歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その4 私のブック・レポート≫

2020-04-12 17:38:07 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その4 私のブック・レポート≫
(2020年4月12日投稿)
 




【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)



【はじめに】


今回は、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])の第10、11、12章の3章の内容を紹介してみたい。
次の3点の絵画が中心に解説されている。
〇ティツィアーノ『キリストの埋葬』
〇作者不詳『パリ高等法院のキリスト磔刑』
〇アンゲラン・カルトン『アヴィニョンのピエタ』




さて、今回の執筆項目は次のようになる。



第10章 まるでその場にいたかのよう ティツィアーノ『キリストの埋葬』
・ティツィアーノという画家
・ルーヴル美術館のティツィアーノ作品
・ティツィアーノの『キリストの埋葬』について
・『キリストの埋葬』に描かれた人物
・ティツィアーノの『手袋の男』について

第11章 ホラー絵画        作者不詳『パリ高等法院のキリスト磔刑』
・キリスト教図像の誕生と展開
・『パリ高等法院のキリスト磔刑』について
・ベルショーズ『聖ドニの祭壇画』について

第12章 有名人といっしょ     アンゲラン・カルトン『アヴィニョンのピエタ』
・アヴィニョン新町と、15世紀の絵画の発見
・『アヴィニョンのピエタ』の作者は誰か?
・『アヴィニョンのピエタ』という絵画
・『東方三博士の礼拝』と『宰相ロランの聖母』







第⑩章 まるでその場にいたかのよう ティツィアーノ『キリストの埋葬』


ティツィアーノ(1490頃~1576)
『キリストの埋葬』
1520年頃 148cm×212cm ドゥノン翼 2階展示室7

ティツィアーノという画家


ティツィアーノも、ルーベンスと同じく、紛れもなく「幸せな画家」だったと中野氏はみている。
健康と良き家族に恵まれ、長命でエネルギッシュで、若くして富と名誉を手にし、仕事を心から楽しみ、生前も死後も人気と名声があった。

ティツィアーノとミケランジェロ(1475~1564)の活動期間はだいたい重なる。
ティツィアーノの生年は不確かだが、ミケランジェロ生誕年のほぼ15年後、つまり1490年頃に生まれたとされる。ミケランジェロ没年は1564年であるが、その約10年後の1576年に亡くなっている。

ティツィアーノは、フィレンツェで開花していたルネサンス芸術を、ヴェネチアで豊潤なる色彩とともに華やかに展開した。ちなみにこの天才の死の翌年、フランドルでルーベンスが生まれた。ルネサンスからバロックへの変遷である。

ところで、ティツィアーノ邸を訪れたヴァザーリは、『ルネサンス画人伝』において、次のよなことを記している。
・「ティツィアーノは神から恩寵と祝福しか受けなかった」
・「ヴェネチアを訪れる王侯貴族や芸術家は、必ず彼の屋敷に立ち寄った」
・「高名な人で彼に肖像画を頼まなかった者はまずいない」

ティツィアーノは、錚々たる顔ぶれから注文を受けている。
・スペイン・ハプスブルク家のカール5世とその息子フェリペ2世
・ローマ教皇パウロ3世
・マントヴァ公夫人で芸術の大パトロンであるイザベラ・デステ

80歳を超えてもティツィアーノは進化し続け、ルネサンスとバロックの二つながらを自分のものとしている。そればかりか、晩年の大まかなタッチは数世紀先の印象派をも先取りしたといわれている。
ティツィアーノ作品も初期、中期、後期と、それぞれ多彩な輝きを存分に放っており、傑作ぞろいである。
・肖像画では、『カール5世騎馬像』
・神話画では、『エウロペの略奪』や『バッカスとアリアドネ』
・宗教画では、『聖母被昇天』(イタリアのサンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂蔵)
後世の有名画家たちが模写のためせっせとイタリア詣でをすることになった。

ルーヴル美術館のティツィアーノ作品


どうしても円熟期の有名作ばかりが取り上げられがちだが、比較的若い、確立期の瑞々しさに魅了される者も少なくない。
ルーヴルには、ティツィアーノ30代前半の傑作が2作もある。
① 『キリストの埋葬』
1520年頃 148㎝×212㎝ ルーヴル美術館ドゥノン翼2階
② 『手袋の男』
1520年直前 100㎝×89㎝ ルーヴル美術館ドゥノン翼2階

