歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その14≫

2020-12-25 18:20:04 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その14≫
(2020年12月25日投稿)


【はじめに】


 今回のブログでは、「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」「ミラノの貴婦人」といったレオナルドが描いた肖像画について、ヘイルズ氏がどのように解説しているのかを、紹介してみたい。
 「モナ・リザ」とともに、これらのレオナルド作品が、四分の三正面像であった点について、西岡文彦氏の著作を通して、振り返ってみたい。あわせて、田中英道氏と佐藤幸三氏が「ジネヴラ・ベンチの肖像」について、どのように解説しているのかも、述べておこう。

〇Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年

【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】

Mona Lisa: A Life Discovered

【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】

モナ・リザ・コード




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」と「モナ・リザ」
・「四分の三正面像」としてのレオナルド作品
・チェチーリア・ガッレラーニについて
・ジネヴラ・デ・ベンチについて
・田中英道氏と佐藤幸三氏による「ジネヴラ・ベンチ」の解説
・「ミラノの貴婦人」について






「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」と「モナ・リザ」


「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」(=「白貂を抱く婦人像」)と「モナ・リザ」について、ヘイルズ氏は次のように述べている。

In Milan, Leonardo had painted his portraits of Ludovico Sforza’s mis-
tresses on walnut, a dense, hard wood. But in Florence, he stuck with the
local artists’ preference: poplar. (Canvas had not yet become popular in
Italy, except in Venice.) The thin-grained plank he selected, sawn length-
wise from the center of the trunk, was trimmed to about 30 inches high
by 21 inches wide. To prevent warping, Leonardo painted on its “outer”
rather than “inner” face. Instead of the standard primer of gesso, a mix of
chalk, white pigment, and binding materials, he applied a dense under-
coar with high levels of lead white (detected in modern chemical analysis).
From his favored apothecaries, Leonardo would have purchased pre-
cious dyes, such as cinnabar, red as dragon’s blood, and brilliant blue ul-
tramarine from the exceedingly rare and costly lapis lazuli stone. As he
preferred, he would mix the rich colors with oil, slower to dry than the
eggs he had used for tempera paints in Verrocchio’s studio and more
suited to the subtle shadings that he alone among Florentine painters had
mastered.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.158.)

【単語】
walnut  (n.)クルミ
warp  (vi.)反る (vt.)反らせる、ゆがめる
pigment  (n.)顔料、絵の具
apothecary (n.)薬屋、薬剤師
cinnabar  (n.)辰砂(しんしゃ)、鮮紅色、朱
lapis lazuli  (n.)ラピスラズリ、瑠璃色、群青色
tempera   (n.)テンペラ画[絵の具]

≪訳文≫
レオナルドはミラノに滞在している間に、ルドヴィーコ・スフォルツァのために、愛人の肖像画を描いたが、そのときは硬いクルミの板を使った。だがフィレンツェでは、多くの画家が好んで使うポプラ板に固執した(カンバスは、イタリアではヴェネツィア以外では普及していなかった)。木目が薄く、幹の中心に近い柾目(まさめ)の板を選び、タテ75センチ、ヨコ52.5センチほどの大きさに切る。レオナルドは表ではなく、裏側に描く。そのほうが反りにくいからだ。普通はジェッソという、チョークに白い塗料を混ぜた下地を塗って発色をよくするのだが、レオナルドは鉛白を厚く塗った(最近の化学分析によって分かった)。
 彼は、高価な顔料や塗料を、なじみの薬剤師から購入していた。たとえば、「ドラゴンの血」と呼ばれる鉱石から採られる濃い赤のシナバー(辰砂[しんしゃ])、貴石ラピスラズリから得られるきわめて稀少で高価だが明るいブルーのウルトラマリーンなどだ。レオナルドは、これらの顔料をオイルで混ぜ合わせた。これは、卵で溶くテンペラより乾きが遅い。レオナルドもヴェッキオ宮殿のときにはテンペラを使ったが、オイル混合の手法を巧みに使いこなせる画家は、フィレンツェではレオナルド・ダヴィンチだけだった。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳) 『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、226頁~227頁)

【コメント】
「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」は硬いクルミ(walnut)の板を使った。「モナ・リザ」は、周知のように、ポプラ(poplar)板に描かれた。フィレンツェでは、多くの画家がポプラ板を好んで、カンバスは、イタリアではヴェネツィア以外では普及していなかったと但し書きをつけている。
レオナルドは反りにくいからという理由で、裏側に下地として鉛白を厚く塗って描いたという。
そして、レオナルドは濃い赤のシナバー(辰砂、cinnabar)や明るいブルーのウルトラマリーン(brilliant blue ultramarine)などの高価な顔料は、なじみの薬剤師(apothecary:薬屋、薬剤師)から購入していた。これらの顔料を、卵で溶くテンペラと違い、オイルを混ぜ合わせて、巧みに使いこなしたそうだ。

「四分の三正面像」としてのレオナルド作品


続けて、ヘイルズ氏は次のように記している。

At the very center of the composition, Leonardo would place Lisa’s
heart, framed in the pyramid of her torso rising majestically from the
base of her folded hands and seated hips to the crown of her head. As
he did for his portraits of the self-proclaimed tigress Ginevra de’ Benci
in Florence as well as for Il Moro’s mistresses in Milan, Leonardo chose
a forward-facing three-quarter pose. Firmly grounding Lisa in a pozzetto
(“little well”), a chair with a stiff back and curved arms, he instructed her
to twist into a contrapposto pose, her right shoulder angled backward and
her face turning in the opposite direction.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.159.)

