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≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その2 私のブック・レポート≫

2020-04-05 17:54:25 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その2 私のブック・レポート≫
(2020年4月5日投稿)
 



【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)



【はじめに】


今回は、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])の第4、5、6章の3章の内容を紹介してみたい。
次の3点の絵画が中心に解説されている。
〇レンブラント『バテシバ』
〇プッサン『アルカディアの牧人たち』
〇ルーベンス『マリー・ド・メディシスの生涯<肖像画の贈呈>』



さて、今回の執筆項目は次のようになる。



第4章 運命に翻弄されて     レンブラント『バテシバ』
・美術館の名作を見た印象のパターン
・バテシバについて
・レンブラントのバテシバ
・バテシバのモデルとなったヘンドリッキエ
・レンブラントの人生

第5章 アルカディアにいるのは誰? プッサン『アルカディアの牧人たち』
・画家プッサンについて
・『アルカディアの牧人たち』
・『アルカディアの牧人たち』の構図と登場人物

第6章 捏造の生涯   ルーベンス『マリー・ド・メディシスの生涯<肖像画の贈呈>』
・ルーベンスという画家
・『マリー・ド・メディシスの生涯』という連作画
・『マリー・ド・メディシスの生涯』のタイトル








第④章 運命に翻弄されて レンブラント『バテシバ』


レンブラント(1606~1669)
『バテシバ』
1654年 142cm×142cm リシュリュー翼3階展示室31

美術館の名作を見た印象のパターン


名作を実際に美術館で見た印象には、3パターンあるといわれる。
① いわば確認して安心感を得て終わる
印刷された画像との違いをさほど感じず、好きな作品は好きなまま、そうでないものはそうでもないままである。
② 実物への幻滅
めったにないことだが、写真からイメージしていた方がむしろ素晴らしく、本物が紛い物にさえ思えてくる
③ 本物の凄みに驚愕せずにおれない
印刷物ではとうてい知り得ないオーラに圧倒される。絵具の質感、色彩の変幻、個性的な筆触(タッチ)、画家の気迫、技量と思い入れが一体となって迫ってくる。

レンブラントの『バテシバ』は、おそらく第3のパターンに属するものであろうと中野氏はいう。
というのは、この絵を印刷で知った場合、「肥った中年女性の美しくない裸体」という感想を真っ先にもつだろうから。このヒロイン像は、完璧なプロポーションとは程遠く、魅力に乏しいと現代人は第一印象を抱く。
ところが、オリジナルの前に立ち、等身大のバテシバの姿を目の当たりにすると、実在感と精神性の深みに衝撃を受けるとする。美術史家ケネス・クラークが「思考の影を全身に宿した裸体像という『バテシバ』の奇蹟」という言葉が実感されるという。ルーヴルにおける必見の名画だと中野氏は賞賛している。

バテシバについて


まず、バテシバについての解説から始めている。
バテシバとは、『旧約聖書』に登場する美女で、英雄ダヴィデと名君ソロモンをつなぐキーパースンである。

初代イスラエル王サウルは、羊飼いの少年ダヴィデを竪琴の腕を見込んで、仕えさせる。最大の敵ペリシテ軍との戦いで、ダヴィデは勇敢にも投石器で、3メートルを超える巨人ゴリアテを倒してしまう(ミケランジェロの有名な彫刻『ダヴィデ像』は右手に石を持つ麗しい裸体の青年像である)。

この手柄によってダヴィデは将軍となり、サウルの娘を妻にし、ついには第2代イスラエル王となる。全イスラエルを統合してエルサレムを首都として、40年もの間王座に君臨した。

ただ、国が安定しはじめた頃、重大な過ちを犯す。
ある日、ダヴィデはエルサレム宮殿のバルコニーから町を見下ろしていると、木陰で水浴する美女を見初める。身元を調べると、家臣ウリヤの妻バテシバであった。ウリヤが戦地にいるのを幸い、彼女を召し出して己のものとしてしまう。そして妊娠を知るや、ウリヤを激戦地に送り込んで戦死させてしまう。
その後バテシバを妻に迎えるが、その第一子はすぐに死に、他の自分の息子たちは王位をめぐって、殺害、陰謀が続き、ダヴィデの晩年は孤独と後悔に苛まれる。老ダヴィデは、バテシバが2度目に産んだ男児を後継者に定めた。その子こそ、ソロモンである。「ソロモンの栄華」という言葉どおり、イスラエルはこの王のもと全盛期を迎える(ダヴィデの強引な恋とウリヤの戦死、バテシバの選択なくしてはソロモンの誕生はなかったことを思うと、運命の導きを感じる)

