言葉であるという。
※後に、マルガリータ像と『亡き王女のためのパヴァーヌ』には関連がないと否定する研究者も出たが、もうその時には両者は強く結びついた。ノスタルジーに満ちた叙情的なメロディーと、どこかしら儚さを醸し出す少女は、それほど調和していた。伝説とはそういうものらしい。
ところで、王女マルガリータは、スペイン・ハプスブルク家フェリペ4世の愛娘である。純金のネックレスを身につけ、この年齢相応のあどけなさと年齢不相応の威厳とを絶妙に兼ね備えている。
もっとも、マルガリータはスペイン凋落期に生まれた。曾祖父フェリペ2世の代で「陽の沈まぬ国」として、世界に君臨したスペインであったが、その後衰退し、フランスに逆転され、世継ぎの王太子も次々亡くなり、ハプスブルク家存亡の危機に直面していた。父王はマルガリータを女王にたてる選択まで考えていた。しかし、ぎりぎりのところで弟が生まれ、彼女は輿入れが決まる。
その後、15歳で親戚筋のオーストリア・ハプスブルク家の王妃となった。しかし、21歳で産褥で赤子とともに亡くなる。
一方、故国で王位についた弟も世継ぎを残せず、若死にしたため、スペイン・ハプスブルク家は断絶する。何代にもわたって血族結婚をくり返したせいである。
一見、ただ可愛らしいだけの少女像の背景には、これだけの歴史の闇が蠢いていると中野氏は述べている。そして『亡き王女のためのパヴァーヌ』に流れる感傷性を思うという。
ラヴェルにも、切ないエピソードが残っているそうだ。ラヴェルはこの曲を発表すると、たちまち人気作曲家となったが、晩年、認知症を患い、偶然この曲を町なかで耳にし、「美しい曲だ。誰が作ったのだろう」とつぶやいたという。
グルーズ『壊れた甕』について
次に中野氏は、18世紀後半の市民階級のフランス人少女が描かれた、グルーズの『壊れた甕』を取り上げている。
絵を見ると、古代風の噴水を前に、少女が佇んでいる。単なる肖像画に見えて、実はそうではない。少女は噴水まで水を汲みに来たのだが、右腕に掛けた甕には大きな穴があいている。彼女にはどこか緊迫した雰囲気が漂っている。
甕や壺は女性(子宮)を象徴するといわれる。そして腹部あたりで、散った薔薇をドレスの裾で抱えている。これらは純潔の喪失を意味する。つまり教訓画と解釈されている。
ところで、本作の成立には、かのデュ・バリー(ルイ15世の寵姫)がからんでいるそうだ。どうやら夫人が直接グルーズに依頼して描かせたらしい。
デュ・バリーの生い立ちといえば、社会の末端に生まれ、美貌を武器に高級娼婦として名を馳せ、ついには頂点までのし上がる。若くて無邪気だった、この女性は、もしかすると若者と真に恋におちたのかもしれないと、中野氏は想像を巡らしている。
シャルダン『食前の祈り』について
3番目に、シャルダン『食前の祈り』に描かれた、庶民階級のフランス少女を取り上げている。
この少女は先のふたりより、ずっと恵まれた境遇である。ここには小さな弟を持つ、おしゃまなお姉ちゃんが登場している。
このように記すと、この絵のどこに男の子がいるのか、と誰もが疑問を抱くはずである。
古い美術書などでは、「母親とふたりの娘」と解説されていたようだ。だが、赤い帽子にスカートの子は、妹ではなく弟である。
というのは、かつて世界中で(日本も例外ではない)、上流階級から下層階級まで、男の子は幼年時代に女の子と同じ恰好をさせられていた。女児より男児の死亡率が高かったため、一種の魔除けの意味合いがあったようだ。
(私の以前のブログである井出洋一郎氏の著作紹介で、このシャルダンの絵について言及した)
シャルダンのこの子が男児ということは、椅子の背に掛けられた小太鼓が男の子の遊び道具なのでわかる。そして何より本作の複製版画に「姉が弟をこっそり笑っている」と記されていると、中野氏も解説している。
少女は弟を睨んでいるけれど、内心では「笑っている」。母親も厳しい表情である。これはフランス語タイトルが示すとおり(『主のお恵みがありますように』)、食前の祈りをすませない限り食べられない、という敬虔な生活態度を教訓的に描いた風俗画である。
ただ、シャルダンらしく、ただの道徳画を超え、見る者に家庭の温かさ、ほほえましさを思い起させる幸せな絵になっている、と中野氏は評している。
本作はロココ時代の作品である。サロンに出展されて、すぐルイ15世に買い上げられた。煌びやかな王の居室に飾られたというから皮肉である。
(制作された1740年は凶作で、庶民は食べられるだけありがたい、という暮らしであった)
(中野、2016年[2017年版]、110頁~123頁)
第⑨章 ルーヴルの少年たち ムリーリョ『蚤をとる少年』
ムリーリョ(1618~1682)
『蚤をとる少年』
1645~1650年頃 134cm×110cm ドゥノン翼 2階展示室26
