≪【囲碁】本因坊道策について≫
(2024年5月5日投稿)
島根出身の囲碁界の偉人として、道策(1645-1702)と岩本薫氏(1902-1999)が挙げられる。
俗っぽい表現を使えば、島根が生んだ囲碁界の二大スーパースターである。
卑近な例えでいえば、芸能の分野で、島根が生んだ古今の二大スーパースター、出雲阿国と竹内まりやさんのような存在である。
出雲阿国は元亀3年(1572)で没年は不明で、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村(小村)三右衛門の娘であり、出雲大社の神前巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判になったとされている。
竹内まりやさん(1955-)は、島根県簸川郡大社町杵築南(現・出雲市大社町杵築南)の生まれ。生家・実家は、出雲大社・二の鳥居近くに在る明治10年(1877)創業の老舗旅館「竹野屋旅館」であることは地元ではよく知られている。
縁結びの神を祀る出雲大社の近くに生れただけあって、「縁(えにし)の糸」(作詞・作曲:竹内まりや/編曲:山下達郎)は、NHK2008年度下半期の連続テレビ小説「だんだん」の主題歌として書き下ろされた。
ドラマは人と人との出会いと縁がテーマの一つとなっているが、本楽曲も人と人とを結ぶ見えない縁の糸がテーマとなっている。
本人は、縁結びの神様のお膝元の「八雲立つ出雲」で生まれ育ったため、常々「ご縁」というものをテーマにした歌を書きたいと思っていたという。
♪“「袖振り合うも多生の縁」と古からの伝えどおり この世で出逢う人とはすべて見えぬ糸でつながっている”
♪“時空を超えて何度とはなく巡り逢うたび懐かしい そんな誰かを見つけに行こう八雲立つあの場所へと どんな小さな縁の糸も何かいいこと連れてくる”
奈良時代の日本最古の歴史書『古事記』にも、「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」(古事記・上巻・歌謡)とある。
さて、道策は石見国の馬路(現・大田市仁摩町馬路)で生まれ、7歳の頃から母に囲碁を習い、14歳で江戸へ上り算悦門に入る。
岩本薫氏は島根県益田市(旧・美濃郡高津村)の出身。
益田は、浜田、大田とともに石見(いわみ)の三田といわれ、石見地方西部の中心である。益田市は日本海に面し、高津川下流域を占め、石見地方西部の商業の中心地であった。古くから進取の気性に富んでいたのかもしれない。
石見国の在庁官人筆頭の地位を占めた益田氏は、中世を通じて石見最大の勢力を誇った(益田氏の足跡と山陰中世史解明の手がかりとなる『益田文書』が残る)。また、益田は雪舟の終焉の地とされ、医光寺、万福寺にはそれぞれ雪舟庭園(国指定史跡・名勝)が残る。
ところで、イスラームは「商人の宗教」であると言われる。教祖ムハンマドが隊商貿易に従事する商人であったことも原因の一つであるが、イスラーム世界の成立にともない、ムスリム商人による遠隔地貿易が盛んとなり、人と物の交流は文化の交流を促進したようだ。世界各地へとイスラームが拡大したことには、ムスリム商人が大きく関わっていた。
先日、NHKの「3か月でマスターする世界史」の「第4回 イスラム拡大の秘密」(2024年4月24日)においても、守川知子先生も、イスラム教は「商人の宗教」である点を強調されていた。
中世の益田は、人と物の交流の最前線であり、人々はその豊富な地域資源と中国と朝鮮半島に近い立地条件を活かして日本海に漕ぎ出し、積極的に国内外との交易に取り組んでいた。中世の高津川・益田川河口域は港町として賑わった。砂州の南側から発見された中須東原遺跡は、港町の遺跡の代表例である。出土した陶磁器は、国内はもとより、西は朝鮮半島や中国、南は東南アジアとの交易を物語っている。
益田氏は江戸時代(近世)初めに残念ながら益田を去らざるを得なくなり、益田は江戸時代に城下町にならなかった。しかし、これにより中世の町並みがそのまま残った。益田の歴史は、中世日本の傑作とも言われる。
ところで、その商業の町・益田出身の岩本薫氏が、囲碁の海外普及に後半生を捧げられたことは、益田の進取的な精神性と関連させてみると私には興味深かった。
岩本薫氏は、橋本宇太郎本因坊と原爆投下時に対局していた。「原爆下の対局」として知られる。原爆という戦争体験と世界平和への希求の思いが重なって、使命感をともない、囲碁文化の海外普及に向かわれたことであろう。
(「原爆下の対局」については、平本弥星氏も言及しているので、紹介してみたい)
また、夏目漱石と並ぶ明治の二大文豪の一人森鷗外(1862-1922)は、その益田市に近い津和野の出身である。石見国津和野藩の御典医の長男として、津和野に生まれた。東大医学部卒業後、陸軍医となり、1884年ドイツに留学した。やはり森鷗外も海外に目が向いていた。
さて、玉将(王将)から歩兵まで漢字で書かれた将棋の駒と異なり、碁石には階級性はなく、あるのは黒と白の色の違いだけであり、囲碁は原則、どこに置いてもよい。囲碁のルールも簡単である。しかし、ノーベル文学賞を受賞した文豪、川端康成(1899-1972)がいみじくも「深奥幽玄」と揮毫したように、囲碁は奥深く計り知れない趣がある。川端は大の囲碁好きで、本因坊秀哉(1874-1940)の引退碁を扱った小説『名人』という名作がある。
(川端康成の小説『名人』については、平本弥星氏も言及しているので、紹介してみたい)
日本の囲碁界は、開放的で国際性に富んでいる。例えば、戦前、瀬越憲作らの尽力により中国(福建省出身)から呉清源が来日して活躍したし、戦後も、呉清源門下の林海峰(中国の上海出身)、マイケル・レドモンド(アメリカ)、趙治勲・柳時熏(韓国)、張栩・林漢傑(台湾)など、国籍を問わず、棋力が高ければ活躍できる。(敬称略)
前置きが長くなったが、今回のブログでは、次の参考文献を参照して、本因坊道策について、考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
〇酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』日本棋院、1991年[2001年版]
〇中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年
【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・現代の棋士に古今最強を問うなら、道策、秀策、呉清源にかなりの票を入れるだろうか。
道策は碁聖と三百年呼ばれ続ける巨人である。
・4世本因坊道策は正保(しょうほう)2年(1645)に石見(島根県)で生まれた。
将軍家光が鎖国を完成した4年後、満州族の清帝国が明を倒して中国支配を始めた翌年である。
・道策は7歳で母に碁を教わり、14歳のころ道悦に入門したのであろうと、『道策全集』(日本棋院、1991年)に中山典之(六段)が記している。
御城碁の初出仕は23歳で、道策はどちらかというと大器晩成の棋士であった。
・道策が「生涯の得意」と言ったという安井春知(七段)との二子局は1目負の碁である。
この碁でも打たれている三間バサミ(白5)は道策の創始といわれ、今日よく打たれている「中国流」や「ミニ中国流」布石の発想は道策が最初である。
・また「手割り」と呼ばれる評価方法の確立など道策によって碁が大きく進歩し、日本の碁は高いレベルに達した。
≪棋譜≫道策「一生の傑作」
天和3年(1683)11月19日 御城碁
白 本因坊道策
1目勝ち 二子 安井春知
※黒4…星の大ゲイマ受け 黒8…小目の二間バサミ
・道策いわく「当代の逸物」春知との二子局では、70手目の黒1に対して、白2から隅の黒を捨て、先手を取って右上に向かったのが素晴らしい。
道策の碁は柔軟で大局観に優れ、部分戦では随所に妙手があり、ヨセが強く、ミスはほとんどない。
≪棋譜≫捨てて先手をとる
・白2から8までと左下隅を捨石にして下辺を強化し、白10からまた絶妙の打ち回し
(『道策全集』第3巻、日本棋院、1991年)
・本因坊道悦は延宝5年(1677)に隠居願を出して道策に家督を譲り、道策を名人碁所に推薦した。
このときだけは他家から異論なく、翌年4月17日(家康の命日)の日付で名人碁所の証文が下されたという。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、228頁~229頁)
・初めての和暦(貞享暦[じょうきょうれき])を作った渋川春海(はるみ)の名は多くの人が知っているだろう。
渋川春海は碁打ちの安井算哲(1639-1715)である。
算哲は父の古算哲に学び、高い技量(上手)の碁打ちであったが、若いころから数学や天文、陰陽道を学んで暦法を研究し、中国の古い暦から新暦への改暦を主張した。
