歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪大学受験の国語の小説問題~石原千秋氏の著作より その2≫

2022-12-19 19:23:47 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪大学受験の国語の小説問題~石原千秋氏の著作より その2≫
(2022年12月19日投稿)

【はじめに】


 前回のブログでは、石原千秋『大学受験のための小説講義』(ちくま新書、2002年[2005年版])の序章を中心に、総論的な部分を紹介した。
 今回のブログでは、次のような大学受験国語の小説問題を実際に解いてみたい。
・過去問④太宰治『故郷』
・過去問⑦志賀直哉『赤西蠣太』
・過去問⑨野上弥生子『茶料理』
・過去問⑭横光利一『春は馬車に乗って』

【石原千秋氏のプロフィール】
・1955年生まれ。成城大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程中退。
・現在、早稲田大学教育・総合科学学術院教授。
・専攻は日本近代文学
・現代思想を武器に文学テクストを分析、時代状況ともリンクさせた斬新な試みを提出する。
・また、「入試国語」を中心に問題提起を行っている。





【石原千秋『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)はこちらから】
石原千秋『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)





〇石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]

【目次】
・はじめに
・序章 小説は何を読むのか、あるいは小説は読めない
・第一部 小説とはどういうものか――センター試験を解く
・第一章 学校空間と小説、あるいは受験小説のルールを暴く
     過去問① 学校空間の掟――山田詠美『眠れる分度器』
・第二章 崩れゆく母、あるいは記号の迷路
     過去問② メタファーを生きる子供――堀辰雄『鼠』
・第三章 物語文、あるいは消去法との闘争
     過去問③ 女は水のように自立する――津島佑子『水辺』
     過去問④ 男は涙をこらえて自立する――太宰治『故郷』

・第二部 物語と小説はどう違うのか――国公立大学二次試験を解く
・第四章 物語を読むこと、あるいは先を急ぐ旅
     過去問⑤ 血統という喜び――津村節子『麦藁帽子』
     過去問⑥ 貧しさは命を奪う――吉村昭『ハタハタ』
     過去問⑦ 気づかない恋――志賀直哉『赤西蠣太』
・第五章 小説的物語を読むこと、あるいは恋は時間を忘れさせる
     過去問⑧ ラブ・ストーリーは突然に――三島由紀夫『白鳥』
     過去問⑨ 恋は遠い日の花火ではない――野上弥生子『茶料理』
・第六章 物語的小説を読むこと、あるいは重なり合う時間
     過去問⑩ 母と同じになる「私」――梅宮創造『児戯録』
     過去問⑪ 父と同じになる「私」――横光利一『夜の靴』
・第七章 小説を読むこと、あるいは時間を止める病
     過去問⑫ 自然の中で生きる「私」――島木健作『ジガ蜂』
     過去問⑬ 人の心を試す病――堀辰雄『菜穂子』
     過去問⑭ いっしょに死んで下さい――横光利一『春は馬車に乗って』

・あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・過去問④太宰治『故郷』
・過去問⑦志賀直哉『赤西蠣太』
・過去問⑨野上弥生子『茶料理』
・過去問⑭横光利一『春は馬車に乗って』







過去問④ 男は涙をこらえて自立する――太宰治『故郷』


 それでは、センター試験を実際に解いてみよう。
・「第三章 物語文、あるいは消去法との闘争」の「過去問④ 男は涙をこらえて自立する――太宰治『故郷』」からである。

・2002年度には、太宰治の『故郷』が来た。
 リアリズム小説から少しだけ離れたここ数年の傾向とは異なって、ごく普通の(だけど、少しだけおしゃべりな)リアリズム小説からの出題である。
そこで、設問も「気持ち」に関するものが例年より多くなった。
受験ではリアリズム小説は「気持ち」が問われるという法則は、間違っていなかったでしょう?、と著者はコメントしている。


過去問④ 男は涙をこらえて自立する

 次の文章は、太宰治の小説「故郷」の一節である。主人公の「私」は、かつてさまざまな問題を起こして父親代わりの長兄の怒りを買い、生家との縁を切られていたが、母親が危篤である旨の知らせを受け、生家の人たちとは初対面の妻子を伴って帰郷した。本文はそこで親族たちと挨拶を交わした後の場面である。これを読んで、後の問い(問1~6)に答えよ。

