≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その2 私のブック・レポート≫
(2020年3月7日)
※≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』はこちらから≫
井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』 (中経の文庫)
執筆項目は次のようになる。
第1章4時代概説 フランス絵画大作
イタリア・ルネサンス絵画を見て、奥に進むと、2部屋続きの赤い壁の大広間が全部フランス絵画の大作に使われている。その1枚1枚の大きさに驚かされる。
この大作中心主義は、フランスがサロン展という政府主催の展覧会を国策として世界に誇示しようとした18世紀の革命時代に始まるようだ。1789年からの革命政府は、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを死刑にした過激な共和主義であった。
まだ旧体制にあったヨーロッパ諸国は、革命の火を消そうと対仏連合を組んだが、ナポレオン・ボナパルト将軍一派はそれに立ち向かう。のちに皇帝にまで成り上がったナポレオンにふさわしい美術とは、古代ギリシア・ローマの英雄的な歴史を再現するダヴィッドや弟子のグロらの新古典主義である。ダヴィッドは皇帝ナポレオンの宮廷画家として、肖像画や式典を記録するとともに、美術のアカデミー制度を整備する。
ナポレオンの敗北、退位から王政復古の時代となっても、ローマ留学から帰ったアングルがその画壇を引き継ぎ、ダヴィッドの画風を維持した。同時に、アングルは画題をしばしば中近東のハーレムの女「オダリスク」などに求め、東方への異国趣味「オリエンタリスム」の動きを進めた。
ところが、ジェリコーやドラクロワのロマン主義の画家が、ダヴィッド一派に対抗して、自由な想像力と大胆な色彩と筆遣い、力動的構図を主張した。
ジェリコーは実際の事件を大画面で再現し、絵画に現実的な衝撃性を与え、その後継者ドラクロワはモロッコ旅行で得た強烈な色彩表現によって、デッサン中心のアングルに挑戦した。そして印象派へと続く若い世代の画家たちに指針を与えた。
(同時代の英国ではターナー、スペインではゴヤ、ドイツではフリードリヒがロマン主義に連動した。個性尊重の近代絵画の扉を開いた)
(井出、2011年、88頁~89頁)
ダヴィッド(1748-1825)
「ナポレオンの戴冠」
1806-07年/油彩・カンヴァス/629×929㎝ Denon 2F
「レカミエ夫人」
1800年未完/油彩・カンヴァス/174×244㎝ Denon 2F
【ダヴィッドの気苦労】
1804年12月2日、ナポレオンはパリ、ノートル・ダム大聖堂で皇帝としての戴冠式を挙行する。
これを公式に見事な記録画としたのが宮廷画家ダヴィッドである。皇帝はこの仕上がりを見て、「これは絵ではない。中を歩き回ることができるのではないか!」と画家をねぎらったといわれる。
しかし、この絵は戴冠の事実そのままを描いたものではない。そもそも皇帝は跪いて、ローマ教皇に冠を戴せてもらうのがいやなので、自分で頭に載せてしまった。教皇はあきれて、祝福の指のサインをしなかった。
はじめダヴィッドは、その通りに描いたが、余りにおかしいので、皇妃ジョゼフィーヌに皇帝が戴冠する場面とし、教皇も祝福のポーズを描き変える。その他にも、次のような虚構がある。
・この席には、皇帝の母親は欠席したのに、背後の上席に描き入れた
・小男のナポレオンを大きく見せるように、構図を工夫した
・皇妃に嫉妬する皇帝の妹たちの表情を喜びに輝かせたりした
こうしたダヴィッドの気苦労がこの絵にはあった。それを偲んで見るのが、この絵の鑑賞法であると井出氏は説く。
(井出、2011年、90頁~91頁)
【美貌のマダム像が未完に終わったワケ】
「レカミエ夫人」
1800年未完/油彩・カンヴァス/174×244㎝ Denon 2F
「ナポレオンの戴冠」を背にして、ルーヴル山の谷間に咲く白百合のような可憐な肖像がこの「レカミエ夫人」であると井出氏は形容している。
当時流行の古代ローマの貴婦人のようなファッションで、古代風の寝台に横たわり、こちらをもの問いたげに見つめている。マダムと呼ばれているが、彼女の夫は実の父であると井出氏は説明している。革命の混乱期に銀行家だった父は財産を没収されないように、娘なのを隠して妻として入籍してしまったと井出氏は記す(今ではあり得ない話だが)。
レカミエ夫人はこの美貌だったので、マダムを賛美する芸術家たちも集まって一大サロンをなした。ダヴィッドとしては、若い美女は描きづらかったのか時間がかかりすぎ、モデルは他の画家に依頼し直すと聞いて、やる気が失せたようで、この絵は未完に終わる(一説には、マダムのきれいな裸足を描いてしまって、気分を損ねられたともいわれる)。
ともあれ、この「レカミエ夫人」は、ダヴィッドの裏の代表作として永遠に愛すべき名品と井出氏は評している。
(井出、2011年、92頁~93頁)
ダヴィッド(1748-1825)
「サビニの女たち」
1799年/油彩・カンヴァス/385×522㎝ Denon 2F
ダヴィッドの「サビニの女たち」を解説するにあたって、塩野七生『ローマ人の物語』(新潮社)を読んだ感想から、井出氏は初めている。
ローマは国家制度(王、皇帝と元老院、市民集会)として現代までその規範を作ったが、美術でもそうであった。15世紀のルネサンス、マザッチョやドナテッロから、現代画家のバルテュスまで、「古典主義」という枠を与えたのがローマであった。
そして、フランスでは、17世紀のプッサンと18-19世紀のダヴィッドが歴史的ローマに惹かれた画家であった。その2人の絵に共通する「ローマ人の物語」が「サビニの戦い」であると井出氏はいう。
まず、ルーヴルにあるプッサンの「サビニの女たちの掠奪」(1637-38年)では。ローマ建国の雄ロムルスの命令下に、荒くれ男の集団だったローマへ隣国サビニの若い女たちを略奪して拉致しようとの作戦を遂行している乱闘シーンが描かれている。
そしてダヴィッドの絵は、後日サビニの軍隊が女たちを取り戻しにローマを攻めた戦いに、略奪された女たちが割って入り、サビニの親兄弟と今のローマの夫に和平をもたらしたという感動シーンである。
右の槍を構えるロムルスと、左の剣を持つサビニの剣士の間に、両手を広げて止めているのは、ロムルスの妻になった左の剣士の娘ヘルシリアである。子連れもいる彼女たちの身体を張った英雄行為を礼賛するこの絵には、画家ダヴィッドの苦節が表されているといわれる。
ところで、革命政府の左派議員だったダヴィッドは、盟友ロベスピエールが右派に粛清されたテルミドール反動(1794年)の時には5カ月投獄され、ギロチンにかかる寸前、貴族出身だった妻の尽力で釈放された。
この体験によって、ダヴィッドはこの絵を構想したといわれる。つまりギロチンから画家ダヴィッドを救った愛妻への賛辞の意味合いがあるという。奥さんに頭が上がらない体験によって、この絵が誕生した。
それと同時に、この絵は、ダヴィッドのローマへの5年の留学体験が込められている。例えば、その線的な人物像のデッサンや甲冑や武具、女性の衣装など、古代ローマの浮彫装飾を研究した成果が見えるようだ。
この絵を、「ダヴィッドの愛妻と古代ローマ芸術への大いなる賛辞がなした名画」と井出氏は評している。
(井出、2011年、94頁~96頁)
アングル(1780-1876)
「グランド・オダリスク」
1814年/油彩・カンヴァス/91×162㎝ Denon 2F
【「変な絵」に隠された画家の願望とは?】
アングルという画家について、井出氏は次のような印象を抱いている。
この画家は、その世界だけに酔っていると、とんでもない天才だと思うが、ドラクロワなどと比べると、あまりの冷徹な観察者ぶりに目が覚めてしまうという。
音楽評論家の宇野功芳氏の言葉を借りて、「情熱を氷漬けにした」ムラヴィンスキーの指揮の統制者タイプが、絵画ではアングルであったとみる。つまりアカデミーの弟子にも徹底的に忠誠をアングルは誓わせた。弟子の絵が師の方針に背くと、「この裏切り者!」と怒鳴ったそうだ。
井出氏は、アングルのようなタイプの画家は嫌いらしいが、この「グランド・オダリスク」だけはその魅力に参ってしまうと記している。このタイトルにある「オダリスク」とは、ハーレムの奴隷女のことをいい、この絵は中でも大きいので、「グランド」というようだ。
