歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』を読んで≫

2022-04-24 18:54:46 | 私のブック・レポート
≪朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』を読んで≫
(2022年4月24日投稿)

【はじめに】


 先日、ある集まりで、名刺をいただいた。建設コンサルタントをしておられ、常務であるW氏である。フェルメールが好きで、大阪まで展示を見にも行かれたという。
 以前、ブログでルーヴル美術館を紹介した際に、フェルメール関連の本を読んだことがあった。今回は、フェルメール好きの生物学者で知られる福岡伸一氏の本を紹介してみたい。
〇朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年




【朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版はこちらから】
朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版








〇朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年
【目次】
まえがき
1 フェルメールのモデルを読む
 映画『真珠の耳飾りの少女』をどう観るか?
 ≪地理学者≫のモデルはレーウェンフックか?
 ≪天文学者≫のモデルはスピノザか?

2 フェルメールの謎を読む
 フェルメールが生きた時代のオランダ
 風景画はたった2点?
 アムステルダムで行われたフェルメール作品21点のカタログに書かれた値段(1696年5月16日)
 第3の「デルフトの絵」があった?
 フェルメールは「寡作」の画家か?
 日本人が「フェルメール好き」の理由とは?
 
3 フェルメールの技を読む
 「昆虫少年」、顕微鏡の父レーウェンフックに憧れる
 若き生物学者、フェルメールに癒される
 「光の魔術師」は「カメラ・オブスクーラ」を利用したか?
 フェルメールの色彩
 フェルメールのファッション

4 盗まれたフェルメールの行方を読む
 本の執筆をきっかけにフェルメールに夢中になる
 行方不明の≪合奏≫がもうすぐ見つかる!?

5 フェルメール・フィーバーを読む
 「再発見」されたフェルメール
 1995年、第2次「フェルメール・フィーバー」始まる
 美術の門外漢・モンティアスの功績
 
6 フェルメールの真贋を読む
 37点or32点? 揺れる「真作」の点数
 メーヘレン贋作事件の影響
 今も鑑定に持ち込まれる絵と個人コレクターの存在

7 フェルメールの旅
 フェルメール全作品マップ
 全点踏破の旅の“難所”
 フェルメールの街・デルフト
 時間旅行の中で観るフェルメール
あとがき
主要参考文献




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・著者のプロフィール
・フェルメール作品21点のカタログに書かれた値段
・「光の魔術師」は「カメラ・オブスクーラ」を利用したか?
・フェルメールの色彩
・画商のトレ=ビュルガーについて
・経済史学者モンティアスのフェルメール研究の功績
・フェルメール全作品マップ
・全点踏破の旅の“難所”
・オランダという国
・フェルメールの街・デルフト
・フェルメール最大の謎~福岡伸一氏の「あとがき」より
・おわりに―感想とコメント








著者のプロフィール


【朽木ゆり子】
 ノンフィクション作家。東京生まれ。エスクァイア日本版副編集長を経て、1994年にニューヨーク移住。
 著作に『盗まれたフェルメール』『フェルメール全点踏破の旅』

【福岡伸一】
 生物学者。1959年東京生まれ。京都大学卒。青山学院大学教授。
 著作に『生物と無生物のあいだ』『動的平衡』『フェルメール 光の王国』
 
 『フェルメール 光の王国』について
 「フェルメールの絵を17世紀から20世紀にかけてのさまざまな科学者とその背後にある大きな生命科学思想の流れと結びつけて、それを鋭い観察力とチャーミングな文章で包んだユニークな本」と朽木ゆり子氏は評している(3頁~4頁)
 生命の本質が、絶え間ない移ろいの中のバランス、つまり「動的平衡」にあり、フェルメールの絵は光や生命のその移ろいの一瞬を捉えて表現したものであるという。
 芸術家と科学者は、光、生命、時間などの本質を切り取ってみせるという意味で、同じコインの表と裏なのだと、朽木ゆり子氏は「まえがき」で記している。(4頁)

福岡伸一氏がフェルメールに夢中になったきっかけ


・福岡伸一氏は生物学者である。
・生物学者を志す前は、虫が大好きな昆虫少年だったという。
 きれいな蝶々などから、自然が作り出した「きれいな色合い」に魅せられたそうだ。
・そして『世界ノンフィクション全集2』(筑摩書房、1960年)の中の『微生物の狩人』という本に出あう。これは、歴史の微生物を発見した人たちの人物列伝を書いた名著である。
 この偉人列伝の中に、レーウェンフックが登場する。17世紀オランダのデルフトに生まれ、顕微鏡を最初に手作りした人である。
 レーウェンフックはプロの研究者ではなくて、毛織物職人の息子に生まれた商人で、アマチュアとして微生物を観察し、赤血球や白血球などを発見した人である(「微生物学の父」とも称せられる)。福岡伸一氏はいたく感銘を受けた。
・その後、大学時代の1984年前後に“ニューアカブーム”が起き、浅田彰氏を知る。フェルメールに特別な興味を持ったのは、80年代初期に読んだ、浅田彰『ヘルメスの音楽』(筑摩書房、1985年)という本がきっかけだという。
 17世紀に生きたフェルメールが「カメラ・オブスクーラ」という機械を使って遠近法を研究していたことや、顕微鏡の祖・レーウェンフックも同じ、オランダ・デルフト出身の同時代人だから、彼との交流で光の描き方が独特になり、「光の魔術師」と言われるようになったのでは?といった、仮説を披露した。

・80年代後半に、ニューヨークのロックフェラー大学に研究留学したとき、「フリック・コレクション」という美術館に入って、そこでフェルメールの作品と出会い、「とても美しい」と衝撃を受けたそうだ。
フリック・コレクションには、≪女と召使≫≪兵士と笑う女≫≪稽古の中断≫がある。
 これら3点ものフェルメール作品が収蔵されている。
(フリック自身の遺言で、コレクションはすべて原則的に門外不出。だから、フリックの3点はニューヨークを訪れないと絶対に観られない貴重な作品群)
※フリック・コレクションはガラスを入れていないから、とても身近に作品と相対できる貴重な美術館である。福岡氏はそこで本物のフェルメールとはじめて出会ったそうだ。

〇福岡氏は、フェルメールの配色、色の散らばり方が原体験で知っているきれいな色の配色に、すっとなじむ感じがしたそうだ。それでフェルメールに魅了された。
〇そして、フェルメールはメトロポリタン美術館にもあると知って、その5点を観に行った。
(フェルメール37点のうちの8点は観た、ということになる。それでは、フェルメールをコンプリートしよう、と決意したそうだ。37分の8をすでに制覇したなら、もうやるしかないと。)
(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、62頁~75頁)