レンブラントのバテシバ


妖艶な誘惑者としてバテシバは、その水浴の図が数多く描かれた。
しかし、このレンブラントのバテシバはそれらに比べて違っている。ここにあるのは、媚態でも官能でもなく、深い情感である。画面全体から、万感の思いが伝わってくると中野氏はみている。
「光と闇の画家」と呼ばれたレンブラントらしく、光源はバテシバの上半身だけを照らし、背景は闇に呑まれている。

バテシバは椅子に腰かけ、侍女に足を洗わせている。足を洗い終えたら、着替えて、ダヴィデ王の待つ宮殿へ行くことを決意している。それはバテシバの引き受けた運命であるが、さまざまな思いに心をかき乱されている。
バテシバの右手には手紙がある。ダヴィデからの呼び出し状である。

ここで中野氏の解釈が始まる。
つまり、この絵はその手紙を読んだ「瞬間」というより、過去現在未来を貫く「時間」をあらわしていると捉えている。
裸体は「水浴」という「過去」であり、「手紙」と「宝飾品」は「今」であり、「腹の膨らみ」は「未来」であるそうだ。彼女は手紙を読み、自分の水浴姿を見られたこと、王のベッドへ行かねばならぬことを知る。同時にそれが意味するのは、夫の死である。さらには王子を産むこと、政争に巻き込まれること、王国の未来へまでも続いている。自分や夫、そして子の運命が激変する予感が脳裏に浮かぶ。バテシバの表情は未来を知った者の表情であると中野氏は解釈している(バテシバは未来を知り、受け入れたことをこの絵は表しているとする)。

バテシバのモデルとなったヘンドリッキエ


バテシバのモデルとなったのは、レンブラントの愛人ヘンドリッキエである。バテシバの手が装飾品や衣装に似合わない無骨な大きさなのは、ヘンドリッキエが労働者階級だったからだそうだ。28歳の彼女は、このとき妊娠しており、絵の完成と子どもの誕生は同じ1654年のことである。

ヘンドリッキエは未婚の家政婦の身で、雇い主の子を宿した。この咎により、7ヶ月の身重で教会へ呼び出され、姦淫の罪に対する批難を浴び、一種の破門を受けた。
教会からの召喚状を受け取ったヘンドリッキエは、『バテシバ』に見られるような複雑な表情を、何かの折にふっと浮かべたのかもしれない。レンブラントはその強烈な印象を本作に結実したのかもしれないと中野氏は想像している。ヘンドリッキエは当時のレンブラントのミューズであった。

ところで『バテシバ』は近代になり、意外な方面から注目を浴びるようになった。もしこの裸体がヘンドリッキエの生身の体のリアルな描写なら、彼女は病気だったのではないかと指摘する医者が現れた。つまりバテシバの左の乳房の黒い影を乳癌の徴候とみなす研究者もいる。20代の女性なのに、腋の下には固いしこりがあるように、見えなくはない。

ヘンドリッキエが亡くなったのは、本作完成後の9年後である。進行の遅い乳癌が他の臓器へ転移したのか?
それまでヘンドリッキエの死因は、1663年にアムステルダムを襲ったペストによるものとされてきた。だが記録によれば、ヘンドリッキエはその前年から何ヶ月もかけて徐々に衰弱してゆき、公証人に遺言書を託した後、レンブラントや子どもたちの看取りのうちに亡くなっているようだ。
感染力の強い黒死病なら、このような亡くなり方はできなかったから、乳癌説が説得力をもつとも考えられている。
(この点は、【読後の感想とコメント】でのちに再び言及する)

レンブラントの人生


レンブラントの人生は、その絵と同じで、強い光と濃い闇のコントラストが特徴である。
ライデンの製粉業者を父に持ち、中産階級の子が受ける教育としてラテン語学校へ通い、大学へも行ったが、中退する。
というのも、天才的な画才を認めたからで、アムステルダムで修業し、ライデンに戻って画家として独立した。25歳で再びアムステルダムへ移り、集団肖像画『チュルプ博士の解剖学講義』で一流画家の仲間入りを果たした。
その2年後には、富裕な上層階級の娘サスキアと結婚する。彼女はまさに福の神であった。レンブラントに生きる歓びと莫大な持参金と、有力な顧客群をもたらした。サスキアをモデルに花の女神フローラやダナエなどが描かれた。

