歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

《饗庭孝男の小林秀雄論 その3》

2021-06-09 18:20:01 | 文章について
《饗庭孝男の小林秀雄論 その3》
(2021年6月9日投稿)



【はじめに】


今回のブログも、『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)で論じられた饗庭孝男の小林秀雄論を紹介するが、ベルクソン、ランボー、モーツアルト、ドストエフスキーなどの西欧の人物と作品について、小林秀雄がどう論じたかのかを紹介してみたい。




【饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店はこちらから】

小林秀雄とその時代





饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
第一章 「故郷」喪失と「意識」のドラマ――「一ツの脳髄」
第二章 批評の誕生――ランボオとヴァレリー体験
第三章 拮抗する批評の精神――「様々なる意匠」と志賀直哉論
第四章 「思想」と実生活――「私小説論」の成立
第五章 意識の「地下室」を求めて――ドストエーフスキイ論考
第六章 歴史の闇の花――『無常といふ事』
第七章 「無垢」な魂の歌――『モオツアルト』
第八章 「精神」としての絵画――『ゴッホの手紙』と『近代絵画』
第九章 「経験」の深化――ベルクソン論としての「感想」
第十章 「信」としての<知>――『本居宣長』
あとがき





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・小林秀雄とベルクソン
・小林秀雄とランボオ
・小林秀雄の思考
・小林秀雄のモーツァルト論
・小林秀雄とドストエーフスキイ
・小林がドストエーフスキイと取り組んだ理由








小林秀雄とベルクソン


昭和14年に、ヴァレリーを論じた「『テスト氏』の方法」において、小林は次のように述べている。
「ヴァレリイは、人間を抽象して、cogitoといふ認識の一般的形式を得たのではない、自分の純化に身を削つたところに、テスト氏といふ極めて純粋なもう一人の人間を見付けた」

そして、さらにそれを補完するために、ベルクソン の「ラヴェソンの生涯と業績」における、あらゆる色彩のニュアンスを収斂レンズに透して一点にみちびき、純粋な白光をうるという「直観」への比喩をかりて、ヴァレリーが、「彼独特の視力の純化」によって「テスト氏」を得たとのべた。

このようなジード、ヴァレリー、ドストエーフスキー体験がベルクソン にゆきつく。
いや、逆に、すでに学生時代からのベルクソン体験の潜在的力というものが、こうした個性のなかにベルクソン的視角をつくり出したとも、饗庭はみている。そうであってみれば、小林秀雄の生涯にわたる批評と、その人間認識の射程は、ベルクソンによって支えられていたと考えることもできるという。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、284頁)

ベルクソンと小林秀雄の「経験」をめぐるちがいについて、饗庭は述べている。
ベルクソンへのふかい共感と同意から出発しながら、小林は、「経験」の問題を実生活の方向に屈折させ、生の知恵としての「常識」の問題とむすびつける。そのことによって、普遍的な開かれた場におかず、空間における事物と存在との直接経験の側に、いわば日常の世界におきかえていった。
ここにベルクソンと小林の「経験」をめぐるちがいがある。
ベルクソンの「祖述」ではなく、小林の理解する「経験」のとらえ方がここにあると、饗庭はみている。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、276頁)

小林が「経験」とともにベルクソンに共感した点は、「見る」というヴィジョンにかわる審美的な領域の問題であるといわれる。
すでに「沈黙の言語」としての絵画や、陶器から知覚について得たこの直接的な対象を得る道は、身体論的認識とつながりながら、「当麻」や「オリムピア」における「精神と肉体」とのあいだの内密的な関係への、あるいは意識と行為の関係、思考と身体の思惟性との連関の有機性にたいする小林の鋭い関心のあらわれであった。

小林は、もともとベルクソンが芸術と哲学を「直観」でつないでみせたその点に共感した。
その小林にとって、「自然の深さとは、一切を忘れてこれを見る人の感覚の深さの事」(『近代絵画』)というように、概念を排した知覚の拡大であり、「知覚と呼ぶより寧ろvisionと呼ぶべき」(「私の人生観」)ものであった以上、「経験」の実在性への依拠よりもましてこの「直観」の問題が重要であった。

ただ、ベルクソンはこう述べている。
「芸術とは、たしかに、現実のより直接なヴィジョンにほかならない。しかし知覚のこの純粋性は、有用な因襲とのある断絶、感覚ないしは意識の先天的な、しかも特に範囲を限られたある利害感の欠如、要するに人が理念主義(イデアリスム)と呼んできた生の一種の非物質性を含んでいる」(『笑い』)

