歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その11≫

2020-12-22 19:01:41 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その11≫
(2020年12月22日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


 今回のブログでは、「モナ・リザ」の制作年代について、1503年説の解説の補足をしておく。
ダイアン・ヘイルズ氏の著作を紹介しながら、ハイデルベルク大学図書館所蔵の資料、ラファエロの「モナ・リザ」スケッチおよび「マッダレーナ・ドニの肖像画」について、述べておく。

〇Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年

【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】

Mona Lisa: A Life Discovered

【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】

モナ・リザ・コード




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・ハイデルベルク大学図書館の資料発見についての諸氏の言及
・1503年説とハイデルベルク大学図書館の資料発見~ヘイルズ氏の見解
・マキャヴェリの友人の手紙
・ラファエロの「モナ・リザ」スケッチと「マッダレーナ・ドニの肖像画」






ハイデルベルク大学図書館の資料発見についての諸氏の言及


まず最初に、このブログで、ルーヴル美術館関係の著作を紹介してきたが、ハイデルベルク大学図書館の資料発見について、諸氏がどのように言及してきたのか、振り返っておこう。

中野京子氏は、『モナ・リザ』の解説をした際に、まずモデル問題について言及していた。
モデルに関しては、マントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステだとか、レオナルド本人だとか、さまざまな説があった。しかし、2008年(ママ)、ハイデルベルク大学図書館蔵書に16世紀の書き込みが見つかり、長年の論争に決着がついたとみている。
その書き込みには、
「レオナルド・ダ・ヴィンチは今三枚の絵を描いており、その一つがジョコンド夫人のリザである」
とある。
これにより、ヴァザーリの時代から言われていたとおり、モデルはフィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザで、この絵の別名が『ジョコンダ』なのも正しかったと中野氏は述べていた。
(中野京子『はじめてのルーヴル』集英社文庫、2016年[2017年版]、233頁~235頁)

【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】


はじめてのルーヴル (集英社文庫)


西岡文彦氏も、『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)において、このハイデルベルク大学図書館の資料について、「新発見資料の意外な筆者」と題して詳述していた。ここで、もう一度、西岡氏の叙述を振り返ってみよう。

『モナ・リザ』が「リザ婦人」「ジョコンド夫人」であるとの説の決定的な証拠となったのが、2005年(2008年でないことに注意)、ハイデルベルクで発見された古文書の注記であるとし、その内容は、ヴァザーリの記述を完全に裏付けるものであったとする。

注記は、1477年にイタリアで出版された初期印刷本の欄外に手書きが書き込まれていた。こうした書き込みは、印刷技術の登場以前の慣習の名残りで、書物を手書きで複製していた時代に、写本担当者が本文欄外に注記を入れたことに由来する。
発見された注記は、ルネッサンス当時のラテン語の模範文集として刊行されていた古代ローマの文人キケロの書簡集にある。1503年当時、この書簡集を所蔵していたのは、フィレンツェの高級官僚アゴスティーノ・ヴェスプッチ(アメリカ大陸を発見したアメリゴ・ヴェスプッチの従兄弟)だったことが確認されていると西岡氏は説明している。
この書簡でキケロは、医者がキケロの頭脳ばかりを心配して、体の他の部分を治療しないと嘆いており、ヴェスプッチは、この部分の欄外に注記を書き込めているという。
さらに、古代ギリシアの画家アペレスもヴィーナス像の頭部と胸だけを仕上げ、他の部分は未完成のまま放置していたと注記している。それに続けて、当代のアペレスであるダ・ヴィンチもリザ・デル・ジョコンドの頭部は描いたものの、例によって未完に終るであろうし、政庁舎広間の壁画も同様の結果に終るに違いないとの懸念を記している。

注記は、ダ・ヴィンチがリザ婦人像に着手したと明記している。その上に、すでにダ・ヴィンチが作品を完成させない巨匠として知られていたことを伝えている。
当時、ダ・ヴィンチはフィレンツェにあり、フィレンツェ共和国の依頼で政庁舎の五百人広間で壁画『アンギアリの戦い』の制作に取りかかっていた。
(『アンギアリの戦い』模写[1603年、ルーヴル美術館]は、バロックの画家リューベンスによる素描模写である。)
この壁画は、フィレンツェ共和国がミラノ公国に勝利した歴史的戦闘の場面を描くものである。同じ広間の別の壁には、ミケランジェロが、フィレンツェがピサ共和国に勝利した『カッシーナの戦い』を描くよう依頼されていた。

