(2023年2月19日投稿)
【はじめに】
今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
今回は、本論の次の各章の内容である。
●第6章 紙の出現で書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
●第7章 書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
●なお、結論の「第1章 書からみた中国史の時代区分への一考察」(401頁~405頁)の関連した部分も含む。
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。
【石川九楊『中国書史』はこちらから】
中国書史
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論
序章 書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
一、甲骨文――天からの文字
二、殷周金文――言葉への回路
三、列国正書体金文――天への文字
四、篆書――初代政治文字
五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
一、草書――地の果ての文字
二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
四、雑体書――閉塞下での畸型
五、狂草――筆蝕は発狂する
六、顔真卿――楷書という名の草書
七、蘇軾――隠れ古法主義者
八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
一、祝允明・徐渭――角度の深化
二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
三、朱耷・金農――無限折法の成立
四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
五、まとめ――擬古的結語
本論
第1章 天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章 列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章 象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章 波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章 石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章 紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章 書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘稿」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現
結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
〇第6章 紙の出現で書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
・石川九楊氏の「書の歴史」の捉え方
・王羲之の書の革命
・石と紙との争闘史
〇第7章 書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
・狂草論―懐素の「自叙帖」に関連して
・六朝代から初唐代への転移の構造について
・二折法から三折法へ
・黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」の革命
第6章紙の出現で書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
石川九楊氏の「書の歴史」の捉え方
書の歴史を大きな枠組みでとらえれば、書の歴史は、「石・鑿・影」の関係に成立していた書を、どのように、「紙・筆・墨」の表現の中に組み込むのかの歴史であった、と石川氏は捉えている。
「石・鑿・影」という場合、石というものは、亀甲・獣骨・金属にまで拡大して、その比喩ととらえ、鑿というものを、金属に鋳込むことまでを含めて考えれば、誕生の時から、紀元頃までの一千数百年の書の歴史は、石に鑿で文字を刻み込み、その刻り痕いわば文字の「影」を読む「石・鑿・影」の歴史であったという。「影」とは、光の届かぬ、刻られた跡の比喩である。
亀甲や獣骨、石に言葉を刻り、金属に刻り込んだ跡こそが書であった。それゆえ、「石・鑿・影」の書の時代の後に、紀元頃から、「紙・筆・墨」の歴史が始まる。
