≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その12≫
(2020年12月23日投稿)
【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】
二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む
前回のブログまでは、「モナ・リザ」の制作年代について、ダイアン・ヘイルズ氏の著作を紹介してきたが、今回のブログでは、正式にその内容を紹介してみたい。
その構成に沿った形で、ゲラルディーニ家、ダティーニ夫妻の生涯、リサ・ゲラルディーニの祖父と父親、ダ・ヴィンチ家とレオナルド、リサとジュリアーノに焦点をしぼって、述べてみたい。
〇Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年
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Mona Lisa: A Life Discovered
【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】
モナ・リザ・コード
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
「著者ノート(AUTHOR’S NOTE)」(11頁~13頁)にも著者ダイアン・ヘイルズ氏自身が記しているように、この本は名画「モナ・リザ」のモデルが、イタリア・フィレンツェの絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リサ・ゲラルディーニ(1479~1542)であるという前提にまとめられている。
「モナ・リザ」という絵のことは、だれもが知っている。しかし、リサ・ゲラルディーニが、どのような女性であるのかを知っている人はほとんどいない。
この女性のことを追いかけるために、些細な事実でも拾い上げようとしたとヘイルズ氏は述べている。絵画や歴史ばかりでなく、社会学、女性学などの分野のエキスパートから話を聞いている。学術書はもちろん古文書までひもといたそうだ。そして、ジャーナリストとして、記者魂の大原則(現場を足で歩く)[a reporter’s most timeless and trustworthy tool: shoe leather]を実践したと自負している。
リサ・ゲラルディーニという普段着の生身の女性は、歴史からちっぽけな存在である。しかし、一般市民レベルのほうが、時代の状況を正しく反映しているといわれる。つまり、凡人のほうが、世の中の姿を映し出す鏡の役割を果たしている。
リサ・ゲラルディーニは、古くからの名門ゲラルディーニ家に、フィレンツェで生まれた。15歳で、年齢が倍も違うやり手の商売人と結婚し、6人の子どもを産み、享年63歳で亡くなっている。彼女が生きた時代は、フィレンツェの歴史の中でも、激動期だった。政争の時代を生き、目覚ましい芸術作品を生んだルネサンス期を体験し、経済的な繁栄と破綻をくぐり抜けてきた。リサは西欧文明の黎明期を生きた。
この本には、衣服、家屋、祭り、日常的な風習など、リサが生きていた時期の習慣も書き込まれている。そして娘、主婦、母親、女あるじとしての女性の生き方を、立体的に描いている。
さて、ダイアン・ヘイルズ(Dianne Hales)氏は、アメリカのカリフォルニア州在住のノンフィクション・ライターである。
「ニューヨーク・タイムズ」などのさまざまな新聞・雑誌に寄稿し、「レディーズ・ホーム・ジャーナル」などの編集にもたずさわっているそうだ。
前著『世界で最も美しい言語・イタリア語(La Belle Lingua : My Love Affair with Italian, the World’s Most Enchanting Language)』で、イタリア大統領から名誉勲章を贈られたという。
一方、訳者の仙名紀(せんな おさむ)氏は、1936年東京生まれの翻訳家である。上智大学新聞学科卒業後、朝日新聞社に入社し、主として出版局で雑誌編集にたずさわったという。訳書に、『文明』(N・ファーガソン、勁草書房、2012年)などがある。
訳者仙名紀氏の「訳者あとがき」(363頁~365頁)によれば、ダイアン・ヘイルズ氏の本書を次のように評している。
「この本の著書ダイアン・ヘイルズが私と同じくジャーナリストで、「これでもか」という徹底的な掘り下げ取材で、中世ルネサンス期のフィレンツェを浮き彫りにしようという姿勢と努力に、共感した」(363頁)
著者ダイアン・ヘイルズ氏はアメリカのジャーナリストであるが、中世ルネサンス期のフィレンツェを徹底的に掘り下げて調べあげ、その像を浮き彫りにしようとしている。
この本は、三本柱で構成されている。
① 名画「モナ・リザ」のモデルとして最有力視されているリサ・ゲラルディーニという「微笑」の持ち主。その個人情報ばかりでなく、彼女の家系ゲラルディーニ家の系譜
② それに夫である裕福な絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの家系
③ それに絵画の作者レオナルド・ダ・ヴィンチの系譜
以上の三本である。訳者仙名氏は、さらに一本柱を加えて、四本柱だという。
④ 著者ダイアン・ヘイルズが、現代のリサーチャーとして割り込んできて、得意のイタリア語でインタビューをし、古文書まで読み込んでいること
これら四本柱が小説ではなく、実録の「モナ・リザ・コード」とも言えそうな謎解きの面白さを立体的に構成していると仙名氏は絶賛し、「この本には、入れ込んでしまった」と述懐している。
ちなみに、【目次】は次のようになっている。
さて、モナ・リザのモデルと目されるリサ・ゲラルディーニは、500年も前の人物であるが、ダイアン・ヘイルズ氏の言う「生身の人間」として3D的に存在している。そして当時の風習や環境や文化が、この本では細かく再現されている。
すばらしい芸術が開花したフィレンツェ黄金時代のリプレーが紙の上で展開されている。
訳者仙名氏の印象としては、「モナ・リザ」のモデルとされるリサ・ゲラルディーニは、「とってもいい人」であるとする。肖像画では語りかけたいような口元を見せている。しゃべってはくれないので、タイムスリップして会ってみたいという。レオナルド・ダヴィンチという天才も、「いい人」だと思えるそうだ。ただ、天才の気まぐれがあって、付き合いにくいかもしれない。
ただ、「いい人じゃない」人物も、あまた出てくる。悪名高いチェーザレ・ボルジア、狂気の修道士ジローラモ・サヴォナローラなど。
この本の魅力は、スタティックな「モナ・リザの履歴書」に終わっていないところであると訳者仙名紀氏は強調している。
(アメリカでは、この本は高く評価され、アマゾンUSの「ベストブック・オブ2014」の100冊のうちの1冊に選ばれた)
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、363頁~365頁)
※この訳本に対するコメントを記しておくと、訳文は読みやすい。
「主な登場人物」「モナ・リザ家系図」「モナ・リザの時代のフィレンツェ地図」そして巻末には「関連年表」もきちんと訳出されている。ただ、訳本は、原書に付された註釈、参考文献がすべて省略され、索引がないのが惜しまれる。また、原書も訳本も美術書ではないので、レオナルドやラファエロなどの図版がないのも残念である。
なお、訳本には、数字などに若干の誤植があり、注意を要する。
ヘイルズ氏も、「モナ・リザ」のモデルについて、一通り触れている。たとえば、レオナルドの母のイメージではないかとするフロイト説、自画像説、助手のサライ説などである。
しかし、リサ・ゲラルディーニだという見方は、長いこと有力だったが、この可能性が次第に高まってきたことを強調し、この本の大前提としている。
やはり、この10年(ママ)ほどの間に発見された、先の16世紀の書物の欄外メモを重視する。つまり、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻の肖像画のことや日付が書き込まれている点を証拠とみなす。
この芸術作品のモデル探しなど、本質的な問題ではないという人もいる。名画「モナ・リザ」のすばらしい美しさは、モデルがだれであるかという問題を超越しているとする意見にもうなずける。
しかし、ヘイルズ氏は、リサ・ゲラルディーニの実像を探り出せば、この肖像画を鑑賞するに当たって新たな次元を付け加えてくれることになると主張している。ヘイルズ氏自身も、「モナ・リザ」の見え方が以前とは変わってきたと述懐している。
むかし「モナ・リザ」を見たときには、憂いを含んだ微笑みを眺めても、絵は無言だったそうだ。ところがいまでは、フィレンツェ生まれのルネサンス期の絹商人の妻という姿が見えてくる。そして、愛すべき母親、敬虔なクリスチャン、しっかりした自我を持った像もうかがえるという。
ちなみに、英文では次のように述べている。
The Mona Lisa, I agree, ultimately remains what it is: a masterpiece
of sublime beauty. Ant yet my quest to discover the real Lisa Gherar-
dini has added new dimensions to my appreciation of the portrait. Once
I saw only silent figure with a wistful smile. Now I behold a daughter
of Florence, a Renaissance woman, a merchant’s wife, a loving mother, a
devout Christian, a noble spirit.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.9.)
また、額縁の外で展開されたリサの実像を知ると、次のようなことが可能になるという。
・中世と現代を隔てている壁を取り払うことができる
(opens a window onto a time poised between the medieval and the modern)
・栄華をきわめていたフィレンツェの華やかな鼓動も感じられる
(a vibrant city bursting into fullest bloom)
・人間の可能性を大きく押し広げた文化の様相も分かってくる
(a culture that redefined the possibilities of man ― and of woman)
リサ・ゲラルディーニが亡くなる1542年までに、フィレンツェの黄金時代は過ぎ去ってしまう。20年ほどの間に、デル・ジョコンド家も斜陽になるが、一族の家系図は、連綿と続いている。
(リサの孫娘は次世代を残し、以後、500年あまりにわたって一族は継続している。なかでも著名な一族は、ギチアルディーニ家である。家系研究家のドメニコ・サヴィーニが、リサの末裔を15世代まで詳しく追跡した。2007年に発表)
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、26頁~27頁参照のこと。Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.9.)
ヘイルズ氏は、フィレンツェの地で、リサ・ゲラルディーニのゆかりの場所を3つ挙げている。
① スグアツァア通り(Via Sguazza)
リサ・ゲラルディーニが生まれた通りであるが、現在は薄汚く、何の痕跡もない
② デラ・ストゥーファ通り(Via della Stufa)
リサ・ゲラルディーニが大人になってから、かなりの時間を過ごしたが、なんの名残もない
③ サントルソラ修道院(the Monastero di Sant’Orsola)
終の棲家(ついのすみか)とした宗教施設だが、なにも残っていない。つまり、リサが人生最後の時期を過ごした宗教施設は、ナポレオンの侵略によって、ほかの修道院と同じ運命をたどり、軒なみ潰されてしまった。
1800年代に入ると、フィレンツェの修道院の跡地は、たばこ工場になり、さらに大学の講堂に転用された。1980年代には、市の警察が軍の兵舎に仕立て直した。サントルソラは破壊こそ免れたものの、荒れるにまかせて放置され、廃墟と化した。また、墓石や墓地の土砂も、埋め立てに使われた。
(修道院の廃墟で、リサの遺品(とりわけ遺骨)が見つかる可能性は低いようだ)
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、347頁~349頁、Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.247.)