≪訳文≫
「モナ・リザ」の絵の中心部はリサのトルソー(体のボディ部分)で、前面で組んだ両手の上部にピラミッドのようにそびえ、頭部につながる。全体の構図は、それまでにレオナルドがフィレンツェで描いた「メストラ」を自認するジネヴラ・デ・ベンチとか、ミラノで作成した「イル・モーロ」ことルドヴィーコ・スフォルツァの愛人チェチーリア・ガッレラーニの肖像と同じように、真正面向きではなく、四分の三ほど斜(はす)に構えている。レオナルドはリサを、背が固く丸みのある肘掛け椅子に正面向きにすわらせ、少し体をひねって右肩を後ろに引き、顔を反対方向に向かせた。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳) 『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、227頁)

【コメント】
〇「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」~「メストラ(tigress)」を自認
〇「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」(=「白貂を抱く婦人像」)
 ~ミラノで作成した「イル・モーロ」ことルドヴィーコ・スフォルツァの愛人
〇「モナ・リザ」

全体の構図は、3枚とも、真正面向きではなく、四分の三ほど斜に構えている(a forward-facing three-quarter pose)点で、共通しているとダイアン・ヘイルズ氏も指摘している。
西岡文彦氏は、「四分の三正面像」と称して解説していた。
〇西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』河出書房新社、1994年、162頁~169頁を参照のこと
〇西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、180頁~184頁の「肖像画 三つの顔の向き」を参照のこと

例えば、西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の第三部に相当する【第三の回廊 絵画史のスペクタクル】、第十一章から第十三章のうち、「第十二章 『モナ・リザ』誕生」では、『モナ・リザ』が誕生する前史について、人物画、南北ヨーロッパの精神風土などを中心に解説していた。
 たとえば、正面像(フロンタル)・側面像(プロフィル)・斜方像(四分の三正面像)といった3種類の人物画があるが、四分の三正面像は、ヨーロッパ北方絵画の中心、フランドル地方で創始された。作例としては、ヤン・ファン・アイク『妻の肖像』(1468年、ブリュージュ市立美術館)、ボッティチェルリ『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)は、イタリア最初期の斜め向きの肖像画として貴重である。『モナ・リザ』は、この角度で描かれている。
 ヨーロッパの気風は、北のゲルマン気質において現実主義的、南のラテン気質において理想主義的とされている。「南」の温暖で平穏な地中海気候は、古代ギリシアの哲学やイタリア絵画の理想主義を生んだという。これに対して、「北」の寒冷で不順な気候は、屋内での内省的な思考と、現実的な観察眼を形成し、北方絵画の現実主義を生んだといわれる。
こうした南北ヨーロッパの精神風土の違いを反映して、肖像画の好みにも相違がみられる。すなわち、「南」のイタリアの肖像画は、永遠のイメージをたたえた側面図としてのプロフィルを好んだ。一方、「北」のフランドルの肖像画は、自然な四分の三正面像としてのアングルを好むことになった。
 側面像(プロフィル)でありながら、ポライウォーロの『婦人の肖像』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)は、人間としての生命感がみなぎっており、モデルは笑いをこらえているようにさえ見える。
画中の人物の存在感と生命感の点で、絵画史上最高の表現は、『モナ・リザ』において示されているが、ポライウォーロの魅惑の微笑は、『モナ・リザ』の神秘の微笑を予見していると西岡氏は高く評価している。

 ところで、50歳を目前にしたレオナルドが、ミラノからフィレンツェに帰った。この時期、フィレンツェで着手されたのが、『モナ・リザ』である。レオナルドが絵画の理想とした薄暮の光景に描かれた画面は、ボッティチェルリのヴィーナスがルネッサンスの青春を象徴していたように、その黄昏(たそがれ)を象徴していると西岡氏はみていた。
この薄暮の光景に、「北」伝来の四分の三正面像で、油彩の写実を凝らして描かれたのが、『モナ・リザ』である。イタリア・ルネッサンスは、その「南」ならではの「永遠」の相を刻みつつ、かつていかなる絵画作品も得たことのない、生命感を獲得することになる。

西岡氏によれば、人物画は顔の向きで3種類に大別されるとする。
① 正面像~真正面から描く。フロンタル
② 側面像~真横から描く。プロフィル
③ 斜方像~顔を斜めから描く。こちらは採用する頻度が多い角度をとって、四分の三正面像と呼ばれることが多い。
※画中の顔の向きによって、人物画は、その印象を一変する。