二巨匠が競作することになったこの壁画の契約書に、当局を代表して署名したのが、ルネッサンスの政治思想家ニッコロ・マキャヴェリであった。
目的のためには手段を選ばぬ権謀術数主義を意味するマキャベリズムという言葉の語源となった専政マニュアル『君主論』の著者として知られる。マキャヴェリは、当時、フィレンツェ共和国政府の要職にあり、ダ・ヴィンチの親しい友人でもあった。
この少し前に知り合っていた二人は、互いの知性に魅かれて意気投合した。政庁舎壁画の依頼の背景には、マキャヴェリの政治力があったともいわれる。

50歳を過ぎたばかりのダ・ヴィンチと30歳を目前にしたミケランジェロという二人の大芸術家の激突を見守っていたのは、このルネッサンスを代表する理性の人マキャベリだった。30代半ばにさしかかろうとしていた頃のことである。

まさに巨大な才能のるつぼと化していたのが、当時のフィレンツェである。リザ婦人こと『モナ・リザ』が描かれたのは、そのフィレンツェでのことだった。
ダ・ヴィンチはミケランジェロとの壁画対決に備え、ラテン語で書かれた『アンギアリの戦い』の戦史をイタリア語に翻訳する作業をマキャヴェリの秘書官に依頼している。壁画に戦闘場面を再現するためには、このラテン語の戦史をつぶさに研究する必要があったようだ。ダ・ヴィンチはラテン語を苦手としていたからである。
ミケランジェロに遅れをとらぬためにも、彼は必須であった。この戦史の翻訳を依頼したマキャヴェリの秘書官が、先の注記を書き込んだヴェスプッチであった。
(注記に、リザ婦人の肖像画と同様に、政庁舎広間の壁画も未完成に終るのではとの懸念が記されているのはそのためであるらしい。壁画の完成は、マキャヴェリの秘書官であったヴェスプッチにとっても、他人事ではなかった。ダ・ヴィンチのために、ラテン語の戦史を訳したのもそのためであったようだ)

ヴァザーリ「美術家列伝」の記述は、ヴェスプッチの懸念の通り、リザ婦人の肖像が未完に終ったことを語っている。
いまだに異説を唱える向きはあるものの、このヴェスプッチによる注記の発見は、『モナ・リザ』のモデル論争に決着をつけるには充分のものであったと西岡氏はみなしている。
この絵がリザ・デル・ジョコンドの肖像であることは、ほぼ疑う余地がないと判断している。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、57頁~61頁)

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)

また、佐藤幸三氏も、この資料について、次のように説明していた。
2008年1月14日、ドイツのハイデルベルク大学図書館は、ダ・ヴィンチの名画「モナ・リザ」のモデルはフィレンツェの豪商の妻であるとする証拠を発見したと発表した。
発見されたのは、古書の余白にフィレンツェ市の役人が書き込んだ1503年10月のメモである。その中に「ダ・ヴィンチは三つの絵画を制作中で、うち一つはリザ・デル・ジョコンドの肖像だ」と記されていた。
メモの時期も絵の制作時期と一致している。「モナ・リザ」のモデルをめぐっては、さまざまな説が飛び交っていたが、同図書館は、この発見によって、「すべての疑念を消し去ることができる」としている。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、96頁)

【佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社はこちらから】

[カラー版]モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか (じっぴコンパクト新書80)


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≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その5



1503年説とハイデルベルク大学図書館の資料発見~ヘイルズ氏の見解



ダイアン・ヘイルズ氏も、ヴェスプッチによる欄外の注記について言及している。
〇Dianne Hales, Mona Lisa :A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.163-167.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、234頁~238頁。「10 肖像画の制作が進行中」を参照
なお、ヘイルズ氏は、この注記を書いた人物について、アゴスティーノ・ヴェスプッチ以外の見解も付記している。