・道策に勝てなかった算哲は、秘策によって必ず勝つと豪語して、御城碁で道策に対する。
秘策は天文研究を応用した起手天元。
しかし、天元の是非以前に実力の差は歴然で、敗れた算哲は二度と天元に打たなかった。
・やがて算哲は綱吉の命で碁方から天文方に転じ、完成した貞享暦が実施(1685)される。
安井家は算知が継ぎ、2世となった。
≪棋譜≫起手天元の局
・寛文10年(1670)10月17日 御城碁
9目勝ち 白 本因坊 道策(跡目)
先 安井算哲(2世、渋川春海)
※道策は御城碁14勝2敗。敗れた2局は二子局でいずれも1目負。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、230頁)
・スーパースター道策の時代に本因坊一門は隆盛を極め、門弟3千人と語られている。
将軍綱吉の側用人(そばようにん)牧野成貞(なりさだ)や儒者の祇園南海(ぎおんなんかい)も門人で、その棋譜や逸話が残っている。
道策門下から碁で士官する者もあった。
・中継貿易で繁栄した琉球王国は、島津家久の琉球出兵(1609)で薩摩藩に従属させられ、将軍と琉球王の代替わりの都度、慶賀使・謝恩使の江戸上りを強いられた。
琉球は碁が盛んで、碁法はもともと自由布石であった。
・天和2年(1682)将軍綱吉の襲職慶賀使に、琉球の名手親雲上浜比賀(ぺいちんはまひか)が随行している。
薩摩藩主島津光久が幕府の許可を得て、道策と浜比賀の国際対局が実現した。
浜比賀は四子置いて、道策の妙技に敗れる。
≪棋譜≫国際対局の最古の棋譜
・天和2年(1682)4月17日 松平大隅守(薩州侯)邸
14目勝ち 白 本因坊 道策
四子 親雲上 浜比賀
・江戸時代から昭和初期まで、星に対するカカリには、「大ゲイマ受け」が絶対の定石だった。
天和2年(1682)に来朝した琉球王国の名手親雲上浜比賀は薩摩藩の斡旋で、4世本因坊道策と対局の機会を得た。
四子置いて道策に対した浜比賀は、図1の黒2、黒4と大ゲイマに受けている。
当時の琉球も大ゲイマ受けが定石だった。(116頁)
【図1】
【図2】
・さらに1局の対戦を求め、第2局は3目勝ちだった。
免状を強く望んだ浜比賀に、名人碁所道策は上手に二子以内の手合と漢文で記した免状を与えた。
上手(七段)に二子は三段ということである。
三段は名人に三子の手合。
・初手合の碁(上記の棋譜)は日本の名人の権威を賭けて勝ちにいった道策であるが、2局目は島津光久の顔を立て、免状は上手に二子としたのである。
光久と浜比賀は大いに喜んだに違いなく、薩摩藩から道策に謝礼として白銀70枚、巻物20巻、泡盛2壺、浜比賀から白銀10枚が贈られたと記録にある。
・藩主島津氏の祖先は渡来系氏族で、薩摩は戦国時代から碁が盛んであった。
こののち、薩摩藩は道策の門弟を碁の指南役に迎え、琉球の碁打ちも指導を受けたと伝えられている。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、116頁~117頁、231頁~232頁)
・このときの免状が囲碁史上で最初とされ、道策が「段位制」を創ったといわれてきた。
「ところが、昭和55年に故林裕氏が、長野県塩尻市の旧家から初代本因坊算砂と初代安井算哲の免状の写しを発見した」と水口藤雄が記している。
(水口藤雄『囲碁文化誌』2001年)
林裕が「書簡のような免状」と言ったという算砂の免状には、「上手に対し先と二ツの手相に直し置き候」とある。
上手に先二(四段)が許された釜屋太夫は、白木助右衛門の「国中囲碁三段以上姓名録」に四段とあり、一致する。
算哲にも免状を貰っている。
(『囲碁年間1997年』日本棋院「免状の歴史と変遷」)
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、232頁、250頁)
・道策には六天王と謳われた弟子がいた。
13歳で棋力六段に達したといわれる小川道的は天才中の天才と呼ばれ、16歳で道策の跡目となるが、惜しくも22歳で夭折(1690)。
・星合八碩(ほしあいはっせき)は27歳(1692)で、道的の没後に道策が再跡目とした佐山策元は25歳(1699)で、元禄10年(1697)に道策の研究碁の相手を7局も務めた熊谷本碩(くまがいほんせき、生没年不詳)は23歳で、いずれも他界する。
・吉和道玄(よしわどうげん、生没年不詳)は筑後有馬家に士官し、晩成型で道策より1歳年少の桑原道節(1646-1719)だけが残った。
道策は実弟を2世因碩(道砂)として井上家を継がせ、道節を道砂因碩の跡目(1690)として3世因碩を継がせる。
・元禄15年(1702)3月、道策が病没。
同月に新井白石(1657-1725)が『藩翰譜(はんかんぷ)』を綱吉に献上し、赤穂浪士の吉良邸討ち入りは同年12月である。
死を前に道策は道節因碩を呼び、
予本因坊家を相続せし以来、古今稀なる囲碁の隆盛を見る。今死すとも憾なし。然れども、唯死後に跡目なきは、大に憂慮する所(中略)心に叶いたる者、神谷道知一人あるのみ。道知今年13歳にして二つの碁なりと雖も(中略)世に稀なる奇才なれば(中略)汝道知の後見となり(中略)名人碁所たらしむべし。
と、『坐隱談叢(ざいんだんそう)』(安藤如意、1909年)にある。
また道策は、碁所を決して望んではならないと因碩に誓紙を認(したた)めさせたとある。
『坐隱談叢』はそのまま信ずるには足りない書であるが。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、233頁)
第三章 玄妙、道策の世界
第1局 中原雄飛の快局
寛文十年(1670)三月十七日
本因坊道策
二子 菊川友碩
名局中の名局という(171頁)
〇玄妙の極致
白101の利かし一本で中央がほぼ止まり、白103と手どまりの大ヨセに回って遂に追い抜いた。
序盤の石捌きが芸術品なら、中央経営をめぐっての中盤戦もすばらしく、白103に至る最後の仕上げに至っては玄妙の極みというしかない。
※本局は二子局であるが、すべての着手が感動的であり、
道策の作品としては名局中の名局に入ると思うとする。
(酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』日本棋院、1991年[2001年版]、162頁~171頁)
・第11期棋聖戦第3局は広島で打たれ、立会人が岩本薫九段、解説は橋本宇太郎九段だった。
このときの碁盤と碁石は、歴史に残る「原爆下の対局」で両九段が使用した盤石である。
・第3期本因坊戦は昭和20年(1945)に行なわれた。
物資が窮乏して前年に新聞から囲碁欄が消え、「碁など打っている時局か」といわれるなかで、広島に疎開していた瀬越憲作(せごえけんさく)八段が本因坊戦の実現に奔走した。
やがて戦争は終わる。
囲碁復興のためには本因坊戦の灯を絶やしてはならないと、瀬越は考えたのであった。
・20年5月の空襲で溜池(ためいけ)の日本棋院が焼失。
焼野原の東京を離れ、広島市で7月23日に七番勝負第1局が開始された。
第6局までコミなしで3日制。
日本棋院広島支部長の藤井順一宅で打たれ、屋根に米軍機の機銃掃射を浴びながら、防空壕に入らず打ち終えたという。
挑戦者岩本薫七段の白番5目勝だった。
・第2局は警察から「危険だから市内で打ってはいけない」と厳命があり、広島郊外の五日市(いつかいち)で8月4日に開始された。
8月6日午前8時15分、原子爆弾投下。
3日目の再開直後で、局面は106手くらいだった。
≪棋譜≫(1-106)
〇昭和20年(1945)8月4、5、6日
広島県五日市
第3期本因坊戦七番勝負第2局
中押し勝ち 白 本因坊 橋本昭宇
先番 七段 岩本薫
※記録係は三輪芳郎五段(1921-94 九段)
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、37頁)
・岩本は『囲碁を世界に』でつぎのように語っている。
いきなりピカッと光った。それから間もなくドカンと地を震わすような音がした。聞いたこともない凄みのある音だった。同時に爆風が来て、窓ガラスが粉々になった。障子とか襖は倒れ、固いドアがねじ切れた。広島から五日市までは二里半、約十キロメートルである。ピカッと来てからドカンまで、実際は三十秒足らずのはずだが、五、六分ぐらいに長く思えた。ひどい爆風で、私は碁盤の上に俯(うつぶ)してしまった。
(岩本薫『囲碁を世界に』講談社、1979年)
・橋本本因坊は吹き飛ばされ、庭にうずくまっていたという。
ガラスの破片や碁石が散乱した部屋を掃除して対局は続行され、橋本本因坊の白番5目勝ちとなった。
・棋譜をながめて、深い問いを禁じ得ない。
生きるとはどういうことか。碁とは何なのか。
いっぺん死んだのだ、あとどうすればよいか?