書の歴史においては、必ずしも「紙・筆・墨」は絶対ではなく、書が「紙・筆・墨」の三者の関係に成り立っていることは、ある時期からの歴史的事実である。ある時期とは、最も早くは紀元頃、中ほどをとれば六朝期あるいは初唐代、最も遅くは宋代ということになる。
そして紀元350年頃から650年頃まで、「石・鑿・影」と「紙・筆・墨」の対立、抗争の時代があり、ついに650年頃、初唐太宗皇帝の時代の、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」、褚遂良の「雁塔聖教序」の成立によって、「紙・筆・墨」が「石・鑿・影」に勝利し、紀元1100年頃から完全に「紙・筆・墨」の時代に入った。
さらに、明末1600年代の黄道周、張瑞図、倪元璐、王鐸、傅山、許友等の紙を石碑に見たてた、いわゆる長条幅の時代、1700年代から1800年代の金農、鄭燮、鄧石如、何紹基、趙之謙等の紙の上に石文字たる篆書や隷書の踊る碑学の時代、いずれも「紙・筆・墨」の中に忍び込んだ「石・鑿・影」が演出した世界であると理解している。
(石川、1996年、90頁~91頁、97頁)
王羲之の書の革命
王羲之の書のもつ大きな意味は、その空罫の筋を無視することによって、簡の形、大きさのもつ意味を無力化することによって、紙幅、大まかに言えば一尺幅(それゆえ手紙を尺牘[せきとく]と呼ぶ)を超えることはなかったけれども、左右の横幅五分を超えて書字することによって、抽象的表現の場へと紙を解放したことにもあった、と石川氏はいう。
解放された、抽象的表現の場で、竹簡や木簡上に生まれた篆書や隷書の速写体である章草は、上下、左右、斜めに求心・遠心する構造と、上下の文字がしばしば連続する構造からなる草書体を生んだ。それが王羲之の草書の意味である。
その点で、紙が発明されても、簡の強い呪縛のあるうちは真の意味では存在しなかった表現空間としての紙の発見が、王羲之の草書の書には同伴したのである。簡の比喩である筋をもつ用紙を用い(それゆえ正統的である)、かつその紙の筋を無視して書字した(それゆえに真に草書体である)ところに、王羲之の書の革命があった、と石川氏はみる。
(石川、1996年、94頁)
石と紙との争闘史
中国書史は、石と紙との争闘史とも描き出すことができるとする。
つまり石を刻る刻蝕が紙に書く筆触を生み、その深層刻蝕と表層筆触の争闘史が六朝時代から宋代までの歴史であり、とりわけ筆触が刻蝕を完全に呑み込んで、筆蝕と三折法と楷書体を完成させる初唐代までが、最も激しい争闘の渦中であった。
一方、日本の書史は、この石の時代を経験せずに、ほぼ紙の時代移行後にやっと書史に参加したので、明治期に入り、中国の碑学の石刻文字に触れるまで、本格的な石の書を知ることはなく、書史の本質に触れることもなかったという。
(石川、1996年、97頁)
「紙・筆・墨」に誕生した、左右、上下、斜め、四方、八方に遠心・求心し、上下の文字が繋がり離れる王羲之型草書が、「石・鑿・影」の構造をその内に組み込もうとして出来上がったのが、初唐代、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」と褚遂良の「雁塔聖教序」である。
草書体は、石の上に成立する正書体である隷書体の位置を奪おうとして、行書体を生んだ。いわばその行書体を石に彫り込むことによって生まれたのが、北魏六朝時代の造像記、墓誌銘等、石の文字である。鄭道昭の一群の摩崖碑、また「高貞碑」「龍門造像題記」等、いずれも石に刻られることによって、生まれた書である。
しかし肉筆の行書は、石に刻られることによって、起筆、終筆、転折、撥ね、はらいは三角の圭角を見せることになった。石の上のその圭角を再び肉筆に吸収して生まれたのが、初唐代の見事な楷書であったという。
(石川、1996年、96頁~97頁)
第7章 書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
狂草論―懐素の「自叙帖」に関連して
虞世南の「孔子廟堂碑」、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)、さらには唐太宗の「晋祠銘」(646年)、孫過庭の「書譜」(687年)を経た後、700年代に入ると、張旭の「古詩四帖」「自言帖」(714年)、懐素の「自叙帖」(777年)などいわゆる狂草が誕生する。
狂草につきまとうエピソードは三つであるという。ひとつは、酔書――酒を飲んで、酔っぱらって大声をあげて書いた、つまり常態でない書き方をしたということである。第二には、疾書――速いスピードで書いたこと。第三には、壁書――壁に書いたということである。現在我々が目にすることのできる「古詩四帖」「自言帖」や「自叙帖」は、酔書、疾書、壁書という感じからは遠いが、このエピソードと関連づけて考えると、王羲之の草書の中の四方・八方性、つまり求心・遠心の構造の拡張という意味が覗けるという。