アングルが留学していたローマからこの絵を1819年のサロン展に送ったとき、観衆はあの優等生のアングルが、なぜこんな変な絵を描いたのか訝しがったそうだ。中には「この絵の女は解剖学的には脊椎が3本多い」と指摘した評論もあった。美術史家のケネス・クラークは、「昔の評論家はちゃんと仕事をしていた」と皮肉っている。
この絵を見ると、オダリスクの何か言いたげな瞳と表情、例の長すぎる背中と巨大なお尻、西洋でははばかれるむき出しの足の裏が描かれている。そして、オリエンタルな小物、例えば、ターバンや孔雀の扇やパイプ、カーテンがある。これらは、すべて当時のアングルの願望を語っていると井出氏はみている。
アングルはこの絵で「ここには無い場所」ネヴァーランドを目指し、この絵をロマンティックの心情で描き上げた。いわば、この「隠れロマン派」の情熱をあえて公開してしまったのが、この絵であると井出氏は理解している。
だから、形式的な「氷結」が幾分か溶けてしまったので、当時のパリの観衆は訝しがったようだ。
井出氏は、この絵を「アングル36歳のはじけた怪作」と評している。そして、アングルが晩年にはじけた怪作として、「トルコ風呂」(1862年)があり、こちらはルーヴル美術館のシュリー翼で見られると付言している。
(井出、2011年、97頁~99頁、243頁)
【古さを一刀両断する画期的な構図に注目】
ジェリコー(1791-1824)
「メデューズ号の筏」
1819年/油彩・カンヴァス/491×716㎝ Denon 2F
国家的スキャンダルを大衆の面前に告発する。ほぼ200年前のパリのサロン展の会場で、しかも等身大以上の大画面の油絵でこれを、ジェリコーは行なった。
ことの発端は、1816年の難破事件である。アフリカ沖を南下していたフランス海軍の軍艦メデューズ号が難破し、助かった150名の人員が筏で13日間漂流し、15人しか救出されなかった。
海軍の汚職があって、賄賂をとって密航者を大勢乗せていた事実を国家は隠蔽したかったが、生存者をインタビューしたジェリコーはこれを絵画で告発した。
サロン展の会場は大騒ぎとなり、ジェリコーは一躍時の人となる。新しいロマン派芸術の幕開けとなった。
この絵の構図も画期的である。筏は左下から右肩上がりに対角線構図をなしている。垂直と水平線しか認めないダヴィッド一派の旧弊さを、一刀両断するような鮮やかさであると井出氏は評している。
(井出、2011年、100頁~101頁)
ジェリコーとドラクロワは、ロマン主義絵画の画家である。
二人の師匠は、古典主義の画家で国立美術学校教授ピエール=ナルシス・ゲランのもとに弟子入りをしている。ドラクロワは1816年に弟子入りした。このとき、兄弟子にテオドル・ジェリコー(1719-1824)がいた。ジェリコーは、1816年に起きた難破事件を描いた「メデューズ号の筏」を1819年に発表する。実は、この難破者のモデルをドラクロワがつとめている(このことは、美術史ではよく知られていることだそうだ)。
ところで、ドラクロワが修業時代を終えて、最初にサロンに出品した作品は、1822年の「ダンテの小舟」(ルーヴル美術館蔵)である。当初ドラクロワは古典古代主題か、ギリシアの独立戦争(1821-29)の主題によって画壇デビューを果たすつもりであったが、結局最初に完成したのは、ダンテの『神曲』を主題とするこの作品であった。
当時歴史画の主題は、正統的にはギリシア・ローマの歴史や神話、そして王政復古時代の新しい流行としては、中世や近代の歴史や文学であったから、ドラクロワが最初に計画した中に古典古代主題が含まれていたことは当然であった。ドラクロワの所属するゲランのアトリエは、正統的な歴史画家の養成を目的とする機関であった。
だがその一方で、ドラクロワが同時代の出来事であるギリシアの独立戦争の主題を意図していたことは、ジェリコーの「メデューズ号の筏」がほとんど少年といってよい年齢であったドラクロワに与えた強烈な印象をものがたっているようだ。若いドラクロワは、この「メデューズ号の筏」によってあらためて時事的な主題を大画面の歴史画として描く勇気を得たと鈴木杜幾子氏はみている。
そして、ドラクロワは2年後のサロンに「キオス島の虐殺」(1824年、ルーヴル美術館蔵)を出品し、「ギリシア独立戦争の主題」制作の夢を果たすことになる。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」 シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、126頁~127頁)。
【絵筆で革命に参加する画家の力作】【豪華な宝石箱のような虐殺もの】
ドラクロワ(1798-1863)
「7月28日 民衆を導く自由の女神」
1830年/油彩・カンヴァス/260×325㎝ Denon 2F
「サルダナパールの死」
1827年/油彩・カンヴァス/395×495㎝ Denon 2F
【絵筆で革命に参加する画家の力作】
「7月28日 民衆を導く自由の女神」
1830年/油彩・カンヴァス/260×325㎝ Denon 2F
ナポレオン追放後、フランスはルイ18世、シャルル10世の王政復古時代に戻り、その旧弊な圧政に耐えられず、パリ市民が7月27日から3日間市街戦を繰り広げ、ついに国王を亡命させて革命に勝利し、立憲王政を樹立する。これが七月革命である。
画家ドラクロワは市街戦の様子を建物の陰で見守りながら、「祖国のため、せめて革命に絵筆で参加しよう」と心に誓う。3ヶ月でこの大作を仕上げ、翌年のサロン展に出品した。その絵画の構図は、死体の累々と重なる中、自由の女神が三色旗を掲げ、戦う市民の先頭に立つという勇ましいものであった。この絵は観客の熱狂的な歓迎を受けて、ルーヴル入りを果たす。
ところで、三色旗はもとは大革命からナポレオン時代に用いられ、王政復古時代は禁じられた国旗であった。そのせいか言論弾圧を始めたルイ・フィリップは、この作品を危険視してお蔵入りさせた。再び公開されたのが、25年後のナポレオン3世の時代である(どの為政者にとっても、この絵は永遠に「怖い絵」であろうと井出氏は付言している)。
この絵の中央を占めているのは、「自由」の擬人像である。
彼女は右手で三色旗を高く掲げ、左手に銃剣を持って、かたわらを振り返りつつバリケード上を大股に進んでいる。
この絵がどうしても市庁舎占拠に向かう民衆を表しているように感じられてしまうのは、「自由」の掲げる三色旗が市庁舎占拠の際に勝利の象徴として立てられた、それを連想させるからであろうとされる(ただし、7月28日というタイトルがついているにもかかわらず、「栄光の三日間」の間のいつであるか、また場所はどこかについては正確には不明らしい)。
「自由」の擬人像は、豊かな胸から上を諸肌脱ぎにしている逞しい女性である。かぶっている帽子は、フリギア帽と呼ばれる布製の三角帽で、古代ローマの解放奴隷が同型のものを着用したため、自由の象徴となった。17、18世紀の図像表現の伝統においては、「自由」はこの帽子を頭や手に持った槍に載せた、成熟した女性とされている。またフランス革命のときには、市民たちはこれと三色の記章を革命派の印として着用した。
その「自由」の顔を見ると、額から鼻梁にかけてのまっすぐな線はギリシア美術に見られるものである。それがこの像の場合、逞しい上半身の感じと下半身のみを被う衣の印象とあいまって、「ミロのヴィーナス」を連想させると鈴木氏はいう。
また、このような体格の女性が堂々と歩む姿は、ルーヴル美術館の大階段の踊り場に立つ「サモトラケのニケ」を思わせるという。
これらは二つともヘレニズム彫刻である。「ミロのヴィーナス」の方が1820年に発見され、翌1821年以来ルーヴル美術館に所蔵されている。一方ニケ像の方は、1863年発見でルーヴル入りは1867年であったから、「民衆を率いる「自由」」にそれが直接模倣されているわけではない。
とはいえ、同じタイプの古代彫刻をドラクロワが知っていた可能性は高いとされる。
このようにドラクロワの「自由」像は、自由の観念の擬人像であり、非現実の存在であることを明示している。だが、その一方でこの女性像は、「ミロのヴィーナス」にみられるような、完璧な理想化をほどこされていない。
