歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その13≫

2020-12-24 18:04:41 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その13≫
(2020年12月24日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


 今回のブログでは、レオナルドとチェーザレ・ボルジアとマキャヴェリとの関係について、ヘイルズ氏の著作を通して、考えてみたい。
これら三者をみる場合、次の点に注意しながら、ヘイルズ氏の著作内容を紹介したい。
・レオナルドとチェーザレ・ボルジアとの出会いは、どのようなものであったのか。
・レオナルドは、チェーザレ・ボルジアの下でどのような仕事をしたのか。
・チェーザレ・ボルジアやマキャヴェリは、どのような特徴をもつ人物として、捉えられているのか。
・レオナルドとマキャヴェリとの関係は、どのようなものであったのか。
・マキャヴェリの『君主論』は、どのような状況下で書かれたのか。

〇Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年

【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】

Mona Lisa: A Life Discovered

【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】

モナ・リザ・コード




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・レオナルドとマキアヴェッリ
・レオナルドとチェーザレ・ボルジアとの1499年の出会い
・レオナルドとチェーザレ・ボルジアとの1502年の出会い
・チェーザレ・ボルジアとレオナルドとマキアヴェッリ 
・マキャヴェリと『君主論』







レオナルドとマキアヴェッリ


1482年、レオナルドは、フィレンツェを離れてミラノに移住し、約20年近く、ほぼ人生の3分の1をミラノで過ごすことになる。ミラノでは、野心的なパトロンだったルドヴィーコ・スフォルツァ公の下で才能を開花させる。数学などの勉強に熱中し、ヘリコプターや戦車の原型を考案した。絵画の分野では、名画「最後の晩餐」を仕上げた。
しかし、1499年、フランス軍がミラノを占領し、レオナルドは逃亡し、1500年、フィレンツェに戻る。

その後の数年の出来事をダイアン・ヘイルズ氏は次のように述べている。
Then history turned on a ducat. A French invasion of Milan forced
Leonardo to flee to Florence in 1500. Over the next few feverish years, he
would join the employ of the infamous Cesare Borgia, collaborate with
Niccolo Machiavelli, spar with the upstart sculptor Michelangelo, mourn
his father’s death, attempt unparalled artistic feats, and suffer ignomin-
ious failures. Through these years and beyond, he lavished time ant at-
tention on the one portrait he would keep with him for the rest of his
life ― Lisa Gherardini’s.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.7.)

【単語】
ducat  (n.)(歴史)ダカット金貨(中世イタリアで用いられた金貨)
 (cf.) turn on a dime (車で)急に曲がる、急に変わる dime (n.)(米国・カナダの)10セント硬貨
invasion  (n.)侵入、侵略
flee    (vi., vt.)逃げる
feverish  (a.)熱のある、熱狂的な
employ  (n.)使用、雇用 (vt.)雇う
infamous (a.)悪名の高い(notorious)
collaborate (vi.)共に働く、協力する
spar (vi.)こぶしで折合う、口論する(with)
upstart (n., a.)成り上がり者(の)
mourn  (vi., vt.)悲しみ嘆く、喪に服す、哀悼する
unparalled (a.)匹敵するものがない、無比の、前代未聞の
feat   (n.)行為、功績、離れ業
ignominious  (a.)恥ずべき、不名誉な、卑しむべき
beyond  (ad.)(時間的に)より後に、ほかに、さらに
lavish   (vt.)惜しまず与える、浪費する (a.)気前のよい、浪費的な
attention  (n.)注意(力)

≪訳文≫
そのとき、歴史は転換点を迎えた。フランスがミラノに侵攻して来たため、レオナルドは1500年にフィレンツェに逃げ戻った。それから数年の激動期に、レオナルドは評判の芳しくないチェーザレ・ボルジアに雇われたり、ニッコロ・マキアヴェッリに協力したりした。台頭してきた若手の彫刻家ミケランジェロと論争もしたし、父の死にも遭遇した。壮大な作品にも取り組んだが、大きな挫折も体験した。このころを境にして、彼は以後、一つの肖像画に執心し、終生、手を加え続ける。リサ・ゲラルディーニのポートレートだ。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、25頁)


リサが生きていた時代のフィレンツェには、芸術の巨匠たちが綺羅星のように輝いていた。ミケランジェロ、ボッティチェリ、ラファエロ、ペルジーノ、フィリッポ・リッピらの画家や彫刻家が腕を競ってひしめいた。
レオナルドとリサの時代、フィレンツェは、ほかの分野でも傑出した人材を輩出した。絶大な権力を誇っていたロレンツォ・デ・メディチ(その息子がジュリアーノで、前回のブログで見たように、リサと同い年であった)、カリスマ性を持っていたドメニコ修道士のサヴォナローラ。そして、チェーザレ・ボルジアとニッコロ・マキアヴェッリである。