 私は立って、母のベッドの傍へ行った。他のひとたちも心配そうな顔をして、そっと母の枕頭に集まって来た。
「時々くるしくなるようです。」看護婦は小声でそう説明して、掛蒲団の下に手をいれて母のからだを懸命にさすった。私は枕もとにしゃがんで、どこが苦しいの? と尋ねた。母は、幽かにかぶりを振った。
「がんばって。園子の大きくなるところを見てくれなくちゃ駄目ですよ。」私はてれくさいのを怺(こら)えてそう言った。
 突然、親戚のおばあさんが私の手をとって母の手と握り合わさせた。私は片手ばかりでなく、両方の手で母の冷たい手を包んであたためてやった。親戚のおばあさんは、母の掛蒲団に顔を押しつけて泣いた。叔母も、タカさん(次兄の嫂の名)も泣き出した。私は口を曲げて、こらえた。しばらく、そうしていたが、どうにも我慢出来ず、そっと母の傍から離れて廊下に出た。廊下を歩いて洋室へ行った。洋室は寒く、がらんとしていた。白い壁に、罌粟(けし)の花の油絵と、裸婦の油絵が掛けられている。マントルピイスには、下手な木彫りが一つぽつんと置かれている。ソファには、豹の毛皮が敷かれてある。椅子もテエブルも絨毯も、みんな昔のままであった。A私は洋室をぐるぐると歩きまわり、いま涙を流したらウソだ、いま泣いたらウソだぞ、と自分に言い聞かせて泣くまい泣くまいと努力した。こっそり洋室にのがれて来て、ひとりで泣いて、あっぱれ母親思いの心やさしい息子さん。キザだ。思わせぶりたっぷりじゃないか。そんな安っぽい映画があったぞ。三十四歳にもなって、なんだい、心やさしい修治さんか。甘ったれた芝居はやめろ。いまさら孝行息子でもあるまい。わがまま勝手の検束をやらかしてさ。よせやいだ。泣いたらウソだ。涙はウソだ、と心の中で言いながら懐手して部屋をぐるぐる歩きまわっているのだが、いまにも、嗚咽が出そうになるのだ。私は実に(ア)閉口した。煙草を吸ったり、鼻をかんだり、さまざまな工夫して頑張って、とうとう私は一滴の涙も眼の外にこぼれ落とさなかった。
 日が暮れた。私は母の病室には帰らず、洋室のソファに黙って寝ていた。この離れの洋室は、いまは使用していない様子で、スウィッチをひねっても電気がつかない。B私は寒い暗闇の中にひとりでいた。北さんも中畑さんも、離れのほうへ来なかった。何をしていているのだろう。妻と園子は、母の病室にいるようだ。今夜これから私たちは、どうなるのだろう。はじめの予定では、北さんの意見のとおり、お見舞いしてすぐに金木(かなぎ)を引き上げ、その夜は五所川原(ごしょがわら)の叔母の家へ一泊という事になっていたのだが、こんなに母の容態が悪くては、予定どおりすぐ引き上げるのも、かえって気まずい事になるのではあるまいか。とにかく北さんに逢いたい。北さんは一体どこにいるのだろう。兄さんとの話が、いよいよややこしく、もつれているのではあるまいか。私は居るべき場所も無いような気持ちだった。
 妻が暗い洋室にはいって来た。
「あなた! かぜを引きますよ。」
「園子は?」
「眠りました。」病室の控えの間に寝かせて置いたという。
「大丈夫かね? 寒くないようにして置いたかね?」
「ええ。叔母さんが毛布を持って来て、貸して下さいました。」
「どうだい、みんないいひとだろう。」
「ええ。」けれども、やはり不安の様子であった。「これから私たち、どうなるの?」
「わからん。」
「今夜は、どこへ泊るの?」
「そんな事、僕に聞いたって仕様が無いよ。いっさい、北さんの指図にしたがわなくちゃいけないんだ。十年来、そんな習慣になっているんだ。北さんを無視して直接、兄さんに話し掛けたりすると、騒動になってしまうんだ。そういう事になっているんだよ。わからんかね。僕には今、なんの権利も無いんだ。トランク一つ、持って来る事さえできないんだからね。」
「なんだか、ちょっと北さんを恨んでるみたいね。」
「ばか。北さんの好意は、身にしみて、わかっているさ。けれども、北さんが間にはいっているので、僕と兄さんとの仲も、妙にややこしくなっているようなところもあるんだ。どこまでも北さんのお顔を立てなければならないし、わるい人はひとりもいないんだし――」
「本当にねえ。」妻にも少しわかって来たようであった。「北さんが、せっかく連れて来て下さるというのに、おことわりするのも悪いと思って、私や園子までお供して来て、それで北さんにご迷惑がかかったのでは、私だって困るわ。」
「それもそうだ。うっかりひとの世話なんか、するもんじゃないね。僕という(イ)難物の存在がいけないんだ。全くこんどは北さんもお気の毒だったよ。わざわざこんな遠方へやって来て、僕たちからも、また、兄さんたちからも、そんなに有り難がられないと来ちゃ、さんざんだ。僕たちだけでも、ここはなんとかして、北さんのお顔を立つように一工夫しなければならぬところなんだろうけれど、あいにく、そんな力はねえや。下手に出しゃばったら、滅茶滅茶だ。まあ、しばらくこうして、まごまごしているんだね。お前は病室へ行って、母の足でもさすっていなさい。おふくろの病気、ただ、それだけを考えていればいいんだ。」
 C妻は、でも、すぐには立ち去ろうとしなかった。暗闇の中に、うなだれて立っている。こんな暗いところに二人いるのを、ひとに見られたら、はなはだ(ウ)具合がわるいと思ったので私はソファから身を起こして、廊下へ出た。寒気がきびしい。ここは本州の北端だ。廊下のガラス戸越しに、空を眺めても、星一つ無かった。ただ、ものものしく暗い。私は無性に仕事をしたくなった。なんのわけだかわからない。よし、やろう。一途に、そんな気持ちだった。
 嫂が私たちをさがしに来た。
「まあこんなところに!」明るい驚きの声を挙げて、「ごはんですよ。美知子さんも、一緒にどうぞ。」嫂はもう、私たちに対して何の警戒心も抱いていない様子だった。私にはそれが、ひどくたのもしく思われた。なんでもこの人に相談したら、間違いが無いのではあるまいかと思った。
 母屋の仏間に案内された。床の間を背にして、五所川原の先生(叔母の養子)それから北さん、中畑さん、それに向かい合って、長兄、次兄、私、美知子と七人だけの座席が設けられていた。
「速達が行きちがいになりまして。」私は次兄の顔を見るなり、思わずそれを言ってしまった。次兄は、ちょっと首肯いた。
 北さんは元気が無かった。浮かぬ顔をしていた。酒席にあっては、いつも賑やかな人であるだけに、その夜の浮かぬ顔つきは目立った。やっぱり何かあったのだな、と私は確信した。
 それでも、五所川原の先生が、少し酔ってはしゃいでくれたので、座敷は割に陽気だった。私は腕をのばして、長兄にも次兄にもお酌をした。私が兄たちに許されているのか、いないのか、もうそんな事は考えまいと思った。私は一生ゆるされる筈はないのだし、また許してもらおうなんて、虫のいい甘ったれた考えかたは捨てる事だ。D結局は私が、兄たちを愛しているか愛していないか、問題はそこだ。愛する者は、さいわいなる哉。私が兄たちを愛して居ればいいのだ。みれんがましい欲の深い考えかたは捨てる事だ、などと私は独酌で大いに飲みながら、たわいない自問自答をつづけていた。

(注)
1 マントルピイス ――暖炉の上に設けた飾り棚
2 検束をやらかして――一時警察に留置されたこと。
3 北さんも中畑さんも――ともに「私」の亡き父に信頼された人物で、以前から「私」と生家との間を取り持っていた。この帰郷も、長兄の許可を得ないまま、北さんが主導して実現させた。
4 速達――「私」が郷里に向かった後で次兄が投じた、「私」を呼び寄せる急ぎの手紙のこと。

問1 傍線部(ア)~(ウ)の語句の本文中の意味として最も適当なものを、次の各群の①~⑤のうちから、それぞれ一つずつ選べ。
(ア)閉口した ①悩み抜いた ②がっかりした ③押し黙った ④考えあぐねた ⑤困りはてた

(イ)難物 ①理解しがたい人 ②頭のかたい人 ③心のせまい人 ④扱いにくい人 ⑤気のおけない人

(ウ)具合がわるい ①不都合だ ②不自然だ ③不出来だ ④不適切だ ⑤不本意だ


問2 傍線部A「私は洋室をぐるぐると歩きまわり、いま涙を流したらウソだ、いま泣いたらウソだぞ、と自分に言い聞かせて泣くまい泣くまいと努力した」とあるが、「私」がそうしたのはなぜか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
①あたたかく自分を迎えようとしている人々の懐に飛び込んでいきたいという思いと弱みを見せたくないという思いとが、胸のうちに同時にわきあがり、互いに争っているから。
②母親に対して素直な気持ちになれなくなっているにもかかわらず、まわりの雰囲気に流されて、ここで悲しむ様子を見せては人々を欺くことになると考えているから。
③立場上ほかの親族と同じようにふるまうのがはばかられるとともに、人目を忍んで泣くというありきたりな感情の表現の仕方をすることに恥じらいを覚えているから。
④母親に対しては子どものころと変わらない親密な感情を取り戻しながらも、和解を演出しようとする周囲の人々の思惑には反発を感じているから。
⑤過去の自分とは異なる人間的に成長した姿を見せようと意気込んでいたのに、あっさりと周囲の人々の情にほだされてしまったことに自己嫌悪を感じているから。

問3 傍線部B「私は寒い暗闇の中にひとりでいた」とあるが、この時の「私」の心情の説明として適当でないものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

①北さんと中畑さんがなかなか離れに来ないことが気になり、もしかしたら長兄と悶着を起こしているのかもしれないと考え、やはり帰郷などすべきでなかったのではないかという思いにかられている。
②母親の病気にかこつけて突然やって来た自分たち夫婦を、長兄らがどのような思いで迎え入れてくれるのかがまだ十分には予測しがたく、どこでどうふるまったらよいのか判断に窮して戸惑いを覚えている。
③とりあえず母親との対面をはたすことができて一段落は着いたものの、案じていた母親の容態が予想以上に悪く、北さんとたてた当初の計画にも支障が出そうで不安を感じている。
④母親の病状は気がかりなのだが、長年生家をないがしろにして自由気ままにふるまってきた自分にそのような心配をする資格があるのかと自問し、昔の過ちに振りまわされる人生の不可解さを実感している。
⑤親族たちが集まっている部屋から離れて誰もいない空間に閉じこもることによって、動揺する心を静めるとともに、さまざまな人に迷惑をかけ続けてきたみずからの過去や現在に思いをめぐらせている。