どうせ死んだものなら、これからひとつ碁界のために尽くそうではないか、そんな気持を抱くようになった。
岩本九段は後半生を囲碁の国際普及に捧げ、日本棋院海外センターを欧米4都市に設立。
シアトルの日本棋院米国西部囲碁センターの外壁には原爆対局の棋譜が飾られ、館内の岩本九段のレリーフが、来訪者を惹きつけているという。
※岩本薫(1902-99)
・島根県。広瀬平次郎八段門下。第3、4期本因坊。戦後復興期に一時日本棋院理事長。
海外普及に貢献。
42年(1967)九段。
著書『囲碁を世界に』講談社、1979年
※橋本宇太郎(1907-94)
・大阪。瀬越九段に入門。第2、5、6期本因坊。
25年(1950)日本棋院から分離し関西棋院を創立。29年九段。十段2期。王座3期。
※瀬越憲作(1889-77)
・広島県能美島。戦後に日本棋院理事長。
囲碁文化の普及に貢献し、『御城碁譜』(1952年)、『明治碁譜』(1959年)を編纂。
30年(1955)引退、名誉九段。
※空襲
・1945年3月10日の東京大空襲では死者10万人。
※原子爆弾投下
・1945年8月6日広島、9日長崎に米軍が原子爆弾投下。
原爆による死者は広島20万人、長崎14万人。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、36頁~38頁、250頁)
・川端康成の小説『名人』の冒頭は次のようにある。
第二十一本因坊秀哉名人は、昭和十五年一月十八日朝、熱海のうろこ屋旅館で死んだ。数え年六十七であった。
・川端は『雪国』をはじめ日本人の繊細な心を巧みに表現した数々の名作を残した。
本因坊秀哉名人の引退碁を題材にした『名人』もその一つである。
昭和43年(1968)に川端がノーベル文学賞を受賞する以前から、ヨーロッパで『名人』の翻訳が出版されていた。
・昭和13年(1938)6月26日に始まった名人引退碁は、持時間各40時間、15回にわたって打ち継がれ、12月4日終局。
名人の病気入院で3カ月の中断があったとはいえ、半年もかかった空前絶後の長い勝負だった。
・昭和12年秀哉名人が引退を表明。
引退碁の選士を六段以上の棋士によるリーグ戦で決定することになり、木谷実七段が優勝した。
・毎日新聞(東京日日新聞・大阪毎日新聞)が掲載した川端の観戦記は66回を数え、川端が戦後にそれを小説化したのが『名人』である。
木谷七段を大竹七段としているほかは実名となっている。
・芝公園の紅葉館で初日は2手だけ、翌日に12手まで進んだところで箱根の奈良屋旅館に移り、7月11日から打ち継がれた。
≪棋譜≫秀哉名人引退碁
・昭和13年(1938)6月26日~12月4日
白 名人 本因坊秀哉
黒 七段 木谷実
・24手目、白1のアテが名人の新手。
・黒2とアタリの石を逃げたとき、白3のオシ。
・ここで次の手が封じ手となった。
・5日後に打ち継がれ、開封された木谷七段の一手は黒4のキリ(アタリ)だった。
※秀哉(1874-1940)
・本名田村保寿(ほうじゅ)。世襲制最後の21世本因坊。
村瀬秀甫(しゅうほ)の方円社で学んだ後、放浪。
朝鮮の亡命政治家金玉均(きんぎょくきん)の紹介で19世本因坊秀栄に入門。
1914年名人。
※川端康成(1899-1972)
・北条泰時の末裔という。碁を好んだ。
※木谷実(1909-1975)
・鈴木為次郎に入門。大正13年(1924)入段。
昭和8年(1933)呉清源とともに「新布石」を打ち始める。
最高位2期(1957、58)ほか。本因坊に3度挑戦し敗れる。
弟子を多数育成。木谷一門の総段位は500段位を超える。
※アテ
・アテる=アタリを打つ。アテ=アタリを打つこと。
※新手
・布石や定石において、実際に打たれた新しい有力な手。
※アタリ
・あと一手で囲んで取れる(抜ける)状態のこと。
※オシ
・相手の後から押す手。
※キリ
・相手の連絡を切る手。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、26頁~27頁)
・『名人』は観戦記ではない。
川端の眼に映る、秀哉名人を中心とする人物や情景を描写した小説である。
碁の解説はなく、盤上の一手一手も出来事の一つひとつである。
死の半月前、名人は日本棋院の囲碁始め式に臨んで、連碁に参加した。
・「祝賀の名刺を置いて行く代り」のような連碁の最後を秀哉が打つことになり、その最後の一手に名人は40分考えたとある。
秀哉名人は将棋や麻雀でも長考したという。
・碁の手順を前後して様々な描写を織りまぜる『名人』は、この局面にふれていない。
28手目、白はアタリの一子を白5と逃げ、黒は6にオサエ。そして白7。黒一子がアタリです。しかし黒は逃げず黒8とノビて、白9で一子を取りました。黒10から白13と進み、ここまで「ほとんど必然とみられる」と木谷の解説(『囲碁百年』)にある。
・引退碁は木谷七段の5目勝ちで終局した。
≪棋譜≫秀哉名人引退碁
・持時間各40時間 消費時間(終局時)
名人 本因坊秀哉 19時間57分
七段 木谷実 34時間19分
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、28頁~29頁)
〇秀哉の生い立ちについて
・明治7年(1874年)6月24日生まれで、昭和15年(1940年)の1月18日に亡くなっているから、数えどしの67歳。
満65年半の栄光に満ちた生涯だったようだ。
しかしながら、その少年時代は辛苦そのものの日常だった。
社会のどん底から這い上がって第一人者となり、それを維持したまま生を終えるまでの道のりは、文字通り一生を貫いた闘争史であった。
・二十一世本因坊秀哉。本名は田村保寿、徳川幕府の旗本だった父、田村保永の長男として生まれた。この親父殿は大局を見損じて、佐幕派の陣に走り、彰義隊に参加したりしたので、官員になったものの将来性は全くなく、失意の日常を好きな碁でまぎらわしていた。保寿は父の碁を眺めているうちに自然と碁を覚える。ときに数えの8歳だったという。
・10歳、近所の碁会所の席亭が勧めるままに方円社を訪ね、村瀬秀甫八段に十三子置いて一局教わり、直ちに入塾を許される。
・11歳で母を亡くし、17歳で父を失う。
孤高の名人と言われる秀哉は、一人で社会に放り出されて、少年時代から孤独だった。
頼りになるのは自分だけなのである。
・17歳のとき、方円社から二段格を許されたが、もちろんそれで一家を構えられるわけがなく、方円社の最底辺に在って心はあせるばかりだった。実業界に進出しようとしたが、失敗した。方円社にも顔を出さなかったこともあり、追放処分にされてしまう。ときに田村保寿二段、数えの18歳。
・房州の東福院というお寺さんの和尚に拾われ、自分には碁しかないのだということがわかる。保寿は麻布六本木に教室を開く。そこに、たまたま朝鮮から日本に亡命していた金玉均が入ってきた。金と本因坊秀栄七段は親友であり、時の第一人者秀栄に紹介されたのが開運の端緒になったそうだ。秀栄は保寿に四段を免許し、秀栄の門下生になった。
・ここからの保寿の奮闘ぶり、精進のさまがものすごかったとされる。
師匠の秀栄には定先で何とかしがみついている程度だったが、競争相手の石井千治をついに先二まで打込み、雁金準一を撃退し、秀栄の歿後に本因坊秀哉を名乗って第一人者となる。
・晩年には鈴木為次郎、瀬越憲作の猛追に苦しみ、最晩年には超新星、木谷実、呉清源の出現を見たが、ともかくも明治晩年から昭和初年に渉る巨匠秀哉だった。
亡くなる寸前まで、第一線で活躍した現役の名人本因坊秀哉だった。