このことから、小林が「見る」ことは、「画面の物質性を貫いて、その背後にある生命性にまで達する」という時、それは「実相観入」としての、あの東洋的認識と「直観」としての知覚の拡大が、小林の裡に一つの内密的(アンチーム)な合意をうんだ。であってみれば、小林がこのヴィジョンを、「心眼」とも「観」とも呼んでいる。
いいかえれば、それはまた、小林がセザンヌが得ようとしていた「見る」という行為を考え、「自然といふ持続する存在」(『近代絵画』)に達することであったとのべたこととひとしい。

不思議なことに、メルロ=ポンティは、その「眼と精神」という論文の冒頭に、J.ガスケの『セザンヌ』のなかの一文
「私があなたに翻訳してみせようとしているものは、もっとも神秘的であり、存在の根そのもの、感覚の感知しがたい源泉と絡みあっているのです」(滝浦・木田訳)をひいている。
これはベルクソンと小林秀雄とメルロ=ポンティの、たとえばセザンヌを具体的媒介にした精神的血縁の系譜をものがたる例であると、饗庭はみている。

さて、この「見る」ということに関して言えば、すでに西田幾太郎は『芸術と道徳』のなかで、芸術を「生命の表現」として、ベルクソンなどを援用しながら、一つの視覚作用と身体の運動の、筋覚を内在的にふくんだ「人格作用」と呼んでいる。

この西田の思考の系譜にも小林はまた入るようだ。
(ここでもベルクソンの媒介は重要である)
なお、メルロ¬=ポンティについては、彼はベルクソンの「見る」ことを一つの契機とするように、自らの身体が世界の織目のなかに取りこまれていること、その意味で、セザンヌが「自然は内にある」と考えたことを肯定し、質、光、色彩、奥行は外にあるとともに内に反響を呼びさまし、むかえ入れるからこそ知覚できるものであるとした。

このような、ベルクソン、メルロ=ポンティ、あるいは西田幾太郎の「見る」問題のなかに、小林も「実相観入」のプリズムをとおしながら位置づけることができると、饗庭は捉えている。
小林は西田よりもまして、ベルクソンの理論とセザンヌの絵画の具体的な媒介によって、この精神的血縁性を示している。

しかしながら、「見る」という行為によって得たものをいかに言葉の領域にもたらすか、という点に関しては、小林はさほど多くをかたっていない。もとより小林によってベルクソンが「詩人」として映じた以上、言葉にたいするベルクソンの精通の仕方をとりあげ、知性のかぎりをつくすことが「言葉の限りを尽す」ことであり、「実在の本質的な不正確さが、正確な言葉に敵対し抵抗する。少しも構はない。彼は出来るだけ正確な言葉を採り上げる」(「私の人生観」)であると見ている。

このような見方の背後にあるものは「論理を尽すが言葉を尽してをらぬといふ事である。観念の群れが、合理的に整合しさへすれば、これに言葉といふ記号を付けることなどわけはない」(同前)とする小林の批判である。

こうした小林の断言からうかがわれるものは、若い日、象徴主義の言語における「表現」の自立性を、マルクス主義文学の言語の「伝達」性に拮抗させた思考の遠い反響というべきものである。それにもまして、ベルクソンの言う、「言葉の上の解決を放棄」することによって得た哲学的方法の開眼と「経験」の重要性に立ちかえるという考えであると、饗庭はみる。

小林は本来、観念と分析による現実の把握に嫌悪をもっていたので、ベルクソンの言葉にたいする深い反省に強く共感したようだ。
ただ、いかにして言葉と実在との関係を回復するかについて、小林はさして多くの言葉をついやしてはいない。
むしろ「実相観入」の無言語的な身体論的把握や「経験」のとらえ方に小林の思考の比重がかかっている。観念と分析が「個」の「表現」とともに、いかに現実にたいする言葉の記号的な認識が、「あいまい」かつ不備なものであろうと、それが世界における事物と存在の「配分」と再構成を行う<知>の機能であり、現実の不透明さにたいする認識とロゴスへの還元のあいだに、せめぎあいがあると考える態度への相対的視角が働いていないように感じられる。
このことは、「詩人的」な「表現」にかわらぬ関心を持ちながらも、小林が「経験」と「実在」とのむすびつきへの関心を、「実相観入」の軸にそい、ベルクソン的な視角をふかめる方向に思考の重心を置いていたためであるようだ。

だが、ベルクソンの「経験」と「実在」への「直観」的認識を支えるものは、プラトンからカントに至る「すべて可能な経験を既存の鋳型に入れ、直観を忘却する」ことによって、「固定したものから動くものへ向う符号的認識」の量的増大を行ってきた西欧的<知>の働きについての鋭い批判であったとされる。
ベルクソンとは、言葉をめぐってまさに「不動」と「変化」の間における弁証法的関係のなかに、そしてその史的展望のなかの<知>の反動(リアクション)の個人的な出現であったといわれる。