宗教画と肖像画で、どちらも、マントヴァ公のコレクションだったものである。
17世紀に、おそらくゴンザーガ家の衰退により、チャールズ1世に売却された。ところが、清教徒革命が勃発し、チャールズ1世は斬首され、そのコレクションは共和政府によって売り出され、ティツィアーノの『キリストの埋葬』と『手袋の男』はルイ14世が買い上げた。だから、二作品とも、ルーヴルのルイ14世コレクション室に並んでいる。

ティツィアーノの『キリストの埋葬』について


夕暮れの不穏な空の下、十字架から降ろされたイエスを、弟子たちが柩(ひつぎ)におさめようとしている。
あまりにひとりひとりの感情表現とリアクションが自然なため、ドキュメンタリー映画のように見えると中野氏は評している。
(ティツィアーノが実際にこの場に立ち会い、聖母らと悲しみを共有したのではないかと思うほどだという)

異説はあるが、イエスは13日の金曜日、朝9時に十字架にかけられ、午後3時に死去したといわれる。不思議な偶然によって、この日の12時ころ、にわかに空が暗くなり、気温が急速に下がって、人々を震撼させた。皆既日蝕が起こった。数ある磔刑図の多くが、背景を黒く塗りつぶしているのは、そのためである。
日蝕が終わると、イエスが息を引き取ったのはほぼ同時刻である。死の間際にイエスが、「神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだのは有名である。

磔刑死した者はそのまま放置され、埋葬が許されないのが常だったが、アリマタヤのヨセフ(エルサレムの有力者)が総督ピラトに直訴し、イエスの亡骸を引き取る許可を得た。これは勇気ある行為だった(イエスの身近にいたペテロら使徒たちが、逮捕後、身をひそめているのと比べれば、なおさらである)。

アリマタヤのヨセフは真新しい白布を持ち、ゴルゴタの丘へ赴いた。そしてもう一人、ニコデモ(エルサレム最高法院の一員)が没薬(もつやく、防腐剤にもなる)や香料を用意して十字架のそばにいたので、聖母らの見守る中、いっしょにイエスを降架した。つまり、ティツィアーノのこの絵のシーンである。

『キリストの埋葬』に描かれた人物


画面中央下に、蒼白い裸体のイエスが白い布で運ばれている。
その上半身を支える赤い服の男がニコデモであり、両脚のほうを持つ逞しい腕の髭男が、アリマタヤのヨセフである。
画面左端、青いマントの中年女性は、イエスの母マリアである。その聖母マリアをかき抱き、イエスから遠ざけようとするのは、マグダラのマリアである。

だが、この絵の要は、イエスでも女たちでもないと中野氏はみている。
それは、まさに要に位置する中央の若者であるという。
彼は最年少の使徒ヨハネである。大ヤコブの弟であり、ガリラヤで漁師をしていたところを、イエスに召しだされて、愛弟子となる。
ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』(イタリアのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院蔵)で、イエスの右横に座っている。
(女性的なしぐさを見せているため、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』において、マグダラのマリアとみなされていた。しかし、使徒ヨハネ像は図像上、天使と同じく中性的な姿で描変えるのが伝統である)

ただし、聖書によれば、イエスの逮捕から埋葬に至る過程に、11人の使徒(ユダは裏切り後自殺)の誰ひとりとして同伴していなかったはずである。だが、ヨハネは後に『ヨハネ福音書』と『黙示録』を記したとされ、イエスの死の道筋を見届けていないはずはない、と解釈された。こうして絵画には聖母やマグダラのマリアとともに、十字架の足元にも、ピエタ(聖母がイエスの亡骸を抱いて嘆く場)にも、さらには聖母被昇天の場にも登場することになったそうだ。

ティツィアーノ描く使徒ヨハネほど、強烈な印象を残すヨハネはいないと中野氏は述べている。このヨハネは、イエスを失った衝撃に完全に打ちのめされている。よるべなさと不安が、ヨハネの若さをいっそう強調し、この絵全体に胸を締めつけるような悲愴感を与えていると中野氏は評している。

ティツィアーノの『手袋の男』について


モデルは特定されていない。
口髭の薄さから10代、せいぜい20歳になったばかりとされる。仕立ての良い衣服や、首にぶら下げたサファイア付き金銀、右手人差し指に嵌めた印章指輪などから、ヴェネチア名門貴族と推定されている。
整った顔には、まだ苦しみも悲しみも悩みも刻印されていない。今の魅力を残したまま、個性的な顔になってほしいと中野氏は付言している。