・中山典之氏によれば、秀哉名人は古名手たちと比べてみると、世俗的な見方からすれば最も幸福な生涯を得た人といえるようだ。
(幸福と言う語が当たらぬとすれば、幸運と言うべきだろうかとも)
名人位に在ること満27年。
功成り名遂げて世の尊敬を集め、本因坊位を後世にゆだね、惜しまれながら去った。
・歴代名手に思いをめぐらせば、名手本因坊秀和は優に大名人の力がありながら貧窮のうちに世を去った。
その秀和師匠が秀策にもまさると評した村瀬秀甫は、本因坊八段になって僅か3か月で死んだ。
名人中の名人と言われた、秀哉の師匠、本因坊秀栄も、名人在位期間は僅々8か月に過ぎない。
・秀哉名人の墓所は、東京の山手線巣鴨駅から北の方へ徒歩10分ほどの、本妙寺にある。
そこには本因坊道策名人以降の歴代本因坊や跡目の墓石も並んでいる。
そして、秀哉歿後60余年を経た今でも、命日の1月18日には、日本棋院が主催し、時の本因坊を祭主として、「秀哉忌」が行われているという。
(中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年、192頁~195頁)
〇「第十章 秀哉名人の引退と本因坊戦の創設」の「秀哉名人、引退の花道」(173頁~177頁)において、川端康成『名人』について中山典之氏は言及している。
・昭和13年(1938年)6月26日。
本因坊秀哉名人対木谷実七段の「引退碁」が始まった。
秀哉ときに64歳、木谷29歳。
・対局場は箱根、伊東と移り、途中で秀哉名人の病気が悪化して3か月の中断があったりしたが、12月4日に漸く終局した。
結果は木谷七段5目勝ち。
不敗の名人は最終局を飾れなかったが、64歳にして若い木谷七段をあわやという所まで追いつめた名局であるとされる。
・なお、この碁の観戦記者は文士の川端康成だった。
また解説は呉清源六段だった。
毎日新聞も、また粋なはからいをしたものだと思う。
名局を読者に紹介する観戦記者がヘボ文士であってはならぬし、解説者が凡手であってもならない。
毎日はこの意味で最善の手を打ったと申せよう。
川端康成の観戦記は第62譜に及ぶ大がかりのものだったが、氏はこの長期間、盤側を離れることなく、対局両者と対局場の空気を伝えている。
・その62回に及ぶ観戦記を読んでみて、川端先生はやはり最高の観戦記者であると思う、と中山氏は記す。
当時の棋力はプロに六子ぐらいの碁だから、手のことはチンプンカンプンだったろうと思うが、一刻も目を離すことなく、ピンと張りつめた対局場の雰囲気を伝えてくれたという。
・なお、川端氏は、この観戦記を材料にして、小説『名人』を書いた。
観戦記では書きにくかったことも付け加えて、木谷七段を「大竹七段」と仮名で登場させているが、その他の棋士や関係者は全員実名で書かれている。
〇その観戦記の第1譜と、第63譜の一部を引用している。
「居並ぶ人々は息を呑む。もう名人は、いつも盤に向ふ時の癖、静かに右肩を落してゐる。その膝の薄さよ。扇子が大きく見える。木谷七段は眼をつぶつて、首を前後左右に振つてゐる。
名人は立ち上つた。扇子を握つて、それがおのづから、古武士の小刀を携へて行く姿だ。盤の前に坐つた。左の手先を袴に入れ、右手を軽く握つて、昂然と真向きだ。磨かれた名盤を挟んで七段も席についた。名人に一礼して碁笥の位置を正した。無言のまま再び礼をすると、七段は瞑目した。そのしばしの黙想を破るかのやうに、
「はじめよう。」と、名人が促した。小声だが、なにをしてゐるかといはぬばかりの、力強い挑戦だ。ほつと七段は眼をあいたが、再び瞑目した。驚くべき慎重の態度と思ふ間もなく、戛然(かつぜん)たる一石だ。時に十一時四十分。
新布石か、旧布石か。星か、小目か。ただの第一著手ではない。満天下の愛棋家の無限の注目を集めた第一著手は、見よ、「17四」、旧布石の典型の小目だつたのだ。」
「名人が、無言のまま駄目を一つつめた瞬間、
「五目でございますか。」と傍から小野田六段がいつた。敦厚(とんこう)な小野田六段の性格が聞える、敬虔な声であつた。はつきり分つてゐるものを、今更ここで作つてみる、その労を省かうとした、――名人への思ひやりなのである。
「ええ、五目。」と、名人はつぶやいて、少し脹(は)れぼつたい瞼を上げると、もう作つてみようとはしなかつた。」
なお、最後の秀哉の言葉。もう一人、現場にいた三谷水平さん(ペンネーム芦屋伸伍)は、「左様。五目。」と、力強く応答したと言つている。
つぶやいたか、力強く応じたかは聞く人の感じで違うが、秀哉名人の大役を果した安堵の声が聞こえて来る。
(中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年、173頁~177頁)
【補足】
・川端康成の『名人』については、次のような論文がネットで閲覧可能である。
後日、紹介してみたい。
〇福田淳子
「「本因坊名人引退碁観戦記」から小説『名人』へ―川端康成と戦時下における新聞のメディア戦略―」
『学苑・人間社会学部紀要』No.904、2016年、52頁~67頁
(2024年5月5日投稿)
【はじめに】
島根出身の囲碁界の偉人として、道策(1645-1702)と岩本薫氏(1902-1999)が挙げられる。
俗っぽい表現を使えば、島根が生んだ囲碁界の二大スーパースターである。
卑近な例えでいえば、芸能の分野で、島根が生んだ古今の二大スーパースター、出雲阿国と竹内まりやさんのような存在である。
出雲阿国は元亀3年(1572)で没年は不明で、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村(小村)三右衛門の娘であり、出雲大社の神前巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判になったとされている。
竹内まりやさん(1955-)は、島根県簸川郡大社町杵築南(現・出雲市大社町杵築南)の生まれ。生家・実家は、出雲大社・二の鳥居近くに在る明治10年(1877)創業の老舗旅館「竹野屋旅館」であることは地元ではよく知られている。
縁結びの神を祀る出雲大社の近くに生れただけあって、「縁(えにし)の糸」(作詞・作曲:竹内まりや/編曲:山下達郎)は、NHK2008年度下半期の連続テレビ小説「だんだん」の主題歌として書き下ろされた。
ドラマは人と人との出会いと縁がテーマの一つとなっているが、本楽曲も人と人とを結ぶ見えない縁の糸がテーマとなっている。
本人は、縁結びの神様のお膝元の「八雲立つ出雲」で生まれ育ったため、常々「ご縁」というものをテーマにした歌を書きたいと思っていたという。
♪“「袖振り合うも多生の縁」と古からの伝えどおり この世で出逢う人とはすべて見えぬ糸でつながっている”
♪“時空を超えて何度とはなく巡り逢うたび懐かしい そんな誰かを見つけに行こう八雲立つあの場所へと どんな小さな縁の糸も何かいいこと連れてくる”
奈良時代の日本最古の歴史書『古事記』にも、「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」(古事記・上巻・歌謡)とある。
さて、道策は石見国の馬路(現・大田市仁摩町馬路)で生まれ、7歳の頃から母に囲碁を習い、14歳で江戸へ上り算悦門に入る。
岩本薫氏は島根県益田市(旧・美濃郡高津村)の出身。
益田は、浜田、大田とともに石見(いわみ)の三田といわれ、石見地方西部の中心である。益田市は日本海に面し、高津川下流域を占め、石見地方西部の商業の中心地であった。古くから進取の気性に富んでいたのかもしれない。