問4 傍線部C「妻は、でも、すぐには立ち去ろうとしなかった」とあるが、この時の「妻」の心情の説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
①旧家の嫁でありながら今回初めて帰郷するという不義理を重ねてきたので、夫の生家は必ずしも居心地のよいものではなく、皆の前で健気にふるまってよいものかどうかためらっている。
②夫の単なる強がりを言っているのに過ぎないことに初めから気づいていたため、なかなか素直にその言葉どおりにふるまう気にはなれず、早くこの地を去りたいと考えている。
③北さんと長兄との間に立たされて苦悩している夫のことが心配でならず、何とかしなければならないことはよく理解しているのだが、嫁という立場から積極的な行動は慎もうとしている。
④夫の言うこともわかるのだが、郷里における自分たち二人の微妙な立場を考えるとまだ十分には心細さをぬぐい去ることができず、進んで夫の生家の人たちと交わる勇気を持てないでいる。
⑤子供が眠ってしまって夫と二人きりになってしまうと不安はいっそう募るばかりなのだが、夫はただ姑の心配をするばかりで少しも自分をかまってくれず、どこか納得できないでいる。

問5 傍線部D「結局は私が、兄たちを愛しているか愛していないか、問題はそこだ」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
①兄たちが許してくれるかどうかに気を使うよりも、自分が兄たちに対して深い愛情を持つ姿勢を貫くことが何より大切であるということ。
②兄たちとのいざこざを根本的に解決するためには、いかに自分が兄たちを愛しているかということを正確に伝える必要があるということ。
③もし自分が兄たちを愛することができると確信を持てたら、頭を悩ませている数々の問題も一気に解決するはずだということ。
④生家の人々が最終的に問いかけてくるのは、自分が口先でどう言うかということよりも、兄たちに愛情を抱いているかいないかだということ。
⑤兄たちを愛しているかどうか自分でもわからず、どうふるまえばよいか戸惑っていることが、さらに事態を複雑にしている要因だということ。

問6 本文の内容と表現の特徴の説明として適当なものを、次の①~⑥のうちから二つ選べ。ただし、解答の順序は問わない。
①思わぬ出来事によって必ずしも居心地のよくない場所に置かれてしまった主人公夫婦の心の結びつきの強さが、二人の会話に主眼を置いたやや饒舌な文体で、共感を込めて描き出されている。
②複雑な人間関係の中でうまくふるまえない主人公の弱く繊細な心の動きが、一人称を基本としながら自分を冷静に見つめる視点を交えた語り口で、たくみに描き出されている。
③重病に陥った母親の枕もとで繰り広げられる主人公と彼の兄たちとの秘められた微妙な確執が、登場人物相互の内面にも自在に入り込んでいく多元的な視点から、私情を交えず描き出されている。
④立場の異なる人々の間に生じる避けがたい摩擦と、それを大きく包み込むような愛情のあり方が、主人公を中心とした人間群像の中から浮き彫りになるように描き出されている。
⑤母親の病気で帰郷することになった主人公夫婦の、これを契機として何とか兄たちとの関係を改善したいという切実な思いが、微妙に揺れ動く心理を含めて丹念に描き出されている。
⑥久方ぶりの帰郷で顔を合わせた親族に気兼ねしつつも、それでも甘えを捨てきれない主人公の内面が、人間の細やかな心の移ろいに焦点を定めた明晰な文章で描き出されている。
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、141頁~151頁)



<解答と解説>
問1 例の意味を聞く設問である。
(ア)閉口した ⑤困りはてた
  どうってことなく⑤が選べただろう。
(イ)難物  文脈上の意味と「字義通りの意味」とを合わせて聞く設問で、「本文中の意味として」という注意が生かされている。
文脈上は、①「理解しがたい人」でもいいような感じがするが、ここは「難物」の「字義通りの意味」を掛け合わせて、④扱いにくい人を選ぶ。
(ウ)具合がわるい 
 著者の理解では、こういう微妙な状況で、「私」とその妻とがこそこそ会話を交わしているような「不自然」なことをするのは「不適切」だから、そういう風に見られることは自分としては「不本意」であり、久しぶりに帰郷した不肖の息子としてもまったく「不出来」なことになってしまうから、総合的に考えるに、見られるのは「不都合」である、ということになる。
 正解は①不都合だ

問2 消去法では、次のようになる。
①は、「あたたかく自分を迎えようとしている人々」が間違い。
 「私」にはまだそういう確信はない。
②は、「母親に対して素直な気持ちになれなくなっている」が間違い。
素直になりすぎて涙が出そうなのだ。
④は、「反発を感じているから」が間違い。
 「困惑」はしているが、「反発」はしていない。
⑤は、全体にあまりにもへんてこりんだが、とくに前半が本文とは無関係。
こんなことはどこにも書いていない。
 消去法で、③が残る。

※また、「男泣きの文学史」を踏まえた枠組から読めば、③が正解であることが、ごく自然に見えてくるという。
 古典に出てくる男はよく泣くのに、泣くと男らしくないということになったのは近代になってからではないか、と丸谷才一(高名な文芸評論家)は書いた。
 丸谷の言うように、『平家物語』などは男泣きの文学とでも言いたくなるし、そのほかの古典の物語にも男泣きは多い。
 ところが、明治以降の文学では男泣きは「なんかヘン」という感じで書かれることが多いそうだ。
 問2の傍線部も、こういうコンテクスト(時代状況)の中で読まれるべきだ、と著者はいう。

 この時代には、男が人前で泣くことは男らしくない。だから男が泣くときは人目を忍んで泣くものだ、という一般的な型が出来上がってしまっていた。
 それは「安っぽい映画」(17行目)にもあるくらいだと、「私」も認識している。
 そこで、「私」は自分の純粋な母親への情愛を、そんな「安っぽい映画」の一場面みたいな形を真似ることで汚したくないと思っている。
 また、自分のこれまでしてきたことは、いまさらそういう「安っぽい」孝行息子を演じて許されるほど生やさしいものではないとも思っている。
 その上で「私」が涙をこらえることは、「私」が「孝行息子」ではなく、一人の自立した「男」として生きるきっかけにもなることが、「男泣きの文学史」を知っている人にはわかる、という。 
(近代以降は涙をこらえることが「男らしい」ことなのだから)
⇒こうした「男泣きの文学史」を踏まえた枠組みから読めば、正解が③であるとする。

問3 この設問は、「私」の「気持ち」の説明として、「適当でないもの」を選べという。
 このことは、一つの事態に複数の「気持ち」が起き得ると出題者が理解していることを示している。
 だからこそ、作者はそういうことをいちいち書かずに、「私は寒い暗闇の中にひとりでいた」とだけ書くのである。
 あとは、「気持ち」を読者が作ることになる。
 ただし、選択肢は、「気持ち」の説明というよりも、ほとんどこの時「私」の置かれていた状況の説明に費やされている。
「気持ち」を問う設問の多くが、実はその時の状況に関する情報処理問題になっている(受験小説の法則④)

 選択肢の作りは、意外と単純であるそうだ。
 ④と⑤の後半がよく似ていて、「適当でないもの」はこのどちらかだと予測がつくという。
 (受験小説の法則⑤)⇒どちらかが、情報処理として欠陥があることになる。
 そういう目で見ると、④の「人生の不可解さを実感している」という部分が、かなり実存的なことにまで踏み込んでしまっていて、フライング気味であることがわかる、とする。
 だから「適当でないもの」は④である。
 ④と⑤との後半を比較すると、⑤の方が曖昧な記述になっている。 
(ここでも、文脈に見合ったものは曖昧な記述の方だという法則③が生きているという)