福岡伸一氏は小林秀雄の評論に反対


「メーヘレン贋作事件の影響」(159頁~169頁)の中で、福岡氏は、小林秀雄の有名な言葉に言及している。
 すなわち、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」(「文学界」1942年4月号『当麻』より)

福岡氏は、いまだに小林秀雄が何を言っているか、よくわからないとする。
 むしろ美しい花などない。あらかじめ美しい花なんてない。花を見たときに美しいと思うと、主張している。
 自分の思う脳内作用として美しさというのはあるわけで、絵を観るときだって、その絵が自分の中に入ってくるわけではない。
 絵に当たった光が自分に反射してくるものを見ているだけである。だから、その場その場で自分の中につくられるものが、絵を観るということであると理解している。
 福岡氏の絵画観によれば、絵を観たときに、自分の頭の中に現れた色や構図の美しさは曖昧なものである。美しい絵があるというより、絵の美しさを感じ取る、という感覚が自分の心の内部に立ち現れる。(つまり、絵の美しさは心の内部に立ち現れる)
それが絵画鑑賞の本質ではないかと考えている。
(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、167頁~168頁)

フェルメール作品21点のカタログに書かれた値段


 ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632―1675年)は、ネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)のデルフト出身の画家である。
 アムステルダムで行われたフェルメール作品21点のカタログに書かれた値段
(1696年5月16日)がわかるという。

【アムステルダムで行われたフェルメール作品21点のカタログに書かれた値段(1696年5月16日)】
出品NO. タイトル 落札金額(ギルダー)
1 "金をはかる若い女性
箱入り デルフトのJ.ファン・デル・メールによる
技巧に富んで生き生きとした描きぶり" 155
2 "牛乳を注ぐ女中
非常に優れた作品 同人作" 175
3 "さまざまな品物に囲まれた室内のフェルメールの肖像
同人作の類例のない美しい作品" 45
4 "ギターを弾く若い女性
同人作 大変よい出来栄え" 70
5 "向こうに見える彫像のある部屋で手を洗う男
芸術的で珍しい作品 同人作" 95
6 "室内でクラヴサンを弾く若い女性と耳を傾ける紳士
同人作" 80
7 "若い女と手紙を持ってきた女中
同人作" 70
8 "酩酊してテーブルで眠る女中
同人作" 62
9 "室内で歓談する人々
同人作の生き生きとした良品" 73
10 "室内で音楽を演奏する紳士と若い女性
同人作" 81
11 "兵士と笑う若い女
非常に美しい 同人作" 44.10
12 "刺繍をする若い女
同人作" 28
31 "南側から見たデルフト市街の展望
デルフトのJ・ファン・デル・メール作" 200
32 "デルフトの1軒の家の眺め
同人作" 72.10
33 "デルフトの数軒の家の眺め
同人作" 48
35 "書き物をする若い女性
大変よい出来栄え 同人作" 63
36 "着飾っている若い女性
大変美しい出来栄え 同人作" 30
37 "クラヴサンを弾く女性
同人作" 42
38 "古代風の衣装を着けたトローニー
類例のない芸術的な出来栄え 同人作" 36
39 さらにもう1点のフェルメール 17
40 "上の対作品
同人作" 17
"出典 John Michael Montias, Vermeer and His Milieu : A Web of
Social History, Princeton University Press, Princeton, New Jersey, 1989, pp.363-364
(出品NO.が通し番号でないのは、他の画家の作品が混じっているため)"

(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、42頁~43頁)



「光の魔術師」は「カメラ・オブスクーラ」を利用したか?


「「光の魔術師」は「カメラ・オブスクーラ」を利用したか?」(76頁~86頁)には、興味深いことが語られている。

・カメラ・オブスクーラとは、ピンホール(針穴)写真機に似ている箱型の光学装置のことである。
 レンズを利用して集光し、反対側のすりガラスまたは暗くした壁に、風景や部屋の配置や遠近を正確に2次元平面に写し取ることができる機械である。
⇒映し出された像の輪郭がぼやけるのが特徴で、この曖昧さがかえってニュアンスをもたらし、とても良い雰囲気に見えるようだ。
(フェルメール作品に感じる奥行きの深さに通じる美しさがあるという)
〇映画『真珠の耳飾りの少女』でも、カメラ・オブスクーラにはじめて触れた少女が驚愕しているシーンがある。
(17世紀の人にとって、この機械は極めて斬新でユニークなものだったであろう)
・フェルメールを「光の天才画家」と思っている人たちは、「フェルメールは機械を使うなんて、そんなずるいことはしていない」と思いたいだろうが、福岡伸一氏は、光学的な当時の最先端のテクノロジーを駆使して、何とかリアルに見えるためにはどうしたらいいかと工夫して、方法を編みだそうとしていたのではないかと、想像している。
(つまり、テクノロジーの可能性を否定するのは一種の偶像崇拝だという)
⇒カメラ・オブスクーラの「obscura」は「暗い」という意味であるが、小さな薄暗い小部屋に入って、3次元の世界を観るという体験は新しい「視覚体験」で、フェルメールもきっと興奮したと考えている。

※ちょうど当時、レンズ磨き職人が職能化し、専門化していくということがあったそうだ。
 カメラ・オブスクーラに付いたレンズは現代のカメラに付いているようなレンズと同じような、小さな凸レンズだった。
 その一方で、レーウェンフックが顕微鏡に付けたレンズは、完全に球形のレンズで300倍程度の倍率がもう出ていたそうだ。

※ただ、フェルメールの遺品リストにカメラ・オブスクーラは、残念ながら入っていないと、朽木ゆり子氏は言い添えている。
 もしフェルメールがカメラ・オブスクーラを使っていたとしても、誰かから借りたかもしれない
 ちなみに、シュヴァリエの小説では、例によって、レーウェンフックが貸したことになっている。
 しかし、福岡伸一氏の推測を裏付ける証拠は、いくつかあるという。
 それは、ステッドマンや経済史学者ジョン・マイケル・モンティアス(“執念の身元調査人”で、フェルメール研究を1歩も2歩も進めた「フェルメール・マニア」と形容されている学者)が突き止めている。

