≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで その4 私のブック・レポート≫
(2020年6月16日)
【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】
小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
今回のブログでは、小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』(まどか出版、2003年)の第Ⅳ章「市民が育てた北方ルネサンス」を紹介してみたい。
今回、紹介する第Ⅳ章において、ルーヴル美術館所蔵のフランドル(ファン・アイク)およびオランダ(ルーベンス、レンブラント、フェルメール)の画家を主に取り上げ、解説している。
これら4人の画家については、これまで私のブログでも、何度も紹介してきたが、画家としての小暮満寿雄氏の独特の解説も見られる。
例えば、ルーベンス工房とレンブラント工房との違い、ルーベンスとカラヴァッジョの物語を4コマ漫画で説明し、二人の対照的性格を浮かび上がらせるなど、叙述に工夫もみられる。また、画家らしく、絵画の贋作問題にも留意を払い、レンブラント・リサーチ・プロジェクト(RRP)の調査結果などにも言及している。
そして、画家としての独自の審美眼と作品鑑賞の視点から、オランダ美術の静物画の中で、ヘームの≪デザート≫という作品は、オランダ静物画の中でも最大にして最高の作品であるとし、ルーヴル美術館の隠れた名品と評している。
さて、今回のブログでは、次のルーヴル美術館所蔵の絵画作品を取り上げる。
〇ファン・アイク ≪宰相ロランの聖母≫
〇ルーベンス ≪マリー・ド・メディシスの生涯≫
〇レンブラント ≪バテシバの水浴≫
〇フェルメール ≪レースを編む女≫≪天文学者≫
〇ハルス ≪ジプシー女≫≪リュートを弾く道化者≫
〇ヘーム ≪デザート≫~オランダ静物画の中でも最大にして最高の作品(ルーヴル美術館の隠れた名品)
※なお、フランドル(ファン・アイク)およびオランダ(ルーベンス、レンブラント、フェルメール)については、私のブログでもこれまで紹介してきた。
次の私のブログを参照して頂きたい。
【ファン・アイクについて】
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その7 私のブック・レポート≫
【ルーベンスについて】および【レンブラントについて】
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その2 私のブック・レポート≫
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その8 私のブック・レポート≫
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その3 私のブック・レポート≫
【フェルメールについて】
≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』を読んで その1 私のブック・レポート≫
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
ヤン・ファン・アイク(1390?~1441、フランドル)の≪宰相ロランの聖母≫(1435年、
66×62㎝、油彩)は緻密な写実描写である。それがかえって、作品に神秘的な雰囲気をたたえている。
15世紀のこの時代、イタリアではフィレンツェを中心としてルネサンスが花盛りを迎えていたが、一方でアルプスの北側にあたる、フランスやドイツ、ネーデルラントにも新しい芸術が生まれた。
その中でもドイツからネーデルラントにかけての地域で起こったものを「北方ルネサンス」と呼んでいて、西洋絵画史の中でも重要な位置を占めている。
ネーデルラントは、低地を意味するオランダ語で、現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、いわゆるベネルクス三国周辺の文化圏を総称する呼び名のことである。フランドルというのは、その中でも、南部にあたる地方で、現在のベルギー西部からフランス北端部にかけての地域を指す。15~16世紀において、フランドル地方はネーデルラントの中でも政治や文化、経済の中心地になっていた。
(小暮、2003年、120頁~122頁)
そのフランドル絵画の創始者と呼ばれているのが、このファン・アイクである。
俗にファン・アイク兄弟と呼ばれるが、単にファン・アイクと呼ぶ場合は、弟のヤンを指しているケースが多い。兄のフーベルトについては謎に包まれており、≪ヘント祭壇画≫の共同制作をした。兄弟がどういった形で仕事を分担していたかという記録は残っていない。
また、油絵具がファン・アイク兄弟によって作られたという伝説がある。特にフランドル絵画の人気が高かったイタリアでは、それが通説とされてきた。実際には彼ら以前にも油彩画はあったのであるが、それを完成させたのが、ファン・アイク兄弟だったといわれる。
(小暮、2003年、122頁~123頁)
古代ギリシアには植物油を絵具に用いると、光沢と透明感のある絵ができることは、すでに知られていた。ただ、乾燥に時間がかかったため、実用には至らなかった(おそらく、サラダ油で絵を描くようなイメージか)。
千年以上経った12世紀頃になって、ようやく実用に耐えうる油性塗料が使われるようになったものが、15世紀はじめフランドル地方で発達した。それを芸術の表現手段として耐えられるように高めたのが、ファン・アイク兄弟だという。
当時の油絵具は柔らかく、今でいうとペンキのような粘度だったようだ。一度に厚塗りができないので、厳密な下描きに従って絵具を丹念に重ねて完成させていった。
数ミクロンの薄い層が重なっているため、絵の透明感も抜群で、500年以上経過しているのに、彼らの絵は堅牢で良好な保存状態にある。
手軽で便利なチューブ絵具が登場した19世紀以降の画家は、ターナーでも、アングル、マネの作品でも150年そこそこで、大きなヒビが入っているのに比べると、対照的であるそうだ。
ちなみに、ゴッホだけは、チューブから出した絵具を揮発油で溶かず、そのままキャンパスに塗りつけていたため、この時代の画家としては異例なほど良い状態で保存されているという。
ところで、油彩画が普及する前は、テンペラという技法が西洋絵画の中心だった。このテンペラ技法について、小暮氏は図説を用いながら説明している。
テンペラは、卵黄の中身にリンシード油(亜麻仁油、固着する力がある)を入れてかきまぜ、ダンマル樹脂(松ヤニ)とテレピン油(揮発性油)を加え、顔料を入れ、水に溶いて使うと小暮氏は述べている。
(14世紀には、卵黄1個に対して等量の水という処方だったようだが、時代が下ると、油脂や樹脂の添加が行なわれるようになったという)
テンペラ技法は、基本的に卵などを用いて、マヨネーズ状のメジューム(溶材)を作り、顔料を固着させるテクニックをテンペラ画という。
また、16世紀ヴェネチアで、画布(キャンバス)を用いた油彩が流行するまでは板の上に油彩やテンペラが描かれていた。
(ちなみに、≪モナ・リザ≫は、ポプラ板に油彩で描かれている)
ゴシック建築の大きな祭壇画は、何枚もの板をつなげて、絵の基底材(ベース)を作った。祭壇画の裏側は、木が反らないためのカンヌキをつける専門の職人がいたそうだ。
(小暮、2003年、123頁~126頁)
15世紀初頭、イタリアのルネサンスが花咲きはじめた頃、北方のネーデルラントやドイツでは、まだ中世ゴシック様式の中にとどまっていた。
もともとゴシックとは、ヴァザーリ(1511~1574)をはじめとするイタリア人が、北国のゴート人を蛮族として、ネーデルラントやフランドル美術を揶揄する意味で用いたものである。
ヴァザーリは、『ルネサンス画人伝』(美術家列伝)を書いたことで知られるアーチストである。絵描きとしては理屈っぽすぎたのか、凡庸であった。
(ルーヴルにある≪受胎告知≫も、どうやら天使の羽にドクロか何かが隠されているように描かれているが、迫力と驚きに欠けると小暮氏は評している)
そのヴァザーリの言った「ゴシック」という言葉は19世紀になって、西ヨーロッパ中世美術の様式を指す美術用語として用いられた。
ゴシック様式の建築で典型的な例をあげるとすれば、パリのノートルダム寺院はその代表格である。それから、ドイツのケルンの大聖堂、イギリスのウェストミンスター寺院もそうである。これらは、いわば天に摩すような、細長い尖塔形の建築物である。その中を装飾するステンドグラスや絵画、彫刻、工芸品なども、ゴシック様式と考えてもよい。
例えば、ノートルダム寺院には、塔の上に「キマイラの回廊」と呼ばれるところがある。そこに鎮座し、下界を見下ろしている、ガルグイユと呼ばれる小鬼たちや、細長い聖人たちの彫刻なども、典型的なゴシックといえる。
(映画『バットマン』のゴッサム・シティなんかは、ゴシック的な要素を取り入れた美術セットで、ホラー系のビジュアルにも大きな影響を与えていると小暮氏は指摘している)
ところで、天を仰ぎ見るようなゴシック様式建築の中では、イタリアの教会みたいに巨大な壁にフレスコやテンペラ画を装飾するスペースはない。
ルーヴル美術館の北方ルネサンスの部屋を歩けば、わかるように、ファン・アイク(1390?~1441)、ウェイデン(1400~1464)、メムリンク(1440?~1494)など、どれも大きさがコンパクトである。これには、スペース的な都合以外に、材料のサイズ制限もあった。
15世紀初頭にはキャンバスがまだ発明されておらず、組み木に祭壇画を描いていた。また材料学的な意味での油彩技術も、薄塗りを重ねる方法でしか描くことができなかったため、大きな面積には不向きであったようだ。
ヨーロッパ北方では、絵画というのは祭壇画か、貴族や一部の裕福な商人の部屋を飾るものに限られていた。
(小暮、2003年、126頁~129頁)
ウェイデンの≪受胎告知≫(1435年 86×93㎝ 油彩)を見ると、イタリア絵画の≪受胎告知≫とは、舞台設定が違うことに気づく。
レオナルドやフラ・アンジェリコなどイタリアの受胎告知では、天使ガブリエルが聖母マリアにお告げをするのは、だいたい柱廊やテラスである。それに対して、ウェイデンのそれは裕福な市民の一室が舞台になっている。
また、窓から差し込んでくる光は、やはり北部ヨーロッパならではのものだといわれる。
ファン・アイクの≪宰相ロランの聖母≫(1435年頃 66×62㎝ 油彩)にしても、絵の発注主であるニコラ・ロラン宰相が、聖母子と対等に向き合っているという、ともすると不遜ともとれる構図をとっている。
(この頃のフランドル絵画の特徴で、右の聖母子と左にいる宰相ロランは、実は別の次元、空間に分かれているといわれる。背景を流れる川は両者を隔てており、ロラン側は民家、聖母子の側は教会の塔が林立する世界が展開されている。これは人間と神の住む世界を分けているといえる。聖母子はいわば現実に見えるものではなく、ロランが夢想する心の中の像とも理解しうるそうだ。)
当時のフランドル美術では、こうしたキリスト教の物語を、裕福な貴族や市民の部屋に取り入れることが流行していた。
ただし当時使われていた「市民」という言葉は、現在のものとは少々、意味が異なる。この時代のヨーロッパでは、国政に参加できる地位にあった人、あるいは城塞の中に住むブルジョワと呼ばれる人を市民と呼んだ。
例えば、メムリンク(1440?~1494)というフランドルの画家がいる。メムリンクは1465年、現在のベルギー、ブリュージュで市民権を得てから、銀行家や裕福な商人相手に作品を描いて、大邸宅を3軒も建てて子孫に残した画家である。
