ブログ原稿≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その7≫
(2020年7月25日投稿)
【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】
小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
前回に引き続き、今回も印象派のルノワールの作品について考えてみよう。
まず、アンヌ・ディステル氏の著作『ルノワール――生命の讃歌』(創元社、1996年)により、ルノワールの『陽光を浴びる裸婦』(オルセー美術館)と『浴女』の画風の違いについて解説しておく。
次に、映画『アメリ』に出てくるルノワールの絵『舟遊びをする人々の昼食』(« Le déjeuner des canotiers »、『舟遊びの昼食』とも呼ばれる。ワシントンのフィリップス・コレクション蔵)について、まず説明しておく。1882年の第7回印象派展に出品され、3人の批評家から最も優れた作品と認定された。
そして、映画『アメリ』で、どのように、このルノワールの絵が取り上げられているかを、具体的にみてみたい。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
アンヌ・ディステル氏は、パリのオルセー美術館の主任学芸員で優れた美術史家である。その著作アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』(創元社、1996年)については、「日本語版監修者序文」において、高階秀爾氏が、本書は豊かな生命の画家ルノワールを、きわめて明快適切に紹介したものであると推薦の辞を述べている。巨匠ルノワールの生涯と業績をよく伝えてくれる好著という(4頁)。
例えば、アンヌ・ディステル氏は、ルノワールの『陽光を浴びる裸婦』と『浴女』の画風の違いについて言及している。
〇ルノワール『陽光を浴びる裸婦』1875年 81×65㎝ オルセー美術館
〇ルノワール『浴女』1881年 81.8×65.7㎝ ウィリアムズタウン スターリング・アンド・フランシーヌ・クラーク美術館
習作『陽光を浴びる裸婦』(1875年)は、『散歩に出かける子どもたち』(1874年)とともに、1876年の第2回印象派展で批評家の嘲笑をあびた。裸婦の習作の方は、フィガロ紙に「緑色や紫色がかった斑点だらけの腐りかけた肉の塊で死体の完全な腐乱状態を示している」とさえ酷評された。
一方、『浴女』(1881年)は、ルノワールによると、イタリアのナポリ近郊のカプリの太陽の下で、舟の上から描いたものだという。自分からはモデルの名前を告げていないが、後にアリーヌ・シャリゴがルノワールに同行したイタリア旅の思い出を語って、はからずも明らかになった。
ルノワールはこの愛人について一言も口にしたことはなく、当時は知人たちに対してひた隠しに隠していた。ルノワールとアリーヌが結婚したのは1890年だが、彼女は後にこのイタリア旅行をそれとなく「新婚旅行」のように語っている。
さて、『陽光を浴びる裸婦』から、『浴女』への画風の変化についてはどう考えたらよいのだろうか。
『陽光を浴びる裸婦』は、木洩れ日の下のぼやけた輪郭をモチーフにしている。一方、『浴女』の裸婦は演出が明らかで、輪郭も明確であり、肉感豊かな堂々たる存在である。背景の移し換えの努力も際立っている。そこに表現されているのは、もうボートでもナポリ湾でもなく、暗示的な風景の中の古典的なテーマであるそうだ。この絵は「昔の人々の、あの偉大さと単純さ」を取り戻したいという望みに一致しているとディテル氏はみている。つまり、この絵は、ルノワールの、イタリア絵画とアングルの思い出に啓発された古典主義への回帰を意味する最初の作の一つであると位置づけている。
(アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』創元社、1996年、48頁~49頁、86頁~87頁、186頁~187頁)
【アンヌ・ディステル『ルノワール――生命の讃歌』創元社はこちらから】
ルノワール:生命の讃歌 (「知の再発見」双書)
アンヌ・ディステル氏は、その著作において、『舟遊びをする人々の昼食』について言及しているので、紹介しておこう。
1879年頃から、ルノワールはふたたびセーヌ河畔を訪れ、かつてのラ・グルヌイエールの水浴場時代を喚起させるような、舟遊びをする人々の絵を描くようになった。
その頂点を画するのが、1880~1881年に制作された大作『舟遊びをする人々の昼食』である。
〇ルノワール『舟遊びをする人々の昼食』1880~1881年 130×173㎝ ワシントン フィリップス・コレクション
1881年にデュラン=リュエルに売られたこの作品は、おそらく前年の夏に制作を開始したとされる。
舟遊びの男女が、セーヌ河畔のシャトゥーのシアール島にあるレストラン、フルネーズのテラスで食事している風景が描かれている。
ルノワールはポール・ベラール宛ての手紙に、次のように書いている。
「目下シャトゥーに滞在中で(略)昔から描きたくてうずうずしていた舟遊びの人々の絵を描いています。(略)完成させられるかわかりませんが、ドゥードンに相談すると、出費がかさんだ上に絵を完成させられなくても、私の言い分は認めるといってくれました。その言い分というのはつまり、これがひとつの前進だということです。画家は時には実力以上のことを試さなければならないのです」
ただ、絵の制作は遅々として進まなかったようだ。
『舟遊びをする人々の昼食』は下準備のためのエスキースが1枚もない。たとえあったとしても、部分的に修正個所の多いこの絵を吟味すると、ルノワールは決定版に相当手を入れていたことがうかがえるとディステル氏はみている。
同一サイズの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』と比べると、わずか5年しか経過していないのは、画風の驚くべき相違が目立つようだ。
こちらは色彩がより明るくなり、構図もより抑制されて遠近が単純化されている。とりわけ色彩のコントラストが個性の明確な人物の綿密な描写に役立っている。輪郭を明示するために採り入れたこの新しい技法は、印象派への批判(おおまかで、あいまいであるという批判)に応えようとしたものとみられている。
だが、1881年のサロンに出品されたのは、この大作ではなかった。
出品作は、ルノワールが旅に出る前にエフリュッシに選択を任せた、モデル不詳の2点の肖像画だった。モネとシスレー同様、今回もルノワールは印象派展に出品しなかった。どうしてもサロンに出品しようとする理由は、絵を売るためだけの作戦なのだと、デュラン=リュエルに説明している。
このことは、1881年に北アフリカへ旅行した際に、画商デュラン=リュエル宛てに書かれた手紙に、次のように書かれている。
「親愛なるデュラン=リュエル様
私がなぜサロンに出品するのか、ご説明してみたいと思います。パリには、サロンに出品していない画家を好む愛好家は15人もいないでしょう。そしてサロンに出していない画家には鼻も引っかけない愛好家は8万人もいます。だから私は毎年、たった2枚ですが、肖像画をサロンに送るのです。それに、出品先によって絵の価値が下がると考えるほど、マニアックになりたくありません。ひと言でいえば、サロンを毛嫌いするヒマさえ、私には惜しいのです。そんなポーズをとることすら面倒です。最高の絵を描くことが肝心。それだけです」
サロンへの出品は、「印象派」のメンバーの行動としては、明瞭な態度の変更を意味する。だからルノワールは、印象派の同調者だった画商デュラン=リュエルに弁明して、上記のような手紙を書いたようだ。
(アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』創元社、1996年、74頁~82頁、136頁~137頁、187頁)
【アンヌ・ディステル『ルノワール――生命の讃歌』創元社はこちらから】
ルノワール:生命の讃歌 (「知の再発見」双書)
1881年10月からのイタリア旅行から帰国すると、ルノワールは3点の大作に取りかかり、それらは1883年春に完成した。
