歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その6≫

2020-07-25 09:02:28 | 私のブック・レポート
≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その6≫
(2020年7月25日投稿)



【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』



【はじめに】


 今回および次回のブログでは、日本人に人気のある印象派の画家ルノワールについて、考えてみることにしよう。
 まず最初に、小島英煕氏の著作『活字でみるオルセー美術館』(丸善ライブラリー、2001年)をもとに、オルセー美術館には、どのようなルノワールの作品があるかをみておきたい。
 そして、ルノワールという画家の人生において、重要な位置を占めるアリーヌという女性との関わりを概説する。
 また、印象派の中でルノワールは、唯一の職人階級出身の画家であった。この点に焦点を当てて、木村泰司氏の著作『名画の言い分』(筑摩書房、2011年)を参照にしつつ、解説を加えておく。
 昭和を代表する文芸批評家小林秀雄氏は、『近代絵画』においてルノワール論を展開している。示唆に富む論点がみられるので、それらを紹介しておきたい。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・オルセー美術館所蔵のルノワールの絵
・ルノワールとアリーヌ
・唯一の職人階級出身画家ルノワール
・ルノワールとドガのタッチの違い
・小林秀雄のルノワール論







【読後の感想とコメント】


オルセー美術館所蔵のルノワールの絵


ルノワールは、モネやゴッホとならんで日本人に抜群の人気を誇る画家である。
豊麗な裸婦や太陽の光に満ちた風景を描いて、命の讃歌を歌い続けた。
「人生には不愉快なことがたくさんある。だからこれ以上、不愉快なものをつくる必要なんかないんだ「とルノワールは言った。
作家ユイスマンは、「彼は、この明るい陽光の中で、彼女たちの花のような肌、ビロードのような肉、真珠のような瞳、そして装身具の優雅さを描きだしている」と評した。


オルセー美術館には、ルノワールの次の有名な絵がある。
〇「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1876年)
その他にオルセー美術館には、次のようなルノワールの絵があり、年代順に小島氏は列挙している。
〇「ウイリアム・シスレー」(1864年)
〇「画架に向かって絵を描くバジール」(1867年)
〇「乗馬服の婦人」(1873年)
〇「読書する女」(1874年)
〇「陽光を浴びる裸婦」(1876年)
〇「ブランコ」(1876年)
〇「草の中の坂道」(1876~77年頃)
〇「アルフォンシーヌ・フルネーズの肖像」(1879年)
〇「アルジェリアの風景、野性の女の谷」(1881年)
〇「アルジェのアラブの祭り」(1881年)
〇「田舎のダンス」(1883年)
〇「都会のダンス」(1883年)
〇「花瓶のバラ」(1890年)
〇「ピアノの前の少女たち」(1892年)
〇「花への讃歌」(1903~09年頃)
〇「浴女たち」(1918~19年)~晩年の力作
<肖像画>
〇「クロード・モネの肖像」(1875年)
〇「シャルパンティエ夫人の肖像」(1876~77年頃)
〇「アルフォンス・ドーデ夫人」(1876年)
〇「マルゴの肖像」(1878年)
〇「リヒャルト・ワーグナー」(1882年)
〇「座る女」(1909年)
〇「ジョス・ベルネーム=ジュヌ夫人と息子アンリ」(1910年)
〇「バラをもつガブリエル」(1911年)
〇「バラをもつ若い女」(1913年)など

他の印象派の画家と同様、若きルノワールもまた、その画風の明るさの裏で、世間の非難、嘲笑と黙々と戦った公認されざる画家の一人であった。
たとえば、輝くような傑作とされる「陽光を浴びる裸婦」(1876年)も、発表当時は「緑色や紫色がかった斑点だらけの腐りかけた肉の塊で、死体の完全な腐乱状態を示している」(フィガロ紙)とまで言われた。

ルノワールは、「人生を振り返ってみると、川に投げ込まれたコルク栓みたいに感じる」と言っている。また、「私はいつも運命に身を任せる。闘士的な気質とは無縁だった。闘士の気質をもっている親愛なる友モネが助けてくれなかったら、私は何度も仲間から抜けていただろう」とも言う。確かにそういう面もあったであろう。
ただ、小島氏はルノワールを次のように捉えている。
ルノワールの人生はその健全な職人的な資質とすばらしい感覚に導かれて、ドラマチックではない地味な性格と相まって、苦闘のあとも見せず、美の大河を歩ませたという。
(小島英煕『活字でみるオルセー美術館』丸善ライブラリー、2001年、95頁~98頁)

【小島英煕『活字でみるオルセー美術館』はこちらから】

活字でみるオルセー美術館―近代美の回廊をゆく (丸善ライブラリー)