当時のサロン評は、彼女の肌が粗く、毛深い(腋毛が描かれている)ことを批判した。伝統的な擬人像の肌は大理石のように白く、なめらかに表現されるものであったからである。また批評家たちは、彼女を「魚売りの女」や「下層階級の娼婦」にたとえたりもしたようだ。
ドラクロワの「自由」像が「自由」の観念の擬人化でありながら、その一方で連想させずにはいない、バリケードを乗りこえて進む庶民階級の女性に関しては、画家がイメージソースとして用いた可能性のある、現実のできごとが存在するそうだ。それはおそらく、「1830年7月の知られざるできごと」と題された小冊子で、これにはドラクロワが次のような挿話からこの像のイメージを得ていると記されている。
つまり、一人の若い洗濯女が革命の騒乱の中で弟を見失い、ペティコートだけを身につ」けた姿で探し回った末、スイス兵に射殺された遺骸をみつけた。その後、復讐を誓ったが、結局、兵士のサーベルで殺されてしまったという。
このエピソードが本当にドラクロワにインスピレーションを与えたかは判断すべくもない。だが、大革命以来、民衆の革命的行動の盛り上がりの度に、庶民の間の語り草として伝えられる、こうした勇敢な女性についての伝説と結びつけられるほど、ドラクロワの「自由」像が「写実的」なものと感じられたようだ。この像における「観念性」と「現実性」の共存は、ロマン主義における擬人表現の新しいあり方を示すものとして重要であると鈴木氏は考えている。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、145頁~153頁)
【豪華な宝石箱のような虐殺もの】
「サルダナパールの死」
1827年/油彩・カンヴァス/395×495㎝ Denon 2F
画家ドラクロワは、当時のフランス画家では一番のインテリで、ゲーテからシェイクスピアまで原語で親しんだそうだ。
ゲーテからシェイクスピアまで原語で親しんだそうだ。中でも画家のお気に入りが英国ロマン派詩人バイロンであった。前作の「キオス島の虐殺」から始まった“虐殺もの”として、画家はバイロンの詩劇「サルダナパール」を選んだ。
それは次のような歴史絵巻であった。
古代アッシリアの王サルダナパールが栄華を極めたニネヴェの宮殿に、敵軍が迫る。もはやこれまでと思い定めた王は愛妾や小姓、愛馬までを兵士に皆殺しにさせ、一人寝台に横たわって殺戮の情景を眺め、孤独のうちに炎に包まれていく、というストーリーである。
この場面をドラクロワは1枚の絵にした。
寝台の赤を基調に原色が過剰にちりばめられ、遠くから見ても、目もあやな宝石箱のようであると井出氏は形容している。
1828年のサロン展に出品されたとき、「これでは絵画の虐殺だ」と悪評を被った。一方では次第にボードレールら新世代の芸術家に強い支持を勝ち得て、ロマン主義の代表作に讃えられた(井出氏はドラクロワの絵画ではこの絵が一番好きらしい)。
(井出、2011年、102頁~105頁)
井出氏も言及しているように、画家ドラクロワは、英国のロマン派の詩人バイロンを好んだ。そして詩劇「サルダナパール(サルダナパロス)」がその絵画にインスピレーションを与えたであろうが、この点について鈴木杜幾子氏は、次のような解説を添えている。
紀元前7世紀のアッシリア王サルダナパロスについて記述している歴史書や文学作品は多数存在するが、ドラクロワが特定のどれかに依拠した形跡はないと鈴木氏は理解している。
例えば、バイロンの戯曲『サルダナパロス』は1821年発表で年代的にも近く、また青年時代のドラクロワはイギリスびいきでバイロン愛読者であったから、その主題を選ぶ際にその影響を受けなかったはずはないが、両者に大きな相違があることを指摘している。
つまり、バイロンの戯曲の大団円のサルダナパロスの最期の場面と、ドラクロワの絵との間には、違いがあり、ドラクロワの作品がただちにバイロンの作品の絵画化であったということはできないとする。
具体的には、バイロンではサルダナパロスは薪の山の上に一人で座り、寵姫ミュラがそれに火を放つことになっている。またドラクロワの描き出している虐殺の挿話は、この戯曲には登場しない。
そして、サロンの観客に販売される「リヴレ」(解説つきカタログ)の説明に名前を挙げられ、寝台の向こうの画面中央あたりに描かれているアイシェ(バクトリアの女)にいたっては、バイロンだけではなく、知られているいかなる文献に記述がないとされる。
(アイシェは奴隷の手にかかることを望まず、丸天井を支える円柱で首を吊った場面で画面中央に描かれている)
このことから、ドラクロワは恐らく古代美術品の版画などの視覚資料や、歴史書・文学作品に扱われているサルダナパロス像を参考にして、独自にその最期の場面を構想したものと鈴木氏は考えている。
ドラクロワは、この大作「サルダナパロスの死」を1827年の秋から冬にかけて制作し、翌1828年2月にサロンに出品した。
この作品は、1票差で審査を通ってサロンに出品されたものの、この年の出品作の中で最も多くの批判を受けた。批判の内容は、「デッサンがいい加減である」、「遠近法が誤っている」、「空間表現が正確でない」、「前景が混乱している」などというものであった。
これらの批判をそっくり逆にすると、新古典主義的ないしアカデミックな評価規準になる。同じ年のサロンには、アングルの「ホメロス礼讃」(1827年、ルーヴル美術館)が高く評価された。ドラクロワ作品の先の「欠点」をそのまま裏返した特徴をもち、新古典主義の規範に合致するものであった。
19世紀フランス画壇のアカデミズム対ロマン主義の対立の図式がこの1827~1829年のサロンにおいて顕在化した(これは美術史上の定説となっている)。アングルはルーヴル美術館の天井画として委嘱されたこの作品「ホメロス礼讃」をきっかけとして、アカデミー陣営の指導者への階梯を登り始めたとされる。それに対し、ドラクロワは在野ロマン派の領袖としての道をたどることになる。
一方、この1827年には、ユゴーの戯曲『クロムウェル』が、文学におけるロマン主義宣言として名高い、古典主義的作劇法を批判する内容の序文を付して発表されている。
ユゴーはまた「「サルダナパールの死」を次のような言葉で擁護している。
「サルダナパロスは素晴らしいものだ。あまりに偉大なので、矮小な視野の中には入ってこない。この立派な作品は、偉大で力強い作品の例にもれず、パリの公衆に対しては成功を収めなかった。愚か者の野次は栄光のファンファーレである」
こうした背景を考慮にいれると、「サルダナパールの死」に対する先の批判も、当時の「前衛」=ロマン主義者に対する、保守派=古典主義者の警戒心の表れと解釈できると鈴木氏はみている。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、131頁~138頁)
【鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』はこちらから】
鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』 (講談社選書メチエ)
<6時間コース>
グロ(1771-1835)
「エイローの戦場におけるナポレオン」
1808年/油彩・カンヴァス/521×784㎝ Denon 2F
【ナポレオンの慈悲を描いて喜ばれた出世作】
グロはダヴィッド門下のジロデとジェラールともに3Gと謳われた三傑のトップである。
ナポレオンの戦功を記念する大作を取り組み、息をのむ迫真作を生み出した。
この絵は今はポーランドのエイローの雪原で、プロシア・ロシア連合軍に大苦戦した時のものである。1812年のロシアでの敗北を予感させるだけに悲壮感がある。テーマは命乞いをする生き残りロシア軍の兵たちを勝者の余裕で許すナポレオンである。
(その日は2万5千人が犠牲に壮絶な殺戮戦で、そのような暇があったかはわからない)
グロはナポレオンを本当に尊敬していたようだが、この絵によって、男爵に推挙された。この絵は、出世作となる。
グロはナポレオンの没落後、ダヴィッドの後継者として王政復古後の宮廷画家に抜擢されるが、とたんに絵が委縮してしまう。晩年、セーヌ川に投身自殺してしまう。この絵を描いた37歳頃がグロの頂点であった。
(井出、2011年、106頁~107頁)
プリュードン(1785-1823)
「皇妃ジョゼフィーヌ」
1805年/油彩・カンヴァス/244×179㎝ Denon 2F