その3点とは、ダンスのヴァージョンである。これらのうち、一対の作はオルセー美術館にある。
〇ルノワール『ブージヴァルのダンス』1883年 181.8×98㎝ ボストン美術館 絵画基金
〇ルノワール『田舎のダンス』1882~1883年 180×90㎝ オルセー美術館
〇ルノワール『都会のダンス』1882~1883年 180×90㎝ オルセー美術館
これらは主題と画風からして、『舟遊びをする人々の昼食』の延長に近いものとみられている。
ルノワールは『ブージヴァルのダンス』と『都会のダンス』のモデルに、マリー・クレマンティーヌ・ヴァラドンを起用した。この若い女性は1883年12月、息子モーリス・ユトリロを生んだ。その父親は、彼女が時折ほのめかしていたように、ルノワールであった可能性もある。
一方、『田舎のダンス』の女性のモデルは、アリーヌ・シャリゴにまちがいない。『都会のダンス』のシュザンヌ・ヴァラドンがタフタ(taffetas、細かい横畝[よこうね]のある薄手の絹織物)のドレスを着ているのに対して、『田舎のダンス』のアリーヌ・シャリゴはコットンのドレスを着ている。
この対の『ダンス』2作は1883年4月、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通りに借りた会場ではじめて催したルノワール個人の回顧展に出品された。
それからまもなく『ブージヴァルのダンス』はデュラン=リュエルによってロンドンの画廊でも、ルノワールの他の10点の作とともに展示された。
(アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』創元社、1996年、87頁~89頁、187頁)
映画『アメリ』の中に、ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』という絵が登場するので、紹介しておく。
まず、映画『アメリ』について説明しておく。
映画『アメリ』は原題 Le Fabuleux Destin d’Amélie Poulainといい、「アメリ・プーランの素晴らしい運命」の意で、2001年に公開されたフランス映画である。パリ・モンマルトルを舞台に、パリジャンの日常を描き、フランスで国民的大ヒットを記録した。
① ジャン=ピエール・ジュネ監督、オドレイ・トトゥ主演『アメリ』
(2001年に公開されたフランス映画、DVDは2001年発売)
②Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulain, Le Scénario,
Ernst Klett Sprachen, Stuttgart, 2003.
③イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』株式会社リトル・モア、2001年[2002年版]
アメリ [Blu-ray]
主演は、オドレイ・トトゥ(Audrey Tautou、1976-)で、この映画で世界的に有名になり、2006年に『ダ・ヴィンチ・コード』でヒロインのソフィー・ヌヴーを演じ、トム・ハンクスと共演し、ハリウッド作品に初出演した。2009年に公開された『ココ・アヴァン・シャネル』ではココ・シャネルを演じた。
『アメリ』のあらすじは次のようなものである。
両親に幼少期にあまり構ってもらえず、孤独の中で育ち、周囲とコミュニケーションがとれない不器用な女性がアメリである。22歳となったアメリは、モンマルトルのカフェで働き始める。彼女はクレーム・ブリュレの表面をスプーンで割る、サン・マルタン運河で石を投げ水切りをする、この瞬間にパリで何人が「達した」か妄想するなど、ささやかな一人遊びと空想にふける毎日を送っていた。
そんな彼女にも気になる男性が現われた。スピード写真のボックス下に捨てられた他人の証明写真を収集する趣味を持つニノである。アメリは気持ちをどう切り出してよいかわからず、試行錯誤する。ニノと会って話をするチャンスを逃してしまったアメリに、アパートの同居人レイモン・デュファイエル爺さんが「思い切ってぶつかっても、自分が砕けてしまうことはない」と背中を押してくれる。
ストレートに他人と向き合うことのなかったアメリはその後、ニノと会い、めでたく結ばれる。パリの街並みの中を、アメリはニノのソレックス(le Solex、原動機つき自転車)の後席に乗り、駆け抜けていくのだった。
この映画で、レイモン・デュファイエルが、ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』を模写している。彼は、アメリの階下に住む気難しい老人で、通称「ガラス男」と呼ばれていた。
前述したように、「舟遊びの昼食」はフランスの印象派の画家ルノワールによる絵画作品である(1880~1881年、油彩、フィリップス・コレクション、ワシントンD.C.)。1882年の第7回印象派展に出品され、批評家に称賛された。豊かな表現、流動的な筆遣い、明滅する光に優れた作品である。
フランスシャトゥーにあるセーヌ川畔のメゾン・フルネーズのテラスでくつろぐルノワールの友人らを描いている。ルノワールと後援者のギュスターヴ・カイユボットは、右下部に着席している。のちにルノワールの妻となるアリーヌ・シャリゴは、最も手前で子犬と遊んでいる。つまり、お針子のアリーヌ・シャリゴは犬を抱いて、構成の左下部付近に座っている。
絵の真ん中でグラスの水を飲んでいる物憂げな娘は、この小説でもアメリの関心を惹いていた。彼女は女優のエレーヌ・アンドレと特定されている。その向かいに着席しているのは、ラウル・バルビエ男爵である。
手すりの斜線が画面を二つに区切る役目を果たしており、片側には人物でにぎわっている一方、もう片側はゆったりとした空間に、経営者の娘ルイーズ=アルフォンシーヌ・フルネーズと、その兄弟のアルフォンス・フルネーズJr.である。この対照は有名になったそうだ。二人とも伝統的な麦わら帽をかぶり、画面の左側に位置している。手すりにもたれて微笑んでいる女性がアルフォンシーヌ、画面最も左側にいるのがアルフォンスで、彼は貸しボートの責任者だった。
ところで、映画『アメリ』(2001年)の監督ジャン=ピエール・ジュネ(Jean-Pierre Jeunet, 1953-)は、この絵を参照していたようだ。
この映画で、ルノワールの「舟遊びの昼食」(« Le déjeuner des canotiers »)が登場する場面をフランス語でみてみよう。
Amélie contemple sur un chevalet la reproduction d’une peinture.
Dufayel lui apporte un bol.
AMÉLIE : Merci, J’aime beaucoup ce tableau.
DUFAYEL : C’est « Le déjeuner des canotiers » de Renoir.
Il ouvre un placard où se trouvent dix-neuf reproductions...
DUFAYEL : J’en fais un par an depuis vingt ans. (Devant un des
tableaux du placard) Le plus dur, ce sont les regards. Un chouïa
d’ombre ou de lumière en trop, et vous faites apparaître de l’amour à
la place du ressentiment... Parfois, j’ai l’impression qu’ils changent
exprès d’humeur dès que j’ai le dos tourné.
AMÉLIE : Là, ils ont l’air plutôt contents de la vie.
DUFAYEL : Ils peuvent ! Terrine de lièvre aux morilles, veau maren-
go, fromage, sorbets, digestif, gaufres à la confiture pour les enfants...
(Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulain, Le Scénario,
Ernst Klett Sprachen, Stuttgart, 2003. p.20)
【Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulainはこちらから】
Le fabuleux destin d'Amelie Poulain: le scénario (Drehbuchfasung des Films)
【語句】
Amélie contemple <contempler瞑想する、じっくり見る(contemplate)の直説法現在
un chevalet (m)画架、イーゼル(easel)
la reproduction (f)再生(reproduction)、複写、複製(copy)
une peinture (f)絵画(picture)
Dufayel lui apporte un bol<apporter持ってくる(bring)の直説法現在
un bol (m)椀、大カップ(bowl)
J’aime beaucoup <aimer好む(love, like)の直説法現在
ce tableau (m)絵(painting, picture)
C’est <êtreである(be)の直説法現在
Le déjeuner (m)昼食(lunch)
canotier (m)(ボートの)こぎ手、(古風)ボート遊びをする人(rower, oarsman)
Il ouvre un placard <ouvrir開く(open)の直説法現在
un placard (m)戸棚(cupboard, closet)
où se trouvent <代名動詞se trouver ある、見いだされる(be, be found)の直説法現在
J’en fais <faireする、作る(do, make)の直説法現在
devant ~の前に(で)(in front of, before)
le plus dur (adj.)堅い、むずかしい(hard)
regard (m)視線、まなざし(one’s eyes, glance, gaze)
un chouïa (m)(話)ほんの少し(=un petit peu)
ombre (f)陰、陰影(shade)
lumière (f)光(light)
trop (adv.)あまりに、過度に(too much) en trop余分に、余計に、余分な、余計な vous faites apparaître de l’amour à la place du ressentiment
vous faites apparaître<faire+不定法 ~させる(make do)の直説法現在
apparaître 現れる、見えてくる(appear)
à la place de ~の代わりに(instead of)
ressentiment (m)恨み、悪感情(resentment)
parfois (adv.)ときどき、ときには(sometimes)
j’ai l’impression qu’ils changent exprès d’humeur dès que j’ai le dos tourné
j’ai l’impression<avoir持っている(have)の直説法現在
→ avoir l’impression que+ind. ~という印象をもつ、~のような気がする
qu’ils changent<changer変わる(change)の直説法現在
exprès (adv.)わざと、特別に(intentionally, on purpose)、(adj.)明白な(express)
humeur (f)気質(temper)、気分(mood)
dès que+直説法 ~するや否や(as soon as)
j’ai le dos tourné
le dos (m)背中(back)
avoir le dos tourné 背中を向けている、ちょっと目を離す、注意をそらす
<用例>
Dès que j’ai le dos tourné tu cesses de travailler.ちょっと目を離すと君はすぐにさぼる。
(cf.) La chance lui a tourné le dos.好運は彼(女)を見放した。
Après son échec, tous ses amis lui ont tourné le dos.
彼が失敗すると友達はみな彼から去って行った。
ils ont l’air <avoir持つ(have)の直説法現在
→avoir l’air de...~のように見える(look)
<用例>
Elle a l’air très gentille.彼女はとても親切そうだ(She has a very kind look.)
là (間投詞)(驚き、困惑などを示す)さあ、ほら
plutôt (adv.)むしろ(rather)、多少(somewhat)
Ils peuvent ! <pouvoirできる(can)の直説法現在
terrine (f)パテ、テリーヌ(potted meat, terrine)
lièvre (m)ノウサギ(hare)
→terrine de lièvre ノウサギのテリーヌ(potted hare)
morille (f)アミガサタケ(食用きのこ)(morel)
veau marengo veau (m)子牛(calf)、子牛の肉(veal) marengo(adj.)マレンゴ風の
veau marengoはマレンゴ風子牛肉(トマト、マッシュルーム、オリーブ入りの
白ワインソース、鶏、子牛などの煮込み用)(marengo)
fromage (m)チーズ(cheese)
sorbet (m)シャーベット(water ice, sorbet)
digestif (m)食後酒、ディジェスチーフ(digestive)
gaufre (f)ゴーフル、ワッフル(格子模様の凹凸のある大きな焼き型に入れて両面を
焼いた菓子)(waffle)
la confiture(f)ジャム(jam)
≪試訳≫
アメリはイーゼルの模写をじっくり見ている。デュファイエルは、彼女に1杯のカップを持ってくる。
アメリ:「ありがとう。私はこの絵が大好きよ。」
デュファイエル:「それはルノワールの『舟遊びの昼食』だよ。」
彼が戸棚を開けると、そこには19枚の模写がある。
デュファイエル:「わしは20年前から年に1枚ずつ描いてるんだ。(戸棚の1枚の絵の前で)
いちばん難しいのは視線だ。ほんの少しの陰影とか余分な光とかによって、恨みに代わって愛情が現われてくる。わしがちょっと目を離すと、わざと気分を変えるような気がときどきする。」
アメリ:「ほら、彼らはみんな幸せそう。」
デュファイエル:「そりゃそうだ。アミガサ茸入りの野ウサギのテリーヌ、マレンゴ風子牛肉、チーズ、シャーベット、食後酒、子供たちにはジャムつきのゴーフル...」
〇該当部分の訳本はちなみに次のようにある。
部屋の奥には描きかけのキャンバスがイーゼルに立てかけられていました。
「素敵な絵ね」お世辞じゃなくて、アメリはそう思いました。
「ルノワールの『舟遊びの昼食』だよ。これをごらん」
デュファイエル爺さんが壁ぎわのカーテンを開くと、その奥には同じ絵が何枚も掛けられていました。アメリの目にはどれも寸分違わない、ルノワールの模写です。
「年に一枚ずつ描いてるんだ。20年前からね。いちばん難しいのは視線だ。私の目を盗んで、彼らが勝手に目くばせし合ってるような気がする」
絵の中の人々の顔を眺めて、「みんな幸せそう」と、アメリは微笑みました。
「そりゃそうだ。優雅なもんだよ。昼食はアミガサ茸入りの野ウサギのテリーヌ、子供たちにはジャムつきのゴーフル......」と言いかけて、デュファイエル爺さんは急に真剣な顔つきになりました。
(イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』株式会社リトル・モア、2001年[2002年版]、48頁~50頁)
【イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』はこちらから】
アメリ
このルノワールの絵をめぐって、アメリとデュファイエル爺さんは更に興味深い会話を続けているので、その続きをみてみよう。
デュファイエル爺さんの言葉の中に、絵の中央の娘とアメリの幼少期は意外な共通性が見出せるかもしれないという。
Dufayel retourne près du tableau.
DUFAYEL : Après toutes ces années, le seul personnage que j’ai en-
core un peu de mal à cerner, c’est la fille au verre d’eau. Elle est au
centre, et pourtant, elle est en dehors.
AMÉLIE : Elle est peut-être seulement différente des autres.
DUFAYEL : En quoi ?
AMÉLIE : Je ne sais pas.
DUFAYEL: Et bien moi, je vais vous le dire... Elle ne sait pas établir de
relations avec les autres. Elle n’a jamais su. Quand elle était petite, elle
ne jouait pas souvent avec les autres enfants. Peut-être même jamais.
Amélie, soudain troublée, ne trouve rien à répondre.
(Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulain, Le Scénario,
Ernst Klett Sprachen, Stuttgart, 2003. pp.21-22.)
【Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulainはこちらから】
Le fabuleux destin d'Amelie Poulain: le scénario (Drehbuchfasung des Films)
【語句】
Dufayel retourne <retourner 戻る、再び行く(go again, go back)の直説法現在
près de ~の近くに、のそばに(close to, near)
j’ai encore un peu de mal à cerner
j’ai<avoir持つ(have)の直説法現在
(cf.) avoir du mal à+不定法 ~するのが困難である、容易に~できない
<用例> J’ai du mal à me lever à six heures. 6時にはなかなか起きられない。
cerner 取り巻く(surround)、輪郭をはっきりさせる(outline)
<用例>
cerner le visage d’un portrait 肖像画の顔の輪郭をはっきりさせる
peintre qui cerne le visage d’une femme d’un trait bleu 女の顔を青い線で縁どる画家
c’est la fille <êtreである(be)の直説法現在
verre (m)ガラス、グラス、グラス1杯分の量(glass)
(cf.) un verre d’eau 1杯の水(a glass of water)
Elle est au centre<être既出
pourtant (adv.)それでも、しかし(yet, however)
<注意>pourtantは2つの語、2つの節の対立、あるいは文脈への対立を示す。
対立はmaisより弱く、cependantより強い。
et pourtant(対立する内容の情報を付け加える)(英語のand yet)
<用例>
Et pourtant, je me suis bien amusé.それにしても僕は楽しかった(And yet, I enjoyed myself.)
Il n’avait pas révisé et pourtant il a réussi.彼は復習をしなかったが、それでも合格した。
« Et pourtant elle tourne. »「それでも地球は回っている」(ガリレオの言葉)
elle est en dehors<être既出
en dehors 外に、外側に(outside)
Elle est peut-être seulement différente des autres.
Elle est <être既出
peut-être (adv.)たぶん、おそらく(perhaps)
différent(e) de (deと)違った(different from)
→être différent(e) de ~と異なっている(differ from)
En quoi ? quoiは代名詞(関係代名詞)(つねに前置詞+quoiの形で)
en quoi (前節の意味を受けて)その点で(wherein)
<用例>
En quoi puis-je vous être utile ? 何の面でお役に立てるでしょうか。
En quoi vos idées économiques sont-elles différentes de celles de l’école keynésienne ?
あなたの経済についてのご意見はケインズ学派のそれとどこが違うのでしょうか。
Je ne sais pas <savoir知っている(know)の直説法現在の否定形
je vais vous le dire<aller行く(go)の直説法現在
aller+不定法(dire)(近接未来)~だろう、~するところだ(be goint to)
Elle ne sait pas établir de relations avec les autres
ne sait pas<savoir知っている(know)の直説法現在の否定形
savoir+不定法 ~することができる(be able to do)
établir 確定する(establish)
<用例>établir des relations de voisinage sans manières気軽に近所付合いをする
Elle n’a jamais su<助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(savoir)直説法複合過去の否定形
Quand elle était petite <êtreである(be)の直説法半過去
elle ne jouait pas souvent <jouer遊ぶ(play)の直説法半過去の否定形
souvent (adv.)しばしば(often)
(cf.)ne...pas souventたまにしか~しない(seldom)
même jamais jamais(adv.)(neなしで)決して[一度も]~ない(never)
<用例>
Consentez-vous à ma proposition ? ―― Jamais.
私の提案にご同意いただけますか?―― 絶対にだめです
(Do you agree with my proposal ? ―― Never.)
soudain (adj.)突然の、急の、不意の(sudden)
troublée (←troublerの過去分詞)(adj.)不安な、心が動揺した(upset, embarrassed)
ne trouve rien à répondre
ne trouve rien <trouver見つける(find)の直説法現在の否定形
trouver à+不定法 苦労して(何とかして)~する(find a way to do, manage to do)
répondre 答える(answer)
≪試訳≫
デュファイエル爺さんはまた絵のそばに戻る。
デュファイエル:「何年かけても、私がいまだに少し上手く描けない唯一の人物がいる。それは水を飲んでいる娘だよ。」
この娘は絵の真ん中にいるのに、どこかよそにいるみたいだ。
アメリ:「たぶん、ほかの人とは違うのよ」
デュファイエル:「どこが違うんだね?」
アメリ:「わからないわ」
デュファイエル:「うん、私がしゃべろう。彼女はほかの人と付き合うことができないのだよ。今までに一度も。この娘は小さい時に、ほかの子供たちとたまにしか遊ばなかったんだよ。おそらく一度も。」
アメリは急に心が動揺して、答えが何とも見つからない。
≪訳本≫
「20年かけても、いまだに上手く描けない人物がいる」
「どの人?」
「水を飲んでいる娘だよ。この娘は絵の真ん中にいるのに、どこかよそにいるみたいだ」
絵の中央あたりに、グラスを口にあてた娘が描かれています。そう言われてみると、楽しそうな周囲の人々の中で、彼女だけが妙に物憂げに見えました。彼女よりも奥に描かれている人物もいるのに、なぜだか彼女がいちばん遠くにいるような気がします。
「たぶん、ほかの人とは違うのよ」
「どこが違うんだね?」
「さあ……」
アメリは直感的にそんな気がしただけです。
「うん……この娘は小さい時に友達と一緒に遊ばなかったのかもしれないね。おそらく一度も」
その言葉に、アメリは胸の奥をつつかれたような気がしました。
デュファイエル爺さんは、それ以上は絵の娘について何も言わず、アメリにメモを差し出しました。
(イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』株式会社リトル・モア、2001年[2002年版]、49頁~50頁)
【イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』はこちらから】
アメリ
このルノワールの『舟遊びの昼食』という絵は、この小説の中では、後半部分でも再び話題となる。
とりわけ、絵の真ん中にいる「水を飲んでいる娘」(≪la fille au verre d’eau≫(水が入ったコップを持つ少女))に注意を払っている。この娘の視線がつかみにくいというのである。
この娘が見ているのは、正面の山高帽の男ではなく、グラスの底に映った彼女の後ろにいて、片手を上げている少年ではないかということで、デュファイエルとアメリの意見は一致する。この娘は、その少年に好意を寄せていると推測し、娘はこんどこそ本当の危険を冒さないといけないとデュファイエルは、アメリに話す。
(Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, 2003, p.66. イポリト・ベルナール、2001年、91頁~92頁、137頁~139頁)
映画『アメリ』のジャン・ピエール・ジュネ監督によれば、ルノワールの絵を用いたのは、『アメリ』の舞台であるモンマルトルにゆかりの印象派へのオマージュからであるようだ。