⇒フェルメールの絵の中にはピンを打った穴が残っている。
 ピンがささっていた点が、遠近法における消失点だった。
 そしてピン、つまり針に通した糸にチョークの粉をまぶして、消失線が画面の端と交わる場所まで延ばし、チョークの薄い線を描き、それでタイルや窓枠などの遠近を描いていったと考えられている。

〇そういう事実を重くみれば、天才だからさらさらと描いたというファンタジーでフェルメールを捉えるより、クラフトマンシップがあって、ディテールにこだわった科学者、実験者と捉えるほうが、福岡伸一氏は自然だと考えている。
※ちなみに、フェルメールの科学者、実験者としての努力の証を突き止めたモンティアスやステッドマンは、ふたりとも美術史家ではない。
モンティアスは経済史学者で、ステッドマンは建築家である。
ふたりとも美術に関してはアマチュアである(ふたりは大いなるオタクと福岡氏は称している)

(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、76頁~86頁)

フェルメールの色彩


「フェルメールの色彩」(86頁~100頁)は、今回の対談でとりわけ面白い内容である。
フェルメールの魅力を語るうえで、欠かせないのが「色」である。
①「フェルメール・ブルー」
 「フェルメール・ブルー」と呼ばれる「青」の効かせ方は、やはり特徴的である。
〇≪青いターバンの女≫という別名もある≪真珠の耳飾りの少女≫
(口絵あり 1665年頃、油彩・カンヴァス、44.5×39㎝、マウリッツハイス美術館蔵)
〇≪手紙を読む青衣の女≫
〇≪牛乳を注ぐ女≫
(口絵あり 1657―58年頃、油彩・カンヴァス、45.4×41㎝、アムステルダム国立美術館蔵)
〇≪絵画芸術≫~フェルメールが生前、最後まで手放さなかった
※高価なラピスラズリを使って「青」を追究したフェルメールは、とりわけ「色」に強い関心を持っていた。
・もちろん、ラピスラズリを砕き、油で溶いて青をつくっていたのは、フェルメールだけではないけれど、フェルメールはこの青を「フェルメール・ブルー」以外の、たとえば、壁などにも使っている。
 つまり、一見、ブルーに見えないところに、光を表現するために隠し味として使っているのが特徴的である。
(とても高価な絵の具を、言ってみれば、あえて使う必要のないところにまで使っている。 
 それができたのは、やはり潤沢に資金があったからだろうし、なんとしても自分の思う通りの色を出したかったのだろう。)

②「フェルメール・イエロー」
・「フェルメール・ブルー」とともに、「フェルメール・イエロー」にも朽木氏は注目している。
〇≪牛乳を注ぐ女≫
〇≪手紙を書く女≫
〇≪真珠の首飾りの少女≫~朽木氏の「ベスト・フェルメール」
(口絵あり 1663―64年頃、油彩・カンヴァス、51.2×45.1㎝、ベルリン国立美術館蔵)

・これらの作品にふんだんに使われている「黄色」も実に深淵なイエローで、とても魅力的である。
 黄色もいろいろな黄色がある。
 たとえば、黄色い上着をよく見てみると、全部をベタッと黄色で塗っていない。ほんの少し、金色や褐色が混ざっている。
⇒そうした色彩のグラデーションを上手く使って黄色を表現するところは、さすがにフェルメールである。

※映画『真珠の耳飾りの少女』では、牛にマンゴーを食べさせて黄色い尿から原料をとっていたように描かれていた。
(黄色いカロテノイド色素を集めようとしたのだろうか。ミカンを食べすぎると黄色くなる。あれは色素が皮膚に移行して一時的に黄色くなるからである。
 しかし、マンゴーを食べさせた牛の話は、どういう根拠で言っているのか、福岡氏は不明であると語っている。
 それに対して、朽木氏は、当時、インディアン・イエローと呼ばれる顔料は、マンゴーの葉を食べさせた牛の尿を乾かして作ったものだったと付言している。)

〇ところで、フェルメールが色を創りだすさいに、光の粒として扱うことに腐心していたと、福岡氏は推測している。
・フェルメールは人や物に輪郭の線を入れることを拒否した。
 (そんな線は実在しないから)
・線で形を描いてその内部を塗り絵するのではなく、光の粒をドットとしてつなげていって実体を描こうとした。
※福岡氏は、フェルメールに、画家というより科学者的なマインドを持っていたとみる。
 フェルメールは探究心あふれる時代の先駆者であった。
 フェルメールやレーウェンフックたちは、「光の見え方」を追究していた。
 フェルメールが鋭かったのは、光が粒だと感覚的に理解していたということである。
(ずっと後になって、アインシュタインは「光は粒子」と言った)
・たとえば、新聞の印刷も虫眼鏡で見ると、色のドットで構成されている。それでも全体を見ると絵になっている。
 そもそも、たった3色で(甚だしい場合は2色でも)、かなり色が再現できる。
⇒フェルメールは、すでにその点に気がついていて、絵で見ると、光をすごく重層してあって(これもスフマートというのかな)、点々点々って光を作っているという。
 だから、黄色と青を混ぜたら緑になるというような基本だけではなく、あらゆる色が基本的な色で作れることを気がついていたとみる。
(色は粒で作れるということを自覚していた)
※ヤン・ステーンはフェルメールと似たような室内の絵を描いているが、カメラ・オブスクーラを使った形跡がなくて目分量で描いている。

※「フェルメール・ブルー」について
・青というのは光の中では、科学的に言うと1番波長が短く、つまり1番エネルギー的には強い光で、もっと強くなると紫外線という見えない光になって皮膚を焼いてしまうぐらいエネルギーが強くなる。
 その1歩手前の光で、人間にとっては見えるぎりぎりの光である。
・本当は人間の目というのは、光の3原色、赤、緑、青しか見えない。 
 特に赤と緑は、光の波長がすごく近いのに、人間には全然違う色に見えている。
 おそらく、生物学的には、赤が最初に見えるようになって、青が見えるようになって、その2色で世界を見ていたのだが、赤がちょっとだけずれて緑が見えるようになって、その混合でいろいろな色を判断しているという。