ルノワールとアリーヌ


ここでは、ルノワールの絵のモデルになり、妻ともなったアリーヌ・シャリゴとの関係に注目しつつ、ルノワールの絵についてみてみよう。

1879年、ルノワールの38歳のとき、アリーヌとの出会いがあった。
アトリエのすぐ前に食事をよくする「シェ・カミーユ」というレストランがあり、女主人カミーユがよく面倒をみてくれた。常連にカミーユと同郷のシャリゴ夫人がいて、その娘がアリーヌであった。ルノワールは、アリーヌと恋仲になった。
セーヌ河畔のシャトゥーのシアール島にあるレストラン・フルネーズのテラスで、有名な「舟遊びをする人々の昼食」(Le déjeuner des canotiers, 1881年、油彩・カンヴァス、130×173㎝、ワシントンのフィリップス・コレクション)を描いた。
この絵の画面左端で、犬と戯れているのが、アリーヌである。
ルノワールと後援者のカイユボットは、右下部に着席している。つまり、カイユボットは、画面右手最前列におり、白い船乗りシャツを着て、平らな麦わら帽子をかぶり、逆向きの椅子に座っている。
1882年の第7回印象派展に出品され、3人の批評家から最も優れた作品と認定されたそうだ。画商で後援者のポール・デュラン=リュエルが作品を購入し、その息子から1923年にダンカン・フィリップスが12万5千ドルで買い取った。現在はワシントンD.C.のフィリップス・コレクションの所蔵である。
豊かな表現、流動的な筆遣い、明滅する光に優れた作品とされる。
そして、後述するように、映画『アメリ』の中でも、この絵画は登場する。

1881年2月末、冬中、制作していたルノワールは都会に疲れて、画家コルデーとドラクロワの足跡を追って、アルジェリアに旅行して何点か描いた。10月末、再び旅に出る。行き先はイタリアである。
フィレンツェのピッティ美術館でラファエロの「小椅子の聖母」に感動し、ローマのヴィラ・ファルネジーナ、ヴァチカン宮殿でラファエロの装飾を徹底的に研究した。12月、ポンペイ、ソレントへ移動し、カプリで「浴女」を描く。モデルはどうやらアリーヌで、彼女は後にイタリア旅行の思い出を語っているが、当時、ルノワールは彼女のことを秘密にしていた。

イタリアから帰国して、3点の「舞踏会」シリーズを手掛けた。
1883年春に仕上がった「ブージヴァルのダンス」と、セットになった「都会のダンス」「田舎のダンス」である。前2体のモデルは画家のマリー=クレマンティーヌ・ヴァラドンらしい(その息子のモーリス・ユトリロの父親はルノワールだった可能性もあるという)。オルセー美術館にある「田舎のダンス」のモデルはアリーヌである。
(川又一英氏も、「都会の踊り」の女性モデルはユトリロの母、「田舎の踊り」の女性モデルは、のちにルノワールと結婚するアリーヌ・シャリゴといわれるとする。川又、1995年、62頁参照)

さて、1884年、43歳のとき、愛人のアリーヌが妊娠する。モンマルトルの丘に近いウードン街十八番地に新居を構え、アトリエは別にラヴェル街三十七番地(現ヴィクトール・マッセ街)に借りた。1885年3月、長男ピエールが誕生した。代父にカイユボットがなってくれた。
この私生活の変化が新しい傾向を生んだ。
ひとつはむろん家族愛で、息子のデッサンに夢中になる。この年から翌年に「母性」シリーズを描く。また、裸婦が大きな関心を占めるようになる。「裸婦は芸術にとって欠くことのできない形態のひとつだ」という。
1886年、「浴女たち」の制作に着手し、珍しくおびただしいデッサンを描く。これまでの戸外制作からアトリエの制作を重視し始めた。ただ、このアングル風の方向は愛好家たちの戸惑いを誘い、デュラン=リュエルも反対した。同年の第8回目で最後の印象派展にも参加しなかった。
「ピサロとゴーギャンの二人にはいかなる形でも賛同できないこと、一瞬たりともアンデパンダンなるグループの一員とは見られたくないことはハッキリしています。その理由の第一は、私がサロンに出品しているということです」という。

そして、1890年4月、49歳でアリーヌと結婚式を挙げて、ピエールを認知した。このころから、ルノワールに対して好意的な批評が出始めたようだ。1892年、詩人のマラルメらの説得による美術学校の依頼で「ピアノの前の少女たち」を描いて、4000フランで購入された。生前の国家買い上げは、印象派の画家のなかではシスレーに次ぐ。
同年1892年5月、デュラン=リュエル画廊で、「桟敷席」「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」「舟遊びをする人々の昼食」「大きな浴女たち」など、122点を展示した大規模なルノワール展を開催し成功した。

1894年に親友ギュスターヴ・カイユボットが死去し、国家に寄贈するため60点以上の大量の印象派コレクションを残した。
当局はコレクションの展示を公約するのをためらって長い交渉となった。ルノワールは遺言執行人に指名され、しばらく悩まされたようだ。結局、1896年に40点が公開された。印象派は公然と受け入れられた。
ただ、この遺贈は予想もしない事件につながっている。カイユボットは、ルノワールにコレクションから1点選ぶよう遺言した。彼はドガのパステル画「ダンスのレッスン」をもらった。ところが、間もなくデュラン=リュエルに売った。ドガはルノワールを許さなかった。

1894年9月、アリーヌとの間に、次男ジャンが生まれた。後年、映画監督として名をはせた。ジャンの世話のためアリーヌの故郷エッソワから彼女のいとこのガブリエルが来た。16歳だった彼女は、お気に入りのモデルとなって20年間、ルノワール家にとどまることになる。