メムリンクは一説によると、ブルゴーニュ公国の傭兵をしていたことがあるそうだ。ある日、彼は傭い主のシャルル豪胆王が、戦争で倒れ、狼に襲われた無残な姿を見てしまい、兵隊を辞め、画業に専念するようになったともいわれる。
そのメムリンクの作品には、≪ヤコプ・フロイレンスの聖母≫(1489年 130×160㎝ 油彩)がある。
フランドルの市民は自分たちを聖人に見立てて、聖母マリアを拝んでいる姿に描いてもらうのが好きであった。ただ、この絵に描かれた人のほとんどはペストによって死んでしまったそうだ。
この時代において、画家は顧客が満足することをもっとも要求された。メムリンクは後世になって、裕福なブルジョワを満足させただけの凡庸な画家という評価をされてきた。
しかし、メムリンクの≪老女の肖像画≫(1472年頃 35×29.2㎝ 油彩)など、モデルの内面がにじみ出るような素晴らしい肖像画であると小暮氏は評している。イタリア絵画の影響からか、北国の霜が溶けるような、あたたかみが感じられるという。
一方、イタリアでも、ラファエロの≪美しき女庭師≫を見てもわかるように、バックにゴシック様式の建物が描かれていたり、フランドル美術の持っていた精緻さを熱狂的に受け入れた。
ことイタリアにおいて、フランドル絵画の影響により、それまでのテンペラ絵画から、ヴェネチア美術に見られる巨大な油彩に発展する。ただ、フランドルにおけるコンパクトな油彩が、イタリアでは巨大なドラマチックなキャンバス画に発展したのは、アルプスを挟んだ文化圏の違いであろう。
(小暮、2003年、129頁~132頁)
ルーヴル美術館の白眉ともいえるのが、ルーベンス(1577~1640)の≪マリー・ド・メディシスの生涯≫の連作24点である。
さて、日本でルーベンスといえば、アニメ『フランダースの犬』のラストシーン、クリスマスの夜にネロと愛犬パトラッシュが最後に見る祭壇画として知られている。
「ほら、、、見てごらん、パトラッシュ。あんなに見たかったルーベンスの絵だよ」
ちなみにフランダースというのは、フランドル(フランス語)の英語読みで、オランダ語ではフランデレンと呼ぶ。
『フランダースの犬』でネロ少年が最後に見る祭壇画は、ベルギーのアントウェルペン大聖堂に置かれている。
ルーベンスがアントウェルペンに戻って間もなく制作したもので、キリストの昇架と降架などを描いた、三連の祭壇画となっている。1610~11年の制作である。
(小暮、2003年、133頁~134頁)
ルーベンスは美術全集には必ず名を連ねる巨匠である。
しかし、日本人でルーベンスに心酔しているという人は少ない。ただ、ルーベンスという人は、日本人の感覚と遠いところにいる画家であると同時に、西洋絵画を読み解く上で鍵となる画家であると小暮氏は理解している。
≪マリー・ド・メディシスの生涯≫の24点の大作には、豊満そのものの裸体が描かれている(これはやはり肉を主食にした人種でないと描けない絵であると小暮氏はいう)。
この24点をルーベンスはたったの4年で仕上げている。しかも、外交官を兼業していた激務の間にである(もちろん、弟子に分業させて描いたということはあるが、それにしてもスゴイ)。
当然ながら、ルーベンスはモデルの内面にスポットを当てて描き出すタイプの画家ではなかった。外交官という役職もあってか、モデルとなる王侯貴族たちをいかに満足させるかということに神経を費やしたとみられる。
(小暮、2003年、134頁~135頁)
ルーベンスは幸福と名声に彩られた生涯を送り、なおかつ遺した作品が後世にも評価されているという稀有の画家である。
ルーベンスは温厚な人格者で、商才にも長けて莫大な富を築いたが、次のようなエピソードがある。
ロンドンの錬金術師ブレンデルという人物が、ルーベンスの富を狙ってやってきた時、彼は自分の錬金術がいかに効果があるかを、こと細かに説明した。そして、もしルーベンスがそれに必要な設備の研究所と道具を揃えてくれたら、全利益の半額で自分の秘術のすべてと賢者の石を提供しようと持ちかけた。
ルーベンスは、このペテン師のいうことを辛抱強く聞いて、こう言った。
「あなたの好意に何とお礼を申し上げてよいか言葉も見当たりません。しかし、あなたの訪問は20年ほど遅かったようです。私はその間に絵筆の力で、その賢者の石とやらを見つけてしまったのですから」
(小暮、2003年、134頁~136頁)
ルーベンスは、ベルギーのアントウェルペンの法律家の家に6番目の息子として生を受けた。
早くに父を失うが、母の意志でラテン語学校で教育を受け、その後ラレング伯未亡人という人の小姓を務め、宮廷での礼儀作法や古典の知識を身につける。
やがて3人の画家のもとで修業生活を経てから、23歳になった時、芸術先進国イタリアのヴェネチア行きの切符を手に入れる。
この時からルーベンスの輝かしい快進撃がはじまる。旅先で、マントヴァ侯ゴンザーガの知遇を得て、一気に宮廷画家に出世した。ゴンザーガ侯は、ルーベンスの才能を見抜き、太っ腹にも画家の思うままにイタリアを旅させる。
ヴェネチア派の画家たち(ヴェロネーゼ、ティツィアーノ、ティントレット)、それからカラヴァッジョなどの作品群に感銘を受けたルーベンスは、フィレンツェ、ジェノヴァ、パルマ、ローマの各地に滞在し、その間に名声を高めていく。
8年のイタリア生活の後、アントウェルペンに帰り、アルブレヒト大公の宮廷画家の地位につき、多忙な生活を送る。名声が高まったルーベンスのもとには、フランス、イギリス、スペインなどヨーロッパ中の外交先から、注文が殺到した。
(小暮、2003年、137頁~138頁)
生涯に油彩画1500点といわれるが、いくらルーベンスでもすべてを一人でこなしたわけではない。
画家が独力で絵を描くという常識は、比較的近い時代になってからのことである。ルーベンスが生きていた17世紀には、画家が工房を持ち、弟子に分担させるのが当たり前だった。
ルーベンス工房の場合、師匠のルーベンスは下絵を描いたあと、途中までは弟子たちに任せ、仕上げの筆だけ自分で入れるという方法をとっていたそうだ。
人を使う作業というのは、芸術的感覚とは別の管理能力を必要とするようだ。画家であるばかりでなく、外交官としても手腕をふるっていたルーベンスは、そのあたりの力量もあったであろう。
(小暮、2003年、138頁~139頁)
≪マリー・ド・メディシスの生涯≫は、ルーベンスの生涯の集大成であるだけではなく、バロック(ゆがんだ真珠を意味するポルトガル語)絵画の代名詞ともなっている作品である。
マリー・ド・メディシスはその名のとおり、フィレンツェのメディチ家からアンリ4世に嫁いだ人である。ルイ13世の実の母であるが、子との折り合いが悪く、親子で権力争いをしていた。
マリーはメディチ家のお姫さま育ちだった。嫁いだ当時、ルーヴル宮で暮らしていたが、なじむことができなかった。
故郷フィレンツェのことが忘れられず、皇后マリーは少女時代を過ごしたピッティ宮殿を模して、リュクサンブール宮殿を建立させた。
その大饗宴の間に、マリーの生涯を描いた作品を並べる計画を思いつき、ルーベンスに白羽の矢をたてた。
(リュクサンブール宮殿は、パリ市内セーヌ左岸、リュクサンブール公園にあり、現在はフランス国会上院として使われている。フランス革命の時は宮殿から監獄へと変わり、画家ダヴィッドもここに投獄され、ここの窓越しに見た素描を残している)
ところで、その≪マリー・ド・メディシスの生涯≫の連作の1枚第9図≪マリーのマルセイユ到着≫では、半人半魚みたいな女性が描かれている。
これは、マリーのスキャンダルのカモフラージュに、ギリシア神話を織りまぜて描いていると小暮氏は理解している。
つまり、貴族の場合、血なまぐさい因縁や確執があるが、マリーの場合でも、息子のルイ13世にパリを追い出されていて、そういったことをそのまま描くのはまずかったからという。
その後、母子骨肉の争いは、ルイ13世の筆頭顧問だったリシュリュー卿の仲裁で、事なきを得たが、最後にマリーは息子に故国を追放され、ドイツのケルンでひっそりとその生涯を閉じている。
1802年、リュクサンブール宮殿が、国会の上院となったため、この≪マリー・ド・メディシスの生涯≫は、ルーヴルに移され、現在に至る。リシュリュー卿の名を冠したこのリシュリュー翼に「ギャラリー・メディシス」があるというのも、そんないわくがあるからだろうと小暮氏は推測している。
(小暮、2003年、139頁~141頁)
ヨーロッパの大きな美術館では、ルーベンスの大作が数十点単位で見ることができるらしい。
圧倒的な作品数に加えて、外交官で各国王室を駆け回っていたこともあり、その名声は全ヨーロッパに鳴り響いていた。
(今でいえば、ハリウッド大作の配給に近いとたとえている)
絵というのは、じっと眺めていると、たとえばゴッホの絵のように、画家の心の中でくすぶっているものがどこかに見出せるものであると小暮氏はとらえている。でも≪マリー・ド・メディシスの生涯≫には、それが全くないが、だからといって大きいだけの凡庸な絵ではないという。
小暮氏が西洋絵画を読み解く鍵が、ルーベンスにあるといったのは、この点であるようだ。つまりヨーロッパにおいて、ルーベンスとは、自分の絵画ブランドをもっとも成功させた人で、当時のヨーロッパの貴族は、ルーベンスの絵を欲しがった。
頭のよいルーベンスは、どうしたら王様や貴族を喜ばせ、満足させられるのか、そして自分のブランドを欲しがるようになるのか、相当に計算したと小暮氏は想像している。これは個人の内面を重視する近代以降のアートとは異なった考え方であるが、これは別の意味で深いものがあると主張している。
(小暮、2003年、141頁、144頁)
カラヴァジオとルーベンスは絵画史上最も対照的な画家であると小暮氏は捉えている。そして4コマ漫画に2人の物語をまとめているので、内容を紹介しておこう。
絵筆を持つ外交官としてのルーベンスの生活は朝4時起床だった。最初の奥さんとは死別で、次に2番目の妻エレーヌは友人の娘で、37歳年下だった。
まずは教会のミサに出席し、朝食を摂った後に、アトリエ入りして制作を開始する。チョークで下描きした後、色を指定し、それに合わせて弟子が描く。
外交関連などの手紙を口述筆記させ、その上、来客とも話し、八面六臂の活躍ぶりだった。またBGMがわりに古典の書物を朗読させていたそうだ。
一方、カラヴァジオは、2週間ものすごい集中力で仕事をこなした後、取りまきと1~2ヶ月間、乱痴気騒ぎをする。これの繰り返しの生活だったらしい。挙句の果てに酒場の乱闘で人を殺し、ナポリ、シチリアに逃亡するが、逃亡先で病死してしまう。その人殺しの絵に感銘し、買い付けにかかわったのが、若き日のルーベンスだったというオチがついている。
(小暮、2003年、142頁~143頁)
ルーヴル美術館の2階は主に天井から採光しており、日射しが変わると、部屋の明るさや絵の色も変化する。
ところで、ルーベンス工房は、「窓のない大きな部屋で、採光は天井の開口部のみ」だったといわれる。だから、ルーベンスの工房は、現在イタリア絵画が展示されている所であるような採光状態だったと、小暮氏は想像している。
ちなみに、ルーヴルがこのようなトップライト式になったのは、1800年前後の頃、画家ユベール・ロベールが天井をガラス張りにする提案をしてからのことである。
〇ユベール・ロベール≪1796年のルーヴル<グランド・ギャラリー>改造計画≫(1796年、45×55㎝、油彩)
また、ルーベンスの工房では、若い弟子たちが大勢働いており、大量の作品が同時進行していた。どの作品にも、あらかじめチョークで師匠のルーベンスがデッサンを描き、服や背景の部分には色指定が書き込まれていた。そして、仕上げはルーベンス自身が行なったそうだ。多い時には100人以上、入門希望者がルーベンス工房にいた。
ルーベンスは弟子だけではなく、すでに名の知れた画家を共同製作者として協力してもらった。