〇福岡氏は、フェルメールが青を特別に大事にした理由について、次のように推測している。
⇒自然界には青空や海の青さなど、さまざまなところにすごくきれいな青があるのに、長い間決して取り出せない色だったから。
・青の色素はなかなかなかった。
 ジーンズを染めたりするインディゴなどができてきたけれども、それまでは青は取り出しにくい色だった。
(その昔は異教徒の色でもあったらしい)
・ラピスラズリも、単に砕いただけでは青くならない。
 粉から青だけを取り出す、その抽出方法は、水で溶いて先に沈んできたものを選り分けて上澄みを持ってきて、それを油で溶いて、濾(こ)して、熱する。
 こうした大変な工程を経て、やっとあの特別美しい青になったはずである。
⇒こうした作業は、画家というより、やはり科学者的だと、福岡氏はみる。
 ウルトラマリンという青の成分を抽出してくる特技を持った錬金術師的である。
(おそらく、そうした複雑な工程と方法は、秘密にしていたのではないか。秘儀)
 自然界の中にあるのに取り出せなかった青を取り出せたのは大きな発見であった。
・空とか海みたいにぼんやりした青はあるのに、キュッとクリアな、局所的な青はなかなかなかったから、そんな青があると、とても美しく見える。
※ムラサキツユクサ、青いケシ、青い虫(たとえば、ルリボシカミキリ)
 (とても美しい青色のルリボシカミキリをいくらすりつぶしても青い色は取り出せないそうだ)

※ラピスラズリも顕微鏡で見ると本当は青くない。
⇒鉱物の青さというのは構造色だという。
 細かい結晶が非常にうまく並んでいるせいで、光が入ってくると青い光線だけが整流されてこっちに見えてくる。だから実際は青くない。

・青い色素は本当に限られている。
 ムラサキツユクサとか、青いケシは本当に青いけれども、あれも抽出してきたら赤くなってしまう。
 特殊な条件で花びらの細胞の中に浮かんでいるから青くなるという。
・藍染めのインディゴも最初は全然青くない。その途中ではどす黒い色で空気酸化して、発酵して藍玉にすると青くなる。
※だから、青さを取り出すのは昔からすごく難しくて、色素としての青はなかなかない。
 鉱物の中から青い成分を取り出して、それを使うというのは、今みたいに画材屋さんに行って青い絵の具を買うみたいな簡単なことではなくて、フェルメールのように地道な作業が必要で、とても大変なことだったと、福岡氏は強調している。

※黄色について
 このように考えると、特別美しい黄色も、牛の尿や糞ではなく、鉛や錫といった鉱物から採ってきたものかもしれないという。
・鉱物で作った色は、鉱物の結晶だから、なかなか色褪せない。金属系の色だとすると、鉛錫黄(レッドティンイエロー)という顔料があるそうだ。
 マンゴーから採った色は、酸化して、たちまち色褪せるはず。
※ただ、フェルメールの絵でも、色褪せてしまった部分もある。
 たとえば、≪絵画芸術≫で、歴史の女神クリオに扮した女性がかぶっている月桂樹の冠。
⇒あれは緑色だったはずだが、黄色が飛んだようだ。
 本物を見ると青くすすけた色にしか見えない。
(あの月桂樹の葉は黄色が飛んで、ラピスラズリの青だけが残ったから、あんなふうにくすんで、はげて見えてしまっている)
※洗浄は上に載っているワニス(仮漆)を取って、くすみを取ることしかできないので、洗浄しても、色は戻らない。
※絵の具やキャンバスといった「道具の問題」は時代を表す。
 まだ絵の具はチューブになっていないから、持ち運びが非常に難しい「道具」だった。
 17世紀、当時、画家は家で絵の具作りをしてから、塗るしかなかった。
 だから≪デルフトの眺望≫も室内で描いたはず。まして、高価なラピスラズリを道端で濾すなんて、絶対にしなかっただろう。
(それがチューブ状の絵の具ができて、絵の具も持ち歩けるようになる。つまり、描きたい現場、しかも屋外で描けるようになったのは、19世紀になってから)

(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、86頁~100頁)

画商のトレ=ビュルガーについて


「「再発見」されたフェルメール」(132頁~137頁)において、フェルメール・フィーバーについて解説している。

2012年当時の「フェルメール・フィーバー」は第2次フェルメール・フィーバーであるようだ。
それでは、第1次はいつだったのか?
それは、1866年に画商のトレ=ビュルガーがフェルメールを「再発見」したことによって、美術界が沸き立った「フェルメール・フィーバー」であると、朽木氏は捉えている。

もちろん、現代のような大規模な「フィーバー」ではなかったが、美術の専門家や愛好家の間では「事件」だった。
というのも、フェルメールは存命時、それなりに有名な画家であったし、死後も彼の作品は市場で売り買いされてはいたけれど、美術史上で大きな存在感を示す存在ではなかったからである。
(極端に史料が少なく、今と違って絵画は個人所有の作品が多かったから、なかなか本物を観る機会も少なかった。それで、フェルメールについて大型論考を著そうという専門家がいなかった。)

〇そうした中、フェルメールの魅力に取り憑かれたトレが丹念に調べた。
ヨーロッパ中のフェルメールを探し当てて見て回り、満を持して、1866年に美術雑誌にフェルメールに関する本格的な論文を発表した。
⇒それで、一躍、愛好家の間で注目されるようになった。

〇トレ=ビュルガーはなぜにフェルメールに固執したのか?
この点、彼は17世紀オランダ美術にある種の理想を見ていて、オランダ絵画に憧れていたと、朽木氏はみている。
・トレ=ビュルガーは、フランス人である。
 本名はテオフィール・トレ。
・トレ=ビュルガーについて説明する場合、どうしてもフランス革命に言及しなくてはならない。
 彼は、共和主義者で、バリバリの左翼だった。
⇒それで、王政復古した7月王政時代に亡命し、そのまま国外追放になって、ドイツ風の名前に変えた。
(ちなみに「ビュルガー」はドイツ語で「市民」の意味。
 ビュルガー Bürger=シティズン citizen)

・トレ=ビュルガーはフランスやイタリアの絵画が、人生や理想を「歴史画」で表現する傾向があるのに対し、オランダの風俗画のような、より具体的な絵画を評価した。
⇒だからか、マリー・アントワネットのお抱え画家だったエリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブランなんかが大嫌いだったようだ。
※自由な市民たちを描いたオランダの風俗画が好きだった。
⇒そうした好みの中で、フェルメールに出合い、夢中になったようだ。
 フェルメールの絵は普通の人を描いているにもかかわらず、普通を超越した神秘に到達しているから。
※トレ=ビュルガーが真のフェルメール・マニアで、作品を高く評価していたのは事実である。さらに彼の研究結果や鑑識眼が今日のフェルメール研究に大いに役立っていることも確かである。
 ただ、その一方で、彼は画商だから、絵の売買で儲けるために、ブームを「仕掛けた」と見ることもできるかもしれないそうだ。