問4 
 「私」の妻の気持ちなどわかるはずもない、と著者は断っている。
 「私」とはちがって、妻についてはほとんどなにも情報がないのだからという。
 そこで、問4では妻の「気持ち」を作ることになる。
 基準は物語文しかない、とする。
 『故郷』の物語文は「「私」が家族へ愛情を確かめる物語」である。
 こういう家族愛の物語には、健気(けなげ)な妻だけがふさわしい。
 ①のように、「夫の生家は必ずしも居心地のよいものではなく」といった我慢の出来ない性格では「旧家」の妻は務まらない。
②のように、「夫の単なる強がりを言っているのに過ぎないことに初めから気づいていた」ような賢(さか)しらな妻ではまずい。「早くこの地を去りたいと考えている」といった身勝手でも困る。
また、⑤のように、「夫はただ姑の心配をするばかりで少しも自分をかまってくれず」といった甘えん坊の妻では品位がない、と著者はいう。
⇒これらの否定的な事柄が書き込まれている選択肢は、家族愛の物語にふさわしくない健気な妻ではないというだけの理由で、一気に排除することが出来るとする(法則②)。
〇物語文の枠組から読むことだけが、選択肢の絞り込みを可能にする。
(妻の心理なんてわかりっこないのだから)
〇その上に、これらは学校空間にふさわしくない妻像なのである。
 「道徳的な枠組から読むこと」という学校空間に隠されたルールが、ここには働いているという(法則①)
※記号問題では「気持ち」は出題者が作る以上、出題者の思想がはっきり表れる。
 だから、「気持ち」を問う選択肢には隠されたルールが働きやすい。
 すなわち、学校空間の「気持ち」は「道徳」によって作られる。
 これらの選択肢を「正解」ではなく(いま時の「妻」たちなら、まったく普通の感じ方だろうに)、ダミーとして作ってしまったところに、出題者の思想の度合いが透けて見えるという。
(「なんと古くさい家族道徳観から作られた選択肢たちよ!」と著者は評している)

・残るは③と④である。ふたつとも、後半がよく似ている。
 過去問問題集の多くは、③の「北さんと長兄との間に立たされて苦悩している夫のことが心配でならず」の部分を間違いとする。理由は、この時の妻の「心配事」は自分たちがこの後どうなるかであって、それとは食い違うからという。
 著者は、例の法則を使って、解説している。
 つまり、「正解」は曖昧な記述の方だ、という法則③である。
 ③の「嫁という立場から積極的な行動は慎もうとしている」という記述と、④の「進んで夫の生家の人たちと交わる勇気を持てないでいる」という記述では、どちらが曖昧か。
 ⇒③は妻がもうこれっきり動かない感じがするが、④の方は曖昧な分、含みを残している。
 「正解」は④を選ぶしかないとする。

問5 まず、消去法で、消せるものは消す。
 ④の「生家の人々が最終的に問いかけてくるのは」は本文にそういう記述はない。
 ⑤の「兄たちを愛しているかどうか自分でもわからず」が本文とはまったく逆である。
 この二つを消去法で消すことができる。
 次に、「愛は「無償の愛」でなければならない」という学校空間に隠されたルール(つまり道徳的)から外れるものを排除する(法則①)
 ②の「根本的に解決するためには」と、③の「頭を悩ませている数々の問題も一気に解決するはず」という部分が、「解決のための愛」という功利主義の臭いがする、という。
 そこで、この二つは排除できる。
 最後の残ったのは、①だけである。
 その内容を確認すると、特に本文と矛盾するところはないことがわかる。
 ただ、①は何を言いたいのか、わからないほどぼんやりした記述の選択肢である。 
 ここでも、例のルールを思い出そう。
 「正解は曖昧な記述の中に隠れている」(法則③)

問6 残念ながら特効薬はないという。消去法でやっていくしかない。
 ①は、「主人公夫婦の心の結びつきの強さが、二人の会話に主眼を置いたやや饒舌な文体で」がおかしい。
 『故郷』は「「私」が家族への愛情を確かめる物語」(この場合の家族は実家のこと)だから、「夫婦の心の結びつき」が中心的なテーマではない。「やや饒舌」ではあるけれど、「会話に主眼を置いた」「文体」でもない。
 ②は特に問題となるところはない。
 「自分を冷静に見つめる視点」とは、たとえば「安っぽい映画」と同じになってしまわないように、涙をこらえる場面のことを言っている。
 ③は、「秘められた微妙な確執」がヘン。
 兄弟の「確執」は秘められてはいない。みんなが知っていることである。
 ④は、後半がヘン。
 「大きく包み込むような愛情のあり方」は「主人公を中心とした人間群像の中から浮き彫りに」なったりはしていない。
 ⑤はとくに問題を感じない。
 ⑥は、本文に「虫のいい甘ったれた考えかたは捨てる事だ」(77~78行目)とある以上、「それでも甘えを捨てきれない主人公」がおかしい。
 だから、「正解」は②と⑤である。
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、151頁~164頁)

【補足】
〇You Tubeの「個別クロス」の「【小説13】2002年 センター現代文小説」(2019年9月10日付)でも、この問題を解説している。
 本文を読む前に設問分析をすること、本文を区切りながら読むことなど、実践的なアドバイスをしている。
 くわえて、解き方としては、「アクション⇒心情⇒リアクション」といった図式で解説していて、わかりやすい。


過去問⑦ 気づかない恋――志賀直哉『赤西蠣太』


・「第四章 物語を読むこと、あるいは先を急ぐ旅」の「過去問⑦ 気づかない恋――志賀直哉『赤西蠣太』」より、信州大学(2001年度)の問題を解いてみよう。

〇作中の出来事は深刻だけれども、書き方が深刻でなくユーモアを十分味わえる物語。
 出題は信州大学(2001年度)、出典は志賀直哉『赤西蠣太』から。
 いわゆる伊達騒動に取材した時代小説と言うべき作品。
 国公立大学二次試験としては、素直な設問でやさしい方だという。
 

過去問⑦ 気づかない恋――志賀直哉『赤西蠣太』
 次の文章は志賀直哉「赤西蠣太(かきた)」の一節である。この文章を読んで、あとの問いに答えなさい。
 なお、登場人物の蠣太は内情を探るために、不忠を計る敵側に偽って奉公している侍であり、鱒次郎も同様の使命を持っている仲間である。この場面では、蠣太は内情の偵察を切り上げて本来の主人の所に戻りたいのであるが、どうやったら疑われずに屋敷を離れることができるかと、二人で話し合っている。