ヘイルズ氏は、「第1部 ゲラルディーニ家の血筋(紀元前59~1478)」において、リサ・ゲラルディーニが誕生する1479年より前のゲラルディーニ家の歴史について概説している。
とりわけ、ゲラルディーニ家とダティーニ家のつながりに注目している。
プラートの商人フランチェスコ・ダティーニ(1335~1410)とマルゲリータ(1360~1423)の夫妻は厖大な文字資料を残したことで知られている。
15万通の手紙と500冊あまりの出納帳や販売台帳、300もの捺印証書、何千もの伝票や領収書、小切手類という具合で、18世紀以前のイタリアで個人が残した資料として最大規模に達する。
(イギリスの伝記作家アイリス・オリゴ(イリス・オリーゴとも表記される、1902~88)の作品に、フランチェスコ・ディ・マルロ・ダティーニの生涯を描いた『プラートの商人』(1957年、邦訳は白水社)は有名である)
リサ・ゲラルディーニ(1479~1542)が生まれたのは、マルゲリータ・ダティーニが1423年に死んでから、56年も経ってからである。ただ、このマルゲリータという女性は、実はゲラルディーニ家の出であった。ゲラルディーニ家には、14世紀に暗い歴史があった。マルゲリータの母方の祖父ペリッキアは、マルゲリータが生まれた1360年に、フィレンツェ政府の転覆を図ったかどで、死刑判決を受け、流刑に処せられた(のちに刑は取り消される)。ペリッキアの娘が、ディアノーラ・ゲラルディーニである。その夫が1360年に反逆罪で処刑されてしまうが、同年にマルゲリータが末娘として生まれたのである。
マルゲリータは、1376年に、トスカーナの都市プラートの商人フランチェスコ・ディ・マルロ・ダティーニと結婚したのである。
ところで、マルゲリータが夫に送った手紙は200通を超えるが、そのなかで「私は自分のなかにゲラルディーニ家の血が流れていることを、ひしひしと感じます」と述べている。
妻マルゲリータは、そのころの女性としては異例なことだが、文章の書き方を独習し始めた。それまで夫に手紙を出すときは、代筆を頼んでいた。マルゲリータの自筆の手紙として現存する最も古いものは、1388年、28歳のときのものである。当初の手紙からは、書くことへの挑戦がかなり困難だったことが分かり、努力の跡が見て取れるようだ。筆跡が安定してくるにつれて、マルゲリータの個性あるいはゲラルディーニ家の一員らしさが文面に覗いてくるようになるという。
この点について、ヘイルズ氏はコメントしている。代筆を頼むと、プライバシーを保てないが、そこだけではない。文章の書き方を学ぶと、決然とした姿勢を見せられ、知性と能力があることを実証し、自由な思想と、自由に発言できる女性に変身したことが見せられるとマルゲリータは考えたとヘイルズ氏は推測している。
歴史家バーバラ・タックマンは、マルゲリータを「反乱的な性格を持った若い奥方」と呼んでいる。ヘイルズ氏も、マルゲリータのことば遣いから、ゲラルディーニ家の特色である「激情」が内部で煮えたぎっている様子がうかがえるとする。
生粋のトスカーナ女の特質は、「元気溌剌、知的で、実際的で、エネルギーに満ち、貪欲で意志が強い」とヘイルズ氏は述べている。
マルゲリータについて詳しく知ることができれば、縁者であるリサ・ゲラルディーニについても分かってくるのではないかという見通しを持っている。
そもそも以前から、学者たちの間では、商人の妻であるリサが従来の女性の枠を破ってかなり活発に活動して点に注目すべきだと注意を喚起していた。
そこで、ヘイルズ氏が関心を持ったのは、中世の標準的な女性像の殻からはみ出したリサの「ゲラルディーニ家らしさ」が、レオナルド・ダ・ヴィンチのモデルになることと関係があったのではないか、という点である。リサ・ゲラルディーニは、紙に書いた文字は残していない。つまり、肖像の顔は無言のままだ。逆に、マルゲリータの手紙はたくさん残っているが、顔は不明であると述べている。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、4頁、53頁~56頁、64頁~65頁参照のこと)
ちなみに、原文には「3 顔のない声(Chapter 3: A Voice Without a Face)」に次のようにある。
Even before I made the connection between
the Gherardini and the Datini, scholars had urged me to learn
more about the exceptionally forthright merchant’s wife whose letters
shattered the silence that had long shrouded women’s lives. But what
intrigues me most about this medieval Everywoman is the “Gherardi-
ni-ness” she shares with Leonardo’s model.
Lisa Gherardini, who left not a single word on paper, forever remains
a face without a voice. Margherita, the prolific correspondent, haunts me
as a voice without a face.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.30.)
また、ヘイルズ氏は、フランチェスコ・ダティーニとマルゲリータの夫妻は、フランチェスコ・デル・ジョコンドとリサ・ゲラルディーニ夫妻と重ね合わせられそうな気もするという(そして、現代の夫婦像にも、かなり共通点がある)。
ダティーニは、リサ・ゲラルディーニの夫フランチェスコ・デル・ジョコンドと似たところがある。野心的で強欲で、機を見るのに敏だった。ダティーニは敏腕のやり手で、威張り散らし、買い叩き、法をかいくぐり、限界ぎりぎりまで価格交渉を詰め、ときに難題まで吹っかけた。いわば仕事中毒の商売人であった。つねにテンションが高いけれど、「メランコニア(malinconia: 淋しがり屋)」の面もあった。
一方、マルゲリータは、怒りっぽい夫を「落ち着くことを学びなさいよ」とたしなめ続けた。いわゆる中世の配偶者としては、「従順な妻」という典型から外れていた。彼女も少女時代は短気だったが、やがて自信に満ちた有能な女性に変身し、夫がひんぱんに荒れるので、叱責を繰り返した。マルゲリータは、夫と自分の人生をよい方向に持って行くために努力した。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、56頁~57頁)
このダティーニ夫妻の生涯の一端を紹介しておこう。
家庭内で、ある事件が起きる。
1392年、ダティーニは57歳のとき、20歳の奴隷女性との間に婚外子をもうける。そして、いつもながらの手際のよさを見せて、今回も結婚相手の男性を見つけて、かなりの持参金を付け、奴隷の身を解放してやる。習慣に従って乳母もあてがった。たいていは1年半から2年で乳母は去るのだが、6年もお手伝いとして一緒だった。これもマルゲリータとしては許せなかったようだ。
しかし、1398年、婚外子で6歳になったその子を、里親である乳母が、プラートに連れて来る。その時、マルゲリータは38歳になっていたが、自分が産んだ子どもがいなかったので、許す気になったようだ。自宅で歓待し、まるで自分の子であるかのように、夫の不倫の子に深い愛情を注ぐようになる。
夫のダティーニの方も、その娘のために、1000フローリンの持参金を用意した。これがフィレンツェの裕福な商人にとっての標準額だった。花婿としては、信頼するパートナーの息子を選んだ。
1406年におこなわれた結婚式で、その娘がまとった衣装は、プラートでは史上空前の豪華なものだと噂された。
豪華な式の最後に、トスカーナ地方のしきたりに習って、マルゲリータが花嫁に男の赤ん坊を抱かせ、靴のなかにフローリン金貨を忍ばせた。子宝と富を授かるように、という願いからである。
(リサ・ゲラルディーニの母親も娘のために同じような儀式をやったのではないかとヘイルズ氏は推測している。また、のちにリサ・ゲラルディーニも結婚後に、夫の先妻の男の子バルトロメオを継子として迎えいれている)
その4年後、1410年、夫ダティーニは息を引き取る。その遺言によって「愛する妻」には、年額100フローリンの年金と家屋を残した。そして孫娘が生まれたら、持参金として1000フローリンを持たせることにした。またダティーニの遺言によって、大邸宅とすべての資産(7万フローリン[1000万ドルあまりの巨額])は孤児財団に寄付したという。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、66頁~72頁)
1423年に、マルゲリータが亡くなってから、リサ・ゲラルディーニが生まれるまでには、半世紀ほどの期間がある。
この間に、フィレンツェでは、3つの家族(ゲラルディーニ、ダヴィンチ、デル・ジョコンド)が将来の一翼を担う存在として、頭角を現してくる。
コジモ・デ・メディチの統治の下で、フィレンツェはヨーロッパで最も豊かな都市国家に成長した。
リサ・ゲラルディーニの祖父ノルド・ディ・アントニオ・ゲラルディーニ(1402~1479)は、1402年にキャンティ地方で生まれた。彼はなんとかして都会に出たいと画策した。親類の女性マルゲリータ・ダティーニが死んでから11年後の1434年、ノルドは弟とともに、祖父だった反乱の徒ペリッキア・ゲラルディーニの行動にあやかって、思いも寄らないことに挑戦した。コジモ・デ・メディチがひろころ恐れられていた有力者だった二人に、庶民としてフィレンツェに来てフィレンツェの特権を享受しないか、と声をかけてくれたからだった。
そのようなきっかけがあったにもかかわらず、ノルド・ゲラルディーニは、繁栄するフィレンツェの恩恵にはあずかれなかった。フィレンツェの経済を牛耳っているのは人口の2割を占めるエリートで、彼らが富の8割を支配していた。ノルドは田舎の地主だったが、これだけでは貴族ふうの体面を保つ生活水準を維持していくことさえ困難だった。
ノルドが妻リサ(この名前が、最初の孫娘に引き継がれる)と4人の子どもたちのために購入可能な家は、パリオーネ・ヴェッキオ(現デル・プルガトリオ通り)の狭い道に面したおんぼろ家屋くらいだったという。
(近くには羊毛を洗浄する工場があり、納税申告書の中で悪臭がひどくて、このあばら屋をあきらめて借家に移り住む、と記している)
そのノルド・ゲラルディーニも、マルゲリータ・ダティーニと同じく、サンタマリア・ヌオーヴァの慈善病棟で、惨めな最期を迎えた。ノルドは、遺言を残し、おそらく感謝の気持ちから農地をこの施設に寄付している(あるいは、フランチェスコ・ダティーニと同じく、自らの魂に永遠の輝きが宿ることを願ったためかもしれないともヘイルズ氏は想像している)。