石見国の在庁官人筆頭の地位を占めた益田氏は、中世を通じて石見最大の勢力を誇った(益田氏の足跡と山陰中世史解明の手がかりとなる『益田文書』が残る)。また、益田は雪舟の終焉の地とされ、医光寺、万福寺にはそれぞれ雪舟庭園(国指定史跡・名勝)が残る。
ところで、イスラームは「商人の宗教」であると言われる。教祖ムハンマドが隊商貿易に従事する商人であったことも原因の一つであるが、イスラーム世界の成立にともない、ムスリム商人による遠隔地貿易が盛んとなり、人と物の交流は文化の交流を促進したようだ。世界各地へとイスラームが拡大したことには、ムスリム商人が大きく関わっていた。
先日、NHKの「3か月でマスターする世界史」の「第4回 イスラム拡大の秘密」(2024年4月24日)においても、守川知子先生も、イスラム教は「商人の宗教」である点を強調されていた。
中世の益田は、人と物の交流の最前線であり、人々はその豊富な地域資源と中国と朝鮮半島に近い立地条件を活かして日本海に漕ぎ出し、積極的に国内外との交易に取り組んでいた。中世の高津川・益田川河口域は港町として賑わった。砂州の南側から発見された中須東原遺跡は、港町の遺跡の代表例である。出土した陶磁器は、国内はもとより、西は朝鮮半島や中国、南は東南アジアとの交易を物語っている。
益田氏は江戸時代(近世)初めに残念ながら益田を去らざるを得なくなり、益田は江戸時代に城下町にならなかった。しかし、これにより中世の町並みがそのまま残った。益田の歴史は、中世日本の傑作とも言われる。
ところで、その商業の町・益田出身の岩本薫氏が、囲碁の海外普及に後半生を捧げられたことは、益田の進取的な精神性と関連させてみると私には興味深かった。
岩本薫氏は、橋本宇太郎本因坊と原爆投下時に対局していた。「原爆下の対局」として知られる。原爆という戦争体験と世界平和への希求の思いが重なって、使命感をともない、囲碁文化の海外普及に向かわれたことであろう。
(「原爆下の対局」については、平本弥星氏も言及しているので、紹介してみたい)
また、夏目漱石と並ぶ明治の二大文豪の一人森鷗外(1862-1922)は、その益田市に近い津和野の出身である。石見国津和野藩の御典医の長男として、津和野に生まれた。東大医学部卒業後、陸軍医となり、1884年ドイツに留学した。やはり森鷗外も海外に目が向いていた。
さて、玉将(王将)から歩兵まで漢字で書かれた将棋の駒と異なり、碁石には階級性はなく、あるのは黒と白の色の違いだけであり、囲碁は原則、どこに置いてもよい。囲碁のルールも簡単である。しかし、ノーベル文学賞を受賞した文豪、川端康成(1899-1972)がいみじくも「深奥幽玄」と揮毫したように、囲碁は奥深く計り知れない趣がある。川端は大の囲碁好きで、本因坊秀哉(1874-1940)の引退碁を扱った小説『名人』という名作がある。
(川端康成の小説『名人』については、平本弥星氏も言及しているので、紹介してみたい)
日本の囲碁界は、開放的で国際性に富んでいる。例えば、戦前、瀬越憲作らの尽力により中国(福建省出身)から呉清源が来日して活躍したし、戦後も、呉清源門下の林海峰(中国の上海出身)、マイケル・レドモンド(アメリカ)、趙治勲・柳時熏(韓国)、張栩・林漢傑(台湾)など、国籍を問わず、棋力が高ければ活躍できる。(敬称略)
前置きが長くなったが、今回のブログでは、次の参考文献を参照して、本因坊道策について、考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
〇酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』日本棋院、1991年[2001年版]
〇中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年
【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
【目次】
創作文字詰碁「知」
はじめに 碁はひろやかな知
第一章 手談の世界――碁は人、碁は心
碁を打つ
プロの碁と囲碁ルール
アマチュア碁界の隆盛
脳の健康スポーツ
第二章 方円の不思議――碁の謎に迫る
碁とは
定石とはなにか
生きることの意味
第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史
1 中国・古代―琴棋書画は君子の教養
2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来る
3 中世(鎌倉時代・室町時代)―民衆に碁が広まる
4 近世(安土桃山時代・江戸時代)―260年の平和、囲碁文化の発展
終章 新しい時代と囲碁
歴史的な変化の時代/IT革命と囲碁/
碁は世界語/コンピュータと碁/教育と囲碁/
自ら学び、自ら考える力の育成/
生命観/囲碁は仮想生命/生命の科学/
囲碁で知る
おわりに
参考文献
重要な囲碁用語の索引
連絡先
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
〇≪本因坊道策について~平本弥星『囲碁の知・入門編』より≫
・碁聖道策
・安井算哲(渋川春海 )の天元打ち
・道策、琉球の名手と対戦
・最初の免状
・道策の遺言
〇玄妙、道策の世界~酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』より
〇原爆下の対局~平本弥星『囲碁の知・入門編』より
〇川端康成『名人』~平本弥星『囲碁の知・入門編より
〇秀哉の生い立ち、川端康成『名人』~中山典之『昭和囲碁風雲録 上』より
碁聖道策
・現代の棋士に古今最強を問うなら、道策、秀策、呉清源にかなりの票を入れるだろうか。
道策は碁聖と三百年呼ばれ続ける巨人である。
・4世本因坊道策は正保(しょうほう)2年(1645)に石見(島根県)で生まれた。
将軍家光が鎖国を完成した4年後、満州族の清帝国が明を倒して中国支配を始めた翌年である。
・道策は7歳で母に碁を教わり、14歳のころ道悦に入門したのであろうと、『道策全集』(日本棋院、1991年)に中山典之(六段)が記している。
御城碁の初出仕は23歳で、道策はどちらかというと大器晩成の棋士であった。
・道策が「生涯の得意」と言ったという安井春知(七段)との二子局は1目負の碁である。
この碁でも打たれている三間バサミ(白5)は道策の創始といわれ、今日よく打たれている「中国流」や「ミニ中国流」布石の発想は道策が最初である。
・また「手割り」と呼ばれる評価方法の確立など道策によって碁が大きく進歩し、日本の碁は高いレベルに達した。
≪棋譜≫道策「一生の傑作」
天和3年(1683)11月19日 御城碁
白 本因坊道策
1目勝ち 二子 安井春知
※黒4…星の大ゲイマ受け 黒8…小目の二間バサミ
・道策いわく「当代の逸物」春知との二子局では、70手目の黒1に対して、白2から隅の黒を捨て、先手を取って右上に向かったのが素晴らしい。
道策の碁は柔軟で大局観に優れ、部分戦では随所に妙手があり、ヨセが強く、ミスはほとんどない。
≪棋譜≫捨てて先手をとる
・白2から8までと左下隅を捨石にして下辺を強化し、白10からまた絶妙の打ち回し
(『道策全集』第3巻、日本棋院、1991年)
・本因坊道悦は延宝5年(1677)に隠居願を出して道策に家督を譲り、道策を名人碁所に推薦した。