【優美な皇后の心に秘められた悲哀を読む】
プリュードンの「皇妃ジョゼフィーヌ」は、マルメゾンの暗い木立の中で岩に腰掛け、戦乱に明け暮れる夫と、これからの自分の不安な人生を思って沈み込んでいる。事実この絵から4年後には跡継ぎを生めないことで、離縁されてしまう。このメランコリックな表情と優雅な物腰に心を動かされる。
画家プリュードンは、ジョゼフィーヌのお絵かきの師もつとめた皇后の賛美者である。プリュードンは、ローマに留学して、イタリア・ルネサンス絵画、とくにレオナルド、ラファエロ、コレッジョを学んだので、まさに優美(グラツィア)の画家といえる。ルーヴルにあるレオナルドの「岩窟の聖母」「洗礼者ヨハネ」などを思い起こさせる高貴な気品があり、逸品であると評している。
井出氏は、皇帝ナポレオンは心底嫌いだが、皇后ジョゼフィーヌは大ファンで、暴君に振り回されたその境遇にも同情すると述べている。ジョゼフィーヌの大ファンなのも、プリュードンのこの絵の存在が大きかったようだ。
(井出、2011年、108頁~109頁)
ジロデ・トリオゾン(1767-1824)
「エンデュミオン、月の印象、通称エンデュミオンの眠り」
1791年/油彩・カンヴァス/196×261㎝ Denon 2F
【みずみずしい感性で月光を描いた若き画家の傑作】
ジロデは、ダヴィッドの弟子の中で最も文学趣味を持っていた画家である。
この絵はギリシア神話の牧童で美少年のエンデュミオンがヘラの罰で長い眠りについたとき、狩りの女神で月を司るディアナがその寝姿に恋し、自らの光で彼の身体を照らしたものである。西風の神ゼフュロス、またはアモールが月桂樹の葉を分けて光を通してやっている。
従来の伝統では、女神を見える女体として描くが、これを月光のニュアンスだけで描き出そうというのは、野心的な試みであったようだ。画家24歳の出世作だけにこうした冒険が可能だったのだろう。
神話によるこの絵の他にも、ルーヴルの「アタラの埋葬」ではシャトーブリアンの小説をテーマにしている。ジロデの絵には、スタンダールやボードレールも賛辞を捧げているので、時代よりも一歩進んだロマン主義の香りがするといわれる。
(井出、2011年、110頁~111頁)
第1章5時代概説 ルネサンス、バロック彫刻
ルーヴルの中庭を飾る彫刻 16-17世紀 イタリア、フランス
<3時間コース>
ミケランジェロ(1475-1564)
「瀕死の奴隷」「抵抗する奴隷」
1513-15年頃/高さ209㎝/大理石 Denon 1F
【ルーヴルの「瀕死の奴隷」と「抵抗する奴隷」の由来】
フィレンツェの彫刻家ミケランジェロは教皇ユリウス2世にローマに招聘され、お門違いのシスティナ礼拝堂の天井画を描かされるはめになる。
さんざん苦労させられたが、その好餌となったのが、ユリウス2世廟の彫刻である。
教皇が生前の第1案では3階建てのビルに墓碑彫刻が40体もぐるりと付属する膨大な設計のモニュメントであった。しかし、教皇が亡くなると、遺族は資金難を理由に、規模の縮小を迫り、第4案まで後退をした。
ミケランジェロは40年もたって、やる気が失せ、現在の墓はサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂にあるモーセ像のある壁面に納まっている。そして計画縮小の都度、不要になったいくつもの未完の人体像がアトリエに遺されることになる。第2案の2体がフランスに贈られて、革命後、国家の所蔵になった。これらが、現在、ルーヴルにあるミケランジェロの2体の彫像である。
【なぜ「奴隷」なのか?】
青年の方は「瀕死の奴隷」、中年の方は「抵抗する奴隷」と呼ばれて、対照的な動きをしている。なぜ「奴隷」なのかという理由について、井出氏は次のように説明している。
ミケランジェロは若い時からメディチ家で育てられ、その新プラトン主義の教養を一身に受けているので、人間とは、肉体の牢獄に閉じ込められた魂と考えていた。その肉体に縛られた低次の人間像が奴隷なのである。
青春期は若く美しいが、力は弱く、肉体の枠から出ることも諦めてしまう。中年期はその枠を自覚し、もがいて逃れようとするが、それも虚しい。しかし人間は魂を肉体から解脱させ、天使の段階を目指して、上昇しなければならない。
ミケランジェロは大理石の塊から人体を彫り出す自らの彫刻制作に、肉体から魂を解放するための人間の高貴な苦悩を実感していたといわれる。
後世の「神のごとき人」(il divino)と讃えられた天才の苦労の刻印が、この2体の未完作のあちこちにあるノミやヤスリ跡が細部に発見されるそうだ。
(井出、2011年、116頁~118頁)
ピュジェ(1620-1694)
「クロトナのミロ」
1670-82年/大理石/高さ270㎝ 幅140㎝ Richelieu 1F
【ライオンが王の庭に格調を添える】
「クロトナのミロ」は、リシュリュー翼1階にあるピュジェの中庭に鎮座する大彫刻の中でも、最もダイナミックで勇壮な作品である。
古代ギリシアの植民都市南イタリアのクロトナ出身のミロは、数々のオリンピック競技で優勝した老アスリートである。若い頃なら簡単だった枯れ木の幹を手で裂いてみようとすると、これが手に挟まって抜けなくなる。もがいているうちに後ろから、腹をすかせたオオカミが尻をガブリとかまれ、哀れミロは餌食となる。
ピュジェはヴェルサイユ宮殿の庭園に置くため、オオカミをライオンに変えたそうだ。その結果、王の庭にふさわしい格調が高まり、人間の傲慢さを戒める古典悲劇のような普遍性が漂うことになった。
この彫刻を宮殿で初めて見たルイ14世王妃マリ・テレーズは、かわいそうにと息をのんだといわれる。ミロの表情がいかにも苦痛に満ちている。
(しかし、この彫刻は結構ユーモラスであると井出氏はいう。幹の間の手はすぐ外せそうだし、彫刻の後ろから見るとライオンがじゃれているように見えるから)
(井出、2011年、119頁~120頁)
<6時間コース>
チェッリーニ(1500-1571)
「フォンテーヌブローのニンフ」
1542-43年/ブロンズ/高さ205㎝ /幅409㎝ Denon 1F
【泉に憩うニンフと動物に王への忠誠心がこもる】
「フォンテーヌブローのニンフ」というレリーフは、ミケランジェロの間の奥の壁上に掲げられている。これは、16世紀フィレンツェ最高の金工師チェッリーニのフランス滞在期の代表作である。
フランソワ1世に招聘されたチェッリーニは、王の居城としたフォンテーヌブロー宮殿の正面扉装飾の注文を受けた。その上部の半円形レリーフとして泉に憩うニンフと鹿や動物たちを表す大構図を考案した。ブロンズの完成品はいくつかの部分に分けてパリで鋳造し、仕上げはフランス人の助手たちに任せたそうだ。
チェッリーニのアイディアで面白いのは、王室狩猟犬ブリオが発見した泉が、Fontainbleau(フォンテーヌブロー)の語源となったという「ブリオの泉」のいわれが、右下の犬に「よってここに示されているそうだ。
さらには、立派な角を持つ牡鹿の首はフランソワ1世のエンブレムである。それをフォンテーヌブローのニンフが愛撫するという王への心配りをしている。チェッリーニは『自伝』において、この雛形を見た王の喜びぶりを得々と記している。
しかしこの完成品は実際には取り付けられず、チェッリーニが帰郷してしまい、王も没してしまう。後に1550年代に世継ぎのアンリ2世の愛妾ディアヌ・ド・ポワティエの住むアネット城の門扉上に納まった。以来、このニンフは居城の主ディアヌ=狩りの女神ディアナに見立てられて大事にされた。
(フランス革命時に貴族のコレクションとして没収されてルーヴル入りした)
(井出、2011年、121頁~123頁)
作者不詳(16世紀半ば)
「アネットのディアナ」
16世紀半ば/大理石/高さ211㎝ 幅258㎝ 奥行き134㎝ Richelieu 1F
【画家たちがこぞって描いたディアヌの美を実感できる】
「アネットのディアナ」はリシュリュー翼にあるが、便宜上ここで紹介するとのこと
「アネットのディアナ」は、アンリ2世の愛妾ディアヌ・ド・ポワティエの住むアネット城で庭園の泉を飾っていた彫刻である。高さ211㎝と大きな裸婦像であり、出来も素晴らしいので、作者については、チェッリーニからグージョン、ジェルマン・ピロンら大物が考えられてきたが、今日すべて疑わしいとされ、不詳のままである。