① フロンタルについて
フロンタルとは、礼拝像のための、「聖なる角度」である。
神か、聖母か、聖人か、ともかく礼拝や祈りの対象になる人物を描く際の視点である。王族といえど、一個人が、この正面像で描かれるケースはほとんどない。
フロンタルの作例としては、ウェイデン『キリスト像:ブラック家祭壇画』(中央部)(1452年頃)が挙げられる。
② プロフィルについて
プロフィルは、古来のメダルの伝統を持つ、「永遠なる角度」である。
個人の風貌を永遠の中に刻み込む様式で、イタリアの個人肖像画は、これを基本様式にしている。
作例として、ピエロ・デラ・フランチェスカ『ウルビーノ公夫妻の肖像』(1485年頃)が挙げられる。
③ 四分の三正面像について
四分の三正面像は、「自然なる角度」である。
 人物が最も自然に描けるのが、この角度である。
 ヨーロッパ北方絵画の中心、フランドル地方で創始された。
 作例としては、ヤン・ファン・アイク『妻の肖像』(1468年、ブリュージュ市立美術館)。  
 また、ボッティチェルリ『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)は、イタリア最初期の斜め向きの肖像画として貴重である。
 なお、『モナ・リザ』は、この角度で描かれている。

真正面からの直視は、人に威圧感を与える。真横からの横顔は、顔の形は明示できるが、親密感は抱かせない。互いに、やや斜めに向き合う角度が、話も人柄もいちばん伝わりやすいといわれる。これは、絵に描かれた顔も同じで、モデルの人柄を自然に伝えるには、四分の三正面像が最適であると、西岡氏は主張している。
これに比べれば、フロンタルもプロフィルも、不自然そのものであるという。
(肖像画に、この不自然なプロフィルを好んだ点で、イタリア絵画は、古来のメダルの伝統もさることながら、その永遠への憧憬を物語っているようだ)
(西岡文彦『二時間のモナ・リザ』河出書房新社、1994年、162頁~169頁)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)

チェチーリア・ガッレラーニについて


レオナルド・ダヴィンチ(仙名訳ではこのように表記)が1482年にフィレンツェを離れてミラノに向かった。
そのミラノにおけるルドヴィーコ・スフォルツァの絵画における最初の要望は、愛人チェチーリア・ガッレラーニの肖像を描くことだった。
(レオナルドは、おそらくフィレンツェではチェチーリアのような女性には出会ったことがなかったとヘイルズは推測している)

〇レオナルド「白貂を抱く婦人像」(1490年頃 チャルトリスキ美術館)
そのチェチーリア・ガッレラーニは、どのような女性だであったのだろうか。
チェチーリアは、シエナからミラノに赴任していた大使のお嬢さんである。父は彼女が7歳のときに亡くなった。頭のいい女の子で、6人の兄弟がいた。みな、レベルの高い教育を受けた。
チェチーリアは10歳のとき、名家の息子と婚約した。持参金の一部を納め、カップルは公式に成立した。
(だが、肉体的な接触はなく、やがて婚約は解消された)

チェチーリアは詩人としても優れていたし、楽器演奏に秀で、歌唱も巧みだった。会話力も抜群で、ラテン語による演説も得意な才女だったそうだ。
また10代のときに、ルドヴィーコ・スフォルツァの目に止まった。ルドヴィーコが招き入れ、田舎に愛の巣を作った。ほどなく壮大な屋敷カステッロ・スフォルセスコにスイートルームを与えられた。1489年に16歳で妊娠した頃には、ミラノ宮廷でスーパーウーマンになっていた。

ただ、ルドヴィーコ公は友好関係にあるフェラーラ公のお嬢さんベアトリーチェ・デステ(あのイザベラ・デステの妹)と婚約していた。気乗りがしないために結婚式を何回も先延ばししていた。しかし、宮廷内では愛人チェチーリアに対する風当たりが強まってきた。

チェチーリアの肖像を描く立場のレオナルドは、面倒な三角関係に巻き込まれたようだが、持ち前の機転と分別ぶりを発揮した。肖像画の制作を進めるとともに、1491年のルドヴィーコ公の結婚式を思い切り派手なものに演出したといわれる。

ここでヘイルズ氏は、チェチーリア・ガッレラーニと、ジネヴラ・デ・ベンチの肖像を比較している。
両者とも、四分の三ほど斜め向きのポーズである。チェチーリアの場合、上げた視線を画面の外に向け、まるで部屋に入って来た恋人に向けている感じであるとヘイルズ氏は表現している。その衣装は控えめだが、冴えないものではなく、かなり思い切った出で立ちで、メッセージ性を持たせている。
また、金色っぽい白テンを抱き、ベールをかぶり、黒いヘッドバンドをはめ、長いネックレスを首に巻いたうえ、ゆるく胸に垂らしている。
(後宮に幽閉された側室の拘束感が表現されているという解釈もある)

二つの肖像画の大きな相違点として、ジネヴラの方は清純さが感じられるが、チェチーリアの方は色気を発散している点をヘイルズ氏は指摘している。チェチーリアはほっそりした白テンを抱えて右手でなでているが、この動物はイスラム教徒のムーア人を象徴しているともいわれている。そのテンのギリシャ語は、彼女の名前に音が似ている。