絶頂期のレンブラントは大豪邸を構え、多くの美術品などをコレクションし、工房には50人もの弟子がいた。人気画家として肖像画の注文は引きも切らず、神話などの大作の依頼も多かった。
こうした栄光の時期は36歳まで続くが、その後は転落していく。サスキアが幼い息子を遺して、結核で他界した途端、歯車が狂いだす。同年発表した『夜警』(アムステルダム国立美術館蔵)が不評にさらされた上、オランダの景気悪化による資産運用の失敗などが加わる。
そしてサスキアの死後、乳母を雇ったが、結婚不履行で訴えられた。裁判も泥沼化し、レンブラントは作品を1枚も描けなかった。

その裁判が片付いたころ、20歳年下の家政婦ヘンドリッキエが愛人となる。結局、
ヘンドリッキエとも内縁関係に終わるのは、前妻サスキアの遺言のためだった。もしレンブラントが再婚したら、遺産の半分はサスキアの姉のところに行くとする遺言を残していた。
そのため、ヘンドリッキエを正式な妻とできず、彼女は教会から呼び出しをくらった。

絵の注文も激減する。外見をあるがままリアルに、しかも内面や感情を抉りだす肖像画の画風が嫌われだしたことにもよる。レンブラントは50歳でついに破産する。コレクションも豪邸も手放し、52歳で貧民街の小さな家へ引っ越した。

それでも絵だけはずっと描き続け、「魂の画家」として知られるレンブラントの絵画群は、人生の闇の中で花開いたものなのである。
57歳でヘンドリッキエに先立たれ、62歳で今度は息子に先立たれる。翌年、この孤独な画家はみまかった。
死の直前まで力のこもった作品を描き続けた。その生涯で、自画像を百点近く描いているが、それは一種の自伝とみなされている。
(中野、2016年[2017年版]、57頁~69頁)

第⑤章 アルカディアにいるのは誰? プッサン『アルカディアの牧人たち』


プッサン(1594~1665)
『アルカディアの牧人たち』
1638~1640年頃 85cm×121cm リシュリュー翼3階展示室14

画家プッサンについて


二コラ・プッサンは、長くイタリアの後塵を拝してきたフランス美術界がようやく生み出した、国外へ誇るに足る、最初の、そして17世紀フランス最大の画家であると、中野氏は評している。

人生の大半をローマで過ごし、主要作品のほとんど全てをローマで描きあげた。激烈なバロック絵画から超然と離れ、プッサンは「知的構図の中に道徳的寓意を表現すべきもの」と語った。理性的で厳格な古典様式によって、その後のフランス絵画に決定的影響を与えた。
『アルカディアの牧人たち』はプッサンの代表作で、王立アカデミー(イタリアのアカデミーを真似して作られた国立の学術団体)におけるお手本となる。古典彫刻のような人体表現や安定的構図、知的主題などに、ダヴィッド作品との共通点がある。

ルーヴルにはプッサンが39点もあり、うち31点がルイ14世による購入である。ダヴィッドがナポレオン御用達だったのと同じである。
ただ、実際のところ、生前のプッサンに人気があったとは言えないようである。ルイ太陽王は別として、大多数の王侯貴族や教会や大商人が喉から手が出るほど欲しがったのは、派手で華やかな「王の画家にして画家の王」ルーベンスの作品だった。
(いわばプッサンは国産の純文学ないし難解な芸術映画であり、ルーベンスは世界規模の大衆文学ないしハリウッド映画であると、中野氏は喩えている)

その後の美術史の流れとしては、次のように略述している。
堅苦しいプッサンの後には享楽的ロココがやってきたが、ロココはダヴィッドの凍りついた大画面に踏み潰される。そのダヴィッドは、色彩と激情の氾濫たるロマン主義に吹き飛ばされ、それも飽きられると印象派が登場した。波は寄せては返すというのである。