ところで、本作は、三島由紀夫が選んだ「西洋美術に見る理想的青年像」8点のひとつであるそうだ。
他には、ミケランジェロの『瀕死の奴隷』やレーニの『聖セバスチャンの殉教』などが含まれる。
三島は、この美しい若者について、次のように書いている。
「ティツィアーノのこの肖像画は、どうしてこれほどまでに有名なのだろうか。私は女性像としてのモナ・リザと反対に、青年の肖像画として、青年の理知的な明晰さ、全く謎を持たない深みを、これほど豊かに描いた肖像画はないからだろうと考える」

さて、ティツィアーノは、生涯、依頼された絵しか描かなかった。つまり全て仕事として請け負った。仕上がったものの多くは、まるで近代の苦悶する芸術家のように、内的欲求に突き動かされて、筆をとった作品に見えるとされる。その一方で、苦労なく、楽しみながら描いたようにも見えるところが面白いと中野氏はみている。
ともあれ、ティツィアーノは、まこと「幸せな画家」であったことを強調している。
(中野、2016年[2017年版]、135頁~147頁)

第⑪章 ホラー絵画 作者不詳『パリ高等法院のキリスト磔刑』


作者不詳
『パリ高等法院のキリスト磔刑』
1449年頃 145cm×270cm(中央部の縦226㎝) リシュリュー翼3階展示室6

キリスト教図像の誕生と展開


ヨーロッパの美術館には、聖書を主題とした絵(磔刑図や受胎告知、聖母子像や聖人)が多く所蔵されている。とはいえ、キリスト教図像の誕生は、思ったより遅くようやく4世紀初頭になってからである。
当時、ローマ帝国がキリスト教を禁止・抑圧し続けたり、神学者が偶像崇拝だとして図像化に反対したりしたことによる。だから、イエス登場後300年間、キリスト教図像は無きに等しかった。

しかし、ローマ帝国がキリスト教を公認してから、教会の建設とともにキリスト教図像は解禁された。とりわけ磔刑図がその中心概念として発達してゆく(十字架上のイエスは威厳に満ち、痛みを感じていないどころか、微笑んでいる作例まであるそうだ)。

6世紀以降は、時に偶像崇拝論争が巻き起こったが、キリスト教芸術は宮廷とも結びついて華々しく展開した。9世紀からは聖母マリアや使徒らに関する約束事も決まりはじめる。例えば、マリアの衣服の色は赤と青で、白百合を描き込むなどである。

絵画表現における大きな転換期は、13世紀である。それまで十字架にかけられながら超然としたイエスの顔に、苦悩や苦痛が浮かびだす。磔刑されるイエスや、殉教する聖人らの肉体は生々しく、写実的に描写された。
中でも、「この世は涙の谷」と言われた中世末期(あるいは初期ルネサンス)フランドルや」ドイツの画家の宗教画は、怖いし血なまぐさい。
ルーヴル美術館リシュリュー翼の、14世紀から16世紀あたりの作品群がそうである。草食系かつ異教徒の日本人なら、その凄まじさと残酷さに、そそくさと立ち去りたくなるような作品群だともいう。

中野氏は「ホラー絵画」と称しているが、2点を紹介している。
① 作者不詳『パリ高等法院のキリスト磔刑』
1449年頃 145cm×270cm(中央部の縦226㎝ リシュリュー翼3階展示室6
② ベルショーズ『聖ドニの祭壇画』
1380年頃~1444年頃 リシュリュー翼3階展示室3

『パリ高等法院のキリスト磔刑』について


本作は、中央に十字架上のイエス、左右に関係者像が描かれる。
これはフランス王の顧問機関である高等法院が、大法廷の壁に掛けるために注文したものである。

奇妙なことに、注文主や制作年度(1450年前後)とわかっているにもかかわらず、画家名の記録がない。ただ、背景のパリの建物が正確に描かれているので、フランス在住の画家だったことは確かとされる。
しかし、フランス人かといえば疑問である。というのは、当時はまだこれほど力量のあるフランス人画家は存在していないからである。緻密で粘着質な描写から推測して、フランドルやネーデルランドなど、北方出身の画家とみられている(アンドレ・ディープル説が有力という)。
そもそも、北方の画家は、ウェイデンやデューラーに顕著であるように、細部も逃さず徹底的に描き尽くそうとする。そして成功した名画の面白さと圧倒的満腹感は、イタリア絵画を凌ぐことも多いとされる。