“ガラス男”のデュファイエルは、内向的で直接的なアプローチができないアメリを心配し、ルノワールの模写の中の女性にアメリを投影しながら、助言をする。デュファイエルの忠告のお陰で、勇気づけられたアメリは、思いを寄せるニノと恋人として結ばれる。
生命の讃歌を謳い上げたルノワールの絵にふさわしい結末となっている。
映画『アメリ』については、後日、詳しく取り上げてみたい。
(2020年7月25日投稿)
【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】
小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
【はじめに】
前回に引き続き、今回も印象派のルノワールの作品について考えてみよう。
まず、アンヌ・ディステル氏の著作『ルノワール――生命の讃歌』(創元社、1996年)により、ルノワールの『陽光を浴びる裸婦』(オルセー美術館)と『浴女』の画風の違いについて解説しておく。
次に、映画『アメリ』に出てくるルノワールの絵『舟遊びをする人々の昼食』(« Le déjeuner des canotiers »、『舟遊びの昼食』とも呼ばれる。ワシントンのフィリップス・コレクション蔵)について、まず説明しておく。1882年の第7回印象派展に出品され、3人の批評家から最も優れた作品と認定された。
そして、映画『アメリ』で、どのように、このルノワールの絵が取り上げられているかを、具体的にみてみたい。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・ルノワールの『陽光を浴びる裸婦』と『浴女』の画風の違い
・ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』の魅力
・ルノワールの3枚のダンスの絵
・ルノワールの「舟遊びをする人々の昼食」と映画『アメリ』
【読後の感想とコメント】
ルノワールの『陽光を浴びる裸婦』と『浴女』の画風の違い
アンヌ・ディステル氏は、パリのオルセー美術館の主任学芸員で優れた美術史家である。その著作アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』(創元社、1996年)については、「日本語版監修者序文」において、高階秀爾氏が、本書は豊かな生命の画家ルノワールを、きわめて明快適切に紹介したものであると推薦の辞を述べている。巨匠ルノワールの生涯と業績をよく伝えてくれる好著という(4頁)。
例えば、アンヌ・ディステル氏は、ルノワールの『陽光を浴びる裸婦』と『浴女』の画風の違いについて言及している。
〇ルノワール『陽光を浴びる裸婦』1875年 81×65㎝ オルセー美術館
〇ルノワール『浴女』1881年 81.8×65.7㎝ ウィリアムズタウン スターリング・アンド・フランシーヌ・クラーク美術館
習作『陽光を浴びる裸婦』(1875年)は、『散歩に出かける子どもたち』(1874年)とともに、1876年の第2回印象派展で批評家の嘲笑をあびた。裸婦の習作の方は、フィガロ紙に「緑色や紫色がかった斑点だらけの腐りかけた肉の塊で死体の完全な腐乱状態を示している」とさえ酷評された。
一方、『浴女』(1881年)は、ルノワールによると、イタリアのナポリ近郊のカプリの太陽の下で、舟の上から描いたものだという。自分からはモデルの名前を告げていないが、後にアリーヌ・シャリゴがルノワールに同行したイタリア旅の思い出を語って、はからずも明らかになった。
ルノワールはこの愛人について一言も口にしたことはなく、当時は知人たちに対してひた隠しに隠していた。ルノワールとアリーヌが結婚したのは1890年だが、彼女は後にこのイタリア旅行をそれとなく「新婚旅行」のように語っている。
さて、『陽光を浴びる裸婦』から、『浴女』への画風の変化についてはどう考えたらよいのだろうか。
『陽光を浴びる裸婦』は、木洩れ日の下のぼやけた輪郭をモチーフにしている。一方、『浴女』の裸婦は演出が明らかで、輪郭も明確であり、肉感豊かな堂々たる存在である。背景の移し換えの努力も際立っている。そこに表現されているのは、もうボートでもナポリ湾でもなく、暗示的な風景の中の古典的なテーマであるそうだ。この絵は「昔の人々の、あの偉大さと単純さ」を取り戻したいという望みに一致しているとディテル氏はみている。つまり、この絵は、ルノワールの、イタリア絵画とアングルの思い出に啓発された古典主義への回帰を意味する最初の作の一つであると位置づけている。
(アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』創元社、1996年、48頁~49頁、86頁~87頁、186頁~187頁)
【アンヌ・ディステル『ルノワール――生命の讃歌』創元社はこちらから】
ルノワール:生命の讃歌 (「知の再発見」双書)
ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』の魅力
アンヌ・ディステル氏は、その著作において、『舟遊びをする人々の昼食』について言及しているので、紹介しておこう。
1879年頃から、ルノワールはふたたびセーヌ河畔を訪れ、かつてのラ・グルヌイエールの水浴場時代を喚起させるような、舟遊びをする人々の絵を描くようになった。
その頂点を画するのが、1880~1881年に制作された大作『舟遊びをする人々の昼食』である。
〇ルノワール『舟遊びをする人々の昼食』1880~1881年 130×173㎝ ワシントン フィリップス・コレクション
1881年にデュラン=リュエルに売られたこの作品は、おそらく前年の夏に制作を開始したとされる。
舟遊びの男女が、セーヌ河畔のシャトゥーのシアール島にあるレストラン、フルネーズのテラスで食事している風景が描かれている。
ルノワールはポール・ベラール宛ての手紙に、次のように書いている。
「目下シャトゥーに滞在中で(略)昔から描きたくてうずうずしていた舟遊びの人々の絵を描いています。(略)完成させられるかわかりませんが、ドゥードンに相談すると、出費がかさんだ上に絵を完成させられなくても、私の言い分は認めるといってくれました。その言い分というのはつまり、これがひとつの前進だということです。画家は時には実力以上のことを試さなければならないのです」
ただ、絵の制作は遅々として進まなかったようだ。
『舟遊びをする人々の昼食』は下準備のためのエスキースが1枚もない。たとえあったとしても、部分的に修正個所の多いこの絵を吟味すると、ルノワールは決定版に相当手を入れていたことがうかがえるとディステル氏はみている。
同一サイズの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』と比べると、わずか5年しか経過していないのは、画風の驚くべき相違が目立つようだ。
こちらは色彩がより明るくなり、構図もより抑制されて遠近が単純化されている。とりわけ色彩のコントラストが個性の明確な人物の綿密な描写に役立っている。輪郭を明示するために採り入れたこの新しい技法は、印象派への批判(おおまかで、あいまいであるという批判)に応えようとしたものとみられている。
だが、1881年のサロンに出品されたのは、この大作ではなかった。
出品作は、ルノワールが旅に出る前にエフリュッシに選択を任せた、モデル不詳の2点の肖像画だった。モネとシスレー同様、今回もルノワールは印象派展に出品しなかった。どうしてもサロンに出品しようとする理由は、絵を売るためだけの作戦なのだと、デュラン=リュエルに説明している。
このことは、1881年に北アフリカへ旅行した際に、画商デュラン=リュエル宛てに書かれた手紙に、次のように書かれている。
「親愛なるデュラン=リュエル様
私がなぜサロンに出品するのか、ご説明してみたいと思います。パリには、サロンに出品していない画家を好む愛好家は15人もいないでしょう。そしてサロンに出していない画家には鼻も引っかけない愛好家は8万人もいます。だから私は毎年、たった2枚ですが、肖像画をサロンに送るのです。それに、出品先によって絵の価値が下がると考えるほど、マニアックになりたくありません。ひと言でいえば、サロンを毛嫌いするヒマさえ、私には惜しいのです。そんなポーズをとることすら面倒です。最高の絵を描くことが肝心。それだけです」
サロンへの出品は、「印象派」のメンバーの行動としては、明瞭な態度の変更を意味する。だからルノワールは、印象派の同調者だった画商デュラン=リュエルに弁明して、上記のような手紙を書いたようだ。
(アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』創元社、1996年、74頁~82頁、136頁~137頁、187頁)
【アンヌ・ディステル『ルノワール――生命の讃歌』創元社はこちらから】