『アルカディアの牧人たち』


アルカディアとは、ギリシャ南部ペロポネソス半島の中央台地の名で、古来より牧歌的理想郷とされてきた。
田園ユートピア伝説が形成され、ここは牧神パンが住まうといわれ、パン崇拝地である。太陽光線をあわらす角と、大地への密接さを象徴する山羊の脚を持つパンは、パン=全てという名前のとおり、至るところに偏在する自然神である。アルカディアの民が崇めた神パンは、脚こそ山羊でも上半身は美青年だった。
アルカディアという理想郷は、現実逃避の場として人々の夢の対象になったが、17世紀のイタリアが突然、次のようなラテン語成句が生まれる。

「Et in Arcadia ego(エト イン アルカーディア エゴ)」
・「Et」とは英語の「also」(=もまた)にあたる。
・「ego」はエゴイズムから類推できるように、「I」(=わたしは)の意。
・動詞が省略されているが、「アルカディアにもわたしはいる」
 →わたし、即ち死神。「我、アルカディアにもある」
 →憂い無きはずのアルカディアにさえ死は存在する、という意味である。
 (「死」こそが偏在の最たるものであろう)

この理想郷にも存在する死を絵画したのは、イタリア人画家グエルチーノであった。「我、アルカディアにもあり」(ローマ古典国立絵画館蔵)は、アルカディアに住む羊飼いふたりが頭蓋骨を発見し、呆然自失となる図である。石台には、「我、アルカディアにもあり」の文字が彫られている。頭蓋骨はメメント・モリ(=死を想え)の典型的シンボルである。」この作品はわかりやすいといわれる。
ところがグエルチーノからほぼ20年後、同じ主題をプッサンが取り上げると、構成力、表現力、格調の高さにおいて、すべて優っていた。ただし、鑑賞には知識と思考が要求される。

『アルカディアの牧人たち』の構図と登場人物


プッサンの『アルカディアの牧人たち』には、計算されつくした構図と考え抜かれた人物の配置とポーズ、そして色調を抑えた落ち着きがある。
羊飼いたちが、崩れかけた石棺を見つけ、棺の前にしゃがんだ髭の男が銘文「我、アルカディアにもあり」を指でなぞっている。
(古代では音読があたりまえだったから、文字をなぞりながら訥々と読み上げているようだ。ちなみに黙読の習慣は18世紀頃からなので、プッサンの時代でも音読がふつうだったそうだ)

赤い布を巻いた男は、そこへあらわれた右端の女性を横目で見上げ、注意を促し、女性は彼の受けた衝撃をなだめようとしているように思われる。
この女性の正体は謎である。いまだに定説はないようだ。かつて美術史家は、アルカディアにいる人間の女性は女羊飼いだけだとして、そう解釈してきた。しかし、この説は妙である。というのは男の羊飼いの簡素な服に比べて、上等な衣装をまとい、髪飾り紐まで付け、男が皆持っている牧羊杖を持っていない。
そこで、女祭司という説がでてきた。牧神パンを祀る土地なので、祭司がいてもおかしくない。またこの女性は人間ではなく、「受け入れるべき運命」を示す擬人像だと主張する人もいる。
いずれにせよ、この女性は死への諦念を促す存在であることは、その静かな表情や態度から推測しうる。

これは画家による謎かけである。感じるだけが絵の面白さではなく、画家との知的対決もまた絵を読む歓びであると中野氏は主張している。プッサンの『アルカディアの牧人たち』は、まさに「考える絵画」の代表であるというのである。
(中野、2016年[2017年版]、70頁~82頁)

第⑥章 捏造の生涯 ルーベンス『マリー・ド・メディシスの生涯<肖像画の贈呈>』


ルーベンス(1577~1640)
『マリー・ド・メディシスの生涯<肖像画の贈呈>』
1622~1625年頃 394cm×295cm リシュリュー翼3階展示室18

ルーベンスという画家


ルーベンスは「王の画家にして、画家の王」である。
ルーベンスの一生を知ると、神がもしいるなら、それはきっと「依怙贔屓(えこひいき)の神」に違いないと中野氏は考えている。
というのは、17世紀を代表するこの巨匠は、幸運と健康と才能と容姿に恵まれ、富と栄光と愛と幸福に満ちた輝かしい生を全うした。しかも死後400年近くたつというのに、その間ただの一度も人気に翳りの出たためしがない。これが理由である。

まず、ルーベンスの生い立ちから解説している。
法律家だった父に、幼いころギリシャ語、ラテン語、古典文学などを学んだ。しかし10歳で父が死ぬと、母子家庭の経済状態は悪化し、末子のルーベンスはラテン語学校を中退する。やむなく13歳で某伯爵家の小姓(こしょう)となり、そこで貴族社会における行動様式を会得する。