壁書に込められた意味は、抽象的な表現空間である紙をさらに拡大した大領域に広げるということである。尺牘、つまり一尺幅の紙面から、さらに大規模な場へと拡張する。次に速く書くということに込められた意味は、力を内に秘めるのではなく、力の外部への発現と発露であろう。力を拡張することによって、王羲之型草書以上にさらに力を遠く四方、八方へ散らすのである。そして酔書に込められた意味も、統制、統御を外れて、無法的、拡散的に書字するということである、と説明している。
場の拡張、力の拡散は、張旭「自言帖」の「道」や「観」や「神」や「耳」字において末筆を上下に長く伸ばす例に容易に確認することができる。また懐素の「自叙帖」では、書き進むに従って、筆蝕が波のうねりのように高揚し、また沈静し、やがて終盤に向けての絶頂へ向かって波のように押し上がっていく交響楽のような展開と、時おり出現する極端に太く強い筆蝕も、紙面の拡張の姿であるという。紙の上での場の拡張としての文字の大小例は、「自叙帖」から「張顚曾不面。許御史瑤云、志在新」の部分を図版として掲げている。
このように行も列も打ち破って、四方・八方性、力の求心・遠心性をいっそう拡張し、この時紙面は一尺幅の書字空間であることをやめる。さらに、狂草をもたらした理由については、草書体の三折法化を挙げている。文字を次々と書いていけば連続体が自動的に生まれるわけではない。孫過庭の「書譜」に連綿連続が存在しないように、「トン・スー」「トン・スー」の二折法構造においては基本的には連綿が生じにくい。
一方、三折法では二つの字画の間が筆脈でつながる。その筆脈が形をとって現れたものが連綿である。つまり三折法の誕生とともに、筆脈が生じ、連綿が生じ次々と文字が際限なく連続することが可能になり、狂草も生じた、と石川氏は捉えている。
(石川、1996年、100頁~102頁)
書史の750年
<三過折の逆襲>
「書」とは「書きぶり」とも呼ぶべき筆蝕に支えられた言葉そのものを指す。
草書体は初唐代に楷書体を産み落とすことによって、単なる貴族の速書き体である域を脱して、普遍書体と化した。しかし歴史というのはうまくできているもので、次いで草書が生んだ子である楷書体によって、草書は自らの姿を砕かれることになる。それが初唐代650年から宋代1100年頃までの書の歴史である。
楷書体=三折法成立後の書の歴史は、楷書成立の過程で獲得した三折法が逆に草書の中に侵入して、草書体を根こそぎ組み替え、従来とは異なった草書に変えた歴史である。
草書が硬書化したものが楷書であるが、その楷書が再び軟書化して草書と化す。その時もはや出発点となった王羲之型の第一の草書とは異なった第二の草書が出来上がるのである。第一の草書として王羲之の「喪乱帖」、第二の草書として黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」を想定すれば、書の歴史上最も重要なこの1100年間の歴史像はくっきりと見えてくる、と石川氏は捉えている。
(石川、1996年、100頁)
六朝代から初唐代への転移の構造について
六朝代から初唐代への転移の構造について図式的に言えば、六朝代の草書=王羲之=二折法=筆触=自然書法から、初唐代の楷書=三折法=筆蝕=基準書法へということになる、と石川氏はいう。
中国書史の750年、つまり六朝代から宋代までの書の歴史(350年頃から1100年頃まで)について、代表的な作品としては、次の8作品を挙げている。
1 王羲之の「喪乱帖」
2 智永の「真草千字文」
3 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
4 褚遂良の「雁塔聖教序」
5 孫過庭の「書譜」
6 張旭の「古詩四帖」(狂草)
7 顔真卿の「顔勤礼碑」
8 黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」
とりわけ、初唐代楷書成立期の頂上劇としては、
632年 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
646年 唐太宗の「晋祠銘」(草書)
653年 褚遂良の「雁塔聖教序」を挙げて、
646年頃(650年頃、649年に太宗の死)に頂上に達したものと考えている
本書の「書からみた中国史の時代区分への一考察」(401頁~405頁)によれば、649年の太宗皇帝の死を境に、中国史は前史と後史に二分される、と石川氏は考えている。この649年の太宗の死は、初唐代楷書のうち、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)と、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)との間に位置する。この両者間の20年余りの間に書史の劇的な頂点が想定できるという。「九成宮醴泉銘」は頂上以前であり、「雁塔聖教序」は頂上以降であるとみる。
「雁塔聖教序」は「九成宮醴泉銘」と形態上は似ているが、筆蝕が動きを見せる点においては、むしろ顔真卿の楷書に近いものと捉えている。楷書の成立は「三過折の獲得」ではあるのだが、「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」は、その三過折の意味を極限まで減じることによって、成立させているという。