ベルクソンのこうした、自己をふくんだ<知>の反省は、たとえば、あらためてミシェル・フーコーが『言葉と物』のなかで、一そう精密に解明した問題でもあった。
フーコーは次のように考えている。
・16世紀において、言語(ランガージュ)が、たとえ記号(シーニュ)の働きをすでにもっていたとしても、なおそれ自体が解読されるべき「物」としての「謎」をもち、「物」の類似であった。

・それに対して、17世紀以降、言葉(パロール)は、「書かれたもの(エクリチュール)」に、その真理をゆずりわたし、言語(ランガージュ)は、何かを記号(シーニュ)によって示すばかりではなく、それ自体、体系(システム)として構造化され、「物」としての「謎」を失って中性化し、透明化して「秩序」の量的増殖と複雑化にむかって進んできた。

ベルクソンが、言語の分節化への史的展望をつくったのにたいして、フーコーは、いわば言語の記号(シーニュ)の構造的様相をとらえたといえる。
このフーコーの論理は、ゆきつくところ、デカルト的な「われ思う」がなぜ「われ在り」の明証性につながらないかという点に至る。主体の「純粋思惟」がロゴス的な還元を果すことができず、「経験」と言語の乖離が極限に達した。
こうしたフーコーをベルクソンの延長線上につなぐまでもなく、西欧の<知>の自己批判が、ふたたび『野性の思考』を呼びもとめ「経験」のまことの意味を問い直すという点で、その「経験」にはつねに記号(シーニュ)(言語)への緊張にみちたディアローグが内包されていると見なければならない。

このように考えてみると、小林がベルクソンに触発されてふかめようとした「経験」の問題は、この「言葉」への還元とは何か、という自問を同時に内包していなければならなかったはずである。
しかし、晩年の『本居宣長』においても明らかなように、小林は、言霊(ことだま)という「物」の「謎」にむかって、あるいはハイデッガーが神話的言語と科学的言語をわけた、その神話的言語にむかって、文学的に遡行することはあっても、それが科学的<知>としての「分析」と体系とに、どのようにかかわるかを、一対の不可分な問題としてとらえなおす視野を欠いていたと、饗庭はいう。

したがって、言葉は「分析」ではなく、詩的言語のレヴェルにとどまり、「経験」は「物」としての言霊(ことだま)にむかって収斂され、その根底に「実相観入」の思考をもちながら、小林の言語観は、ディアローグよりもモノローグのトートロジー的な方向に働いて行った。
「感想」のなかに圧倒的に「経験」について、くりかえしのべられている個所が多いのもそのためであるようだ。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、278頁~283頁)

小林秀雄とランボオ


小林のランボオ体験は、「ランボオⅠ」(大正15年)「ランボオⅡ」(昭和5年)「ランボオⅢ」(昭和22年)の三つの評論を重ねあわせて読むべきである。衝撃の刻印は、「ランボオⅠ」にある。

ここには、ランボオの「純粋単一な宿命の主調低音」、芸術家が「最初に虚無を所有する必要」、生命とその宿命との交錯による「絶対」への参与、実行家としてのランボオ、人生斫断、自然の掠奪、生活者としての意識などがかたられている。
「ランボオⅡ」「ランボオⅢ」と後にゆくにしたがい、最初のランボオとの出会いと、ランボオの意味が相対化され、精密になっている。
小林の意識の「球体」は、あらあらしいランボオの実行によってうちくだかれ、生は「斫断」され、夢想はランボオの「生活意識」によって否定されたと、饗庭は理解している。

小林秀雄は、ボードレール的「純粋単一な宿命の主調低音」をランボオの「無意識」のなかにみとめ、それを契機として「絶対」に参与した。その時、「宿命」とはすでにヴァレリー的な純粋自我とニュアンスをことにしていると、饗庭は解釈している。というのも、ヴァレリーの意識は非人格的で非個性的な働きとなるからである。ヴァレリーの意識のとらえ方は、小林のいう「宿命の主調低音」と無意識の重なりとは意味をことにするという。

小林のボードレール体験とは、ボードレール固有との出会いではなく、むしろ自意識とは何か、創造とは何か、という原理的な問題をつきつめる一つの例であったにすぎないという。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、52頁~57頁)

小林秀雄の思考


小林には、マルクス主義であると否とを問わず、「思想」に憑かれ「夢」に憑かれるところに、人間の本性を見るという思考があるといわれる。それは、すでに「様々なる意匠」のなかで、ネルヴァルについて「各自の夢を築かん」とする考えにもあらわれている。

