(2022年4月14日投稿)
【はじめに】
4月1日、市内の桜は満開であった。
この日、ある集まりで花見のお誘いがあり、参加することにした(もちろん、コロナ対策を万全にしつつであるが)。
話題の豊富な人が一人でもおられると、場が和み、その場にいても楽しい。桜に蘊蓄の深い人がおられ、随分、勉強になった。
私も、以前に桜に関する本を何冊か読んだことはある。しかし、とっさに機転を利かして、適当な話題が頭に浮かんでこないのは、困ったことだ。年のせいにはしたくない。
そこで、手元にある桜に関する手頃な本を読み返してみた。それが、田中秀明氏の監修した本書である。
〇田中秀明『桜信仰と日本人 愛でる心をたどる名所・名木紀行』青春出版社、2003年
頭を整理する意味でも、簡潔に紹介してみたい。何かの参考にしていただければ、幸いである。
【田中秀明『桜信仰と日本人』(青春出版社)はこちらから】
田中秀明『桜信仰と日本人』(青春出版社)
田中秀明『桜信仰と日本人 愛でる心をたどる名所・名木紀行』青春出版社、2003年
【目次】
はじめに
第一章 桜と日本人
待ちに待った開花
「桜前線」を追いかける
日本にしかない花見の風習
古代人が見た桜
「コノハナサクヤヒメ」伝説
「サクラ」の語源
貴族の風雅から庶民の遊びへ
花見は昔「梅」だった
平安貴族の「花の宴」
桜に託された無常観
庶民への広がり
時代に翻弄された桜
本居宣長の桜
ソメイヨシノの悲劇
現代人の桜観
第二章 歴史にみる桜
秀吉が催した花見宴
「吉野の花見」の意味
栄華を誇った「醍醐の花見」
醍醐寺に残る当時の面影
花のお江戸と花見風俗
江戸の花見は上野から
川柳にみる江戸っ子の花見
花見小袖と「茶番」
ポトマック河畔に咲く桜
桜に魅入られたアメリカ女性
受け継がれる日本の桜
第三章 暮らしに息づく桜の文化
こんなにあった桜の種類
桜の特徴
桜の自生種と園芸種
生活の中の桜
桜を味わう
桜の工芸品
第四章 桜を守る人々
桜を育てた人々
東西交流による桜の改良
桜を広めた園芸技術
絶滅を免れた荒川堤――五色桜
継体天皇お手植えの桜の復活――根尾谷の淡墨桜
ダムから救われた二本の桜――荘川桜
天の川のような桜道を作りたい――桜街道
桜守三代、日本の名桜を守る――佐野藤右衛門家の桜
第五章 日本全国桜名所案内
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・第一章 桜と日本人
・桜の語源~◆「コノハナサクヤヒメ」伝説
・◆「サクラ」の民俗学的語源
・花見は昔「梅」だった~第一章 桜と日本人 貴族の風雅から庶民の遊びへ
◆花見は昔「梅」だった/◆平安貴族の「花の宴」/【補足:和歌の掛詞について】
◆桜に託された無常観/◆『新古今和歌集』の無常観/◆庶民への広がり
・時代に翻弄された桜
◆本居宣長の桜/◆ソメイヨシノの悲劇
・桜の自生種と園芸種
【ヤマザクラ(山桜)】/【オオシマザクラ(大島桜)】/【エドヒガン(江戸彼岸)】
【ソメイヨシノ(染井吉野)】/【ギョイコウ(御衣黄)】
・第五章 日本全国桜名所案内
【三隅の大平桜】/【根尾谷(ねおだに)の淡墨桜(うすずみざくら)】/【荘川桜】
【山高神代桜(やまだかじんだいざくら)】
第一章 桜と日本人
桜は本格的な春の到来を告げる花である。そして、日本人を魅了してやまない花である。
桜の花の美しさに感動する日本人の感性こそが、桜と日本人の素晴らしい関係を育んできた。
花見は、平安貴族たちが風雅な遊びとして行った「花見の宴」に端を発するといわれる。
その後、権力や財力のある武士・町人らに受け継がれ、江戸時代には庶民の娯楽として広く浸透していった。つまり、日本人は現在にいたるまで千年以上もの間花見を続けてきたことになる。現代的な花見が成立したといわれる江戸中期から数えても、すでに数世紀が経っている。
ところで、花が大好きでガーデニングの元祖ともいえるイギリス人でも、大勢の人が花を楽しむ場所で仲間と飲食しながら時間を過ごすという習慣はないそうだ。
また、比較的気候や文化に共通点のあるアジアの国々でも花見はなかったと、白幡洋三郎氏(国際日本文化研究センター)はいう(その著『花見と桜』)。
(ただ、中国の大連に桜の花見があったが、そこはかつて日本人が作った桜の名所であった)
つまり、花見は日本独自の文化であると、白幡氏は結論している。白幡氏は日本の花見の特徴として、「群桜」「飲食」「群集」の三要素を挙げている。
それにしても、さまざまな疑問がでてくる。
どうして日本人は桜、花見が好きなのか。
たくさんある花の中でなぜ桜にばかり特別な目を向けるのか。
また、日本人は桜に対して、どのような心情を抱いてきたのか。
こうした問題意識のもとに、本書は桜と日本人の関係について、様々な側面から論じている。
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、3頁~19頁)
桜の語源~◆「コノハナサクヤヒメ」伝説
・桜は日本人の祖先が日本列島に現われる前から自生していたといわれている。
・桜が古代の日本人の目にどう映っていたのか。
その手がかりとして、研究者たちが目をつけたのが、「サクラ」の語源である。
これには、様々な説がある。
〇「咲き群がる」「咲麗(サキウラ)」「咲麗如木(サクウルワシギ)」「咲光映(サキハヤ)」などの略であるという説
〇桜の樹皮が横に裂けることから「裂くる」が転じたという説
〇「盛」「幸」「酒」と同義語だという説
〇「木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)」の「サクヤ」が「サクラ」に転じたという説
(有力な説として最初に定着)
木花開耶姫の伝説
・この伝説は、『古事記』神代巻に登場する。
・天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が笠沙(かささ)の御前で美女に出会い、名を尋ねると、姫は「木花開耶姫」と答える。
尊は妻にしたいと思い、父親の大山津見(オオヤマツミ)の神に結婚を申し出たのだが、父親は姉の「磐長姫(イワナガヒメ)」もめとってくれるならと姉妹を差し出す。
ところが、尊はあまり美しくない姉を避け、妹とだけ一夜の契りを結ぶ。
これに対して、大山津見の神は、尊の永遠の寿命を願って、磐長姫を差し出したのに、これを退けたということは、これから尊の命は花のように短かくはかないものになるだろうと語ったという。
※ここには桜についての記述がはっきり出てくるわけではないが、美しい花「コノハナ」は桜を指すという解釈がなされた。
また、古代の音韻にはラ行がヤ行に転じることがあるという学説もあり、「サクヤ」が「サクラ」になったのだろうともいう。
・ところで、木花開耶姫は伊勢の朝熊(あさくま)神社で桜を神木としたという伝説もある。⇒これも木花開耶姫と桜を結びつける一因になったと考えられている。
・さらに、富士山の御神体は木花開耶姫で、一般的にこれは桜のことであると解釈されている。⇒本居宣長(もとおりのりなが)の『古事記伝』にも、この説が使われている。
(つまり、『古事記伝』が書かれた江戸中期以降、これが研究者の間で通説となっていた)
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、20頁~22頁)
◆「サクラ」の民俗学的語源
〇木花開耶姫伝説から導き出された語源説が長いこと最有力と目されてきたのだが、その後、民俗学的な見地から新しい解釈が生まれた。
⇒これは、「サクラ」を「サ」と「クラ」に分けて解釈する。
(サは穀霊を表し、クラは神が依りつく「座(くら)」のことであるとする)
つまり、「サクラ」とは、「稲の神が集まる依代(よりしろ)」を意味する言葉である、という説である。
・民俗学で「サ」はサオトメ(早乙女)、サツキ(五月)、サナエ(早苗)といったように、すべて稲霊を表すとされている。
一方、「クラ」はイワクラ(磐座)、タカミクラ(高御座)のように、神霊が依り鎮まる座の意味があるという。
〇このように、「サクラ」と稲の霊との関連性を最初に指摘したのは、折口信夫と見られている。
(「折口学」という独自の研究世界を作り上げた民俗学者)
⇒折口は、桜を、もともと観賞用ではなく稲の実りを占う実用的な植物であったという(『花の話』)。
そのため花が早く散ってしまうのは前兆が悪いものとして、花が散らない事を欲する努力につながっていったとする。
※京都・今宮神社の「やすらい祭」を例に挙げて、この裏には桜の花が早く散ってしまうと稲の実りに悪い影響が出るので、散らないでほしいと祈る民衆の呪術観念が潜んでいるとも、説いている。
※「サ・クラ」説には直接触れていないが、折口は桜の花を稲の豊凶を占う重要なサイン、神意の顕れと見ている。
※この折口の説から一歩踏み込んだところで、「サ・クラ」説が展開されるようになったようだ。
ただ、懸念の声も挙がっている。
というのも、桜は日本人が現れる前から日本列島に自生していた植物である。稲作が渡来する、はるか昔からあった桜に、なぜ稲霊に由来する名前がつけられたのか、まだ何も説明がなされていないから。
※また、「やすらい祭」も、折口説とは反対に、疫病や邪気を桜の花が散るのといっしょに追い払ってしまおうという思いから始まったという説もある。
<田中秀明氏のコメント>
〇「サ・クラ」説が桜の語源説としてゆるぎないものかどうか不明。
だが、桜が稲作と深い関係にあったことは確かである。
・今でも日本各地に「種まき桜」「苗代桜」「作見桜」などが残っている。
桜の花は籾種(もみだね)をまいたり豊凶を占うなど、農作業の目安となっていた。
⇒四季の変化を自然の中から読み取っていた古代日本人が、稲作りを開始する季節になると、山々に咲き乱れる桜に神聖なものを感じたとしても不思議ではない。
・稲などの作物を神からの賜わり物とみなしたように、桜にも神の存在を見ていたと考えてよい。
こうした日本古来のアニミズムを出発点とした桜観は、各地の桜祭や古木伝説の中だけでなく、今も日本人の心に生きているといえよう。
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、22頁~24頁)
花見は昔「梅」だった~第一章 桜と日本人 貴族の風雅から庶民の遊びへ
貴族の風雅から庶民の遊びへ
◆花見は昔「梅」だった
桜と日本人の関係を考えたとき、花見を抜きにして語ることはできない。
では、花見はいつどのような形で始まったのか。
実は、日本人が初めて体験した花見は「桜」ではなく、「梅」であった。
奈良時代は、遣唐使などによって中国の文化が日本に運ばれ、貴族たちに大いにもてはやされていた時代である。梅は外国からやってきた貴重な花樹として人々に歓迎された。そして、梅の花を楽しみながら詩を詠むという中国の宮廷文化にも、奈良朝の貴族は最先端の教養文化として飛びついたようだ。
そうした状況を物語るのが、現存最古の歌集『万葉集』である。
桜を詠んだ歌も40首ほどあるものの、梅は100首以上と、桜をはるかにしのいでいる。
もっとも、『万葉集』で一番多く詠まれている花は萩である。
では、桜はどのような存在であったか。
今でこそ桜はソメイヨシノなどの里の桜が主役となっているが、もともと桜といえば、山に咲くヤマザクラが中心であった。
万葉人たちの歌には、山を含めた風景として桜の美しさを素朴に詠んだものが多い。
見渡せば春日(かすが)の野辺(のべ)に霞立ち咲きにほへるは桜花かも(巻一0・一八七二)
この歌は、春日山に桜の咲きほこる様子を詠んでいる。
遠くから眺めて楽しむものではあったが、春日山、高円(たかまど)山、香具(かぐ)山など、この頃すでに桜の名所といえる場所が奈良の周辺にいくつかあったようだ。
『万葉集』の時代は、花見が「梅」から「桜」に移行する前の、桜を観る眼を養う下準備の時期だったともいえる。
『万葉集』の中にも、桜を観賞する姿勢は見られるが、万葉人たちの桜を観る眼はそれまでのアニミズム的自然感覚に「花を愛でる」という外来文化の影響が加わったものであったであろう。
◆平安貴族の「花の宴」
花といえば、桜を指すほどに桜への思いが強くなっていくのは、平安時代になってからのことである。
『古今集』になると梅と桜の立場は逆転し、圧倒的に桜を詠んだ歌が多くなっている。
平安京の内裏(だいり)の紫宸殿(ししんでん、南殿)前庭には、一対の樹木が植えられていた。これが今もよく知られている「左近(さこん)の桜」、「右近(うこん)の橘(たちばな)」と称されるものである。
実は平安京遷都の際、最初に植えられたのは桜ではなく、梅であった。遷都の折には、奈良時代の平城京にならい、橘とともに梅を植えたのだろう。奈良朝でもてはやされていた梅を崇める空気がまだ残されていたようだ。
ところが、この樹が枯れてしまった後に植え替えられたのは桜だった。この出来事は、仁明(にんみょう)天皇の承和(じょうわ)年間(834―48)のこととされている。
それから間もなく、894年には遣唐使が廃止された。こうした事柄から、平安時代に入ると、日本人の外への関心が徐々に薄れ、自国の文化に目覚め始めた。外来植物である梅ではなく、日本自生の花、桜へと関心が移っていった。
そして、いよいよ「桜」の花見の登場となる。
『日本後紀』には、弘仁(こうにん)3年(812)嵯峨天皇の命により、
「神泉苑(しんせんえん)に幸して花樹を覧(み)る。文人に命じて詩を賦さしめ、綿を賜うこと巻あり、花宴の節はここに始まる」
と記されている。これが記録に残る最初の花見といわれている。