ヘイルズ氏は、ハイデルベルク大学図書館の資料発見について、次のように言及している。

Returning to Florence, Leonardo may have resumed work on Lisa’s por-
trait. By autumn he had made significant progress ― a fact that remained
unknown until a fortuitous discovery in 2005.
A manuscript expert named Armin Schlechter was cataloguing an
early-sixteenth-century edition of Epistulae ad Familiares, the Latin let-
ters of the Roman orator Cicero, written in the first century B.C. and a fa-
vorite tome of the humanists of Renaissance Florence. Flipping through
its pages as he prepared an exhibit at the University of Heidelberg in
Germany, the sharp-eyed scholar spotted a note in the margin.
In the annotated pages’ text, Cicero had described how the renowned
Greek painter Apelles rendered the head and shoulders of his subjects in
extraordinary detail before continuing with the rest of a painting. Next to
this paragraph a comment in erudite Latin stated that “Leonardus Vin-
cius,” the Apelles of the day (the highest praise a Renaissance human-
ist could bestow on an artist), was using a similar approach for a new
work, a portrait of “Lise del Giocondo” as well as for Anne, “mother of
the Virgin,” in his still-uncompleted altarpiece. The marginalia included
the date, October 1503, and a bit of speculation about Leonardo’s newest
commission : “We will see how he is going to do it regarding the Great
Hall of the Council.”
Most journalistic accounts identify the commentator as Agostino
Vespucci, a cousin of the explorer Amerigo Vespucci, who was serving
as a secretary for Second Chancellor Machiavelli. Not so, says Rab Hat-
field, a retired professor of art history at Syracuse University in Florence
and such a fastidious fact-finder that he’s been hailed as the “Sherlock
Holmes of Renaissance art.” The respected researcher identifies the au-
thor of the note as the notaio Ser Agostino di Matteo da Terricciola, the
book’s owner, whom Leonardo, apparently in a reference to Machiavelli’s
valued assistant, called “my Vespucci.”
The serendipitous discovery electrified the academic world. For the
first time, a verified historical document set a specific time frame ― in
and around 1503 ― for the Mona Lisa’s creation, refuting the contention,
once widely held, that Leonardo painted the work at a much later date in
Rome. Everything about the marginal note ― the ink, the paper, the spec-
ificity of the observations ― has held up to the closest scrutiny.

(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.163-164.)

【単語】
resume  (vt.)再び取る、(一度やめたことを)再び始める、概要を述べる
fortuitous  (a.)偶然の、好運な
catalogue  (vt.)カタログに作る[載せる]
orator    (n.)雄弁家
Cicero   キケロ(B.C.106-B.C.43)古代ローマの哲学者、政治家、雄弁家。ラテン散文の完成者。
tome   (n.)大冊、1巻
flip (vi.)つめではじく、(ページを)すばやくめくる
 flip through  (本などに)ざっと目を通す
<例文>He took another notebook from the bookshelf and flipped through the pages.
    彼は本棚から別のノートを手に取るとページをパラパラとめくった。
sharp-eyed  (a.)目の[観察の]鋭い
spot    (vt.)斑点をつける、見つける
note    (n.)覚書き、メモ
margin   (n.)ふち、欄外
annotate  (vt., vi.)注釈する
render   (vt.)与える、表現[描写]する
erudite   (a., n.)博学な(人)
praise   (n., vt.)称賛(する)
altarpiece  (n.)祭壇の背後または上部の飾り(reredos)
marginalia  (n.)榜注、欄外の書き込み
speculation  (n.)思索、推測、投機
council  (n.)評議会、地方議会
account   (n.)説明、記事
fastidious  (a.)細心の注意を払う、厳格な、気むずかしい
haile   (vt., vi.)~と呼んで迎える、~として称賛する
notaio   (イタリア語)公証人
serendipitous  (a.)偶然の、運のいい
verify    (vt.)論破[反駁]する
contention  (n.)論点、主張
hold up     持続する、耐える
scrutiny   (n.)精査、吟味