例えば、ヴァン・ダイク(1599~1641)やヨルダーンス(1593~1678)は下描きを実物大に引き延ばす作業を担当した。そして、花を描いたのは、静物画で緻密な花の描写が優れていたため「花のブリューゲル」といわれた、ヤン・ブリューゲル(1568~1625)であった。また動物や静物の部分は、フランス・スネイデルス(1579~1657)が描いた。
このように、超豪華メンバーによってルーベンス工房は成り立っていた。
ところが、ルーベンスはもともと作品数が多い上に、そのほとんどが工房による共同作品のため、師匠の筆が入っていない作品もルーベンス作として流布したようだ。
例えば、東京上野の国立西洋美術館に収蔵されたヨルダーンスの≪ソドムを去るロトとその家族≫(1618~20年頃、169.5×198.5㎝)は、1993年まではルーベンス作品とされていた。
ところが、これとほとんど同じ図柄の作品が世界中に、3点存在した。鑑定の結果、アメリカの美術館に収蔵された1点がルーベンスの真筆、もう1点はただの模写、上野のものはヨルダーンス20代の時の模写という結果が出た。
ルーベンスの真作は青の部分に高価なラピス・ラズリが使用されているのに、20代のヨルダーンスは高い顔料が買えず、その青には別の顔料が使われていたという。
(ちなみに、この絵を国立西洋美術館が購入した価格は、1億5千万円であった。ルーベンスの作品としては安すぎるが、贋作ではなく、ヨルダーンスの作品だったのだから、よしとすべきだとされる)
(小暮、2003年、145頁~147頁)
ヴァン・ダイク(1599~1641)は、偉大な師匠の呪縛から解き放たれて、自らのスタイルを築き上げた類まれな画家である。
例えば、画家の名前を用いた色名というのが少ないながら存在する。ヴェロネーゼ・グリーンとか、ティティアン・レッド(ティツィアーノ)とかがある。油絵具にあるバンダイク・ブラウンというのは、このヴァン・ダイクからとられたものと考えられている。
また、肖像画家にとって、一番重要なことは、パトロンの自意識を満足させることであるが、≪狩り場のチャールズ1世≫をみれば、それがわかる。
この肖像画では、威厳と傲慢、さらに憂愁を含んだ王の複雑な表情を描ききっていると小暮氏は捉えている。
モデルの自意識まで描いた肖像画の素晴らしい例と賞賛している。
ただ、姿よく描かれているが、人を人とも思わないようなこの視線は、心なしか、のちにピューリタン革命によって断首刑にされる王の運命を予見しているようだともいう。のちに、この絵を買い取ったルイ16世も、フランス革命で処刑されるという“因縁”の肖像でもある。
ヴァン・ダイクは、ジェノヴァの貴族たちに呼ばれたり、イギリスに呼ばれて9年間で400点も肖像画を描きまくった。
ルーベンス同様、ヨーロッパのどこに行っても作品が見られる画家であるが、残念ながら42歳の若さでロンドンにて没してしまう(パトロンのチャールズ1世の処刑を見る前に世を去ったのは、まだ幸いか)。
(小暮、2003年、147頁~150頁)
レンブラント(1606~69)の作品には、贋作が多いといわれる。
ただし贋作というと語弊がある。それらの作品は決して不正に作り上げられた「ニセモノ」ではなく、正しくはレンブラント監督のもとで、弟子たちによって描かれた「工房作品」と言うべきだと小暮氏はいう。
17世紀のヨーロッパでは、ルーベンス工房のように分業制が当たり前で、「工房作品」だからといって、とりたてて問題にするようなことではない。
しかし、レンブラント工房では、ルーベンス工房のような分業制をとっておらず、すべてレンブラント自身が描くか、弟子が全部描くかという手法をとっていたようだ。つまり、自分が描いた作品も、弟子が描いた作品も、レンブラント作品としてクライアントに引き渡していたという。
(さらにレンブラントは、自画像もお金になることを知っていたからか、自分の姿を弟子に描かせて売りさばいていたのではないかという、判定結果が出たそうだ。)
(小暮、2003年、151頁~154頁)
師匠のとおり描ける弟子がいたことはありうる。油彩の技法を説明しつつ、小暮氏は次のようにいう。
油絵具は一度乾いた上から、何度でも厚く塗り重ねることができる。その際、暗い絵具は薄塗りでも下地の色をカバーできるのに対して、明るい色の絵具の場合は厚めに塗る必要がある。
レンブラントの作品は、そんな油絵の特性を生かし、光が当たっている部分には絵具を厚塗りして、乾燥させた上に半透明の「おツユ」をかけていく技法によって描かれていると解説している。
複雑な技法を積み重ねたレンブラントの絵画であるが、基本的な手順はさほど難しくないため、修練を積んだ弟子なら、師匠に近い作品が描けたであろうと、小暮氏は推測している。
(また、レンブラントは弟子に自分の作品以外から学んだことを許さなかったといわれ、師匠のやり方以外では描けなかったかもしれないという)
(小暮、2003年、154頁~155頁)
修練を積んだ弟子なら、師匠レンブラントに近い作品が描けたということは、後世のコレクターや美術館には、衝撃的なことだった。
1968年、レンブラントの生誕300年を前に、母国オランダの美術史家たちによって「レンブラント・リサーチ・プロジェクト」(RRP)が発足したそうだ。
X線や赤外線写真による画面構造分析はもちろん、キャンパスの繊維や、支持体のパネル板、絵具などの年代測定を行い、徹底的な調査をはじめたという。
その結果、280作品のうち、真筆は146点と判定され、あとは工房作品か、関係者作品とされた。
日本にある唯一のレンブラント作品とされた、ブリヂストン美術館蔵≪ペテロの否認≫もクロと判定された。
レンブラント作品でも傑作とされてきた≪黄金のかぶとの男≫(1650~55年頃 67.5×50.7㎝ 油彩 ベルリン美術館蔵)までもレンブラント周辺の画家と判定されてしまった。この作品は、レンブラント・ブランドを失ったため、弟子の作品に番付が下げられた、元・レンブラントの傑作である。
レンブラントを所蔵する美術館関係者のショックはたいへんなものであった。
ただ、RRPとしては、レンブラントの芸術的価値をおとしめるために判定をしたのではなく、「どのように工房のシステムが運営されていたか」を明らかにすることが目的であったようだ。
レンブラントにしても、注文が殺到して仕事がサバききれなくなった時、やむなく、自分の技法を弟子に漏らしたのかもしれない。そう考えると、弟子に自分の作品以外から学ぶのを禁じた話も、わかると小暮氏は考えている。
外交官で人心掌握術に長けていたルーベンスにひきかえ、レンブラントは金と女性にルーズで、管理能力に欠けていたともみている。
(小暮、2003年、155頁~157頁)
さて、レンブラントといえばアムステルダムにある代表作≪夜警≫(1642年 363×437㎝ アムステルダム国立美術館蔵)が不評を買い、当時、絶頂期にあった画家は、たちまち転落の一途を送っていったといわれる。
確かにレンブラントの前半生は栄光に満ちていた。上流階級の娘、サスキアとの結婚によって、お金持ちの顧客を得て、豪邸に住み、大勢の弟子を抱えていた。
しかしその後、ふたりの間にさずかった子供たちは次々と先立ち、≪夜警≫を完成させた年にはサスキアが死去してしまう。それをきっかけにレンブラントのどん底が続く。
レンブラントは女性にだらしなく、ただひとり生き残った息子ティトゥスの乳母だった、ヘルチェ・ディルクスと関係をもつ。ところが、別に家政婦として雇っていたヘンドリッキェと内縁の関係を結んでいたことから、婚約不履行で訴えられてしまう。
加えて前妻サスキアの遺産相続が絡んで、上流階級のクライアントから信頼を失い、仕事が激減する。そして、ついには内縁の妻ヘンドリッキェと、息子ティトゥスの死である。その翌年、レンブラントは独り寂しくその生涯を閉じる。
(小暮、2003年、157~158頁)
ルーヴル美術館に、レンブラントの≪バテシバの水浴≫(1654年 142×142㎝ 油彩)がある。
バテシバは旧約聖書に登場する人妻である。
ダヴィデ王は部下ウリアの妻バテシバが水浴している姿に心をうばわれ、亭主を最前線に送って戦死させて自分のモノにしてしまう。
この絵のモデルは、レンブラントの内縁の妻であったヘンドリッキェである。
当時のオランダ絵画は、聖書をテーマにした作品を当時のインテリアやファッションで描くことが流行していたそうだ。
この≪バテシバの水浴≫も、≪エマオの巡礼者≫(1648年 68×65㎝ 油彩)も、まるでキャンバスの裏側から光を発しているかのような輝きがある。
インテリアの世界でも、影の中から深みのあるオレンジの光が浮かび上がってくるさまを、“レンブラント・ライト”と呼んでいる。まさにこの光と影の表現は、この画家以外では考えられないものである。
(小暮、2003年、151頁、159頁~160頁)
17世紀以降のオランダ絵画は、イタリア絵画を中心にしたグランド・ギャラリーに比べて、絵のサイズもこじんまりと小さく、見ていても楽なものが多い。
そして聖書以外のテーマを取り上げた絵が多い。風景画や静物画、あるいは教会や建物の中や、フェルメールのように室内を描いた風俗画といったジャンルが多い。これらのジャンルは、イタリアやフランスでは格下とされていたが、オランダでは好まれて描かれた。
というのは、当時のオランダというのは商人たちによる新興国家だったからである。絵画を買い求めた人が、王侯貴族や教会ではなく、豊かになりはじめた市民層だった。
オランダ独立戦争(1568~1648)により、スペインの支配から独立したネーデルラント連邦共和国オランダは、商魂たくましい商人たちの活躍で、たちまちヨーロッパ随一の貿易国に躍り出た。オランダの商船は、大航海時代の波に乗り、世界中の海に進出した。1602年、オランダ東インド会社を設立し、オランダ人は日本にやって来て、徳川幕府と交易をはじめるのも、17世紀である。
(九州ほどの狭い国土に加え、全体の面積のうち4分の1が海面より下という立地では、物量において諸外国に劣るので、オランダ人は交易による発展を選択したのは、自然の成りゆきでもあった)
商業の繁栄にともない、裕福になった市民はこぞって絵を買い求めた。当時のオランダ市民は一般層の人でも、部屋の中に絵を飾ることを好んだが、投資目的もあったともいわれる。
(余談だが、1634~37年頃のオランダでは、チューリップの変種に対する投機が大流行した。一時はチューリップの球根1個で家1軒買えるといわれるほど、バブル景気だったらしい。絵画では、幸いチューリップのような騒ぎにならなかった。ただ、日本はバブル時代、絵画投機で大赤字を出したが)
(小暮、2003年、161頁~163頁)
オランダ美術というと、レンブラントとフェルメールが有名であるが、小暮氏は、オランダ絵画で好きなのは、まず静物画であるという。その理由は、静物画というジャンルほど、物の質感を突き詰めて表現できる分野はないからとする。写真のなかった時代ではなおさらである。
例えば、ウィレム・ヘーダ(1597~1680)の≪軽食≫(1637年 44×55㎝ 油彩)がある。
この画家は、グレー系の微妙な色調を使い分けた静物画で知られる。1620年代後半から40年代に流行したモノクローム・バンケッチェ(モノクローム風の晩餐図)を代表する画家であるそうだ。
金や銀食器など素材感の違いによる表現力には定評がある。この≪軽食≫では、銀の塩入れと、錫のジョッキの輝きを表現するという超絶技工に加え、ワイングラスに映った窓を描きこんでいる。
それから、ヤン・ダヴィス・ヘーム(1606~1683? 84)の≪デザート≫(1640年 149×203㎝ 油彩)がある。
小暮氏は、「オランダ静物画の中でも、最大にして最高の作品」と絶賛している。「これはルーヴルの隠れた名品ともいうべき作品」と評している。
黒ブドウにマスカット、オレンジ、桃、ネクタリン、そしてチェリーに剝いたレモンなどの果実が、籠や磁器の上に置かれていて、その色彩は華麗きわまりない。懐中時計やリュート、天球儀や書物や布といった、あらゆるモチーフに彩られている。ルイ14世のお好みだったのも窺える逸品であると賞賛している。