ここで、このことがよくあらわれているお国柄ジョークを中野氏は引用している。
「象とは何か」という命題を与えられたイギリス人は、さっそく銃を持ってアフリカへ行き、一頭仕留めてきた。フランス人は、象の料理法を考え、レシピを作った。ドイツ人は図書館に何年もこもり、象を一度も見ぬまま、『象の全て』全十巻本を上梓した。

さて、本作に描かれた人物についてみると、イエスの左下で手を合わせ、見上げているのはマグダラのマリアである。青い上衣をまとって涙をふくのは聖母マリアである。慰めているのは、諸説あるが、小ヤコブの母マリアとされている。

十字架右下に立つのは、イエスにもっとも愛されたといわれる使徒ヨハネである。他の使徒たちがエルサレム市内で隠れていたのに、ヨハネだけはイエスの死の道行きに従ったとされ、磔刑図では聖母やマグダラのマリアとともによく描かれる。

聖書中の人物はもうひとりいて、画面左から2人目、犠牲の仔羊を抱いているのが洗礼者ヨハネである(使徒ヨハネと同名なので混同されやすい)。
ヨルダン川でキリスト(救世主)到来を予告し、イエスに洗礼をほどこした「荒野の聖人」である。イエスが磔刑される2、3年前に、有名なサロメのおねだりで首を斬られ、盆に載せられてしまったので、本当はこの場にいられるはずはない。だが、キリスト降臨の前にあらわれた預言者として、やはり磔刑図への登場回数は多いようだ。

その洗礼者ヨハネの隣にいるのが、13世紀の聖ルイである。王冠をかぶり王笏(おうしゃく)を持ち、青地に百合の花(フランス王家の紋章)を散らしたマントをはおっている。パリ高等法院設立の素地を作った。
彼らの背景には、のんびりおしゃべりしたり、後ろ向きでセーヌ川を覗きこむ貴族の姿があり、対岸にはルーヴルが見えている。

また、一番右で剣と水晶球を持つのは、かのシャルルマーニュ(カール大帝)で、中世ヨーロッパを形成したとされる。聖ルイよりも5世紀も前の9世紀の人物である。やはりフランス王のマントをはおっている。

その画面右から2人目には、自分で自分の首を持って立っているドニがいる(中野氏はこの絵のハイライトであるという)。
ドニは、多くの人々をキリスト教に改宗させたとして、ローマ帝国の怒りを買い、パリで一番高い丘、モンマルトルの丘(殉教者の丘)の刑場で斬首された。3世紀のことである。当時のフランスはガリアと呼ばれ、ローマから見れば辺境の地であった。

奇蹟の逸話によれば、聖ドニは、斬首されたあと平然と立ち上がり、ころがった自分の首を持って、10キロ先まで歩いていったという。その倒れた場所に、サン・ドニ聖堂が建てられ、代々フランス王の廟堂になった。
要するに、この絵はイエスとフランス王家の強い絆を示していると解釈されている。

ベルショーズ『聖ドニの祭壇画』について


こちらは、『パリ高等法院のキリスト磔刑』より30数年ほど前の作品である。
金箔をふんだんに使った装飾的絵画なだけに、ホラー度は高いかもしれないと中野氏は述べている。死刑執行人が力を込めて振りあげる鉈(なた)が、ゾッとする。切り落とした断面図もリアルである。

本作は異時同図法である。聖ドニもイエスも2回ずつ登場している。
左端では、捕らわれの身のドニが、ミトラ(司教冠)をかぶって鉄格子から顔を出す。十字架から降りてきたイエスが、なぜかフランス王家のマントをはおり、彼に聖体拝領を行なう。
そして時間は右へと流れる。ふたりの弟子とともに処刑場へ連行され、ドニと弟子の一人は首を斬られている。殉教という道を選んだ3人は、すでにして聖人なので頭上には光輪が見える。
(中野、2016年[2017年版]、148頁~159頁)

第⑫章 有名人といっしょ アンゲラン・カルトン『アヴィニョンのピエタ』


アンゲラン・カルトン(1415頃~1466頃)
『アヴィニョンのピエタ』
(『ヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンのピエタ』)
1455年頃 163cm×218.5cm リシュリュー翼3階展示室4