ノルドのほかの遺産は、長男アントンマリア・ディ・ノルド・ゲラルディーニ(リサの父、1444~1525年ごろ)に与えられた。一族の命運は、アントンマリアにゆだねられた。アントンマリアは3回の結婚(1465年、1473年、1476年)をし、リサがフランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚するお膳立てをした父親である。
公式の記録によると、1472年に28歳になったアントンマリア・ディ・ノルド・ゲラルディーニは、単に「公人(ヴィル・ノビリス)」と記されている。それが意味するところは、ラテン語の素養があり、調停者あるいは裁判に携わった場合にはラテン語が使うことができ、少なくとも自分の資産を管理できる程度の算数ができるという証明であるようだ。
「ジェントルマン」は、職業を持たない習慣で、フィレンツェのエリートの3分の1ほどは、アントンマリアと同じ手合いである。アントンマリアの場合は、貸家の家賃収入と、フィレンツェの南30キロほどにあるポッジョ地方にあるサンドーナという小さな町のマナハウスを含む地所からの収入で暮らしていた。
アントンマリアの肖像は発見できなかったとヘイルズ氏は記している。
ヴェネツィアの画家ティントレットが描いたフランチェスコ・ゲラルディーニ家の容貌の特徴が共通しているとすれば、リサの父は、次のような容貌をしていたのではないかと想像している。
貴族的な風貌をしていて、頰骨が高く、鼻が長く、傲慢そうな口元で、あごひげをきちんと刈り込み、姿勢がよく、肩幅が広い。インテリ紳士だったとすれば、人文学者アルベルティが規定したように、「町をよく歩き、乗馬をたしなみ、話術にたけている」といった三つの特質で秀でていたと推測している。これらの三つの要素を兼ね備えていたとすれば、一族の期待を担う財政面での健全さも期待できたであろう(具体的に言えば、まず有利な結婚条件を引き出せることをさす)
1465年、21歳のアントンマリアと、フィレンツェの名家令嬢リサ・ジョヴァンニ・フィリッポ・デ・カルドゥッチの婚儀が執りおこなわれた。だが夫人は出産時に亡くなってしまう。
(当時としては決して珍しいことではなく、トスカーナでは女性の4人に1人が、出産時に命を落とした)
だが、男やもめとなっても、若ければ気を取り直して再婚するのが普通だった。1473年、アントンマリアはフィレンツェで「最も美しい花」の一つと呼ばれた女性カテリーナ・ルチェライに惹きつけられた。当時、ルチェライ家は押しも押されもしない富豪になり、豪邸に住んでいた。
15世紀になると、当主のジョヴァンニ・ディ・パオロ・ルチェライ(1403~81)は、フィレンツェで3番目の金持ちにランクされていた。そしてジョヴァンニは、1466年、自分の子どもを、フィレンツェで最大の家柄メディチ家と結び付け、結婚による絆づくり(パレンタード、parentado)に成功した。その結婚の費用総額はなんと1185フローリンにも達した。
(ルチェライ家は、染料で膨大な利益を生み、一族の名もその染料の名前にちなんで、「オリチェライ」と呼ばれるようになり、なまってルチェライという家名になったらしい)
そうした富豪ルチェライ家の娘カテリーナに、アントンマリアは求婚した。彼はこのルチェライ家との姻戚関係になれば、上流階級の香り付けができ、商売面でもプラスになると踏んだにちがいない。
1473年、結婚し、ほどなくして妊娠するものの、またしても新妻が出産時に亡くなってしまう。アントンマリアは再び若い配偶者を失って、悲しみのどん底に落ち込んだ。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、4頁、73頁~74頁、88頁~93頁)
1476年、アントンマリアは、3度目の妻ルクレツィア・ダ・カッキアと結婚する。新婦の出身地は、ゲラルディーニ家の地所の近くにあるキャンティ地方の名家である。年齢は21歳で、適齢期の上限だった。だが不幸な結婚歴を体験している32歳のアントンマリアとしては、ルクレツィアと結婚できる最善のチャンスだと見ていた。
アントンマリアは新婦とともに、悪臭が漂うスグアッツァ通りにある安い借家に落ち着いた。しかし2年後の1478年、メディチ銀行のライバルであるパッツィ銀行が音頭を取るフィレンツェの不満分子がクーデターを起こす。このパッツィの反乱によって、アントンマリアの家計は大打撃を受け、ゲラルディーニ家の未来にも暗い影を落とすことになった。
教皇シクストゥス4世は、傲慢なメディチ家を追い落とそうとし、ナポリ王に応援を要請し、フィレンツェの南方から進軍させた。その間、畑の作物を焼き、家々を略奪した。ゲラルディーニ家の地所では、水車小屋に乱入して、穀物を奪った。
アントンマリアは、税の申告書に、次のように、いらだたしげに記載している。
「やつらは戦争好きで、おかげで私には収入がなくなった。家は焼かれ、品物は壊され、小作人や家畜もいなくなった」
このように、1478年4月26日に起きたパッツィの反乱は、フィレンツェと教皇庁・ナポリ連合軍が交戦する事態となり、ゲラルディーニ家にも大きな影響を与えたのである。
1478年の暮れ、妻ルクレツィアが妊娠すると、アントンマリアにはまた心配の種が増えた。もし生まれて来る赤ん坊が女の子で無事に育ったとしても、誕生の時から積み立てるべき持参金など、準備できそうにないからである。当時、父親が娘の持参金を用意することは絶対的な義務だと考えられていた。
娘がどれほどの美貌でも、スタイルが抜群でも、持参金がなければ人生を謳歌できず、修道院の壁の内部で過ごさざるを得ないことを、アントンマリアは憂慮した。彼の妹も、そのような運命にあった。
だが、娘リサの運命がまるで違ったものになるとは、その時点では想像もできなかった。
年が明けて、1479年6月15日に、アントンマリアとルクレツィアのゲラルディーニ夫妻の間に、女の子が生まれた。リサ・ゲラルディーニである。
洗礼登録簿を目にすると、「モナ・リザ」のモデルが、にわかに生身の人間に感じられるようになった(The donna vera had never seemed more real to me.)と、ヘイルズ氏は述懐している。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、101頁~113頁。Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.74.)
ヴィンチ町(ママ)出身のダ・ヴィンチ家は、由緒ある家系でもなければ、貴族でもなかった。しかし、代々「公証人(notaio)」という司法官吏を務めていた。フィレンツェ執政官(シリョリーア)の雇員だった者もいる。その孫で同じ名前を名乗るピエロも同じ職業を継ぎ、尊称セルを冠して呼ばれた。
セル・ピエロ・ダヴィンチ(1427~1504)は、若いころトスカーナ地方を広く歩き回り、不動産譲渡証書の記録を取ったり、遺言の控えを保存したり、契約書を作成したり、商業・法律上の手助けをした。
だが、セル・ピエロはもっと大きな野望を持っていた。しかし、婚外子の父親だったから、それが昇進の妨げになることは、阻止しなければならなかった。
カテリーナという田舎娘が、1452年4月15日に男の子を産んだ。洗礼名はレオナルドである。
その直後、セル・ピエロはフィレンツェに行き、家格が釣り合う同じ公証人仲間の娘で、16歳のアルビエーラ・アマドーリと結婚した。
セル・ピエロの父は地方の地主だったから、持参金を工面して、カテリーナを地元の陶器窯元で働いている男と結婚させたものと見られている。数年のうちにカテリーナはまた出産した。
納税申告書によると、レオナルドは「婚外子」とあり、祖父母および叔父のフランチェスコと暮らしている、と記載されている。
(young Leonardo, listed as “non legittimo,” was living with his paternal grandparents and his uncle Francesco.)
不倫の子を引き取って育てるのはイタリアでは、ごく一般的であったようだ。だが実際には、「私生児」はさげすまれた。レオナルド・ダヴィンチも大学には行けなかったし、医学や法律は学べなかったにちがいない。父や祖父の職業、公証人も継げなかった。
フィレンツェは、訴訟好きな都市国家だった。だから、公証人や弁護士のような法律に関する職業が医者や外科医の10倍も多かった。
セル・ピエロ・ダヴィンチは、息子レオナルドに見切りを付けたとヘイルズ氏は明記している。
セル・ピエロは法務省(現バルジェロ美術館)の近くに事務所を開いてから数か月後、彼はラルゴ通り(現カーヴール通り)にあるメディチの宮殿を公式に訪れて離別のあいさつをした。彼は60年近くも公証人を務めてきた有能な官吏である。単に記録を残すだけでなく、計理士、司法士、投資顧問など万般の仲介者として腕を振るっていた。それらを通じて、セル・ピエロは富裕な都市国家フィレンツェの商業や官僚機構、エリート家族、宗教組織をスムーズに動かす潤滑油のような役割を果たしていた。
セル・ピエロが亡くなったとき、フィレンツェのある詩人は、こう称賛した。
「最も法律に精通した人物を選ぶとすれば、ピエロ・ダヴィンチを措いてほかにはいない」
セル・ピエロの最初の夫人アルビエーラは、金髪でおとなしいレオナルドをかわいがったと言われる。しかし、1464年、出産時に亡くなってしまった。後妻にフランチェスカ・ランフレディーニを迎える。彼女も、スタンダールの表現を借りれば、息子レオナルドは、「私生児だけど、とてもかわいい」と記していた。だが、1473年、やはり出産時に亡くなってしまった。
ヴィンチの町(ママ)に住んでいたレオナルド少年は、イタリア語の読み書きは習ったにちがいない。聖書やダンテの「神曲」のかなりの部分を暗唱した。そして数学や科学の基礎も勉強した。
だが、ルネサンス期のインテリにとって必須だったラテン語は、マスターできなかった。レオナルドは左利きだったが、家庭教師は右手で書くよう矯正しなかったので、右手使いにはなれなかったとヘイルズ氏は述べている。
レオナルドは、幼少のころから自然環境のなかで学んだ。レオナルドの少年時代は、一人ぼっちだったが淋しくなかったのではないかと想像される。ノートにこう書き記している。
「一人でいるときは、完全に自分自身でいられる。でもほかの人と一緒だと、半分しか自分自身ではいられなくなる」
(”When you are alone, you are completely yourself,” he would write in his notebooks, “If you are accompanied by even one other person, you are but half yourself.”)