そして、英文にあるように、1500年にフィレンツェに逃げ戻り、それから数年の激動期に、レオナルドは、様々な体験をした。
〇評判の芳しくないチェーザレ・ボルジアに雇われた
〇ニッコロ・マキアヴェッリに協力した
〇台頭してきた若手の彫刻家ミケランジェロと論争もした
〇父の死にも遭遇した
〇壮大な作品にも取り組んだが、大きな挫折も体験した

こうした時期に、レオナルドは、一つの肖像画に執心し、終生、手を加え続ける。リサ・ゲラルディーニのポートレート、つまり「モナ・リザ」であると、ヘイルズ氏は理解している。

さて、ヘイルズ氏は、チェーザレ・ボルジアとニッコロ・マキアヴェッリについて、次のように紹介している。

During Leonardo’s and Lisa’s lifetimes, larger-than-legend characters
strutted across the Florentine stage: Lorenzo de’ Medici, whose magnif-
icence rubbed off on everything he touched. The charismatic friar Savo-
narola, who inflamed souls before meeting his own fiery death. Ruthless
Cesare Borgia, who hired Leonardo as his military engineer. Niccolo
Machiavelli, who collaborated with the artist on an audacious scheme to
change the course of the Arno River.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.6.)

【単語】
strut  (vi.)気取って歩く (n.)気取った歩きぶり
Ruthless  (a.)無情な、残酷な
hire   (vt.)雇い入れる
collaborate (vi.)共に働く、協力する
audacious  (a.)大胆な、恥知らずの
scheme   (n.)概要、図式
course   (n.)進路、水路

≪訳文≫
レオナルドとリサの時代、フィレンツェはほかの分野でも傑出した人材を輩出した。ロレンツォ・デ・メディチは絶大な権力を誇っていた。カリスマ性を持っていたドメニコ修道士のサヴォナローラは、最後には絞首刑に処せられるが、民衆を動かして「宗教改革」に挺身して殉じた。ひところレオナルドを軍のエンジニアとして雇い入れたローマの政治家チェーザレ・ボルジアは、無慈悲な策士として名高い。政治思想家ニッコロ・マキアヴェッリは、レオナルドを巻き込んで、アルノ川の流れを変えようという大事業を考えたことがある。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、23頁~24頁)

ローマの政治家で、無慈悲な策士として名高いチェーザレ・ボルジアは、ひところレオナルドを軍のエンジニアとして雇い入れた。そして政治思想家ニッコロ・マキアヴェッリは、レオナルドを巻き込んで、アルノ川の流れを変えようという大事業を考えたことがあると説明している。

レオナルドとチェーザレ・ボルジアとの1499年の出会い


The two may have first met in Milan in 1499, when Cesare Borgia rode in
triumph with the French king Louis XII into the conquered city. There
he could have beheld Leonardo’s masterpieces, including his imposing
model for Il Cavallo, his matchless Last Supper, and his designs for for-
tresses and weaponry. For his part, Leonardo would undoubtedly have
heard of the Borgia pope’s son Cesare and his reputation as “a blood-
thirsty barbarian” who once had the tongue of a Roman satirist who in-
sulted him cut out and nailed to his severed hand.
Tall, with massive shoulders tapering to a wasp waist, the warrior
prince merged a sophisticated intellect with a sociopath’s penchant for
unspeakable violence. Appointed a cardinal as a teenager, he renounced
his crimson robes at age twenty-two to replace his murdered brother as
gonfaloniere and captain-general of the Papal States. (He remained the
prime suspect in the assassination.)
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.149.)