小林は、一方で「私小説論」にみるように、日本の自然主義とその私小説を否定し、他方で、マルクス主義運動のなかに、本能的に「思想」に憑かれた人間を見、それを正宗白鳥との、トルストイの家出をめぐる論争に重ねるという作業を行ってみせた。
小林が、時代の左翼にたいして批判的であろうと、本質的に人が「思想」と「夢」によってしか生きえないという原理的な問題をそこに見ようとした。その結果が、白鳥との「思想と実生活」にあらわれているとされる。
とすれば、この論争は、文学における「私」の死ののち作品が再生するフローベール的な枠組をもちながら、マルクス主義の同伴者として「思想」の息づく様をまのあたりにした小林の体験のリアリティによって支えられていると、饗庭はみている。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、129頁)

小林秀雄のモーツァルト論


小林秀雄は、『モオツアルト』を昭和21年12月に文学雑誌『創元』に書いた。

小林は、昭和21年2月の『近代文学』同人との座談会で、次のようなことを語っている。
・美術品などにかかわるうちに得た「文学は又形である」ということをのべながら、自分はもう文芸時評の世界にはかえらないこと
・それよりも「天才の思想の国」や「美の国」という一流の世界に、自分の一生の時間が足りないほど惹かれること
・また、言葉は実質ある材料であって、論理をすすめる手段ではないこと
・そして批評の表現についても、解っていることを紙に写すのではなく、「解らないことが紙の上で解ってくる」「即興」の文章が書ければいいということ

こうした考えが、「当麻」「西行」や「実朝」、ドストエーフスキイをめぐる論考にあらわれていると饗庭はみている。そして、『モオツアルト』も『ゴッホの手紙』も、その延長線上から出てくるとする。

ところで、小林は、昭和21年の5月、母の精子を失っている。
『モオツァルト』の献辞に「母上の霊に捧ぐ」とあるのは、そのためである。
小林は、戦争中に『モオツアルト』を書きはじめたが、一度中断、それを改めて書きなおし、昭和21年の12月、『創元』第1集に発表した。

妹・高見澤潤子の回想(『兄 小林秀雄』)によれば、新稿については「あんな風な調子のものになるとは思ってもみなかった」とのべ、「あの『モオツアルト』の悲しみは、母の死の悲しみから出て来たものだろう」とかたったという。
(高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年)

【高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社はこちらから】

兄 小林秀雄

小林が、この評論のなかで、モーツアルト(饗庭孝男の表記、以下同じ)が友人と父宛に母親の死について書いた手紙にふれ、それをよくモーツアルトにある「転調」とむすびつけ、母親の死から何でもない日常の出来事にモーツアルトが移る条りを書いているあたり、小林自身の体験が重なっていると見られている。

たとえば、次のようにある。
「死んだ許りの母親の死体の傍で、深夜、ただ一人、虚偽の報告と余計なおしやべりを長々と書いてゐるモオツアルトを、僕は努めて想像してみようとする。僕には、彼の裸で孤独な魂が見える様だ。それは、人生の無常迅速よりいつも少しばかり無常迅速でなければならなかつたとでも言ひたげな形をしてゐる」

そして、すぐあとに、スタンダールとアンリ・ゲオンの言う「かなしさ」(tristesse)の例の個所がつづく。
このように、小林の母の死にモーツアルトの母の死が重なり、妹・高見澤潤子の回想にあったように、旧稿とは思ってもみなかった調子(トーン)がうまれたようだ。
この調子がある程度、小林のモーツアルト像の旋律の一つの特色をなしている。

このことは、「感想(一)」のなかで、小林は次のようにのべている。
「母の死は、非常に私の心にこたへた。それに比べると、戦争といふ大事件は、言はば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかつた様に思ふ」
また、『モオツアルト』にたいする母への献辞も、
「極く自然な真面目な気持から」であり、「私は自分の悲しみだけを大事にしていた」と、正直な私情をかたっていることにつながると、饗庭は解説している。
(なお、この「感想(一)」が後のベルクソン論となる発端を示す)

小林が「戦争といふ大事件」よりも「母」の喪失という私情を中心にしたとのべた点に、饗庭は注目している。
江藤淳も「戦後と私」のなかで、「この世の中に私情以上に強烈な感情があるか」とかたっているが、母の死と戦後の「家」の喪失をむすんだ江藤の感性は、ある点で、小林の批評のあり方ともつうじているとする。

小林にとっては、人間の理解について、「私といふ人間を一番理解してゐるのは、母親」であり、それは彼女が彼を一番愛しているからだという(「批評家失格Ⅱ」)。
その母の内面にたち入りながら、「歴史」という大きな「時間」をも、母親にとって死んだ子供への愛情からとらえられるとした解釈に見られる「母」の意味をあらためて想起すれば、『モオツアルト』の「かなしみ」の基底に息づいている「母」の意味の大きさに注目せざるをえないと、饗庭は理解している。

小林は結果として「母」という、隠されたモチーフによってこの評論のリアリティを獲得することができた。『モオツアルト』の主要な主題としての「死」の透明な旋律も、この隠された「母」のモチーフとむすびついている。