1895年、印象派のなかでもっとも親しくしていたベルト・モリゾが死去し、翌年1896年に母も死んだ。愛する女性たちの死にルノワールは、深い悲しみに沈んだ。
1897年、56歳の時、1885年ごろからたびたび滞在し、気に入っていたエッソワに住居を購入した。セーヌ河の支流ウルス河が流れる美しい村である。「パリの高くつくモデルから逃れて、シャンパーニュ地方の農民を描き、川辺で洗濯する女たちを描くため」でもあったそうだ。

しかし、ここで災難が襲った。近くのセルヴィーニの城まで自転車で散歩中、転倒して右腕を折った。この後遺症でリューマチの発作が起こり、死ぬまで苦しむことになった。
ルノワールはリューマチと闘いながら、実り豊かな晩年の画境に達していく。ただ、「手足がきかなくなった今になって、大作を描きたいと思うようになった。ヴェロネーゼ、彼の『カナの婚礼』のことばかり夢見ている! なんて惨めなんだ!」と記している。その心は悲壮であったようだ。

1911年、ルノワール70歳、リューマチで車椅子の生活を余儀なくされ、硬直した指は傷みをおさえるためにリンネルの包帯で保護した。描く時は筆を両手で握ったそうだ。
ところで、1914年に第一次世界大戦が勃発するが、長男と次男が応召し、9月に重傷の報を受ける。アリーヌは糖尿病だったが息子のもとに駆けつけ、体調を崩し、その後1915年6月、ニースの病院で死亡した。56歳だった。
1917年、76歳のルノワールは有名人で、多くの見舞客が訪れた。ただ、1917年9月、ドガの絵を売却した一件以来、絶交していたドガが死去した。ドガは狷介な孤高の人生だったといわれる。

その2年後、1919年、78歳のルノワールは8月、パリを訪れた。最後の旅だった。美術アカデミー院長のポール・レオンは、ルーヴルをルノワールひとりのために開館した。台車に乗せられ、ゆっくり見て回った。荘重なルーヴル訪問は、「絵画の法王」に対するオマージュ(崇敬)であったとされる。
その年1919年11月、急に発熱、12月3日、肺炎のため、息を引き取る。妻アリーヌとともに、エッソワの墓に眠る。
(小島英煕『活字でみるオルセー美術館』丸善ライブラリー、2001年、110頁~119頁)

【小島英煕『活字でみるオルセー美術館』丸善ライブラリーはこちらから】
活字でみるオルセー美術館―近代美の回廊をゆく (丸善ライブラリー)

唯一の職人階級出身画家ルノワール


先述したように、ルノワールは印象派グループのなかで唯一の職人階級出身画家である。そのことは、ルノワールの作風に大きな影響を与えたと木村氏はみている。
ルノワールは絵付けの仕事をしていた頃からルーヴル美術館に通い、特にルーベンスや18世紀のロココ絵画(フラゴナールやブーシェ)を研究していた。その後、グレールの画塾に入り、モネたちと親しくなって、印象派の運動に加わっていく。

ルノワールが描いたものは、人生の喜びであるといわれる。
都市の風俗や市民生活のワンシーン、少々の虚栄や娯楽の世界を楽しげに描いた。そこには人生の苦悩といったものは表現されない。マネやドガのようなパリジャン特有の冷めた視点もない。つまり、人生の悪いところは見たくないという姿勢である。

ところで、19世紀にはフランス社会が急速にブルジョワ化していく。そこでロマン主義の画家たちが17世紀のオランダの風俗画に注目したのを皮切りに、同じ17世紀オランダの風俗画や静物画への興味も増していく。風俗画のフェルメールが発見され、評価されたのもこの時代であった。フェルメールは17世紀の市民階級の日常生活を描いている。

それが19世紀のフランスのルノワールの手になると、どう変わるのか。
例えば、『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』という作品がある。
〇ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1876年 131×175㎝ オルセー美術館
ここには、庶民の遊び場であるダンスホールで日々の憂さを晴らすパリの庶民の姿が描かれている。
そこには当時のパリの庶民が抱えていたであろう苦労などは描かれておらず、ただただ人生の喜びそのものである。
(木村氏によれば、この作品の手前のテーブルの一群は別の場所で友人たちにモデルになってもらって描いたそうだ。後方でダンスをする人々が、ダンスホールのスケッチらしい。当時のダンスホールは退廃的な雰囲気が漂う場所であったので、ルノワールはあえてそうした暗い部分を避けたそうだ)

また、ルノワールには『ぶらんこ』という、フラゴナール(1732~1806年)と同じタイトルの作品がある。
〇ルノワール『ぶらんこ』1876年 92×73㎝ オルセー美術館
〇フラゴナール『ぶらんこ』1768年頃 81×64.5㎝ ロンドンのウォレス・コレクション

フラゴナールが貴族階級の戯れを描いたのに対し、ルノワールは市民階級をモデルに、それを描いている。フラゴナールの作品では、ぶらんこに示唆するところがあるが、ルノワールの作品では、ぶらんこは楽しくて幸せな時間の遊び道具にすぎないと木村氏は解釈している。

さて、ルノワールは、ほかの印象派の画家たちと違うのは、生活のために肖像画を描いた点であるといわれる。
このことは、ルノワールが職人階級出身であることと関わる。印象派のほかのメンバーは売れないうちからプライドだけは一人前であったので、家族や友人を描くことはあっても、収入のための肖像画はほとんど描いていない。それは当時、画家としては見下されることであった。親の援助で十分生活できたという事情もあった。
ルノワールは生活のために肖像画を描いたけれども、ルノワールは自らを“職人”と自負し、その注文を得ていく。