≪訳文≫
フィレンツェに戻ったレオナルドは、リサの肖像画の仕事にふたたび着手したはずだ。秋になるまでに、作業はかなり進んだ。その進捗具合は長いこと不明だったが、2005年に幸運な発見があった。
 中世ラテン文書研究の第一人者であるアーミン・シュレヒターは、16世紀初頭版のキケロ書簡集を調べていた。原文は紀元前1世紀に古代ローマの雄弁家キケロが書いたものだが、ルネサンス期のフィレンツェで人文学者たちが愛好していた。ドイツのハイデルベルク大学で展示するためにページを繰っていたとき、彼は目ざとく欄外の走り書きを見つけた。
それによると、キケロの時代に有名だったギリシャの画家アペレスは、自分が描いた人物の頭や肩についてこと細かに記しているという記述がある。それに続いて、レオナルド・ダヴィンチの名前もラテン語化して「レオナルドス・ヴィンチウスは現代のアペレスだ」という最高の賛辞を呈している。そしてレオナルドは新たに「リセ・デル・ジョコンド」の肖像画を描くに当たって、あるいは未完成だが祭壇に描く予定の聖母マリア像にも、同じような姿勢で臨んでいる」とある。この欄外メモには、1503年10月という日付まで付記されている。さらにレオナルドが請け負った最新の仕事にも触れて、こう書かれている。「フィレンツェ市議会大会堂の作品がどのようなものになるのか、注目したい」
このメモを書いた人物は、最初、航海者アメリゴ・ヴェスプッチのいとこアゴスティーノ・ヴェスプッチではないかと推察された。アゴスティーノは、副宰相級の政治家だったマキアヴェッリの秘書を務めていた。だが、この推察は当たっていないとする学者もいる。フィレンツェのシラキュース大学・歴史学科長を退職したラッブ・ハットフィールドは、中世史の事実を発掘するのが得意なため、「ルネサンス芸術のシャーロック・ホームズ」というあだ名で知られている。この権威ある学者の見立てでは、メモを書いたのは公証人のセル・アゴスティーノ・ディ・マッテオ・ダ・テリッキオーラだろうという。それというのも、この男が写本の所有者だったからだ。ヴェスプッチはマキアヴェッリを補佐していたわけだから、レオナルドはそれになぞらえて、テリッキオーラを「私のヴェスプッチ」と呼んでいた。
この思いがけない新発見は、この分野では大きな話題になった。それまでレオナルドが「モナ・リザ」を描いた時期は特定できず、もっとずっとあとになってローマで描いたという説が有力だった時代もあったが、この発見によって1503年前後のフィレンツェ、と断定された。この欄外のメモは、インクの色の変化、紙の焼け具合、内容の具体性のいずれの点からも、信憑性はきわめて高い。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳) 『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、234頁~235頁)

2005年の欄外メモの発見については、ヘイルズ氏も解説している。
以下、簡単に解説しておきたい。

アーミン・シュレヒター氏(中世ラテン文書研究の第一人者)は、16世紀初頭版のキケロ書簡集(原文は紀元前1世紀に古代ローマの雄弁家キケロが書いたもの)を調べていた。
ドイツのハイデルベルク大学で展示する際に、欄外の走り書きを発見した。
それによると、ギリシャの画家アペレスは、自分が描いた人物の頭や肩について、こと細かに記されている記述がある。それに続いて、「レオナルド・ダ・ヴィンチは現代のアペレスだ」と最高の賛辞が記してあった。
そして、レオナルドは新たに「リセ(ママ)・デル・ジョコンド」の肖像画を描くにあたって、あるいは未完成だが、祭壇に描く予定の聖母マリア像にも、同じような姿勢で臨んでいるとある。
そして、この欄外メモには、1503年10月という日付さえ付記されていた。
さらにレオナルドが請け負った最新の仕事について、「フィレンツェ市議会大会堂の作品がどのようなものになるのか、注目したい」とも言及されていた。

このメモを書いた人物については、2つの説がある。
① アゴスティーノ・ヴェスプッチ(航海者アメリゴ・ヴェスプッチのいとこ)
アゴスティーノは、副宰相級の政治家マキアヴェッリの秘書
② 公証人のセル・アゴスティーノ・ディ・マッテオ・ダ・テリッキオーラ
これは、ラッブ・ハットフィールド(フィレンツェのシラキュース大学の歴史学科長を退職)の見解である
テリッキオーラは写本の所有者だった
ヴェスプッチはマキアヴェッリを補佐していたわけだから、レオナルドは、それになぞらえて、テリッキオーラを「私のヴェスプッチ」と呼んでいたという

この欄外メモの発見によって、「モナ・リザ」が描かれた時期と場所は、1503年前後のフィレンツェであると断定された。それまでは、時期は特定できず、ずっと後になってローマで描いたという説が有力だったこともあった。
(ヘイルズ[仙名訳]、2015年、234頁~235頁)