饗庭は、小林の『モオツアルト』の根底を支えているのは、小林の三つの体験であるとみている。
①「ト短調シンフォニイ」(K.550)をもって、観念をうちくだかれた体験
 大阪の道頓堀をうろついていた時に、突然、「ト短調シンフォニイ」の有名なテーマが鳴りひびき、「脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動で慄へた」という体験
 観念のいりくんだ透明な世界を一瞬のうちに透明にしてみせた恩寵にも似た体験
②「自然」とともに生に感覚的実存の形(フォルム)を与えられた体験
 昭和17年5月、友人の青山二郎の家で、D調クインテット(K.593)を聞いたとき、モーツアルトの音楽の形(フォルム)が、感覚的実存となり、「自然」と交感しながら、出現し、聴くものの生自体が支えられていると感じた体験
③「母」の死という愛するものの「死」によって見えた生の「かなしみ」(tristesse)を感じた体験

これらの体験について、饗庭は次のように解説している。
「それらのいずれもは日常の時間と観念をつきくずし、一瞬にして生の展望をかい間見せるとともに、生の仮象をとり去りながら、時空をこえる別の宇宙に彼を純化しつつ置き換える体験である」ともいえる。
換言すれば、「全ての意識の下から感覚をとおして出現する、しばしば「突然」に彼をとらえる啓示の体験」とも称している。
いわば、生の「経験」の全的な提示である。この契機によって、小林ははじめてモーツアルトの意味とつかんだとする。

日本における西洋音楽の受容の歴史についても、饗庭は触れている。
日本ではじめてモーツアルトが演奏されたのは、明治20年7月、上野音楽取調掛における「音楽演奏会」で、「交響曲変ホ長調」(K.543)のメヌエットが演奏されたという。また、モーツアルトの音楽史上の位置づけは、森鷗外が「楽塵<西楽と幸田氏>」(明治29年、幸田氏は幸田延子のこと)で記している。

これ以降、モーツアルトの演奏はかなり多くなったが、圧倒的な量を誇っていたのは、ベートーヴェン以降の19世紀音楽であった。
モーツアルトの作品の紹介は昭和を俟たなければならなかったようだ。
(交響曲では、「ト短調」と「ジュピター」が抜きんでて多く演奏されたが、ベートーヴェン以降には及ばなかった)
この事実は、西欧文化にたいする明治・大正にかけての受容の態度と密接にかかわっているといわれる。
たとえば、和辻哲郎が「生は不断の戦いであるゆえに苦患と離れることができない」(「べエトオフエンの面」)とのべ、ベートーヴェンの面をみて、「この顔こそは我らの生の理想である」とした。このように、大正教養主義における、倫理的で理想的な側面を代表する人として、ベートーヴェンを捉え、人格主義と自我昂揚のにない手の一人にベートーヴェンを擬した。
一方、モーツアルトには、ベートーヴェンのような言語的にも自らの思想を開陳し、あるいは主題としてそれを音楽に提示するようなところはない。(いわば、思想の手がかりを与えない音楽そのものの美しさを与えるから)

この点、饗庭は、小林を文学史的に位置づけている。
小林が『白樺』派と武者小路実篤をとおした形で接点をもちながら、その影響少なく他方で、すでに教養主義の末尾に位置してはいたものの、それに深い懐疑を覚えていた芥川龍之介をも否定的媒介としてのりこえようとした。
小林は、そこにおのれの思想的位置を得た。そのことは、小林の前の世代のもつ、観念的で概念的な「近代」理解を否定するところに来ていたことを意味する。
そのことからも、「ト短調」体験における観念否定がうまれ、「D調クインテット」の「自然」との融合と交感があらわれたと、饗庭はみている。
つまり、小林のモーツアルト受容は、日本における「近代」理解の一つの転換を、個人の内部で果たす役割を演じたともいえる。
(単にロマン派批判のみではなかった。これは一つの日本における精神史的文脈[コンテクスト]に属する問題であるという)
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、201頁~211頁)

小林は、『モオツアルト』を書くにあたり、厖大な文献的渉猟をし、できる限りのレコードとスコアに接したといわれる。
小林はスタンダールの『ハイドン、モーツァルト、メタスターシオ伝』、『ロッシーニ伝』、アンリ・ゲオンの『モーツァルトとの散歩』をとりわけよく読みこんだようだ。またゲーテの『エッカーマンとの対話』のモーツァルトについての僅かな言及にも目をとどめている。

小林はスタンダールのモーツアルトに関する論考から、かなりの示唆を受けた。
もともと、ハイドンに関するスタンダールの評論は、ジュゼッペ・カルパーンから、そして『モーツァルト伝』はウインクラーから剽窃に近いものとされる。ただ、その肉付け、構成、そして解釈がスタンダール固有の魅力をもっている。小林も、このことをふまえながら読み、啓示を受けている。