アヴィニョン新町と、15世紀の絵画の発見


フランス南部に位置する中世都市アヴィニョンの名は、日本人にもわりとよく知られていた。古謡「アヴィニョンの橋の上で踊ろう、輪になって踊ろう…」によってである。

ローヌ川に架かるその橋は、正式名サン・ベネゼ橋である。昔、橋はアヴィニョンの対岸の町、ヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョン(アヴィニョン新町)へ通じていた。町には、要塞や修道院やノートルダム参事会教会がある。
1834年、31歳の歴史建造物検査官が調査にやって来た。この人物こそ、のちに『カルメン』(1845年)の作者として文学史に名を残すメリメであった。

若きメリメは、教会の礼拝堂で、胡桃材でできたゴシック様式の装飾衝立の板絵を発見する。それは霊感に満ちた繊細優美なピエタ図であった。ただ、教会側は15世紀半ばから所蔵されていたらしいということだけしか知らず、画家名も来歴も全くわからなかった。
メリメは、中央官庁へ報告した(このころ、すでにルーヴルは公共美術館になって半世紀近かった)。しかし、片田舎の教会に傑作などあるはずがないで終わってしまう。

こうして作品は再び埋もれたが、メリメの死後、1904年、『アヴィニョンのピエタ』
(正式名『ヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンのピエタ』)は、パリでのプリミティフ展へ出品される。実物のオーラは凄く、ただちに中世絵画の傑作と認められ、「ルーヴル友の会」が購入し、翌1905年にルーヴルに収められた。今では国宝級の扱いである。

『アヴィニョンのピエタ』の作者は誰か?


『アヴィニョンのピエタ』は誰が描いたかについては、イタリア人説、フランドル人説などいろいろ挙がった。ルーヴル入りして50年ほど経ち、フランス人研究者が、フランス人画家アンゲラン・カルトン説を主張した。ただし、確証があるわけではなく、支持しない者もいて、まだ疑問符付きであるようだ。

『アヴィニョンのピエタ』という絵画


さて、「ピエタ」とは「哀悼」の意であり、十字架から降ろされたイエスの遺体を抱き、聖母マリアが悲しみにくれる場面をいう。
この主題は、聖書のどこにも記述していないのに、礼拝の対象として愛好され、彫刻や絵画にくり返しあらわれる。ミケランジェロの『サン・ピエトロのピエタ』(イタリアのサン・ピエトロ大聖堂)の彫刻は、もっとも有名である。

さて、『アヴィニョンのピエタ』の要は、イエスの蒼ざめた肉体の鋭角的な造型であると中野氏はみている。すなわち、腰を大きく折り、垂れた右腕と両脚が響きあう平行線と、肋骨のリアルな斜線が重なっている。そして胸元から三角形を構成しつつ立ちのぼる聖母の姿によって強調されている。

多くのピエタ図では、イエスは死と眠りの間にいるかのごとく描写され、聖母マリアは決して年をとらず、美しい乙女のままでいるようだ。だが、アヴィニョンのイエスは口をあけ、屍(しかばね)の痛々しさそのものだし、聖母の顔は老い疲れている。中世的な深い信仰心が画面を覆い、荘厳さを漂わせ、そして中世絵画特有の硬直性から抜きん出た人間表現になっていると中野氏は評している。

画面右には、マントで涙をぬぐうマグダラのマリアがいる。
装飾的な金の光輪に「マグダラのマリア」と明記されている。それが無くとも、持っている香油壺と長髪が彼女のアトリビュート(本人を特定する持ち物)なので、それとわかる。
なお、壺に入れた没薬(もつやく)は、神聖な香料であるとともに、遺体に塗布する防腐剤でもあった。

聖母の向かって左側の男性は、福音書記者の使徒ヨハネである(こちらも光輪に書いてある)。慎重にイエスの頭から荊(いばら)の冠を外している。荊で編んだ冠は、イエスが「ユダヤの王」を名乗ったから、敵がかぶせたものだった。

遠景には、エルサレムの建造群が見える。イエスはこの聖都で裁判を受け、鞭打たれ、城門を出てすぐのゴルゴタの丘で磔刑にされた。
また金地バックの上縁部には、『預言者エレミヤの哀歌』1章12節の言葉「これほどの憂苦が世にあろうか」が記されているという。まさに聖母が感じたそのままを表わしている。