このときだけは他家から異論なく、翌年4月17日(家康の命日)の日付で名人碁所の証文が下されたという。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、228頁~229頁)
安井算哲(渋川春海 )の天元打ち
・初めての和暦(貞享暦[じょうきょうれき])を作った渋川春海(はるみ)の名は多くの人が知っているだろう。
渋川春海は碁打ちの安井算哲(1639-1715)である。
算哲は父の古算哲に学び、高い技量(上手)の碁打ちであったが、若いころから数学や天文、陰陽道を学んで暦法を研究し、中国の古い暦から新暦への改暦を主張した。
・道策に勝てなかった算哲は、秘策によって必ず勝つと豪語して、御城碁で道策に対する。
秘策は天文研究を応用した起手天元。
しかし、天元の是非以前に実力の差は歴然で、敗れた算哲は二度と天元に打たなかった。
・やがて算哲は綱吉の命で碁方から天文方に転じ、完成した貞享暦が実施(1685)される。
安井家は算知が継ぎ、2世となった。
≪棋譜≫起手天元の局
・寛文10年(1670)10月17日 御城碁
9目勝ち 白 本因坊 道策(跡目)
先 安井算哲(2世、渋川春海)
※道策は御城碁14勝2敗。敗れた2局は二子局でいずれも1目負。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、230頁)
道策、琉球の名手と対戦
・スーパースター道策の時代に本因坊一門は隆盛を極め、門弟3千人と語られている。
将軍綱吉の側用人(そばようにん)牧野成貞(なりさだ)や儒者の祇園南海(ぎおんなんかい)も門人で、その棋譜や逸話が残っている。
道策門下から碁で士官する者もあった。
・中継貿易で繁栄した琉球王国は、島津家久の琉球出兵(1609)で薩摩藩に従属させられ、将軍と琉球王の代替わりの都度、慶賀使・謝恩使の江戸上りを強いられた。
琉球は碁が盛んで、碁法はもともと自由布石であった。
・天和2年(1682)将軍綱吉の襲職慶賀使に、琉球の名手親雲上浜比賀(ぺいちんはまひか)が随行している。
薩摩藩主島津光久が幕府の許可を得て、道策と浜比賀の国際対局が実現した。
浜比賀は四子置いて、道策の妙技に敗れる。
≪棋譜≫国際対局の最古の棋譜
・天和2年(1682)4月17日 松平大隅守(薩州侯)邸
14目勝ち 白 本因坊 道策
四子 親雲上 浜比賀
・江戸時代から昭和初期まで、星に対するカカリには、「大ゲイマ受け」が絶対の定石だった。
天和2年(1682)に来朝した琉球王国の名手親雲上浜比賀は薩摩藩の斡旋で、4世本因坊道策と対局の機会を得た。
四子置いて道策に対した浜比賀は、図1の黒2、黒4と大ゲイマに受けている。
当時の琉球も大ゲイマ受けが定石だった。(116頁)
【図1】
【図2】
・さらに1局の対戦を求め、第2局は3目勝ちだった。
免状を強く望んだ浜比賀に、名人碁所道策は上手に二子以内の手合と漢文で記した免状を与えた。
上手(七段)に二子は三段ということである。
三段は名人に三子の手合。
・初手合の碁(上記の棋譜)は日本の名人の権威を賭けて勝ちにいった道策であるが、2局目は島津光久の顔を立て、免状は上手に二子としたのである。
光久と浜比賀は大いに喜んだに違いなく、薩摩藩から道策に謝礼として白銀70枚、巻物20巻、泡盛2壺、浜比賀から白銀10枚が贈られたと記録にある。
・藩主島津氏の祖先は渡来系氏族で、薩摩は戦国時代から碁が盛んであった。
こののち、薩摩藩は道策の門弟を碁の指南役に迎え、琉球の碁打ちも指導を受けたと伝えられている。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、116頁~117頁、231頁~232頁)
最初の免状
・このときの免状が囲碁史上で最初とされ、道策が「段位制」を創ったといわれてきた。
「ところが、昭和55年に故林裕氏が、長野県塩尻市の旧家から初代本因坊算砂と初代安井算哲の免状の写しを発見した」と水口藤雄が記している。
(水口藤雄『囲碁文化誌』2001年)
林裕が「書簡のような免状」と言ったという算砂の免状には、「上手に対し先と二ツの手相に直し置き候」とある。
上手に先二(四段)が許された釜屋太夫は、白木助右衛門の「国中囲碁三段以上姓名録」に四段とあり、一致する。
算哲にも免状を貰っている。
(『囲碁年間1997年』日本棋院「免状の歴史と変遷」)
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、232頁、250頁)
道策の遺言
・道策には六天王と謳われた弟子がいた。
13歳で棋力六段に達したといわれる小川道的は天才中の天才と呼ばれ、16歳で道策の跡目となるが、惜しくも22歳で夭折(1690)。
・星合八碩(ほしあいはっせき)は27歳(1692)で、道的の没後に道策が再跡目とした佐山策元は25歳(1699)で、元禄10年(1697)に道策の研究碁の相手を7局も務めた熊谷本碩(くまがいほんせき、生没年不詳)は23歳で、いずれも他界する。
・吉和道玄(よしわどうげん、生没年不詳)は筑後有馬家に士官し、晩成型で道策より1歳年少の桑原道節(1646-1719)だけが残った。
道策は実弟を2世因碩(道砂)として井上家を継がせ、道節を道砂因碩の跡目(1690)として3世因碩を継がせる。
・元禄15年(1702)3月、道策が病没。
同月に新井白石(1657-1725)が『藩翰譜(はんかんぷ)』を綱吉に献上し、赤穂浪士の吉良邸討ち入りは同年12月である。
死を前に道策は道節因碩を呼び、
予本因坊家を相続せし以来、古今稀なる囲碁の隆盛を見る。今死すとも憾なし。然れども、唯死後に跡目なきは、大に憂慮する所(中略)心に叶いたる者、神谷道知一人あるのみ。道知今年13歳にして二つの碁なりと雖も(中略)世に稀なる奇才なれば(中略)汝道知の後見となり(中略)名人碁所たらしむべし。
と、『坐隱談叢(ざいんだんそう)』(安藤如意、1909年)にある。
また道策は、碁所を決して望んではならないと因碩に誓紙を認(したた)めさせたとある。
『坐隱談叢』はそのまま信ずるには足りない書であるが。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、233頁)
玄妙、道策の世界~酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』より
第三章 玄妙、道策の世界
第1局 中原雄飛の快局
寛文十年(1670)三月十七日
本因坊道策
二子 菊川友碩
名局中の名局という(171頁)
〇玄妙の極致
白101の利かし一本で中央がほぼ止まり、白103と手どまりの大ヨセに回って遂に追い抜いた。
序盤の石捌きが芸術品なら、中央経営をめぐっての中盤戦もすばらしく、白103に至る最後の仕上げに至っては玄妙の極みというしかない。
※本局は二子局であるが、すべての着手が感動的であり、
道策の作品としては名局中の名局に入ると思うとする。
(酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』日本棋院、1991年[2001年版]、162頁~171頁)
原爆下の対局~平本弥星『囲碁の知・入門編より
・第11期棋聖戦第3局は広島で打たれ、立会人が岩本薫九段、解説は橋本宇太郎九段だった。
このときの碁盤と碁石は、歴史に残る「原爆下の対局」で両九段が使用した盤石である。
・第3期本因坊戦は昭和20年(1945)に行なわれた。