<朽木氏のコメント>
・厳密に言えば、「再発見」は誇張であるとおそらく本人も自覚していたにもかかわらず、絵の値段が釣り上がるように派手に「権威づけ」をした。
・さらに、そうなると市場になるべく多くのフェルメール作品が出したほうが儲かるわけであるから、鑑定が甘くなっていった。
⇒ちなみに、後にトレ=ビュルガーが鑑定した73点のうち、49点がフェルメールの作品ではなかった、と専門家たちが判定している。
※しかし、フェルメールの特徴を知り尽していて、今日、真作とされている37点のうちの24点をすでに鑑定していたのだから、すごいと言えばすごい。
(それだけに、49点もの「不正解」を出しているのは、いささか不自然。画商としてのビジネスに勤しんだ結果の「73点」だっただろうと、朽木氏は推察している。)
・この第1次フェルメール・フィーバーのときは、幸いにもお金があれば買えた時期だったので、ブームに乗って買ってみたら、後でハズレくじを引いてしまった人が結構いたことになる。

(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、132頁~137頁)

経済史学者モンティアスのフェルメール研究の功績


「美術の門外漢・モンティアスの功績」(144頁~149頁)において、経済史学者モンティアスについて語っている。
・モンティアスは、イェール大学で教えていた経済史学者である。
 同時に、究極の「フェルメール・マニア」で多くの史料を発掘した人である。
⇒未発掘の貴重な史料を次々と掘り起こし、フェルメール周辺の「経済状況」から、謎に包まれていたフェルメールの仕事ぶりや生活の一端を明らかにした。
〇1989年にモンティアスが発表した『フェルメールとその環境 社会史のネットワーク』
(John Michael Montias, Vermeer and His Milieu : A Web of Social History, Princeton University Press, Princeton, New Jersey, 1989)は、フェルメール研究家の必読書になっているそうだ。

〇モンティアスの調査のそもそもの始まりは、17世紀のオランダ絵画取引に関連した商業システムに興味を持ったことがきっかけである。
⇒1975年からデルフトに通い、画家のギルド、聖ルカ組合にまつわるさまざまな古文書を、デルフト市公文書館で目を通すようになったらしい。
(当初はフェルメールに特に注目していたわけではなかった)
〇ところが、フェルメールの父親が居酒屋兼宿屋の「メーヘレン亭」を購入したことを示す文書をたまたま見つけた。
⇒そこでどうやら、この発見はフェルメール研究にとって重大な発見らしいと気づいて、以後、積極的にフェルメール関連の古文書を探して、読み漁るようになったそうだ。

※今日のフェルメール研究に必須のテキストである財産目録、不動産売買、金銭貸借、遺言書、訴訟、結婚や死亡に関する書類など、多くの重要史料を発掘した。
(モンティアスはオランダ古語を読めたので、このような調査が可能だった)
⇒そのおかげで、3人早世したけど計14人(子どもの人数について諸説あり。小林頼子説では14人)も子どもがいた。フェルメールの「子だくさん家庭事情」などを垣間見られる。

〇モンティアスはいろいろと新事実を発見しているが、もっとも重大な「発見」は、フェルメールのパトロンの可能性がある、ピーテル・ファン・ライフェンという醸造業者の存在を突き止めたことであるという。
⇒1696年5月16日に、アムステルダムである競売が行われるが、これにフェルメールが21点も入っていた。(前に引用した表を参照のこと)
・モンティアスは、これが前の年に死んだ出版業者ヤーコプ・ディシウスのコレクションだったのではないか、と推理する。
・そして、この21点ものフェルメールがどこから来たのかを遡っていって、ファン・ライフェンに辿りつく。
・モンティアスによる推測によれば、
 ヤーコプ・ディシウスは、このコレクションを自分より7年前に死んだ妻マフダレーナ・ファン・ライフェンから相続した。
⇒マフダレーナの死の直後に作られた彼女の財産目録には、20点(「小路」にあたる絵がフェルメールの作品リストからもれてしまった可能性が高いという)のフェルメールが含まれていたことが確認されている。
・そして、モンティアスは、それらは父ピーテル・ファン・ライフェンと母マーリア・デ・クナイトから相続したものではないかと推理した。
⇒ファン・ライフェンはフェルメールに大金を貸すなど特別な関係にあったのであるが、その借金はフェルメールの絵によって相殺されていたのではないか、と考えた。

<朽木氏のコメント>
※真相は不明。
 しかし、次のふたつは確実であるという。
①ファン・ライフェンとフェルメールが非常に近しい間柄であったこと。
②ファン・ライフェンの娘とその夫が計20点のフェルメール作品を所有していたこと。
※だからモンティアスの推論は突飛ではなく、自然な「読み」である。

※ちなみに、映画『真珠の耳飾りの少女』では、ファン・ライフェンの描き方が歪められているそうだが、彼がいたからこそ、フェルメールが比較的優雅に作品に集中できた可能性が大いにあると、福岡氏は付言している。
 そして、フェルメールの絵を気に入っていたファン・ライフェンのリクエストにフェルメールが応えていたとしたら、フェルメールが描いたモチーフや世界観にはファン・ライフェンの好みがかなり反映しているかもしれないという。
 モンティアスが示した経済的アプローチから見えてくるフェルメール像は、非常に刺激的である。

☆フェルメールにまつわる気になるテーマとして、フェルメールの改宗問題がある。
 オランダで主流のプロテスタントだったフェルメールが、妻と結婚すると同時に、妻の実家と同じカトリックに改宗したことが、モンティアスは気になっていた。そしてその事情についても精力的に調査しようとしていたそうだ。しかし、残念なことに、2005年に亡くなってしまう。

(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、144頁~149頁)