【単語】
rode    (v.)<rideの過去 ride(vi., vt.)乗る
triumph  (n.)勝利、得意の様子 in triumph意気揚々と
beheld  (v.) <beholdの過去分詞 behold (vt., vi.)(じっくり)見る、注視する
imposing (a.)堂々とした
matchless  (a.)無数の、無比の(unparalleled)
for one’s part 自分としては、自分に関する限り(as far as one is concerned)
blood-thirsty (a.)血に飢えた、残虐な
satirist   (n.)風刺作家、皮肉屋
insult   (vt.)侮辱する
cut out   切取る、切離す
nail    (vt.)釘を打つ (n.)釘、つめ
sever   (vt.)分離(切断)する
taper   (vi., vt.)次第に細くなる[する] (cf.) tapering (a.)先細の
wasp   (n.)スズメバチ →wasp waist (コルセットなどで締めつけた)とても細い腰
     (cf.) wasp waisted (a.)細腰の
merge  (vt.)溶け込ませる、合併する
sociopath (n.)[精神医学]反社会的行為者(psychopath)
penchant  (n.)(フランス語より)(他人には好まれない)強い好み、趣味、傾向(for)
unspeakable (a.)言うに言われない、言語道断な、ひどい
cardinal   (n.)[カトリック]枢機卿(深紅色の衣・帽子を着ける)、緋色 (a.)主要な、緋色の(scarlet)
renounce  (vt., vi.)放棄する、捨てる
crimson  (n., a., vt., vi.)深紅色(の)[にする、なる]
replace   (vt.)取って代る、交代させる
murder  (vt.)殺害する
gonfaloniere (イタリア語 ゴンファロニエーレ)「旗手」
 ルネッサンス期のイタリアで用いられた政治的な称号。集団のリーダーが就任する職であり、その集団の旗を指すイタリア語gonfalone(ゴンファローネ)に由来する。
つまり、中世イタリアの都市国家における最高執政官の称号。一般には中世ヨーロッパにおいて軍旗あるいは国旗の守護者をさしたが、フィレンツェその他のイタリア都市では、市政上の特別の機能を有した。
captain-general  (n.)[軍事]総司令官、提督
the Papal States 教皇領(教皇が統治した中部イタリアの地域[752年~1870年])

≪訳文≫
レオナルドとチェーザレ・ボルジアの出会いは、1499年のミラノが最初だったと思われる。ローマ教皇庁軍を代表するボルジアはフランス王ルイ12世とともに戦勝側として制圧したミラノに乗り込んだ。そこでボルジアは、レオナルドの数々の名作を目にした。騎馬像の粘土模型や、「最後の晩餐」、およびレオナルドが設計した砦や兵器などだ。レオナルドのほうでも、教皇アレクサンデル6世の息子で「蛮勇」を振るうチェーザレ・ボルジアの風評は聞き及んでいたに違いない。ローマの辛辣な皮肉屋が彼を批判したというので、この男の舌を切り取り、同じく切断した男の腕に釘で打ち付けた、というエピソードが伝えられている。
 武将チェーザレ・ボルジアは長身で肩幅が広く、腹も締まっており、優れた知性と言語に絶する凶暴で反社会的な悪趣味を合わせ持っていた。10代のうちに早くも枢機卿に任命されたが24歳でその地位を捨て、暗殺された兄に代わって教皇庁軍の旗手になり、提督に昇格した(暗殺の主犯だと見なされている)
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、213頁)

レオナルドとチェーザレ・ボルジアの出会いは、1499年のミラノが最初だったとヘイルズ氏はみている。ボルジアは、騎馬像の粘土模型や、「最後の晩餐」、およびレオナルドが設計した砦や兵器といったレオナルドの名作を目にしたようだ。
教皇アレクサンデル6世の息子であるボルジアの「蛮勇」ぶりを伝えるエピソードも、ヘイルズは書き足している。そして、その容貌と性格についても、的確に叙述している。

ところで、塩野七生氏は、チェーザレ・ボルジアについて、「第九章 チェーザレ・ボルジア」において、次のように述べている

「マキアヴェッリはチェーザレに、自分の夢の具象化を見出したのであろう。美男で鋼鉄製の鞭のような肉体をもち、立居振舞は若さに似ず、威厳と気品にあふれている。愛されるとともに怖れられ、征服した領土には略奪を許さず、ときを置かずに統治の策が実施される。すべての面で従来の考えから自由であり、その一例をあげれば、傭兵制度を信用せず、国民皆兵制度の導入を実行に移しつつある。そして、決断力に富み、武将としても優れ、かつ戦略的頭脳をもち、人の思惑など気にしない貴族主義者。」
(塩野七生『わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡』中公文庫、1992年、287頁)

マキアヴェッリがその『君主論』で、チェーザレ・ボルジアに、君主の象徴を見たことはよく知られている。塩野氏は、チェーザレ・ボルジアとマキアヴェッリを、「これ以上マキアヴェッリ的な君主もいないと思われる君主と、マキアヴェリズムの創始者」として捉えている。
(塩野、1992年、286頁)