ルノワール:生命の讃歌 (「知の再発見」双書)
ルノワールの3枚のダンスの絵
1881年10月からのイタリア旅行から帰国すると、ルノワールは3点の大作に取りかかり、それらは1883年春に完成した。
その3点とは、ダンスのヴァージョンである。これらのうち、一対の作はオルセー美術館にある。
〇ルノワール『ブージヴァルのダンス』1883年 181.8×98㎝ ボストン美術館 絵画基金
〇ルノワール『田舎のダンス』1882~1883年 180×90㎝ オルセー美術館
〇ルノワール『都会のダンス』1882~1883年 180×90㎝ オルセー美術館
これらは主題と画風からして、『舟遊びをする人々の昼食』の延長に近いものとみられている。
ルノワールは『ブージヴァルのダンス』と『都会のダンス』のモデルに、マリー・クレマンティーヌ・ヴァラドンを起用した。この若い女性は1883年12月、息子モーリス・ユトリロを生んだ。その父親は、彼女が時折ほのめかしていたように、ルノワールであった可能性もある。
一方、『田舎のダンス』の女性のモデルは、アリーヌ・シャリゴにまちがいない。『都会のダンス』のシュザンヌ・ヴァラドンがタフタ(taffetas、細かい横畝[よこうね]のある薄手の絹織物)のドレスを着ているのに対して、『田舎のダンス』のアリーヌ・シャリゴはコットンのドレスを着ている。
この対の『ダンス』2作は1883年4月、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通りに借りた会場ではじめて催したルノワール個人の回顧展に出品された。
それからまもなく『ブージヴァルのダンス』はデュラン=リュエルによってロンドンの画廊でも、ルノワールの他の10点の作とともに展示された。
(アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』創元社、1996年、87頁~89頁、187頁)
ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』と映画『アメリ』
映画『アメリ』の中に、ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』という絵が登場するので、紹介しておく。
まず、映画『アメリ』について説明しておく。
映画『アメリ』は原題 Le Fabuleux Destin d’Amélie Poulainといい、「アメリ・プーランの素晴らしい運命」の意で、2001年に公開されたフランス映画である。パリ・モンマルトルを舞台に、パリジャンの日常を描き、フランスで国民的大ヒットを記録した。
【映画『アメリ』の情報】
① ジャン=ピエール・ジュネ監督、オドレイ・トトゥ主演『アメリ』
(2001年に公開されたフランス映画、DVDは2001年発売)
②Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulain, Le Scénario,
Ernst Klett Sprachen, Stuttgart, 2003.
③イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』株式会社リトル・モア、2001年[2002年版]
【映画『アメリ』はこちらから】
アメリ [Blu-ray]
【映画『アメリ』の主演オドレイ・トトゥ】
主演は、オドレイ・トトゥ(Audrey Tautou、1976-)で、この映画で世界的に有名になり、2006年に『ダ・ヴィンチ・コード』でヒロインのソフィー・ヌヴーを演じ、トム・ハンクスと共演し、ハリウッド作品に初出演した。2009年に公開された『ココ・アヴァン・シャネル』ではココ・シャネルを演じた。
【映画『アメリ』のあらすじ】
『アメリ』のあらすじは次のようなものである。
両親に幼少期にあまり構ってもらえず、孤独の中で育ち、周囲とコミュニケーションがとれない不器用な女性がアメリである。22歳となったアメリは、モンマルトルのカフェで働き始める。彼女はクレーム・ブリュレの表面をスプーンで割る、サン・マルタン運河で石を投げ水切りをする、この瞬間にパリで何人が「達した」か妄想するなど、ささやかな一人遊びと空想にふける毎日を送っていた。
そんな彼女にも気になる男性が現われた。スピード写真のボックス下に捨てられた他人の証明写真を収集する趣味を持つニノである。アメリは気持ちをどう切り出してよいかわからず、試行錯誤する。ニノと会って話をするチャンスを逃してしまったアメリに、アパートの同居人レイモン・デュファイエル爺さんが「思い切ってぶつかっても、自分が砕けてしまうことはない」と背中を押してくれる。
ストレートに他人と向き合うことのなかったアメリはその後、ニノと会い、めでたく結ばれる。パリの街並みの中を、アメリはニノのソレックス(le Solex、原動機つき自転車)の後席に乗り、駆け抜けていくのだった。
この映画で、レイモン・デュファイエルが、ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』を模写している。彼は、アメリの階下に住む気難しい老人で、通称「ガラス男」と呼ばれていた。
【ルノワールの「舟遊びの昼食」(『舟遊びをする人々の昼食』)について】
前述したように、「舟遊びの昼食」はフランスの印象派の画家ルノワールによる絵画作品である(1880~1881年、油彩、フィリップス・コレクション、ワシントンD.C.)。1882年の第7回印象派展に出品され、批評家に称賛された。豊かな表現、流動的な筆遣い、明滅する光に優れた作品である。
フランスシャトゥーにあるセーヌ川畔のメゾン・フルネーズのテラスでくつろぐルノワールの友人らを描いている。ルノワールと後援者のギュスターヴ・カイユボットは、右下部に着席している。のちにルノワールの妻となるアリーヌ・シャリゴは、最も手前で子犬と遊んでいる。つまり、お針子のアリーヌ・シャリゴは犬を抱いて、構成の左下部付近に座っている。
絵の真ん中でグラスの水を飲んでいる物憂げな娘は、この小説でもアメリの関心を惹いていた。彼女は女優のエレーヌ・アンドレと特定されている。その向かいに着席しているのは、ラウル・バルビエ男爵である。
手すりの斜線が画面を二つに区切る役目を果たしており、片側には人物でにぎわっている一方、もう片側はゆったりとした空間に、経営者の娘ルイーズ=アルフォンシーヌ・フルネーズと、その兄弟のアルフォンス・フルネーズJr.である。この対照は有名になったそうだ。二人とも伝統的な麦わら帽をかぶり、画面の左側に位置している。手すりにもたれて微笑んでいる女性がアルフォンシーヌ、画面最も左側にいるのがアルフォンスで、彼は貸しボートの責任者だった。
ところで、映画『アメリ』(2001年)の監督ジャン=ピエール・ジュネ(Jean-Pierre Jeunet, 1953-)は、この絵を参照していたようだ。
この映画で、ルノワールの「舟遊びの昼食」(« Le déjeuner des canotiers »)が登場する場面をフランス語でみてみよう。
【ルノワールの「舟遊びの昼食」を模写するデュファイエル爺さん】
Amélie contemple sur un chevalet la reproduction d’une peinture.
Dufayel lui apporte un bol.
AMÉLIE : Merci, J’aime beaucoup ce tableau.
DUFAYEL : C’est « Le déjeuner des canotiers » de Renoir.
Il ouvre un placard où se trouvent dix-neuf reproductions...
DUFAYEL : J’en fais un par an depuis vingt ans. (Devant un des
tableaux du placard) Le plus dur, ce sont les regards. Un chouïa
d’ombre ou de lumière en trop, et vous faites apparaître de l’amour à
la place du ressentiment... Parfois, j’ai l’impression qu’ils changent
exprès d’humeur dès que j’ai le dos tourné.
AMÉLIE : Là, ils ont l’air plutôt contents de la vie.
DUFAYEL : Ils peuvent ! Terrine de lièvre aux morilles, veau maren-
go, fromage, sorbets, digestif, gaufres à la confiture pour les enfants...
(Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulain, Le Scénario,
Ernst Klett Sprachen, Stuttgart, 2003. p.20)
【Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulainはこちらから】
Le fabuleux destin d'Amelie Poulain: le scénario (Drehbuchfasung des Films)
【語句】
Amélie contemple <contempler瞑想する、じっくり見る(contemplate)の直説法現在
un chevalet (m)画架、イーゼル(easel)
la reproduction (f)再生(reproduction)、複写、複製(copy)
une peinture (f)絵画(picture)
Dufayel lui apporte un bol<apporter持ってくる(bring)の直説法現在
un bol (m)椀、大カップ(bowl)
J’aime beaucoup <aimer好む(love, like)の直説法現在
ce tableau (m)絵(painting, picture)
C’est <êtreである(be)の直説法現在
Le déjeuner (m)昼食(lunch)
canotier (m)(ボートの)こぎ手、(古風)ボート遊びをする人(rower, oarsman)
Il ouvre un placard <ouvrir開く(open)の直説法現在
un placard (m)戸棚(cupboard, closet)
où se trouvent <代名動詞se trouver ある、見いだされる(be, be found)の直説法現在
J’en fais <faireする、作る(do, make)の直説法現在
devant ~の前に(で)(in front of, before)
le plus dur (adj.)堅い、むずかしい(hard)
regard (m)視線、まなざし(one’s eyes, glance, gaze)
un chouïa (m)(話)ほんの少し(=un petit peu)
ombre (f)陰、陰影(shade)
lumière (f)光(light)
trop (adv.)あまりに、過度に(too much) en trop余分に、余計に、余分な、余計な vous faites apparaître de l’amour à la place du ressentiment
vous faites apparaître<faire+不定法 ~させる(make do)の直説法現在
apparaître 現れる、見えてくる(appear)
à la place de ~の代わりに(instead of)
ressentiment (m)恨み、悪感情(resentment)
parfois (adv.)ときどき、ときには(sometimes)
j’ai l’impression qu’ils changent exprès d’humeur dès que j’ai le dos tourné
j’ai l’impression<avoir持っている(have)の直説法現在
→ avoir l’impression que+ind. ~という印象をもつ、~のような気がする
qu’ils changent<changer変わる(change)の直説法現在
exprès (adv.)わざと、特別に(intentionally, on purpose)、(adj.)明白な(express)
humeur (f)気質(temper)、気分(mood)
dès que+直説法 ~するや否や(as soon as)
j’ai le dos tourné
le dos (m)背中(back)
avoir le dos tourné 背中を向けている、ちょっと目を離す、注意をそらす
<用例>
Dès que j’ai le dos tourné tu cesses de travailler.ちょっと目を離すと君はすぐにさぼる。
(cf.) La chance lui a tourné le dos.好運は彼(女)を見放した。
Après son échec, tous ses amis lui ont tourné le dos.
彼が失敗すると友達はみな彼から去って行った。
ils ont l’air <avoir持つ(have)の直説法現在
→avoir l’air de...~のように見える(look)
<用例>
Elle a l’air très gentille.彼女はとても親切そうだ(She has a very kind look.)
là (間投詞)(驚き、困惑などを示す)さあ、ほら
plutôt (adv.)むしろ(rather)、多少(somewhat)
Ils peuvent ! <pouvoirできる(can)の直説法現在
terrine (f)パテ、テリーヌ(potted meat, terrine)
lièvre (m)ノウサギ(hare)
→terrine de lièvre ノウサギのテリーヌ(potted hare)
morille (f)アミガサタケ(食用きのこ)(morel)
veau marengo veau (m)子牛(calf)、子牛の肉(veal) marengo(adj.)マレンゴ風の
veau marengoはマレンゴ風子牛肉(トマト、マッシュルーム、オリーブ入りの
白ワインソース、鶏、子牛などの煮込み用)(marengo)
fromage (m)チーズ(cheese)
sorbet (m)シャーベット(water ice, sorbet)
digestif (m)食後酒、ディジェスチーフ(digestive)
gaufre (f)ゴーフル、ワッフル(格子模様の凹凸のある大きな焼き型に入れて両面を
焼いた菓子)(waffle)
la confiture(f)ジャム(jam)
≪試訳≫
アメリはイーゼルの模写をじっくり見ている。デュファイエルは、彼女に1杯のカップを持ってくる。
アメリ:「ありがとう。私はこの絵が大好きよ。」
デュファイエル:「それはルノワールの『舟遊びの昼食』だよ。」
彼が戸棚を開けると、そこには19枚の模写がある。
デュファイエル:「わしは20年前から年に1枚ずつ描いてるんだ。(戸棚の1枚の絵の前で)
いちばん難しいのは視線だ。ほんの少しの陰影とか余分な光とかによって、恨みに代わって愛情が現われてくる。わしがちょっと目を離すと、わざと気分を変えるような気がときどきする。」
アメリ:「ほら、彼らはみんな幸せそう。」
デュファイエル:「そりゃそうだ。アミガサ茸入りの野ウサギのテリーヌ、マレンゴ風子牛肉、チーズ、シャーベット、食後酒、子供たちにはジャムつきのゴーフル...」
〇該当部分の訳本はちなみに次のようにある。
部屋の奥には描きかけのキャンバスがイーゼルに立てかけられていました。
「素敵な絵ね」お世辞じゃなくて、アメリはそう思いました。
「ルノワールの『舟遊びの昼食』だよ。これをごらん」
デュファイエル爺さんが壁ぎわのカーテンを開くと、その奥には同じ絵が何枚も掛けられていました。アメリの目にはどれも寸分違わない、ルノワールの模写です。
「年に一枚ずつ描いてるんだ。20年前からね。いちばん難しいのは視線だ。私の目を盗んで、彼らが勝手に目くばせし合ってるような気がする」
絵の中の人々の顔を眺めて、「みんな幸せそう」と、アメリは微笑みました。
「そりゃそうだ。優雅なもんだよ。昼食はアミガサ茸入りの野ウサギのテリーヌ、子供たちにはジャムつきのゴーフル......」と言いかけて、デュファイエル爺さんは急に真剣な顔つきになりました。
(イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』株式会社リトル・モア、2001年[2002年版]、48頁~50頁)
【イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』はこちらから】
アメリ
<ルノワールの「舟遊びの昼食」の続き>
このルノワールの絵をめぐって、アメリとデュファイエル爺さんは更に興味深い会話を続けているので、その続きをみてみよう。
デュファイエル爺さんの言葉の中に、絵の中央の娘とアメリの幼少期は意外な共通性が見出せるかもしれないという。
Dufayel retourne près du tableau.
DUFAYEL : Après toutes ces années, le seul personnage que j’ai en-
core un peu de mal à cerner, c’est la fille au verre d’eau. Elle est au
centre, et pourtant, elle est en dehors.
AMÉLIE : Elle est peut-être seulement différente des autres.
DUFAYEL : En quoi ?
AMÉLIE : Je ne sais pas.
DUFAYEL: Et bien moi, je vais vous le dire... Elle ne sait pas établir de
relations avec les autres. Elle n’a jamais su. Quand elle était petite, elle
ne jouait pas souvent avec les autres enfants. Peut-être même jamais.