たとえば、スタンダールは「音の組合わせは、一つの感情、一つの想、一つの性格を常に力強く明快に表現する。この、音楽という言語の明晰性に匹敵するものはなにもない」(『ロッシーニ伝』高橋・富永訳)とのべている。
この言葉は、小林に原理的な認識を喚起したようだ。
「音楽家の意識の最重要部は、音で出来上つてゐる」とのべ、「明確な形もなく意味もない音の組合せの上に建てられた音楽といふ建築」と、小林は記している。

それはモーツアルト自身、1777年の父に宛てた手紙にある「言葉でなく音でなら光と影、表情と仕草を表現することができる」とした部分の引用とむすびつく。
(小林は、芸術表現における音楽言語の自立性について言及している)

さらに「『ロッシーニ伝』序論」の「イタリアにおけるモーツァルト」のなかで、この天才が「時として彼の音楽の力は余りに強く、ために、そこに現われてくるイメージもそれと定かに見きわめられぬままに、聴く者の心はその力に突然捉えられ、憂愁の洪水に浸され」るあたりは、ゲオンの「疾走する悲しみ」とあいまって、小林が「突然に」このモーツアルトの根源的なかなしみにとらわれる意味を明らかにしてくれると、饗庭は解釈している。

また、スタンダールが『モーツァルトの生涯』で、モーツアルトの感性と肉体の不均衡をかたっている部分は、小林がいうモーツアルトがつまるところ「音楽という霊」でしかありえないような見方につながっているとする。

そしてこの点は、スタンダールが「モーツァルトの手紙」の最後をしめくくるにあたってのべた「かつてはモーツァルトと呼ばれ、今日イタリア人が『あの怪物じみた才人』と異名を与えているこの驚くべき存在において、肉体の占める部分は能うるかぎり少なかった」という言葉に呼応する。そして、小林も「あたかも、無用なものを何一つ纏はぬ、純潔なモオツアルトの主題の様に鳴」りひびくという。

饗庭は、この点、「実朝」において歌われた「無垢」の旋律と同じだと解している。そして、この『モオツアルト』の主調低音のように、スタンダールの『パルムの僧院』の主人公、ファブリスの「無垢」とも共鳴しあっているともいう。

小林がスタンダールのモーツアルトによせた短文を「洞察と陶酔との不思議な合一を示して、いかにも美しく、この自己告白の達人が書いた一番無意識な告白の傑作」であり、「自分の魂の感ずるまゝに自由に行動して誤たぬ人間、無思想無性格と見えるほど透明な人間の作者」とした理由は、モーツアルトをとおしてスタンダールをみつめ、そこに「実朝」やランボオを透かして、「無垢」と「孤独」の旋律を見ようとした小林の感性の本質的な志向をあらわしていると、饗庭はみている。小林がここに心理分析者としてのスタンダールを見まいとしたのも、うなずける。
(ただ、スタンダールはあくまで感覚の純化と「生きる歓び」をそのイタリアニスムに求めていたのに対し、モーツアルトはフリーメーソンにおける「死」の幸福を最終的に考えていた点がことなると、断っている)

次に、P.J.ジューヴから、小林は次のような影響を受けたという。
たとえば、「彼の聖歌は、不思議な力で僕を頷かせる。それは、彼が登りつめたシナイの山の頂ではない。それはバッハがやつた事だ。モオツアルトといふ或る憐れな男が、紛ふ事ない天上の歌に酔ひ、気を失つて仆れるのである。而も、なんといふ確かさだ、この気を失つた男の音楽は」という条りがある。

これは、ジューヴの次の言葉から換骨奪胎したものであるそうだ。
「モーツァルトは消え失せます。彼は、バッハがシナイ山上のモーゼの頂きまで登りつめたように、彼自身の頂きに達するのではなくして、恍惚のうちに喪神するのです」(高橋英郎訳)

この「喪神」は、モーツアルトの音楽がもつ個人の輪郭のなかに働く音楽そのものの霊によるものであろう。それは小林が考えるモーツアルトの音楽の「確かさ」でもあり、このことは「死」の問題とも通底している。

小林は次のように記す。
「何故、死は最上の友なのか。死が一切の終りである生を抜け出て、彼は、死が生を照し出すもう一つの世界からものを言ふ。こゝで語つてゐるのは、もはやモオツアルトといふ人間ではなく、寧ろ音楽といふ霊ではあるまいか」と。