 蠣太は黙って弁当を食っている。鱒次郎は肴(さかな)をつまんだり酒を飲んだり、A時々広々とした景色を眺めたりしながら、やはり考えていた。
「どうだい。」鱒次郎は不意にひざをたたいて乗り気な調子で言いだした。「だれかに付け文をするのだ。いいかね。なんでもなるべく美しい、そして気位の高い女がいい、それにきみが艶書(えんしょ)を送るのだ。すると気の毒だがきみはひじ鉄砲を食わされる。みんなの物笑いの種になる。面目玉を踏みつぶすからきみも屋敷にはいたたまらない。夜逃げをする。――それでいいじゃないか。きみの顔でやればそれにまちがいなく成功する。この考えはどうだい。だれか相手があるだろう、腰元あたりに。年のいったやつはだめだよ。年のいったやつには恥知らずの物好きなのがあるものだから、そういうやつにあったら失敗する。なんでも若いきれいごとの好きなやつでなければいけない。」
 蠣太は乱暴なことを言うやつだと思った。しかし腹もたたなかった。そして気のない調子で、
「泥棒するよりはましかもしれない。」と答えた。
「ましかもどころか、こんなうまい考えはほかにはないよ。そうしてだれか心当たりの女はないかね。日ごろそういうことには疎い男だが……。」
 蠣太は返事をしなかった。
「若い連中のよくうわさに出る女があるだろう。」
「小江(さざえ)という大変美しい腰元がある。」
「小江か、小江に目をつけたところはきみも案外疎いほうではないな。そうか。B小江ならますます成功疑いなくなった。」
 蠣太はこれまで小江に対し恋するような気持ちをもったことはなかった。しかしその美しさはよく知っていた。そしてその美しさは清い美しさだということもよく知っていた。今その人に自分が艶書を送るということは、Cある他のまじめな動機をもってする一つの手段にしろ、あまりに不調和な、恐ろしいことのような気がした。
「小江ではなくだれかほかの腰元にしよう。」
「いかんいかん。そんな色気を出しちゃ、いかん。」こう言った鱒次郎にも今は冗談の調子はなくなっていた。D色気という意味はどういうことかよくわからなかったが、蠣太はどうしても小江にそういう手紙を出すことはいかにも不調和なことでかつ完(まった)き物にしみをつけるような気がして気が進まなかった。しかしもし鱒次郎のいう成功に、若い美しい人がどうしても必要だとすると小江以外に蠣太の頭にはそういう女が浮かんでこなかった。そこで彼は観念して小江を相手にすることを承知した。
「それなら艶書の下書きをしてくれ。」と蠣太が言った。
「それは自分で書かなくてはだめだ。おれが書けばおれの艶書ができてしまう。なにしろ相手が小江だから、おれが書くと気が入りすぎて、ころりとむこうをまいらすようなことになるかもしれないよ。」
 蠣太は苦笑した。そしてE鱒次郎が書くより、まだ自分の書くほうが小江を汚さずに済ませるだろうと思った。
 F風が出てきたので二人は舟を返した。仙台屋敷はちょうど帰り道だったから蠣太は鱒次郎のところへ寄った。G二人は久しぶりで将棋の勝負を争った。

問一 傍線部A「時々広々とした景色を眺めたりしながら」とか、傍線部F「風が出てきたので二人は舟を返した。」とあるようにこの場面は釣りに出た水上での場面である。なぜ、二人は釣りに出たのかその理由を説明しなさい。

問二 傍線部B「小江ならますます成功疑いなくなった。」とあるが、なぜ鱒次郎が「成功疑いなくなった。」と考えたのか説明しなさい。

問三 傍線部C「ある他のまじめな動機」とはなにを指しているのか説明しなさい。
問四 傍線部D「色気という意味はどういうことかよくわからなかった」とあるが、鱒次郎はどういう意味で「色気」といっているのか、説明しなさい。
問五 傍線部E「鱒次郎が書くより、まだ自分の書くほうが小江を汚さずに済ませるだろ
うと思った。」とあるが、なぜ蠣太がこう思ったのか説明しなさい。
問六 傍線部G「二人は久しぶりで将棋の勝負を争った」とあるが、この一文によって二人のどういう心理が表現されることになるのか説明しなさい。
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、213頁~217頁)



<解答と解説>
・『赤西蠣太』は恋が始まったその時を実に上手く捉えている。
 しかも、主な登場人物の名前を魚介類の名で統一するなど、適度ないたずらも仕掛けてあって、あの忘れられそうな小さな日常の出来事を丹念に書き込んだ私(わたくし)小説作家とは思えない、例の「小説の神様」(志賀の作品『小僧の神様』をもじったもの)と呼ばれた志賀直哉の面目躍如たる一作である。
 設問はこの場面のポイントを過不足なく掬い取っている。
(信州大学はいつもいい感じの小説問題を出す、と著者は評している。出題者の中に小説読みの名手がいるのだろう、と賞賛している。)

問一 簡単な問いである。
 「屋敷の者に聞かれる心配もなく、密談が出来るから。」
 ちなみに、夏目漱石の『坊っちゃん』でも、新米教師の<坊っちゃん>を味方に引き入れるために赤シャツ一派のやったことは、<坊っちゃん>を釣りに誘うことだった。


問二 ここで言う「成功」とは、蠣太が屋敷に仕える女性に「艶書」(ラブレターである)を送って、みごと振られることを言っている。
 「小江という大変美しい腰元」(16行目)と、「きみの顔でやれば」(6行目)と鱒次郎に言われてしまう蠣太とでは釣り合いがとれないこと甚だしいから、「成功疑いなくなった」のである。
 「大変美しい小江なら、ぶ男の蠣太を振ることは間違いないと思われたから。」

問三 ここは前説を最大限に利用する。
 「不忠を計る敵側の内情を偵察し終えたので、報告に戻るために、疑われずに敵の屋敷から夜逃げをする口実を作ること。」
 自分の口から出た名前とは言え、美しく清い小江を謀(はかりごと)の口実に利用することの後ろめたさが「恋」に変わっていくことに、蠣太自身はまだ気づいていない。
 「蠣太はこれまで小江に対し恋するような気持ちをもったことはなかった」(19行目)とあるので、かえって読者にはこれが恋のはじまりだということも、蠣太がそれに気づいていないことも、はっきりとわかる。
 
問四 何かをやろうとしている人に、「そんなに色気を出しちゃあ、うまくいかないよ」とでも言えば、「期待以上にみごとにやろうとすると、失敗するよ」という意味になる。ここも同様。
 鱒次郎は蠣太がほんとうに腰元をモノにしようとしていると思ったのだ。
 「振られることが目的なのに、蠣太が振られそうもない女性を選んでしまうこと。」

問五 ここは「恋をしたから」と答えてしまってはまずい。
 「小江に艶書を送るのは謀のためにすぎないが、あの美しく清い小江に他人の書いた艶書を送るのは、同じ小江の心を踏みにじるにしても、あまりにも誠実さに欠けると思ったから。」
 いかにも道徳的に結構な答案であるという(法則①)

問六 「どういう心理が表現されることになるのか」という冷めた聞き方が、いい、と著者は評している。
 ふつうなら「どういう心理が表現されているか」と聞いてしまうところ。
(小説の表現に対するこうした意識の高さが、質の高い問題を生むのだろうという)
 ポイントは、傍線部の「久しぶりで」という一語である。
 敵方の屋敷に住み込んで心の安まらない日々を過ごしていただろう二人が、「久ぶりで」ゆとりのある時間を過ごしたのである。
 でも「心にゆとりが生まれたから」だけではほとんど点が出ないだろうという。
 「無事に夜逃げが出来そうな方法を思いついたので、後は実行あるのみという心のゆとり。」
<ポイント>
※こういう「気持ち」を問う設問には、傍線部の前後(本文全体を押さえる必要がある場合もあるが)の状況をまとめた情報処理で字数を稼ぐという、法則④を思い出すこと。
 (これは、是非覚えておいてほしいという)
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、217頁~220頁)

過去問⑨ 恋は遠い日の花火ではない――野上弥生子『茶料理』


・第五章 小説的物語を読むこと、あるいは恋は時間を忘れさせる
     過去問⑨ 恋は遠い日の花火ではない――野上弥生子『茶料理』
〇広島大学(2001年度)の問題
 出典は野上弥生子『茶料理』による。
 こういう抑制の利いた会話は、年の若い君たちにはちょっとまどろっこしく感じられるかもしれない。
 でも、国公立大学二次試験ではこういう古風な文章からの出題が主流なのだから、こういう「恋」を知っておくのもいいことだ、と著者はいう。

 次の文章は、野上弥生子の「茶料理」の一部である。中心人物である建築家の依田と、学生時代に下宿した家の娘であった久子とは、互いに淡い恋心を抱いていた。十年以上の後、二人は上野東照宮下の茶料理屋で再会した。久子は、自分の友人つね子と妻のある画家Hとの実らざる恋のことを話題にする。これを読んで、後の問いに答えよ。