フェルメール全作品マップ



フェルメール全作品マップ
マウリッツハイス美術館[オランダ・ハーグ]
1 真珠の耳飾りの少女
2 デルフトの眺望
3 ディアナとニンフたち
アムステルダム国立美術館[オランダ・アムステルダム]
4 小路
5 手紙を読む青衣の女
6 恋文
7 牛乳を注ぐ女
ドレスデン国立絵画館[ドイツ・ドレスデン]
8 取り持ち女
9 窓辺で手紙を読む女
ベルリン国立美術館[ドイツ・ベルリン]
10 真珠の首飾りの少女
11 紳士とワインを飲む女
シュテーデル美術館[ドイツ・フランクフルト]
12 地理学者
アントン・ウルリッヒ公美術館[ドイツ・ブラウンシュヴァイク]
13 ワイングラスを持つ娘
ウィーン美術史美術館[オーストリア・ウィーン]
14 絵画芸術
ルーブル美術館[フランス・パリ]
15 レースを編む女
16 天文学者
スコットランド・ナショナル・ギャラリー[イギリス・エディンバラ]
17 マルタとマリアの家のキリスト
ロンドン・ナショナル・ギャラリー[イギリス・ロンドン]
18 ヴァージナルの前に立つ女
19 ヴァージナルの前に座る女
ケンウッド・ハウス[イギリス・ロンドン]
20 ギターを弾く女
バッキンガム宮殿ステート・ルーム[イギリス・ロンドン]
21 音楽の稽古
アイルランド・ナショナル・ギャラリー[アイルランド・ダブリン]
22 手紙を書く女と召使
フリック・コレクション[アメリカ合衆国・ニューヨーク]
23 女と召使
24 兵士と笑う女
25 稽古の中断
メトロポリタン美術館[アメリカ合衆国・ニューヨーク]
26 リュートを調弦する女
27 少女
28 窓辺で水差しを持つ女
29 眠る女
30 信仰の寓意
ワシントン・ナショナル・ギャラリー[アメリカ合衆国・ワシントンD.C.]
31 手紙を書く女
32 天秤を持つ女
33 赤い帽子の女
34 フルートを持つ女※
個人蔵[アメリカ合衆国・ニューヨーク]
35 ヴァージナルの前に座る若い女
バーバラ・ピアセッカ・コレクション(保管場所不明)
36 聖女プラクセデス※
盗難のため行方不明
37 合奏
<注意> ※フェルメールの真作でないとする学者もいる
参考文献 『フェルメール巡礼』(朽木ゆり子、前橋重二) 監修、朽木ゆり子
(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、182頁~183頁)




全点踏破の旅の“難所”


「全点踏破の旅の“難所”」(184頁~192頁)では、フェルメール作品の所蔵美術館について解説されている。

ケンウッド・ハウスの≪ギターを弾く女≫


・ロンドンのケンウッド・ハウスは、歴史的建造物で、映画『ノッティングヒルの恋人』(1999年/イギリス・アメリカ合作)でも使われた。
・ケンウッド・ハウスが、2012年夏から老朽化に伴う改築工事で1年間ほど閉館になる
⇒主要な作品はアメリカを巡回。
 ただし、≪ギターを弾く女≫は、絵の状態が不安定なため、今回も巡回せずに、ロンドン・ナショナル・ギャラリーで修復。
⇒これまで修復されてこなかっただけに、何か新しい発見があるかもしれない。
・≪ギターを弾く女≫
 1974年に盗難に遭っているが、犯人たちは不思議と丁重に扱ったらしく、ダメージはほとんどなかったという。
 この作品の額はフェルメールの家にあった鏡らしい。
 (当時は出来あいのもので済ませたという、ただの鏡の額だけど、今となっては素晴らしい資料価値がある。1630年代製の額だそうだ。)

ロンドン・ナショナル・ギャラリーの≪ヴァージナルの前に立つ女≫と≪ヴァージナルの前に座る女≫


・なぜかヴァージナルの前に立ったり座ったりしている女性像を所蔵している。

バッキンガム宮殿ステート・ルームの≪音楽の稽古≫


・エリザベス女王がスコットランドに避暑に行く、7月下旬から9月下旬にかけてしか観られないので、ロンドンとはいえ、意外と「難所」であると、朽木氏はコメントしている。
⇒朽木氏は、全点踏破弾丸ツアーが冬だったので、その取材時は観ることができなかったという。

スコットランド・ナショナル・ギャラリーの≪マルタとマリアの家のキリスト≫


・スコットランドも難所といえば、難所。
⇒≪マルタとマリアの家のキリスト≫はエディンバラのスコットランド・ナショナル・ギャラリー所蔵。
※エディンバラは、あまり普通の旅行先として選ばないので難所であるらしい。
※2008年に1度、来日している絵。

アントン・ウルリッヒ公美術館の≪ワイングラスを持つ娘≫


・ドイツのブラウンシュヴァイクのアントン・ウルリッヒ公美術館は、1番の難所かもしれないそうだ。
・この美術館は、≪ワイングラスを持つ娘(別名:ふたりの紳士とワインを飲む女)≫を所蔵している。
・ブラウンシュヴァイクは、ベルリンから200キロ少々の小さな街。
(ブラウンシュヴァイクは、歴史はあるけれど、ヨーロッパのよくある中都市、という感じの街)
 街は小さい上に、駅からも遠いし、美術館以外に見どころがそんなにないから、よほどのフェルメール・マニアでないと行かない。
(だから、ベルリンからブラウンシュヴァイクに行く電車に日本人がいたら、きっとフェルメール・マニアにちがいないという)

※その他のドイツにあるフェルメール作品としては、次のものがある。
〇≪地理学者≫があるシュテーデル美術館
〇≪真珠の首飾りの少女≫≪紳士とワインを飲む女≫を所蔵しているベルリン国立美術館
※≪真珠の首飾りの少女≫は、ベルリン国立美術館の目玉作品の1点。
※ベルリンは難所と言えるか微妙であるが、日本からの直行便がないから、意外と行きづらい。
〇≪取り持ち女≫≪窓辺で手紙を読む女≫を所蔵しているドレスデン国立絵画館のアルテ・マイスター美術館

ウィーン美術史美術館の≪絵画芸術≫


・オーストリアのウィーンも、巡礼の難所と言えば難所で、意外と遠い。
・ここには、フェルメールが最後まで手放さなかった≪絵画芸術≫がある。
(フェルメール・マニアなら行かないと、と福岡氏は勧めている)
・この美術館には、有名な「ブリューゲルの部屋」があって、≪バベルの塔≫≪農家の婚礼≫など揃っている。
※フェルメールの絵は、薄暗い部屋にあって、結構、冷遇されているそうだ。
 絵そのものも、経年変化で色褪せて見える。
⇒ハプスブルク家にとって、オランダ絵画は全然、重要でなかったことがわかると、朽木氏は感想をもらしている。
(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、184頁~192頁)