前章が「ルーヴルの少女たち」であったのに対して、第⑨章では、「ルーヴルの少年たち」題して、やはり3人の画家により描かれた3人の少年像を紹介している。
1ムリーリョ(1618~1682)『蚤をとる少年』
ルーヴル美術館ドゥノン翼 2階展示室26
2リベラ(1591~1652)『エビ足の少年』
ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室26
3レイノルズ(1723~1792)『マスター・ヘア』
ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室32
ムリーリョ『蚤をとる少年』について
ムリーリョはスペインのセビリアに生まれ、生涯をここで送った。
セビリアは、オペラ『セビリアの理髪師』や『カルメン』(カルメンはセビリアの煙草工場で働いていた)などで、日本人にもなじみのある町である。16世紀スペイン絶頂期に、新大陸との貿易港として繁栄を誇ったが、無敵艦隊がイギリスに敗れてからは景気が傾き、17世紀半ばにはペストの追討ちで人口が半減するほど衰退する。
ムリーリョが『蚤をとる少年』(別名『乞食の少年』)を描いたのは、ちょうどその頃である。戦争や疫病で親を亡くした孤児が激増して、社会問題化した。貧しい人々の風俗画がよく描かれた背景には、富者に慈愛の心を喚起する目的もあったようだ。
ムリーリョ描く少年は、廃屋の片隅で、一心不乱に蚤や虱を潰している。この時代の人々は、蚤が鼠に寄生し、病原菌を媒介することをまだ知らなかった。ペストの原因は淀んだ大気と水にあるとされた。
ムリーリョはなぜこのような絵画を描いたのか。すでに宗教画として、セビリアのフランシスコ会修道院の連作を手がけたり、宮廷画家の誘いまで受けていた。そのムリーリョが、慈愛の主題を描いた理由は、彼の生い立ちが関わると中野氏は理解している。
ムリーリョは、医者を父に、おおぜいの兄弟の末子として生まれた。しかし、9歳のとき、両親を相次いで亡くし、兄妹たちは離散し、孤児状態となった(おそらくストリート・チルドレンか)。その後の数年は不明だが、遠戚の画家に引き取られて、13歳から才能を発揮しだす。
このような生い立ちがあるからこそ、必死に生きる子どもたちの姿に、かつての自分を重ねずにいられなかったと推測でき、『蚤をとる少年』のような作品を描いたのであろう。
この絵では、描き手の眼差しの温かさがあるという。やわらかな光が全身を照らし、画家のやさしい愛が見る方に伝わってくる。
また、ムリーリョが描く聖母像は愛らしく親しみやすいことで、人気を博した。例えば、『無原罪の御宿り』(スペインのプラド美術館蔵)がそうである。
それにしても、優しい人に運命は優しくなかったことを中野氏は付言している。後年ムリーリョは、まだ若い妻と5人の子をペストで亡くす。親を亡くし、妻を亡くし、子を亡くし、それでもムリーリョの絵は優しさを失わなかった。
リベラ『エビ足の少年』について
2人目は、リベラの『エビ足の少年』で、セビリアの少年とほぼ同時代の少年で、イタリアのナポリの子である。
描いたリベラはスペイン生まれのスペイン人だが、生涯の大部分をナポリで送り、母国へは帰らなかった(とはいえ、当時のナポリはスペイン領)。
この『エビ足の少年』は、先の『蚤をとる少年』より明確に、見る者へ「慈善」を促しているそうだ。というのは、画中の少年が左手に持つ紙片には、ラテン語で「神への愛のため、わたしに施しを」と書かれているから。これは、当時のナポリにおける公的な物乞い許可証でもあったようだ。
少年は足の奇形があり、右手にも障害の可能性があり、小人症(こびとしょう)でもあったらしい(本作がルーヴルに購入される際、『小人』とタイトルが記録されていた)。
少年は、乱杭歯(らんぐいば)をむき出して笑っている。画家リベラは厳しいリアリズムに徹して描いている。
リベラが描いた多くの聖人画は、たるんだ皮膚、骨ばった手足などに徹底したリアリズムを持ち込み、見る者を怯ませたそうだ。もしベラスケスなら、少年の顔つきにもっと気品を与えたであろうと、中野氏は想像している。
レイノルズ『マスター・ヘア』について
3人目は、イギリス上流階級の男の子である。
ロイヤル・アカデミー初代会長レイノルズによる、もっとも有名な作品が『マスター・ヘア』である。レイノルズは、それまで“画家砂漠”であったイギリスで最初に国際的になった画家である。
美しい金髪をなびかせ、モスリンのドレスを着たこの少年は、前の2人と違い、名前も知られている。名前が知られているので、この子が美少女ではなく、少女服を着せられた男の子だと見る者にも納得される。
(中野、2016年[2017年版]、124頁~134頁)
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