すでに画才を自覚しており、その後、イタリア経験のある師とめぐりあい、絵の他にイタリア語も教えてもらう(彼は知的で努力家で、後に数ケ国語をマスターしている)。
21歳で独立し、23歳で憧れのイタリアへ行き、マントヴァ公の宮廷画家として雇われる。8年後、母の死を機にアントワープに帰るが、この翌年、1609年、アントワープにも休戦により平和がもどり、経済が活況を呈し、大量の注文が殺到した。

1609年はとりわけルーベンスにとって幸福の年だったようだ。
まず、ネーデルランド総督であるイサベル大公妃(スペイン・ハプスブルク家フェリペ2世の娘)の引きにより、宮廷画家に任じられた。
次いで富裕な商人の娘イザベラ・ブラントと結婚し、家庭は円満だった。見るからに相思相愛で、理想のカップルに自分たちの姿を『ルーベンスとイザベラ・ブラント』(ドイツのアルテ・ピナコテーク蔵)において描いている。

また、ルーベンスは企業家としても大工房を運営し(一時、ヴァン・ダイクも在籍)、2000~3000点もの作品を輩出した。構想や下絵はルーベンスが描き、弟子たちがある程度完成させてから、最後の仕上げをまた自分でするという形だった。

1621年、休戦協定が失効したので、イザベル大公妃は再びの戦乱を恐れ、ルーベンスに外交官としての仕事を委任した。1628年からは、スペインやイギリスに派遣され、平和の使者としても成果をあげている。スペイン宮廷に『我が子を喰らうサトゥルス』、イギリス宮廷には『平和と戦争』という傑作を献呈している。

私生活では、先妻が病死したので、53歳で再婚している。相手は中産階級出身の16歳、花のような少女だった(彼女をモデルに多くの絵を描く)。
アントワープの大邸宅(今は美術館ルーベンス・ハウス)で、風景画を描いたり、名画を収集したりして、63年間の人生は最後まで華やぎの絶えることはなかったそうだ。

『マリー・ド・メディシスの生涯』という連作画


このように、ルーベンスの生涯を一通り辿ったあと、いよいよ『マリー・ド・メディシスの生涯』という連作画について解説している。

フランスから大きな注文を受けたのは、ルーベンス40代半ばのことだった。依頼主は、故アンリ4世妃、現国王ルイ13世の母堂マリー・ド・メディシスであった。改築した居城リュクサンブールに、40数枚の連作画を飾りたいとのことである。
それまでルーベンスはまだフランス宮廷に絵を納めたことはなく、工房あげての大仕事であった。動きのない静的な傾向の絵ばかりをよしとするフランスに、バロックの流麗な躍動感と色彩の爛漫を教えてやろうと張り切ったと中野氏は想像している。

「バロック(=歪んだ真珠)」という美術用語について、但し書きを添えている。バロック時代(16世紀後半~18世紀後半)に生きた人は誰ひとり「バロック」という美術用語を知る者はいない。というのは、19世紀半ばの美術史家がルネサンス時代に続く潮流をそう称したからである。ルーベンスやカラヴァッジョやレンブラントなどバロック画家は、自作をおそらくは、新しい古典主義とでも思っていたらしいのだが。

さて、ルーベンスは現地に行って、依頼主マリーの注文内容を話し合った。その注文とは、暗殺された夫たる先王の一生と、自分の一生を、それぞれ連作にして、まず先に自分のほうの22枚を完成させよとのことであった。アンリ4世の生涯は波瀾万丈で、顔にも特徴があり、実に描き甲斐ある人物だったのに、50近いマリーは自分を優先させ、大金を提示してきた。
何のオーラもないどころか個性も魅力もないマリーの人生を描くにあたり、ルーベンスは頭を抱えたようだ。そこで画家は、4年近くの年月をかけ、ドラマティックな粉飾のもとに、マリーをヒロインに仕立てあげた。並外れた力量の凄さである。