Amélie, soudain troublée, ne trouve rien à répondre.
(Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulain, Le Scénario,
Ernst Klett Sprachen, Stuttgart, 2003. pp.21-22.)
【Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulainはこちらから】
Le fabuleux destin d'Amelie Poulain: le scénario (Drehbuchfasung des Films)
【語句】
Dufayel retourne <retourner 戻る、再び行く(go again, go back)の直説法現在
près de ~の近くに、のそばに(close to, near)
j’ai encore un peu de mal à cerner
j’ai<avoir持つ(have)の直説法現在
(cf.) avoir du mal à+不定法 ~するのが困難である、容易に~できない
<用例> J’ai du mal à me lever à six heures. 6時にはなかなか起きられない。
cerner 取り巻く(surround)、輪郭をはっきりさせる(outline)
<用例>
cerner le visage d’un portrait 肖像画の顔の輪郭をはっきりさせる
peintre qui cerne le visage d’une femme d’un trait bleu 女の顔を青い線で縁どる画家
c’est la fille <êtreである(be)の直説法現在
verre (m)ガラス、グラス、グラス1杯分の量(glass)
(cf.) un verre d’eau 1杯の水(a glass of water)
Elle est au centre<être既出
pourtant (adv.)それでも、しかし(yet, however)
<注意>pourtantは2つの語、2つの節の対立、あるいは文脈への対立を示す。
対立はmaisより弱く、cependantより強い。
et pourtant(対立する内容の情報を付け加える)(英語のand yet)
<用例>
Et pourtant, je me suis bien amusé.それにしても僕は楽しかった(And yet, I enjoyed myself.)
Il n’avait pas révisé et pourtant il a réussi.彼は復習をしなかったが、それでも合格した。
« Et pourtant elle tourne. »「それでも地球は回っている」(ガリレオの言葉)
elle est en dehors<être既出
en dehors 外に、外側に(outside)
Elle est peut-être seulement différente des autres.
Elle est <être既出
peut-être (adv.)たぶん、おそらく(perhaps)
différent(e) de (deと)違った(different from)
→être différent(e) de ~と異なっている(differ from)
En quoi ? quoiは代名詞(関係代名詞)(つねに前置詞+quoiの形で)
en quoi (前節の意味を受けて)その点で(wherein)
<用例>
En quoi puis-je vous être utile ? 何の面でお役に立てるでしょうか。
En quoi vos idées économiques sont-elles différentes de celles de l’école keynésienne ?
あなたの経済についてのご意見はケインズ学派のそれとどこが違うのでしょうか。
Je ne sais pas <savoir知っている(know)の直説法現在の否定形
je vais vous le dire<aller行く(go)の直説法現在
aller+不定法(dire)(近接未来)~だろう、~するところだ(be goint to)
Elle ne sait pas établir de relations avec les autres
ne sait pas<savoir知っている(know)の直説法現在の否定形
savoir+不定法 ~することができる(be able to do)
établir 確定する(establish)
<用例>établir des relations de voisinage sans manières気軽に近所付合いをする
Elle n’a jamais su<助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(savoir)直説法複合過去の否定形
Quand elle était petite <êtreである(be)の直説法半過去
elle ne jouait pas souvent <jouer遊ぶ(play)の直説法半過去の否定形
souvent (adv.)しばしば(often)
(cf.)ne...pas souventたまにしか~しない(seldom)
même jamais jamais(adv.)(neなしで)決して[一度も]~ない(never)
<用例>
Consentez-vous à ma proposition ? ―― Jamais.
私の提案にご同意いただけますか?―― 絶対にだめです
(Do you agree with my proposal ? ―― Never.)
soudain (adj.)突然の、急の、不意の(sudden)
troublée (←troublerの過去分詞)(adj.)不安な、心が動揺した(upset, embarrassed)
ne trouve rien à répondre
ne trouve rien <trouver見つける(find)の直説法現在の否定形
trouver à+不定法 苦労して(何とかして)~する(find a way to do, manage to do)
répondre 答える(answer)
≪試訳≫
デュファイエル爺さんはまた絵のそばに戻る。
デュファイエル:「何年かけても、私がいまだに少し上手く描けない唯一の人物がいる。それは水を飲んでいる娘だよ。」
この娘は絵の真ん中にいるのに、どこかよそにいるみたいだ。
アメリ:「たぶん、ほかの人とは違うのよ」
デュファイエル:「どこが違うんだね?」
アメリ:「わからないわ」
デュファイエル:「うん、私がしゃべろう。彼女はほかの人と付き合うことができないのだよ。今までに一度も。この娘は小さい時に、ほかの子供たちとたまにしか遊ばなかったんだよ。おそらく一度も。」
アメリは急に心が動揺して、答えが何とも見つからない。
≪訳本≫
「20年かけても、いまだに上手く描けない人物がいる」
「どの人?」
「水を飲んでいる娘だよ。この娘は絵の真ん中にいるのに、どこかよそにいるみたいだ」
絵の中央あたりに、グラスを口にあてた娘が描かれています。そう言われてみると、楽しそうな周囲の人々の中で、彼女だけが妙に物憂げに見えました。彼女よりも奥に描かれている人物もいるのに、なぜだか彼女がいちばん遠くにいるような気がします。
「たぶん、ほかの人とは違うのよ」
「どこが違うんだね?」
「さあ……」
アメリは直感的にそんな気がしただけです。
「うん……この娘は小さい時に友達と一緒に遊ばなかったのかもしれないね。おそらく一度も」
その言葉に、アメリは胸の奥をつつかれたような気がしました。
デュファイエル爺さんは、それ以上は絵の娘について何も言わず、アメリにメモを差し出しました。
(イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』株式会社リトル・モア、2001年[2002年版]、49頁~50頁)
【イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』はこちらから】
アメリ
このルノワールの『舟遊びの昼食』という絵は、この小説の中では、後半部分でも再び話題となる。
とりわけ、絵の真ん中にいる「水を飲んでいる娘」(≪la fille au verre d’eau≫(水が入ったコップを持つ少女))に注意を払っている。この娘の視線がつかみにくいというのである。
この娘が見ているのは、正面の山高帽の男ではなく、グラスの底に映った彼女の後ろにいて、片手を上げている少年ではないかということで、デュファイエルとアメリの意見は一致する。この娘は、その少年に好意を寄せていると推測し、娘はこんどこそ本当の危険を冒さないといけないとデュファイエルは、アメリに話す。
(Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, 2003, p.66. イポリト・ベルナール、2001年、91頁~92頁、137頁~139頁)
映画『アメリ』のジャン・ピエール・ジュネ監督によれば、ルノワールの絵を用いたのは、『アメリ』の舞台であるモンマルトルにゆかりの印象派へのオマージュからであるようだ。
“ガラス男”のデュファイエルは、内向的で直接的なアプローチができないアメリを心配し、ルノワールの模写の中の女性にアメリを投影しながら、助言をする。デュファイエルの忠告のお陰で、勇気づけられたアメリは、思いを寄せるニノと恋人として結ばれる。
生命の讃歌を謳い上げたルノワールの絵にふさわしい結末となっている。
映画『アメリ』については、後日、詳しく取り上げてみたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます