ブログ原稿≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで その5 私のブック・レポート≫
(2020年6月19日)
【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】
小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
今回のブログでは、小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』(まどか出版、2003年)の第Ⅴ章「ルーヴルのフランス絵画」を紹介してみたい。
目次を見てもわかるように、ルーヴル美術館に所蔵されたフランス絵画の次のような画家を取り上げている。
〇ラ・トゥール
〇シャルル・ル・ブラン
〇シャルダン
〇ダヴィッド
〇アングル
〇ジェリコー
〇ドラクロア
ラ・トゥールは、謎に包まれた生涯と30点に満たない作品数において、オランダのフェルメールと共通した人気を誇っている。光と影の画家として知られるが、その敬虔な作風とは裏腹に、本人は貪欲で暴力的な人間だったのは、意外である。小暮氏は、そうした人物像を浮かび上がらせ、絵だけでなく、カラヴァジオに近いものがあったとする。
次に、シャルル・ル・ブランは、ルイ14世の主席画家として、当時大変な権勢を誇った画家である。つまり王立絵画・彫刻アカデミー総裁となり、そして王立ゴブラン織り制作所監督にも任命され、宮中での権勢を手中におさめた。小暮氏は、その絵に作者の慢心を看取している。
18世紀フランスは、シャルダンという素晴らしい静物画家を輩出させた。18世紀フランス絵画の主流であった宮廷的なロココ絵画とは対照的に、台所の什器類を主題とする静物画や庶民の日常生活をテーマとする作品を多く残した。ルーヴル美術館のシャルダンの作品といえば、普通≪食前の祈り≫が取り上げられ、解説される。私のブログでも、井出洋一郎氏、中野京子氏、鈴木杜幾子氏の解説を紹介してきた。ところが、小暮満寿雄氏は、この≪食前の祈り≫については、一切言及していない。その代わり、静物画家としてのシャルダンに注目して、解説している。そして、シャルダンの静物画の系譜は、ゴッホ、セザンヌ、ピカソといった巨匠たちに受け継がれていくと、位置づけている。
そして、フランスの新古典主義の画家ダヴィッドについては、ヴェロネーゼの≪カナの婚礼≫と並んで、ルーヴル美術館でも最大の絵のひとつである≪皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠≫を解説している。パトロンのナポレオン・ボナパルトが、この絵を見た時、「これは絵ではない。画面の中に歩いて入れるようだ」と感嘆して言ったことはよく知られている。この点についての小暮氏のコメントが面白い。芝居がかった名言をいっぱい残しているナポレオンにしては、もう少し気のきいたセリフがあってもよさそうなものであると付言している。
続いて、ダヴィッドの弟子であるアングルの≪グランド・オダリスク≫等の作品を取り上げている。その振り向いた時のポーズに注目して解説しているが、菱川師宣の≪見返り美人図≫と同様、こういう姿は誇張して描かないとサマにならない場合が多いと指摘している点は、画家らしい視点であろう。そして、アングルという画家の特技として、ヴァイオリンを挙げ、かの有名なパガニーニと弦楽四重奏団を結成したエピソードを紹介している。フランス語では、本業以外の特技を「アングルのヴァイオリン」ということにも触れ、小暮氏は節の見出し名にしている。
新古典主義に対抗して登場するロマン派の画家として、ジェリコーとドラクロアを取り上げている。二人とも、ブルジョワジーという新興勢力の裕福な家庭に生まれた画家であった。ジェリコーの代表作≪メデューズ号の筏≫を、寿命を吸い取った超大作として捉えているのは、小暮氏の画家としての感性かと思う。このジェリコーの絵画は、ジャーナリズムの役割を果たしたともいう。
また、ドラクロアについては、≪キオス島の虐殺≫≪民衆を導く自由の女神≫といった代表作を解説するとともに、ドラクロアの出生の秘密として、タレーラン実父説に言及している。
さて、今回のブログでは、次のルーヴル美術館所蔵の絵画作品を取り上げる。
〇ラ・トゥール ≪大工の聖ヨセフ≫≪聖なる火を前にしたマグダラのマリア≫
〇ル・ナン兄弟 ≪農民の家族≫
〇シャルダン ≪赤エイ≫
〇ダヴィッド ≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠≫
〇アングル ≪グランド・オダリスク≫≪ヴァルパンソンの浴女≫≪リヴィエール夫人の肖像≫
〇ジェリコー ≪メデューズ号の筏≫
〇ドラクロア ≪キオス島の虐殺≫≪民衆を導く自由の女神≫
※なお、ダヴィッド、ジェリコー、ドラクロワ、シャルダンについては、私のブログでもこれまで紹介してきた。
次の私のブログを参照して頂きたい。
【ダヴィッドの≪ナポレオンの戴冠式≫について】
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その1 私のブック・レポート≫
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その2 私のブック・レポート≫
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その4 私のブック・レポート≫
【ジェリコーについて】【ドラクロワについて】
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その2 私のブック・レポート≫
【シャルダンの≪食前の祈り≫について】
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その4 私のブック・レポート≫
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その3 私のブック・レポート≫
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
ラ・トゥールの作品は、ルーヴル美術館にはわずか5点ほどだが、特異な存在感を示している。
謎に包まれた生涯と30点に満たない作品数という点において、今日、ラ・トゥールという画家はオランダのフェルメールと共通した人気を誇っている。しかし、その名が本当に注目されるようになったのは比較的最近である。
ラ・トゥールの作品がはじめて注目されるようになったのは、彼の死後から200年ほど経過した、19世紀半ばくらいであるそうだ。
カラヴァジオ流に光と影のコントラストをつけた手法は、その当時はスルバラン(1598~1664、17世紀スペイン絵画を代表する画家、セビーリャ派)やムリーリョといった、スペインの画家だと間違われていた。それがフランス北部にあったロレーヌ公国の画家、ラ・トゥールであることがわかったのは、20世紀になってからのことであった。
ロレーヌ公国は三十年戦争(1618~48年の30年間、ドイツを舞台にヨーロッパ諸国を巻きこんだ戦争)の舞台にもなり、その打撃により1634年、フランスに併合され消滅した小国であった。
こうした複雑な地域に生まれた画家の宿命のためか、30点足らずの作品数と、ラ・トゥール自身については、あまりわかっていない。
ただ、その敬虔な作風とは裏腹に、本人は貪欲で暴力的な人間だったそうだ。
パン屋の息子だったのに、警察との裁判記録など残っており、きわめて素行のわるい人だった。例えば、自分を貴族と主張してケンカを起こしたとか、猟犬を放して田畑を荒らし農民を殴りつけたとか、税金を払わなかったなどである。
絵だけでなく、ラ・トゥール本人もカラヴァジオに近いものがあったそうだ。これはアートと本人が違うよい例である。
この点について、小暮氏は独自の見解を記している。
アーチストというものが、「巫女(みこ)」に近い性格を持っており、作品(特に傑作)といわれるものは、そのまま天から降りてきたようなものが多く、神さまの媒体として存在するという。
例えば、音楽の例を引いている。ポール・マッカートニーが『イエスタデイ』を作曲した時、朝起きた時に突然、頭の中で曲が出来あがっていたという。初めから終わりまでが完璧に出来あがっていたので、「実は誰かが作った曲ではないか」とまわりに聞いて確認したそうだ。
天から本当に何かが降りてくるのか、それとも人間の大脳のなせる技か、不明だが、傑作が出来る時というのは、そんなことが往々にしてあるものらしい。
(小暮、2003年、180~182頁)
ラ・トゥールの≪大工の聖ヨセフ≫(1640年頃 137×102㎝ 油彩)も同様、天から精霊が降りてきたような神々しさである。
この≪大工の聖ヨセフ≫は少年時代のキリストが、父ヨセフに語りかけている様子を描いたものである。ただ、彼らの衣装などは完全に当時の民衆を描いており、いわゆる風俗画として見ることができる。
数少ないラ・トゥールの絵のほとんどは、風俗画とマグダラのマリアを描いたものであった。娼婦だったマグダラのマリアが、現世の欲望を捨てて、キリストに仕えるというテーマはこの時代、大変人気が高かったようだ。
(小暮、2003年、182~184頁)
ルーヴルの≪聖なる火を前にしたマグダラのマリア≫(1640~45年頃)は、全く同じ構図の絵がロサンゼルス郡立美術館にある。
ルーヴルのものは少しだけ大きく、マグダラのマリアの頭の角度、本の位置、ロウソクの明るさが微妙に違う以外は、ほとんど同じである。
どちらかが贋作というのではなく、生前のラ・トゥールの人気を考えると、当時流行したマグダラのマリアをテーマに、同じ絵のリクエストが2枚あったと小暮氏は理解している。
(ルーベンスのように、同じ絵が複数あるというのは、西洋絵画では珍しくない)
ラ・トゥールは、西洋絵画では珍しい直毛、黒髪、ロングヘアの女性をマグダラのマリアのモデルに描いている。
マリアが膝にかかえたガイコツは、当時流行した「ヴァニタス画」という、死をテーマにした一連の静物画の流れを汲むものである。
(ここルーヴル美術館にもガイコツや書物を描いた「ヴァニタス画」がたくさん展示されているから、注意して見ていくと面白いという)
(小暮、2003年、184頁~185頁)
ル・ナン兄弟(アントワーヌ 1588~1648、ルイ 1593~1648、マテュー 1607~1677)は、ラ・トゥールと同じ時期に活躍した。
その代表作が、≪農民の家族≫(1642年頃 113×159㎝ 油彩)である。
それまで絵画の主流はゴージャスな宗教画だったのが、17世紀になると、ル・ナン兄弟やラ・トゥールに見られるような、貧しく敬虔な農民を描いたものが好まれるようになった。
もちろん絵を買い上げていたのは貴族たちであるが、三十年戦争に代表される度重なる宗教戦争の影響もあったのであろう。彼らは貧しい人々の姿にキリストや使徒たちの生き方を重ねて見ていたに違いない。
17世紀中ごろのヨーロッパは宗教戦争に加え、飢饉やペストといった死と隣り合わせの時代であったから、貴族たちもみずからの贖罪に腐心したのかもしれないという。
そのような時代背景を考えて、絵を見ると、粗野だったラ・トゥールがなぜこのように敬虔な作品が描けたのかがわかるような気がすると小暮氏は述べている。
(小暮、2003年、183頁、185頁)
シャルル・ル・ブラン(1619~1690、フランスのバロック)は、ルイ14世の主席画家として、当時大変な権勢を誇っていた。彼は同時代に飛ぶ鳥を落とす勢いだった財務官フーケ(1615~80、ブルターニュの大商人の子)のごひいきとして出世した。
その後、フーケは、対抗勢力だったコルベール(1619~83、ルイ14世の財務総監)に追い落とされ失脚するが、その不興はル・ブランまで及ばなかった。
そして、コルベールのために仕事をはじめたル・ブランは再び王の主席画家となった。ル・ブランは王立絵画・彫刻アカデミー総裁となり、王立ゴブラン織り制作所監督にも任命され、王立絵画の管理もまかされ、宮廷での権勢を手中におさめる。
ル・ブランの≪アレキサンドロス大王物語≫の連作4点はその後に描かれた作品である。それぞれ高さが、約5メートル、幅は10メートル前後という大作である。
(例えば、その1枚≪アルベラの戦い≫(1669年 470×1264㎝)
今では、この絵はルーヴルの中で、最も大きく最も注目されない作品のひとつになってしまったかもしれないという。
これだけの群像を仕上げる技量、体力というのは並はずれたものだが、凡作であると評されている。小暮氏は、この絵には作者の慢心が描かれているような気がするという。ル・ブランは≪アレキサンドロス大王物語≫の連作を完成させた時、自分がミケランジェロに比肩されることを望んだというが、相当に鈍感な人と評している。
(小暮、2003年、186頁~189頁)
通常、サロンとは社交場としての集まりを意味するが、美術でいうサロンというのは、ル・ブランの時代、1667年、時の財務総監コルベールによって設立されたフランスの公募展のことを指す。サロンの正式名は、「王立絵画・彫刻アカデミー」という。
(日展や院展など上野で行われている公募展も、そのルーツは「サロン」をお手本に創設された)
公募団体というのは、アーチストという社会的に不安定な人々を、丸がかえで面倒を見るという点では、悪いしくみではない。芸術家を見出し、売り出し、作品の価格を査定し、仕事を与えるというのは、アーチスト個人ではできないことだから、そのようなマネージメントを肩代わりするというのは、特定の作家にとってはありがたいシステムである。
ところが「絶対権力は絶対腐敗する」の言葉のとおり、社会的権威が高まるほど、どんなものでも堕落する。いちど権力を手にした人間は、それを手放さない。画家や彫刻家なども同様である。新しいタイプの絵画やデザインは、ある意味で自分の地位を危うくする。そのため、自分たちの基準に沿ったアーチストのみを会員に推挙するようになっていった。
そもそもサロン展の創設者コルベールは、自由思想を厳しい検閲によって弾圧した人であった。それを主席画家ル・ブランの指導の下で、君主の栄光をたたえる学芸を奨励したのだから、出発からして、それは保守的なものであった。
サロン出品展はサロンの会員などに限られ、出品作の道徳面での検閲が行われていたから、次第に閉塞状態におちいる。
1863年に行われたサロン展では、5000点の応募に対し、3000点を落選させるという厳しいものであった。そこで、マネ、ピサロ、ファンタン・ラトゥールらが、サロン展の隣で有名なサロン落選展を行なった。それは結果として、サロン批判の声を高めることとなり、印象派の台頭へとつながっていく。
(西洋絵画の世界にも、そんな背景もあることを知っておくと、名画として後世に残っているものが、発表当時、必ずしも高い評価を得られなかった理由もわかる)
(小暮、2003年、190頁~192頁)
保守的なイメージの強いサロン展――王立アカデミーであるが、悪い面ばかりでもなかった。ポンパドゥール夫人(1721~1764、本名ジャンヌ・アントワネット・ポワソン、パリの商人の娘)のもとで、サロンはロココ芸術を開花させている。その中でジャン・シメオン・シャルダン(1699~1779)という素晴らしい静物画家を輩出させている。
ところで、シャルダンが生きた18世紀になっても、描く絵のジャンルによって、画家の番付が定められていた。最も格上とされたのは相も変わらず歴史画であった。これは古代ギリシア・ローマ時代の知識や教養が必要とされたからである。次が風俗画や肖像画で、最低ランクとされたのはシャルダンの得意とする静物画であった。
なぜ、シャルダンは当時格下だった静物画を描いたのであろうか。
おそらくそれは、シャルダンが貧しかったことと、正規のアカデミー教育を受けていなかったからといわれている。シャルダンは20歳近くになって画家修業をはじめた、いわば奥手の画家であった。
コアペルという肖像画家のもとで静物部分を描きはじめたのが、画家としての出発だったようだ。
(小暮、2003年、193頁~194頁)
≪赤エイ≫(1728年 114×146㎝ 油彩)は、シャルダンがアカデミー入会に推挙されるきっかけとなった作品である。
それには、次のようなエピソードがある。
当時のフランスにおいて静物画は、まだ番付の低いジャンルであったが、北方ルネサンスの流れをくむオランダ絵画では、すでに確立された分野であった。シャルダンがどこでオランダ静物画を学んだのかわからないが、彼はそのスタイルを充分に吸収していた。
頭のいいシャルダンは、この≪赤エイ≫が自分の作品であることを言わず、アカデミーの審査委員に、あたかも自分が絵の持ち主であるように見せた。≪赤エイ≫をオランダ絵画と間違えた審査委員は、「素晴らしい絵をお持ちでいらっしゃる」と手放しで賛美した。
その審査委員は、あとになって≪赤エイ≫がシャルダンの作品と知らされるが、一度作品を誉めた手前、発言を撤回するわけにもいかず、彼のアカデミー入会はその日のうちに許可された。
(小暮、2003年、194頁~196頁)
シャルダンには、≪赤エイ≫以外にも次のような作品がある。
〇通称名≪タバコ入れ≫(パイプと水差し)1737年頃 32.5×42㎝ 油彩
〇≪銅の貯水器≫1734年頃 28.5×23㎝ 油彩
画面のタバコ入れには手が入りそうな感じである。そして水差しの表面などは、日本の志野焼きのテクスチュアそっくりで、何やら釉薬の感触や温度まで伝わってきそうである。
一方、銅の貯水器と銀のゴブレットは、触るとヒヤッとしそうである。銅の貯水器からは、水滴の音が聞こえてきそうなほどの実在感である。
ヨーロッパには、「鍋ひとつにも精霊が宿る」という考えがあるが、まさにシャルダンの静物画はモノに何かが宿っているようである。
ところで、アカデミーに入会したあとも、シャルダンの生活は豊かではなかったらしく、来た注文は静物画であろうと風俗画であろうと、修復の依頼だろうと、何でも引き受けていたそうだ。
そして、次第に名声が高まると、シャルダンは静物画家から風俗画家に転じた。セーヌ川の生活をテーマに、食卓のようすや台所で働く人、カード遊びやシャボン玉をする少年などを描くようになった。
ただ、それには次のようなエピソードがあったらしい。
シャルダンと親しかった肖像画家アヴェドは、シャルダンによく意見やアドバイスを求めていた。自画像や猿が絵筆を持つ擬人画などを見てもわかるように、シャルダンは分析的な上、辛辣な人だったようだ。
ある日、指摘された意見が余りにきつすぎたのか、アヴェドは思わずこういったそうだ。
「そりゃ、君にはわからんだろうけど、これは詰め物料理やソーセージを描くように簡単なことじゃないのさ!」
売り言葉に買い言葉であるが、シャルダンは相当に気を悪くし、以来風俗画を描きはじめるようになったという。
しかし、やがて時代が下るにつれ、歴史画、風俗画、静物画の序列は次第に崩れていき、やがてシャルダンの静物画の系譜は、ゴッホ、セザンヌ、ピカソといった巨匠たちに受け継がれていく。
(小暮、2003年、196頁~199頁)
ダヴィッド(1748~1825)の≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠≫(1805~07年 621×979㎝ 油彩)は、ヴェロネーゼの≪カナの婚礼≫と並んで、ルーヴルでも最大の絵のひとつに数えられる。
パトロンのナポレオン・ボナパルトは、この絵をはじめて見た時に感嘆し、こう言ったそうだ。
「これは絵ではない。画面の中に歩いて入れるようだ」
(小暮氏は、芝居がかった名言をいっぱい残したナポレオンにしては、もう少し気のきいたセリフがあってもよさそうなものですとコメントしている)
ナポレオンという人は、当時からメディアの力をよく理解しており、多くの芸術家や美術品を自らのナポレオン神話に利用した。
1804年12月、パリのノートルダム寺院で行われたナポレオンの戴冠式の様子を、3年の歳月をかけて完成させたのが、この大作である。
ダヴィッドという人は、1789年から99年にかけてのフランス革命初期に、熱烈な革命派画家として売り出した人である。歴史上、画家で政治活動に身を投じた人がいないことはないが、ダヴィッドのように死後180年もたってからでも、名声とともに数々の作品を残した人は珍しい。
フランス革命中期の1794年、親交の深かったロベスピエール(1758~94)が、「テルミドールの反動」で失脚し処刑されると、ダヴィッドも投獄され、その後また運よく恩赦されて出てくる。
この人の注目すべきところは、必ずしもコバンザメのように革命家や政治家にくっついて絵を描いたのではないことであると小暮氏は理解している。
のちにナポレオンがダヴィッドを主席画家に任命したのは、この20年近く年長の画家に敬意をはらい、心酔していたからだったとみる。
司令官時代のナポレオンは、ローマ時代の英雄を描いた≪ホラティウス兄弟の誓い≫などのダヴィッドの作品を見て、「いつの日か、この画家に自分の姿を描いてもらいたい」と思い続けていたと推測している。
もっとも、≪モナ・リザ≫も、アルトドルファーの≪アレキサンドロス大王の戦い≫も、持っていた額に合わせて絵を断裁したといわれるナポレオンであるから、とりたてて美術愛好家というわけではなかったとも小暮氏は断っている。
≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠≫は、ルーヴルの中でも≪カナの婚礼≫に次いで大きな作品である。
ナポレオンの戴冠式は、はじめ広場で行われる予定だったが、混乱を避けるため、ノートルダム寺院の中で挙行された。
ナポレオンはローマ教皇がかぶせようとした冠を、自分の両手で受けとり、自らの頭上に置いてしまう。ダヴィッドの絵では、そのような不遜な瞬間ではなく、ナポレオンが自らの頭に置いた冠を、皇妃ジョゼフィーヌにかぶせる場合を採用している。
はじめてこの絵を前にしたナポレオンは、1時間近く見つめ続けた後、愛用の帽子を脱いで、画家ダヴィッドに対して最敬礼したという。
(この絵は、フランス人にはルーヴルで最も人気のある作品だといわれる)
(小暮、2003年、200頁~203頁)
エジプトのピラミッド、インドのタージ・マハルがそうであるように、権力者が自分のために造ったものが文化遺産になってしまうというパターンは多い。ナポレオンがルーヴル宮を美術館としてリニューアルさせたことも同様であった。
ルーヴル宮は今から800年ほど前、イギリスの攻撃に備えて建てられた城塞を宮殿として造営されたものであった。
ところが、17世紀になってルイ14世がヴェルサイユ宮殿に引っ越すと、ルーヴル宮は空家同然となり、アーチストや職人たちがアトリエとして勝手に住みつくようになる。ルーヴルでは芝居が頻繁に上演され、展覧会が開かれたりと、芸術の場として定着するようになり、やがて中央美術館として開設されることになる。
そして1802年、その中央美術館に目をつけたナポレオンは、自分の戦利品を無料で一般市民に公開した。これが現在のかたちになっているルーヴル美術館の原型である。
ナポレオンは、ルーヴル宮に住んでいたアーチストたちを追い出し、中央美術館をナポレオン美術館と改称し、荒れ果てた建物の大改築を試みた。
ナポレオンは美術館をメディアと位置づけていたので、ダヴィッドやグロのナポレオン絵画も、そうしたプロパガンダの一貫として描かれた作品である。
例えば、グロの≪アルコル橋のボナパルト≫(1796年 73×59㎝ 油彩)という作品がある。
グロはダヴィッドの弟子で、ナポレオンにも気に入られていた。各地を遠征するナポレオン軍に同行し、ナポレオン伝説の伝道師として活躍した。グロはナポレオンに心酔しきっていたといわれる。
(小暮、2003年、202頁~206頁)
フランス新古典主義のアングル(1780~1867)が描いた≪グランド・オダリスク≫(1814年 91×162㎝ 油彩)は、長く引き伸ばされた背中で有名である。
首から左肩にかけての曲線、そして背中から腰にかけての広い背中など、実際の人体はこのようなポーズをとることはできないといわれる。
ただ、振り向いた時の姿というのは、江戸時代の浮世絵の菱川師宣(ひしかわもろのぶ、?~1694)の≪見返り美人図≫でもそうだが、誇張して描かないとサマにならない場合が多いと小暮氏は主張している。
そもそも振り向きざまのポーズというのは、通常の人間にとって長時間耐えられる自然な姿ではないという。
アングルが残した習作のデッサンを見ればわかるように、モデルに負担のかかるムリなポーズをさせて、それをそのまま描くと、どうしても苦しそうな裸体になってしまうそうだ。
オダリスク(トルコのハーレム美女)がシスティナ礼拝堂の≪最後の審判≫みたいに、背中をねじる苦悶のポーズでは、文字通り絵にならない。
絵というのは単なる描写だけではなく、モチーフに対する印象を平面の中に封じ込める役割がある。だから、ハーレムで優雅にくつろぐ美女を、このようなポーズで描こうとすれば、実際の人体ではありえない誇張が必要になってくると小暮氏は説いている。
ところが、名画の常として、同時代、アングルのこの絵の批評は散々なものだった。
デッサンが不正確であるとか、脊椎が三つあるだとか、のっぺりしていて、まるでクラゲのような無脊椎動物のようだとか。
当時のフランス画壇は厳格なルールを旨としていたので、アカデミックな視点から酷評した。
(小暮、2003年、207頁~209頁)
ただ、アングルという人は勤勉でまじめな人だったそうだ。
例えば、ルーヴル美術館の次の3点をよく見てほしいという。
〇≪グランド・オダリスク≫(1814年 91×162㎝ 油彩)
〇≪ヴァルパンソンの浴女≫(1808年 146×97㎝ 油彩)
〇≪リヴィエール夫人の肖像≫(1805年 116×90㎝ 油彩)
これら3点は、なめらかそのものという女性たちの木目細かな肌のテクスチュアに注目してほしいと小暮氏はいう。なめらかな女性の体を描かせたら、この人の右に出る画家はいないと賞賛している。
(バサバサと筆跡が残されているドラクロアの台頭が許せなかったというのも、納得できると付言している)
≪リヴィエール夫人の肖像≫の絹やカシミヤのテクスチュアの感触が触れそうなほどに伝わってくる。
アングルは社会的なステータスの高い歴史画の分野に意欲を燃やしていたが、本当に芸術性の高い仕事は裸婦と肖像画に集中している。
歴史的なテーマを扱うドラマチックな群像は、アングルの体質とは異なっていた。≪アンジェリカを救うルッジェーロ≫を見てもわかるように、劇的な構図に対して、絵の持つテクスチュアはまったりしているという。
(ドラマチックな素材を得意にしていたドラクロアに対して、アングルは嫉妬していたかもしれないとみる)
余談だが、アングルは大変なヴァイオリンの名手だったそうだ。その腕前たるや、イタリアで仲よしになったパガニーニ(1782~1840、イタリアの伝説的ヴァイオリニスト)と、ベートーベンの弦楽四重奏を共演したことがあるそうだ。フランスでは、本業以外の特技を「アングルのヴァイオリン(Violon d’Ingres)というそうだ。
(小暮、2003年、209頁~211頁)
フランス革命の最中に生を受けたジェリコーとドラクロアという二人の画家は、ルーヴルの歴史の中では新参ものであるが、≪モナ・リザ≫のレオナルドとともに、ルーヴル美術館の顔となるコレクションを描いたアーチストである。
〇ジェリコー(1791~1824)≪メデューズ号の筏≫(1818~19年 491×716㎝ 油彩)
まず、ジェリコーの「メデューズ号の筏」は、想像していた以上に大きな絵である。
ドラクロアの≪キオス島の虐殺≫も、≪民衆を率いる自由の女神≫も大きな絵であるが、それよりひと回りもふた回りも大きな作品である。
この絵を仕上げた時、ジェリコーはまだ27歳の若さであった。彼はその5年後、32歳の若さで世を去る。まさに、この作品は死の臭いが漂ってきそうな作品であると小暮氏は思っている。“寿命を吸い取った超大作”と形容している。
この≪メデューズ号の筏≫が話題を呼んだのは、それまでの絵画がキリスト教的な主題や、神話の世界をモチーフにしていたのに対して、スキャンダラスな「事件」をモチーフにしたことである。
1816年、約400人を乗せて西アフリカの植民地に向かっていたメデューズ号は、セネガル沖で難破する。船長は真っ先に避難してしまう。タイタニック号のように、北極海で沈むのと違い、そこは西アフリカの海で、落ちただけでは簡単に死ねない。
救命ボートに乗れなかった149人は、崩壊したメデューズ号の残骸を集めて筏を作り、12日間漂流する。救助船アルゴス号によって救出された時、生存者はわずか15人であった。
この事件が世間を騒がせたのは、単なる海難事故だっただけではない。
まず、船長は政治的なコネで地位を得た人物だった。その人物が事故の責任を果たすどころか、真っ先に救命ボートに避難し、さらには筏とボートを結んだロープを断ち切って、149人を見放してしまった。
漂流中、生き残った人々はわずかに残った水と食料をめぐって争うことになり、悲惨な顚末になってしまう。
怒りに駆り立てられたジェリコーは、このメデューズ号事件をテーマに作品を描くことを考える。事件に関する調査書類を作り、生存者たちにインタビューを行い、綿密なスケッチを作成する。画家は、どうしてもひとつのドラマを一枚の絵に集約させなければならない。この事件のどの場面をビジュアル化するか、この若い画家は随分迷ったであろうが、最終的には、生存者が救出船アルゴス号を発見するシーンに絞ることになる。
(その後も多くのスケッチや油彩の習作を描いており、このルーヴルにもいくつか収蔵されている。習作は筏が大きく、アルゴス号もはっきり描かれていたり、画家がペンで下絵を描いていた跡が確認できたりするという)
ジェリコーはこの作品のために、数多くの死体のスケッチを残し、死体に執着した。アーチストが死体に執着したのは、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの解剖図にはじまるが、ジェリコーの場合、近くの病院にたのみこんで、首や手足をアトリエに持ち帰って描いていたそうだ。
こうして完成させた大作も、当時のフランス政府にとっては目の上のタンコブにすぎなかった。というのは、政府はメデューズ号の船長をその地位につけたという関係もあったからである。結局、国の買い上げにはならず、画家は失望した。
ジェリコーはイギリスにこの絵を持ち込んで、入場料を取って公開することにした。ゴシップ好きのイギリス大衆は、一目この絵を見ようと5万人が押しかけ、大変な成功をおさめた。いわば、絵画がジャーナリズムの役割を果たした。
(小暮、2003年、212頁~217頁)
1789年7月14日、バスティーユ監獄の襲撃に端を発したフランス革命は、王侯貴族が支配する世界を転覆させ、その後の政治指導者は変わり続ける。
ジェリコーやドラクロアは、その変わり行く社会の中で登場したブルジョワジーという、新興勢力の裕福な家庭に生まれた画家であった。
ジェリコーは豊かな商人の息子としてルーアンに生まれた。ウージェーヌ・ドラクロアは、政府高官シャルル・ドラクロアを父にした家庭に生を受けた。
ところが、ドラクロアに関して、その出生には生前から奇妙な噂があった。実はドラクロアの実父はシャルルではなく、世界的に名声の高かった外交官タレーラン(1754~1838)だというのである。
タレーランは、自己保身の天才といわれ、コウモリのように常に時の権力の中枢を渡り歩いた。人からは「タレーランは金儲けに精を出していないときは、陰謀を企てている」と揶揄された。
(いわば「タヌキおやじ」の政治家と小暮氏はいう)
このように世間の評判は必ずしもよくなかったが、ナポレオンからルイ18世の外相を務め、その政治手腕に高い評価があった。
ただ、タレーランは「英雄色を好む」の言葉どおりに、各界の女性と浮き名を流しており、「タレーランの落とし子」がいたことでも知られていた。
そのタレーランがドラクロアの実父というゴシップは単なる噂ではなく、確率の高い事実と、近年の調査から考えられるようになったようだ。
というのは、次のようなことがわかっているそうだ。
・父とされるシャルルは、ドラクロア誕生以前から重い膀胱炎をわずらっていて、子種を残せる状態ではなかったこと
・母の妊娠時期とシャルルの単身赴任時期が合わないという事実も、そのことを裏付けている
・ドラクロアの母ビクトアールは、この有能な外交官に魅力を感じていたといわれる
・何よりもドラクロアの風貌がシャルルに少しも似ておらず、目つきや口元、黄みがかった肌がタレーランにそっくりである
・父シャルルはドラクロアが7つの時、64歳で世を去っているし、母ビクトアールは16歳の時に死んでいる
・やがてドラクロアは、サロンデビューをして、次々と注文を受けるようになるが、そこには実父タレーランが舞台裏にいたともいわれる
(小暮、2003年、218頁~220頁)
フランス革命以後、ダヴィッドのように政治運動に参加する画家は数多く登場した。
ただ、ドラクロアは実父タレーランのことを知ってか知らずか、直接は政治に参加したがらなかったようだ。
しかし、ドラクロアが描いたルーヴル美術館の次の2枚の絵を見ると、彼の決意が窺える。
〇ドラクロア≪キオス島の虐殺≫1824年 417×354㎝ 油彩
〇ドラクロア≪民衆を導く自由の女神≫1830年 260×325㎝ 油彩
これらの絵には、ドラクロアの「祖国のために銃をとらなかったかわりに、絵筆で戦う」決意があらわれていると小暮氏は捉えている。
どちらもジェリコーの≪メデューズ号の筏≫と同様、実際の事件に触発されて描かれている。
≪キオス島の虐殺≫は、1822年、トルコの支配下から独立運動を起こしたギリシアが、キオス島で2万2000人の虐殺を受けた事件を描いている。
一方、≪民衆を導く自由の女神≫は、1830年、あの七月革命の勃発にインスピレーションを得て、絵筆をとった作品である。
七月革命は、「栄光の三日間」と呼ばれた民衆による革命で、時のフランス王シャルル10世が倒されたが、結果的には、王家と同じ血縁のオルレアン家ルイ・フィリップの即位による七月王政の成立となる。しかし、ヨーロッパ全土に自由主義の台頭が促されたことは、後世にとって大きな意味があったとされる。
ところで、小暮氏の私見によれば、ドラクロアのこの2点と、ジェリコーの≪メデューズ号の筏≫は、一見よく似たタイプの絵であるが、本質的な違いがあるという。
それは、ジェリコーの作品は着眼が、「死」と「生への執着」に向いているのに対して、ドラクロアの方はそうではない。特に≪民衆を導く自由の女神≫は、「希望」に向かって描かれた作品であると解釈している。
≪メデューズ号の筏≫では、救出される直前の瞬間を描いているのに、画家ジェリコーの興味は極限状態の人間と死体に向けられている。人体を含めて全体の画面は、苔むしたような緑に覆われていて、暗く、「死のオーラ」がひしひしと伝わってくる。
日本で平安時代には葬儀や死体というのは、それに近づくと引き込まれてしまうということで、禁忌(きんき)されていた。
この絵を描いたジェリコーが、その後、乗馬で脊髄を痛めて長生きできなかったことは、偶然ではないように思われ、みずから死に神を引き寄せたように感じられると小暮氏は述べている。
一方、≪キオス島の虐殺≫≪民衆を導く自由の女神≫には、トルコ軍の虐殺や七月革命に想を得ているにもかかわらず、そういった死のイメージはないという。
(小暮、2003年、221頁~224頁)
≪キオス島の虐殺≫が完成されたのは、ちょうどこの年のはじめにジェリコーが32歳の若さで亡くなった年であった。
この絵が発展されたサロンでは、テーマの現実性の生々しさに、「これは絵画の虐殺」だと、激しい非難が浴びせられたそうだ。ただ、今見ると、さほど残虐な描写が描かれているわけではなく、これならば、磔刑にさらされるキリスト像や、生首を持つサロメなどを描いたものの方が、はるかに残虐であると小暮氏はみている。
ここには虐殺され、死屍(しし)累々と横たわる島民の死骸は小さくしか描かれていない。ドラクロアは、畏友の念を持っていた友人ジェリコーの早すぎる死に衝撃を受け、死体を描くのを避けたのではないか、とも小暮氏は憶測している。そして、絵のサイズ(417×354㎝)がひとまわり小さいのも、早世した7歳年長の友人に対して、敬愛を込めて一歩下がったかもしれないと推測している。
なお、この≪キオス島の虐殺≫という作品の発表によって、物議をかもし出してから、アカデミーとドラクロアの間に確執が生まれた。それでも、なぜか彼はアカデミー会員にこだわり続け、毎年サロン出品をくり返し念願かなってアカデミー会員となったのは、この絵を発展してから、30年以上経った59歳の時だった。
(小暮、2003年、221頁、224頁~226頁)
18世紀後半から19世紀半ばのフランスでは、王党派、共和派が度重なる政権交代を繰り返していた。当時のフランスも革命と政権交代を繰り返し、少しずつ近代国家への脱皮をしていく発展途上国であった。
そんな1830年、再び王政をとりもどしたシャルル10世が、勝手に議会を解散させてしまったことで、民衆が蜂起し、俗にいう七月革命が起こる。
≪民衆を導く自由の女神≫は、この事件にインスピレーションを得たドラクロアが、民衆の勝利の喜びをテーマに描いた作品といわれている。
現実には、フランスの三色旗をふりかざした女性が登場したわけではなく、構図その他すべてドラクロアの創作である。
さて、自由を勝ち取ったと思われた七月革命であるが、政治的には頭がすげかわっただけであった。資本家たちは、ルイ・フィリップというオルレアン家の王族を国王に迎え、七月王政と呼ばれる政権を樹立する。
そんな七月王政の政府にとって、この絵は少々煙たい作品だった。名目上、国家はこの絵を買い上げたが、その後、このルーヴルに展示されたのは、画家の死後、11年が経ってからのことであった。
≪民衆を導く自由の女神≫は、七月革命に触発された作品だが、このような群像作品というのは、歴史画に代表されるように、どうしても絵画の技術以外の教養が必要となる。
ドラクロアは、文学や音楽にも造詣の深かった人である。フレデリック・ショパンとも親友の間柄だった。
〇ドラクロア≪フレデリック・ショパンの肖像≫(1838年 45.5×38㎝ 油彩)
このショパンの肖像画は、実物を見ると、実に顔色悪く描かれており、なるほど39歳の若さで結核で死んだというのも、わかる気がすると小暮氏は述べている。
(小暮、2003年、226頁~228頁)
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小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
(2020年6月19日)
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小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
【はじめに】
今回のブログでは、小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』(まどか出版、2003年)の第Ⅴ章「ルーヴルのフランス絵画」を紹介してみたい。
目次を見てもわかるように、ルーヴル美術館に所蔵されたフランス絵画の次のような画家を取り上げている。
〇ラ・トゥール
〇シャルル・ル・ブラン
〇シャルダン
〇ダヴィッド
〇アングル
〇ジェリコー
〇ドラクロア
ラ・トゥールは、謎に包まれた生涯と30点に満たない作品数において、オランダのフェルメールと共通した人気を誇っている。光と影の画家として知られるが、その敬虔な作風とは裏腹に、本人は貪欲で暴力的な人間だったのは、意外である。小暮氏は、そうした人物像を浮かび上がらせ、絵だけでなく、カラヴァジオに近いものがあったとする。
次に、シャルル・ル・ブランは、ルイ14世の主席画家として、当時大変な権勢を誇った画家である。つまり王立絵画・彫刻アカデミー総裁となり、そして王立ゴブラン織り制作所監督にも任命され、宮中での権勢を手中におさめた。小暮氏は、その絵に作者の慢心を看取している。
18世紀フランスは、シャルダンという素晴らしい静物画家を輩出させた。18世紀フランス絵画の主流であった宮廷的なロココ絵画とは対照的に、台所の什器類を主題とする静物画や庶民の日常生活をテーマとする作品を多く残した。ルーヴル美術館のシャルダンの作品といえば、普通≪食前の祈り≫が取り上げられ、解説される。私のブログでも、井出洋一郎氏、中野京子氏、鈴木杜幾子氏の解説を紹介してきた。ところが、小暮満寿雄氏は、この≪食前の祈り≫については、一切言及していない。その代わり、静物画家としてのシャルダンに注目して、解説している。そして、シャルダンの静物画の系譜は、ゴッホ、セザンヌ、ピカソといった巨匠たちに受け継がれていくと、位置づけている。
そして、フランスの新古典主義の画家ダヴィッドについては、ヴェロネーゼの≪カナの婚礼≫と並んで、ルーヴル美術館でも最大の絵のひとつである≪皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠≫を解説している。パトロンのナポレオン・ボナパルトが、この絵を見た時、「これは絵ではない。画面の中に歩いて入れるようだ」と感嘆して言ったことはよく知られている。この点についての小暮氏のコメントが面白い。芝居がかった名言をいっぱい残しているナポレオンにしては、もう少し気のきいたセリフがあってもよさそうなものであると付言している。
続いて、ダヴィッドの弟子であるアングルの≪グランド・オダリスク≫等の作品を取り上げている。その振り向いた時のポーズに注目して解説しているが、菱川師宣の≪見返り美人図≫と同様、こういう姿は誇張して描かないとサマにならない場合が多いと指摘している点は、画家らしい視点であろう。そして、アングルという画家の特技として、ヴァイオリンを挙げ、かの有名なパガニーニと弦楽四重奏団を結成したエピソードを紹介している。フランス語では、本業以外の特技を「アングルのヴァイオリン」ということにも触れ、小暮氏は節の見出し名にしている。
新古典主義に対抗して登場するロマン派の画家として、ジェリコーとドラクロアを取り上げている。二人とも、ブルジョワジーという新興勢力の裕福な家庭に生まれた画家であった。ジェリコーの代表作≪メデューズ号の筏≫を、寿命を吸い取った超大作として捉えているのは、小暮氏の画家としての感性かと思う。このジェリコーの絵画は、ジャーナリズムの役割を果たしたともいう。
また、ドラクロアについては、≪キオス島の虐殺≫≪民衆を導く自由の女神≫といった代表作を解説するとともに、ドラクロアの出生の秘密として、タレーラン実父説に言及している。
さて、今回のブログでは、次のルーヴル美術館所蔵の絵画作品を取り上げる。
〇ラ・トゥール ≪大工の聖ヨセフ≫≪聖なる火を前にしたマグダラのマリア≫
〇ル・ナン兄弟 ≪農民の家族≫
〇シャルダン ≪赤エイ≫
〇ダヴィッド ≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠≫
〇アングル ≪グランド・オダリスク≫≪ヴァルパンソンの浴女≫≪リヴィエール夫人の肖像≫
〇ジェリコー ≪メデューズ号の筏≫
〇ドラクロア ≪キオス島の虐殺≫≪民衆を導く自由の女神≫
※なお、ダヴィッド、ジェリコー、ドラクロワ、シャルダンについては、私のブログでもこれまで紹介してきた。
次の私のブログを参照して頂きたい。
【ダヴィッドの≪ナポレオンの戴冠式≫について】
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その1 私のブック・レポート≫
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その2 私のブック・レポート≫
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その4 私のブック・レポート≫
【ジェリコーについて】【ドラクロワについて】
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その2 私のブック・レポート≫
【シャルダンの≪食前の祈り≫について】
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その4 私のブック・レポート≫
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その3 私のブック・レポート≫
小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』まどか出版、2003年
本書の第Ⅴ章の目次は次のようになっている。
【目次】
Ⅴ ルーヴルのフランス絵画
光と影の画家ラ・トゥール
サロンとフランス絵画(シャルル・ル・ブラン)
静物画家シャルダン
ナポレオン美術館(ダヴィッドとナポレオン)
アングルのヴァイオリン
メデューズ号の筏(ジェリコー)
民衆を導く自由の女神(ドラクロア)
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
第Ⅴ章 ルーヴルのフランス絵画
光と影の画家ラ・トゥール
・忘れ去られていた画家ラ・トゥール
・ラ・トゥールの≪大工の聖ヨセフ≫
・ラ・トゥールの≪聖なる火を前にしたマグダラのマリア≫
・ル・ナン兄弟の≪農民の家族≫
サロンとフランス絵画(シャルル・ル・ブラン)
・王の主席画家シャルル・ル・ブラン
・サロンの花咲くもとで
静物画家シャルダン
・シャルダンのアカデミー入会術
・シャルダンの≪赤エイ≫
・静物画のランキング
ナポレオン美術館(ダヴィッドとナポレオン)
・ダヴィッドとナポレオン
・ルーヴルの歴史とナポレオン
アングルのヴァイオリン
・アングルの≪グランド・オダリスク≫
・アングルの≪ヴァルパンソンの浴女≫と≪リヴィエール夫人の肖像≫
メデューズ号の筏(ジェリコー)
・ジェリコーの≪メデューズ号の筏≫
民衆を導く自由の女神(ドラクロア)
・ドラクロア――その出生の秘密
・ドラクロアとジェリコーの絵画の相違
・≪キオス島の虐殺≫
・≪民衆を導く自由の女神≫
小暮満寿雄『堪能ルーヴル』の要約 第Ⅴ章 ルーヴルのフランス絵画
光と影の画家ラ・トゥール
忘れ去られていた画家ラ・トゥール
ラ・トゥールの作品は、ルーヴル美術館にはわずか5点ほどだが、特異な存在感を示している。
謎に包まれた生涯と30点に満たない作品数という点において、今日、ラ・トゥールという画家はオランダのフェルメールと共通した人気を誇っている。しかし、その名が本当に注目されるようになったのは比較的最近である。
ラ・トゥールの作品がはじめて注目されるようになったのは、彼の死後から200年ほど経過した、19世紀半ばくらいであるそうだ。
カラヴァジオ流に光と影のコントラストをつけた手法は、その当時はスルバラン(1598~1664、17世紀スペイン絵画を代表する画家、セビーリャ派)やムリーリョといった、スペインの画家だと間違われていた。それがフランス北部にあったロレーヌ公国の画家、ラ・トゥールであることがわかったのは、20世紀になってからのことであった。
ロレーヌ公国は三十年戦争(1618~48年の30年間、ドイツを舞台にヨーロッパ諸国を巻きこんだ戦争)の舞台にもなり、その打撃により1634年、フランスに併合され消滅した小国であった。
こうした複雑な地域に生まれた画家の宿命のためか、30点足らずの作品数と、ラ・トゥール自身については、あまりわかっていない。
ただ、その敬虔な作風とは裏腹に、本人は貪欲で暴力的な人間だったそうだ。
パン屋の息子だったのに、警察との裁判記録など残っており、きわめて素行のわるい人だった。例えば、自分を貴族と主張してケンカを起こしたとか、猟犬を放して田畑を荒らし農民を殴りつけたとか、税金を払わなかったなどである。
絵だけでなく、ラ・トゥール本人もカラヴァジオに近いものがあったそうだ。これはアートと本人が違うよい例である。
この点について、小暮氏は独自の見解を記している。
アーチストというものが、「巫女(みこ)」に近い性格を持っており、作品(特に傑作)といわれるものは、そのまま天から降りてきたようなものが多く、神さまの媒体として存在するという。
例えば、音楽の例を引いている。ポール・マッカートニーが『イエスタデイ』を作曲した時、朝起きた時に突然、頭の中で曲が出来あがっていたという。初めから終わりまでが完璧に出来あがっていたので、「実は誰かが作った曲ではないか」とまわりに聞いて確認したそうだ。
天から本当に何かが降りてくるのか、それとも人間の大脳のなせる技か、不明だが、傑作が出来る時というのは、そんなことが往々にしてあるものらしい。
(小暮、2003年、180~182頁)
ラ・トゥールの≪大工の聖ヨセフ≫
ラ・トゥールの≪大工の聖ヨセフ≫(1640年頃 137×102㎝ 油彩)も同様、天から精霊が降りてきたような神々しさである。
この≪大工の聖ヨセフ≫は少年時代のキリストが、父ヨセフに語りかけている様子を描いたものである。ただ、彼らの衣装などは完全に当時の民衆を描いており、いわゆる風俗画として見ることができる。
数少ないラ・トゥールの絵のほとんどは、風俗画とマグダラのマリアを描いたものであった。娼婦だったマグダラのマリアが、現世の欲望を捨てて、キリストに仕えるというテーマはこの時代、大変人気が高かったようだ。
(小暮、2003年、182~184頁)
ラ・トゥールの≪聖なる火を前にしたマグダラのマリア≫
ルーヴルの≪聖なる火を前にしたマグダラのマリア≫(1640~45年頃)は、全く同じ構図の絵がロサンゼルス郡立美術館にある。
ルーヴルのものは少しだけ大きく、マグダラのマリアの頭の角度、本の位置、ロウソクの明るさが微妙に違う以外は、ほとんど同じである。
どちらかが贋作というのではなく、生前のラ・トゥールの人気を考えると、当時流行したマグダラのマリアをテーマに、同じ絵のリクエストが2枚あったと小暮氏は理解している。
(ルーベンスのように、同じ絵が複数あるというのは、西洋絵画では珍しくない)
ラ・トゥールは、西洋絵画では珍しい直毛、黒髪、ロングヘアの女性をマグダラのマリアのモデルに描いている。
マリアが膝にかかえたガイコツは、当時流行した「ヴァニタス画」という、死をテーマにした一連の静物画の流れを汲むものである。
(ここルーヴル美術館にもガイコツや書物を描いた「ヴァニタス画」がたくさん展示されているから、注意して見ていくと面白いという)
(小暮、2003年、184頁~185頁)
ル・ナン兄弟の≪農民の家族≫
ル・ナン兄弟(アントワーヌ 1588~1648、ルイ 1593~1648、マテュー 1607~1677)は、ラ・トゥールと同じ時期に活躍した。
その代表作が、≪農民の家族≫(1642年頃 113×159㎝ 油彩)である。
それまで絵画の主流はゴージャスな宗教画だったのが、17世紀になると、ル・ナン兄弟やラ・トゥールに見られるような、貧しく敬虔な農民を描いたものが好まれるようになった。
もちろん絵を買い上げていたのは貴族たちであるが、三十年戦争に代表される度重なる宗教戦争の影響もあったのであろう。彼らは貧しい人々の姿にキリストや使徒たちの生き方を重ねて見ていたに違いない。
17世紀中ごろのヨーロッパは宗教戦争に加え、飢饉やペストといった死と隣り合わせの時代であったから、貴族たちもみずからの贖罪に腐心したのかもしれないという。
そのような時代背景を考えて、絵を見ると、粗野だったラ・トゥールがなぜこのように敬虔な作品が描けたのかがわかるような気がすると小暮氏は述べている。
(小暮、2003年、183頁、185頁)
サロンとフランス絵画
王の主席画家シャルル・ル・ブラン
シャルル・ル・ブラン(1619~1690、フランスのバロック)は、ルイ14世の主席画家として、当時大変な権勢を誇っていた。彼は同時代に飛ぶ鳥を落とす勢いだった財務官フーケ(1615~80、ブルターニュの大商人の子)のごひいきとして出世した。
その後、フーケは、対抗勢力だったコルベール(1619~83、ルイ14世の財務総監)に追い落とされ失脚するが、その不興はル・ブランまで及ばなかった。
そして、コルベールのために仕事をはじめたル・ブランは再び王の主席画家となった。ル・ブランは王立絵画・彫刻アカデミー総裁となり、王立ゴブラン織り制作所監督にも任命され、王立絵画の管理もまかされ、宮廷での権勢を手中におさめる。
ル・ブランの≪アレキサンドロス大王物語≫の連作4点はその後に描かれた作品である。それぞれ高さが、約5メートル、幅は10メートル前後という大作である。
(例えば、その1枚≪アルベラの戦い≫(1669年 470×1264㎝)
今では、この絵はルーヴルの中で、最も大きく最も注目されない作品のひとつになってしまったかもしれないという。
これだけの群像を仕上げる技量、体力というのは並はずれたものだが、凡作であると評されている。小暮氏は、この絵には作者の慢心が描かれているような気がするという。ル・ブランは≪アレキサンドロス大王物語≫の連作を完成させた時、自分がミケランジェロに比肩されることを望んだというが、相当に鈍感な人と評している。
(小暮、2003年、186頁~189頁)
サロンの花咲くもとで
通常、サロンとは社交場としての集まりを意味するが、美術でいうサロンというのは、ル・ブランの時代、1667年、時の財務総監コルベールによって設立されたフランスの公募展のことを指す。サロンの正式名は、「王立絵画・彫刻アカデミー」という。
(日展や院展など上野で行われている公募展も、そのルーツは「サロン」をお手本に創設された)
公募団体というのは、アーチストという社会的に不安定な人々を、丸がかえで面倒を見るという点では、悪いしくみではない。芸術家を見出し、売り出し、作品の価格を査定し、仕事を与えるというのは、アーチスト個人ではできないことだから、そのようなマネージメントを肩代わりするというのは、特定の作家にとってはありがたいシステムである。
ところが「絶対権力は絶対腐敗する」の言葉のとおり、社会的権威が高まるほど、どんなものでも堕落する。いちど権力を手にした人間は、それを手放さない。画家や彫刻家なども同様である。新しいタイプの絵画やデザインは、ある意味で自分の地位を危うくする。そのため、自分たちの基準に沿ったアーチストのみを会員に推挙するようになっていった。
そもそもサロン展の創設者コルベールは、自由思想を厳しい検閲によって弾圧した人であった。それを主席画家ル・ブランの指導の下で、君主の栄光をたたえる学芸を奨励したのだから、出発からして、それは保守的なものであった。
サロン出品展はサロンの会員などに限られ、出品作の道徳面での検閲が行われていたから、次第に閉塞状態におちいる。
1863年に行われたサロン展では、5000点の応募に対し、3000点を落選させるという厳しいものであった。そこで、マネ、ピサロ、ファンタン・ラトゥールらが、サロン展の隣で有名なサロン落選展を行なった。それは結果として、サロン批判の声を高めることとなり、印象派の台頭へとつながっていく。
(西洋絵画の世界にも、そんな背景もあることを知っておくと、名画として後世に残っているものが、発表当時、必ずしも高い評価を得られなかった理由もわかる)
(小暮、2003年、190頁~192頁)
静物画家シャルダン
シャルダンのアカデミー入会術
保守的なイメージの強いサロン展――王立アカデミーであるが、悪い面ばかりでもなかった。ポンパドゥール夫人(1721~1764、本名ジャンヌ・アントワネット・ポワソン、パリの商人の娘)のもとで、サロンはロココ芸術を開花させている。その中でジャン・シメオン・シャルダン(1699~1779)という素晴らしい静物画家を輩出させている。
ところで、シャルダンが生きた18世紀になっても、描く絵のジャンルによって、画家の番付が定められていた。最も格上とされたのは相も変わらず歴史画であった。これは古代ギリシア・ローマ時代の知識や教養が必要とされたからである。次が風俗画や肖像画で、最低ランクとされたのはシャルダンの得意とする静物画であった。
なぜ、シャルダンは当時格下だった静物画を描いたのであろうか。
おそらくそれは、シャルダンが貧しかったことと、正規のアカデミー教育を受けていなかったからといわれている。シャルダンは20歳近くになって画家修業をはじめた、いわば奥手の画家であった。
コアペルという肖像画家のもとで静物部分を描きはじめたのが、画家としての出発だったようだ。
(小暮、2003年、193頁~194頁)
シャルダンの≪赤エイ≫
≪赤エイ≫(1728年 114×146㎝ 油彩)は、シャルダンがアカデミー入会に推挙されるきっかけとなった作品である。
それには、次のようなエピソードがある。
当時のフランスにおいて静物画は、まだ番付の低いジャンルであったが、北方ルネサンスの流れをくむオランダ絵画では、すでに確立された分野であった。シャルダンがどこでオランダ静物画を学んだのかわからないが、彼はそのスタイルを充分に吸収していた。
頭のいいシャルダンは、この≪赤エイ≫が自分の作品であることを言わず、アカデミーの審査委員に、あたかも自分が絵の持ち主であるように見せた。≪赤エイ≫をオランダ絵画と間違えた審査委員は、「素晴らしい絵をお持ちでいらっしゃる」と手放しで賛美した。
その審査委員は、あとになって≪赤エイ≫がシャルダンの作品と知らされるが、一度作品を誉めた手前、発言を撤回するわけにもいかず、彼のアカデミー入会はその日のうちに許可された。
(小暮、2003年、194頁~196頁)
静物画のランキング
シャルダンには、≪赤エイ≫以外にも次のような作品がある。
〇通称名≪タバコ入れ≫(パイプと水差し)1737年頃 32.5×42㎝ 油彩
〇≪銅の貯水器≫1734年頃 28.5×23㎝ 油彩
画面のタバコ入れには手が入りそうな感じである。そして水差しの表面などは、日本の志野焼きのテクスチュアそっくりで、何やら釉薬の感触や温度まで伝わってきそうである。
一方、銅の貯水器と銀のゴブレットは、触るとヒヤッとしそうである。銅の貯水器からは、水滴の音が聞こえてきそうなほどの実在感である。
ヨーロッパには、「鍋ひとつにも精霊が宿る」という考えがあるが、まさにシャルダンの静物画はモノに何かが宿っているようである。
ところで、アカデミーに入会したあとも、シャルダンの生活は豊かではなかったらしく、来た注文は静物画であろうと風俗画であろうと、修復の依頼だろうと、何でも引き受けていたそうだ。
そして、次第に名声が高まると、シャルダンは静物画家から風俗画家に転じた。セーヌ川の生活をテーマに、食卓のようすや台所で働く人、カード遊びやシャボン玉をする少年などを描くようになった。
ただ、それには次のようなエピソードがあったらしい。
シャルダンと親しかった肖像画家アヴェドは、シャルダンによく意見やアドバイスを求めていた。自画像や猿が絵筆を持つ擬人画などを見てもわかるように、シャルダンは分析的な上、辛辣な人だったようだ。
ある日、指摘された意見が余りにきつすぎたのか、アヴェドは思わずこういったそうだ。
「そりゃ、君にはわからんだろうけど、これは詰め物料理やソーセージを描くように簡単なことじゃないのさ!」
売り言葉に買い言葉であるが、シャルダンは相当に気を悪くし、以来風俗画を描きはじめるようになったという。
しかし、やがて時代が下るにつれ、歴史画、風俗画、静物画の序列は次第に崩れていき、やがてシャルダンの静物画の系譜は、ゴッホ、セザンヌ、ピカソといった巨匠たちに受け継がれていく。
(小暮、2003年、196頁~199頁)
ナポレオン美術館
ダヴィッドとナポレオン
ダヴィッド(1748~1825)の≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠≫(1805~07年 621×979㎝ 油彩)は、ヴェロネーゼの≪カナの婚礼≫と並んで、ルーヴルでも最大の絵のひとつに数えられる。
パトロンのナポレオン・ボナパルトは、この絵をはじめて見た時に感嘆し、こう言ったそうだ。
「これは絵ではない。画面の中に歩いて入れるようだ」
(小暮氏は、芝居がかった名言をいっぱい残したナポレオンにしては、もう少し気のきいたセリフがあってもよさそうなものですとコメントしている)
ナポレオンという人は、当時からメディアの力をよく理解しており、多くの芸術家や美術品を自らのナポレオン神話に利用した。
1804年12月、パリのノートルダム寺院で行われたナポレオンの戴冠式の様子を、3年の歳月をかけて完成させたのが、この大作である。
ダヴィッドという人は、1789年から99年にかけてのフランス革命初期に、熱烈な革命派画家として売り出した人である。歴史上、画家で政治活動に身を投じた人がいないことはないが、ダヴィッドのように死後180年もたってからでも、名声とともに数々の作品を残した人は珍しい。
フランス革命中期の1794年、親交の深かったロベスピエール(1758~94)が、「テルミドールの反動」で失脚し処刑されると、ダヴィッドも投獄され、その後また運よく恩赦されて出てくる。
この人の注目すべきところは、必ずしもコバンザメのように革命家や政治家にくっついて絵を描いたのではないことであると小暮氏は理解している。
のちにナポレオンがダヴィッドを主席画家に任命したのは、この20年近く年長の画家に敬意をはらい、心酔していたからだったとみる。
司令官時代のナポレオンは、ローマ時代の英雄を描いた≪ホラティウス兄弟の誓い≫などのダヴィッドの作品を見て、「いつの日か、この画家に自分の姿を描いてもらいたい」と思い続けていたと推測している。
もっとも、≪モナ・リザ≫も、アルトドルファーの≪アレキサンドロス大王の戦い≫も、持っていた額に合わせて絵を断裁したといわれるナポレオンであるから、とりたてて美術愛好家というわけではなかったとも小暮氏は断っている。
≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠≫は、ルーヴルの中でも≪カナの婚礼≫に次いで大きな作品である。
ナポレオンの戴冠式は、はじめ広場で行われる予定だったが、混乱を避けるため、ノートルダム寺院の中で挙行された。
ナポレオンはローマ教皇がかぶせようとした冠を、自分の両手で受けとり、自らの頭上に置いてしまう。ダヴィッドの絵では、そのような不遜な瞬間ではなく、ナポレオンが自らの頭に置いた冠を、皇妃ジョゼフィーヌにかぶせる場合を採用している。
はじめてこの絵を前にしたナポレオンは、1時間近く見つめ続けた後、愛用の帽子を脱いで、画家ダヴィッドに対して最敬礼したという。
(この絵は、フランス人にはルーヴルで最も人気のある作品だといわれる)
(小暮、2003年、200頁~203頁)
ルーヴルの歴史とナポレオン
エジプトのピラミッド、インドのタージ・マハルがそうであるように、権力者が自分のために造ったものが文化遺産になってしまうというパターンは多い。ナポレオンがルーヴル宮を美術館としてリニューアルさせたことも同様であった。
ルーヴル宮は今から800年ほど前、イギリスの攻撃に備えて建てられた城塞を宮殿として造営されたものであった。
ところが、17世紀になってルイ14世がヴェルサイユ宮殿に引っ越すと、ルーヴル宮は空家同然となり、アーチストや職人たちがアトリエとして勝手に住みつくようになる。ルーヴルでは芝居が頻繁に上演され、展覧会が開かれたりと、芸術の場として定着するようになり、やがて中央美術館として開設されることになる。
そして1802年、その中央美術館に目をつけたナポレオンは、自分の戦利品を無料で一般市民に公開した。これが現在のかたちになっているルーヴル美術館の原型である。
ナポレオンは、ルーヴル宮に住んでいたアーチストたちを追い出し、中央美術館をナポレオン美術館と改称し、荒れ果てた建物の大改築を試みた。
ナポレオンは美術館をメディアと位置づけていたので、ダヴィッドやグロのナポレオン絵画も、そうしたプロパガンダの一貫として描かれた作品である。
例えば、グロの≪アルコル橋のボナパルト≫(1796年 73×59㎝ 油彩)という作品がある。
グロはダヴィッドの弟子で、ナポレオンにも気に入られていた。各地を遠征するナポレオン軍に同行し、ナポレオン伝説の伝道師として活躍した。グロはナポレオンに心酔しきっていたといわれる。
(小暮、2003年、202頁~206頁)
アングルのヴァイオリン
アングルの≪グランド・オダリスク≫
フランス新古典主義のアングル(1780~1867)が描いた≪グランド・オダリスク≫(1814年 91×162㎝ 油彩)は、長く引き伸ばされた背中で有名である。
首から左肩にかけての曲線、そして背中から腰にかけての広い背中など、実際の人体はこのようなポーズをとることはできないといわれる。
ただ、振り向いた時の姿というのは、江戸時代の浮世絵の菱川師宣(ひしかわもろのぶ、?~1694)の≪見返り美人図≫でもそうだが、誇張して描かないとサマにならない場合が多いと小暮氏は主張している。
そもそも振り向きざまのポーズというのは、通常の人間にとって長時間耐えられる自然な姿ではないという。
アングルが残した習作のデッサンを見ればわかるように、モデルに負担のかかるムリなポーズをさせて、それをそのまま描くと、どうしても苦しそうな裸体になってしまうそうだ。
オダリスク(トルコのハーレム美女)がシスティナ礼拝堂の≪最後の審判≫みたいに、背中をねじる苦悶のポーズでは、文字通り絵にならない。
絵というのは単なる描写だけではなく、モチーフに対する印象を平面の中に封じ込める役割がある。だから、ハーレムで優雅にくつろぐ美女を、このようなポーズで描こうとすれば、実際の人体ではありえない誇張が必要になってくると小暮氏は説いている。
ところが、名画の常として、同時代、アングルのこの絵の批評は散々なものだった。
デッサンが不正確であるとか、脊椎が三つあるだとか、のっぺりしていて、まるでクラゲのような無脊椎動物のようだとか。
当時のフランス画壇は厳格なルールを旨としていたので、アカデミックな視点から酷評した。
(小暮、2003年、207頁~209頁)
アングルの≪ヴァルパンソンの浴女≫と≪リヴィエール夫人の肖像≫
ただ、アングルという人は勤勉でまじめな人だったそうだ。
例えば、ルーヴル美術館の次の3点をよく見てほしいという。
〇≪グランド・オダリスク≫(1814年 91×162㎝ 油彩)
〇≪ヴァルパンソンの浴女≫(1808年 146×97㎝ 油彩)
〇≪リヴィエール夫人の肖像≫(1805年 116×90㎝ 油彩)
これら3点は、なめらかそのものという女性たちの木目細かな肌のテクスチュアに注目してほしいと小暮氏はいう。なめらかな女性の体を描かせたら、この人の右に出る画家はいないと賞賛している。
(バサバサと筆跡が残されているドラクロアの台頭が許せなかったというのも、納得できると付言している)
≪リヴィエール夫人の肖像≫の絹やカシミヤのテクスチュアの感触が触れそうなほどに伝わってくる。
アングルは社会的なステータスの高い歴史画の分野に意欲を燃やしていたが、本当に芸術性の高い仕事は裸婦と肖像画に集中している。
歴史的なテーマを扱うドラマチックな群像は、アングルの体質とは異なっていた。≪アンジェリカを救うルッジェーロ≫を見てもわかるように、劇的な構図に対して、絵の持つテクスチュアはまったりしているという。
(ドラマチックな素材を得意にしていたドラクロアに対して、アングルは嫉妬していたかもしれないとみる)
余談だが、アングルは大変なヴァイオリンの名手だったそうだ。その腕前たるや、イタリアで仲よしになったパガニーニ(1782~1840、イタリアの伝説的ヴァイオリニスト)と、ベートーベンの弦楽四重奏を共演したことがあるそうだ。フランスでは、本業以外の特技を「アングルのヴァイオリン(Violon d’Ingres)というそうだ。
(小暮、2003年、209頁~211頁)
メデューズ号の筏
ジェリコーの≪メデューズ号の筏≫
フランス革命の最中に生を受けたジェリコーとドラクロアという二人の画家は、ルーヴルの歴史の中では新参ものであるが、≪モナ・リザ≫のレオナルドとともに、ルーヴル美術館の顔となるコレクションを描いたアーチストである。
〇ジェリコー(1791~1824)≪メデューズ号の筏≫(1818~19年 491×716㎝ 油彩)
まず、ジェリコーの「メデューズ号の筏」は、想像していた以上に大きな絵である。
ドラクロアの≪キオス島の虐殺≫も、≪民衆を率いる自由の女神≫も大きな絵であるが、それよりひと回りもふた回りも大きな作品である。
この絵を仕上げた時、ジェリコーはまだ27歳の若さであった。彼はその5年後、32歳の若さで世を去る。まさに、この作品は死の臭いが漂ってきそうな作品であると小暮氏は思っている。“寿命を吸い取った超大作”と形容している。
この≪メデューズ号の筏≫が話題を呼んだのは、それまでの絵画がキリスト教的な主題や、神話の世界をモチーフにしていたのに対して、スキャンダラスな「事件」をモチーフにしたことである。
1816年、約400人を乗せて西アフリカの植民地に向かっていたメデューズ号は、セネガル沖で難破する。船長は真っ先に避難してしまう。タイタニック号のように、北極海で沈むのと違い、そこは西アフリカの海で、落ちただけでは簡単に死ねない。
救命ボートに乗れなかった149人は、崩壊したメデューズ号の残骸を集めて筏を作り、12日間漂流する。救助船アルゴス号によって救出された時、生存者はわずか15人であった。
この事件が世間を騒がせたのは、単なる海難事故だっただけではない。
まず、船長は政治的なコネで地位を得た人物だった。その人物が事故の責任を果たすどころか、真っ先に救命ボートに避難し、さらには筏とボートを結んだロープを断ち切って、149人を見放してしまった。
漂流中、生き残った人々はわずかに残った水と食料をめぐって争うことになり、悲惨な顚末になってしまう。
怒りに駆り立てられたジェリコーは、このメデューズ号事件をテーマに作品を描くことを考える。事件に関する調査書類を作り、生存者たちにインタビューを行い、綿密なスケッチを作成する。画家は、どうしてもひとつのドラマを一枚の絵に集約させなければならない。この事件のどの場面をビジュアル化するか、この若い画家は随分迷ったであろうが、最終的には、生存者が救出船アルゴス号を発見するシーンに絞ることになる。
(その後も多くのスケッチや油彩の習作を描いており、このルーヴルにもいくつか収蔵されている。習作は筏が大きく、アルゴス号もはっきり描かれていたり、画家がペンで下絵を描いていた跡が確認できたりするという)
ジェリコーはこの作品のために、数多くの死体のスケッチを残し、死体に執着した。アーチストが死体に執着したのは、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの解剖図にはじまるが、ジェリコーの場合、近くの病院にたのみこんで、首や手足をアトリエに持ち帰って描いていたそうだ。
こうして完成させた大作も、当時のフランス政府にとっては目の上のタンコブにすぎなかった。というのは、政府はメデューズ号の船長をその地位につけたという関係もあったからである。結局、国の買い上げにはならず、画家は失望した。
ジェリコーはイギリスにこの絵を持ち込んで、入場料を取って公開することにした。ゴシップ好きのイギリス大衆は、一目この絵を見ようと5万人が押しかけ、大変な成功をおさめた。いわば、絵画がジャーナリズムの役割を果たした。
(小暮、2003年、212頁~217頁)
民衆を導く自由の女神
ドラクロア――その出生の秘密
1789年7月14日、バスティーユ監獄の襲撃に端を発したフランス革命は、王侯貴族が支配する世界を転覆させ、その後の政治指導者は変わり続ける。
ジェリコーやドラクロアは、その変わり行く社会の中で登場したブルジョワジーという、新興勢力の裕福な家庭に生まれた画家であった。
ジェリコーは豊かな商人の息子としてルーアンに生まれた。ウージェーヌ・ドラクロアは、政府高官シャルル・ドラクロアを父にした家庭に生を受けた。
ところが、ドラクロアに関して、その出生には生前から奇妙な噂があった。実はドラクロアの実父はシャルルではなく、世界的に名声の高かった外交官タレーラン(1754~1838)だというのである。
タレーランは、自己保身の天才といわれ、コウモリのように常に時の権力の中枢を渡り歩いた。人からは「タレーランは金儲けに精を出していないときは、陰謀を企てている」と揶揄された。
(いわば「タヌキおやじ」の政治家と小暮氏はいう)
このように世間の評判は必ずしもよくなかったが、ナポレオンからルイ18世の外相を務め、その政治手腕に高い評価があった。
ただ、タレーランは「英雄色を好む」の言葉どおりに、各界の女性と浮き名を流しており、「タレーランの落とし子」がいたことでも知られていた。
そのタレーランがドラクロアの実父というゴシップは単なる噂ではなく、確率の高い事実と、近年の調査から考えられるようになったようだ。
というのは、次のようなことがわかっているそうだ。
・父とされるシャルルは、ドラクロア誕生以前から重い膀胱炎をわずらっていて、子種を残せる状態ではなかったこと
・母の妊娠時期とシャルルの単身赴任時期が合わないという事実も、そのことを裏付けている
・ドラクロアの母ビクトアールは、この有能な外交官に魅力を感じていたといわれる
・何よりもドラクロアの風貌がシャルルに少しも似ておらず、目つきや口元、黄みがかった肌がタレーランにそっくりである
・父シャルルはドラクロアが7つの時、64歳で世を去っているし、母ビクトアールは16歳の時に死んでいる
・やがてドラクロアは、サロンデビューをして、次々と注文を受けるようになるが、そこには実父タレーランが舞台裏にいたともいわれる
(小暮、2003年、218頁~220頁)
ドラクロアとジェリコーの絵画の相違
フランス革命以後、ダヴィッドのように政治運動に参加する画家は数多く登場した。
ただ、ドラクロアは実父タレーランのことを知ってか知らずか、直接は政治に参加したがらなかったようだ。
しかし、ドラクロアが描いたルーヴル美術館の次の2枚の絵を見ると、彼の決意が窺える。
〇ドラクロア≪キオス島の虐殺≫1824年 417×354㎝ 油彩
〇ドラクロア≪民衆を導く自由の女神≫1830年 260×325㎝ 油彩
これらの絵には、ドラクロアの「祖国のために銃をとらなかったかわりに、絵筆で戦う」決意があらわれていると小暮氏は捉えている。
どちらもジェリコーの≪メデューズ号の筏≫と同様、実際の事件に触発されて描かれている。
≪キオス島の虐殺≫は、1822年、トルコの支配下から独立運動を起こしたギリシアが、キオス島で2万2000人の虐殺を受けた事件を描いている。
一方、≪民衆を導く自由の女神≫は、1830年、あの七月革命の勃発にインスピレーションを得て、絵筆をとった作品である。
七月革命は、「栄光の三日間」と呼ばれた民衆による革命で、時のフランス王シャルル10世が倒されたが、結果的には、王家と同じ血縁のオルレアン家ルイ・フィリップの即位による七月王政の成立となる。しかし、ヨーロッパ全土に自由主義の台頭が促されたことは、後世にとって大きな意味があったとされる。
ところで、小暮氏の私見によれば、ドラクロアのこの2点と、ジェリコーの≪メデューズ号の筏≫は、一見よく似たタイプの絵であるが、本質的な違いがあるという。
それは、ジェリコーの作品は着眼が、「死」と「生への執着」に向いているのに対して、ドラクロアの方はそうではない。特に≪民衆を導く自由の女神≫は、「希望」に向かって描かれた作品であると解釈している。
≪メデューズ号の筏≫では、救出される直前の瞬間を描いているのに、画家ジェリコーの興味は極限状態の人間と死体に向けられている。人体を含めて全体の画面は、苔むしたような緑に覆われていて、暗く、「死のオーラ」がひしひしと伝わってくる。
日本で平安時代には葬儀や死体というのは、それに近づくと引き込まれてしまうということで、禁忌(きんき)されていた。
この絵を描いたジェリコーが、その後、乗馬で脊髄を痛めて長生きできなかったことは、偶然ではないように思われ、みずから死に神を引き寄せたように感じられると小暮氏は述べている。
一方、≪キオス島の虐殺≫≪民衆を導く自由の女神≫には、トルコ軍の虐殺や七月革命に想を得ているにもかかわらず、そういった死のイメージはないという。
(小暮、2003年、221頁~224頁)
≪キオス島の虐殺≫
≪キオス島の虐殺≫が完成されたのは、ちょうどこの年のはじめにジェリコーが32歳の若さで亡くなった年であった。
この絵が発展されたサロンでは、テーマの現実性の生々しさに、「これは絵画の虐殺」だと、激しい非難が浴びせられたそうだ。ただ、今見ると、さほど残虐な描写が描かれているわけではなく、これならば、磔刑にさらされるキリスト像や、生首を持つサロメなどを描いたものの方が、はるかに残虐であると小暮氏はみている。
ここには虐殺され、死屍(しし)累々と横たわる島民の死骸は小さくしか描かれていない。ドラクロアは、畏友の念を持っていた友人ジェリコーの早すぎる死に衝撃を受け、死体を描くのを避けたのではないか、とも小暮氏は憶測している。そして、絵のサイズ(417×354㎝)がひとまわり小さいのも、早世した7歳年長の友人に対して、敬愛を込めて一歩下がったかもしれないと推測している。
なお、この≪キオス島の虐殺≫という作品の発表によって、物議をかもし出してから、アカデミーとドラクロアの間に確執が生まれた。それでも、なぜか彼はアカデミー会員にこだわり続け、毎年サロン出品をくり返し念願かなってアカデミー会員となったのは、この絵を発展してから、30年以上経った59歳の時だった。
(小暮、2003年、221頁、224頁~226頁)
≪民衆を導く自由の女神≫
18世紀後半から19世紀半ばのフランスでは、王党派、共和派が度重なる政権交代を繰り返していた。当時のフランスも革命と政権交代を繰り返し、少しずつ近代国家への脱皮をしていく発展途上国であった。
そんな1830年、再び王政をとりもどしたシャルル10世が、勝手に議会を解散させてしまったことで、民衆が蜂起し、俗にいう七月革命が起こる。
≪民衆を導く自由の女神≫は、この事件にインスピレーションを得たドラクロアが、民衆の勝利の喜びをテーマに描いた作品といわれている。
現実には、フランスの三色旗をふりかざした女性が登場したわけではなく、構図その他すべてドラクロアの創作である。
さて、自由を勝ち取ったと思われた七月革命であるが、政治的には頭がすげかわっただけであった。資本家たちは、ルイ・フィリップというオルレアン家の王族を国王に迎え、七月王政と呼ばれる政権を樹立する。
そんな七月王政の政府にとって、この絵は少々煙たい作品だった。名目上、国家はこの絵を買い上げたが、その後、このルーヴルに展示されたのは、画家の死後、11年が経ってからのことであった。
≪民衆を導く自由の女神≫は、七月革命に触発された作品だが、このような群像作品というのは、歴史画に代表されるように、どうしても絵画の技術以外の教養が必要となる。
ドラクロアは、文学や音楽にも造詣の深かった人である。フレデリック・ショパンとも親友の間柄だった。
〇ドラクロア≪フレデリック・ショパンの肖像≫(1838年 45.5×38㎝ 油彩)
このショパンの肖像画は、実物を見ると、実に顔色悪く描かれており、なるほど39歳の若さで結核で死んだというのも、わかる気がすると小暮氏は述べている。
(小暮、2003年、226頁~228頁)
【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】
小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
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