このように、ジューヴにとって、「死」が「精霊」の働きと見たものを、小林は「音楽といふ霊」としてとらえる。

さらに、小林は、『モオツアルト』の終り近く、その音楽が「罪業の思想に侵されぬ一種の輪廻を告げてゐる様に見える」と書く。
この認識も、ジューヴの幻視(ヴィジョン)の影響がみられるようだ。モーツアルトの天才は、「死の星のもとにある」とのべ、それが生と死の純粋は働きとして、「罪業そのものの上に――信仰に照らし出され、しかも美の黄金律にしたがって、理性的精神を働かせてそびえ立っている」とジューヴは記す。
(ただ、ジューヴの視線にある信仰の光の相が小林にはなく、生の輪廻の相があったというちがいにとどまると、饗庭は補足している)

小林は、モーツアルト論において、スタンダールとジューヴの影響を受けた。
それにもまして、アンリ・ゲオンから多くの啓示と示唆、そして共鳴を受けとっていた。
先述したように、「走る悲しみ」(tristesse allante)について、ゲオンは、「むせび泣きすらが旋律」であり、「初めから終わりまで、純粋な音楽のみがほとばしり、流れている」と、「ト短調」(K.516)のアレグロについてのべている。
小林も、「確かに、モオツアルトのかなしさは疾走する。涙は追ひつかない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる」とする。

この部分が、小林の『モオツアルト』のなかのひとつの頂点をなす「歌」である。ゲオンの旋律を抜きにして、小林の「歌」を聴くことはできないと、饗庭は捉えている。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、212頁~215頁)

小林の『モオツアルト』には、ランゲの肖像にモーツアルトの内面と「ト短調」と重ねて見るような、一種の倫理的で文学的な音楽の聴き方があることも否定できないといわれる。
それは芸術と実生活の完全な分離をモーツアルトに見るような、一種の倫理的で文学的な音楽の聴き方があることも否定できないといわれる。
それは芸術と実生活の完全な分離をモーツアルトに見えるような視線からすれば、「孤独な魂」と「走る悲しみ」の感傷のヴェールを重ねて聴く態度とつながって、不透明な印象を与えかねない部分ともいえる。
(換言すれば、「人間の心理学的な扱いにおいて、詩と真実とをあまり区別しなかったロマン派伝来の天才像」(ヒルデスハイマー[渡辺健訳]『モーツァルト』)の残滓を小林もまた持っていたともいえる)


モーツアルトを「悲劇的、喜劇的側面のすべてを含む生の充実」を描く表現者としても見ることもできる。
それにまたモーツアルトに「孤独な魂」の表現があるというより、モーツアルトにあっては、舞台と観客との意識の「間主観的共同体」の自由な表現があったとする。
(シュッツ[中矢一義訳]「モーツァルトと哲学者」)

ところで、モーツアルトの時代は、なおも「個」と共同体が分ちがたくまじり合っていた時代だった。共同体から、教会から、貴族からの注文がなければ、そして演奏会場での観客や聴衆の意識上の共同体的な参加がなければ、作曲家の「個」などは存在しない時代だった。
この点については、小林はいささかもふれていないと饗庭は批判している。さらに、モーツアルトがフリーメーソンに入って、「死」をも「幸福」と考える程の思考を得たとすれば、それは一に「個」の信仰のレヴェルよりは、フリーメーソンという共同体の信仰のイデ―によっていたともみることができる。

ここで、饗庭は次のような例をあげている。
〇モーツアルトは「夕べの思い」(K.523)の作曲にさいし、「最愛の人」という最初の献辞を後に削除し、「おお、友よ」と変えているが、その「友」とはフリーメーソンの「友」にほかならない。
〇キャサリン・トムソンは『モーツァルトとフリーメイソン』(湯川新・田口孝吉訳)のなかで、モーツアルトが父の死の10日前に完成した「弦楽五重奏曲ト短調」(K.516)についてのゲオルク・クネプラーの解釈を引用している。
それは、「個人の悲しみが集団の調和をうち崩す。一人で悲しみにくれる者は人間社会にいかなる慰めをも見出すことはできない」こと、「最も深い悲しみであろうとも、人間の共同体のなかで克服することができる」とモーツアルトが考えていたという点の強調である。
〇さらに『魔笛』の最終合唱の「アレグロ」8小節がトランペットのファンファーレとともに「人間の友愛」の地上への成就であるとするトムソンの考えも注目に値する。

そうすると、モーツアルトの「突然」の転調も、生の光と影のようにその全的な表現として、たとえ「死」の星の下に人間があろうとも、「悲しみ」と歓びが刻々に織りなす、生の表現であったにちがいない。
そうであれば、さまざまな不安をこえながら、モーツアルトが父に宛てて、「死は、よく考えてみれば、われわれの生存の真なる目的地ですから」とのべていること、友バリザーニの死について「彼にまた相まみえる喜びの日まで」と書いたことも、納得がいくという。
共同体の目にみえぬ「死=幸福」の信条(クレド)に支えられた透明な音楽こそ、モーツアルトの本質であると、饗庭は解説している。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、222頁~224頁)