そのルノワールの肖像画として有名な作品に次のものがある。
〇ルノワール『シャルパンティエ夫人と子どもたち』1878年 154×190㎝ ニューヨークのメトロポリタン美術館

この肖像画がサロンに入選し、ルノワールはブルジョワ階級の人気肖像画家となっていく。ルノワールの甘い色彩、衣装を美しく描く技法は、新興ブルジョワジーの好みにぴったりであった。
この『シャルパンティエ夫人と子どもたち』でも、子どもたちは、とびきりかわいらしく描かれ、夫人ご自慢の東洋風のインテリアや宝石もしっかり描かれている。だからこそブルジョワに好まれた。
(ただ、少々俗っぽさを感じると木村氏は評している)
ルノワールは、客の好みに合わせて、画風を変えたりいて、できるだけ注文を取ろうとしたようだ。本当の貧しさを知っているルノワールは、再び貧しくなることを恐れていたらしい。
もっとも、職人を自負していても、芸術家の間では評価されることのなかった肖像画家の暮らしに嫌気がさしたり、形態があいまいになりがちな印象派の技法にも行き詰まりを感じたりした。色彩分割法は、人物を描くには限界があった。

そこでルノワールは、1881年から2年間にわたって、 アルジェリアからイタリアを旅し、ポンペイのフレスコ画やラファエロの人物像を研究する。そこからフランス古典主義の巨匠アングルの絵画に興味を抱き、その影響は帰国後の作品に表れる。
フォルムは明確になり、形態と色彩は簡素化され、写実的な人物像になってゆく。
1883年に描かれた、オルセー美術館にある次の作品が作例である。
〇ルノワール『町での踊り』1883年 オルセー美術館~女性モデルはユトリロの母である
〇ルノワール『田舎での踊り』1883年 オルセー美術館~女性モデルはのちのルノワールと結婚するアリーヌ・シャリゴである

ただし、数年後には、従来の色彩画家ルノワール独自の人物像に戻る。そして晩年は、裸婦像の制作に集中するようになり、円熟した豊満な女性を好んで描くようになる。また、花、特に薔薇と裸婦を結びつけた多くの作品を残している。
裸婦像に関しては、同じように豊満な女性のヌードを数多く描いたルーベンスからも影響を受けた。ただ、ルーベンスのモデルは神話のなかの登場人物や貴族階級の女性を歴史画のなかに置いたものであった。一方、ルノワールの場合は一貫して市井の女たちである。ルノワールにとっては、周りにいる現実的な女性たちこそ女神だったのであろう。
ルノワールは人生の喜びと、生命感あふれる大地のような市井の女性を描いた。
(木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年、275頁~279頁)

【木村泰司『名画の言い分』(筑摩書房)はこちらから】


名画の言い分 (ちくま文庫)

ルノワールとドガのタッチの違い


印象派の作品は日本でも抜群の人気を誇っている。
展覧会で必ず目に入る画家の名前が、マネ、モネ、ルノワール、ドガである。この4人は、印象派といえば誰もが思い浮かべる画家となっている。
特に日本で人気があるのがモネで、次いでポピュラーなのがルノワールらしい。この4人に、風景画家のピサロを加えると、印象派の基本メンバーはほぼ揃ったことになると西岡氏はみている。
(ゴーギャン、ゴッホ、ロートレック、セザンヌ、スーラは、日本ではピサロより有名だが、正確には、後期印象派に属している)
さて、西岡氏は、マネとモネ、およびドガ、ルノワールという印象派を代表する画家たちの画風の見分け方のコツについて述べている。

マネとモネの区別の仕方はこうである。
マネはモネよりも8歳年長で、たび重なるスキャンダルで近代絵画をひらいた画家として有名であるが、マネとモネの画風の最大の違いは明暗の処理にあるようだ。
マネの画面が極端な明暗の対比を見せている。それに対して、師フーダンの画風を脱した後のモネの画風は全体が明るく仕上げられている。
筆の運びは両者ともに軽快だが、マネは大胆でべったりしたタッチが目立つのに対して、モネは細かく色彩を置いていくタッチである。この差異はどこから生じるかといえば、マネの画面が、印象主義に先立つ写実主義の、事物の存在感をがっしりと描くタッチを見せているかららしい。一方、モネのタッチは色彩を細かく画面に散乱させる印象主義の手法を示している。

また、マネとモネは、描いた題材も違う。マネはクールなタッチで都市感覚にあふれた風俗画を描いた。対照的に、モネの画面にはリゾート感覚があふれている。
そして同じリゾート感覚でも、ルノワールとドガはまた異なる。ルノワールの作品では、描写のウェイトが人物に置かれている。一方、ドガの画面は、マネ風の都市感覚にパステル調の色彩や写真を思わせるドライな感覚が目立つ。

オルセー美術館所蔵である次の作品がそうである。
〇ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1876年 オルセー美術館
風車(ムーラン)と菓子(ギャレット)を売り物に製粉業者が用いたダンス場を描く。
〇ドガ『カフェのテラスにいる女たち』1877年 オルセー美術館
 これは、カフェで客を待つ娼婦を描いた作品である。ドライでジャーナリスティックな描写が、家族連れでにぎわうルノワールの画面と対照的である。