【塩野七生『わが友マキアヴェッリ』はこちらから】

わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡―塩野七生ルネサンス著作集7―

レオナルドとチェーザレ・ボルジアとの1502年の出会い


レオナルドとチェーザレ・ボルジアとの1502年の出会いについて、ヘイルズ氏は次のように述べている。

At his first meeting with Cesare Borgia in 1502, in a candlelit chamber
in the ducal palace of Urbino, his latest conquest, Leonardo coolly ap-
praised the man once hailed as the most handsome in Europe. Three red
chalk sketches capture his first impressions of his new patron: a jowly
face, coarsened features, heavy-lidded eyes. A thick beard covered the
pustules caused by syphilis, the “the French disease” that had spread through
the peninsula after Charles VIII’s invasion. By day Cesare took to wear-
ing a black mask.
It’s not clear exactly how Leonardo ended up in Cesare’s employ. Per-
haps the Florentine Republic volunteered his services as a token of good-
will to a predatory tyrant who posed a constant threat to its security.
Perhaps Il Valentino simply demanded the expertise of the man he con-
sidered the most brilliant engineer of his day.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.150.)

【単語】
candlelit  (a.)ろうそくの明かりで照らされた
ducal   (a.)公爵(duke)の
coolly  (ad.)涼しく、冷静に
appraise (vt.)評価する
haile  (vt., vi.)~と呼んで迎える、称賛する
jowly  (a.)あごの
coarsen (vt., vi.)粗野にする[なる]
lidded  (a.)[複合語で]~のまぶたの
beard   (n.)ひげ
pustule  (n.)(医学)膿疱、いぼ
syphilis  (n.)梅毒
peninsula  (n.)半島
by day  昼[日中]は
end up   ついには~することになる、最後には~に落ち着く、ことになる
volunteer  (vt.)自発的にする
as a token of  ~のしるし[証拠]に
goodwill  (n.)好意、親善、友好
 (cf.) promote goodwill between Japan and the USA 日米の友好を促進する
   pay a goodwill visit to Norway  ノルウェーに親善訪問をする
predatory  (a.)略奪する(predacious)
tyrant   (n.)暴君
expertise  (n.)専門的技術、熟練
brilliant  (a.)輝かしい、立派な、才気縦横の

≪訳文≫
レオナルドは1502年、チェーザレ・ボルジアが制圧したばかりのウルビーノで、はじめて会った。場所は公爵の館で、ロウソクの灯った部屋だった。ボルジアはヨーロッパきっての美男子ともてはやされることもあるが、レオナルドは冷静に対応した。赤いチョークでスケッチした三枚の絵が残っていて、それがボルジアの特徴を捉えている。尖ったあご、荒々しい風貌、まぶたがくっきりと深い目だ。濃いひげが、梅毒(「フランス病」と言われた)でできたあばたを隠している。この病は、シャルル八世のイタリア侵略以来、イタリア半島に蔓延していた。やがてボルジアは、黒いマスクで顔を覆うことになった。
 どのような経緯で、レオナルド・ダヴィンチがボルジアの下で働くことになったのかは、定かではない。一つ考えられるのは、フィレンツェは凶暴な暴君チェーザレ・ボルジアが侵略してくる気配が濃厚なため、懐柔策の一環としてレオナルドを親善大使として派遣することにしたという説。あるいは逆に、ボルジアのほうで、当代きっての優れたエンジニアと目されていたレオナルドを所望したという見方もある。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、215頁)

レオナルドとチェーザレ・ボルジアは、1502年、ウルビーノで、はじめて会ったようだ。赤いチョークでスケッチしたレオナルドの絵が残っている。尖ったあご、荒々しい風貌、まぶたがくっきりと深い目といった、ボルジアの特徴を捉えている。
なお、ヘイルズ氏は、ボルジアが黒いマスクで顔を覆うことになった理由についても触れている。そして、レオナルド・ダ・ヴィンチがボルジアの下で働くことになったのかは、定かではないと断りつつ、二つの説を紹介している。