オランダという国


・フェルメール(1632―1675)やスピノザ(1632―1677)が生きた時代のオランダは、スペインから独立し、新しいプロテスタントの国となった。
 いろいろな流れ者や異端審問官に拷問されるようなユダヤ教の人たちをも受け入れ、首都アムステルダムにも住まわせた。つまり、自由な場所だった。
(現代のオランダも、安楽死もある自由な国である)

そして、ユダヤ人社会から飛び出したスピノザは、自分の世界観をつくり出した。
(後世には、アインシュタインがスピノザに共感して、「スピノザの神が自分の神、世界の調和の裏側にあるものが神だ」と言っていた。)

・フェルメールが生きた時代のオランダは、まさに世界の覇者として、東インド会社を作り、世界に飛び出していった頃である。自分たちの都市のランドスケープに興味があったようだ。

〇≪デルフトの眺望≫は、
 1654年に起こった「デルフト火薬庫大爆発事故」後の1659年から60年頃の制作である。
 この大爆発は、デルフトの歴史に残る大事故であった。
 ≪デルフトの眺望≫が描かれた時期は、大爆発で破壊された街を復興しよう、と市民が心をひとつにしていた頃である。
 失われたものとこれから新しく作るもの、ということを考えたら、当然「都市」に関心が向く。デルフトの街、というモチーフは、当時のデルフト市民にとって魅力的なモチーフだったであろう。
⇒水辺に女性がふたり、小さく描かれている横に、当初、実は帽子をかぶった男性も描かれていたと、調査で判明している。
≪デルフトの眺望≫は、フェルメールが特に心血を注いで描いた作品である。
⇒17世紀に生きたデルフト市民としてのフェルメールの思いを感じさせると、朽木氏は語っている。

※この作品は≪真珠の耳飾りの少女≫≪ディアナとニンフたち≫と同じマウリッツハイス美術館所蔵である。
※福岡伸一氏の『フェルメール 光の王国』(木楽舎、2011年)の基になったANAグループ機内誌「翼の王国」の連載で回った、すべての美術館のキュレーター(学芸員)に、「予算制約なしならどの作品を買いたいか」と尋ねてみたところ、ダントツ1位が≪デルフトの眺望≫だったという。

〇17世紀前半、世界の覇者だったオランダは繁栄の極みを迎えていて、オランダ・ファッションが最先端だった。
 その後、最先端モードはフランスのお家芸になるわけだが、フェルメールの前半生の時代は、まだオランダのファッションが最先端だった。
⇒その代表的なシルエットが、ハイ・ウェストのゆったりしたスカートだった。

※フェルメールのファッションというテーマでいうと、論議の的になっている問題がある。
⇒特に≪手紙を読む青衣の女≫について、まことしやかにささやかれている説がある。
 つまり、フェルメールが描く女性たちは、「ふっくら」している服に身を包んでいることが多いので、彼女たちは妊婦だ、という解釈。
(≪手紙を読む青衣の女≫で解釈すると、妊婦が真剣な表情で届けた手紙を読んでいる、ということになる。
→手紙が子どもの父親から来たものだとすると、わかりやすくてドラマティックなモチーフになるのだが……)
 しかし、その推測は、先の17世紀前半のオランダの時代背景を考えると、おそらく間違いであると、朽木氏はみている。

〇そして、もうひとつの理由として、17世紀のオランダでは「妊娠している女性は魅力的ではない」という価値観がスタンダードであった点を挙げている。
 妊婦さんたちは臨月に近づくまで、できる限り、妊婦とわからないように工夫していたという。
※肖像画に妊婦が描かれたケースはまったくなくて、風俗画では妊婦が描かれることはあっても、コミカルな扱いだったそうだ。
⇒そうした時代背景の中で、フェルメールがあえて妊婦を何度もモチーフに選んだとも考えにくい。
 だから、フェルメールが描いた女性たちの「ふっくらファッション」は、「そういう服が流行っていたから」という単純な理由によるものであると、朽木氏は考えている。

(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、38頁~39頁、45頁~47頁、104頁~105頁)

≪真珠の耳飾りの少女≫の真珠のイアリングについて


・≪真珠の耳飾りの少女≫が着けている真珠のイアリングは、とても大きい粒である。しかし、あんなに大きい真珠が、当時、あったのだろうか。疑問がわく。
⇒真珠は当時非常に人気があったが、大変高価だった。
 天然真珠は東洋からの輸入品で、お金のある家の女性がブレスレットやチョーカーのセットで持っている、ということも多かった。
(そういうことも、当時の遺品目録からわかる)

・ただ、真珠は人気があったので、ガラスに着色したフェイクが流行った。
⇒この絵の女性が付けている真珠は不自然なほどに大きい。
 だから、フェイクだった可能性もあるし、効果を狙って誇張して描かれた可能性もあると、朽木氏はみている。

・ガウンやサテン地のスカートも高価だった。
 たとえば、黄色いガウンは当時フェルメールの絵1点より高価だった可能性が高い。
 さらに真珠はもっと高価だった。
⇒そういった高価な装飾品を、着用していたり、思わせぶりに机の上に置いてあったり、フェルメールの絵にはたびたび描かれている。
 それは富をある意味で見せびらかしている。もしかすると、ファン・ライフェン(フェルメールのパトロン、醸造業者)の注文だったかもしれないという。

※ちなみに、フェルメール未亡人と義母の財産目録には、真珠や金などのアクセサリーや貴金属品がまったく含まれていないそうだ。
(わざと入れなかった可能性も含め、真相を知りたいと朽木氏は望んでいる)
(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、105頁~107頁)

※オランダの首都、アムステルダムは、とても素敵な街で、特に旧市街は本当に美しくて、歴史を感じる。
⇒名所旧跡と言えば、アムステルダムには『アンネの日記』の「アンネ・フランク・ハウス」もある。

※オランダ旅行の唯一の問題は、食事だという。
 日本人が食べておいしいと思える料理がほとんどない。
 (ベルギーほどビールもおいしくない) 
 アムステルダムは大都会だから、まだちょっとインターナショナルなレストランがあるから、大丈夫。しかし、地方のロッテルダムでは、パンがパサパサで、サンドイッチすらまずいらしい。
※オランダは基本的に質素な食事。
 昔は、フェスティバル以外の日常では、パンとじゃがいもとチーズ、といった食事だった。
 ただ、ビタボーレンという小さくて丸いコロッケのような名物料理は、おつまみに良い。
 また、日本料理の代わりに、インドネシア・レストランに入ってナシゴレンを食べると、「ああ、ご飯おいしい」とホッとしたという。
(インドネシアは元オランダ領だったから)