好奇心が旺盛な少年は野山を歩き、動物や小川の生き物の動きに魅せられた。
わずか16歳だけ年上だった叔父フランチェスコを質問攻めにしたのかもしれない。
「鳥は、なぜ飛べるの?」
「水はどうして滝になって流れ落ちて、岩の間で渦を巻くの?」
レオナルドはウマ好きであった。
「ウマが駆けるとき、どうして蹄が空中を飛んでいるように見えるの?」
こうした疑問を抱いたのであろうレオナルドは一生、答を求め続け、目にするものをスケッチし、想像力を羽ばたかせた。
レオナルドのおじフランチェスコは、レオナルドのスケッチを父親に見せたことだろう。1460年代、父セル・ピエロは息子のスケッチを持って、フィレンツェで繁盛している工房の経営者ヴェロッキオに見せた。ヴェロッキオはひと目でレオナルドの才能を見抜き、徒弟にして教育することにした。
ティーンエイジャーだったレオナルドは、ヴィンチの町(ママ)を離れ、商業と文化の中心地フィレンツェに向かった。そして再び郷里に戻ることはなかった。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、75頁~77頁。Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.45, p.46.)
最後に、リサ・ゲラルディーニと、メディチ家の同い年のジュリアーノとの関係をみておこう。
With a leader’s dispassionate scrutiny, Il Magnifico had once ap-
praised his three sons: Piero, who would succeed him, was stupid;
Giovanni, who would become pope, smart; his youngest child, Giuliano,
born the same year as Lisa Gherardini, sweet. A tutor described the baby
of the family as “vivacious and fresh as a rose… kind and clean and bright
as a mirror… merry, with those eyes lost in dreams.”
Did Giuliano and Lisa Gherardini know each other as children? The
dreamy-eyed boy could have made her acquaintance as they curtsied
and bowed through the town’s intertwined social spheres during his fa-
ther’s reign. Their families were linked by marriages to Rucellai kinsmen:
Giuliano’s aunt Nannina had wed Bernardo Rucellai; Lisa’s father, his
cousin Caterina. Novelists, weaving tales more of fancy than fact, have
conjured a friendship between Lisa Gherardini and Lorenzo de’ Medici’s
daughters, who were close to her in age, and a secret adolescent romance
with Giuliano.
Lisa would certainly have seen Lorenzo’s sons. The Medici brothers ―
sweet Giuliano, luckless Piero, and chubby Giovanni, appointed the
youngest-ever cardinal in 1492 at age thirteen ― regularly appeared at
civic festivals and the grandiose processions of Il Magnifico’s final years.
As she had been taught, Lisa would have cast down her eyes in their ―
or any male’s ― presence, but she might have snatched quick glimpses
at Giuliano, the striking lad who had inherited his father’s charismatic
charm and his namesake uncle’s good looks.
Did he notice her? If Lisa was indeed bellissima, as Vasari described her,
all the young men would have. Steeped in humanist romanticism, Renais-
sance swains loved loving fair maidens ― if only from afar. Regardless of
whether he and Lisa met as teenagers, Giuliano would later forge a tie both
to Lisa’s husband, Francesco del Giocondo, and to Leonardo da Vinci.
As Il Magnifico’s era ended in 1492, another began. The Italian explorer
Christopher Columbus discovered what he thought were islands off the
coast of India and launched the Age of Exploration. The del Giocondo
silkmakers also were looking to new horizons.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.100-101.)
【単語】
dispassionate (a.)冷静な、偏見のない
scrutiny (n.)精査、吟味
appraise (vt.)評価する、鑑定する
sweet (a.)甘い、親切な、優しい
vivacious (a.)活発な、陽気な
curtsy (n., vt.)(婦人がひざを少し曲げてする)お辞儀、会釈する
intertwine (vt., vi.)からみ合わせる[合う]
conjure (vt., vi.)魔法[手品]を使う
adolescent (a., n.)青年期の(人)
chubby (a.)丸々と太った
cast down (視線などを)下に向ける、~に落胆する
snatch (vt.)ひったくる、強奪する、(機会をのがさずに)急いで取る
glimpse (n.)ちらりと見ること
lad (n.)少年、若者
namesake (n.)同名者、ちなんで名づけられた人
steep (vt., vi.)浸す[浸る]、没頭させる(in)
swain (n.)恋人、いなかの若者
maiden (n.)乙女、未婚女性
from afar 遠方
forge (vt.)鍛えて~をつくる、(関係・友情を)築く
launch (vt., vi.)始める、進水させる
exploration (n.)探検
≪訳文≫
「イル・マニーフィコ」ことロレンツォ・デ・メディチは、冷静に息子たちを洞察していた。長男ピエロはいずれ自分を継ぐことになるに違いないが、アホ。次男ジョヴァンニは頭がよく、教皇になる器、末子のジュリアーノはリサ・ゲラルディーニと同い年で、やさしい性格。家庭教師はジュリアーノを、こう描写している。
「活発で、バラのように新鮮、……やさしくて、清潔で、鏡のように明るい。……陽気で、瞳は夢見がち」
幼少時代、ジュリアーノとリサ・ゲラルディーニは面識があったのだろうか。「イル・マニーフィコ」の統治時代に、どこかの上流社会の集まりで、面と向かったリサが膝を曲げてお辞儀をした可能性はある。この両家は、ルチェライ家との婚姻関係を持つという共通項がある。ジュリアーノの叔母ナニーナは、ベルナルド・ルチェライと結婚している。リサの父アントンマリアは、そのいとこに当たるカテリーナと結婚した。小説家は現実よりもファンシーなプロットを考えるもので、ロレンツォ・デ・メディチの娘たちはリサ・ゲラルディーニと年が近いので、仲よくなってリサとジュリアーノが幼い恋をしたというストーリーも考えられる。
リサは、ロレンツォ・デ・メディチの息子たち――やさしいジュリアーノ、不運だったピエロ、1492年に13歳という史上最年少で枢機卿になった小太りのジョヴァンニ――確かに会ったことがあると思われる。「イル・マニーフィコ」の晩年、町を挙げてのお祭りや行進に、彼らもひんぱんに顔を出していたからだ。リサは教えられた通り、男性の前では目を伏せていただろうが、ジュリアーノの姿もちらちら盗み見たに違いない。彼は父親の持つカリスマ性を継承していたし、名前をもらった叔父の美貌も引き継いでいた。
では、ジュリアーノはリサの存在に気づいていただろうか。もしヴァザーリが言うようにリサが人目を惹くほどの美人であれば、若い男がみな注目していたはずだ。ルネサンス期はロマンティックな時代だったから、青年たちは美女好みだった。――たとえ、遠くから眺めるだけでも。ジュリアーノとリサが10代のころに出会っていなくても、ジュリアーノはのちにリサの夫になるフランチェスコ・デル・ジョコンドおよびレオナルド・ダ・ヴィンチと、結びついていく。
「イル・マニーフィコ」の時代は1492年に終わりを告げるが、同じ年に新たな時代の夜明けが始まる。イタリアの探検家クリストファー・コロンブスが新大陸を“発見”し、彼はこれがインド沖の島々だと誤認したが、「大航海時代」の幕開けだった。絹織物業者フランチェスコ・デル・ジョコンドも、新たな水平線を目指していた。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、148頁~149頁)
「イル・マニーフィコ」ことロレンツォ・デ・メディチの末子であるジュリアーノはリサ・ゲラルディーニと同い年であった。また、このメディチ家とゲラルディーニ家という両家は、ルチェライ家との婚姻関係を持つという共通項がある。ジュリアーノの叔母ナニーナは、ベルナルド・ルチェライと結婚したそうだ。前述したように、リサの父アントンマリアは、そのいとこに当たる、富豪ルチェライ家の娘カテリーナと結婚したことがあった。リサの周りには、フィレンツェの名の知れた人びとが多くいた。
ジュリアーノはリサの存在に気づいていただろうかと、ヘイルズ氏も問いかけている。たとえ、遠くから眺めるだけでも、ジュリアーノとリサが10代のころに出会っていなくても、ジュリアーノは、のちにリサの夫になるフランチェスコ・デル・ジョコンドおよびレオナルド・ダ・ヴィンチと、結びついていく。
(2020年12月23日投稿)
【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】
二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む
【はじめに】
前回のブログまでは、「モナ・リザ」の制作年代について、ダイアン・ヘイルズ氏の著作を紹介してきたが、今回のブログでは、正式にその内容を紹介してみたい。
その構成に沿った形で、ゲラルディーニ家、ダティーニ夫妻の生涯、リサ・ゲラルディーニの祖父と父親、ダ・ヴィンチ家とレオナルド、リサとジュリアーノに焦点をしぼって、述べてみたい。