その後、天長(てんちょう)8年(831)には、場所を宮中に移し、「花の宴」は天皇主催の定例行事となっていった。
花見の文化が定着するとともに、桜の種類は増え、都の郊外には、花山、雲林院、東山、月林寺、法勝寺など桜の名所も数多くできた。
鷹狩から始まった桜狩も盛んに行われるようになり、貴族たちは野山に出かけて花見をし、そこで宿泊するという遊びを楽しんだ。
『伊勢物語』に登場する交野は、桜狩の名所である。惟喬(これたか)皇子(文徳天皇皇子)は在原業平(ありわらのなりひら)を連れてよく訪れ、花の下で酒を飲んでは歌を詠み、近くの水無瀬離宮(みなせりきゅう)に宿泊するという狩を好んだといわれる。
このように、平安時代は桜が人々の心にクローズアップされてきた時代でもあった。
花の宴や桜狩で詠まれた歌には、桜に対する細やかな心理が映し出されるようになる。
その代表といえるのが、『古今和歌集』である。
世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(五三)
桜の花があるばかりに心が乱される、いっそ世の中に桜がなければ穏やかな日々を過ごせるのに、という桜へ寄せる思いを詠んだ在原業平の歌である。
(咲いても散っても美しさを素直に詠んだ『万葉集』の歌に比べ、格段に成熟した表現といえる点に、注目したい)
花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに(一一三)
小野小町(おののこまち)のあまりにも有名な歌である。桜と自分の容姿とを重ね合わせて嘆きつつ世の無常をも詠んでいる。(この有名な和歌は、高校の古文でもよく取り上げられている)
久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(八四)
これも非常によく知られた紀友則(きのとものり)の歌である。
穏やかな春の日であるのに、心は散る桜に乱される、と美しい情景と乱れる心との対比を見事に描いた。
<注意>
※『万葉集』に比べると、『古今集』の歌は自然を観る眼の熟練を感じさせる。
また、桜の歌は春を詠んだ歌の半数以上を占めており、いかに桜が平安貴族たちの心を捉えていたかがわかる。桜と梅で比較するなら、『古今集』では桜の方がはるかに多い。
※本居宣長が『玉勝間(たまがつま)』の中で、
「ただ花といひて桜のことにするは、古今集のころまでは聞こえぬことなり」
と指摘しているように、『古今集』に詠まれている桜の多くは「花」で表現されている。
【補足:和歌の掛詞について】
和歌の修辞における「知的効果」の味わい方として、黒川行信『体系古典文法』(数研出版)において、次のように記している。
①物語の文脈、詞書などから作歌意図をつかむ
②五七五七七に分かち書きして、リズムや切れ字などを把握する
③枕詞、縁語、掛詞の代表例を覚えておく
(黒川行信『体系古典文法』数研出版、2019年[1990年初版]、138頁)
和歌の修辞問題、掛詞(かけことば)の攻略法については、次のように解説される。
掛詞が分からないと、和歌の意味が理解できない場合もある。
●掛詞の特徴と見つけ方
①掛詞とは、同じ部分に重ねられた同音異義語で、一つの歌の中に複数のイメージを組み込んだ技法。
②上から読んで、急に意味が理解しにくくなる部分に掛詞がある。
⇒掛けられた双方の意味を解釈に反映しないと理解できない場合が多いため。
③物(現象事象)と心(心象人事)の掛詞が多い。
<例> ながめ(「長雨」=現象と「ながめ」=心象」
花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に
(古今集・巻二・小野小町)
ふる(降る・経る)
ながめ(長雨・眺め)
【現代語訳】
桜の花の色はむなしく色あせてしまったことだなあ、長雨が降り続いて見ることもできずにいるうちに。そのように私の容色もむなしく衰えてしまったことだ、自分が生きてゆくことで物思いをしていた間に。
※和歌には、<表の意味>と<裏の意味>があることが多い。二つを橋渡ししているのが掛詞である。多くの場合、
●表の意味=自然物・地名
●裏の意味=人事・人の心情となる。
上記の小野小町の歌では、「長雨―降る」が自然物で表の意味、「眺め―経る」が人事で裏の意味ということになる。
(黒川行信『体系古典文法』数研出版、2019年[1990年初版]、136頁~138頁など)
◆桜に託された無常観
平安時代とは、平安京遷都から鎌倉幕府の設置までの約400年を指す。
とてつもなく長い年月の間には、様々な政権交代劇や貴族文化の開花があった。しかし、国家の充実期、成熟期を過ぎると、やがて貴族社会も衰退期を迎える。
平安末期には武士の台頭によって、戦乱が相次ぎ、また地震、旱魃、大火などの災害、飢饉も続発して世情は不安定になっていった。そうした中で、人々は無常観にとらわれ、その思いは来世信仰へつながっていく。
世の中に変わらないものなどひとつもない、という「諸行無常」の考え方はそもそも仏教によるものである。だが、仏教本来の諸行無常はそれを超越した先に究極の境地があると説いている。それに対して、日本人の心に根づいたのは、世の無常を嘆き悲しみつつ、諦めるという心情であった。人々はいずれ消えていく命のはかなさを観念的に知っており、それを自然の中に重ね合わせて歌に詠んだ。その題材として、桜を好んで用いられたのも、日本人の無常観と桜の生態がマッチしていたからだろう。
貴族文化華やかなりし頃の『古今集』にも無常観漂う歌はあるが、基本的には桜の美しさに心酔する様がみてとれる。無常は観念の中にとどまっていた。
◆『新古今和歌集』の無常観
しかし、すでに貴族社会が実権を失った鎌倉時代前期に編まれた勅撰和歌集、『新古今和歌集』になると、桜に託した無常観は切実な嘆きへと変わる。
桜散る春の山辺は憂かりけり世をのがれにと来しかひもなく(一一七)
世間から逃れるために山へ隠遁しようとやってきたのに、桜の散る様子を見ていると決心がゆらいでしまう、という恵慶(えぎょう)法師の歌である。
はかなさをほかにもいはじ桜花咲きては散りぬあはれ世の中(一四一)
世のはかなさを表すなら桜が咲いては散っていく様子以外にない、と詠んだのは、後徳大寺左大臣藤原実定(さねさだ)である。
ながむべき残の春をかぞふれば花とともに散る涙かな(一四二)
この俊恵(しゅんえ)法師の歌などは、まさに嘆きそのものである。
<注意>
※『新古今集』では、このように道俗の別なく、ひたすら桜の散るのを惜しんでは嘆く歌が多い。桜の散るさまにかけて世の移り変わりを嘆くのである。
※平安時代だけを取りあげても、日本人の桜観は時代背景や社会情勢の影響を受けながら、少しずつ変化あるいは洗練されてきた。
◆庶民への広がり
平安時代が終わりを告げ、武家政権の鎌倉時代に移っても、花見は武士たちによって受け継がれていった。京の上流文化を武士たちは、自分らのものにしようと取り入れた。
鎌倉時代には鎌倉近辺の鶴岡八幡宮や永福寺などが桜の名所となった。室町時代は再び都を京に移し、華やかな花見が行われた。また、吉野山は平安時代から知られた花見の名所であったが、足利義満はここに様々な種類の桜を持ち込み観賞したといわれる。
桃山時代になると、さらに花見は盛んになった。中でも天下人豊臣秀吉が吉野と醍醐で催した豪勢な花見は、今に語り継がれる大規模なものであった。この花見によって、秀吉は天下人としての地位を世間に知らしめた。
(ただ、武士たちが行った花見には、もはや貴族文化の風雅はなく、権力を誇示するための道具になっていった)
一方、桜の名所が地方へ広がっていくにつれ、庶民の間にも花見は浸透していった。まずは財力のある町人など裕福な階層に広がり、やがて江戸時代になると、一般の庶民も郊外へ花見に出かけるのが行楽の行事となっていった。
「花の宴」の流れを汲む花見は、江戸時代の初期頃までは経済力や教養のある上層階級にとどまっていたが、元禄期には俳諧など文芸の大衆化にともなって、花見も庶民化した。
さらに、享保期になると、江戸には上野をはじめ、向島や飛鳥山、御殿山など花見の名所の開発も行われた。江戸中期に盛んになった大衆花見が現代の花見の原型といわれている。
(落語「長屋の花見」「花見の仇討ち」などに花見の風景が語られているが、これこそ花見が庶民に浸透した証拠であろう)
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、25頁~36頁)
時代に翻弄された桜
◆本居宣長の桜
国学者・本居宣長は、桜に並々ならぬ思いを寄せた人である。
敷島の大和心(やまとごころ)を人とはば朝日に匂ふ山桜花
これは宣長を語るときに必ずといっていいほど取り上げられる歌である。
昭和初期から敗戦に至るまで日本が掲げていた軍国主義を扇動するのに大いに貢献した歌とされたからである。
国粋主義を突き進んでいた時代に、歌の中の「大和心」は、「日本人の心」ではなく「大和魂」と解釈された。「漢意(からごころ)」を排し日本古来の道へ戻るべきである、とする宣長独自の思想も手伝い、国家と桜は結びついた。
(しかし、最近ではこの歌は詠まれたとおりの意味に解釈するのが宣長の本意と考えられえるようになってきている)
では、宣長はどのような桜観を持っていたのだろうか。
その手がかりとして指摘されるのが、宣長の出生にまつわる事情である。
宣長の父はなかなか子どもに恵まれず、願をかけると子を授かるという吉野の水分(みくまり)神社に詣でたところ、念願の男子を授かったという。それが宣長であり、自分は吉野の申し子と信じていたようだ。
水分の神のちかひのなかりせばこれの我が身は生れこめやも
水分神のおかげで自分は生まれてきたという歌である。この神への信仰は生涯続いた。
吉野といえば、修験道の聖地である。桜はこの地の神木とされている。
平安の頃から多くの歌人が歌に詠んだ、いわば桜の聖地でもある場所である。吉野から生を受けたという思いは、宣長を自ずと桜を向かわせたようだ。
『玉勝間』には、次のような桜観が綴られている。
「花はさくら、桜は、山桜の、薄赤くてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず」
桜の美しさ、特に山桜のすばらしさを、「この世の物とは思えない」という最大級の感動で表現している。吉野の桜はもちろん山桜であり、この花に特別な思い入れがあったのであろう。
また、宣長の遺言書には、自分の墓の念入りな設計図が書かれてあった。その中に、築いた塚の上に「花のよい山桜」を植えるようにとの指示があったという。
こうしてみると、宣長の桜観には、桜の中に神を感じた古代日本人の自然観と近いものがある。
「敷島の……」の歌も、これと同じ桜観から生まれたものと考えられる。
(国家のイデオロギーと結びつけられてしまったのは、宣長にとっても桜にとっても不幸なことだったと、田中氏はコメントしている)
◆ソメイヨシノの悲劇
今、日本にある桜の8割以上はソメイヨシノが占めているといわれる。
つまり、桜といえばほとんどの日本人がソメイヨシノをイメージし、それしか見たことがないという人も多い。
(ちなみに、開花予想もソメイヨシノを基準にしている)
だが、この桜の歴史は意外にも浅い。
新種として登場したのは、江戸末期、豊島郡の染井(現在の東京都豊島区駒込と巣鴨の境界地、染井墓地がある)あたりの植木屋が「吉野桜」という名で売り出したといわれている。
生育が早く、花付きがよく、見るからに華やかな桜はたちまち人気を呼んだが、本場吉野の桜と混同されては困るということで、発祥の地である「染井」を頭につけ、「ソメイヨシノ」になったそうだ。
明治になると、ソメイヨシノは全国各地に広まっていった。東京などの都市だけでなく、地方でも城跡や公園、堤防、学校などありとあらゆる場所に植栽された。
本州では、ちょうど4月の入学式と桜の花の時期が重なるため、桜というと入学式を思い出す人も多い。
こうして、日本全国を席巻したソメイヨシノではあったが、それが結果的に桜と戦争を結びつける要因のひとつになったという見方もある。
明治維新以来、日本は近代国家としての体制を作り上げるために変革を余儀なくされてきた。
『大日本帝国憲法』や『教育勅語』の発布などで国民の意識変革を図り、富国強兵策を邁進させることで、国を存続させようとした。そうした中で日清・日露戦争に勝利し、さらに国民の士気を高めようと国が気炎を上げていた時期と、ソメイヨシノが全国に広まった時期は重なる。
ソメイヨシノは花期が短く、満開になったかと思うと、一週間もしないうちに散ってしまうのが特徴である。
花が多いだけに、それらがいっせいに散る様子は見事でもある。パッと咲いてパッと散る。この潔い散り様が戦争における士気の高揚に用いられるようになっていく。
明治新政府は、このソメイヨシノの性質を利用し、それまでのヤマザクラから意図的にソメイヨシノに代えて植樹した、という見方もある。
(特に軍隊の駐屯地は城跡が多く、軍人の生き様と桜を対比させるがごとく、ソメイヨシノを植樹したといわれている。現在、城跡に桜が多いのもこのためという。『同期の桜』など軍歌にも桜は多く登場するが、歌詞の中の桜はソメイヨシノを連想させる。軍国主義と桜が結びついたのは、この時代、日本全国にソメイヨシノが溢れていたことも関連あるかもしれないともいわれる)
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、37頁~42頁)
桜の自生種と園芸種
「第三章 暮らしに息づく桜の文化」では、「桜の自生種と園芸種」を解説している。
桜というのは、植物分類上ではバラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属に属する樹木である。
自生種は主に東アジアに分布している。日本で見られる自生種は、ヤマザクラ、オオヤマザクラ、オオシマザクラ、エドヒガンなど9種類である。これらを基本として変異した100以上の品種が野生しており、あとはそこから育成された園芸品種である。
※自生種
ヤマザクラ群
【ヤマザクラ(山桜)】
・北は東北地方南部から四国、九州、韓国の済州島(チュジュド)にまで分布。
・4月上中旬、若葉と同時に花を咲かせる。若葉は赤味を帯びているものが多いが、中には黄色、茶色などもある。葉の裏側は粉白色である。
・花は淡い紅色のいわゆる桜色だが、時間が経つにつれて次第に色が白くなっていく。
・変異に富んでいて、栽培されている品種もある。八重咲きのサノザクラ(佐野桜)、ゴシンザクラ(御信桜)、菊咲きのケタノシロキクザクラ(気多の白菊桜)などがそれである。
・平安以降、桜の名所や歌に詠まれた桜は、ほとんどがこのヤマザクラといわれている。いわば、日本人の桜観の基礎となっている桜といえるだろう。
現在もあるヤマザクラの名所といえばやはり吉野である。
【オオシマザクラ(大島桜)】
・伊豆七島に自生していた桜だが、現在は伊豆半島、房総半島に野生化しているのを始め全国各地に植えられている。
・若葉は鮮やかな緑色で、葉の縁の鋸歯は糸状にのびる特徴がある。成葉は大きく、塩漬けにしたものが桜餅を包むのに用いられる。
・栽培種は多く、ソメイヨシノもオオシマザクラとエドヒガンの雑種といわれている。
・他にも、白色で大輪一重の花を咲かせる「タイハク(太白)」「コマツナギ(駒繋)」、一重と半八重の花が混ざる「ミクルマガエシ(御車返し)」、枝が上に伸びる「アマノガワ(天の川)」、花が淡黄緑色の「ウコン(鬱金)」「ギョイコウ(御衣黄)」、紅色八重の「ヨウキヒ(楊貴妃)」「フクロクジュ(福禄寿)」、さらに花弁の多い「ショウゲツ(松月)」など、里桜と呼ばれる園芸品種に多く関与している。
エドヒガン類
・高木になる種類で、樹皮がヤマザクラ類のように横に裂けるのではなく縦に裂けるのが特徴。
野生種はエドヒガン一種である。
【エドヒガン(江戸彼岸)】
・本州、九州、四国、韓国の済州島にも分布するが、東国に多い種類であるためアズマヒガンとも呼ばれる。
また、花の時期に葉が出ないことから、「葉」と「歯」をかけて歯のない老女の「姥」に例えてウバヒガンと呼ばれることもある。
・花はひとつの芽から2、3個の花がつく散形花序で、がく筒や花柄、葉にも毛が多い。ヤマザクラよりも小さな花である。
・樹勢が強いのも特徴で、幹の内部が空洞になっても生き続けるものもあり、樹齢数百年の古木が各地に残されていて天然記念物に指定されているものも多い。
最古のエドヒガンは山梨県にある「山高神代桜(やまだかじんだいざくら)」である。
・また、江戸の人々が花見を楽しんだのはエドヒガンが多かったと思われる。
八代将軍吉宗が、飛鳥山、向島、玉川上水などの花見の名所を造成する際にも、このエドヒガンを中心に植樹したといわれている。
※園芸種
【ソメイヨシノ(染井吉野)】
・エドヒガンとオオシマザクラとの雑種といわれる桜である。
江戸末期に売り出され明治中頃から全国に普及した。現在、公園や並木などの花見の名所といわれるところは、ほとんどこのソメイヨシノが占めている。
・花の大きな性質はオオシマザクラから、葉が開く前に開花する性質はエドヒガンからというように、双方の優れた特性を受け継いでいる。
・人気を呼んだ理由のひとつとして、生育の早さが挙げられる。
また、花つきが多く、葉が出る前に花が満開になるため、見た目に華やかであることも喜ばれる理由であろう。
・ただし、成長が早いだけに、栄養分も多く必要とするため、3、40年をピークに、7、80年には老衰する。さらに、天狗巣(てんぐす)病などの病害にかかりやすいのも難点。
(寒冷地にあるものは病気にかかりにくいといわれる)
・起源や原産地については諸説ある。
江戸染井村の植木職人が作り出したといわれているが、自然交配してできたものを見つけてきて増殖させたとの見方もある。
※黄緑色の桜
【ギョイコウ(御衣黄)】
・ウコンと同様に、淡黄緑色の花を咲かせるが、ウコンより小さな八重咲きで、花の最盛期を過ぎると花弁中央に紅色の縦線が現れてくる。
花びらは緑色が強くなり、外側へ反り返る性質がある。花弁は肉厚で、数は12~14枚位。
・やはりオオシマザクラ系のサトザクラだが、一見したところ桜というイメージではなく、数ある桜の品種の中でも変り種といえる。
4月下旬に開花する。
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、80頁~104頁)
第五章 日本全国桜名所案内
中国地方
【三隅の大平桜】
●所在地/島根県那賀郡三隅町(現在:浜田市三隅町)
●開花時期/4月上旬~中旬
・樹齢300年以上、樹高18メートルの巨桜。
・地上2メートルあたりから幹が6本に分かれ、横に20メートル以上大きく枝を張っている。
樹勢が盛んで迫力がある。
・ミスミオオビラザクラ(三隅大平桜)という品種。
日本にこの木一本しかない稀有な品種で、国の天然記念物に指定されている。
エドヒガンとヤマザクラとが自然交配してできたものと考えられている。
・4月上旬から中旬頃、白い花が咲く。
ヤマザクラと同様に、花が咲くのと同時に若葉も開く。また、幹の古い部分には、エドヒガンと同じような縦裂がある。
・そもそもは、地主である大平氏が、その昔、馬をつなぐために植えたものといわれており、代々大切にされてきた。付近の人々にも愛され、開花期には見物客が遅くまでひっきりなしに訪れる。
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、166頁~167頁)
中部地方
【根尾谷(ねおだに)の淡墨桜(うすずみざくら)】
●所在地/岐阜県本巣郡根尾村
●開花時期/4月上旬~中旬
・日本三大名桜の一つ。
山高神代桜に次ぐ日本第二の老樹と言われる。継体天皇(507~532)お手植えの伝説があり、樹齢1500年ともいわれる。
根尾川上流の根尾谷断層の北寄り、山麓台地に生えている。
・エドヒガンの巨樹で、樹高22メートル、幹まわり8メートル(根元まわり11メートル)、枝張りは四方に十数メートル。
主幹にはうねるようにコブが盛り上がり、苔むし、神聖な雰囲気を漂わす。
咲き始めは白い小さな花が、盛りを過ぎる頃には薄墨色になることから「淡墨桜」の名がついた。
・大正初期の雪害などで樹勢が衰え始めたが、昭和23(1948)年、老木回生の名人と言われた前田利行が地元の人々と共に、238本の若い根を切り接ぎ、見事に蘇った。
昭和34(1959)年、伊勢湾台風により再び損傷したが、作家・宇野千代の呼びかけで保護・延命術が施され、不死鳥のごとく蘇った。国の天然記念物。
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、179頁)
【荘川桜】
●所在地/岐阜県大野郡荘川村
●開花時期/4月下旬~5月上旬
・合掌づくりで有名な世界遺産・白川郷の一角、御母衣(みほろ)ダム畔に立つ樹齢450年の2本のエドヒガンの老樹。
ダムの湖底に沈む照蓮寺、光輪寺境内にあったもので、永年、村人に愛されてきた桜である。
この桜が水没してしまうことを惜しんだ電源開発初代総裁・高碕達之助と、「桜博士」と呼ばれた笹部新太郎の熱意により、昭和35年に元あったところから、100メートルほど高い場所へ移植された。
・以来、毎年春には見事な花を咲かせ、水没地区の住民がふるさとを偲ぶシンボルとなっている。
近くに「ふるさとは水底となりつ移り来し この老桜咲けとこしえに」の歌碑がある。
県の天然記念物
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、180頁)
【山高神代桜(やまだかじんだいざくら)】
●所在地/山梨県北巨摩郡武川村
●開花時期/4月下旬~中旬
・日本一の巨桜。
樹齢1800年とも2000年ともいわれる最古の老桜。
幹まわり11メートル、根元まわり13メートルと幹の太さでは日本最大。
鳳凰三山、甲斐駒ヶ岳を望む地にある古刹・実相寺の境内にある。
・日本武尊が東征の帰途に植えたという伝説があり、それが「神代桜」の名の由来。
・文永11(1274)年、日蓮上人巡錫の折、この木の樹勢が衰えているのを見て祈念したところ、見事に蘇り繁茂したという伝説もあり、「妙法桜」とも呼ばれる。国の天然記念物。
・品種はエドヒガンで、花の色が開花と共に白くなることから「白彼岸」とも呼ばれる。
幹はコブが幾重にも重なり、年月の重さを物語っている。
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、184頁)
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