そして、マネとモネの違いは、女性像にも端的に示されているようだ。マネの描く女性はクールで都会的である。一方、モネのそれはマイルドで家庭的である。
マネの問題作2点を見ても、このことがわかる。
〇マネ『草上の昼食』1863年 オルセー美術館
〇マネ『オランピア』1863年 オルセー美術館
『草上の昼食』では、スキャンダルを呼んだ裸婦が、見る者を見返す挑発的な視線を向けている。そこには都会人ならではの無関心が見えている。
同じクールさは、この作品に続いてスキャンダルを呼んだ『オランピア』の画中から見返す娼婦の視線にもある。

それに対して、モネの描く女性には、こうしたクールで挑発的な視線は皆無で、マイルドで家庭的な雰囲気が漂う。
親子連れを思わせる二人を描いても、マネとモネとでは異なる。例えば、次の2作品を比べても、わかる。
〇マネ『鉄道』1873年 ワシントン ナショナル・ギャラリー
〇モネ『庭のカミーユ・モネと子供』1875年 ボストン美術館
『鉄道』は、マネのタッチがひときわ冴える名品と評される。
クールな都市感覚が特徴的で、女性像のクールさゆえに女性と少女の間はどこか疎遠に見える。画中の女性の子供に見えても不思議はないはずの子供が、他人から預かったようにしか見えていない。つまりラフなタッチでシャープに描く人物には、どこかよそよそしい雰囲気がある。
一方、モネの作品は、家庭的な親密さと明るいリゾート感覚が特徴的である。細かく色を並べたタッチは、マネに比べるとはるかに軽やかで柔和である。

さて、ルノワールはどうであろうか。
ルノワールは、モネの1歳年下である。モネと共に印象派の歴史をひらいた画家である。
モネが、印象派に特有のタッチを誕生させたのは、1869年の夏のラ・グルヌイエールというリゾート地であった。この時モネとイーゼルを並べて制作したのが、ルノワールであった。

二人は共に、変幻自在の水面を描写する方法と工夫しているが、両者の画風の違いはすでに現れているそうだ。それは、1869年に描かれた、同じタイトルの次の作品である。
〇モネ『ラ・グルヌイエール』1869年 メトロポリタン美術館
 これはルノワールとキャンバスを並べて描いた作品である。印象派のタッチはこの習作から生まれたとされる。
〇ルノワール『ラ・グルヌイエール』1869年 ストックホルム国立美術館

モネの画風は、センシティヴなリゾート感覚にあふれている。それに対してルノワールの画面にはファッショナブルなデザイン感覚で満ちているという。つまり、同じ水浴場を描いても、モネの画面には刻々とうつろいゆく日差しのなかでくつろぐリゾート気分が描かれるのに対して、ルノワールの画面には、おのおのが好みのデザインで身を包んだ観光地のファッショナブルな楽しさが描かれる。
物理的にも、ルノワールの画面の方が女性の数が多く描かれる傾向があるようだ。
『ラ・グルヌイエール』においても、モネの作品では男性のダークスーツが目立つが、ルノワールの場合には女性の白い夏のドレスが目立っている。
(ルノワールはモネに比べると、人物の描写への関心が高い。この違いがルノワールのが目をモネよりファッショナブルにしているようだ)

ところで、ルノワールのタッチはモネと同じく印象主義的で、あざやかな色を細かく描き分けて画面に散乱させている。ただし、ルノワールのタッチは、モネより柔和で繊細で、女性的である。

この柔和なタッチはどこから来たのであろうか。
西岡氏によれば、ルノワールが少年時代に陶器の絵付けによって家計を支えていたことから生じたともいえるとする。
食べ物を盛る皿や茶碗の絵付けでは、見る者を不快にさせる過剰な色彩やタッチは絶対に許されない。こうした職業的な事情から少年時代に叩き込まれたサービス精神の豊かさが、ルノワールの作品の柔和な親しみやすさをかもしだしていると西岡氏は考えている。
そして画家自身の壮年期以降の苦闘もまた、このデザイン感覚の脱却を目指して繰り広げられているという。ルノワールの晩年の裸婦などは、豊満な女性の生命感を強調して描かれているが、それはルノワールの苦闘の偉大な成果でもあったとみる。例えば、オルセー美術館の次の作例を挙げている。
〇ルノワール『浴女たち』1919年 オルセー美術館
生命讃歌に満ちた晩年の作品で、色彩、タッチともに、見る人によって好みの分かれる作品ながら、一目でわかる独自の画風を確立している点で巨匠の名に恥じぬ作品であると西岡氏は評している。

ルノワールが名声を確立した頃の肖像画を見ると、繊細なタッチで、毛羽立ったような状態で人物の輪郭を周囲に溶け込ませているそうだ。
〇ルノワール『イレーヌ・カーン・ダンヴェール』1880年 ビュルレ・コレクション
この作品に見られる、ぼやけた輪郭こそが、ルノワールの真骨頂とされる。これにより、人物の肌は、まるでうぶ毛を目の当たりにするような生彩を帯びることになる。つまり、人物が周囲の空間と溶け合って、抜群の雰囲気描写の効果を発揮している。