マキャヴェリの友人の手紙



さて、先の英文に続けて、ヘイルズ氏は次のように続けている。
A letter from 1503 provides less authoritative confirmation of the tim-
ing of Lisa’s portrait. At some point in the summer or fall, Machiavelli
must have visited Leonardo with his pal Luca Ugolino. If he came when
Leonardo was sketching, Lisa Gherardini might have made the acquain-
tance of another Florentine whose name would become almost as famous
as hers.
That autumn Machiavelli’s wife, Marietta, gave birth to their first son
while her husband was in Rome on state business. “Congratulations! ”
Ugolino wrote in a note to his “very dear friend.” “Obviously Mistress
Marietta did not deceive you, for he is your spitting image. Leonardo da
Vinci would not have done a better portrait.”
The only portrait Ugolino might have seen on Leonardo’s easel was
Lisa’s.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.164-165.)

【単語】
authoritative   (a.)権威のある、信ずべき
confirmation   (n.)確定、確認
acquaintance   (n.)面識、なじみ、知人
⇒make the acquaintance of O=make O’s acquaintance ~と知り合いになる
<例文> It was a great pleasure to make your acquaintance during my stay in Tokyo.
   東京滞在中にあなたとお知り合いになれたことは大きな喜びでした。
Mistress  (n.)女主人、~夫人
spit    (vt., vi.)(つばを)吐く (n.)つばを吐くこと、生き写し、そっくり
(cf.) the spit and image of O= the spitting [living] image of O Oの生き写し、Oと瓜二つ
<例文> The baby was the spitting [living] image of his father.
   その赤ん坊は父親にそっくりであった
(=The baby had a strong resemblance to his father.)
easel (n.)画架

≪訳文≫
もう一つ、信頼度は落ちるかもしれないが一通の手紙があって、1503年説を裏づける傍証になる。夏か秋に、マキアヴェッリは親しい友人ルカ・ウゴリーノを伴ってレオナルドを訪ねたようだ。もし「モナ・リザ」を制作中に訪れていたのだとしたら、リサ・ゲラルディーニと顔見知りになっていたはずで、それが広く知られていれば、マキアヴェッリはさらに有名になっていた可能性がある。
秋になって、マキアヴェッリの妻マリエッタは、長男を出産した。そのころ、夫は公務でローマに赴いていた。ウゴリーノは、マキアヴェッリに次のような手紙を書いた。
「親愛なる友よ、おめでとう。マリエッタは、きみの期待を裏切らなかった。きみと瓜二つだ。レオナルド・ダ・ヴィンチだって、これほど生き写しにはできないよ」
ウゴリーノが画架に乗っているレオナルドの絵を見たとすれば、リサの肖像画以外には考えられない。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、235頁)

ダイアン・ヘイルズ氏は、1503年説を裏付ける傍証として、一通の手紙を挙げている。
その年の夏か秋に、マキアヴェッリは親しい友人ルカ・ウゴリーノを伴ってレオナルドを訪ねたようだ。
秋になって、マキアヴェッリの妻マリエッタは長男を出産した。そのころ、夫は公務でローマに赴いていた。ウゴリーノは、マキアヴェッリに次のような手紙を書いた。
「親愛なる友よ、おめでとう。マリエッタは、きみの期待を裏切らなかった。きみと瓜二つだ。レオナルド・ダ・ヴィンチだって、これほど生き写しにはできないよ」
ウゴリーノがレオナルドを訪ねた際に画架に乗っている彼の絵を見たとすれば、リサの肖像画以外には考えられないと、ヘイルズ氏は推察している。