※オランダに行くなら、夏が1番良いようだ。
 フェルメール・マニアには、夏の7時10分のデルフトの光を体験してほしいという。
 というのは、≪デルフトの眺望≫は、夏の朝、7時10分に描かれたといわれているからであると、福岡氏はいう。
 フェルメール・マニアとしては、せっかくなら、≪デルフトの眺望≫が描かれた時間に合わせて、訪れてほしいというのである。
※そもそも、オランダは、夏は夜10時ぐらいまで外が明るいけれど、冬は朝9時でも真っ暗で、午後3時過ぎになると、もう暗くなって気分が滅入る。
(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、198頁~201頁)

フェルメールの街・デルフト


〇そもそもオランダは、意外と小さな国で、面積は四国の2倍ぐらい。
 だから、どの街に行くにしても、2時間程度しか、かからない。
 アムステルダム、ハーグ、デルフト、ライデン、ロッテルダム
 街が集まっているから、車でも電車でもすぐに行くことができ、旅先としてはお勧めだという。
 ここでは、フェルメールの街・デルフトについてまとめておこう。
〇フェルメールが生きた時代、17世紀のとても豊かだった時代のオランダの都市が「保存」されているのが、フェルメールの街・デルフトである。フェルメールが43年の生涯のほとんどを過ごした故郷がデルフトである。

 ただ、残念ながら、ここにはフェルメール作品がない。
(だから、純粋に作品だけを「全点踏破の旅」とするだけなら、除外しても問題ない。しかし、フェルメール・マニアはもちろんのこと、オランダに行く予定があったら、訪れてもらいたい、美しい街であると、福岡氏は勧めている)

・「フェルメール展」がワシントンとハーグで実現した90年代半ばまで(あるいは映画『真珠の耳飾りの少女』のヒットまで)、世界に誇る街の偉人であるにもかかわらず、フェルメールをそんなに押し出していたわけでもない。
⇒世界中からフェルメール・マニアが訪れるようになったのは比較的最近のこと。
 ツーリストからフェルメールについて尋ねられても、記念碑ぐらいしかなかった。

※朽木氏が最初に行ったとき、フェルメールが入っていた聖ルカ組合があった場所は、フェルメール小学校があったという。
 次に行ったときは空き地になっていた。ここにフェルメール・センターができる予定と聞いたようだ。(しかし、資金不足でなかなかできない状態)
 その後、オランダの名だたるスポンサーが資金を出して、聖ルカ組合の建物に似せたものを作り、フェルメール・センターとしてオープンした。
(しかし、運営がうまくできなくなって1年程度で閉館)

・フェルメール好きは≪デルフトの眺望≫や≪小路≫の場所を探しにデルフトに来るそうだ。
(フェルメールという文化遺産は町おこしになるから、やはり街として受け皿をつくったほうが得策であると、朽木氏はいう)
・フェルメールの故郷なのにフェルメールの絵が1点もないのが残念だが、フェルメールが作品の中に描いたようなデルフト焼タイルはある。
(また、蚤の市に行くと、フェルメール時代のデルフト焼が安価な値段で売られていて、楽しいと、福岡氏は勧めている。)
 17世紀の古いデルフト焼でも、1枚、2000~3000円くらいから手に入るので、良い記念になるらしい。
 ≪ヴァージナルの前に立つ女≫に描かれているような17世紀のデルフト焼タイルは、子どもが遊んでいる絵とか、いろいろな職業の絵があって面白いという。

(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、193頁~202頁)

フェルメール最大の謎~福岡伸一氏の「あとがき」より


フェルメール最大の謎について、福岡伸一氏は「あとがき」に次のように述べている。

「≪真珠の耳飾りの少女≫はいったり何を見ているのか。フェルメール最大の謎である。
 オランダ・ハーグにあるマウリッツハイス美術館に来てこの絵を実際鑑賞すると、彼女の
見ているものが何なのか、その答えが自然にわかるようになっている。絵は比較的小さな部屋に掛けられている。そしてこの絵の反対側の壁には、フェルメールのもうひとつの傑作≪デルフトの眺望≫が掛けられているのである。そう、彼女のまなざしはちょうどそこに届いている……。
ぜひ皆さんも深読みフェルメールを!」
(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、222頁)
このように、「あとがき」を結んでいる。
福岡伸一氏によれば、≪真珠の耳飾りの少女≫は、作者フェルメールの故郷デルフトを眺めていたという解釈になる。

おわりに―感想とコメント


この本の中で、一番印象に残った話は、福岡伸一氏が語った「フェルメール・ブルー」についてであった。さすが生物学者で、自然界の生き物に詳しい。
私は福岡氏の話をきいて、青いバラのことを想起した。昔、読んだ本に、
〇最相葉月[さいしょう・はづき]『青いバラ』小学館、2001年
という本がある。
その「青いバラ」について、触れておきたい。

☆青いバラについて
「この世に青いバラはない」といわれてきた。
 青いバラという言葉には「不可能」という意味がある。
(キクにもユリにもチューリップにも青はないが、バラに青がないのは特別なことだった)
バラには青い色の遺伝子、すなわち青い色素デルフィニジンをつくる遺伝子が存在しないために、従来の育種方法では青いバラはできなかった。だが、バラ以外の青い花から青い色の遺伝子を取り出してバラに導入し、その遺伝子がバラの中で活性化すれば、青いバラができるとされる。
 例外はあるが、この世にある青い花の多くはデルフィニジンを持っている。だが、三大切り花の、バラ、キク、カーネーションの花弁にはなぜかデルフィニジンはなく、シアニジン(赤)とペラルゴニジン(黄)しか含まれていないため、青い品種はなかった。
(ただ、デルフィニジンがあるからといって、必ず青くなるわけではなかった。デルフィニジンにも、赤紫から青という色の幅があるため)
ちなみに、青い花には、ツユクサやヤグルマギク、アサガオなどがあるが、これらの青い花の色素を溶媒で抽出すると、もとの花弁の色とは違って赤色になってしまう。
(最相葉月『青いバラ』小学館、2001年、4頁、120頁、184頁、186頁)

※この後、2004年6月30日に「青いバラ」が遺伝子組み換え技術により誕生した。2009年、「アプローズ」のブランドを設け、切り花として発表された。

【最相葉月『青いバラ』小学館はこちらから】
最相葉月『青いバラ』小学館



最新の画像もっと見る

コメントを投稿