 Hがフランスへ行ったのはその後間もなくであった。一、二年の間は、時々思わせぶりな葉書などを寄越した。つね子は一度も返事を書かなかった。彼の不幸な妻のことを考えた。思いきらなければならないのだと思った。その決心は、自分の心がどんなに強く彼に結びつけられているかをいよいよはっきり思い知らせただけだった。ある場合、つね子は①犯さぬ罪を惜しんだ。それがためには一生を日陰の身で終わったとしても満足であろう。Hが想像以上の女たらしであったのを知ったあとでさえ、思慕は減じなかった。つね子はすべての縁談を、嫌悪からでない場合も②潔癖から断った。その秘密な火が消えない以上、どんな仕合わせな結婚にも近づく権利はないのだと信じた。実際、一切の幸運と、取り返しのつかない若さが、そのあいだに彼女を見捨てた。今はただ音信さえ絶えたHの帰りを待つこと、もう一度――死の瞬間でもいいから彼に逢おうと思うことの外には、地上の望みはなかった。巴里(パリ)からのHの訃音(ふいん)は、彼女の生きる目標を突然奪ったものであった。
 その死が新聞で公にされた明けの日、つね子は久子をたずねて来て、はじめて打ち明け話をした。考えてみると、Hと知り合いになった当座の一と月は、楽しいよりは苦しさと恐ろしさが先に立った。ほんとうの夢見ごこちで、なにもかも忘れ尽くした恍惚状態になれたのは、二人で郊外の停車場におちあい、まわりの田舎道を散歩した間の一時間半であった。その一時間半のために彼女の心は十三年間彼にしばりつけられ、悩みとおして来たのだといって泣いた。――
「もし望みどおりHさんに逢えたら、おつうさんにはたった一と言ぜひいいたいことがあったのですって。」
「どういうことです。」
「あなたにはほんの気まぐれに過ぎなかったことが、わたしの一生を支配しました。」
 以上の言葉をわざと無技巧に、女生徒の暗誦みたいにつづけた久子を、③依田は愕然とした、しかしすぐ落ちつきを取りかえした、厳粛な表情で見詰め、自制の調子で、口を開いた。
「久子さん、ついでにあなたの一言を聞かせて頂きましょうか。」
④「――」
「あなたはつね子さんじゃありません。決して、そんな不仕合わせな人といっしょにして考うべきではない。あなたは立派なご主人があり、世の中の誰よりも幸福に暮らしていらっしゃるのだと信じたい。実際、僕はそう信じています。しかし、昔の――あの当時の僕の意気地なさは、あなたにどんなに責められても、侮辱されてもいいはずです。だから――」
「侮辱されるならわたしの方ですわ。」
 久子はあわただしく遮りながら、「あれから二年とたたないうちに、わたしは平気で、いいえ、
従弟との面倒がなくなるので、大悦びで今の夫と結婚したのですもの。」
「そんなことをいえば誰でも同罪ですよ。今朝の電話の声を聞くまで、あなたのことなぞ僕は思い出しもしないで暮らして来られた。」
「じゃ、わたしの方が、それでもいくらか情があったわけね。」
 短い、回顧的な沈黙をうけて久子はしずかに言葉をついだ。「どうかするとあなたのことを思い出しましたもの。いつだかわからない、この世でか、また先の世でか、それもわからないが、今日のようにお目にかかって、昔話をする日がきっとありそうに思えましたわ。その時いおうと思ったのは、もちろんつね子さんのいいたかったこととは別ですし、もっと短い、それこそ一と言で尽きることなの。――あの時は有り難うございました。」
⑤「――」
「それだけ、――だって。内輪のごたごたや、従弟とのいやな結婚問題で真っ暗になっていたあの頃のわたしの気持ちでは、相手次第でどんな無茶もやり兼ねなかったのですもの。――逃げろといえば一しょに逃げたかも知れませんわ。死ぬといえば死んだかもしれませんわ。でも、あなただからこそ、その怖ろしい瀬戸も無事に通り抜けさして下すったのだと、しみじみ思ってますわ。」
「しかし、僕はあなたがそんなに苦しんでいたなんてことは夢にも知らなかったから、ただ幸福な、忌憚なくいえば、――」
 久子の眼にはじめて二滴の涙をみとめた依田は、わざと誇張した快活さでつけ加えた。
「どうも、恐ろしくわがままなお嬢さんだと思ってただけです。」
 効果はあった。久子の涙はその言葉ですぐかすかな微笑に変わった。
「ことにあなたにはね。どうせついでだから謝りましょうか。」
「それには少し遅すぎたようだ。」
「お気の毒さま。」
 二人ははじめて口に上ったじょうだんを、あまり年寄りすぎもしなければ、またあまり若すぎもしない、ちょうど彼らの年配に似合ったおちつきと平静さとでいいあい、そういう間柄の男女だけで笑える笑い方で笑った。親しみにまじる淡い寂しさと渋みにおいて、それはなんとなしに、かれらが今そこで味わっている料理の味に似ていた。
 一時間の後、依田は久子を見送るために広小路のガレジの前に立っていた。久子はもう車に乗っていた。エンジンの工合が悪いらしく急に出なかった。運転手は一旦握ったハンドルを離して飛びおり、しゃがんだ。⑥道順からすれば依田は途中までいっしょに乗って行けたのであるが、避けた。久子も誘わなかった。調子が直って車が動きだすと、久子は爆音の中から高く呼んだ。
「では、さようなら。」
「さようなら。」
 依田も応じた。お互いのさようならが、⑦ほんとうは何にむかって叫びかけられているかは、お互いが知っていた。彼は広小路の光の散乱の中を、淡く下りた靄を衝いて駆けて行く車を見送りながら、もくもくと、ひとり電車路の方へ歩いた。


問一 傍線部①に「犯さぬ罪を惜しんだ。」とある。これは、どういうことを言っているのか。わかりやすく答えよ。

問二 傍線部②に「潔癖から断った。」とある。この場合、つね子が「潔癖」であるとはどういうことか。簡潔に説明せよ。
問三 傍線部③に「依田は愕然とした、しかしすぐ落ちつきを取りかえした、厳粛な表情で見詰め、自制の調子で、口を開いた。」とある。このときの依田の気持ちを、この前後の登場人物の言動を踏まえて説明せよ。
問四 傍線部④の話者はどうして沈黙したのか。その理由を簡潔に述べよ。
問五 傍線部⑤に「『――』」とある。この話者はどうして沈黙したのか。その理由をわかりやすく述べよ。
問六 波線部のやりとりにうかがえる二人の心境をわかりやすく説明せよ。
問七 傍線部⑥に「道順からすれば依田は途中までいっしょに乗って行けたのであるが、避けた。久子も誘わなかった。」とある。二人が帰りの車をともにしなかった理由を簡潔に説明せよ。
問八 傍線部⑦に「ほんとうは何にむかって叫びかけられているかは、お互いが知っていた。」とある。二人の別れのあいさつは本当は何に向かって叫びかけられていたのか。簡潔に述べよ。
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、237頁~241頁)




<解答と解説>
問一 「犯さぬ罪を惜しんだ」とは、ずいぶん思い切って持って回った言い方だが、言いたいことはわかるであろう。
 要するに「妻のある画家Hと肉体関係を持たなかったことを、悔やんだということ。」

問二 「Hに操(みさお)を立てたということ。」ではぶっきらぼうすぎる。
  傍線部②の直後の「その秘密な火が消えない以上、どんな仕合わせな結婚にも近づく権利はないのだと信じた」(6~7行目)という文章を上手く言い換えればいい。
 「自分にHを思う気持ちがある以上、他の人との結婚は出来ないと強く思ったということ。」