ところで、ディアヌ・ド・ポワティエは、イタリア、メディチ家から輿入れした王妃カトリーヌ・ド・メディシスと宮廷を二分する勢力を持つ実力者であった。だから、そのオマージュであるこの彫刻の作者は、純粋なフランス人であることには推測できるようだ。
様式もチェッリーニのブロンズの先例の跡を残してはいるが、さらに穏和で雅やかである。この彫像は、フランス・ルネサンスのシンボルと目されている。
この牡鹿もアンリ2世になぞらえると、首を抱く狩猟の女神ディアナは愛妾ディアヌである。王よりも20歳年上だったが、その美しさは衰えを知らなかったそうだ。フォンテーヌブロー派の画家たちはこの肖像をこぞって描いた。
(井出、2011年、124頁~125頁)
グージョン(1510頃-1565頃)
「ニンフ」
1549年頃/石板/74×195㎝ Richelieu 1F
【ルノワールもお気に入り、優美を極めたニンフたち】
今はパリのレ・アール広場にある階段状上のお堂の泉「幼子の泉」の下の3面を飾る浅浮彫パネルがルーヴルのリシュリュー翼1階に展示されている。
1549年、アンリ2世のパリ入城の際、建築家レスコーの設計により、王の行進するサン・ドニ通りに建てられた柱廊が移され改築されたといわれる。その後、この3枚が取り外されて、1810年にルーヴル入りした。
ジャン・グージョンは「王の彫刻家」と呼ばれた16世紀最高のフランス彫刻家である。おそらくイタリアに旅して、ミケランジェロや古代ローマ彫刻に学んだ。ルーヴルの中庭が面した壁面装飾や、ルーヴルのローマ彫刻室となっている「カリアティードの間」の4つの女人柱などで有名である。
この作品は浅いレリーフであるが、ローマ風の古典主義に自国のゴシック彫刻伝統の繊細さを加味した優美の極みというべき傑作である。泉のニンフなので水に関係したトリトンや海馬も表されている。
これは印象派のルノワールも気に入り、それに倣って横長のパネルに好みのヌードを描いている(オルセー美術館蔵)。
(井出、2011年、126頁~128頁)
(2020年3月7日)
※≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』はこちらから≫
井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』 (中経の文庫)
執筆項目は次のようになる。
≪「第1章ドゥノン翼へ」の続き≫
4時代概説 フランス絵画大作
「新古典主義」VS「ロマン主義」 19世紀 フランス
<3時間コース>
ダヴィッド 「ナポレオンの戴冠」「レカミエ夫人」
ダヴィッド 「サビニの女たち」
アングル 「グランド・オダリスク」
ジェリコー 「メデューズ号の筏」
ドラクロワ 「7月28日 民衆を導く自由の女神」「サルダナパールの死」
<6時間コース>
グロ 「エイローの戦場におけるナポレオン」
プリュードン 「皇妃ジョゼフィーヌ」
ジロデ・トリオゾン 「エンデュミオン、月の印象、通称エンデュミオンの眠り」
5時代概説 ルネサンス、バロック彫刻
ルーヴルの中庭を飾る彫刻 16-17世紀 イタリア、フランス
<3時間コース>
ミケランジェロ 「瀕死の奴隷」「抵抗する奴隷」
ピュジェ 「クロトナのミロ」
チェッリーニ 「フォンテーヌブローのニンフ」
<6時間コース>
作者不詳 「アネットのディアナ」
グージョン 「ニンフ」
第1章4時代概説 フランス絵画大作
「新古典主義」VS「ロマン主義」 19世紀 フランス
イタリア・ルネサンス絵画を見て、奥に進むと、2部屋続きの赤い壁の大広間が全部フランス絵画の大作に使われている。その1枚1枚の大きさに驚かされる。
この大作中心主義は、フランスがサロン展という政府主催の展覧会を国策として世界に誇示しようとした18世紀の革命時代に始まるようだ。1789年からの革命政府は、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを死刑にした過激な共和主義であった。
まだ旧体制にあったヨーロッパ諸国は、革命の火を消そうと対仏連合を組んだが、ナポレオン・ボナパルト将軍一派はそれに立ち向かう。のちに皇帝にまで成り上がったナポレオンにふさわしい美術とは、古代ギリシア・ローマの英雄的な歴史を再現するダヴィッドや弟子のグロらの新古典主義である。ダヴィッドは皇帝ナポレオンの宮廷画家として、肖像画や式典を記録するとともに、美術のアカデミー制度を整備する。
ナポレオンの敗北、退位から王政復古の時代となっても、ローマ留学から帰ったアングルがその画壇を引き継ぎ、ダヴィッドの画風を維持した。同時に、アングルは画題をしばしば中近東のハーレムの女「オダリスク」などに求め、東方への異国趣味「オリエンタリスム」の動きを進めた。
ところが、ジェリコーやドラクロワのロマン主義の画家が、ダヴィッド一派に対抗して、自由な想像力と大胆な色彩と筆遣い、力動的構図を主張した。
ジェリコーは実際の事件を大画面で再現し、絵画に現実的な衝撃性を与え、その後継者ドラクロワはモロッコ旅行で得た強烈な色彩表現によって、デッサン中心のアングルに挑戦した。そして印象派へと続く若い世代の画家たちに指針を与えた。
(同時代の英国ではターナー、スペインではゴヤ、ドイツではフリードリヒがロマン主義に連動した。個性尊重の近代絵画の扉を開いた)
(井出、2011年、88頁~89頁)
ダヴィッド
ダヴィッド(1748-1825)
「ナポレオンの戴冠」
1806-07年/油彩・カンヴァス/629×929㎝ Denon 2F
「レカミエ夫人」
1800年未完/油彩・カンヴァス/174×244㎝ Denon 2F
【ダヴィッドの気苦労】
1804年12月2日、ナポレオンはパリ、ノートル・ダム大聖堂で皇帝としての戴冠式を挙行する。
これを公式に見事な記録画としたのが宮廷画家ダヴィッドである。皇帝はこの仕上がりを見て、「これは絵ではない。中を歩き回ることができるのではないか!」と画家をねぎらったといわれる。
しかし、この絵は戴冠の事実そのままを描いたものではない。そもそも皇帝は跪いて、ローマ教皇に冠を戴せてもらうのがいやなので、自分で頭に載せてしまった。教皇はあきれて、祝福の指のサインをしなかった。
はじめダヴィッドは、その通りに描いたが、余りにおかしいので、皇妃ジョゼフィーヌに皇帝が戴冠する場面とし、教皇も祝福のポーズを描き変える。その他にも、次のような虚構がある。
・この席には、皇帝の母親は欠席したのに、背後の上席に描き入れた
・小男のナポレオンを大きく見せるように、構図を工夫した
・皇妃に嫉妬する皇帝の妹たちの表情を喜びに輝かせたりした
こうしたダヴィッドの気苦労がこの絵にはあった。それを偲んで見るのが、この絵の鑑賞法であると井出氏は説く。
(井出、2011年、90頁~91頁)
【美貌のマダム像が未完に終わったワケ】
「レカミエ夫人」
1800年未完/油彩・カンヴァス/174×244㎝ Denon 2F
「ナポレオンの戴冠」を背にして、ルーヴル山の谷間に咲く白百合のような可憐な肖像がこの「レカミエ夫人」であると井出氏は形容している。
当時流行の古代ローマの貴婦人のようなファッションで、古代風の寝台に横たわり、こちらをもの問いたげに見つめている。マダムと呼ばれているが、彼女の夫は実の父であると井出氏は説明している。革命の混乱期に銀行家だった父は財産を没収されないように、娘なのを隠して妻として入籍してしまったと井出氏は記す(今ではあり得ない話だが)。
レカミエ夫人はこの美貌だったので、マダムを賛美する芸術家たちも集まって一大サロンをなした。ダヴィッドとしては、若い美女は描きづらかったのか時間がかかりすぎ、モデルは他の画家に依頼し直すと聞いて、やる気が失せたようで、この絵は未完に終わる(一説には、マダムのきれいな裸足を描いてしまって、気分を損ねられたともいわれる)。
ともあれ、この「レカミエ夫人」は、ダヴィッドの裏の代表作として永遠に愛すべき名品と井出氏は評している。
(井出、2011年、92頁~93頁)
ダヴィッド
ダヴィッド(1748-1825)
「サビニの女たち」
1799年/油彩・カンヴァス/385×522㎝ Denon 2F
ダヴィッドの「サビニの女たち」を解説するにあたって、塩野七生『ローマ人の物語』(新潮社)を読んだ感想から、井出氏は初めている。