チェーザレ・ボルジアとレオナルドとマキアヴェッリ


チェーザレ・ボルジアの下で働くことになったレオナルドについて、ヘイルズ氏は次のように叙述している。

The morning after their meeting in Urbino, Cesare Borgia disappeared.
“Where is Valentino?” Leonardo asked in his notebook.
The dark prince had absconded to Asti to meet with King Louis XII
of France, leaving a letter, a passport of sorts, that opened all doors to
“our most excellent and most dearly beloved friend, the architect and gen-
eral engineer Leonardo da Vinci… commissioned to inspect the build-
ings and fortresses of our states.” In a sartorial tribute, Cesare presented
him with one of his capes, long and green, cut “in the French style.”
Wrapped in this smart cloak, Leonardo threw himself into his as-
signment with the vigor of a man half his age. Rising with the dawn, he
rode through Cesare’s newly occupied territory. At each thick, castellated
fortress wall, he held up his quadrant to measure its height and peered
through his thick-rimmed round spectacles to record his observations
more precisely. The meticulous engineer paced out the length of moats
and inner courtyards and checked with his compass the direction of
nearby towns. Every now and then he paused to make a quick sketch in a
palm-sized notebook hanging from his belt.
In October 1502, the priors of Florence’s ruling Signoria, anxious for
news, dispatched their most adept diplomat to Borgia headquarters in
Imola: thirty-three-year-old Niccolo Machiavelli, a small-boned man
with short chestnut hair, a pert nose, and a smirk he couldn’t quite dis-
guise. Like many, I had thought of Machiavelli solely as a writer whose
name served as a byword for political cunning. But for fourteen years, the
devoted civil servant held various diplomatic and administrative roles in
his hometown, including Second Chancellor of the Florentine Republic.
Machiavelli, the political mastermind, and Leonardo, the polymath ge-
nius, holed up for the winter truce in Imola’s ducal palace. I imagine the
two cervelloni (“big brains” or intellectuals) passing long evenings before a
blazing fire, glasses of vin santo in their hands, talking late into the night
about all manner of things. Leonardo, his eyes weary after a day of work-
ing on an intricate map of Imola, would have appreciated Machiavelli’s
sharp eye and even sharper tongue.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.151-152.)

【単語】
abscond  (vi.)逃亡する、姿をくらます
of sorts  おそまつな、一種の、いわば
commission (vt.)委任(任命)する
inspect   (vt.)調べる、視察する
sartorial  (a.)仕立(屋)の
tribute   (n.)みつぎ物、贈り物
cape   (n.)肩マント、ケープ
wrap   (vt., vi.)包む、おおう
cloak  (n.)外とう、マント
throw  (vt.)注ぐ、(金・精力を)注ぎ込む(into, at)
assignment (n.)割当 ≪米語≫任務
vigor    (n.)活気、精力、活力
rode   <(v.)rideの過去 ride (vi.)(馬などに)乗って行く
castellated  (a.)城郭風の、城の多い
held up   <hold up 持ち上げる
quadrant   (n.)四分儀、四分円
peer    (vi.)じっと見る(at, into, through)
meticulous  (a.)いやに念入りな、細部に気を配った
pace   (vt.)歩測する(out)
now and then  ときどき(occasionally)
prior  (n.)修道院の副長、小修道院長、[古]プライア(中世フィレンツェ共和国などの行政府の長)
dispatch  (vt., vi.) 急派する、派遣する
chestnut  (n., a.)クリ色(の)
pert    (a.)なまいきな、粋な、小ぶりな
smirk   (n., vi., vt.)にやにや笑い[う]
disguise  (vt.)変装する、見せかける、(感情を)偽る
solely   (ad.)単に、全く
byword   (n.)悪例、決まり文句、代名詞
mastermind (n.)指導者、主謀者
polymath   (n.)博識家
truce    (n.)休戦、中止
cervelloni  →(イタリア語)(cf.)cervello[チェルヴェッロ]脳みそ
intricate  (a.)入り組んだ、複雑な
appreciate  (vt., vi.)評価する、正しく理解する、~のよさを味わう

≪訳文≫
ウルビーノで話し合った翌日から、イル・ヴァレンティーノことチェーザレ・ボルジアの所在が分からなくなった。
「ヴァレンティーノは、どこに行ってしまったんだ?」
と、レオナルドはノートに記している。
 神出鬼没のボルジアは、フランス王ルイ12世に会うため、密かにイタリア北部のアスティに赴いていた。だが、レオナルド宛ての手紙と、パスポート的な書類が用意されていた。レオナルドに対する呼びかけの賛辞として、「最も才能に溢れた親愛なる友、建築家であり、万能エンジニアのレオナルド・ダヴィンチへ」とあり、「わが領土内の建造物、城砦への立ち入りを許可」するという通行証を添付していた。支給衣類としては、自分の持ちものだったフランスふうの長くて緑色のケープを分け与えた。
 レオナルドはこの見栄えのいいコートを羽織り、自分の半分ほどの年齢の若いボルジアのために、張り切って仕事に取り組むことにした。夜明けとともに起き、ボルジアが新たに領土に加えた場所を、ウマに乗ってまず視察することから始めた。城砦の厚くて凹凸のある壁を、四分儀という機械を使って高さを測り、厚い縁の丸眼鏡で子細に観察し、その結果と感想をノートに記載した。レオナルドは几帳面なエンジニアだったから、壕の長さや中庭の広さを歩測で計測し、近くの町の方角を磁石で確認した。ところどころで足を止め、ベルトにぶら下げた手のひらサイズのノートにスケッチした。
 1502年10月、フィレンツェの最高議決機関シニョリーアの幹部たちは、異変に気づいて心配になったため情報を伝えようと、イモーラにあるボルジアの司令部に使者を送った。派遣されたのは、33歳のニッコロ・マキアヴェッリだった。痩せた小男で、短い茶色の髪、小さくまとまった鼻、つねにニヤついたような表情を見せている男で、変装はしにくい。多くの人が彼は著作に励んだ思想家だと認識しているのではないかと思うし、私も同じだった。マキアヴェッリの名前は政治的な陰謀を企てる権謀術数の代名詞だからだ。ところが実は、彼は14年にわたってフィレンツェで公務員をやっていて、副市長格まで務めた官吏だった。