〇Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年
【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】
Mona Lisa: A Life Discovered
【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】
モナ・リザ・コード
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・ダイアン・ヘイルズ氏の著作と訳者の紹介
・「モナ・リザ」モデル問題に対するヘイルズ氏の見解
・フィレンツェにおけるリサ・ゲラルディーニのゆかりの場所
・ゲラルディーニ家について
・ダティーニ夫妻の生涯の一端
・リサ・ゲラルディーニの祖父と父親
・ダ・ヴィンチ家とレオナルド
・リサとジュリアーノ
ダイアン・ヘイルズ氏の著作と訳者の紹介
「著者ノート(AUTHOR’S NOTE)」(11頁~13頁)にも著者ダイアン・ヘイルズ氏自身が記しているように、この本は名画「モナ・リザ」のモデルが、イタリア・フィレンツェの絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リサ・ゲラルディーニ(1479~1542)であるという前提にまとめられている。
「モナ・リザ」という絵のことは、だれもが知っている。しかし、リサ・ゲラルディーニが、どのような女性であるのかを知っている人はほとんどいない。
この女性のことを追いかけるために、些細な事実でも拾い上げようとしたとヘイルズ氏は述べている。絵画や歴史ばかりでなく、社会学、女性学などの分野のエキスパートから話を聞いている。学術書はもちろん古文書までひもといたそうだ。そして、ジャーナリストとして、記者魂の大原則(現場を足で歩く)[a reporter’s most timeless and trustworthy tool: shoe leather]を実践したと自負している。
リサ・ゲラルディーニという普段着の生身の女性は、歴史からちっぽけな存在である。しかし、一般市民レベルのほうが、時代の状況を正しく反映しているといわれる。つまり、凡人のほうが、世の中の姿を映し出す鏡の役割を果たしている。
リサ・ゲラルディーニは、古くからの名門ゲラルディーニ家に、フィレンツェで生まれた。15歳で、年齢が倍も違うやり手の商売人と結婚し、6人の子どもを産み、享年63歳で亡くなっている。彼女が生きた時代は、フィレンツェの歴史の中でも、激動期だった。政争の時代を生き、目覚ましい芸術作品を生んだルネサンス期を体験し、経済的な繁栄と破綻をくぐり抜けてきた。リサは西欧文明の黎明期を生きた。
この本には、衣服、家屋、祭り、日常的な風習など、リサが生きていた時期の習慣も書き込まれている。そして娘、主婦、母親、女あるじとしての女性の生き方を、立体的に描いている。
さて、ダイアン・ヘイルズ(Dianne Hales)氏は、アメリカのカリフォルニア州在住のノンフィクション・ライターである。
「ニューヨーク・タイムズ」などのさまざまな新聞・雑誌に寄稿し、「レディーズ・ホーム・ジャーナル」などの編集にもたずさわっているそうだ。
前著『世界で最も美しい言語・イタリア語(La Belle Lingua : My Love Affair with Italian, the World’s Most Enchanting Language)』で、イタリア大統領から名誉勲章を贈られたという。
一方、訳者の仙名紀(せんな おさむ)氏は、1936年東京生まれの翻訳家である。上智大学新聞学科卒業後、朝日新聞社に入社し、主として出版局で雑誌編集にたずさわったという。訳書に、『文明』(N・ファーガソン、勁草書房、2012年)などがある。
訳者仙名紀氏の「訳者あとがき」(363頁~365頁)によれば、ダイアン・ヘイルズ氏の本書を次のように評している。
「この本の著書ダイアン・ヘイルズが私と同じくジャーナリストで、「これでもか」という徹底的な掘り下げ取材で、中世ルネサンス期のフィレンツェを浮き彫りにしようという姿勢と努力に、共感した」(363頁)
著者ダイアン・ヘイルズ氏はアメリカのジャーナリストであるが、中世ルネサンス期のフィレンツェを徹底的に掘り下げて調べあげ、その像を浮き彫りにしようとしている。
この本は、三本柱で構成されている。
① 名画「モナ・リザ」のモデルとして最有力視されているリサ・ゲラルディーニという「微笑」の持ち主。その個人情報ばかりでなく、彼女の家系ゲラルディーニ家の系譜
② それに夫である裕福な絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの家系
③ それに絵画の作者レオナルド・ダ・ヴィンチの系譜
以上の三本である。訳者仙名氏は、さらに一本柱を加えて、四本柱だという。
④ 著者ダイアン・ヘイルズが、現代のリサーチャーとして割り込んできて、得意のイタリア語でインタビューをし、古文書まで読み込んでいること
これら四本柱が小説ではなく、実録の「モナ・リザ・コード」とも言えそうな謎解きの面白さを立体的に構成していると仙名氏は絶賛し、「この本には、入れ込んでしまった」と述懐している。
ちなみに、【目次】は次のようになっている。
ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』(柏書房、2015年)
【目次】
著者ノート
1 これぞ生身のモデル
第Ⅰ部 ゲラルディーニ家の血筋(紀元前59~1478)
2 心の炎
3 顔のない声
4 「だれが幸せになれるか......」
第Ⅱ部 フィレンツェのある女性(1479~99)
5 ルネサンス期の娘
6 金銭と美貌
7 結婚仲介業
8 商人の妻
第Ⅲ部 新しい世紀(1500~12)
9 新時代の始まり
10 肖像画の制作が進行中
11 家族の事情
第Ⅳ部 メディチ家の勝利(1513~79)
12 立ち上がるライオン
13 死の大海
第Ⅴ部 世界で最も有名な絵画
14 マダム・リサの冒険
15 最後の微笑
訳者あとがき
関連年表
さて、モナ・リザのモデルと目されるリサ・ゲラルディーニは、500年も前の人物であるが、ダイアン・ヘイルズ氏の言う「生身の人間」として3D的に存在している。そして当時の風習や環境や文化が、この本では細かく再現されている。
すばらしい芸術が開花したフィレンツェ黄金時代のリプレーが紙の上で展開されている。
訳者仙名氏の印象としては、「モナ・リザ」のモデルとされるリサ・ゲラルディーニは、「とってもいい人」であるとする。肖像画では語りかけたいような口元を見せている。しゃべってはくれないので、タイムスリップして会ってみたいという。レオナルド・ダヴィンチという天才も、「いい人」だと思えるそうだ。ただ、天才の気まぐれがあって、付き合いにくいかもしれない。
ただ、「いい人じゃない」人物も、あまた出てくる。悪名高いチェーザレ・ボルジア、狂気の修道士ジローラモ・サヴォナローラなど。
この本の魅力は、スタティックな「モナ・リザの履歴書」に終わっていないところであると訳者仙名紀氏は強調している。
(アメリカでは、この本は高く評価され、アマゾンUSの「ベストブック・オブ2014」の100冊のうちの1冊に選ばれた)
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、363頁~365頁)
※この訳本に対するコメントを記しておくと、訳文は読みやすい。
「主な登場人物」「モナ・リザ家系図」「モナ・リザの時代のフィレンツェ地図」そして巻末には「関連年表」もきちんと訳出されている。ただ、訳本は、原書に付された註釈、参考文献がすべて省略され、索引がないのが惜しまれる。また、原書も訳本も美術書ではないので、レオナルドやラファエロなどの図版がないのも残念である。
なお、訳本には、数字などに若干の誤植があり、注意を要する。
「モナ・リザ」モデル問題に対するヘイルズ氏の見解
ヘイルズ氏も、「モナ・リザ」のモデルについて、一通り触れている。たとえば、レオナルドの母のイメージではないかとするフロイト説、自画像説、助手のサライ説などである。
しかし、リサ・ゲラルディーニだという見方は、長いこと有力だったが、この可能性が次第に高まってきたことを強調し、この本の大前提としている。
やはり、この10年(ママ)ほどの間に発見された、先の16世紀の書物の欄外メモを重視する。つまり、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻の肖像画のことや日付が書き込まれている点を証拠とみなす。
この芸術作品のモデル探しなど、本質的な問題ではないという人もいる。名画「モナ・リザ」のすばらしい美しさは、モデルがだれであるかという問題を超越しているとする意見にもうなずける。
しかし、ヘイルズ氏は、リサ・ゲラルディーニの実像を探り出せば、この肖像画を鑑賞するに当たって新たな次元を付け加えてくれることになると主張している。ヘイルズ氏自身も、「モナ・リザ」の見え方が以前とは変わってきたと述懐している。
むかし「モナ・リザ」を見たときには、憂いを含んだ微笑みを眺めても、絵は無言だったそうだ。ところがいまでは、フィレンツェ生まれのルネサンス期の絹商人の妻という姿が見えてくる。そして、愛すべき母親、敬虔なクリスチャン、しっかりした自我を持った像もうかがえるという。
ちなみに、英文では次のように述べている。
The Mona Lisa, I agree, ultimately remains what it is: a masterpiece
of sublime beauty. Ant yet my quest to discover the real Lisa Gherar-
dini has added new dimensions to my appreciation of the portrait. Once
I saw only silent figure with a wistful smile. Now I behold a daughter
of Florence, a Renaissance woman, a merchant’s wife, a loving mother, a
devout Christian, a noble spirit.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.9.)
また、額縁の外で展開されたリサの実像を知ると、次のようなことが可能になるという。
・中世と現代を隔てている壁を取り払うことができる
(opens a window onto a time poised between the medieval and the modern)
・栄華をきわめていたフィレンツェの華やかな鼓動も感じられる
(a vibrant city bursting into fullest bloom)
・人間の可能性を大きく押し広げた文化の様相も分かってくる
(a culture that redefined the possibilities of man ― and of woman)
リサ・ゲラルディーニが亡くなる1542年までに、フィレンツェの黄金時代は過ぎ去ってしまう。20年ほどの間に、デル・ジョコンド家も斜陽になるが、一族の家系図は、連綿と続いている。
(リサの孫娘は次世代を残し、以後、500年あまりにわたって一族は継続している。なかでも著名な一族は、ギチアルディーニ家である。家系研究家のドメニコ・サヴィーニが、リサの末裔を15世代まで詳しく追跡した。2007年に発表)
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、26頁~27頁参照のこと。Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.9.)