ところが、静物画は美術を学ぶ人にとって、一番最初に取り組むジャンルとされている。その理由として、小暮氏は次の点を挙げている。
① 静物は文字どおり動かないので、じっくり観察ができる
② 立体物をどうしたら平面に置き換えられるか、理解させるのに都合がよい
③ 質感の描き分けを学ぶのに都合がよい
静物に対して人体というのは、骨格や筋肉に対する知識と理解が必要であり、初心者にとって少々難しいモチーフである。
さらには聖書の物語などを群像によって表現するのは、ある程度の才能に加えて、技術的に訓練が必要であるそうだ。
おそらく、こうした技術的難易度や、当時の美術界のランキングが相まって、静物画を描く画家が格下という、おかしなヒエラルキーができたと小暮氏は推測している。
しかし、これらのオランダ静物画を見ると、そうしたランキングがナンセンスであり、いかにオランダ人画家が観察することに腐心したかが窺えると主張している。
(小暮、2003年、163頁~165頁)
オランダ絵画において宗教画が少ないというのには、もう一つ理由があるという。というのは、絵画を買い求めた市民層の多くがプロテスタントであったからである。
プロテスタントというのは基本的に偶像崇拝を禁止していたし、それまでオランダを支配していたスペイン・ハプスブルク家への反発というのもあったであろう。
当時のオランダ絵画市場というのは、歳の市やケルメス(教会で行われる縁日)などで、かなり安価に絵画が売りさばかれていたそうだ。
絵の売り買いをする「画商」という職業も、オランダではじまった。それまでの美術の世界が、王侯貴族を相手にした完全受注制だったのに対して、市場へのビジネスに発展していった。レンブラントやフェルメールまでもが画商を兼業していた。
ところで、フランス・ハルス(1581?85~1666)の≪ジプシー女≫(1630年 58×55㎝ 油彩)という作品がある。
このタイトルは後世の人が呼んだ名前で、彼女がジプシーかどうか不明らしく、モデルは明らかに娼婦であるといわれる。乱れた髪で流し目の視線で、はだけた胸元で描かれている。スペイン・カトリックの政権下だったら、異端審問にかけられて火あぶりにされそうな作品と小暮氏はみている。
そして、ハルスの≪リュートを弾く道化者≫(1626年以前 70×62㎝ 油彩)を見てもわかるように、ハルスが描いた人物画は、上流階層の人々ではなかった。そして、このようにあけすけな表情を絵に描いた画家はいなかったのではないかという。
そして、絵のタッチの革新性に注目している。それまでの画家は筆跡の残った絵というのは下品とされていたため、タッチをどう隠すかに苦心していた。ハルス以前の絵に、のっぺりとした絵が多いというのは、こうした理由による。ところが、ハルスの絵は筆跡が勢いよく残されたタッチである。勢いのある筆さばきは、絵に新鮮さを与えている。
ハルスの絵は、オランダ市民による新たなルネサンスとでも称されうるとも、小暮氏は理解しているようだ。
(小暮、2003年、165頁~171頁)
ルーヴル美術館では、フェルメール(1632~75)の現存する36点のうち、≪天文学者≫(1668年 51×45㎝)と≪レースを編む女≫(1670~71年 24×21㎝)の2点を見ることができる。
ルーヴルの絵画には、見ていて軽やかな気分になるものと、私たちの心に斬り込んできて、心拍数を上げるものがあると小暮氏はいう。フェルメールは前者の代表で、後者にはジェリコーやドラクロアの大作が挙げられるとする。
フェルメールのこれらの絵は、一見何の変哲もない室内の風景を描いた作品なのに、不思議としか言いようのない絵である。小さな作品だというのに、室内の空気がこちらまで溢れてきそうだ。
スペインのシュールレアリズムの画家サルヴァドール・ダリ(1904~1989)は、フェルメールの熱心な信奉者であった。フェルメールの描いたデルフトの眺望を、自分の絵の中に何度も取り入れていた。
シュールレアリズムというのは、20世紀になって登場した非日常的な世界を描いた絵画である。ダリの絵には、見たことのない生物、バターのように柔らかい時計、奇妙きわまりない風景が描かれている。ただ、見る人を絵の世界に引きずり込み、画家の脳の裏側に潜んでいる世界を、見る人間に共有させることが、シュールレアリズムの本質であるといわれる。
フェルメールの持っている不思議な空間が、20世紀になって、ダリという天才の心をとらえたのは、その意味で、きわめて興味深いと小暮氏はみる。絵画というのは単なる描写ではなく、画家の目と脳をファクターにして、今まで目にすることのできなかった心の中を見せる行為でもあると持論を示している。
ところで、フェルメールが画商をしていたというのは有名な話である。当時のオランダ美術市場は作品がだぶつき気味だったため、よほどの売れっ子作家を別にして、副業を持っていた場合が普通だった。
ヤン・ステーンはデルフトで居酒屋を経営し、レイデンでホテルを営んでいた。また風景画家ロイスダールは「外科理髪師」という、簡単な手術ができる床屋も兼業していた(現在、床屋の目印に使われている青と赤のグルグルは、静脈と動脈を表す名残りである)
(小暮、2003年、172頁~173頁、175頁)
フェルメールとともに、デルフト派を代表する画家ピーテル・デ・ホーホ(1629~84)の代表作に≪オランダ家屋の裏庭≫(17世紀 60×49㎝ 油彩)がある。
ホーホはフェルメールほど輝きのある画家ではないが、この人の絵も不思議な空間を生み出している。
部屋のまた向こうに、幾つもの空間が見え、想像力、イマジネーションをかき立ててくれる絵である。
さて、フェルメールやホーホの絵に貢献した技術が、意外にも17世紀のヨーロッパで発達した天体望遠鏡や顕微鏡といった光学技術であったそうだ。それは、現在のカメラの原型ともいえる、カメラ・オブスキュラ(ラテン語で黒い箱)と呼ばれた外界の景色を映し出す装置の発達である。
これはピンホールカメラに凹レンズをとりつけたもので、フィルムはもちろん乾板もなかった時代だが、画家たちは絵の下絵にこぞって、この装置を用いたようだ。
部屋のまた奥に、次々と別の部屋が連なる空間が表現できたのも、カメラ・オブスキュラの力が大きかったとみられている。
フェルメールが描いたハイライトに置かれた光の粒も、カメラ・オブスキュラを通して見えたものだという説が有力であるそうだ。
(小暮、2003年、174~176頁)
シュールレアリズムの語が出たので、小暮氏は、イマジネーションについて私見を述べている。
イマジネーションとは、そこに記されていないものを感じることだという。たとえば、プルーストの『失われた時を求めて』には、そこには書かれていない音楽が全編に流れているとされる。
そして、トーマス・マンの『魔の山』では標高3000メートルのサナトリウムを舞台にしているにもかかわらず、海のどよめきが聴こえてくる。
また、『源氏物語』の「宇治十帖」には単に「風の音もいと荒ましく」としか記していないのに、宇治川の急流と吹きすさぶ風の音が常に聴こえてくるといわれる。
美術作品でも同様に、絵を見ることによって、画家が暮らしていた町の景色や気候、匂いや鳥のさえずりなどが、ふと感じ取れる一瞬があるという。
それが作品を媒体にして、見る人の心のアンテナに受信されるのがイメージであると小暮氏は考えている。
(小暮、2003年、176頁~178頁)
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小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
(2020年6月16日)
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小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
【はじめに】
今回のブログでは、小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』(まどか出版、2003年)の第Ⅳ章「市民が育てた北方ルネサンス」を紹介してみたい。
今回、紹介する第Ⅳ章において、ルーヴル美術館所蔵のフランドル(ファン・アイク)およびオランダ(ルーベンス、レンブラント、フェルメール)の画家を主に取り上げ、解説している。
これら4人の画家については、これまで私のブログでも、何度も紹介してきたが、画家としての小暮満寿雄氏の独特の解説も見られる。
例えば、ルーベンス工房とレンブラント工房との違い、ルーベンスとカラヴァッジョの物語を4コマ漫画で説明し、二人の対照的性格を浮かび上がらせるなど、叙述に工夫もみられる。また、画家らしく、絵画の贋作問題にも留意を払い、レンブラント・リサーチ・プロジェクト(RRP)の調査結果などにも言及している。
そして、画家としての独自の審美眼と作品鑑賞の視点から、オランダ美術の静物画の中で、ヘームの≪デザート≫という作品は、オランダ静物画の中でも最大にして最高の作品であるとし、ルーヴル美術館の隠れた名品と評している。
さて、今回のブログでは、次のルーヴル美術館所蔵の絵画作品を取り上げる。
〇ファン・アイク ≪宰相ロランの聖母≫
〇ルーベンス ≪マリー・ド・メディシスの生涯≫
〇レンブラント ≪バテシバの水浴≫
〇フェルメール ≪レースを編む女≫≪天文学者≫
〇ハルス ≪ジプシー女≫≪リュートを弾く道化者≫
〇ヘーム ≪デザート≫~オランダ静物画の中でも最大にして最高の作品(ルーヴル美術館の隠れた名品)
※なお、フランドル(ファン・アイク)およびオランダ(ルーベンス、レンブラント、フェルメール)については、私のブログでもこれまで紹介してきた。
次の私のブログを参照して頂きたい。
【ファン・アイクについて】
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その7 私のブック・レポート≫
【ルーベンスについて】および【レンブラントについて】
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その2 私のブック・レポート≫
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その8 私のブック・レポート≫
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その3 私のブック・レポート≫
【フェルメールについて】
≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』を読んで その1 私のブック・レポート≫
小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』まどか出版、2003年
本書の第Ⅳ章の目次は次のようになっている。
【目次】
Ⅳ 市民が育てた北方ルネサンス
ファン・アイクの油彩画体系
ヨーロッパを席巻したルーベンス・ブランド
ルーベンスの弟子たち
魂の画家レンブラント
オランダ美術は市民のための芸術だった(ハルス、フェルメール)
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
ファン・アイクの油彩画体系
・フランドル、ネーデルラントについて
・ファン・アイクについて
・油彩画の発展史
・ゴシックと北方ルネサンス
・「市民」の芸術
ヨーロッパを席巻したルーベンス・ブランド
・あの『フランダースの犬』のルーベンス
・ルーベンスの≪マリー・ド・メディシスの生涯≫
・ルーベンスの人となりを語るエピソード
・ルーベンスの順調な人生
・ルーベンス工房作品
・マリー・ド・メディシスの生涯
・ルーベンス・ブランドが欲しい!
・カラヴァジオとルーベンスという2人の画家
ルーベンスの弟子たち
・ルーベンス工房とスタッフ
・自意識をも描いたヴァン・ダイク
魂の画家レンブラント
・レンブラント工房の画家たち
・レンブラントの技法について
・レンブラント・リサーチ・プロジェクト
・画家は不幸を糧に絵を描いた?
・作品≪バテシバの水浴≫
オランダ美術は市民のための芸術だった(ハルス、フェルメール)
・バブルが育てたオランダ絵画
・見る喜び、描く喜び――オランダ静物画
・ハルスの≪ジプシー女≫と≪リュートを弾く道化者≫
・フェルメールはシュールレアリズムの先駆者
・下絵はカメラ・オブスキュラで
・イメージについて
小暮満寿雄『堪能ルーヴル』の要約 第Ⅳ章 市民が育てた北方ルネサンス
ファン・アイクの油彩画体系
フランドル、ネーデルラントについて
ヤン・ファン・アイク(1390?~1441、フランドル)の≪宰相ロランの聖母≫(1435年、
66×62㎝、油彩)は緻密な写実描写である。それがかえって、作品に神秘的な雰囲気をたたえている。
15世紀のこの時代、イタリアではフィレンツェを中心としてルネサンスが花盛りを迎えていたが、一方でアルプスの北側にあたる、フランスやドイツ、ネーデルラントにも新しい芸術が生まれた。
その中でもドイツからネーデルラントにかけての地域で起こったものを「北方ルネサンス」と呼んでいて、西洋絵画史の中でも重要な位置を占めている。
ネーデルラントは、低地を意味するオランダ語で、現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、いわゆるベネルクス三国周辺の文化圏を総称する呼び名のことである。フランドルというのは、その中でも、南部にあたる地方で、現在のベルギー西部からフランス北端部にかけての地域を指す。15~16世紀において、フランドル地方はネーデルラントの中でも政治や文化、経済の中心地になっていた。
(小暮、2003年、120頁~122頁)
ファン・アイクについて
そのフランドル絵画の創始者と呼ばれているのが、このファン・アイクである。
俗にファン・アイク兄弟と呼ばれるが、単にファン・アイクと呼ぶ場合は、弟のヤンを指しているケースが多い。兄のフーベルトについては謎に包まれており、≪ヘント祭壇画≫の共同制作をした。兄弟がどういった形で仕事を分担していたかという記録は残っていない。
また、油絵具がファン・アイク兄弟によって作られたという伝説がある。特にフランドル絵画の人気が高かったイタリアでは、それが通説とされてきた。実際には彼ら以前にも油彩画はあったのであるが、それを完成させたのが、ファン・アイク兄弟だったといわれる。
(小暮、2003年、122頁~123頁)
油彩画の発展史
古代ギリシアには植物油を絵具に用いると、光沢と透明感のある絵ができることは、すでに知られていた。ただ、乾燥に時間がかかったため、実用には至らなかった(おそらく、サラダ油で絵を描くようなイメージか)。
千年以上経った12世紀頃になって、ようやく実用に耐えうる油性塗料が使われるようになったものが、15世紀はじめフランドル地方で発達した。それを芸術の表現手段として耐えられるように高めたのが、ファン・アイク兄弟だという。
当時の油絵具は柔らかく、今でいうとペンキのような粘度だったようだ。一度に厚塗りができないので、厳密な下描きに従って絵具を丹念に重ねて完成させていった。
数ミクロンの薄い層が重なっているため、絵の透明感も抜群で、500年以上経過しているのに、彼らの絵は堅牢で良好な保存状態にある。
手軽で便利なチューブ絵具が登場した19世紀以降の画家は、ターナーでも、アングル、マネの作品でも150年そこそこで、大きなヒビが入っているのに比べると、対照的であるそうだ。
ちなみに、ゴッホだけは、チューブから出した絵具を揮発油で溶かず、そのままキャンパスに塗りつけていたため、この時代の画家としては異例なほど良い状態で保存されているという。
ところで、油彩画が普及する前は、テンペラという技法が西洋絵画の中心だった。このテンペラ技法について、小暮氏は図説を用いながら説明している。
テンペラは、卵黄の中身にリンシード油(亜麻仁油、固着する力がある)を入れてかきまぜ、ダンマル樹脂(松ヤニ)とテレピン油(揮発性油)を加え、顔料を入れ、水に溶いて使うと小暮氏は述べている。
(14世紀には、卵黄1個に対して等量の水という処方だったようだが、時代が下ると、油脂や樹脂の添加が行なわれるようになったという)
テンペラ技法は、基本的に卵などを用いて、マヨネーズ状のメジューム(溶材)を作り、顔料を固着させるテクニックをテンペラ画という。
また、16世紀ヴェネチアで、画布(キャンバス)を用いた油彩が流行するまでは板の上に油彩やテンペラが描かれていた。
(ちなみに、≪モナ・リザ≫は、ポプラ板に油彩で描かれている)
ゴシック建築の大きな祭壇画は、何枚もの板をつなげて、絵の基底材(ベース)を作った。祭壇画の裏側は、木が反らないためのカンヌキをつける専門の職人がいたそうだ。
(小暮、2003年、123頁~126頁)
ゴシックと北方ルネサンス
15世紀初頭、イタリアのルネサンスが花咲きはじめた頃、北方のネーデルラントやドイツでは、まだ中世ゴシック様式の中にとどまっていた。
もともとゴシックとは、ヴァザーリ(1511~1574)をはじめとするイタリア人が、北国のゴート人を蛮族として、ネーデルラントやフランドル美術を揶揄する意味で用いたものである。
ヴァザーリは、『ルネサンス画人伝』(美術家列伝)を書いたことで知られるアーチストである。絵描きとしては理屈っぽすぎたのか、凡庸であった。
(ルーヴルにある≪受胎告知≫も、どうやら天使の羽にドクロか何かが隠されているように描かれているが、迫力と驚きに欠けると小暮氏は評している)
そのヴァザーリの言った「ゴシック」という言葉は19世紀になって、西ヨーロッパ中世美術の様式を指す美術用語として用いられた。
ゴシック様式の建築で典型的な例をあげるとすれば、パリのノートルダム寺院はその代表格である。それから、ドイツのケルンの大聖堂、イギリスのウェストミンスター寺院もそうである。これらは、いわば天に摩すような、細長い尖塔形の建築物である。その中を装飾するステンドグラスや絵画、彫刻、工芸品なども、ゴシック様式と考えてもよい。
例えば、ノートルダム寺院には、塔の上に「キマイラの回廊」と呼ばれるところがある。そこに鎮座し、下界を見下ろしている、ガルグイユと呼ばれる小鬼たちや、細長い聖人たちの彫刻なども、典型的なゴシックといえる。
(映画『バットマン』のゴッサム・シティなんかは、ゴシック的な要素を取り入れた美術セットで、ホラー系のビジュアルにも大きな影響を与えていると小暮氏は指摘している)
ところで、天を仰ぎ見るようなゴシック様式建築の中では、イタリアの教会みたいに巨大な壁にフレスコやテンペラ画を装飾するスペースはない。
ルーヴル美術館の北方ルネサンスの部屋を歩けば、わかるように、ファン・アイク(1390?~1441)、ウェイデン(1400~1464)、メムリンク(1440?~1494)など、どれも大きさがコンパクトである。これには、スペース的な都合以外に、材料のサイズ制限もあった。
15世紀初頭にはキャンバスがまだ発明されておらず、組み木に祭壇画を描いていた。また材料学的な意味での油彩技術も、薄塗りを重ねる方法でしか描くことができなかったため、大きな面積には不向きであったようだ。
ヨーロッパ北方では、絵画というのは祭壇画か、貴族や一部の裕福な商人の部屋を飾るものに限られていた。
(小暮、2003年、126頁~129頁)
「市民」の芸術
ウェイデンの≪受胎告知≫(1435年 86×93㎝ 油彩)を見ると、イタリア絵画の≪受胎告知≫とは、舞台設定が違うことに気づく。
レオナルドやフラ・アンジェリコなどイタリアの受胎告知では、天使ガブリエルが聖母マリアにお告げをするのは、だいたい柱廊やテラスである。それに対して、ウェイデンのそれは裕福な市民の一室が舞台になっている。
また、窓から差し込んでくる光は、やはり北部ヨーロッパならではのものだといわれる。
ファン・アイクの≪宰相ロランの聖母≫(1435年頃 66×62㎝ 油彩)にしても、絵の発注主であるニコラ・ロラン宰相が、聖母子と対等に向き合っているという、ともすると不遜ともとれる構図をとっている。
(この頃のフランドル絵画の特徴で、右の聖母子と左にいる宰相ロランは、実は別の次元、空間に分かれているといわれる。背景を流れる川は両者を隔てており、ロラン側は民家、聖母子の側は教会の塔が林立する世界が展開されている。これは人間と神の住む世界を分けているといえる。聖母子はいわば現実に見えるものではなく、ロランが夢想する心の中の像とも理解しうるそうだ。)
当時のフランドル美術では、こうしたキリスト教の物語を、裕福な貴族や市民の部屋に取り入れることが流行していた。
ただし当時使われていた「市民」という言葉は、現在のものとは少々、意味が異なる。この時代のヨーロッパでは、国政に参加できる地位にあった人、あるいは城塞の中に住むブルジョワと呼ばれる人を市民と呼んだ。
例えば、メムリンク(1440?~1494)というフランドルの画家がいる。メムリンクは1465年、現在のベルギー、ブリュージュで市民権を得てから、銀行家や裕福な商人相手に作品を描いて、大邸宅を3軒も建てて子孫に残した画家である。
メムリンクは一説によると、ブルゴーニュ公国の傭兵をしていたことがあるそうだ。ある日、彼は傭い主のシャルル豪胆王が、戦争で倒れ、狼に襲われた無残な姿を見てしまい、兵隊を辞め、画業に専念するようになったともいわれる。
そのメムリンクの作品には、≪ヤコプ・フロイレンスの聖母≫(1489年 130×160㎝ 油彩)がある。
フランドルの市民は自分たちを聖人に見立てて、聖母マリアを拝んでいる姿に描いてもらうのが好きであった。ただ、この絵に描かれた人のほとんどはペストによって死んでしまったそうだ。
この時代において、画家は顧客が満足することをもっとも要求された。メムリンクは後世になって、裕福なブルジョワを満足させただけの凡庸な画家という評価をされてきた。
しかし、メムリンクの≪老女の肖像画≫(1472年頃 35×29.2㎝ 油彩)など、モデルの内面がにじみ出るような素晴らしい肖像画であると小暮氏は評している。イタリア絵画の影響からか、北国の霜が溶けるような、あたたかみが感じられるという。
一方、イタリアでも、ラファエロの≪美しき女庭師≫を見てもわかるように、バックにゴシック様式の建物が描かれていたり、フランドル美術の持っていた精緻さを熱狂的に受け入れた。
ことイタリアにおいて、フランドル絵画の影響により、それまでのテンペラ絵画から、ヴェネチア美術に見られる巨大な油彩に発展する。ただ、フランドルにおけるコンパクトな油彩が、イタリアでは巨大なドラマチックなキャンバス画に発展したのは、アルプスを挟んだ文化圏の違いであろう。
(小暮、2003年、129頁~132頁)
ヨーロッパを席巻したルーベンス・ブランド
あの『フランダースの犬』のルーベンス
ルーヴル美術館の白眉ともいえるのが、ルーベンス(1577~1640)の≪マリー・ド・メディシスの生涯≫の連作24点である。
さて、日本でルーベンスといえば、アニメ『フランダースの犬』のラストシーン、クリスマスの夜にネロと愛犬パトラッシュが最後に見る祭壇画として知られている。
「ほら、、、見てごらん、パトラッシュ。あんなに見たかったルーベンスの絵だよ」
ちなみにフランダースというのは、フランドル(フランス語)の英語読みで、オランダ語ではフランデレンと呼ぶ。
『フランダースの犬』でネロ少年が最後に見る祭壇画は、ベルギーのアントウェルペン大聖堂に置かれている。
ルーベンスがアントウェルペンに戻って間もなく制作したもので、キリストの昇架と降架などを描いた、三連の祭壇画となっている。1610~11年の制作である。
(小暮、2003年、133頁~134頁)
ルーベンスの≪マリー・ド・メディシスの生涯≫
ルーベンスは美術全集には必ず名を連ねる巨匠である。
しかし、日本人でルーベンスに心酔しているという人は少ない。ただ、ルーベンスという人は、日本人の感覚と遠いところにいる画家であると同時に、西洋絵画を読み解く上で鍵となる画家であると小暮氏は理解している。
≪マリー・ド・メディシスの生涯≫の24点の大作には、豊満そのものの裸体が描かれている(これはやはり肉を主食にした人種でないと描けない絵であると小暮氏はいう)。
この24点をルーベンスはたったの4年で仕上げている。しかも、外交官を兼業していた激務の間にである(もちろん、弟子に分業させて描いたということはあるが、それにしてもスゴイ)。
当然ながら、ルーベンスはモデルの内面にスポットを当てて描き出すタイプの画家ではなかった。外交官という役職もあってか、モデルとなる王侯貴族たちをいかに満足させるかということに神経を費やしたとみられる。
(小暮、2003年、134頁~135頁)
ルーベンスの人となりを語るエピソード
ルーベンスは幸福と名声に彩られた生涯を送り、なおかつ遺した作品が後世にも評価されているという稀有の画家である。
ルーベンスは温厚な人格者で、商才にも長けて莫大な富を築いたが、次のようなエピソードがある。
ロンドンの錬金術師ブレンデルという人物が、ルーベンスの富を狙ってやってきた時、彼は自分の錬金術がいかに効果があるかを、こと細かに説明した。そして、もしルーベンスがそれに必要な設備の研究所と道具を揃えてくれたら、全利益の半額で自分の秘術のすべてと賢者の石を提供しようと持ちかけた。
ルーベンスは、このペテン師のいうことを辛抱強く聞いて、こう言った。
「あなたの好意に何とお礼を申し上げてよいか言葉も見当たりません。しかし、あなたの訪問は20年ほど遅かったようです。私はその間に絵筆の力で、その賢者の石とやらを見つけてしまったのですから」
(小暮、2003年、134頁~136頁)
ルーベンスの順調な人生
ルーベンスは、ベルギーのアントウェルペンの法律家の家に6番目の息子として生を受けた。
早くに父を失うが、母の意志でラテン語学校で教育を受け、その後ラレング伯未亡人という人の小姓を務め、宮廷での礼儀作法や古典の知識を身につける。
やがて3人の画家のもとで修業生活を経てから、23歳になった時、芸術先進国イタリアのヴェネチア行きの切符を手に入れる。
この時からルーベンスの輝かしい快進撃がはじまる。旅先で、マントヴァ侯ゴンザーガの知遇を得て、一気に宮廷画家に出世した。ゴンザーガ侯は、ルーベンスの才能を見抜き、太っ腹にも画家の思うままにイタリアを旅させる。
ヴェネチア派の画家たち(ヴェロネーゼ、ティツィアーノ、ティントレット)、それからカラヴァッジョなどの作品群に感銘を受けたルーベンスは、フィレンツェ、ジェノヴァ、パルマ、ローマの各地に滞在し、その間に名声を高めていく。
8年のイタリア生活の後、アントウェルペンに帰り、アルブレヒト大公の宮廷画家の地位につき、多忙な生活を送る。名声が高まったルーベンスのもとには、フランス、イギリス、スペインなどヨーロッパ中の外交先から、注文が殺到した。
(小暮、2003年、137頁~138頁)
ルーベンス工房作品
生涯に油彩画1500点といわれるが、いくらルーベンスでもすべてを一人でこなしたわけではない。
画家が独力で絵を描くという常識は、比較的近い時代になってからのことである。ルーベンスが生きていた17世紀には、画家が工房を持ち、弟子に分担させるのが当たり前だった。
ルーベンス工房の場合、師匠のルーベンスは下絵を描いたあと、途中までは弟子たちに任せ、仕上げの筆だけ自分で入れるという方法をとっていたそうだ。
人を使う作業というのは、芸術的感覚とは別の管理能力を必要とするようだ。画家であるばかりでなく、外交官としても手腕をふるっていたルーベンスは、そのあたりの力量もあったであろう。
(小暮、2003年、138頁~139頁)
マリー・ド・メディシスの生涯
≪マリー・ド・メディシスの生涯≫は、ルーベンスの生涯の集大成であるだけではなく、バロック(ゆがんだ真珠を意味するポルトガル語)絵画の代名詞ともなっている作品である。
マリー・ド・メディシスはその名のとおり、フィレンツェのメディチ家からアンリ4世に嫁いだ人である。ルイ13世の実の母であるが、子との折り合いが悪く、親子で権力争いをしていた。
マリーはメディチ家のお姫さま育ちだった。嫁いだ当時、ルーヴル宮で暮らしていたが、なじむことができなかった。
故郷フィレンツェのことが忘れられず、皇后マリーは少女時代を過ごしたピッティ宮殿を模して、リュクサンブール宮殿を建立させた。
その大饗宴の間に、マリーの生涯を描いた作品を並べる計画を思いつき、ルーベンスに白羽の矢をたてた。
(リュクサンブール宮殿は、パリ市内セーヌ左岸、リュクサンブール公園にあり、現在はフランス国会上院として使われている。フランス革命の時は宮殿から監獄へと変わり、画家ダヴィッドもここに投獄され、ここの窓越しに見た素描を残している)
ところで、その≪マリー・ド・メディシスの生涯≫の連作の1枚第9図≪マリーのマルセイユ到着≫では、半人半魚みたいな女性が描かれている。
これは、マリーのスキャンダルのカモフラージュに、ギリシア神話を織りまぜて描いていると小暮氏は理解している。
つまり、貴族の場合、血なまぐさい因縁や確執があるが、マリーの場合でも、息子のルイ13世にパリを追い出されていて、そういったことをそのまま描くのはまずかったからという。
その後、母子骨肉の争いは、ルイ13世の筆頭顧問だったリシュリュー卿の仲裁で、事なきを得たが、最後にマリーは息子に故国を追放され、ドイツのケルンでひっそりとその生涯を閉じている。
1802年、リュクサンブール宮殿が、国会の上院となったため、この≪マリー・ド・メディシスの生涯≫は、ルーヴルに移され、現在に至る。リシュリュー卿の名を冠したこのリシュリュー翼に「ギャラリー・メディシス」があるというのも、そんないわくがあるからだろうと小暮氏は推測している。
(小暮、2003年、139頁~141頁)
ルーベンス・ブランドが欲しい!
ヨーロッパの大きな美術館では、ルーベンスの大作が数十点単位で見ることができるらしい。
圧倒的な作品数に加えて、外交官で各国王室を駆け回っていたこともあり、その名声は全ヨーロッパに鳴り響いていた。
(今でいえば、ハリウッド大作の配給に近いとたとえている)
絵というのは、じっと眺めていると、たとえばゴッホの絵のように、画家の心の中でくすぶっているものがどこかに見出せるものであると小暮氏はとらえている。でも≪マリー・ド・メディシスの生涯≫には、それが全くないが、だからといって大きいだけの凡庸な絵ではないという。
小暮氏が西洋絵画を読み解く鍵が、ルーベンスにあるといったのは、この点であるようだ。つまりヨーロッパにおいて、ルーベンスとは、自分の絵画ブランドをもっとも成功させた人で、当時のヨーロッパの貴族は、ルーベンスの絵を欲しがった。
頭のよいルーベンスは、どうしたら王様や貴族を喜ばせ、満足させられるのか、そして自分のブランドを欲しがるようになるのか、相当に計算したと小暮氏は想像している。これは個人の内面を重視する近代以降のアートとは異なった考え方であるが、これは別の意味で深いものがあると主張している。
(小暮、2003年、141頁、144頁)
カラヴァジオとルーベンスという2人の画家
カラヴァジオとルーベンスは絵画史上最も対照的な画家であると小暮氏は捉えている。そして4コマ漫画に2人の物語をまとめているので、内容を紹介しておこう。
絵筆を持つ外交官としてのルーベンスの生活は朝4時起床だった。最初の奥さんとは死別で、次に2番目の妻エレーヌは友人の娘で、37歳年下だった。
まずは教会のミサに出席し、朝食を摂った後に、アトリエ入りして制作を開始する。チョークで下描きした後、色を指定し、それに合わせて弟子が描く。
外交関連などの手紙を口述筆記させ、その上、来客とも話し、八面六臂の活躍ぶりだった。またBGMがわりに古典の書物を朗読させていたそうだ。
一方、カラヴァジオは、2週間ものすごい集中力で仕事をこなした後、取りまきと1~2ヶ月間、乱痴気騒ぎをする。これの繰り返しの生活だったらしい。挙句の果てに酒場の乱闘で人を殺し、ナポリ、シチリアに逃亡するが、逃亡先で病死してしまう。その人殺しの絵に感銘し、買い付けにかかわったのが、若き日のルーベンスだったというオチがついている。
(小暮、2003年、142頁~143頁)
ルーベンス工房とスタッフ
ルーヴル美術館の2階は主に天井から採光しており、日射しが変わると、部屋の明るさや絵の色も変化する。
ところで、ルーベンス工房は、「窓のない大きな部屋で、採光は天井の開口部のみ」だったといわれる。だから、ルーベンスの工房は、現在イタリア絵画が展示されている所であるような採光状態だったと、小暮氏は想像している。
ちなみに、ルーヴルがこのようなトップライト式になったのは、1800年前後の頃、画家ユベール・ロベールが天井をガラス張りにする提案をしてからのことである。
〇ユベール・ロベール≪1796年のルーヴル<グランド・ギャラリー>改造計画≫(1796年、45×55㎝、油彩)
また、ルーベンスの工房では、若い弟子たちが大勢働いており、大量の作品が同時進行していた。どの作品にも、あらかじめチョークで師匠のルーベンスがデッサンを描き、服や背景の部分には色指定が書き込まれていた。そして、仕上げはルーベンス自身が行なったそうだ。多い時には100人以上、入門希望者がルーベンス工房にいた。
ルーベンスは弟子だけではなく、すでに名の知れた画家を共同製作者として協力してもらった。
例えば、ヴァン・ダイク(1599~1641)やヨルダーンス(1593~1678)は下描きを実物大に引き延ばす作業を担当した。そして、花を描いたのは、静物画で緻密な花の描写が優れていたため「花のブリューゲル」といわれた、ヤン・ブリューゲル(1568~1625)であった。また動物や静物の部分は、フランス・スネイデルス(1579~1657)が描いた。
このように、超豪華メンバーによってルーベンス工房は成り立っていた。
ところが、ルーベンスはもともと作品数が多い上に、そのほとんどが工房による共同作品のため、師匠の筆が入っていない作品もルーベンス作として流布したようだ。
例えば、東京上野の国立西洋美術館に収蔵されたヨルダーンスの≪ソドムを去るロトとその家族≫(1618~20年頃、169.5×198.5㎝)は、1993年まではルーベンス作品とされていた。
ところが、これとほとんど同じ図柄の作品が世界中に、3点存在した。鑑定の結果、アメリカの美術館に収蔵された1点がルーベンスの真筆、もう1点はただの模写、上野のものはヨルダーンス20代の時の模写という結果が出た。
ルーベンスの真作は青の部分に高価なラピス・ラズリが使用されているのに、20代のヨルダーンスは高い顔料が買えず、その青には別の顔料が使われていたという。
(ちなみに、この絵を国立西洋美術館が購入した価格は、1億5千万円であった。ルーベンスの作品としては安すぎるが、贋作ではなく、ヨルダーンスの作品だったのだから、よしとすべきだとされる)
(小暮、2003年、145頁~147頁)
自意識をも描いたヴァン・ダイク
ヴァン・ダイク(1599~1641)は、偉大な師匠の呪縛から解き放たれて、自らのスタイルを築き上げた類まれな画家である。
例えば、画家の名前を用いた色名というのが少ないながら存在する。ヴェロネーゼ・グリーンとか、ティティアン・レッド(ティツィアーノ)とかがある。油絵具にあるバンダイク・ブラウンというのは、このヴァン・ダイクからとられたものと考えられている。
また、肖像画家にとって、一番重要なことは、パトロンの自意識を満足させることであるが、≪狩り場のチャールズ1世≫をみれば、それがわかる。
この肖像画では、威厳と傲慢、さらに憂愁を含んだ王の複雑な表情を描ききっていると小暮氏は捉えている。
モデルの自意識まで描いた肖像画の素晴らしい例と賞賛している。
ただ、姿よく描かれているが、人を人とも思わないようなこの視線は、心なしか、のちにピューリタン革命によって断首刑にされる王の運命を予見しているようだともいう。のちに、この絵を買い取ったルイ16世も、フランス革命で処刑されるという“因縁”の肖像でもある。
ヴァン・ダイクは、ジェノヴァの貴族たちに呼ばれたり、イギリスに呼ばれて9年間で400点も肖像画を描きまくった。
ルーベンス同様、ヨーロッパのどこに行っても作品が見られる画家であるが、残念ながら42歳の若さでロンドンにて没してしまう(パトロンのチャールズ1世の処刑を見る前に世を去ったのは、まだ幸いか)。
(小暮、2003年、147頁~150頁)
魂の画家レンブラント
レンブラント工房の画家たち
レンブラント(1606~69)の作品には、贋作が多いといわれる。
ただし贋作というと語弊がある。それらの作品は決して不正に作り上げられた「ニセモノ」ではなく、正しくはレンブラント監督のもとで、弟子たちによって描かれた「工房作品」と言うべきだと小暮氏はいう。
17世紀のヨーロッパでは、ルーベンス工房のように分業制が当たり前で、「工房作品」だからといって、とりたてて問題にするようなことではない。
しかし、レンブラント工房では、ルーベンス工房のような分業制をとっておらず、すべてレンブラント自身が描くか、弟子が全部描くかという手法をとっていたようだ。つまり、自分が描いた作品も、弟子が描いた作品も、レンブラント作品としてクライアントに引き渡していたという。
(さらにレンブラントは、自画像もお金になることを知っていたからか、自分の姿を弟子に描かせて売りさばいていたのではないかという、判定結果が出たそうだ。)
(小暮、2003年、151頁~154頁)
レンブラントの技法について
師匠のとおり描ける弟子がいたことはありうる。油彩の技法を説明しつつ、小暮氏は次のようにいう。
油絵具は一度乾いた上から、何度でも厚く塗り重ねることができる。その際、暗い絵具は薄塗りでも下地の色をカバーできるのに対して、明るい色の絵具の場合は厚めに塗る必要がある。
レンブラントの作品は、そんな油絵の特性を生かし、光が当たっている部分には絵具を厚塗りして、乾燥させた上に半透明の「おツユ」をかけていく技法によって描かれていると解説している。
複雑な技法を積み重ねたレンブラントの絵画であるが、基本的な手順はさほど難しくないため、修練を積んだ弟子なら、師匠に近い作品が描けたであろうと、小暮氏は推測している。
(また、レンブラントは弟子に自分の作品以外から学んだことを許さなかったといわれ、師匠のやり方以外では描けなかったかもしれないという)
(小暮、2003年、154頁~155頁)
レンブラント・リサーチ・プロジェクト
修練を積んだ弟子なら、師匠レンブラントに近い作品が描けたということは、後世のコレクターや美術館には、衝撃的なことだった。
1968年、レンブラントの生誕300年を前に、母国オランダの美術史家たちによって「レンブラント・リサーチ・プロジェクト」(RRP)が発足したそうだ。
X線や赤外線写真による画面構造分析はもちろん、キャンパスの繊維や、支持体のパネル板、絵具などの年代測定を行い、徹底的な調査をはじめたという。
その結果、280作品のうち、真筆は146点と判定され、あとは工房作品か、関係者作品とされた。
日本にある唯一のレンブラント作品とされた、ブリヂストン美術館蔵≪ペテロの否認≫もクロと判定された。
レンブラント作品でも傑作とされてきた≪黄金のかぶとの男≫(1650~55年頃 67.5×50.7㎝ 油彩 ベルリン美術館蔵)までもレンブラント周辺の画家と判定されてしまった。この作品は、レンブラント・ブランドを失ったため、弟子の作品に番付が下げられた、元・レンブラントの傑作である。
レンブラントを所蔵する美術館関係者のショックはたいへんなものであった。
ただ、RRPとしては、レンブラントの芸術的価値をおとしめるために判定をしたのではなく、「どのように工房のシステムが運営されていたか」を明らかにすることが目的であったようだ。
レンブラントにしても、注文が殺到して仕事がサバききれなくなった時、やむなく、自分の技法を弟子に漏らしたのかもしれない。そう考えると、弟子に自分の作品以外から学ぶのを禁じた話も、わかると小暮氏は考えている。
外交官で人心掌握術に長けていたルーベンスにひきかえ、レンブラントは金と女性にルーズで、管理能力に欠けていたともみている。
(小暮、2003年、155頁~157頁)
画家は不幸を糧に絵を描いた?
さて、レンブラントといえばアムステルダムにある代表作≪夜警≫(1642年 363×437㎝ アムステルダム国立美術館蔵)が不評を買い、当時、絶頂期にあった画家は、たちまち転落の一途を送っていったといわれる。
確かにレンブラントの前半生は栄光に満ちていた。上流階級の娘、サスキアとの結婚によって、お金持ちの顧客を得て、豪邸に住み、大勢の弟子を抱えていた。
しかしその後、ふたりの間にさずかった子供たちは次々と先立ち、≪夜警≫を完成させた年にはサスキアが死去してしまう。それをきっかけにレンブラントのどん底が続く。
レンブラントは女性にだらしなく、ただひとり生き残った息子ティトゥスの乳母だった、ヘルチェ・ディルクスと関係をもつ。ところが、別に家政婦として雇っていたヘンドリッキェと内縁の関係を結んでいたことから、婚約不履行で訴えられてしまう。
加えて前妻サスキアの遺産相続が絡んで、上流階級のクライアントから信頼を失い、仕事が激減する。そして、ついには内縁の妻ヘンドリッキェと、息子ティトゥスの死である。その翌年、レンブラントは独り寂しくその生涯を閉じる。
(小暮、2003年、157~158頁)
作品≪バテシバの水浴≫
ルーヴル美術館に、レンブラントの≪バテシバの水浴≫(1654年 142×142㎝ 油彩)がある。
バテシバは旧約聖書に登場する人妻である。
ダヴィデ王は部下ウリアの妻バテシバが水浴している姿に心をうばわれ、亭主を最前線に送って戦死させて自分のモノにしてしまう。
この絵のモデルは、レンブラントの内縁の妻であったヘンドリッキェである。
当時のオランダ絵画は、聖書をテーマにした作品を当時のインテリアやファッションで描くことが流行していたそうだ。
この≪バテシバの水浴≫も、≪エマオの巡礼者≫(1648年 68×65㎝ 油彩)も、まるでキャンバスの裏側から光を発しているかのような輝きがある。
インテリアの世界でも、影の中から深みのあるオレンジの光が浮かび上がってくるさまを、“レンブラント・ライト”と呼んでいる。まさにこの光と影の表現は、この画家以外では考えられないものである。
(小暮、2003年、151頁、159頁~160頁)
オランダ美術は市民のための芸術だった
バブルが育てたオランダ絵画
17世紀以降のオランダ絵画は、イタリア絵画を中心にしたグランド・ギャラリーに比べて、絵のサイズもこじんまりと小さく、見ていても楽なものが多い。
そして聖書以外のテーマを取り上げた絵が多い。風景画や静物画、あるいは教会や建物の中や、フェルメールのように室内を描いた風俗画といったジャンルが多い。これらのジャンルは、イタリアやフランスでは格下とされていたが、オランダでは好まれて描かれた。
というのは、当時のオランダというのは商人たちによる新興国家だったからである。絵画を買い求めた人が、王侯貴族や教会ではなく、豊かになりはじめた市民層だった。
オランダ独立戦争(1568~1648)により、スペインの支配から独立したネーデルラント連邦共和国オランダは、商魂たくましい商人たちの活躍で、たちまちヨーロッパ随一の貿易国に躍り出た。オランダの商船は、大航海時代の波に乗り、世界中の海に進出した。1602年、オランダ東インド会社を設立し、オランダ人は日本にやって来て、徳川幕府と交易をはじめるのも、17世紀である。
(九州ほどの狭い国土に加え、全体の面積のうち4分の1が海面より下という立地では、物量において諸外国に劣るので、オランダ人は交易による発展を選択したのは、自然の成りゆきでもあった)
商業の繁栄にともない、裕福になった市民はこぞって絵を買い求めた。当時のオランダ市民は一般層の人でも、部屋の中に絵を飾ることを好んだが、投資目的もあったともいわれる。
(余談だが、1634~37年頃のオランダでは、チューリップの変種に対する投機が大流行した。一時はチューリップの球根1個で家1軒買えるといわれるほど、バブル景気だったらしい。絵画では、幸いチューリップのような騒ぎにならなかった。ただ、日本はバブル時代、絵画投機で大赤字を出したが)
(小暮、2003年、161頁~163頁)
見る喜び、描く喜び――オランダ静物画
オランダ美術というと、レンブラントとフェルメールが有名であるが、小暮氏は、オランダ絵画で好きなのは、まず静物画であるという。その理由は、静物画というジャンルほど、物の質感を突き詰めて表現できる分野はないからとする。写真のなかった時代ではなおさらである。
例えば、ウィレム・ヘーダ(1597~1680)の≪軽食≫(1637年 44×55㎝ 油彩)がある。
この画家は、グレー系の微妙な色調を使い分けた静物画で知られる。1620年代後半から40年代に流行したモノクローム・バンケッチェ(モノクローム風の晩餐図)を代表する画家であるそうだ。
金や銀食器など素材感の違いによる表現力には定評がある。この≪軽食≫では、銀の塩入れと、錫のジョッキの輝きを表現するという超絶技工に加え、ワイングラスに映った窓を描きこんでいる。
それから、ヤン・ダヴィス・ヘーム(1606~1683? 84)の≪デザート≫(1640年 149×203㎝ 油彩)がある。
小暮氏は、「オランダ静物画の中でも、最大にして最高の作品」と絶賛している。「これはルーヴルの隠れた名品ともいうべき作品」と評している。
黒ブドウにマスカット、オレンジ、桃、ネクタリン、そしてチェリーに剝いたレモンなどの果実が、籠や磁器の上に置かれていて、その色彩は華麗きわまりない。懐中時計やリュート、天球儀や書物や布といった、あらゆるモチーフに彩られている。ルイ14世のお好みだったのも窺える逸品であると賞賛している。
ところが、静物画は美術を学ぶ人にとって、一番最初に取り組むジャンルとされている。その理由として、小暮氏は次の点を挙げている。
① 静物は文字どおり動かないので、じっくり観察ができる
② 立体物をどうしたら平面に置き換えられるか、理解させるのに都合がよい
③ 質感の描き分けを学ぶのに都合がよい
静物に対して人体というのは、骨格や筋肉に対する知識と理解が必要であり、初心者にとって少々難しいモチーフである。
さらには聖書の物語などを群像によって表現するのは、ある程度の才能に加えて、技術的に訓練が必要であるそうだ。
おそらく、こうした技術的難易度や、当時の美術界のランキングが相まって、静物画を描く画家が格下という、おかしなヒエラルキーができたと小暮氏は推測している。
しかし、これらのオランダ静物画を見ると、そうしたランキングがナンセンスであり、いかにオランダ人画家が観察することに腐心したかが窺えると主張している。
(小暮、2003年、163頁~165頁)
ハルスの≪ジプシー女≫と≪リュートを弾く道化者≫
オランダ絵画において宗教画が少ないというのには、もう一つ理由があるという。というのは、絵画を買い求めた市民層の多くがプロテスタントであったからである。
プロテスタントというのは基本的に偶像崇拝を禁止していたし、それまでオランダを支配していたスペイン・ハプスブルク家への反発というのもあったであろう。
当時のオランダ絵画市場というのは、歳の市やケルメス(教会で行われる縁日)などで、かなり安価に絵画が売りさばかれていたそうだ。
絵の売り買いをする「画商」という職業も、オランダではじまった。それまでの美術の世界が、王侯貴族を相手にした完全受注制だったのに対して、市場へのビジネスに発展していった。レンブラントやフェルメールまでもが画商を兼業していた。
ところで、フランス・ハルス(1581?85~1666)の≪ジプシー女≫(1630年 58×55㎝ 油彩)という作品がある。
このタイトルは後世の人が呼んだ名前で、彼女がジプシーかどうか不明らしく、モデルは明らかに娼婦であるといわれる。乱れた髪で流し目の視線で、はだけた胸元で描かれている。スペイン・カトリックの政権下だったら、異端審問にかけられて火あぶりにされそうな作品と小暮氏はみている。
そして、ハルスの≪リュートを弾く道化者≫(1626年以前 70×62㎝ 油彩)を見てもわかるように、ハルスが描いた人物画は、上流階層の人々ではなかった。そして、このようにあけすけな表情を絵に描いた画家はいなかったのではないかという。
そして、絵のタッチの革新性に注目している。それまでの画家は筆跡の残った絵というのは下品とされていたため、タッチをどう隠すかに苦心していた。ハルス以前の絵に、のっぺりとした絵が多いというのは、こうした理由による。ところが、ハルスの絵は筆跡が勢いよく残されたタッチである。勢いのある筆さばきは、絵に新鮮さを与えている。
ハルスの絵は、オランダ市民による新たなルネサンスとでも称されうるとも、小暮氏は理解しているようだ。
(小暮、2003年、165頁~171頁)
フェルメールはシュールレアリズムの先駆者
ルーヴル美術館では、フェルメール(1632~75)の現存する36点のうち、≪天文学者≫(1668年 51×45㎝)と≪レースを編む女≫(1670~71年 24×21㎝)の2点を見ることができる。
ルーヴルの絵画には、見ていて軽やかな気分になるものと、私たちの心に斬り込んできて、心拍数を上げるものがあると小暮氏はいう。フェルメールは前者の代表で、後者にはジェリコーやドラクロアの大作が挙げられるとする。
フェルメールのこれらの絵は、一見何の変哲もない室内の風景を描いた作品なのに、不思議としか言いようのない絵である。小さな作品だというのに、室内の空気がこちらまで溢れてきそうだ。
スペインのシュールレアリズムの画家サルヴァドール・ダリ(1904~1989)は、フェルメールの熱心な信奉者であった。フェルメールの描いたデルフトの眺望を、自分の絵の中に何度も取り入れていた。
シュールレアリズムというのは、20世紀になって登場した非日常的な世界を描いた絵画である。ダリの絵には、見たことのない生物、バターのように柔らかい時計、奇妙きわまりない風景が描かれている。ただ、見る人を絵の世界に引きずり込み、画家の脳の裏側に潜んでいる世界を、見る人間に共有させることが、シュールレアリズムの本質であるといわれる。
フェルメールの持っている不思議な空間が、20世紀になって、ダリという天才の心をとらえたのは、その意味で、きわめて興味深いと小暮氏はみる。絵画というのは単なる描写ではなく、画家の目と脳をファクターにして、今まで目にすることのできなかった心の中を見せる行為でもあると持論を示している。
ところで、フェルメールが画商をしていたというのは有名な話である。当時のオランダ美術市場は作品がだぶつき気味だったため、よほどの売れっ子作家を別にして、副業を持っていた場合が普通だった。
ヤン・ステーンはデルフトで居酒屋を経営し、レイデンでホテルを営んでいた。また風景画家ロイスダールは「外科理髪師」という、簡単な手術ができる床屋も兼業していた(現在、床屋の目印に使われている青と赤のグルグルは、静脈と動脈を表す名残りである)
(小暮、2003年、172頁~173頁、175頁)
下絵はカメラ・オブスキュラで
フェルメールとともに、デルフト派を代表する画家ピーテル・デ・ホーホ(1629~84)の代表作に≪オランダ家屋の裏庭≫(17世紀 60×49㎝ 油彩)がある。
ホーホはフェルメールほど輝きのある画家ではないが、この人の絵も不思議な空間を生み出している。
部屋のまた向こうに、幾つもの空間が見え、想像力、イマジネーションをかき立ててくれる絵である。
さて、フェルメールやホーホの絵に貢献した技術が、意外にも17世紀のヨーロッパで発達した天体望遠鏡や顕微鏡といった光学技術であったそうだ。それは、現在のカメラの原型ともいえる、カメラ・オブスキュラ(ラテン語で黒い箱)と呼ばれた外界の景色を映し出す装置の発達である。
これはピンホールカメラに凹レンズをとりつけたもので、フィルムはもちろん乾板もなかった時代だが、画家たちは絵の下絵にこぞって、この装置を用いたようだ。
部屋のまた奥に、次々と別の部屋が連なる空間が表現できたのも、カメラ・オブスキュラの力が大きかったとみられている。
フェルメールが描いたハイライトに置かれた光の粒も、カメラ・オブスキュラを通して見えたものだという説が有力であるそうだ。
(小暮、2003年、174~176頁)
イメージについて
シュールレアリズムの語が出たので、小暮氏は、イマジネーションについて私見を述べている。
イマジネーションとは、そこに記されていないものを感じることだという。たとえば、プルーストの『失われた時を求めて』には、そこには書かれていない音楽が全編に流れているとされる。
そして、トーマス・マンの『魔の山』では標高3000メートルのサナトリウムを舞台にしているにもかかわらず、海のどよめきが聴こえてくる。
また、『源氏物語』の「宇治十帖」には単に「風の音もいと荒ましく」としか記していないのに、宇治川の急流と吹きすさぶ風の音が常に聴こえてくるといわれる。
美術作品でも同様に、絵を見ることによって、画家が暮らしていた町の景色や気候、匂いや鳥のさえずりなどが、ふと感じ取れる一瞬があるという。
それが作品を媒体にして、見る人の心のアンテナに受信されるのがイメージであると小暮氏は考えている。
(小暮、2003年、176頁~178頁)
【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】
小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
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