政治的な画策を得意とするマキアヴェッリと、博識な天才レオナルド・ダヴィンチという二人の「知の英雄」は、冬の城砦で暖炉を囲みながら、食後酒ヴィンサントを注いだワイングラスを手に、夜も遅くまで話し合ったのではないかと思う。レオナルドは昼間にイモーラの地図づくりの仕事をやってくたびれていたが、マキアヴェッリの熱のこもった眼差しと、それ以上に熱心な口調で気を引き締められた。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、216頁~217頁)

チェーザレ・ボルジアの下でのレオナルドの仕事ぶりを列挙してみると、次のようになる〇ボルジアが新たに領土に加えた場所を、ウマに乗ってまず視察する
〇城砦の厚くて凹凸のある壁を、四分儀という機械を使って高さを測る
〇厚い縁の丸眼鏡で子細に観察し、その結果と感想をノートに記載する
〇壕の長さや中庭の広さを歩測で計測し、近くの町の方角を磁石で確認し、ノートにスケッチする

一方、1502年10月、フィレンツェの最高議決機関シニョリーアの幹部たちは、イモーラにあるボルジアの司令部に使者を派遣した。その人物こそ、33歳のニッコロ・マキアヴェッリであった。その容貌について、ヘイルズ氏の描写が興味深い。
「痩せた小男で、短い茶色の髪、小さくまとまった鼻、つねにニヤついたような表情を見せている男で、変装はしにくい」という。
マキアヴェッリといえば、政治的な陰謀を企てる権謀術数の代名詞といったイメージが強いが、実は、14年にわたってフィレンツェで公務員をやっていて、副市長格まで務めた官吏だった。

マキアヴェッリと、レオナルド・ダヴィンチという「知の英雄」が、冬の城砦で暖炉を囲みながら、食後酒ヴィンサントを手に、夜も遅くまで話し合ったのではないかとヘイルズ氏は想像している。

マキャヴェリと『君主論』


その後のマキアヴェッリの辿った生涯と『君主論』についても、解説しておこう。
『君主論』の訳者池田廉氏は、1513年の連座事件について説明している。つまりマキアヴェリは、反メディチ派の陰謀が発覚して、まきぞえを喰ったという。
実際、陰謀家が将来味方についてくれそうな人物を物色して、マキアヴェリの名前をメモに残していて起きたことだったようだ。「バルジェッロの庁舎」と呼ばれる公安局の牢獄に入れられ、縄で吊るされて拷問にあったという。明らかに冤罪ではあったが、釈放は2週間後だった。
それも、教皇ユリウスが永生きしていたら、その獄中生活はさらに長引いただろう(ユリウスは、教皇の平均在位期間10年を終えるとあっけなく急逝した)。
メディチ家出身のジョヴァンニ(前回のブログで言及したジュリアーノの兄)が、新教皇レオ10世になると、大赦令が出て出獄が許された。
マキャヴェリは、近郊のサンタンドレア・イン・ペルクッシーナの父の山荘に引きこもった。両親はすでに亡く、家庭には妻と10歳にも満たない息子たちがいた。当時の生活の模様は、親友ヴェットーリ宛ての手紙(『書簡集』1513年12月10日付)に詳しいという。
通説によれば、マキャヴェリは一気呵成に、1513年7月から12月にかけて、わずか5カ月のうちに、『君主論』を書き上げたとされる。
(マキアヴェリ(池田廉訳)『君主論』中公文庫、1975年[2002年版]、219頁~221頁)

【マキアヴェリ(池田廉訳)『君主論』中公文庫はこちらから】

君主論 - 新版 (中公文庫)