物資が窮乏して前年に新聞から囲碁欄が消え、「碁など打っている時局か」といわれるなかで、広島に疎開していた瀬越憲作(せごえけんさく)八段が本因坊戦の実現に奔走した。
やがて戦争は終わる。
囲碁復興のためには本因坊戦の灯を絶やしてはならないと、瀬越は考えたのであった。
・20年5月の空襲で溜池(ためいけ)の日本棋院が焼失。
焼野原の東京を離れ、広島市で7月23日に七番勝負第1局が開始された。
第6局までコミなしで3日制。
日本棋院広島支部長の藤井順一宅で打たれ、屋根に米軍機の機銃掃射を浴びながら、防空壕に入らず打ち終えたという。
挑戦者岩本薫七段の白番5目勝だった。
・第2局は警察から「危険だから市内で打ってはいけない」と厳命があり、広島郊外の五日市(いつかいち)で8月4日に開始された。
8月6日午前8時15分、原子爆弾投下。
3日目の再開直後で、局面は106手くらいだった。
≪棋譜≫(1-106)
〇昭和20年(1945)8月4、5、6日
広島県五日市
第3期本因坊戦七番勝負第2局
中押し勝ち 白 本因坊 橋本昭宇
先番 七段 岩本薫
※記録係は三輪芳郎五段(1921-94 九段)
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、37頁)
・岩本は『囲碁を世界に』でつぎのように語っている。
いきなりピカッと光った。それから間もなくドカンと地を震わすような音がした。聞いたこともない凄みのある音だった。同時に爆風が来て、窓ガラスが粉々になった。障子とか襖は倒れ、固いドアがねじ切れた。広島から五日市までは二里半、約十キロメートルである。ピカッと来てからドカンまで、実際は三十秒足らずのはずだが、五、六分ぐらいに長く思えた。ひどい爆風で、私は碁盤の上に俯(うつぶ)してしまった。
(岩本薫『囲碁を世界に』講談社、1979年)
・橋本本因坊は吹き飛ばされ、庭にうずくまっていたという。
ガラスの破片や碁石が散乱した部屋を掃除して対局は続行され、橋本本因坊の白番5目勝ちとなった。
・棋譜をながめて、深い問いを禁じ得ない。
生きるとはどういうことか。碁とは何なのか。
いっぺん死んだのだ、あとどうすればよいか?
どうせ死んだものなら、これからひとつ碁界のために尽くそうではないか、そんな気持を抱くようになった。
岩本九段は後半生を囲碁の国際普及に捧げ、日本棋院海外センターを欧米4都市に設立。
シアトルの日本棋院米国西部囲碁センターの外壁には原爆対局の棋譜が飾られ、館内の岩本九段のレリーフが、来訪者を惹きつけているという。
※岩本薫(1902-99)
・島根県。広瀬平次郎八段門下。第3、4期本因坊。戦後復興期に一時日本棋院理事長。
海外普及に貢献。
42年(1967)九段。
著書『囲碁を世界に』講談社、1979年
※橋本宇太郎(1907-94)
・大阪。瀬越九段に入門。第2、5、6期本因坊。
25年(1950)日本棋院から分離し関西棋院を創立。29年九段。十段2期。王座3期。
※瀬越憲作(1889-77)
・広島県能美島。戦後に日本棋院理事長。
囲碁文化の普及に貢献し、『御城碁譜』(1952年)、『明治碁譜』(1959年)を編纂。
30年(1955)引退、名誉九段。
※空襲
・1945年3月10日の東京大空襲では死者10万人。
※原子爆弾投下
・1945年8月6日広島、9日長崎に米軍が原子爆弾投下。
原爆による死者は広島20万人、長崎14万人。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、36頁~38頁、250頁)
川端康成『名人』~平本弥星『囲碁の知・入門編より
・川端康成の小説『名人』の冒頭は次のようにある。
第二十一本因坊秀哉名人は、昭和十五年一月十八日朝、熱海のうろこ屋旅館で死んだ。数え年六十七であった。
・川端は『雪国』をはじめ日本人の繊細な心を巧みに表現した数々の名作を残した。
本因坊秀哉名人の引退碁を題材にした『名人』もその一つである。
昭和43年(1968)に川端がノーベル文学賞を受賞する以前から、ヨーロッパで『名人』の翻訳が出版されていた。
・昭和13年(1938)6月26日に始まった名人引退碁は、持時間各40時間、15回にわたって打ち継がれ、12月4日終局。
名人の病気入院で3カ月の中断があったとはいえ、半年もかかった空前絶後の長い勝負だった。
・昭和12年秀哉名人が引退を表明。
引退碁の選士を六段以上の棋士によるリーグ戦で決定することになり、木谷実七段が優勝した。
・毎日新聞(東京日日新聞・大阪毎日新聞)が掲載した川端の観戦記は66回を数え、川端が戦後にそれを小説化したのが『名人』である。
木谷七段を大竹七段としているほかは実名となっている。
・芝公園の紅葉館で初日は2手だけ、翌日に12手まで進んだところで箱根の奈良屋旅館に移り、7月11日から打ち継がれた。
≪棋譜≫秀哉名人引退碁
・昭和13年(1938)6月26日~12月4日
白 名人 本因坊秀哉
黒 七段 木谷実
・24手目、白1のアテが名人の新手。
・黒2とアタリの石を逃げたとき、白3のオシ。
・ここで次の手が封じ手となった。
・5日後に打ち継がれ、開封された木谷七段の一手は黒4のキリ(アタリ)だった。
※秀哉(1874-1940)
・本名田村保寿(ほうじゅ)。世襲制最後の21世本因坊。
村瀬秀甫(しゅうほ)の方円社で学んだ後、放浪。
朝鮮の亡命政治家金玉均(きんぎょくきん)の紹介で19世本因坊秀栄に入門。
1914年名人。
※川端康成(1899-1972)
・北条泰時の末裔という。碁を好んだ。
※木谷実(1909-1975)
・鈴木為次郎に入門。大正13年(1924)入段。
昭和8年(1933)呉清源とともに「新布石」を打ち始める。
最高位2期(1957、58)ほか。本因坊に3度挑戦し敗れる。
弟子を多数育成。木谷一門の総段位は500段位を超える。
※アテ
・アテる=アタリを打つ。アテ=アタリを打つこと。
※新手
・布石や定石において、実際に打たれた新しい有力な手。
※アタリ
・あと一手で囲んで取れる(抜ける)状態のこと。
※オシ
・相手の後から押す手。
※キリ
・相手の連絡を切る手。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、26頁~27頁)
アタリとシチョウ
・『名人』は観戦記ではない。
川端の眼に映る、秀哉名人を中心とする人物や情景を描写した小説である。
碁の解説はなく、盤上の一手一手も出来事の一つひとつである。
死の半月前、名人は日本棋院の囲碁始め式に臨んで、連碁に参加した。
・「祝賀の名刺を置いて行く代り」のような連碁の最後を秀哉が打つことになり、その最後の一手に名人は40分考えたとある。
秀哉名人は将棋や麻雀でも長考したという。
・碁の手順を前後して様々な描写を織りまぜる『名人』は、この局面にふれていない。
28手目、白はアタリの一子を白5と逃げ、黒は6にオサエ。そして白7。黒一子がアタリです。しかし黒は逃げず黒8とノビて、白9で一子を取りました。黒10から白13と進み、ここまで「ほとんど必然とみられる」と木谷の解説(『囲碁百年』)にある。
・引退碁は木谷七段の5目勝ちで終局した。
≪棋譜≫秀哉名人引退碁
・持時間各40時間 消費時間(終局時)
名人 本因坊秀哉 19時間57分
七段 木谷実 34時間19分
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、28頁~29頁)
秀哉の生い立ち、川端康成『名人』~中山典之『昭和囲碁風雲録 上』より