フィレンツェにおけるリサ・ゲラルディーニのゆかりの場所
ヘイルズ氏は、フィレンツェの地で、リサ・ゲラルディーニのゆかりの場所を3つ挙げている。
① スグアツァア通り(Via Sguazza)
リサ・ゲラルディーニが生まれた通りであるが、現在は薄汚く、何の痕跡もない
② デラ・ストゥーファ通り(Via della Stufa)
リサ・ゲラルディーニが大人になってから、かなりの時間を過ごしたが、なんの名残もない
③ サントルソラ修道院(the Monastero di Sant’Orsola)
終の棲家(ついのすみか)とした宗教施設だが、なにも残っていない。つまり、リサが人生最後の時期を過ごした宗教施設は、ナポレオンの侵略によって、ほかの修道院と同じ運命をたどり、軒なみ潰されてしまった。
1800年代に入ると、フィレンツェの修道院の跡地は、たばこ工場になり、さらに大学の講堂に転用された。1980年代には、市の警察が軍の兵舎に仕立て直した。サントルソラは破壊こそ免れたものの、荒れるにまかせて放置され、廃墟と化した。また、墓石や墓地の土砂も、埋め立てに使われた。
(修道院の廃墟で、リサの遺品(とりわけ遺骨)が見つかる可能性は低いようだ)
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、347頁~349頁、Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.247.)
ゲラルディーニ家について
ヘイルズ氏は、「第1部 ゲラルディーニ家の血筋(紀元前59~1478)」において、リサ・ゲラルディーニが誕生する1479年より前のゲラルディーニ家の歴史について概説している。
とりわけ、ゲラルディーニ家とダティーニ家のつながりに注目している。
プラートの商人フランチェスコ・ダティーニ(1335~1410)とマルゲリータ(1360~1423)の夫妻は厖大な文字資料を残したことで知られている。
15万通の手紙と500冊あまりの出納帳や販売台帳、300もの捺印証書、何千もの伝票や領収書、小切手類という具合で、18世紀以前のイタリアで個人が残した資料として最大規模に達する。
(イギリスの伝記作家アイリス・オリゴ(イリス・オリーゴとも表記される、1902~88)の作品に、フランチェスコ・ディ・マルロ・ダティーニの生涯を描いた『プラートの商人』(1957年、邦訳は白水社)は有名である)
リサ・ゲラルディーニ(1479~1542)が生まれたのは、マルゲリータ・ダティーニが1423年に死んでから、56年も経ってからである。ただ、このマルゲリータという女性は、実はゲラルディーニ家の出であった。ゲラルディーニ家には、14世紀に暗い歴史があった。マルゲリータの母方の祖父ペリッキアは、マルゲリータが生まれた1360年に、フィレンツェ政府の転覆を図ったかどで、死刑判決を受け、流刑に処せられた(のちに刑は取り消される)。ペリッキアの娘が、ディアノーラ・ゲラルディーニである。その夫が1360年に反逆罪で処刑されてしまうが、同年にマルゲリータが末娘として生まれたのである。
マルゲリータは、1376年に、トスカーナの都市プラートの商人フランチェスコ・ディ・マルロ・ダティーニと結婚したのである。
ところで、マルゲリータが夫に送った手紙は200通を超えるが、そのなかで「私は自分のなかにゲラルディーニ家の血が流れていることを、ひしひしと感じます」と述べている。
妻マルゲリータは、そのころの女性としては異例なことだが、文章の書き方を独習し始めた。それまで夫に手紙を出すときは、代筆を頼んでいた。マルゲリータの自筆の手紙として現存する最も古いものは、1388年、28歳のときのものである。当初の手紙からは、書くことへの挑戦がかなり困難だったことが分かり、努力の跡が見て取れるようだ。筆跡が安定してくるにつれて、マルゲリータの個性あるいはゲラルディーニ家の一員らしさが文面に覗いてくるようになるという。
この点について、ヘイルズ氏はコメントしている。代筆を頼むと、プライバシーを保てないが、そこだけではない。文章の書き方を学ぶと、決然とした姿勢を見せられ、知性と能力があることを実証し、自由な思想と、自由に発言できる女性に変身したことが見せられるとマルゲリータは考えたとヘイルズ氏は推測している。
歴史家バーバラ・タックマンは、マルゲリータを「反乱的な性格を持った若い奥方」と呼んでいる。ヘイルズ氏も、マルゲリータのことば遣いから、ゲラルディーニ家の特色である「激情」が内部で煮えたぎっている様子がうかがえるとする。
生粋のトスカーナ女の特質は、「元気溌剌、知的で、実際的で、エネルギーに満ち、貪欲で意志が強い」とヘイルズ氏は述べている。
マルゲリータについて詳しく知ることができれば、縁者であるリサ・ゲラルディーニについても分かってくるのではないかという見通しを持っている。
そもそも以前から、学者たちの間では、商人の妻であるリサが従来の女性の枠を破ってかなり活発に活動して点に注目すべきだと注意を喚起していた。
そこで、ヘイルズ氏が関心を持ったのは、中世の標準的な女性像の殻からはみ出したリサの「ゲラルディーニ家らしさ」が、レオナルド・ダ・ヴィンチのモデルになることと関係があったのではないか、という点である。リサ・ゲラルディーニは、紙に書いた文字は残していない。つまり、肖像の顔は無言のままだ。逆に、マルゲリータの手紙はたくさん残っているが、顔は不明であると述べている。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、4頁、53頁~56頁、64頁~65頁参照のこと)
ちなみに、原文には「3 顔のない声(Chapter 3: A Voice Without a Face)」に次のようにある。
Even before I made the connection between
the Gherardini and the Datini, scholars had urged me to learn
more about the exceptionally forthright merchant’s wife whose letters
shattered the silence that had long shrouded women’s lives. But what
intrigues me most about this medieval Everywoman is the “Gherardi-
ni-ness” she shares with Leonardo’s model.
Lisa Gherardini, who left not a single word on paper, forever remains
a face without a voice. Margherita, the prolific correspondent, haunts me
as a voice without a face.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.30.)
また、ヘイルズ氏は、フランチェスコ・ダティーニとマルゲリータの夫妻は、フランチェスコ・デル・ジョコンドとリサ・ゲラルディーニ夫妻と重ね合わせられそうな気もするという(そして、現代の夫婦像にも、かなり共通点がある)。
ダティーニは、リサ・ゲラルディーニの夫フランチェスコ・デル・ジョコンドと似たところがある。野心的で強欲で、機を見るのに敏だった。ダティーニは敏腕のやり手で、威張り散らし、買い叩き、法をかいくぐり、限界ぎりぎりまで価格交渉を詰め、ときに難題まで吹っかけた。いわば仕事中毒の商売人であった。つねにテンションが高いけれど、「メランコニア(malinconia: 淋しがり屋)」の面もあった。
一方、マルゲリータは、怒りっぽい夫を「落ち着くことを学びなさいよ」とたしなめ続けた。いわゆる中世の配偶者としては、「従順な妻」という典型から外れていた。彼女も少女時代は短気だったが、やがて自信に満ちた有能な女性に変身し、夫がひんぱんに荒れるので、叱責を繰り返した。マルゲリータは、夫と自分の人生をよい方向に持って行くために努力した。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、56頁~57頁)
ダティーニ夫妻の生涯の一端
このダティーニ夫妻の生涯の一端を紹介しておこう。
家庭内で、ある事件が起きる。
1392年、ダティーニは57歳のとき、20歳の奴隷女性との間に婚外子をもうける。そして、いつもながらの手際のよさを見せて、今回も結婚相手の男性を見つけて、かなりの持参金を付け、奴隷の身を解放してやる。習慣に従って乳母もあてがった。たいていは1年半から2年で乳母は去るのだが、6年もお手伝いとして一緒だった。これもマルゲリータとしては許せなかったようだ。
しかし、1398年、婚外子で6歳になったその子を、里親である乳母が、プラートに連れて来る。その時、マルゲリータは38歳になっていたが、自分が産んだ子どもがいなかったので、許す気になったようだ。自宅で歓待し、まるで自分の子であるかのように、夫の不倫の子に深い愛情を注ぐようになる。
夫のダティーニの方も、その娘のために、1000フローリンの持参金を用意した。これがフィレンツェの裕福な商人にとっての標準額だった。花婿としては、信頼するパートナーの息子を選んだ。
1406年におこなわれた結婚式で、その娘がまとった衣装は、プラートでは史上空前の豪華なものだと噂された。
豪華な式の最後に、トスカーナ地方のしきたりに習って、マルゲリータが花嫁に男の赤ん坊を抱かせ、靴のなかにフローリン金貨を忍ばせた。子宝と富を授かるように、という願いからである。
(リサ・ゲラルディーニの母親も娘のために同じような儀式をやったのではないかとヘイルズ氏は推測している。また、のちにリサ・ゲラルディーニも結婚後に、夫の先妻の男の子バルトロメオを継子として迎えいれている)
その4年後、1410年、夫ダティーニは息を引き取る。その遺言によって「愛する妻」には、年額100フローリンの年金と家屋を残した。そして孫娘が生まれたら、持参金として1000フローリンを持たせることにした。またダティーニの遺言によって、大邸宅とすべての資産(7万フローリン[1000万ドルあまりの巨額])は孤児財団に寄付したという。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、66頁~72頁)