ラファエロの「モナ・リザ」スケッチと「マッダレーナ・ドニの肖像画」


ラファエロによる「モナ・リザ」スケッチと「マッダレーナ・ドニの肖像画」について、ヘイルズ氏は、次のように解説している。

As word of the clash of the giants spread, artists from botteghe through-
out Italy flocked to Florence. Michelangelo shrugged them off with his
usual surliness, but Leonardo, reveling in the role of dean of the local art-
ists, welcomed the new admirers. The painter we know as Raphael (1483-
1520) was so impressed by the esteemed maestro’s consummate skill that
he swore to forget everything he had learned and imitate him.
The twenty-year-old from Urbino, who won over his colleagues ―
as Leonardo had ― with charm and physical beauty, provides us with a
sort of progress report on the portrait of Lisa Gherardini. A small pen-
and-brown-ink sketch (now in Louvre), believed to have been done
around 1504, depicts a big-eyed girl in Leonardo’s innovative three-
quarter pose, with her head tilted slightly forward and hands loosely
crossed, set against a flat landscape framed by columns.
In 1506, Raphael produced another copycat composition: the wed-
ding portrait of Maddalena Strozzi Doni, the sister of one of Francesco
del Giocondo’s business associates, Marcello Strozzi (a work now in the
Pitti Palace). Lisa and Maddalena ― contemporaries, almost certain ac-
quaintances, possible friends ― share the same trendy look, with high
foreheads, plucked brows, and long hair escaping from a bonnet of sorts
at the back of their necks.
Maddalena, a recet bride dolled up in a showy dress of rich blue and
red with an ostentatious nuptial pendant and three rings on her fingers,
sits in the same three-quarter pose as Lisa. Yet when I compare reproduc-
tions of two works side by side, Lisa, despite her muted attire, seems
infinitely more enticing ― visual poetry compared to the eternally prosaic
Maddalena.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.173-174.)

【単語】
clash   (n.)衝突、不和
flock  (vi.)群がる、群をなして来る[行く]
shrug  (vi.)(肩を)すくめる shrug off無視する、脱する
surliness (n.)無愛想、不機嫌
revel  (vi.)大いに楽しむ(in)、酒宴をして騒ぐ
dean   (n.)地方監督、長老
impress  (vt.)印象づける、感動させる
consummate  (a.)無上の、完全な
swore   (v.)<swear(誓う、断言する)の過去
win over O 説き伏せる、(味方に)引き入れる
progress  (n.)進行、進歩
 <例文>Come back next week to report on your progress.
来週また来て、進行具合を報告して下さい
depict  (vt.)(絵・文で)描写する
innovative (a.)革新的な、斬新な
 <例文>These goods are characterized by innovative design.
   これらの商品は斬新なデザインが特徴だ

three-quarter pose 四分の三ほど斜向のポーズ ⇒四分の三正面像(西岡、1994年、162頁)
tilt     (vi.,vt.)傾く(ける) (n.)傾斜、傾けること
flat     (a.)平たい、平たく伸ばした
column   (n.)円柱
copycat    (n.)人まね屋
contemporary (a., n.)同時代の(人)
acquaintance  (n.)知人
pluck     (vt.)(鳥の)毛をむしる、引抜く
bonnet     (n.)(女性・子供の)あごひも帽
of sorts    おそまつな、一種の、いわば
doll     (vt., vi.)(俗)着飾る、めかし立てる
showy    (a.)はでな、見えを張る
ostentatious  (a.)見せびらかしの、これ見よがしの
nuptial    (a.)結婚(式)の (n.)(通例pl.)結婚(式)
side by side  並んで
muted     (a.)(色が)ぼかされた、(音が)弱められた
attire    (n.)衣装 (vt.)装う
enticing   (a.)誘惑的な
prosaic   (a.)散文的な、平凡な、退屈な

≪訳文≫
芸術界の二人の巨匠が対立しているという話を聞いて、イタリア全土の工房から芸術家たちがフィレンツェに集まって来た。ミケランジェロはいつものようにそっけなく対応したが、レオナルドは画壇リーダー格だったから、新たな支持者たちを歓待した。そのなかに、ラファエロ(1483~1520)もいた。彼は尊敬するレオナルドの究極のテクニックに魅了されていて、そこから学んだとか模倣したという意識さえなかった。
 ウルビーノ出身で20歳のラファエロも、レオナルドと同じように美男で、美しい肉体を持っていたから、注目されていた。彼も、リサの肖像画の進捗具合についての情報を教えてくれる。ラファエロが1504年ごろに描いたペンと茶色のインクを使ったスケッチがルーヴル美術館に残っていて、大きな目の女性がレオナルドの斬新な四分の三ほど斜向きのポーズですわっている姿が描かれている。頭をやや前方にかしげ、手を軽く組み合わせている。背景は、まだ平坦な風景のままだ。
 ラファエロは、1506年にも別の作品を模写している。フランチェスコの商売仲間マルチェッロ・ストロッチの妹マッダレーナ・ストロッチ・ドニの婚礼を描いた絵だ(ピッティ宮殿所蔵)。リサとマッダレーナは同時代の人間で、たぶん知り合いか、あるいは友人だったと思われ、二人は当時のトレンドと思える、似たようなメーキャップを施している。髪を分けて額を広く見せ、眉を抜いている。長い髪は首の後ろで結んで左右に流す姿だ。
 花嫁のマッダレーナは、青と赤の派手な衣装でめかし込み、婚礼にふさわしいこれ見よがしのペンダントをを付け、三個の指輪を別々の指にはめ、リサと同じ四分の三、斜めに構えている。だがこの二つの絵を並べて見比べてみると、リサの衣装は地味だが、典型的な花嫁衣装のマッダレーナよりも、もっと魅力的な、「見る詩」になっていると感じる。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、246頁~247頁)