レオナルドが描いた写真のような肖像画は、この女性の生涯を巧みに捉えたものである。当時の画風としては斬新だった。ミラノの宮廷詩人は、次のように評した。
「天才レオナルドの絵筆は、チェチーリアの美しさをあますところなく描き出し、彼女の瞳の輝きは、陽の光さえさえぎってしまう」
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、129頁~132頁参照)

なお、原文は次のようにある。

Leonardo might never have met a woman quite like Cecilia in Florence.
The daughter of an ambassador from Siena who died when she was
seven, the bright little girl, along with her six brothers, received an out-
standing education. At age ten she was pledged to the son of a prominent
family. Although part of the dowry was paid and the couple was officially
betrothed, the union was never consummated, and the arragements
eventually dissolved.
Cecilia, an accomplished poet, musician, and singer and a clever
conversationalist who could deliver orations in Latin, caught the eye of
Ludovico Sforza. With a wave of his royal hand, he set the teenager up
in a bucolic love nest. Before long the girl, lauded as “bella come un fiore”
(beautiful as a flower), relocated to a suite of rooms in the immense Ca-
stello Sforzesco. By 1489 the pregnant sixteen-year-old had ascended to
“dominatrice della corte di Milano”(the woman who dominated the court
of Milan).
In a not-at-all-minor complication, Duke Ludovico happened to be
engaged to Beatrice d’Este, the daughter of an important ally, the Duke
of Ferrara. When he repeatedly postponed his nuptials with the young
woman he described as “piacevolina”(just a bit pleasing), a polite way of
saying “plain,” the lords and ladies of the court blamed “quella sua innamo-
rata”(that beloved of his).
Caught in the middle of this love triangle, Leonardo would have had
to rely on his ample reserves of charm and discretion while painting Ce-
cilia’s portrait at the same time that he was planning spectacular festiv-
ities for several weddings, including the Duke’s marriage to Beatrice in
1491.
As with his portrait of the self-proclaimed tigress Ginevra de’ Benci,
Leonardo chose an unconventional three-quarter view, with Cecilia’s ap-
praising eyes looking outside the frame of the picture as if her lover had
just entered the room. Rather than appear demure or drab, she makes a
bold fashion statement. Her gold frontlet, tied veil, black forehead band,
and draped necklaces, art critics observe, suggest the restrained captive
status of a concubine.
Unlike the antiseptic Ginevra, Cecilia sizzles with an erotic charge.
With her right hand, in a curiously suggestive gesture, Cecilia strokes
a sleek ermine (white weasel), a symbol of Il Moro, whose many titles
included the honorary Order of the Ermine, and a play on the Greek
word for ermine, similar to her name. The animal cradled in Cecilia’s
arms also captures the essence of the man to whom she is bound, sex-
ually and socially ― a predator with a vigilant eye and menacing claws
splayed against her red sleeve.
Leonardo’s almost photographic portrayal of an animated moment
in this woman’s life represented something radically new among paint-
ers of the time. Milan’s court poets praised “the genius and the hand of
Leonardo” for so adeptly capturing “beautiful Cecilia, whose lovely eye /
Makes the sunlight seem dark shadow.”
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.87-88.)

【単語】
pledge  (vt.)誓約させる、質に入れる
betroth  (vt.)婚約する ⇒ be betrothed to ~と婚約している
conversationalist  (n.)話上手の[好きな]人
oration   (n.)(風格ある)演説、弁論
bucolic   (a.)いなか[田園]の
laud   (vt.)賛美する、称賛する
ally   (n.)同盟者[国]、援助者
nuptial  (n.)(通例pl.)結婚(式)
discretion (n.)思慮、分別
tigress   (n.)雌のトラ
demure   (a.)まじめな、しかつめらしい、取り澄ました
drab    (a.)淡褐色の、単調な
frontlet   (n.)(動物の)前額部、ひたい飾り
captive   (a.)捕虜にされた、魅惑された
antiseptic   (a.)防腐の、非人間的な、気迫を欠いた
sizzle    (vi.)かんかんに怒る
sleek     (a.)つやつやした、なめらかな
ermine   (n.)白テン(の毛皮)
weasel   (n.)イタチ
cradle   (vt.)揺りかごに入れる、育てる
predator  (n.)捕食動物、略奪するもの
vigilant  (a.)警戒している、油断のない
splay  (vt., vi.)外へ広げる[がる]

【補足】ベアトリーチェ・デステとイザベラ・デステとレオナルド
のちに、1497年1月に、ミラノに思いもかけない事態が発生した。
ルドヴィーコ公爵夫人のベアトリーチェ・デステが、22歳(満21歳)の若さで急死した。晩餐会の最中に倒れて陣痛が始まり、胎児は死産で、ベアトリーチェも直後に亡くなった。イザベラ・デステは、この公爵夫人の姉である。レオナルドが1499年12月にミラノを離れて、マントヴァに立ち寄った際に、イザベラ・デステは歓待した。その代わりに肖像画を描いて欲しいと要望した。レオナルドはとりあえずスケッチをし、いずれ描くと約束した。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、198頁~200頁比較参照のこと)