リサ・ゲラルディーニの祖父と父親
1423年に、マルゲリータが亡くなってから、リサ・ゲラルディーニが生まれるまでには、半世紀ほどの期間がある。
この間に、フィレンツェでは、3つの家族(ゲラルディーニ、ダヴィンチ、デル・ジョコンド)が将来の一翼を担う存在として、頭角を現してくる。
コジモ・デ・メディチの統治の下で、フィレンツェはヨーロッパで最も豊かな都市国家に成長した。
リサ・ゲラルディーニの祖父ノルド・ディ・アントニオ・ゲラルディーニ(1402~1479)は、1402年にキャンティ地方で生まれた。彼はなんとかして都会に出たいと画策した。親類の女性マルゲリータ・ダティーニが死んでから11年後の1434年、ノルドは弟とともに、祖父だった反乱の徒ペリッキア・ゲラルディーニの行動にあやかって、思いも寄らないことに挑戦した。コジモ・デ・メディチがひろころ恐れられていた有力者だった二人に、庶民としてフィレンツェに来てフィレンツェの特権を享受しないか、と声をかけてくれたからだった。
そのようなきっかけがあったにもかかわらず、ノルド・ゲラルディーニは、繁栄するフィレンツェの恩恵にはあずかれなかった。フィレンツェの経済を牛耳っているのは人口の2割を占めるエリートで、彼らが富の8割を支配していた。ノルドは田舎の地主だったが、これだけでは貴族ふうの体面を保つ生活水準を維持していくことさえ困難だった。
ノルドが妻リサ(この名前が、最初の孫娘に引き継がれる)と4人の子どもたちのために購入可能な家は、パリオーネ・ヴェッキオ(現デル・プルガトリオ通り)の狭い道に面したおんぼろ家屋くらいだったという。
(近くには羊毛を洗浄する工場があり、納税申告書の中で悪臭がひどくて、このあばら屋をあきらめて借家に移り住む、と記している)
そのノルド・ゲラルディーニも、マルゲリータ・ダティーニと同じく、サンタマリア・ヌオーヴァの慈善病棟で、惨めな最期を迎えた。ノルドは、遺言を残し、おそらく感謝の気持ちから農地をこの施設に寄付している(あるいは、フランチェスコ・ダティーニと同じく、自らの魂に永遠の輝きが宿ることを願ったためかもしれないともヘイルズ氏は想像している)。
ノルドのほかの遺産は、長男アントンマリア・ディ・ノルド・ゲラルディーニ(リサの父、1444~1525年ごろ)に与えられた。一族の命運は、アントンマリアにゆだねられた。アントンマリアは3回の結婚(1465年、1473年、1476年)をし、リサがフランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚するお膳立てをした父親である。
公式の記録によると、1472年に28歳になったアントンマリア・ディ・ノルド・ゲラルディーニは、単に「公人(ヴィル・ノビリス)」と記されている。それが意味するところは、ラテン語の素養があり、調停者あるいは裁判に携わった場合にはラテン語が使うことができ、少なくとも自分の資産を管理できる程度の算数ができるという証明であるようだ。
「ジェントルマン」は、職業を持たない習慣で、フィレンツェのエリートの3分の1ほどは、アントンマリアと同じ手合いである。アントンマリアの場合は、貸家の家賃収入と、フィレンツェの南30キロほどにあるポッジョ地方にあるサンドーナという小さな町のマナハウスを含む地所からの収入で暮らしていた。
アントンマリアの肖像は発見できなかったとヘイルズ氏は記している。
ヴェネツィアの画家ティントレットが描いたフランチェスコ・ゲラルディーニ家の容貌の特徴が共通しているとすれば、リサの父は、次のような容貌をしていたのではないかと想像している。
貴族的な風貌をしていて、頰骨が高く、鼻が長く、傲慢そうな口元で、あごひげをきちんと刈り込み、姿勢がよく、肩幅が広い。インテリ紳士だったとすれば、人文学者アルベルティが規定したように、「町をよく歩き、乗馬をたしなみ、話術にたけている」といった三つの特質で秀でていたと推測している。これらの三つの要素を兼ね備えていたとすれば、一族の期待を担う財政面での健全さも期待できたであろう(具体的に言えば、まず有利な結婚条件を引き出せることをさす)
1465年、21歳のアントンマリアと、フィレンツェの名家令嬢リサ・ジョヴァンニ・フィリッポ・デ・カルドゥッチの婚儀が執りおこなわれた。だが夫人は出産時に亡くなってしまう。
(当時としては決して珍しいことではなく、トスカーナでは女性の4人に1人が、出産時に命を落とした)
だが、男やもめとなっても、若ければ気を取り直して再婚するのが普通だった。1473年、アントンマリアはフィレンツェで「最も美しい花」の一つと呼ばれた女性カテリーナ・ルチェライに惹きつけられた。当時、ルチェライ家は押しも押されもしない富豪になり、豪邸に住んでいた。
15世紀になると、当主のジョヴァンニ・ディ・パオロ・ルチェライ(1403~81)は、フィレンツェで3番目の金持ちにランクされていた。そしてジョヴァンニは、1466年、自分の子どもを、フィレンツェで最大の家柄メディチ家と結び付け、結婚による絆づくり(パレンタード、parentado)に成功した。その結婚の費用総額はなんと1185フローリンにも達した。
(ルチェライ家は、染料で膨大な利益を生み、一族の名もその染料の名前にちなんで、「オリチェライ」と呼ばれるようになり、なまってルチェライという家名になったらしい)
そうした富豪ルチェライ家の娘カテリーナに、アントンマリアは求婚した。彼はこのルチェライ家との姻戚関係になれば、上流階級の香り付けができ、商売面でもプラスになると踏んだにちがいない。
1473年、結婚し、ほどなくして妊娠するものの、またしても新妻が出産時に亡くなってしまう。アントンマリアは再び若い配偶者を失って、悲しみのどん底に落ち込んだ。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、4頁、73頁~74頁、88頁~93頁)
1476年、アントンマリアは、3度目の妻ルクレツィア・ダ・カッキアと結婚する。新婦の出身地は、ゲラルディーニ家の地所の近くにあるキャンティ地方の名家である。年齢は21歳で、適齢期の上限だった。だが不幸な結婚歴を体験している32歳のアントンマリアとしては、ルクレツィアと結婚できる最善のチャンスだと見ていた。
アントンマリアは新婦とともに、悪臭が漂うスグアッツァ通りにある安い借家に落ち着いた。しかし2年後の1478年、メディチ銀行のライバルであるパッツィ銀行が音頭を取るフィレンツェの不満分子がクーデターを起こす。このパッツィの反乱によって、アントンマリアの家計は大打撃を受け、ゲラルディーニ家の未来にも暗い影を落とすことになった。
教皇シクストゥス4世は、傲慢なメディチ家を追い落とそうとし、ナポリ王に応援を要請し、フィレンツェの南方から進軍させた。その間、畑の作物を焼き、家々を略奪した。ゲラルディーニ家の地所では、水車小屋に乱入して、穀物を奪った。
アントンマリアは、税の申告書に、次のように、いらだたしげに記載している。
「やつらは戦争好きで、おかげで私には収入がなくなった。家は焼かれ、品物は壊され、小作人や家畜もいなくなった」
このように、1478年4月26日に起きたパッツィの反乱は、フィレンツェと教皇庁・ナポリ連合軍が交戦する事態となり、ゲラルディーニ家にも大きな影響を与えたのである。
1478年の暮れ、妻ルクレツィアが妊娠すると、アントンマリアにはまた心配の種が増えた。もし生まれて来る赤ん坊が女の子で無事に育ったとしても、誕生の時から積み立てるべき持参金など、準備できそうにないからである。当時、父親が娘の持参金を用意することは絶対的な義務だと考えられていた。
娘がどれほどの美貌でも、スタイルが抜群でも、持参金がなければ人生を謳歌できず、修道院の壁の内部で過ごさざるを得ないことを、アントンマリアは憂慮した。彼の妹も、そのような運命にあった。
だが、娘リサの運命がまるで違ったものになるとは、その時点では想像もできなかった。
年が明けて、1479年6月15日に、アントンマリアとルクレツィアのゲラルディーニ夫妻の間に、女の子が生まれた。リサ・ゲラルディーニである。
洗礼登録簿を目にすると、「モナ・リザ」のモデルが、にわかに生身の人間に感じられるようになった(The donna vera had never seemed more real to me.)と、ヘイルズ氏は述懐している。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、101頁~113頁。Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.74.)
ダ・ヴィンチ家とレオナルド
ヴィンチ町(ママ)出身のダ・ヴィンチ家は、由緒ある家系でもなければ、貴族でもなかった。しかし、代々「公証人(notaio)」という司法官吏を務めていた。フィレンツェ執政官(シリョリーア)の雇員だった者もいる。その孫で同じ名前を名乗るピエロも同じ職業を継ぎ、尊称セルを冠して呼ばれた。
セル・ピエロ・ダヴィンチ(1427~1504)は、若いころトスカーナ地方を広く歩き回り、不動産譲渡証書の記録を取ったり、遺言の控えを保存したり、契約書を作成したり、商業・法律上の手助けをした。
だが、セル・ピエロはもっと大きな野望を持っていた。しかし、婚外子の父親だったから、それが昇進の妨げになることは、阻止しなければならなかった。
カテリーナという田舎娘が、1452年4月15日に男の子を産んだ。洗礼名はレオナルドである。
その直後、セル・ピエロはフィレンツェに行き、家格が釣り合う同じ公証人仲間の娘で、16歳のアルビエーラ・アマドーリと結婚した。
セル・ピエロの父は地方の地主だったから、持参金を工面して、カテリーナを地元の陶器窯元で働いている男と結婚させたものと見られている。数年のうちにカテリーナはまた出産した。
納税申告書によると、レオナルドは「婚外子」とあり、祖父母および叔父のフランチェスコと暮らしている、と記載されている。
(young Leonardo, listed as “non legittimo,” was living with his paternal grandparents and his uncle Francesco.)