問三 設問に「このときの依田の気持ちを、この前後の登場人物の言動を踏まえて説明せよ」とある。
 「気持ち」を聞く設問は前後の文脈の情報処理である(法則④)
 正直なことに、そのことを設問でちゃんと指示しているわけである。こういう当たり前のことをわざわざ書くということは、前後の文脈と関係なく答案を書く人が多いのだろう。
 「依田は、つね子の言葉に託して久子の思いを聞いてショックを受けたが、久子がいまでも同じ思いでいるのかどうかを確かめる覚悟を決めたのである。」

問四 「沈黙」の意味を答えよとは、酷なことである。
 けれど、ものすごくいいポイントを突いてきている。
 ここも、「この前後の登場人物の言動を踏まえて」考えるべきところである。
「つね子の言葉に託して自分の思いを伝えてはみたが、改めて問われると、いまの自分の思いを答えなくてはならなくなることに気づいて、困惑しているから。」
※この後の依田の言葉をよく読んでほしい。
 <いまのあなたは不幸ではないが、しかし、たしかに昔の僕は意気地がなかった>と、一見自分の責任を認めていながら、その実「いま」と「昔」とを巧妙に分断して、すでに自分は責任を取る必要がなくなったと語っていることがわかるだろう。
 なぜか。二人にとって、「いま」の気持ちだけは決して口にしてはならないからである。
 答案は、そこを読み込んだものであるという。

問五 傍線部⑤の前後の久子の言葉をよく読んでほしい。
 <ずっとあの世でも会いたいと思っていたし、あの時は死ぬと言えばいっしょに死んだ>というレトリックになっていて、依田の「いま」と「昔」とを巧妙に分断する語りとは違って、「今も昔も」あたなを思っていると言っていることになる。
 ところが、その思いを「あの時は有り難うございました」と、過去のこととしてさらりと感謝の言葉を口にすることで、「いま」の思いなどまるで言わなかったことにしている。
 言ったのに言わなかった――たぶん久子の方により切ない思いがある。だから、久子は依田よりもはるかに巧妙にこの場面を切り抜ける必要があった。
 ただし、当然のことながら、この設問には傍線部⑤より前にある久子の言葉だけを頼りに解答しなければならない。
 「久子の依田に対する思いを語った直前の言葉からして、もっと重大な告白か、逆にかつての意気地のなさをなじるような言葉を聞かされると思っていたのに、あっさりとした感謝の言葉を聞かされて、その意図が理解できなかったから。」

問六
 受験用の解答としては、
「若い頃の思いを冗談交じりに語れるようになったいまの自分たちの年齢を感じながら、心の奥では寂しさと渋みとを感じている。」
 著者の独自の解答としては、
「過去の思いがいまの思いに変化しそうな危険を感じ取った依田が、冗談めいた口調で久子の思い詰めた言葉を引き取ったので、久子も安心してその冗談に乗ることが出来たが、その裏では彼らなりの寂しさと渋みを味わわされてもいた。」
(解答の前半は、「久子の眼にはじめて二滴の涙をみとめた依田は、わざと誇張した快活さでつけ加えた」(46行目)という一文を重く見た読みであるという)

問七 模範解答としては、
 「いまの二人はもう淡い恋心を抱いていたかつての二人ではなく、互いに異なった人生を歩んでいるという自覚があったから。」
 著者の解答としては、
「せっかく冗談に紛らわした過去の思いが、いまの思いに変化しては困るから。」

問八 模範解答としては、
 「かつてのお互いの思いに。」
 著者の解答としては
 「いま言葉にならない言葉で確認し合ったお互いの思いに。」
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、244頁~248頁)


過去問⑭ いっしょに死んで下さい――横光利一『春は馬車に乗って』


・第七章 小説を読むこと、あるいは時間を止める病
     過去問⑭ いっしょに死んで下さい――横光利一『春は馬車に乗って』

横光利一『春は馬車に乗って』 広島大学(1999年度)の問題。
 読者に対しても、受験生に対しても、ひどく残酷な問題、と著者は評している。
 よくこの文章から出題する気持ちになってきたものだと思う、とする。
 とにかく、本文が無茶苦茶に難しい。広島大学も、この頃までは受験生を信じていたのだろうか、と記している。

過去問⑭ いっしょに死んで下さい――横光利一『春は馬車に乗って』
 次の文章は、横光利一の小説『春は馬車に乗って』の一節で、肺結核の妻とそれを看病する夫との会話が中心となっている。当時、肺結核は不治の病であり、海辺や高原など空気の良いところに転地し、鳥の卵や内臓など滋養のあるものを食べて療養するほかなかった。これを読んで後の問いに答えよ。