モネが風景を得意としたのに対して、ルノワールは人物画を得意とした。初期から中期にかけては可憐な少女を描かせて比類がなく、晩年は豊満な裸婦を描いて独自の境地に到達している。
どれほど画中の女性が豊満であっても決して不健康に見えない点に、ルノワールのルノワールたるゆえんがあると西岡氏はみている。
健康的かつ祝祭的というのが、ルノワールの画面を特徴づける気風である。この気風を示す作品が、先述したように、オルセー美術館の次の作品である。
〇ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1876年 オルセー美術館
これはパリ風俗を描いた名品で、往時をしのばせる楽しげな雰囲気が漂っている。

このルノワールと正反対な雰囲気を描いているのがドガである。先述した次の作品がそうである。
〇ドガ『カフェのテラスにいる女たち』1877年 オルセー美術館
このドガの作品は、カフェや都市の雑踏を描いて、不健康ともいうべき倦怠をにじませている。
ドガはマネの2歳年下、モネよりも6歳年長の画家である。パステルで描いたバレリーナや競馬の画面でおなじみである。
手法的にはマネと同じく、印象主義というよりは、これに先立つ写実主義に属していると西岡氏は考えている。
現実の一コマを切り取ったようなドライな画風の持ち主であった。このことは、次の作品のあくびをする洗濯女を見てもわかる。
〇ドガ『アイロンをかける洗濯女』1886年 オルセー美術館
性格にもひややかなところがあり、ドガは他人を批判するのが趣味といわれたほどであった。意外なことに、印象派展の開催と継続に、いちばん熱意を燃やしたそうだ。
もっとも、ドガ自身は印象派と呼ばれることを嫌い、展覧会の名称も工夫して、何とか印象派のレッテルを貼られることを避けようとしていた。しかし結果としてはドガの情熱が印象派の名声の確立と継続を保証することになったことは皮肉である。

ドガの視線の特徴は、ドライなジャーナリスト的な感覚にあった。ルノワールの健康的で、楽しげな画面に比べれば、ドガの画面は不健康な倦怠とさびしさに満ちている。
そうしたドガの作風の典型を見せているのが、オルセー美術館の次の名作である。
〇ドガ『アブサン(カフェにて)』1875年頃 オルセー美術館
 疲れ果てた女と酒びたりの男を都会のかたすみに描いた作品である。
画題にあるアブサンとは、世紀末のパリに蔓延した麻薬に似た酔い心地のする強アルコールのリキュールである。

西岡氏はこのドガの『アブサン(カフェにて)』とルノワールの『桟敷席』を比べている。
〇ドガ『アブサン(カフェにて)』1875年頃 オルセー美術館
〇ルノワール『桟敷席』1874年 ロンドンのコートールド・インスティチュート・ギャラリー
 これは、ドガの先の作品と同時期に描かれ、オペラ座の桟敷席の着飾った男女が描かれている。男性の持つオペラ・グラスは他の席の女性をみるためにも活用されている。
両者の作品に共通しているのは、画中の男女の視線が向かい合っていないことであると西岡氏は指摘している。
ルノワールの画面では、着飾った女性は画中から見る者を得意気に見返し、後ろの男性は、連れの淑女よりは他の桟敷席の着飾った女性の物色に余念がない。事実、当時のオペラ座は楽曲の鑑賞以上に、客同士が容姿と装いを競う社交場であった。この二人の男女も、そうした場に典型的な浮かれ気分で楽しげに気が散っている。
ただ、視線はかわしていないものの、互いの間に冷たいものが流れるわけでもない。むしろ画面はユーモラスな気分をかもしだしていると西岡氏はみている)

ところが、ドガの画面では、男女二人の気持ちは完全にすれ違ってしまっている。
その構図を見ると、ドガ得意のジグザグ構図の奥に人物を配している。つまりテーブルの線が、手前から鋭く画面を往復し、男女はこのジグザグ線の行き止まりに閉じ込められている。
それはそのまま人生の袋小路に追い詰められた二人連れという印象に直結している。疲れ果てた表情で放心する女性は、娼婦であるようだ。隣であらぬ方を眺める男の視線は陰鬱である。

そして、ドガの画風について、西岡氏は次のように解説している。
手法的には、ドガはマネと同じ写実主義に属するが、この表面のかすれたようなドライ感は、マネとは一線を画している。無論、ルノワールの柔和なタッチからはほど遠い。このドライ感は、ドガがパステルを愛用して油彩と併用したばかりか、その独特のかすれたタッチを油絵の筆によって再現しようとしたことから生じているとみる。
ドガのカフェの雰囲気は、ルノワールの描くカフェの風景には、登場しないものである。たとえば、かすれてドライなタッチ、冷酷なまでに強調して描かれた人物の孤立感や疎外感がそうである。
ドガの画面は、絵画よりは、むしろ冷酷非情に現実を写し出す報道写真に近いと西岡氏は捉えている。