ジネヴラ・デ・ベンチについて


時代は少し遡るが、レオナルドは徒弟期間を終えたのちも、ヴェロッキオの下で働いた。
1474年ごろ(レオナルド作品の年代にはいくつもの説があるとヘイルズ氏は断っている)、レオナルドははじめての肖像画を描いた。これが最初の名画とされる。モデルはジネヴラ・デ・ベンチ(1457年ごろ~1520年)である。彼女はフィレンツェの美女で、リサ・ゲラルディーニより20歳ほど先輩である。

実家は裕福な特権階級で、ジネヴラはそこのお嬢さんだった。祖父は、コジモ・デ・メディチに用立てる銀行の頭取である。父は人文学者のインテリで、銀行マンで、メディチ家に継ぐ資産家だったそうだ。
ジネヴラと6人の兄弟たちは、ベンチ家の大邸宅で、家庭教師による教育を受けた。10歳になると、ジネヴラは修道院の寄宿舎で勉強を続けた。
 16歳のころ、ジネヴラは修道院学校をやめて、衣服商人と結婚した。ロレンツォ・デ・メディチをはじめ、多くの文人たちがジネヴラの美しさや頭のよさを称えた詩を詠んでいる。思いを寄せる男性は多くいた。ベルナルド・ベンボもその一人である。ベンボは、
ヴェネツィアからフィレンツェに大使として赴任していた中年の既婚者であった。メディチ家が開いた馬上槍試合の折に、ジネヴラを見そめた。ベンボはジネヴラを公の場でアテンドする役を申し出た(これは、プラトニックなルネサンス式のお遊びだった)。

レオナルドにジネヴラの魅力的な肖像を描いてもらおうというのは、彼女の夫の発想ではなく、ベンボのアイディアだったとヘイルズ氏はみている。
(似たようなケースとして、「モナ・リザ」の注文者の別説を指摘している。つまり、何年ものち、リサ・ゲラルディーニの美しさに魅されたロレンツォ・デ・メディチの末っ子が、レオナルドに肖像を描いてもらうよう取り計らったという説がある)。
また、ベンボはさらに、ジネヴラを称える10編の詩を作るよう、メディチ家の文学サークルで提案して賞金を出したという。

 ところで、ジネヴラは、この時代の女性としては珍しく自らも詩を書いた。断片的に残った詩の中に、「ごめんあそばせ。あたしは、暴れトラなの」という一句がある。
レオナルドの未完の肖像画を見ると、このメストラの不思議な魅力がうかがい知れるとヘイルズ氏は捉えている。
ヘイルズ氏は、そのジネヴラの印象を記している。
・自尊心は強そう
・非のうちどころがない美貌
・くっきりした二重まぶたにネコのような瞳
・冷徹で強烈な視線
・憂いを含んだ表情
・肌理(きめ)の細かい肌
・長い巻き毛が白い額にかかる

背景には、西岡文彦氏も指摘するように、人物の素性を物語る要素が描き込まれている。
ビャクシンという針葉樹の木は、イタリア語では「ジネプロ」といい、彼女の名前ジネヴラと音が似ている。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、52頁~53頁)
「彼女のとげとげしい性格を尖った葉っぱで象徴しているのかもしれない」とヘイルズ氏はみている。

また、絵の裏には意味深長な紋章が描かれている。ビャクシンの小枝を月桂樹が包み込むような図柄である。これはジネヴラをベンボが保護している象徴とも、ヘイルズ氏は受け取っている。そして、「彼女の持ち味は美にあり」という書き込みがあると付記している。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、94頁~96頁参照)

原文には、次のようにある。
Even after finishing his own professional apprenticeship, Leonardo con-
tinued to work with Verrocchio. Around 1474 (a date, like so many in his
career, still in dispute) the young artist began his first portrait ― and his
first masterpiece. Its subject, Ginevra de’ Benci (c.1457-1520), another
donna vera of Florence, was born about twenty years before Lisa Gherar-
dini into immense wealth and priviledge. Her grandfather had served as
general manager for the bank of his friend Cosimo de’ Medici. Her father,
a humanist intellectual and art patron as well as a banker, reported a for-
tune second only to that of the Medici.
In the stately Benci palazzo, Ginevra and her six brothers received a
superb education in literature, mathematics, music, Latin, and perhaps
Greek. At ten, after her father’s death, Ginevra continued her studies as a
boarding student at one of Florence’s exclusive convents, Le Murate (for
the “walled-in ones”), renowned for its nuns’ exquisite embroidery and
angelic singing.
At about age sixteen, Givevra left the convent school to marry a cloth
trader. Young humanists, including Lorenzo de’ Medici, wrote verses in
praise of her beauty and wit. She also attracted a devotee whom she may
or may not have welcomed: Bernardo Bembo, the married, middle-aged
Venetian ambassador to Florence, who first beheld the young beauty at a
Medici joust.
Despite a wife and son in Florence and a mistress and love child else-
where, Bembo threw himself into a public courtship of Ginevra ― a not
uncommon and completely platonic Renaissance diversion. He, rather
than Ginevra’s husband, may have hired Leonardo to capture her allure
in a painting. (Many years later, some believe, a similarly smitten admirer
of Lisa Gherardini ― none other than the youngest son of Lorenzo de’
Medici ― may have urged Leonardo to paint her portrait as a similar trib-
ute.) Bembo also commissioned ten poems in Ginevra’s honor by mem-
bers of the Medici literary circle.
Like only a few women of her day, “La Bencia” wrote poetry her-
self, but only one enigmatic fragment survives: “I beg for mercy, and I
am a wild tiger.” Leonardo’s unsettling painting captures the tigress’s mys-
tique: a proud and perfect head, heavy-lidded feline eyes, an icy and un-
flinching gaze, a brooding expression, skin smoothed into perfection by
his own hand. Masses of the ringlets that would become his trademark
twirl around her pale face, ser against the background of a juniper tree ―
ginepro in Italian, a play on her name and perhaps her prickly character as
well. On the portrait’s reverse, Leonardo painted a “device”, an emblem of
laurel and palm enclosing a sprig of juniper ― a poetic representation of
Bembo entwined with Ginevra ― and an inscription, VIRTUTEM FORMA
DECORAT (She adorns her virtue with beauty).
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.59-60.)