小林秀雄とドストエーフスキイ


小林秀雄がドストエーフスキイに着目したきっかけの一つに、ジードの『ドストエーフスキイ』があったといわれる。
(小林のドストエーフスキイ研究に大きな示唆を与えたジードの『ドストエーフスキイ』(武者小路実光・小西茂也訳)が出たのが、昭和5年であった)
「私はドストエーフスキイ以上に矛盾や首尾一貫しないことに富む作家を知らない」とジードは記している。

小林はジードの『ドストエーフスキイ』から多くの示唆を受けた。
意識や心理を倫理と不可分なものと見、矛盾と複雑さをそのまま生かし、一見、架空、「荒唐無稽」にみえがちなものをなりたたせる細部の陰翳の表現に忠実なリアリズムをドストエーフスキイに見る点などが挙げられる。
ただ、小林がジードのその書に強いリアリティを覚えたとすれば、それは単にジードの意識にかかわるドストエーフスキイ解釈に共感しただけではないと、饗庭は主張している。
ジードのその解釈自体にうかがわれる西欧小説にたいするジードの反省をとおしての共感であったという。

ここで、饗庭はこの点について解説している。
〇ジードは、バルザックを例にとりながら、西欧の小説の場合には知性と意志を主人公が貫徹する。それに対して、ドストエーフスキイの小説の主人公は知性を放棄し、「個人的意志を棄権し自己放棄によってのみ神の国に入る」という考え方を示している。
〇そして、ここに見られる「知性」と「意志」こそ、少なくとも、ドストエーフスキイに至る小林秀雄のフランス文学体験にもとづく、その批評の要(かなめ)となっていた問題であった。
〇したがって、ドストエーフスキイを読むことは、小林にとって、この二つの問題への反省と検討を迫り、明晰な知性によって解きあかしうる意識の根底に自己放棄によって思いがけない展開をみせるドストエーフスキイの作品の、力動的に息づく不可測な存在の「闇」を凝視することであった。

これがジードに小林が学んだ主要なことであった。

(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、139頁~144頁)

小林がドストエーフスキイと取り組んだ理由


小林は、「Xへの手紙」のなかで、「自己解体」をかたり「ただ明確なのは自分の苦痛だけだ」ということをのべている。
それは時代のなかで、次のこととむすびつくと饗庭はみている。
〇太宰治の「自己喪失」
〇亀井勝一郎の言う「苦痛」による新しい自我の発見
〇保田與重郎の考える「盲目の精神の闇」をとおす自己確認
〇中村光夫の提唱する「自己の内奥の苦痛」の表現の必要

これらとひびきあい通底し、ドストエーフスキイに収斂したようだ。

ドストエーフスキイの文学とその「個」の意識という地下室の「闇」のような「自己」に収斂してゆく有様は、偶然というより、むしろともに時代の暗部に下りたつような必然性を感じさせると、饗庭は捉えている。

ちなみに、蔵原惟人は、昭和3年「プロレタリア・レアリズムへの道」(雑誌『戦旗』)のなかで、ドストエーフスキイの文学を「純粋にブルジョアジーの立場にも立ち得ず、また積極的にプロレタリアートの立場にも移つてゆくことが出来」ない、動揺しつつある、博愛、正義、人道主義的な小ブルジョワ・レアリズムにすぎないと批判している。
(この判断は、宮本顕治「敗北の文学」のなかで、芥川批判と重なっていくことになる)

芥川龍之介が、その詩「手」のなかで、ブルジョワを白い手に、プロレタリアを赤い手に擬し、自らもその「赤い手」に数えながら、「しかし僕はその外にも一本の手を見つめてゐる。/――あの遠国に飢ゑ死にしたドストエフスキイの子供の手を」とした懐疑にゆれうごく。
その人道主義は、宮本、蔵原の否定すべき対象としての意味をもっていた。
ドストエーフスキイも、「自己解体」の「苦痛」に何ほどか見合うべき、自己再検討と再生の象徴として映じていたようだ。

「芥川的なるもの」から「ドストエーフスキイ的なるもの」への転位の過程は、このようにして転向によって明らかな道すじを示した。
亀井勝一郎の転形期の自我の「苦痛」も、保田與重郎の盲目の「闇」も、中村光夫の「苦痛」の認識もいずれもが、ドストエーフスキイに収斂した。そして、それは、太宰治の「自己喪失」の表現としての小説の手法をふくみ、小林秀雄の、明瞭な「苦痛」の自覚をよびさました。
シェストフの「不安」を一つの大きな共鳴盤としながら、ほとんど時代の暗い主調低音となって、あたらしい「自己」凝視とその造型に人々をみちびいたと、饗庭は捉えている。そして、ここにも小林が、自らの希求とともに、時代にうながされて、ドストエーフスキイと取組まざるをえなかった一つの大きな理由があるという。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、136頁~138頁)



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