このように対照的な絵を描いたドガとルノワールであったが、二人の実生活はどうであったのだろうか?
画面とは裏腹に、うらぶれたカフェを描いたドガよりは、華やかな桟敷席を描いたルノワールの方がはるかに貧しかったようだ。
ルノワールは、画家としては売出し前でオペラ座などとは縁遠かった。だから、弟と知人にモデルを頼んで、想像でこの絵を描いている。一方、ドガの画面の人生に敗残したような二人連れも、ドガの友人の画家と女優をモデルに描かれている。
両者ともに、こうした現実を目の当たりにしながら育ったわけでは決してない。むしろ現実は逆である。ルノワールは少年時代から働いて家計を支えていた。それに対して、ドガは裕福な銀行家の家庭に生まれている。
両者とも、自分が絵画に描きたい情景として、あえてこの場面を選んだようだ。ここに両者の絵画というものに対する基本的な姿勢の違いが表れている。
ルノワールは、あくまでファッショナブルなデザイン感覚を持った、サービス精神の人である。それに対して、ドガはドライなジャーナリスト感覚を持った、都市観察者だった。

以上、マネ、モネ、ルノワール、ドガといった印象派を代表する画家の画風について、西岡氏の解説を紹介してみた。なお、ロートレック、ゴーギャン、ゴッホ、セザンヌ、スーラといった画家たちは、後期印象派と西岡氏は理解している。
(西岡文彦『二時間の印象派』河出書房新社、1996年、24頁~40頁、95頁)

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二時間の印象派―全ガイド味わい方と読み方

小林秀雄のルノワール論


小林秀雄は『近代絵画』(新潮社、1958年)において、興味深いルノワール論を展開している。いくつかの論点を紹介してみたい。

小林秀雄はルノワールと他の印象派の画家とを比較して、次のようなことを記している。
ルノワールには、モネのように、主張すべき主義も、固執する理論もなかった。ルノワールは感ずるままに、思うままに、楽しんで描いた。描く喜びは、ルノワールには絶対的なものであったろうが、セザンヌのように、絵の仕事が絶対の探究という風に意識されたことはなく、セザンヌの殉教者めいた趣は全く見られない。
またゴーガンを悩ました文明の悪も、敵視すべき世間もルノワールにはなかった。ルノワールは誰とも衝突なぞしなかった。そしてゴッホを悩ました、人生にいかに生くべきかという問題さえ、ルノワールを見舞ったとは思えないと小林はみている。

ルノワールにとって生きて行く事は、絵を描いて行く事であり、絵を描いて行く事は、一切を解決して行く事であったようだ。ルノワールの生活は、沈着、平静な、勤勉な画家の生活であり、異状なものも、劇的なものも少しもない。ルノワールの絵もまた、その独創性は、見紛うべくもないのだが、その直接な魅力は、驚くほど当たり前な性質のものであった。

ところで、ルノワールの書簡は、モーツァルトの書簡のように、ルノワールの芸術について何事も語っていないそうだ。小林は、ルノワールの評論を色々読んでみたが、ヴォラールのルノワールに関する想い出話が一番面白かったと明記している。

≪補注 ヴォラールについて≫
ここで登場するヴォラール(1866~1939)は、法学部での勉学を捨てて、名もない画商の店で商売の初歩を学び、やがてパリの絵画市場の中心、ラフィット街で画廊を構えるようになった人物をさす。当時まったく無名であったゴーギャンやゴッホの作品を売るかたわら、1895年に最初のセザンヌ展を催して業界にデビューした。ルノワールにまつわるヴォラールの文章は、慎重な扱いを要するにせよ、画家に関するわれわれの知識の源として、なによりも貴重な資料であることに変わりはないと、ディステル氏も評している。
(アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』(創元社、1996年、119頁~120頁)

そのヴォラールは、ゴッホに関するルノワールの言葉を伝えている。
「画家と言われるには、腕の達者な職人では足りない。絵というものは、絵かきは、好んで自分の絵の機嫌をとっているという事がわかる様でないといけない。ヴァン・ゴッホに欠けていたのは、そういう処です。彼の絵をすばらしいと人が言うのを耳にするが、彼の絵は、恋しい人を愛撫する様な工合に、絵筆で可愛がられてはいません……それに、彼には、エキゾティックな面がある」

ゴッホには、異常な絵を描こうというような企図は少しもなかったが、彼の画業は期せずして異常な告白となった。ゴッホの絵は、常に見るものを、画家の苦しい制作のモチフに誘わずにはおかなかった。ゴッホの絵は自足しておらず、自分の絵を愛撫することができなかった。何を描いても描き足りぬ焦燥感が残ったようだ。
一方、ルノワールの絵についての考えの中には、告白としての絵というものは、はいってくる余地はない。それが「絵かきは、人に見てもらうために絵を描く」というルノワールの言葉の真意であろうと小林は推測している。

また、ルノワールはゴヤについて語っている。
ゴヤの「カルロス4世の家族」(1800~1801年、プラド美術館)1枚を見るために、マドリッドまで旅行する価値はあるとルノワールは言っている。
「王様は豚売りみたいだし、女王様ときたら、今、居酒屋から出て来たといった様子だ、そんな事しか、何故世間は言わないんだろう。あんなダイヤモンドは、ゴヤ以外の誰にも描けやしない。あの小さな繻子の靴の見事さはどうだ」
と評している。