【単語】
convent  (n.)女子修道院
boarding  (n.)寄宿 (cf.) boarding school寄宿学校
exquisite  (a.)精巧な、極めて美しい
devotee  (n.)心酔者、熱愛者
diversion  (n.)注意をそらすこと、気晴らし、娯楽
allure   (n.)魅力
smitten  (v.)<smite(vt.)強打する、打ちのめす、魅するの過去分詞
enigmatic  (a.)不可解な
tigress  (n.)雌のトラ
unflinching  (a.)しりごみしない、断固たる
brooding   (a.)気をめいらせる、憂鬱にさせる
twirl    (vt.,vi.)くるくる回す[る]、ひね(く)る
juniper   (n.)ネズ、トショウ(杜松)
prickly   (a.)とげの多い、≪話≫おこりっぽい、厄介な
sprig   (n.)若枝、小枝

≪訳文≫
レオナルドはプロとなるための徒弟期間を終えたのちも、ヴェロッキオの下で働いていた。1474年ごろ(彼の仕事に関する年代にはいくつもの説があって、断定できないものが多い)、彼ははじめての肖像画を描いた。これが最初の名画で、モデルはジネヴラ・デ・ベンチ(1457ごろ~1520)。フィレンツェの美女でリサ・ゲラルディーニより20歳ほど先輩だ。実家は裕福な特権階級で、彼女はそこのお嬢さんだった。祖父は、コジモ・デ・メディチに用立てる銀行の頭取。父は人文学者のインテリで、画家のパトロンもやった銀行マンで、メディチ家に継ぐ資産家だったと言われる。
 ベンチ家の大邸宅で、ジネヴラと六人の兄弟たちは、最高の家庭教師による教育を受けた。文学・算数・音楽・ラテン語、それにギリシャ語も学んだかもしれない。父が亡くなったあとも、10歳のジネヴラは勉強を続け、ムラーテ(壁に囲まれた、の意)という名の修道院の寄宿舎で、精巧な刺繍や天使のような歌を学んだ。
 16歳のころ、ジネヴラは修道院学校をやめて、衣服商人と結婚した。ロレンツォ・デ・メディチをはじめ、多くの文人たちがジネヴラの美しさや頭のよさを称えた詩を詠んでいる。思いを寄せる男子は目白押しだったが、彼女のタイプもいたし、嫌いな性格の者もいた。ヴェネツィアからフィレンツェに大使として赴任していたベルナルド・ベンボは中年の既婚者で、メディチ家が開いた馬上槍試合の折にはじめてジネヴラという若い美女を見そめた。
 彼の妻子はフィレンツェに滞在していたが、彼にはほかの愛人と隠し子もいた。彼はジネヴラを公の場でアテンドする役を申し出たが、これはほくあるケースで、あくまでプラトニックなルネサンス式のお遊びだ。レオナルドにジネヴラの魅力的な肖像を描いてもらおうというのは、彼女の夫の発想ではなく、ベンボのアイディアだったようだ(似たようなケースとして、何年ものち、リサ・ゲラルディーニの美しさに魅されたロレンツォ・デ・メディチの末っ子が、レオナルドに肖像を描いてもらうよう取り計らった、という説がある)。ベンボはさらに、ジネヴラを称える10編の詩を作るよう、メディチ家の文学サークルで提案して賞金を出した。
 この女性、いわば「ラ・ベンチア」は、この時代の女性としては珍しく自らも詩を書いたが、ごく一部が断片的に残っているだけだ。たとえば、こんな一句がある。「ごめんあそばせ。あたしは、暴れトラなの」。レオナルドの未完の肖像画を見ると、このメストラの不思議な魅力がうかがい知れる。自尊心は強そうだが、非のうちどころがない美貌、くっきりした二重まぶたにネコのような瞳、冷徹で強烈な視線、憂いを含んだ表情、肌理(きめ)の細かい肌、やがてレオナルドが得意とするようになる長い巻き毛が白い額にかかっている。背景には、ビャクシンという針葉樹の木々が描かれている。イタリア語ではジネプロで、彼女の名前ジネヴラと音が似ているし、彼女のとげとげしい性格を尖った葉っぱで象徴しているのかもしれない。絵の裏には意味深長な紋章が描かれている。ビャクシンの小枝を月桂樹が包み込むような図柄で、これはジネヴラをベンボが保護している象徴とも受け取れる。そして書き込みがあり、彼女の持ち味は美にあり、と記されている。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳) 『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、94頁~96頁)