書の表出で言えば、筆触時代と筆蝕時代の分岐点であり、歴史的にも匿名の時代と実名の時代の分岐であるともいう。
太宗の死が中国全史を以前と以後に分ける分水嶺を形成する、と石川氏は試論している。昭陵に「蘭亭序」が眠るという伝説は、その意味においても興味深く、比喩的に言えば太宗の昭陵に中国の前半史は埋まっているという。
また、宋代以降の書史としては、
1100年頃 黄庭堅の「松風閣詩巻」
1650年頃 傳山の明末連綿草
1750年頃 金農の「昔邪之盧詩」を挙げて、
1650年頃に頂上を求めている
(石川、1996年、99頁、403頁)
二折法から三折法へ
このように、楷書、行書、草書がセットで存在するものだと考えられる書の構造は、西暦350年頃の中国六朝期から、宋代1100年頃までの750年くらいをかけてゆっくり出来上がったもの、と石川氏は考えている。350年頃から650年頃までが前期で、比喩的に名づければ、「王羲之の時代」である。650年頃から1100年頃までが後期で、「脱王羲之の時代」と名づけている。
350年頃から650年頃までが、いわゆる「古法」の時代である。「古法」とは王羲之書法と言ってもよい。書字について言えば、「トン」とおさえて「スー」と引くか、「スー」と入って「グー」とおさえる二折法である。この二折法が、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)などによって、三折法へと変わる。つまり、「トン・スー・トン」という方式で、起筆、送筆、終筆、転折、撥ね、はらいが構造的に変わる。唐代に入って、いわゆる「永字八法」が成立し、書法がやかましくなる。こうして「唐代の書は『法』である」と言われるようになる。
(石川、1996年、98頁~100頁、196頁、403頁)
「永字八法」の起源については、後漢代に蔡邕(さいよう)が創定したと言われるが、唐代あたりまで下ると考えるのが順当であろう、と石川氏は考えている。
(石川、1996年、263頁)。
黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」の革命
黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」は、まったく革命的な書である、と石川氏は理解している。
「李白憶旧遊詩巻」は、書字領域のすみずみまでを三折法=三過折が覆い、その仕上げの位置にある。この時、草書が楷書に行き着くまでの過程であみ出し、定式化した三折法が草書体をも覆った。
「李白憶旧遊詩巻」は、王羲之の「喪乱帖」から唐太宗の「晋祠銘」までの書はもとより、張旭の「古詩四帖」や「自言帖」、懐素の「自叙帖」等のいわゆる狂草ともまったく違った顔つきをしていると説明している。
その秘密は、「起、送、終筆」を、さらに細かく「起起、起送、起終、送起、送送、送終、終起、終送、終終」の九つの部品で描き出した点にある。
(実際的には、起筆の終筆と送筆の起筆、送筆の終筆と終筆の起筆が一体化した七折法等で現れるとする)
ちなみに、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」の成立を少し下る687年に、孫過庭の「書譜」という王羲之の草書にそっくりの草書の作がある。この孫過庭の「書譜」という草書は、アルカイックな二折法の書にすぎなかった。つまり運筆上の偶然を除いて三折法をとり込むことができず、王羲之時代の毛筆書字をなぞり、二折法主体で描かれつづけた。
これは、王羲之型草書=紙の完全な勝利の下での勝利の喜びに満ちあふれた、晴々とした王羲之型草書の姿であり、かつ、その最後の姿であった。また、新たに登場した新草書に対する正統性の主張=反動とも言えるものであった。「書譜」は、未だ紙=筆の勝利の余韻の残っている書であった。
ところが、「李白憶旧遊詩巻」は、隅から隅まで完璧な三過折で成り立つ草書である。毛筆手書きに適した二折法の姿を晒すことのある張旭までの草書の姿とまったく違っていた。三折法を呑み込んだ最尖端の草書が、「李白憶旧遊詩巻」である。こうして三折法は、逆に草書の中に構造的に侵入した。三折法が草書をとらえるために、約450年を要した。
書の歴史の中で、最も密度の濃い時期が六朝期(350年頃)から初唐代(650年頃)を経て、宋代(1100年頃)に至る時期である。
この時期は、草書が楷書を生み、その楷書が再び草書を従来とはまったく異なった形に組み替えた750年と言える。
ここに三折法を書字原理とし、楷書、行書、草書を一セットとする書が完全な姿で生まれた。毛筆で書くことは鑿で刻ることのすべてを呑み尽くしたのだ。
書の歴史は、この750年間が抜群に面白く、かつ、その後の時代の書の展開のモデルともなる。
(石川、1996年、100頁、103頁~104頁)。
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