スカイエレーズ氏も、ラファエロの上記の2枚の絵画については、言及していた。すなわち、次の2枚である。

〇ラファエロ「娘の肖像」
(22.3×15.9㎝、パリ、ルーヴル美術館グラフィック・アート部所蔵)

〇ラファエロ「マッダレーナ・ドニ」
(1505~1506年頃、フィレンツェで描かれた肖像画、板、63×45㎝、フィレンツェ、ピッティ宮殿所蔵)

文中にある、ラファエロが1504年ごろに描いたペンと茶色のインクを使ったスケッチで、ルーヴル美術館に残っている絵とは、ラファエロ「娘の肖像」(22.3×15.9㎝、パリ、ルーヴル美術館グラフィック・アート部所蔵)をさす。
レオナルドの「モナ・リザ」と同様に、斬新な四分の三ほど斜向きのポーズですわっている姿が描かれている。ただ、大きな目の女性に描かれている。

一方、1506年に描いた、フランチェスコの商売仲間マルチェッロ・ストロッチの妹マッダレーナ・ストロッチ・ドニの婚礼を描いた絵とは、ラファエロ「マッダレーナ・ドニ」(1505~1506年頃、フィレンツェで描かれた肖像画、板、63×45㎝、フィレンツェ、ピッティ宮殿所蔵)をさす。

ヘイルズ氏の興味深い推測によれば、リサとマッダレーナは同時代の人間で、たぶん知り合いか、あるいは友人だったとする点であろう。
ポーズは、リサと同じ四分の三、斜めに構えている(いわゆる四分の三正面像)が、ただ、服装は全く対照的な二人である。
「花嫁のマッダレーナは、青と赤の派手な衣装でめかし込み、婚礼にふさわしいこれ見よがしのペンダントをを付け、三個の指輪を別々の指にはめ」ている。
ヘイルズ氏は、「リサの衣装は地味だが、典型的な花嫁衣装のマッダレーナよりも、もっと魅力的な、「見る詩」になっている」と評している。

ところで、衣服についてはスカイエレーズ氏は、次のように解説していた。
たしかに装いが控えめなのは一目瞭然だが、ニスが衣服をくすませ、色彩群を均一にし、コントラストを弱めている点にも注意を要するとする。
サフランイエローの袖は、濃い色の衣装からもっと浮き上がって見えていたはずである。
また、色こそ暗いものの、大きく開いた胸元は、金糸の刺繍の巧みな組み合わせ模様で飾られている点にも注目する必要がある。
(この図柄は、レオナルドが考案したものらしい。「結び目」と題する版画(1497~1500年頃、25×20㎝、ミラノ、アンブロジアーナ美術館)に近いものとされる)

この肖像画に描かれた服装は、1502年頃にイタリアを席巻していたスペイン風ファッションと推測されている。反物商売のフランチェスコ・デル・ジョコンドがその流行を知らないはずはない。
この衣装が地味であるのは、モデルの外観より、むしろ心の内側を描きだすことにレオナルドが固執していたことの表れであると、スカイエレーズ氏は解している。