田中英道氏と佐藤幸三氏による「ジネヴラ・ベンチ」の解説


レオナルドの肖像画「ジネヴラ・ベンチの像」(42×37㎝、ワシントン、ナショナル・ギャレリー、表記法は田中英道氏に従う)を見ると、女性個人の性格がまず人を打つ。娘時代の終わりに近い女性の、聡明さと一途な性格がその眼や口もとから見てとれる。背景にはネズの樹が茂り、彼女の内面の豊かさを示すかのようであると田中氏は述べている。
それは気品のある姿で、魅力にあふれた像である。
(しかし、その図像から女性というものの普遍性を見出すことは困難だともいう)

レオナルドに影響を受けたラファエロの、次の婦人像は「ジネヴラ・ベンチの肖像」の延長線上にあるという。
〇ラファエロ「マッダレーナ・ドーニの肖像」(フィレンツェ、ピッティ美術館)
〇ラファエロ「一角獣を抱く女性像」(ローマ、ボルゲーゼ美術館)
これらの作品の彼女らの性格描写でほとんど完結しているという。ただ、これらは美化されているとはいえ、このレオナルドの貴婦人像のような理想化の度合いが少ないと評している。

また逆に次の作品になると、その理想化が性格描写を摘んでしまい、「美人画」に堕してしまう傾向があるとする。
〇ラファエロ「ラ・ヴェラータ」(フィレンツェ、ピッティ美術館)

さて、レオナルドが風景の意味を重視する傾向は、「ジネヴラ・ベンチの肖像」にもっともよくあらわれているとされる。
この女性の肖像の背後に鬱蒼としげるネズの樹は、ローマの方言でジネヴラと呼ばれるものであり、この女性の名を象徴させたものである。それは絵の裏に描かれている棕櫚と月桂樹の環のなかのジネヴラの小枝とも関連している。また、この絵の裏には、「美が徳を飾る」というラテン語の文字が書かれているが、まさにこの女性は、フィレンツェの徳と美の二つを兼ね合わせもった女性であった。
彼女はフィレンツェ商人アメリゴ・デ・ベンチの娘である。16歳のとき、後にロレンツォのもとでフィレンツェの長官になるルイジ・ニッコリーニと結婚している。
彼女の祖父は、1443年、フラ・フィリッポ・リッピに自分の建てたムラーテ尼院の祭壇画を依頼している美術愛好家である。そして、父アメリゴは、フィチーノの主宰するプラトン・アカデミーに出席し、フィチーノにプラトンの写本を贈呈している。
このような環境に育った彼女には、ロレンツォ・デ・メディチから二つのソネットを献じられている。

ロレンツォが、ジネヴラの家にいた叔母にあたる23歳の女性に恋をしてスキャンダルになったとき、ジネヴラもフィレンツェから逃げ出さざるをえなかった。ロレンツォは、ジネヴラに自分を怒らないくれ、疑わないでくれと懇願し、彼女の「やさしい心情」「慈悲ぶかい気持」に訴えている。

そのやさしさは、画面から直接感じられないかもしれない。表情には微笑もなく、ただ聡明さだけが感じられる。だが、もし9センチほど切られた下部に、柔和な両手が描かれ、右手が胸のひらきをそっと抑えるような仕草をしているとしたら、そのいささか堅い調子はやわらいでいたにちがいないと、田中英道氏は想像している。
(ウィンザー王宮図書館にある銀筆のデザイン「女性の手」21.5×15㎝は、その下の部分を予測させるものといわれている)

このジネヴラの兄のジョヴァンニとレオナルドとは深い関係にあった。書物とか地図とかをお互いに貸し合う仲であった。さらにレオナルドは、未完成の「三王礼拝」図をこの家に託すほどのことまでしていた。
(「三王礼拝」図は、ジョヴァンニの息子アメリゴ・ベンチの家にあったとヴァザーリは伝えている)

妹ジネヴラの1474年の結婚式のために、この肖像画をレオナルドが描いたという推測も充分可能であると田中氏はみている。画面からいっても、まだ若い緊張した筆致が消えない頃の作品であるからと、その理由を述べている。また、この家族がメディチ家に近かったことは、レオナルドがこの頃、その周辺にいたことを証拠だてているようだ。
(田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]、62頁~65頁、74頁、266頁)

【田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫はこちらから】

レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯 (講談社学術文庫)