ところで、この『アヴィニョンのピエタ』はトリミングして、4人の聖人が織りなす哀悼図として紹介されることがしばしばあった。つまり、イエスと聖母とマグダラのマリアとヨハネの4人である。
しかし、実際には、左端にもう1人人物が存在する。名の知れぬ、この世俗の人(光輪がない)は、寄進者である。スルプリと呼ばれた白いガウンは、当時の参事会員のものなので、本作は彼が画家に発注したものとわかるそうだ。彼がいなかったら、この傑作は生まれなかったという意味で、重要人物である。
この作品は、敬虔なる参事会員の氏が祈りの際に見たビジョンという設定である。どこか遠く、焦点の定まらぬ目をして、ピエタの幻影を見ているという図である。これは礼拝図であり、祭壇の後ろの衝立に描かれていた。

『東方三博士の礼拝』と『宰相ロランの聖母』



ところで、中野氏は、こうした聖書の画面に、当時の現代人が闖入する絵画として、次の2つの作品を紹介している。
〇ボッティチェリ『東方三博士の礼拝』(イタリアのウフィツィ美術館蔵)
〇ファン・エイク『宰相ロランの聖母』(ルーヴル美術館リシュリュー翼3階展示室4)

『東方三博士の礼拝』では、もはやマリアも幼子イエスも脇役扱いで、メディチ家とその関係者の記念撮影と化しているといわれる。
三博士自体もメディチ家の面々が扮しているし、描き手であるボッティチェリも登場している(右端で鑑賞者へ視線を向けているのがボッティチェリである)。
そして、注文主も右側の群衆の中に描かれている。白髪頭で薄いブルーの服を着て、視線を我々に向けており、そればかりか右手の人差し指で自分の胸を指している。彼はラーマといい、メディチ家の人間ではなく、最下層の生まれから不動産業や両替商を経て成り上がった人物だそうだ。公金横領で有罪判決を受けるなど悪評があり、名誉挽回の手段にこの祭壇画を発注し、教会内の私設礼拝所におさめた。しかし、本作完成翌年には、再び詐欺罪で逮捕されたという。

次にファン・エイク作『宰相ロランの聖母』の方はどうか?
こちらの注文主は、もっと不遜な寄進者であると中野氏は記している。
二コラ・ロランは、貧しい家に生まれたが、刻苦勉励して弁護士となり、やがてブルターニュ公国フィリップ善良公の右腕として宰相職についた政治家である。
しかし、その蓄財方法に関しては、黒い噂はありながら、さきのイタリア人ラーマと違い、富と名誉に包まれた人生を全うしたそうだ。
この絵に描かれた時は60歳前後で、豪華な衣裳に身を包み、その成功ぶりを見せつけるために、故郷オータンの教会にこの祭壇画を寄進した。

中野氏は、この絵で驚くべき点を指摘している。それは、聖なる存在である聖母子とロランを対等に置いた構図である。
(これに比べれば、『アヴィニョンのピエタ』の参事会員の寄進者は、画面の隅にいたのだから遠慮深いとすらいえる)
こういう描き方が許されるのは、聖人だけのはずなのに、ロランは自分を聖人に見たてている。ここにロランの傲慢さがある。

ロランは額に青筋立てて祈っており、なかなかの迫力である。66センチ×62センチという小型の画面に、雄大な世界が凝縮されている。ファン・エイクのような北方の画家は、省略ということを嫌い、画面の隅々まで物で埋めてゆく、細密的面白さがここにも詰まっている。
それは、聖母の波打つ金髪、天使がかぶせようとする王冠、ロランのはおる毛皮など見ればわかり、実物の質感を備えている。

また描かれたものの中には、何かを暗示するものがある。例えば、ロランの近くには2羽の孔雀がいる。孔雀は不死のシンボルなので、もしかするとロランは永遠の命を密かに願ったのかもしれないと中野氏は解釈している。
そして、回廊の向こうにアーチ型の橋が見える。意味は明らかで、この世と神の国の架け橋だそうだ。右側の景色をよく見ると、ゴシック教会の塔がいくつも聳えている。
一方、左側は山と町という俗世間である。つまり橋は聖と俗をつないでいる。そしてそれはまた主役たるロランと聖母子をもつなぐというのである。
(中野、2016年[2017年版]、160頁~174頁)



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