ローマは国家制度(王、皇帝と元老院、市民集会)として現代までその規範を作ったが、美術でもそうであった。15世紀のルネサンス、マザッチョやドナテッロから、現代画家のバルテュスまで、「古典主義」という枠を与えたのがローマであった。
そして、フランスでは、17世紀のプッサンと18-19世紀のダヴィッドが歴史的ローマに惹かれた画家であった。その2人の絵に共通する「ローマ人の物語」が「サビニの戦い」であると井出氏はいう。
まず、ルーヴルにあるプッサンの「サビニの女たちの掠奪」(1637-38年)では。ローマ建国の雄ロムルスの命令下に、荒くれ男の集団だったローマへ隣国サビニの若い女たちを略奪して拉致しようとの作戦を遂行している乱闘シーンが描かれている。
そしてダヴィッドの絵は、後日サビニの軍隊が女たちを取り戻しにローマを攻めた戦いに、略奪された女たちが割って入り、サビニの親兄弟と今のローマの夫に和平をもたらしたという感動シーンである。
右の槍を構えるロムルスと、左の剣を持つサビニの剣士の間に、両手を広げて止めているのは、ロムルスの妻になった左の剣士の娘ヘルシリアである。子連れもいる彼女たちの身体を張った英雄行為を礼賛するこの絵には、画家ダヴィッドの苦節が表されているといわれる。
ところで、革命政府の左派議員だったダヴィッドは、盟友ロベスピエールが右派に粛清されたテルミドール反動(1794年)の時には5カ月投獄され、ギロチンにかかる寸前、貴族出身だった妻の尽力で釈放された。
この体験によって、ダヴィッドはこの絵を構想したといわれる。つまりギロチンから画家ダヴィッドを救った愛妻への賛辞の意味合いがあるという。奥さんに頭が上がらない体験によって、この絵が誕生した。
それと同時に、この絵は、ダヴィッドのローマへの5年の留学体験が込められている。例えば、その線的な人物像のデッサンや甲冑や武具、女性の衣装など、古代ローマの浮彫装飾を研究した成果が見えるようだ。
この絵を、「ダヴィッドの愛妻と古代ローマ芸術への大いなる賛辞がなした名画」と井出氏は評している。
(井出、2011年、94頁~96頁)
アングル
アングル(1780-1876)
「グランド・オダリスク」
1814年/油彩・カンヴァス/91×162㎝ Denon 2F
【「変な絵」に隠された画家の願望とは?】
アングルという画家について、井出氏は次のような印象を抱いている。
この画家は、その世界だけに酔っていると、とんでもない天才だと思うが、ドラクロワなどと比べると、あまりの冷徹な観察者ぶりに目が覚めてしまうという。
音楽評論家の宇野功芳氏の言葉を借りて、「情熱を氷漬けにした」ムラヴィンスキーの指揮の統制者タイプが、絵画ではアングルであったとみる。つまりアカデミーの弟子にも徹底的に忠誠をアングルは誓わせた。弟子の絵が師の方針に背くと、「この裏切り者!」と怒鳴ったそうだ。
井出氏は、アングルのようなタイプの画家は嫌いらしいが、この「グランド・オダリスク」だけはその魅力に参ってしまうと記している。このタイトルにある「オダリスク」とは、ハーレムの奴隷女のことをいい、この絵は中でも大きいので、「グランド」というようだ。
アングルが留学していたローマからこの絵を1819年のサロン展に送ったとき、観衆はあの優等生のアングルが、なぜこんな変な絵を描いたのか訝しがったそうだ。中には「この絵の女は解剖学的には脊椎が3本多い」と指摘した評論もあった。美術史家のケネス・クラークは、「昔の評論家はちゃんと仕事をしていた」と皮肉っている。
この絵を見ると、オダリスクの何か言いたげな瞳と表情、例の長すぎる背中と巨大なお尻、西洋でははばかれるむき出しの足の裏が描かれている。そして、オリエンタルな小物、例えば、ターバンや孔雀の扇やパイプ、カーテンがある。これらは、すべて当時のアングルの願望を語っていると井出氏はみている。
アングルはこの絵で「ここには無い場所」ネヴァーランドを目指し、この絵をロマンティックの心情で描き上げた。いわば、この「隠れロマン派」の情熱をあえて公開してしまったのが、この絵であると井出氏は理解している。
だから、形式的な「氷結」が幾分か溶けてしまったので、当時のパリの観衆は訝しがったようだ。
井出氏は、この絵を「アングル36歳のはじけた怪作」と評している。そして、アングルが晩年にはじけた怪作として、「トルコ風呂」(1862年)があり、こちらはルーヴル美術館のシュリー翼で見られると付言している。
(井出、2011年、97頁~99頁、243頁)
ジェリコー
【古さを一刀両断する画期的な構図に注目】
ジェリコー(1791-1824)
「メデューズ号の筏」
1819年/油彩・カンヴァス/491×716㎝ Denon 2F
国家的スキャンダルを大衆の面前に告発する。ほぼ200年前のパリのサロン展の会場で、しかも等身大以上の大画面の油絵でこれを、ジェリコーは行なった。
ことの発端は、1816年の難破事件である。アフリカ沖を南下していたフランス海軍の軍艦メデューズ号が難破し、助かった150名の人員が筏で13日間漂流し、15人しか救出されなかった。
海軍の汚職があって、賄賂をとって密航者を大勢乗せていた事実を国家は隠蔽したかったが、生存者をインタビューしたジェリコーはこれを絵画で告発した。
サロン展の会場は大騒ぎとなり、ジェリコーは一躍時の人となる。新しいロマン派芸術の幕開けとなった。
この絵の構図も画期的である。筏は左下から右肩上がりに対角線構図をなしている。垂直と水平線しか認めないダヴィッド一派の旧弊さを、一刀両断するような鮮やかさであると井出氏は評している。
(井出、2011年、100頁~101頁)
【補足 ジェリコーとドラクロワ】
ジェリコーとドラクロワは、ロマン主義絵画の画家である。
二人の師匠は、古典主義の画家で国立美術学校教授ピエール=ナルシス・ゲランのもとに弟子入りをしている。ドラクロワは1816年に弟子入りした。このとき、兄弟子にテオドル・ジェリコー(1719-1824)がいた。ジェリコーは、1816年に起きた難破事件を描いた「メデューズ号の筏」を1819年に発表する。実は、この難破者のモデルをドラクロワがつとめている(このことは、美術史ではよく知られていることだそうだ)。
ところで、ドラクロワが修業時代を終えて、最初にサロンに出品した作品は、1822年の「ダンテの小舟」(ルーヴル美術館蔵)である。当初ドラクロワは古典古代主題か、ギリシアの独立戦争(1821-29)の主題によって画壇デビューを果たすつもりであったが、結局最初に完成したのは、ダンテの『神曲』を主題とするこの作品であった。
当時歴史画の主題は、正統的にはギリシア・ローマの歴史や神話、そして王政復古時代の新しい流行としては、中世や近代の歴史や文学であったから、ドラクロワが最初に計画した中に古典古代主題が含まれていたことは当然であった。ドラクロワの所属するゲランのアトリエは、正統的な歴史画家の養成を目的とする機関であった。
だがその一方で、ドラクロワが同時代の出来事であるギリシアの独立戦争の主題を意図していたことは、ジェリコーの「メデューズ号の筏」がほとんど少年といってよい年齢であったドラクロワに与えた強烈な印象をものがたっているようだ。若いドラクロワは、この「メデューズ号の筏」によってあらためて時事的な主題を大画面の歴史画として描く勇気を得たと鈴木杜幾子氏はみている。
そして、ドラクロワは2年後のサロンに「キオス島の虐殺」(1824年、ルーヴル美術館蔵)を出品し、「ギリシア独立戦争の主題」制作の夢を果たすことになる。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」 シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、126頁~127頁)。
ドラクロワ
【絵筆で革命に参加する画家の力作】【豪華な宝石箱のような虐殺もの】
ドラクロワ(1798-1863)
「7月28日 民衆を導く自由の女神」
1830年/油彩・カンヴァス/260×325㎝ Denon 2F
「サルダナパールの死」
1827年/油彩・カンヴァス/395×495㎝ Denon 2F
【絵筆で革命に参加する画家の力作】
「7月28日 民衆を導く自由の女神」
1830年/油彩・カンヴァス/260×325㎝ Denon 2F
ナポレオン追放後、フランスはルイ18世、シャルル10世の王政復古時代に戻り、その旧弊な圧政に耐えられず、パリ市民が7月27日から3日間市街戦を繰り広げ、ついに国王を亡命させて革命に勝利し、立憲王政を樹立する。これが七月革命である。