スカイエレーズ氏は、ヴェールについても、喪の印であると考える必要もないと強調している。「モナリザ」の軽いヴェールは、おろした髪をまとめるためで、まったく飾りがつけられていない。
この点は次の作品のヴェールとそれほど違わないという。
〇レオナルド「チェチリア・ガレラーニと推定される肖像画」(通称、「白貂を抱く貴婦人」)
(1490年頃、ミラノで描かれた肖像画、板[クルミ]、55×40㎝、クラクフ、ツァルトリスキー美術館所蔵)
〇ラファエロ「マッダレーナ・ドニ」
(1505~1506年頃、フィレンツェで描かれた肖像画、板、63×45㎝、フィレンツェ、ピッティ宮殿所蔵)
これらふたりの女性が喪に服しているといった人は、かつてひとりとしていない。このふたりのヴェールは、おそらく貞淑で信心深い婦人が聖母マリアにあやかるという、ごく一般的な装いである。
こうした装いは、たとえば、15世紀から16世紀にかけてのフィレンツェで描かれた肖像画にもみられる。
〇ドメニコ・ギルランダイヨ(1449年~1494年頃)
「娘の肖像」
(1485~1490年頃、灰緑色に染めた紙に金属の筆、白のグアッシュ、32.6×25.4㎝、フィレンツェ、ウフィッツィ美術館デッサン室)
〇ロレンツォ・ディ・クレディ(1456あるいは1460年頃~1537年)
「ジネヴラ・ディ・ジョヴァンニ・ディ・ニッコーロと推定される肖像画」
(1490年頃、板、59×40cm、ニューヨーク、メトロポリタン美術館[リチャード・デ・ウルフ・ブリクシー遺贈])

子供が急死したのは1499年なのに、1503年に注文された肖像画で、まだ喪に服しているのは、遅すぎるとスカイエレーズ氏は、フランク・ツェルナー氏の見解に同意している。さらに、そのような悲痛な事情で描かれる肖像画に、どうして微笑みがこれほど大きな意味をもって描かれているのか、説明がつかなくなるとも付言している。
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナ・リザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、53頁~54頁)


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≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その3


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モナリザの真実―ルーヴル美術館公式コレクション


また、サスーン氏は、リサとともに、マッダレーナ・ストロッツィ・ドーニについて、次のように解説していた。

バッティステロ・ディ・サン・ジョバンニの登録簿には、1479年6月15日火曜日に、フィレンツェで生まれたとある。彼女の家族は金持ちではないが、小貴族に属していた。彼女の父親アントンマリアは、彼女のありうる持参金を申告することをすべての住民と同じく、法的に命じられていたが、彼女は何も持っていないと答えた。16歳でリザは、19歳年上で2度(ママ)男やもめになったある男性と結婚した。彼は、フランチェスコ・ディ・バルトロメオ・ディ・ザノービ・デル・ジョコンドという名で、フィレンツェの名士であった。
その時までに、彼女の父親は、何とか手ごろな持参金170フローリンを工面していた。これはマッダレーナ・ストロッツィ・ドーニ(1506年にラファエロが「モナ・リザ」とよく似たポーズで描いた肖像画で有名)8分の1の額にすぎなかった。ただ、マッダレーナは、フィレンツェで最大級の家柄の一人であるストロッツィ家の出身で、同等の大きな家柄であるドーニ家に嫁いだのだが。
当時、リザの持参金は、その社会的地位としておそらく平均的なものであった。レオナルドがリザを描き始めた時までに、リザはもう3人の子供を産んだことがあった。その3人のうちの1人は娘で、1499年に亡くなっていた。

英文には次のようにある。
 Who was Lisa Gherardini? The registry of the Battistero di San
Giovanni confirms she was born in Florence, on Tuesday, 15 June
1479. Her family, though not rich, belonged to the petty nobility.
Her father Antonmaria, legally required like all residents to
declare the amount of her eventual dowry, replied that she had
none. At sixteen Lisa was married to a man nineteen years older
and twice widowed : Francesco di Bartolomeo di Zanobi del
Giocondo, a Florentine notable. By then her father had managed
to assemble a reasonable dowry, 170 florins. This was only one-
eighth that of Maddalena Strozzi Doni (celebrated in a similar
pose by Raphael in 1506) ― but Maddalena came from one of the
richest families in Florence, the Strozzi, and was marrying into an
equally grand family, the Doni. Lisa’s dowry, then, was probably
average for one of her social standing. By the time Leonardo had
started painting her she had already had three children, one of
whom, a girl, had died in 1499.
(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002. pp.22-23.)

【Donald Sassoon, Mona Lisa : The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishersはこちらから】

Mona Lisa: The History of the World's Most Famous Painting (Story of the Best-Known Painting in the World)



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