佐藤幸三氏も、この「ジネヴェラ・デ・ベンチの肖像」(表記法は佐藤氏のそれに従う)について、言及している。
「ジネヴェラ・デ・ベンチの肖像」は、もともと長方形の絵であったが、下の部分4分の1ほどが切り落とされたという(ワシントン、ナショナル・ギャラリー蔵)。いつ頃、なぜ、手の部分が切断されたかは謎であるといわれる。その肖像が完成していたら、現在、ウィンザ―城王室図書館蔵の「手の習作」のような手が描かれていたことだろう。
もともとこの絵は長い間ベンチ家にあったが、1733年、リヒテンシュタイン家の財産目録が公表されたとき、下部が切断されたこの作品が含まれていたという。「リヒテンシュタインの貴婦人」とも呼ばれていたが、1967年、ワシントンのナショナル・ギャラリーがリヒテンシュタイン家から購入し、現在に至っている。

また、ダ・ヴィンチの同僚ロレンツォ・クレディの「ジネヴェラ・デ・ベンチの肖像」が、ニューヨークのメトロポリタン美術館にある。その肖像画には手が描かれている(ただし、レオナルドのデッサンの手の形とは異なる)。

さて、ジネヴェラ・デ・ベンチとは、どのような女性だったのかという点について、次のように佐藤氏は説明している。
ベンチ家は代々メディチ銀行の総支配人を務めた。豪華王ロレンツォの時代、当主はアメリーゴ・デ・ベンチであった。長男はジョヴァンニ、長女はこの絵の主人公ジネヴェラ(ママ)であった。
ベンチ家はダ・ヴィンチの父ピエロにとって大事な顧客であり、ダ・ヴィンチもしばしば父とともにベンチ家に出入りした。
佐藤氏も述べているように、ダ・ヴィンチとジョヴァンニは年齢もあまり変わらず、二人はすぐに親しくなった。ベンチ家の人々も、ダ・ヴィンチを歓迎したようだ。それは娯楽の少なかった時代、リラを弾きながら、詩を吟じるダ・ヴィンチの美声に感動したからであった。
ヴァザーリが記すように、≪彼はまたもっともすぐれた吟誦詩人でもあった≫。この席には、ジネヴェラもいたことだろうと佐藤氏は推測している。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、123頁~128頁)

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「ミラノの貴婦人」について


「ミラノの貴婦人」(ラ・ベッレ・フェロニエーレ[La Belle Ferronnière])という肖像画をめぐっても、ミステリーがあるとダイアン・ヘイルズ氏は記している。
これはレオナルドがミラノのルドヴィーコ・スフォルツァの愛人チェチーリア・ガッレラーニの肖像を描いた板と同じ木から取られた板に描かれている。

美術史家たちは最初、このモデルはフランス国王の愛人ではないかと見ていた。この女性はやがて金物細工師と結婚したので、フェロニエーレ(金物商)と呼ばれていたようだ。
だがのちに、モデルはルクレツィア・クリヴェッリ[Lucrezia Crivelli]だと判明した。この女性はミラノのベアトリス公爵夫人の侍女(女官)で既婚だが、のちに別の公爵の愛人になった。

この肖像も、やや斜めの構図(the three-quarter pose:四分の三正面像)である(レオナルドのトレードマーク[hallmark]になっている)。
また、その衣服の複雑な模様やリボンの結び方も、レオナルドの特徴を示している。それにもかかわらず、レオナルドの作を疑う者もいまだにいる。

ヘイルズ氏が、この肖像画をルーヴル美術館で最初に見たとき、モデルの決然とした視線(unflinching gaze)に取り憑かれたという。
そして、次のような疑問を呈して、回答を本書では保留している。
・レオナルドの意図はどこにあったのか。
・彼女はどうしてこのように鋭い目つきをしているのか。レオナルドの受け取り方のせいなのか、それとも彼女がレオナルドをそのような視線で眺めたのか。

原文には次のようにある。

Another mystery revolves around a painting called La Belle Ferron-
nière (the beautiful ironmonger’s wife), which Leonardo painted on a
panel cut from the same tree used for Cecilia’s portrait. Art historians
at first thought the model was a French king’s lover, who happened to be
married to an ironworker. Later she was identified as Lucrezia Crivelli, a
married lady-in-waiting to Duchess Beatrice of Milan, who became an-
other of the Duke’s mistresses.
Some still question the attribution, despite such Leonardo hallmarks
as the three-quarter pose and the intricately patterned and ribboned
dress, a testament to the artist’s wondrous way with fabrics. But what
captivated me when I saw the portrait in the Louvre was the sitter’s un-
flinching gaze. What was it about Leonardo and the ladies he chose to
paint that brought out such intensity? Was it the way Leonardo looked at
women or the way looked at him?
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.105.)

【単語】
・ironmonger (n.)金物商、鉄器商人
・hallmark  (n.)特徴、目印
・flinching  (a.)ひるまない、決然とした、しり込みしない、断固たる
・intensity  (n.)激しいこと、熱心さ
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、155頁参照のこと)



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