不倫の子を引き取って育てるのはイタリアでは、ごく一般的であったようだ。だが実際には、「私生児」はさげすまれた。レオナルド・ダヴィンチも大学には行けなかったし、医学や法律は学べなかったにちがいない。父や祖父の職業、公証人も継げなかった。
フィレンツェは、訴訟好きな都市国家だった。だから、公証人や弁護士のような法律に関する職業が医者や外科医の10倍も多かった。
セル・ピエロ・ダヴィンチは、息子レオナルドに見切りを付けたとヘイルズ氏は明記している。
セル・ピエロは法務省(現バルジェロ美術館)の近くに事務所を開いてから数か月後、彼はラルゴ通り(現カーヴール通り)にあるメディチの宮殿を公式に訪れて離別のあいさつをした。彼は60年近くも公証人を務めてきた有能な官吏である。単に記録を残すだけでなく、計理士、司法士、投資顧問など万般の仲介者として腕を振るっていた。それらを通じて、セル・ピエロは富裕な都市国家フィレンツェの商業や官僚機構、エリート家族、宗教組織をスムーズに動かす潤滑油のような役割を果たしていた。
セル・ピエロが亡くなったとき、フィレンツェのある詩人は、こう称賛した。
「最も法律に精通した人物を選ぶとすれば、ピエロ・ダヴィンチを措いてほかにはいない」
セル・ピエロの最初の夫人アルビエーラは、金髪でおとなしいレオナルドをかわいがったと言われる。しかし、1464年、出産時に亡くなってしまった。後妻にフランチェスカ・ランフレディーニを迎える。彼女も、スタンダールの表現を借りれば、息子レオナルドは、「私生児だけど、とてもかわいい」と記していた。だが、1473年、やはり出産時に亡くなってしまった。
ヴィンチの町(ママ)に住んでいたレオナルド少年は、イタリア語の読み書きは習ったにちがいない。聖書やダンテの「神曲」のかなりの部分を暗唱した。そして数学や科学の基礎も勉強した。
だが、ルネサンス期のインテリにとって必須だったラテン語は、マスターできなかった。レオナルドは左利きだったが、家庭教師は右手で書くよう矯正しなかったので、右手使いにはなれなかったとヘイルズ氏は述べている。
レオナルドは、幼少のころから自然環境のなかで学んだ。レオナルドの少年時代は、一人ぼっちだったが淋しくなかったのではないかと想像される。ノートにこう書き記している。
「一人でいるときは、完全に自分自身でいられる。でもほかの人と一緒だと、半分しか自分自身ではいられなくなる」
(”When you are alone, you are completely yourself,” he would write in his notebooks, “If you are accompanied by even one other person, you are but half yourself.”)
好奇心が旺盛な少年は野山を歩き、動物や小川の生き物の動きに魅せられた。
わずか16歳だけ年上だった叔父フランチェスコを質問攻めにしたのかもしれない。
「鳥は、なぜ飛べるの?」
「水はどうして滝になって流れ落ちて、岩の間で渦を巻くの?」
レオナルドはウマ好きであった。
「ウマが駆けるとき、どうして蹄が空中を飛んでいるように見えるの?」
こうした疑問を抱いたのであろうレオナルドは一生、答を求め続け、目にするものをスケッチし、想像力を羽ばたかせた。
レオナルドのおじフランチェスコは、レオナルドのスケッチを父親に見せたことだろう。1460年代、父セル・ピエロは息子のスケッチを持って、フィレンツェで繁盛している工房の経営者ヴェロッキオに見せた。ヴェロッキオはひと目でレオナルドの才能を見抜き、徒弟にして教育することにした。
ティーンエイジャーだったレオナルドは、ヴィンチの町(ママ)を離れ、商業と文化の中心地フィレンツェに向かった。そして再び郷里に戻ることはなかった。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、75頁~77頁。Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.45, p.46.)
リサとジュリアーノ
最後に、リサ・ゲラルディーニと、メディチ家の同い年のジュリアーノとの関係をみておこう。
With a leader’s dispassionate scrutiny, Il Magnifico had once ap-
praised his three sons: Piero, who would succeed him, was stupid;
Giovanni, who would become pope, smart; his youngest child, Giuliano,
born the same year as Lisa Gherardini, sweet. A tutor described the baby
of the family as “vivacious and fresh as a rose… kind and clean and bright
as a mirror… merry, with those eyes lost in dreams.”
Did Giuliano and Lisa Gherardini know each other as children? The
dreamy-eyed boy could have made her acquaintance as they curtsied
and bowed through the town’s intertwined social spheres during his fa-
ther’s reign. Their families were linked by marriages to Rucellai kinsmen:
Giuliano’s aunt Nannina had wed Bernardo Rucellai; Lisa’s father, his
cousin Caterina. Novelists, weaving tales more of fancy than fact, have
conjured a friendship between Lisa Gherardini and Lorenzo de’ Medici’s
daughters, who were close to her in age, and a secret adolescent romance
with Giuliano.
Lisa would certainly have seen Lorenzo’s sons. The Medici brothers ―
sweet Giuliano, luckless Piero, and chubby Giovanni, appointed the
youngest-ever cardinal in 1492 at age thirteen ― regularly appeared at
civic festivals and the grandiose processions of Il Magnifico’s final years.
As she had been taught, Lisa would have cast down her eyes in their ―
or any male’s ― presence, but she might have snatched quick glimpses
at Giuliano, the striking lad who had inherited his father’s charismatic
charm and his namesake uncle’s good looks.
Did he notice her? If Lisa was indeed bellissima, as Vasari described her,
all the young men would have. Steeped in humanist romanticism, Renais-
sance swains loved loving fair maidens ― if only from afar. Regardless of
whether he and Lisa met as teenagers, Giuliano would later forge a tie both
to Lisa’s husband, Francesco del Giocondo, and to Leonardo da Vinci.
As Il Magnifico’s era ended in 1492, another began. The Italian explorer
Christopher Columbus discovered what he thought were islands off the
coast of India and launched the Age of Exploration. The del Giocondo
silkmakers also were looking to new horizons.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.100-101.)
【単語】
dispassionate (a.)冷静な、偏見のない
scrutiny (n.)精査、吟味
appraise (vt.)評価する、鑑定する
sweet (a.)甘い、親切な、優しい
vivacious (a.)活発な、陽気な
curtsy (n., vt.)(婦人がひざを少し曲げてする)お辞儀、会釈する
intertwine (vt., vi.)からみ合わせる[合う]
conjure (vt., vi.)魔法[手品]を使う
adolescent (a., n.)青年期の(人)
chubby (a.)丸々と太った
cast down (視線などを)下に向ける、~に落胆する
snatch (vt.)ひったくる、強奪する、(機会をのがさずに)急いで取る
glimpse (n.)ちらりと見ること
lad (n.)少年、若者
namesake (n.)同名者、ちなんで名づけられた人
steep (vt., vi.)浸す[浸る]、没頭させる(in)
swain (n.)恋人、いなかの若者
maiden (n.)乙女、未婚女性
from afar 遠方
forge (vt.)鍛えて~をつくる、(関係・友情を)築く
launch (vt., vi.)始める、進水させる
exploration (n.)探検
≪訳文≫
「イル・マニーフィコ」ことロレンツォ・デ・メディチは、冷静に息子たちを洞察していた。長男ピエロはいずれ自分を継ぐことになるに違いないが、アホ。次男ジョヴァンニは頭がよく、教皇になる器、末子のジュリアーノはリサ・ゲラルディーニと同い年で、やさしい性格。家庭教師はジュリアーノを、こう描写している。
「活発で、バラのように新鮮、……やさしくて、清潔で、鏡のように明るい。……陽気で、瞳は夢見がち」
幼少時代、ジュリアーノとリサ・ゲラルディーニは面識があったのだろうか。「イル・マニーフィコ」の統治時代に、どこかの上流社会の集まりで、面と向かったリサが膝を曲げてお辞儀をした可能性はある。この両家は、ルチェライ家との婚姻関係を持つという共通項がある。ジュリアーノの叔母ナニーナは、ベルナルド・ルチェライと結婚している。リサの父アントンマリアは、そのいとこに当たるカテリーナと結婚した。小説家は現実よりもファンシーなプロットを考えるもので、ロレンツォ・デ・メディチの娘たちはリサ・ゲラルディーニと年が近いので、仲よくなってリサとジュリアーノが幼い恋をしたというストーリーも考えられる。
リサは、ロレンツォ・デ・メディチの息子たち――やさしいジュリアーノ、不運だったピエロ、1492年に13歳という史上最年少で枢機卿になった小太りのジョヴァンニ――確かに会ったことがあると思われる。「イル・マニーフィコ」の晩年、町を挙げてのお祭りや行進に、彼らもひんぱんに顔を出していたからだ。リサは教えられた通り、男性の前では目を伏せていただろうが、ジュリアーノの姿もちらちら盗み見たに違いない。彼は父親の持つカリスマ性を継承していたし、名前をもらった叔父の美貌も引き継いでいた。
では、ジュリアーノはリサの存在に気づいていただろうか。もしヴァザーリが言うようにリサが人目を惹くほどの美人であれば、若い男がみな注目していたはずだ。ルネサンス期はロマンティックな時代だったから、青年たちは美女好みだった。――たとえ、遠くから眺めるだけでも。ジュリアーノとリサが10代のころに出会っていなくても、ジュリアーノはのちにリサの夫になるフランチェスコ・デル・ジョコンドおよびレオナルド・ダ・ヴィンチと、結びついていく。
「イル・マニーフィコ」の時代は1492年に終わりを告げるが、同じ年に新たな時代の夜明けが始まる。イタリアの探検家クリストファー・コロンブスが新大陸を“発見”し、彼はこれがインド沖の島々だと誤認したが、「大航海時代」の幕開けだった。絹織物業者フランチェスコ・デル・ジョコンドも、新たな水平線を目指していた。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、148頁~149頁)
「イル・マニーフィコ」ことロレンツォ・デ・メディチの末子であるジュリアーノはリサ・ゲラルディーニと同い年であった。また、このメディチ家とゲラルディーニ家という両家は、ルチェライ家との婚姻関係を持つという共通項がある。ジュリアーノの叔母ナニーナは、ベルナルド・ルチェライと結婚したそうだ。前述したように、リサの父アントンマリアは、そのいとこに当たる、富豪ルチェライ家の娘カテリーナと結婚したことがあった。リサの周りには、フィレンツェの名の知れた人びとが多くいた。
ジュリアーノはリサの存在に気づいていただろうかと、ヘイルズ氏も問いかけている。たとえ、遠くから眺めるだけでも、ジュリアーノとリサが10代のころに出会っていなくても、ジュリアーノは、のちにリサの夫になるフランチェスコ・デル・ジョコンドおよびレオナルド・ダ・ヴィンチと、結びついていく。
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