 ダリアの茎が干枯びた縄のように地の上でむすぼれ出した。潮風が水平線の上から終日吹き付けて来て冬になった。
 彼は砂風の巻き上がる中を、一日に二度ずつ妻の食べたがる新鮮な鳥の臓物を捜しに出かけて行った。彼は海岸町の鳥屋という鳥屋を片端から訪ねていって、そこの黄色い俎(まないた)の上から一応庭の中を眺め廻してから訊(き)くのである。
「臓物はないか、臓物は」
 彼は運良く瑪瑙(めのう)のような臓物を氷の中から出されると、勇敢な足どりで家に帰って妻の枕元に並べるのだ。
「この曲玉(まがたま)のようなのは鳩の腎臓だ。この光沢ある肝臓はこれは家鴨(あひる)の生肝だ。これはまるで、嚙み切った一片の唇のようで、この小さい青い卵は、これは崑崘山(こんろんさん)の翡翠のようで」
 すると、彼の饒舌に扇動された彼の妻は、最初の接吻を迫るように、華やかに床の中で食慾のために身悶えした。彼は惨酷に臓物を奪い上げると、直ぐ鍋の中へ投げ込んで了うのが常であった。
 妻は檻のような寝台の格子の中から、微笑しながら絶えず湧き立つ鍋の中を眺めていた。
「お前をここから見ていると、実に不思議な獣だね」と彼は云った。
「まア、獣だって、あたし、これでも奥さんよ」
「うむ、臓物を食べたがっている檻の中の奥さんだ。お前は、いつの場合に於ても、どこか、ほのかに惨忍性を湛(たた)えている」
「それはあなたよ。あたなは理智的で、惨忍性をもっていて、いつでも私の傍らから離れたがろうとばかり考えていらしって」
「それは、檻の中の理論である」
 彼は、a彼の額に煙り出す片影のような皺さえも、敏感に見逃さない妻の感覚を誤魔化すために、この頃いつもこの結論を用意していなければならなかった。それでも時には、妻の理論は急激に傾きながら、かれの急所を突き通して旋廻することが度々あった。
「実際、俺はお前の傍らに坐っているのは、そりゃいやだ。肺病と云うものは、決して幸福なものではないからだ」
 彼はそう直接妻に向かって逆襲することがあった。
「そうではないか。俺はお前から離れたとしても、この庭をぐるぐる廻っているだけだ。b俺はいつでも、お前の寝ている寝台から綱をつけられていて、その綱の画(えが)く円周の中で廻っているより仕方がない。これは憐れな状態である以外の、何物でもないではないか」
「あなたは、あなたは、遊びたいからよ」と妻は口惜しそうに云った。
「お前は遊びたかないのかね」
「あなたは、他の女の方と遊びたいのよ」
「しかし、そう云うことを云い出して、もし、そうだったらどうするんだ」
 そこで、妻が泣き出して了うのが例であった。彼は、はツとして、また逆に理論を極めて物柔らかに解きほぐして行かねばならなかった。
「なるほど、俺は、朝から晩まで、お前の枕元にいなければならないと云うのはいやなのだ。それで俺は、一刻も早く、お前をよくしてやるために、こうしてぐるぐる同じ庭の中を廻っているのではないか。これには俺とて一通りのことじゃないさ」
「それはあなたのためだからよ。私のことを、一寸(ちょっと)もよく思ってして下さるんじゃないんだわ」
 彼はここまで妻から肉迫されて来ると、当然彼女の檻の中の理論にとりひしがれた。だが、果たして、自分は自分のためにのみ、この苦痛を嚙み殺しているのだろうか。
「それはそうだ、俺はお前の云うように、俺のために何事も忍耐しているのにちがいない。し
かしだ、俺が俺のために忍耐していると云うことは、一体誰故にこんなことをしていなければ、ならないんだ。俺はお前さえいなければ、こんな馬鹿な動物園の真似はしていたくないんだ。そこをしているというのは、誰のためだ。お前以外の俺のためだとでも云うのか。馬鹿馬鹿しい」
 こう云う夜になると、妻の熱は定(きま)って九度近くまで昇り出した。彼は一本の理論を鮮明にしたために、氷嚢の口を、開けたり閉めたり、夜通ししなければならなかった。
 しかし、なお彼は自分の休息する理由の説明を明瞭にするために、cこの懲りるべき理由の整理を、殆ど日日し続けなければならなかった。彼は食うためと、病人を養うためとに別室で仕事をした。すると、彼女は、また檻の中の理論を持ち出して彼を攻めたてて来るのである。
「あなたは、私の傍らをどうしてそう離れたいんでしょう。今日はたった三度よりこの部屋へ来て下さらないんですもの。分かっていてよ。あなたは、そう云う人なんですもの」
「お前という奴は、俺がどうすればいいと云うんだ。俺は、お前の病気をよくするために、薬と食物とを買わなければならないんだ。誰がじっとしていて金をくれる奴があるものか。お前は俺に手品でも使えと云うんだね」
「だって、仕事なら、ここでも出来るでしょう」と妻は云った。
「いや、ここでは出来ない。俺はほんの少しでも、お前のことを忘れているときでなければ出来ないんだ」
「そりゃそうですわ。あなたは、二十四時間仕事のことより何も考えない人なんですもの、あたしなんか、どうだっていいんですわ」
「お前の敵は俺の仕事だ。しかし、お前の敵は、実は絶えずお前を助けているんだよ」
「あたし、淋しいの」
「いずれ、誰だって淋しいにちがいない」
「あなたはいいわ。仕事があるんですもの。あたしは何もないんだわ」
「捜せばいいじゃないか」
「あたしは、あなた以外には捜せないんです。あたしは、じっと天井を見て寝てばかりいるんです」
「もう、そこらでやめてくれ。どちらも淋しいとしておこう。俺には締切りがある。今日書き上げないと、向こうがどんなに困るかしれないんだ」
「どうせ、あなたはそうよ。あたしより、締切りの方が大切なんですから」
「いや、締切りと云うことは、相手のいかなる事情をもしりぞけると云う張り札なんだ。俺はこの張り札を見て引き受けて了った以上、自分の事情なんか考えてはいられない」
「そうよ、あなたはそれほど理智的なのよ。いつでもそうなの、あたし、そう云う理智的な人は、大嫌い」
「お前は俺の家の者である以上、他から来た張り札に対しては、俺と同じ責任を持たなければならないんだ」
「そんなもの、引き受けなければいいじゃありませんか」
「しかし、俺とお前の生活はどうなるんだ」
「あたし、あなたがそんなに冷淡になる位なら、死んだ方がいいの」
 すると、d彼は黙って庭へ飛び降りて深呼吸をした。それから、彼はまた風呂敷を持って、その日の臓物を買いにこっそりと町の中へ出かけていった。
 しかし、eこの彼女の「檻の中の理論」は、その檻に繋がれて廻っている彼の理論を、絶えず全身的な興奮をもって、殆ど間髪の隙間をさえも洩らさずに追っ駆けて来るのである。このため彼女は、彼女の檻の中で製造する病的な理論の鋭利さのために、自分自身の肺の組織を日日加速度的に破壊していった。
 彼女のかつての円く張った滑らかな足と手は、竹のように痩せて来た。胸は叩けば、軽い張り子のような音を立てた。そうして、彼女は彼女の好きな鳥の臓物さえも、もう振り向きもしなくなった。



問一 傍線部aに、「彼の額に煙り出す片影のような皺」とある。これは、何をたとえているか。わかりやすく説明せよ。

問二 傍線部bに、「俺はいつでも、お前の寝ている寝台から綱をつけられていて、その綱の画く円周の中で廻っているより仕方がない」とある。これと、ほぼ同じ内容を表現している箇所を、文章中から十字以内で抜き出して書け。

問三 傍線部cに、「この懲りるべき理由」とある。なぜ、「懲りるべき」と言っているのか。四十字以内で説明せよ。

問四 傍線部dに、「彼は黙って庭へ飛び降りて深呼吸をした」とある。これは、彼のどのような気持ちを示しているか。わかりやすく説明せよ。

問五 傍線部eに、「この彼女の『檻の中の理論』は、その檻に繋がれて廻っている彼の理論を、絶えず全身的な興奮をもって、殆ど間髪の隙間をさえも洩らさずに追っ駆けて来るのである」とある。
1 「彼女の『檻の中の理論』」とは、どのようなものか。六十字以内で説明せよ。
2 「彼の理論」とは、どのようなものか。四十字以内で説明せよ。
3 「絶えず全身的な興奮をもって、殆ど間髪の隙間をさえも洩らさずに追っ駆けて来る」とは、どのような状況の比喩か。五十字以内で説明せよ。

(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、297頁~303頁)

<解答と解説>
問一 直前の妻の言葉に「いつでも私の傍らから離れたがろうとばかり考えていらしって」(18~19行目)とあるのを踏まえて答える。
 「妻の傍らから離れたいという思い。」
(ただし、離れたい理由については確定できないのだから、「遊びたくて」とか「仕事がしたくて」とかは書かない方がいいだろう。)

問二 「馬鹿な動物園の真似」(9字、44行目)
  実際、動物園の動物は傍線部bみたいに、飽きもせずに同じところをぐるぐる回っている。

問三 夫が<自分はお前のために仕事をしなくてはならないので、お前のそばにはいられないのだ>という至極もっともな「理論」を述べると、それがわかっているだけに、妻の具合は悪くなる。そのことを答える。
 「妻を納得させるための理論が容態を悪化させ、一晩中看病しなければならなくなるから。」
(40字)

問四 「気持ち」を聞く設問には、傍線部dの直後の彼の行動を踏まえて、情報処理を忘れずに(法則④)。
 合格のための解答は、次のようになるという。
 「死を口にした妻をそれ以上追い込むことは出来ないので、冷静になるためにいったん妻のそばを離れ、気を取り直して看病を続けようとする気持ち。」

問五 妻と夫の言い分を一つ一つ解きほぐすように聞く設問。 
   全体を踏まえて、それぞれの言い分をまとめる。
1 「夫はお前のために仕事をしていると言うが、本当は自分には冷淡で、実は仕事も自分から離れるための口実にすぎないという理論。」(59字)
2 「自分は妻の療養費と二人の生活費のためだけに仕事をしているのだという理論。」(36字)
3 「妻が、夫が自分以外のものへほんの少しでも関心を移すと、冷淡だ言って激しく夫を責め立てる状況。」(47字)

<著者のコメント>
・著者なら、「あたし、あなたがそんなに冷淡になる位なら、死んだ方がいいの」(78行目)に傍線を引き、「このあと、妻が言いたかった言葉は何か」とだけ聞くという。
 そんな入試問題を一度は作ってみたいとする。
・これらの設問は、とりあえず、奇妙な表現を、わかりやすくて安全な散文に「翻訳」することを求めているだけであるという。 
(そこには、危険な愛情もメタファーの面白さもない。だから、それは小説を読むことからは、ずいぶん遠く離れた仕事だ、とコメントしている。)
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、308頁~310頁)




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