『マリー・ド・メディシスの生涯』のタイトル


『マリー・ド・メディシスの生涯』全22枚の大作は完成した。
それぞれの内容を略述すると、次のようになる。
① 「運命」
神話の最高神ゼウスと妻ヘラの前で、運命の三女神がマリーの一生を決めている。
② 「誕生」
神々や天使が寿(ことほ)ぐ
③ 「教育」
知恵の女神ミネルヴァや商業の神メルクリウスなどが、大自然の岩窟内で、マリーに真善美の全人教育を授ける(現実のマリーは両親の死後、叔父にあずけられたが、フランス語も学んだことがなかった)
④ 「肖像画の贈呈」
(1622~1625年頃、394㎝×295㎝、リシュリュー翼3階展示室18)
天使らが婚約者マリーの肖像画を戦場へ運んでゆくと、甲冑姿のアンリ4世はその美貌に魅入られ、戦争中だということすら忘れて陶然としてしまう。そして天使からゼウス(アトリビュートは鷲およびその鉤爪で掴んでいる雷電)、そしてヘラ(アトリビュートは孔雀)が見下ろしている。
この時、マリーはすでに27歳だった。当時は14、5歳で嫁するのがふつうだったから、相当に遅い。一方、アンリは最初の妻マルゴと離縁し、愛人が多くいたこともあって、最初からマリーに無関心だった。
⑤ 「結婚」
アンリの代理人がイタリアへ来て挙式した。当時の王侯の結婚式はこの形が多かった。
⑥ 「マルセイユ上陸」
文化国イタリアから、田舎国フランスへマリーはやって来る。ガレー船18隻、供の者数千人を引き連れ、年間国家予算ほどの持参金を携えてである。画面では、海のニンフやマルセイユの擬人像が祝福している。連作中、屈指の名作であるとされる。
⑦ 「リヨンでの会見」
夫婦の初対面は、アンリをゼウスに、マリーをヘラになぞらえて描かれる。ライオンはリヨンの紋章であり、リヨンの町の擬人像である。
⑧ 「ルイ13世の誕生」
マリーは多産で六子もうけた
⑨ 「摂政政治」
王不在の場合、国政の全権をマリーに与えるとの布告がなされた
⑩ 「戴冠式」
サン・ドニ聖堂にて、統治権委託の戴冠式が挙行された。後にダヴィッドがナポレオンの戴冠式を描くとき、本作を参考にした。
⑪ 「アンリ4世の神格化」
左端には暗殺されたアンリが天上へゆく姿で、右端には喪服のマリーが描かれる。マリーはフランスの擬人像から王権を象徴する宝珠を受け取っている。
⑫ 「神々の評議会」
天上の神々と討議するマリーが描かれる
⑬ 「ユリエールの勝利」
ドイツの小さな町を征服した記念として描かれる
⑭ 「王女の交換」
息子ルイ13世妃として、スペインからアンヌ・ドートリッシュが嫁してくる
⑮ 「摂政政治の至福」
左手に世界全体を示す天球を持ち、右手には公正と正義を象徴する天秤を掲げる
⑯ 「成人したルイ13世」
ルイ13世は成人したとはいえ、頼りないので、マリーは手伝おうとするが、親子の関係は悪化するばかりだった。ルイ13世はマリーの側近を暗殺し、マリー本人もブロワ城へ幽閉する。
ルーベンスはその事件も「誹謗」のタイトルで完成させたが、その絵はマリーに受け入れられず、現在はフランスにないそうだ。
⑰ 「ブロワ城からの脱出」
2年後に幽閉は解けるが、ミネルヴァに助けられたと解釈された
⑱ 「アングレームの条約」
マリーはメルクリウスから平和の象徴、オリーブの小枝をもらう
⑲ 「アンジェの平和」
平和の女神は武器を燃やし、悪徳の擬人像が怒っている
⑳ 「完全なる和解」
親子は神のように天へ飛翔する
㉑「真理の勝利」
  仲良し親子のもとへ、時の老人が真理の女神をひきあげようとしている。

ルーベンスは22枚描いたのだが、1枚はボツになってしまう。現在この21枚と、他にマリー単独肖像、彼女の父と母の肖像、合わせて24枚がルーヴルの特別室に展示してある。
ちなみにアンリ4世の生涯連作は、残念ながらこの世に存在しない。ルーベンスは描き始めていたのに、マリーに不測の事態が起こってしまった。

マリーが“捏造生涯図”を並べて悦にいっていたのはわずか5年である。マリーは再び政治に口を出し、息子からまたも幽閉され、半年後に脱出したが、フランスにはいられず、国外を11年も転々とした後、ドイツで客死(かくし)した。
(中野、2016年[2017年版]、83頁~97頁)



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