この1513年の連座事件について、ヘイルズ氏も次のように言及している。

In his bucolic refuge outside of Milan, Leonardo might not have heard of
the assassination plot against Giuliano de’ Medici that was uncovered in
February 1513. One of the captured conspirators, bargaining for his life,
produced a list of twenty leading citizens likely to support the rebels if
they had succeeded. Among those named was Leonardo’s former com-
panion and colleague Niccolo Machiavelli, who was flung into jail and
tortured with six excruciating drops from the dread strappado.
“I have borne them so straightforwardly that I love myself for it and
consider myself more of a man than I believed I was,” Machiavelli later
wrote to a friend. But he also realized that any admission of guilt would
have meant an immediate death sentence ― the fate of two others charged
in the conspiracy.
Begging Giuliano de’ Medici, as town governor, for mercy, Machiavelli
composed a poem that describes “the pain of six drops clawing into my
back” and prison walls crawling with lice “so big and fat they seem like but-
terflies.” If Giuliano ever saw the verse, he ignored it. Machiavelli remained
in the “stomach-turning, suffocating stench” of his vermin-ridden cell.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.198.)

【単語】
bucolic  (a.)いなか[田園]の
assassination (n.)暗殺
plot    (n.)陰謀、(小説の)筋、プロット
uncover  (vt.)おおいを取る、暴露する
conspirator (n.)共謀者
bargain for   ~を期待する、~を当てにする
companion (n.)連れ、友人
colleague  (n.)同僚、仲間
flung    <(v.)flingの過去分詞 fling(vt.)投げる、(人を獄に)ぶち込む
torture   (vt.)拷問にかける
excruciating  (a.)ひどく痛い、苦しめる
strappado  (n.)つるし刑(昔の刑罰・拷問;罪人[容疑者]をロープでつり上げたのち落とし、地面に落ちる直前で止める刑)
borne   <(v.)bearの過去分詞 bear(vt.)耐える
straightforwardly  (ad.)まっすぐに、正直に
admission  (n.)入場、承認、自白 (cf.)admission of guilt 罪の自白
sentence   (n.)文、判決 (cf.)death sentence 死刑
conspiracy  (n.)共謀、陰謀
beg    (vt., vi.)請う(for)、物ごいをする
mercy   (n.)慈悲、あわれみ、(死刑予定者に対する減刑による)赦免の処分
claw    (vt., vi.)(つめで)かく  (n.)(鳥獣の)つめ、(カニの)はさみ
crawl   (vi.)はう
verse   (n.)詩の一行、(詩の)節
suffocate  (vt.)窒息させる、呼吸困難にする
stench  (n.)悪臭
vermin  (n.)害虫(ノミ、シラミなど)
ridden  (v.)rideの過去分詞「捕らわれた、とりつかれた」の意の結合辞を作る (a.)~に悩まされた、苦しめられた
cell   (n.)小室、独房、細胞

≪訳文≫
ミラノ郊外の田園に逃避していたレオナルドは、1513年2月に発覚したジュリアーノの暗殺計画は耳にしていなかったかもしれない。逮捕された共謀者の一人は、命と引き替えに反逆者たちがもしも成功した場合、彼らを支持してくれそうな20人の市民リーダーの名簿を用意した。その名前のなかには、レオナルドの以前の友人で仲間だったニッコロ・マキアヴェッリも入っていて、彼は投獄され、恐ろしい吊るし刑の拷問を6回も体験させられる責め苦を味わった。これは後ろ手に縛られて宙吊りにされて落下させられるバンジージャンプ的な刑だ。
 「私はその試練を耐えた自分自身がいとおしく、自分が考えていたよりはるかに立派な男だと考える」とマキアヴェッリはのちに友人に書き送っている。彼は、罪を認めればすぐに処刑になると認識していたからだ。ほかの二人は、罪を認めたために処刑された。
 都市国家の統治者であるジュリアーノにマキアヴェッリは刑の軽減を嘆願する一方で、「私の背中に傷みをもたらした6回の吊るし刑」と「大きく太ってまるでチョウのような」シラミが這っている獄中の壁を描く詩を創った。もしジュリアーノがこの詩を見たとしても、彼は無視したことだろう。マキアヴェッリは、ノミやシラミだらけの小部屋の「胃がねじれて息が詰まりそうな悪臭」のなかに閉じ込められたままだった。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、279頁)

1513年2月に発覚したジュリアーノの暗殺計画に連座して、逮捕されたマキャヴェリの獄中の模様を、ヘイルズ氏は、資料を用いて、よりリアルに描写している。
さらに、続けて、マキャヴェリが『君主論』執筆にいたった経緯について、次のように述べている。

As part of its boundless exultation, the town granted amnesty to all
prisoners. Blinking in the brightness of the day, Machiavelli limped past
the jubilant crowds into lifelong exile on a small family property in the
countryside seven miles south of Florence. He would loathe every minute
of his banishment.
“Caught in this way among the lice,” the political mastermind wrote,
“I wipe the mold from my brain and relive the feeling of being ill-treated
by fate.” That fall, drawing on the experience he had shared with Leo-
nardo during Cesare Borgia’s bloody campaign, he began a treatise that,
as one of my college professors liked to quip, “put the science in political
science.” In a burst of inspired writing, Machiavelli finished The Prince by
the end of 1513. (Although copies of the manuscript circulated for years,
the book itself wasn’t published until 1532.)
The author initially intended to dedicate the work to Giuliano de’
Medici, a gesture that he hoped might ingratiate him to the new regime.
But once again, fate didn’t turn out the way he had hoped. The new Pope’s
brother had decamped for Rome.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.199-200.)