〇秀哉の生い立ちについて
・明治7年(1874年)6月24日生まれで、昭和15年(1940年)の1月18日に亡くなっているから、数えどしの67歳。
満65年半の栄光に満ちた生涯だったようだ。
しかしながら、その少年時代は辛苦そのものの日常だった。
社会のどん底から這い上がって第一人者となり、それを維持したまま生を終えるまでの道のりは、文字通り一生を貫いた闘争史であった。
・二十一世本因坊秀哉。本名は田村保寿、徳川幕府の旗本だった父、田村保永の長男として生まれた。この親父殿は大局を見損じて、佐幕派の陣に走り、彰義隊に参加したりしたので、官員になったものの将来性は全くなく、失意の日常を好きな碁でまぎらわしていた。保寿は父の碁を眺めているうちに自然と碁を覚える。ときに数えの8歳だったという。
・10歳、近所の碁会所の席亭が勧めるままに方円社を訪ね、村瀬秀甫八段に十三子置いて一局教わり、直ちに入塾を許される。
・11歳で母を亡くし、17歳で父を失う。
孤高の名人と言われる秀哉は、一人で社会に放り出されて、少年時代から孤独だった。
頼りになるのは自分だけなのである。
・17歳のとき、方円社から二段格を許されたが、もちろんそれで一家を構えられるわけがなく、方円社の最底辺に在って心はあせるばかりだった。実業界に進出しようとしたが、失敗した。方円社にも顔を出さなかったこともあり、追放処分にされてしまう。ときに田村保寿二段、数えの18歳。
・房州の東福院というお寺さんの和尚に拾われ、自分には碁しかないのだということがわかる。保寿は麻布六本木に教室を開く。そこに、たまたま朝鮮から日本に亡命していた金玉均が入ってきた。金と本因坊秀栄七段は親友であり、時の第一人者秀栄に紹介されたのが開運の端緒になったそうだ。秀栄は保寿に四段を免許し、秀栄の門下生になった。
・ここからの保寿の奮闘ぶり、精進のさまがものすごかったとされる。
師匠の秀栄には定先で何とかしがみついている程度だったが、競争相手の石井千治をついに先二まで打込み、雁金準一を撃退し、秀栄の歿後に本因坊秀哉を名乗って第一人者となる。
・晩年には鈴木為次郎、瀬越憲作の猛追に苦しみ、最晩年には超新星、木谷実、呉清源の出現を見たが、ともかくも明治晩年から昭和初年に渉る巨匠秀哉だった。
亡くなる寸前まで、第一線で活躍した現役の名人本因坊秀哉だった。
・中山典之氏によれば、秀哉名人は古名手たちと比べてみると、世俗的な見方からすれば最も幸福な生涯を得た人といえるようだ。
(幸福と言う語が当たらぬとすれば、幸運と言うべきだろうかとも)
名人位に在ること満27年。
功成り名遂げて世の尊敬を集め、本因坊位を後世にゆだね、惜しまれながら去った。
・歴代名手に思いをめぐらせば、名手本因坊秀和は優に大名人の力がありながら貧窮のうちに世を去った。
その秀和師匠が秀策にもまさると評した村瀬秀甫は、本因坊八段になって僅か3か月で死んだ。
名人中の名人と言われた、秀哉の師匠、本因坊秀栄も、名人在位期間は僅々8か月に過ぎない。
・秀哉名人の墓所は、東京の山手線巣鴨駅から北の方へ徒歩10分ほどの、本妙寺にある。
そこには本因坊道策名人以降の歴代本因坊や跡目の墓石も並んでいる。
そして、秀哉歿後60余年を経た今でも、命日の1月18日には、日本棋院が主催し、時の本因坊を祭主として、「秀哉忌」が行われているという。
(中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年、192頁~195頁)
〇「第十章 秀哉名人の引退と本因坊戦の創設」の「秀哉名人、引退の花道」(173頁~177頁)において、川端康成『名人』について中山典之氏は言及している。
・昭和13年(1938年)6月26日。
本因坊秀哉名人対木谷実七段の「引退碁」が始まった。
秀哉ときに64歳、木谷29歳。
・対局場は箱根、伊東と移り、途中で秀哉名人の病気が悪化して3か月の中断があったりしたが、12月4日に漸く終局した。
結果は木谷七段5目勝ち。
不敗の名人は最終局を飾れなかったが、64歳にして若い木谷七段をあわやという所まで追いつめた名局であるとされる。
・なお、この碁の観戦記者は文士の川端康成だった。
また解説は呉清源六段だった。
毎日新聞も、また粋なはからいをしたものだと思う。
名局を読者に紹介する観戦記者がヘボ文士であってはならぬし、解説者が凡手であってもならない。
毎日はこの意味で最善の手を打ったと申せよう。
川端康成の観戦記は第62譜に及ぶ大がかりのものだったが、氏はこの長期間、盤側を離れることなく、対局両者と対局場の空気を伝えている。
・その62回に及ぶ観戦記を読んでみて、川端先生はやはり最高の観戦記者であると思う、と中山氏は記す。
当時の棋力はプロに六子ぐらいの碁だから、手のことはチンプンカンプンだったろうと思うが、一刻も目を離すことなく、ピンと張りつめた対局場の雰囲気を伝えてくれたという。
・なお、川端氏は、この観戦記を材料にして、小説『名人』を書いた。
観戦記では書きにくかったことも付け加えて、木谷七段を「大竹七段」と仮名で登場させているが、その他の棋士や関係者は全員実名で書かれている。
〇その観戦記の第1譜と、第63譜の一部を引用している。
「居並ぶ人々は息を呑む。もう名人は、いつも盤に向ふ時の癖、静かに右肩を落してゐる。その膝の薄さよ。扇子が大きく見える。木谷七段は眼をつぶつて、首を前後左右に振つてゐる。
名人は立ち上つた。扇子を握つて、それがおのづから、古武士の小刀を携へて行く姿だ。盤の前に坐つた。左の手先を袴に入れ、右手を軽く握つて、昂然と真向きだ。磨かれた名盤を挟んで七段も席についた。名人に一礼して碁笥の位置を正した。無言のまま再び礼をすると、七段は瞑目した。そのしばしの黙想を破るかのやうに、
「はじめよう。」と、名人が促した。小声だが、なにをしてゐるかといはぬばかりの、力強い挑戦だ。ほつと七段は眼をあいたが、再び瞑目した。驚くべき慎重の態度と思ふ間もなく、戛然(かつぜん)たる一石だ。時に十一時四十分。
新布石か、旧布石か。星か、小目か。ただの第一著手ではない。満天下の愛棋家の無限の注目を集めた第一著手は、見よ、「17四」、旧布石の典型の小目だつたのだ。」
「名人が、無言のまま駄目を一つつめた瞬間、
「五目でございますか。」と傍から小野田六段がいつた。敦厚(とんこう)な小野田六段の性格が聞える、敬虔な声であつた。はつきり分つてゐるものを、今更ここで作つてみる、その労を省かうとした、――名人への思ひやりなのである。
「ええ、五目。」と、名人はつぶやいて、少し脹(は)れぼつたい瞼を上げると、もう作つてみようとはしなかつた。」
なお、最後の秀哉の言葉。もう一人、現場にいた三谷水平さん(ペンネーム芦屋伸伍)は、「左様。五目。」と、力強く応答したと言つている。
つぶやいたか、力強く応じたかは聞く人の感じで違うが、秀哉名人の大役を果した安堵の声が聞こえて来る。
(中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年、173頁~177頁)
【補足】
・川端康成の『名人』については、次のような論文がネットで閲覧可能である。
後日、紹介してみたい。
〇福田淳子
「「本因坊名人引退碁観戦記」から小説『名人』へ―川端康成と戦時下における新聞のメディア戦略―」
『学苑・人間社会学部紀要』No.904、2016年、52頁~67頁
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