小林秀雄は続けて述べている。
ゴヤの残酷な才能は、王様の顔を豚売りの顔にしたにとまらない。この「カルロス4世の家族」という絵のある部屋には、有名な大作「5月3日の虐殺」(1814年、プラド美術館)もかかっている。ゴヤは、モラリストとして、こんな絵を描いたのではないと小林は考えている。
(我々がこの凄惨な画面から眼が離されないのは、このメチエを極めた大画家の筆が、自分の画面を愛撫しているからであろうとみている)

ところで、ルノワールは、この種のゴヤの作品については、一言も語っていないそうだ。この沈黙は、ルノワールの人柄を、一層よくあらわしていると小林は推察している。
ルノワールは、「絵は愛すべき、見て楽しい、きれいなものでなければならぬ」という信念をもっていた。
小林も、ルノワールという画家について、次のように考えている。
「彼はほとんど人間ばかりを扱った画家だが、悲しげな人間も人間生活の不幸や絶望や、懐疑について、あれほど芸術家達が敏感だった世紀に生れて、彼の様に楽しい人生ばかりを描いた芸術家はない。恐らく彼は、絵について面倒な事を考えるのを好まず、ただ絵を描く事が楽しく、絵を描き出した。彼はそういう気質の人であった」

ルノワールは「楽しい人生ばかりを描いた芸術家」であった。ゴヤの「5月3日の虐殺」(「マドリード、1808年5月3日」)という凄惨な絵などについては、沈黙を通したのも、ルノワールの人柄を如実に物語るエピソードである。

ところで、ルノワールには、アングル風の時代があったといわれる。
この点については、アンヌ・ディステルも次のように言及している。
「ルノワールのアングル風の時代、または変調(エーグル)の時代と呼ばれた時期は、1887年に大作『浴女たち』の発表で頂点に達する。その動きはすでに、印象派の画家たちがみな技法の刷新を模索していた80年代初めからはじまっていた。以来ルノワールの画風は深い変化を遂げていく。イタリア滞在はそれを確実なものにしたにすぎなかった」
(アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』(創元社、1996年、96頁)
【アンヌ・ディステル『ルノワール』創元社はこちらから】

ルノワール:生命の讃歌 (「知の再発見」双書)

このルノワールのアングル風の時代、または変調(エーグル)の時代とは何を意味しているのだろうか。この点、小林秀雄も言及している。
まず、ヴォラールはルノワールにとっては珍しい告白を伝えている。
「1883年頃、私の作に、割れ目のようなものが出来た。私は、アンプレッショニスムの果てまで歩いてみて、このままでは、もう絵も描けないし、デッサンも出来ないようになる事を確かめた。一と口で言えば、袋小路にはいってしまったのである」
評家たちは、この時期を、ルノワールの「アングル風の時期(ママ)」あるいは「酸っぱく描く時期」と呼んでいる。

この点について、小林秀雄は解説している。
酸っぱく描くというのは、ルノワール自身の言葉“manière aigre”を直訳したという。実は、どう訳していいか困る言葉であるそうだ。aigre(酸っぱい)という言葉は、doux(甘い)という言葉の反意語であるから、味覚による連想からいろいろな意味が生じてくる。一般に温かみや柔らかみのない意味から、人間で言えば、不愉快な人間、声で言えば甲走った声、色で言えば、うつりの悪い配合を言うという工合になると説明している。すべてそのような風の意味で、ルノワールはaigreと表現したとする。

「アンプレッショニスムの果てまで歩いた」というより、今までの“manière douce”
(甘い描き方)は、どうしても変えねばならなくなったと言った方がよかったであろうと小林秀雄は述べている。
ルノワールが“aigre”とでも言うより他はない一種の手法が生まれてきた。この期の代表作は有名な「浴女」である。これは属目の風俗が直ちに絵になったような従来のルノワールの行き方とは全く異なる。デッサンや習作の準備を経て、森と泉とのうちに壁画風に構成されたニンフの群れである。ルノワールは、ヴォラールに次のように言ったとされる。
「『浴女』は、私の傑作だと思っている。何しろ三年の間、手探りしたり、やり直しをしたりしていたんだからね。(中略)私が怠けていると言った者さえいた。私が、どれほど汗水垂らして働いていたかは、神様だけが御存じだよ」
このルノワールの言葉に対して、小林秀雄は、「エーグルなやり方」の意味は、神様だけが御存じなのであるという。
そして、「ニンフの肢体には、はっきりした輪郭がつき、肌は光らず、艶が消えている。なるほど、エーグルなやり方であるが、その本当の意味は、彼の汗水垂らした労働のうちにしかない」と続けている。

「アングル風の時期」という言葉が生まれたのは、この「浴女」という絵からだといわれる。
「エーグルな描き方」という言葉は、ともかくも、ルノワール自身の言葉であるが、「アングル風」という言葉は、この絵が、アングルの「トルコ風呂」を連想させたというところから出たようだ。
ただ、ルノワールとアングルでは、あまりにも違いすぎると小林秀雄はコメントしている。アングルの女体は、ヴァレリーが巧みに形容したように、何か爬虫類めいたものを思わせ、二人の肉感性の質は違いすぎるという。「アングル風の時期」とは、ルノワールの制作のこの時期を言う評家の便宜上の符牒を出ないと付言している。
(小林秀雄『近代絵画』新潮社、1958年、135頁~162頁)

【小林秀雄『近代絵画』はこちらから】

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