【単語】
boundless  (a.)限りない
exultation  (n.)歓喜、有頂天
amnesty   (n., vt.)大赦(する)
Blink   (vi., vt.)まばたきする[させる]
limp   (vi.)足を引きずって歩く、よろめいて歩く
past   (prep.)[時]~を過ぎて [場所]~のそばを通り過ぎて
jubilant  (a.)喜びに満ちた、歓声をあげる
crowd  (n.)群集、人込み
lifelong  (a.)一生続く、終生の
exile    (n.)追放、流刑
property   (n.)財産、所有地
loathe   (vt., vi.)ひどくきらう
banishment (n.)追放(期間)
mastermind (n.)すぐれた指導者、主謀者
mold   (n.)型、かび
relive   (vi.)生き返る (vt.)再び体験する、追体験する
ill-treat  (vt.)冷遇[虐待]する
treatise   (n.)論文
quip    (vt., vi.)皮肉を言う、からかう
burst   (n.)破裂、突発
circulate  (vi., vt.)めぐる[らす]、流布する[させる] (~の間に)読ませる
initially  (ad.)最初に
dedicate  (vt.)捧げる、(自著を)献呈する
gesture  (n.)身ぶり、宣伝的行為
ingratiate (vt.)気に入るようにする
decamp  (vi.)野営を引払う、逃亡する

≪訳文≫
 お祝いの一環として、すべての囚人が恩赦を受けた。陽光のまぶしさに目をしばたたきながら、マキアヴェッリは歓喜に満ちた人混みのなかを、足を引きずりながら通り過ぎ、フィレンツェの南10キロあまりの田舎の小さな終(つい)の棲家(すみか)に戻った。彼はこの受刑体験にうんざりしていたことだろう。
彼は、次のように書き残している。
「このようなシラミとの共同生活で、私は脳を抜き取られた状態で、運命によって不当な扱いを受けた体験を悔やんでいる」
 その秋、チェーザレ・ボルジアの血なまぐさい戦争の最中、レオナルドとともに体験した状況をマキアヴェッリは論文にまとめ始めた。私の恩師である大学教授の一人が皮肉っていたが、うっぷんを晴らすかのようにマキアヴェッリは、「政治学のなかに科学を投入して政治科学を創設」した。マキアヴェッリは1513年の末ごろ『君主論』を書き上げた(原稿は数年にわたって回し読みされたが、本としては1532年まで刊行されなかった)。
 彼はこの著作をジュリアーノに献呈するつもりだったが、彼の本音は、新政権に気に入られたいという期待感だった。だがまたもや、運命は彼が望んだ方向には動かなかった。新教皇の弟ジュリアーノは、密かにローマへ逃亡してしまったからだ。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、280頁~281頁)

マキャヴェリは、恩赦を受けて、フィレンツェの南10キロあまりの田舎の終の棲家に戻った。彼はこの受刑体験にうんざりしつつ、1513年の秋、チェーザレ・ボルジアの血なまぐさい戦争の最中、レオナルドとともに体験した状況をマキアヴェッリは論文にまとめ始めたとヘイルズ氏はみている。
(ヘイルズ氏の恩師によれば、マキアヴェッリは、「政治学のなかに科学を投入して政治科学を創設」したという)
マキアヴェッリは1513年の末ごろ『君主論』を書き上げた(原稿は数年にわたって回し読みされたが、本としては1532年まで刊行されなかった)。
 マキャヴェリはこの著作をジュリアーノ(前回のブログで言及したリサと同い年のメディチ家のジュリアーノ)に献呈するつもりだったようだ。
ちなみに、その年1513年9月24日、レオナルドは、ジュリアーノ・デ・メディチに取り立てられ、ローマに向かい移住するが、1516年3月17日、ジュリアーノ・デ・メディチは死去してしまう。そしてその年の秋、64歳のレオナルドはフランス国王フランソワ1世の庇護でフランスに移住することになる。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、282頁~293頁参照のこと)



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