画家ドラクロワは市街戦の様子を建物の陰で見守りながら、「祖国のため、せめて革命に絵筆で参加しよう」と心に誓う。3ヶ月でこの大作を仕上げ、翌年のサロン展に出品した。その絵画の構図は、死体の累々と重なる中、自由の女神が三色旗を掲げ、戦う市民の先頭に立つという勇ましいものであった。この絵は観客の熱狂的な歓迎を受けて、ルーヴル入りを果たす。
ところで、三色旗はもとは大革命からナポレオン時代に用いられ、王政復古時代は禁じられた国旗であった。そのせいか言論弾圧を始めたルイ・フィリップは、この作品を危険視してお蔵入りさせた。再び公開されたのが、25年後のナポレオン3世の時代である(どの為政者にとっても、この絵は永遠に「怖い絵」であろうと井出氏は付言している)。
【補足 ドラクロワ「民衆を率いる「自由」」】
この絵の中央を占めているのは、「自由」の擬人像である。
彼女は右手で三色旗を高く掲げ、左手に銃剣を持って、かたわらを振り返りつつバリケード上を大股に進んでいる。
この絵がどうしても市庁舎占拠に向かう民衆を表しているように感じられてしまうのは、「自由」の掲げる三色旗が市庁舎占拠の際に勝利の象徴として立てられた、それを連想させるからであろうとされる(ただし、7月28日というタイトルがついているにもかかわらず、「栄光の三日間」の間のいつであるか、また場所はどこかについては正確には不明らしい)。
「自由」の擬人像は、豊かな胸から上を諸肌脱ぎにしている逞しい女性である。かぶっている帽子は、フリギア帽と呼ばれる布製の三角帽で、古代ローマの解放奴隷が同型のものを着用したため、自由の象徴となった。17、18世紀の図像表現の伝統においては、「自由」はこの帽子を頭や手に持った槍に載せた、成熟した女性とされている。またフランス革命のときには、市民たちはこれと三色の記章を革命派の印として着用した。
その「自由」の顔を見ると、額から鼻梁にかけてのまっすぐな線はギリシア美術に見られるものである。それがこの像の場合、逞しい上半身の感じと下半身のみを被う衣の印象とあいまって、「ミロのヴィーナス」を連想させると鈴木氏はいう。
また、このような体格の女性が堂々と歩む姿は、ルーヴル美術館の大階段の踊り場に立つ「サモトラケのニケ」を思わせるという。
これらは二つともヘレニズム彫刻である。「ミロのヴィーナス」の方が1820年に発見され、翌1821年以来ルーヴル美術館に所蔵されている。一方ニケ像の方は、1863年発見でルーヴル入りは1867年であったから、「民衆を率いる「自由」」にそれが直接模倣されているわけではない。
とはいえ、同じタイプの古代彫刻をドラクロワが知っていた可能性は高いとされる。
このようにドラクロワの「自由」像は、自由の観念の擬人像であり、非現実の存在であることを明示している。だが、その一方でこの女性像は、「ミロのヴィーナス」にみられるような、完璧な理想化をほどこされていない。
当時のサロン評は、彼女の肌が粗く、毛深い(腋毛が描かれている)ことを批判した。伝統的な擬人像の肌は大理石のように白く、なめらかに表現されるものであったからである。また批評家たちは、彼女を「魚売りの女」や「下層階級の娼婦」にたとえたりもしたようだ。
ドラクロワの「自由」像が「自由」の観念の擬人化でありながら、その一方で連想させずにはいない、バリケードを乗りこえて進む庶民階級の女性に関しては、画家がイメージソースとして用いた可能性のある、現実のできごとが存在するそうだ。それはおそらく、「1830年7月の知られざるできごと」と題された小冊子で、これにはドラクロワが次のような挿話からこの像のイメージを得ていると記されている。
つまり、一人の若い洗濯女が革命の騒乱の中で弟を見失い、ペティコートだけを身につ」けた姿で探し回った末、スイス兵に射殺された遺骸をみつけた。その後、復讐を誓ったが、結局、兵士のサーベルで殺されてしまったという。
このエピソードが本当にドラクロワにインスピレーションを与えたかは判断すべくもない。だが、大革命以来、民衆の革命的行動の盛り上がりの度に、庶民の間の語り草として伝えられる、こうした勇敢な女性についての伝説と結びつけられるほど、ドラクロワの「自由」像が「写実的」なものと感じられたようだ。この像における「観念性」と「現実性」の共存は、ロマン主義における擬人表現の新しいあり方を示すものとして重要であると鈴木氏は考えている。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、145頁~153頁)
【豪華な宝石箱のような虐殺もの】
「サルダナパールの死」
1827年/油彩・カンヴァス/395×495㎝ Denon 2F
画家ドラクロワは、当時のフランス画家では一番のインテリで、ゲーテからシェイクスピアまで原語で親しんだそうだ。
ゲーテからシェイクスピアまで原語で親しんだそうだ。中でも画家のお気に入りが英国ロマン派詩人バイロンであった。前作の「キオス島の虐殺」から始まった“虐殺もの”として、画家はバイロンの詩劇「サルダナパール」を選んだ。
それは次のような歴史絵巻であった。
古代アッシリアの王サルダナパールが栄華を極めたニネヴェの宮殿に、敵軍が迫る。もはやこれまでと思い定めた王は愛妾や小姓、愛馬までを兵士に皆殺しにさせ、一人寝台に横たわって殺戮の情景を眺め、孤独のうちに炎に包まれていく、というストーリーである。
この場面をドラクロワは1枚の絵にした。
寝台の赤を基調に原色が過剰にちりばめられ、遠くから見ても、目もあやな宝石箱のようであると井出氏は形容している。
1828年のサロン展に出品されたとき、「これでは絵画の虐殺だ」と悪評を被った。一方では次第にボードレールら新世代の芸術家に強い支持を勝ち得て、ロマン主義の代表作に讃えられた(井出氏はドラクロワの絵画ではこの絵が一番好きらしい)。
(井出、2011年、102頁~105頁)
【補足 新古典主義対ロマン主義】
井出氏も言及しているように、画家ドラクロワは、英国のロマン派の詩人バイロンを好んだ。そして詩劇「サルダナパール(サルダナパロス)」がその絵画にインスピレーションを与えたであろうが、この点について鈴木杜幾子氏は、次のような解説を添えている。
紀元前7世紀のアッシリア王サルダナパロスについて記述している歴史書や文学作品は多数存在するが、ドラクロワが特定のどれかに依拠した形跡はないと鈴木氏は理解している。
例えば、バイロンの戯曲『サルダナパロス』は1821年発表で年代的にも近く、また青年時代のドラクロワはイギリスびいきでバイロン愛読者であったから、その主題を選ぶ際にその影響を受けなかったはずはないが、両者に大きな相違があることを指摘している。
つまり、バイロンの戯曲の大団円のサルダナパロスの最期の場面と、ドラクロワの絵との間には、違いがあり、ドラクロワの作品がただちにバイロンの作品の絵画化であったということはできないとする。
具体的には、バイロンではサルダナパロスは薪の山の上に一人で座り、寵姫ミュラがそれに火を放つことになっている。またドラクロワの描き出している虐殺の挿話は、この戯曲には登場しない。
そして、サロンの観客に販売される「リヴレ」(解説つきカタログ)の説明に名前を挙げられ、寝台の向こうの画面中央あたりに描かれているアイシェ(バクトリアの女)にいたっては、バイロンだけではなく、知られているいかなる文献に記述がないとされる。
(アイシェは奴隷の手にかかることを望まず、丸天井を支える円柱で首を吊った場面で画面中央に描かれている)
このことから、ドラクロワは恐らく古代美術品の版画などの視覚資料や、歴史書・文学作品に扱われているサルダナパロス像を参考にして、独自にその最期の場面を構想したものと鈴木氏は考えている。
ドラクロワは、この大作「サルダナパロスの死」を1827年の秋から冬にかけて制作し、翌1828年2月にサロンに出品した。
この作品は、1票差で審査を通ってサロンに出品されたものの、この年の出品作の中で最も多くの批判を受けた。批判の内容は、「デッサンがいい加減である」、「遠近法が誤っている」、「空間表現が正確でない」、「前景が混乱している」などというものであった。
これらの批判をそっくり逆にすると、新古典主義的ないしアカデミックな評価規準になる。同じ年のサロンには、アングルの「ホメロス礼讃」(1827年、ルーヴル美術館)が高く評価された。ドラクロワ作品の先の「欠点」をそのまま裏返した特徴をもち、新古典主義の規範に合致するものであった。
19世紀フランス画壇のアカデミズム対ロマン主義の対立の図式がこの1827~1829年のサロンにおいて顕在化した(これは美術史上の定説となっている)。アングルはルーヴル美術館の天井画として委嘱されたこの作品「ホメロス礼讃」をきっかけとして、アカデミー陣営の指導者への階梯を登り始めたとされる。それに対し、ドラクロワは在野ロマン派の領袖としての道をたどることになる。
一方、この1827年には、ユゴーの戯曲『クロムウェル』が、文学におけるロマン主義宣言として名高い、古典主義的作劇法を批判する内容の序文を付して発表されている。
ユゴーはまた「「サルダナパールの死」を次のような言葉で擁護している。
「サルダナパロスは素晴らしいものだ。あまりに偉大なので、矮小な視野の中には入ってこない。この立派な作品は、偉大で力強い作品の例にもれず、パリの公衆に対しては成功を収めなかった。愚か者の野次は栄光のファンファーレである」
こうした背景を考慮にいれると、「サルダナパールの死」に対する先の批判も、当時の「前衛」=ロマン主義者に対する、保守派=古典主義者の警戒心の表れと解釈できると鈴木氏はみている。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、131頁~138頁)
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鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』 (講談社選書メチエ)
<6時間コース>
グロ
グロ(1771-1835)
「エイローの戦場におけるナポレオン」
1808年/油彩・カンヴァス/521×784㎝ Denon 2F
【ナポレオンの慈悲を描いて喜ばれた出世作】
グロはダヴィッド門下のジロデとジェラールともに3Gと謳われた三傑のトップである。
ナポレオンの戦功を記念する大作を取り組み、息をのむ迫真作を生み出した。
この絵は今はポーランドのエイローの雪原で、プロシア・ロシア連合軍に大苦戦した時のものである。1812年のロシアでの敗北を予感させるだけに悲壮感がある。テーマは命乞いをする生き残りロシア軍の兵たちを勝者の余裕で許すナポレオンである。
(その日は2万5千人が犠牲に壮絶な殺戮戦で、そのような暇があったかはわからない)
グロはナポレオンを本当に尊敬していたようだが、この絵によって、男爵に推挙された。この絵は、出世作となる。
グロはナポレオンの没落後、ダヴィッドの後継者として王政復古後の宮廷画家に抜擢されるが、とたんに絵が委縮してしまう。晩年、セーヌ川に投身自殺してしまう。この絵を描いた37歳頃がグロの頂点であった。
(井出、2011年、106頁~107頁)
プリュードン
プリュードン(1785-1823)
「皇妃ジョゼフィーヌ」
1805年/油彩・カンヴァス/244×179㎝ Denon 2F
【優美な皇后の心に秘められた悲哀を読む】
プリュードンの「皇妃ジョゼフィーヌ」は、マルメゾンの暗い木立の中で岩に腰掛け、戦乱に明け暮れる夫と、これからの自分の不安な人生を思って沈み込んでいる。事実この絵から4年後には跡継ぎを生めないことで、離縁されてしまう。このメランコリックな表情と優雅な物腰に心を動かされる。
画家プリュードンは、ジョゼフィーヌのお絵かきの師もつとめた皇后の賛美者である。プリュードンは、ローマに留学して、イタリア・ルネサンス絵画、とくにレオナルド、ラファエロ、コレッジョを学んだので、まさに優美(グラツィア)の画家といえる。ルーヴルにあるレオナルドの「岩窟の聖母」「洗礼者ヨハネ」などを思い起こさせる高貴な気品があり、逸品であると評している。
井出氏は、皇帝ナポレオンは心底嫌いだが、皇后ジョゼフィーヌは大ファンで、暴君に振り回されたその境遇にも同情すると述べている。ジョゼフィーヌの大ファンなのも、プリュードンのこの絵の存在が大きかったようだ。
(井出、2011年、108頁~109頁)
ジロデ・トリオゾン
ジロデ・トリオゾン(1767-1824)
「エンデュミオン、月の印象、通称エンデュミオンの眠り」
1791年/油彩・カンヴァス/196×261㎝ Denon 2F
【みずみずしい感性で月光を描いた若き画家の傑作】
ジロデは、ダヴィッドの弟子の中で最も文学趣味を持っていた画家である。
この絵はギリシア神話の牧童で美少年のエンデュミオンがヘラの罰で長い眠りについたとき、狩りの女神で月を司るディアナがその寝姿に恋し、自らの光で彼の身体を照らしたものである。西風の神ゼフュロス、またはアモールが月桂樹の葉を分けて光を通してやっている。
従来の伝統では、女神を見える女体として描くが、これを月光のニュアンスだけで描き出そうというのは、野心的な試みであったようだ。画家24歳の出世作だけにこうした冒険が可能だったのだろう。
神話によるこの絵の他にも、ルーヴルの「アタラの埋葬」ではシャトーブリアンの小説をテーマにしている。ジロデの絵には、スタンダールやボードレールも賛辞を捧げているので、時代よりも一歩進んだロマン主義の香りがするといわれる。
(井出、2011年、110頁~111頁)
第1章5時代概説 ルネサンス、バロック彫刻
ルーヴルの中庭を飾る彫刻 16-17世紀 イタリア、フランス
<3時間コース>
ミケランジェロ
ミケランジェロ(1475-1564)
「瀕死の奴隷」「抵抗する奴隷」
1513-15年頃/高さ209㎝/大理石 Denon 1F
【ルーヴルの「瀕死の奴隷」と「抵抗する奴隷」の由来】
フィレンツェの彫刻家ミケランジェロは教皇ユリウス2世にローマに招聘され、お門違いのシスティナ礼拝堂の天井画を描かされるはめになる。
さんざん苦労させられたが、その好餌となったのが、ユリウス2世廟の彫刻である。
教皇が生前の第1案では3階建てのビルに墓碑彫刻が40体もぐるりと付属する膨大な設計のモニュメントであった。しかし、教皇が亡くなると、遺族は資金難を理由に、規模の縮小を迫り、第4案まで後退をした。
ミケランジェロは40年もたって、やる気が失せ、現在の墓はサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂にあるモーセ像のある壁面に納まっている。そして計画縮小の都度、不要になったいくつもの未完の人体像がアトリエに遺されることになる。第2案の2体がフランスに贈られて、革命後、国家の所蔵になった。これらが、現在、ルーヴルにあるミケランジェロの2体の彫像である。
【なぜ「奴隷」なのか?】
青年の方は「瀕死の奴隷」、中年の方は「抵抗する奴隷」と呼ばれて、対照的な動きをしている。なぜ「奴隷」なのかという理由について、井出氏は次のように説明している。
ミケランジェロは若い時からメディチ家で育てられ、その新プラトン主義の教養を一身に受けているので、人間とは、肉体の牢獄に閉じ込められた魂と考えていた。その肉体に縛られた低次の人間像が奴隷なのである。
青春期は若く美しいが、力は弱く、肉体の枠から出ることも諦めてしまう。中年期はその枠を自覚し、もがいて逃れようとするが、それも虚しい。しかし人間は魂を肉体から解脱させ、天使の段階を目指して、上昇しなければならない。
ミケランジェロは大理石の塊から人体を彫り出す自らの彫刻制作に、肉体から魂を解放するための人間の高貴な苦悩を実感していたといわれる。
後世の「神のごとき人」(il divino)と讃えられた天才の苦労の刻印が、この2体の未完作のあちこちにあるノミやヤスリ跡が細部に発見されるそうだ。
(井出、2011年、116頁~118頁)
ピュジェ
ピュジェ(1620-1694)
「クロトナのミロ」
1670-82年/大理石/高さ270㎝ 幅140㎝ Richelieu 1F
【ライオンが王の庭に格調を添える】
「クロトナのミロ」は、リシュリュー翼1階にあるピュジェの中庭に鎮座する大彫刻の中でも、最もダイナミックで勇壮な作品である。
古代ギリシアの植民都市南イタリアのクロトナ出身のミロは、数々のオリンピック競技で優勝した老アスリートである。若い頃なら簡単だった枯れ木の幹を手で裂いてみようとすると、これが手に挟まって抜けなくなる。もがいているうちに後ろから、腹をすかせたオオカミが尻をガブリとかまれ、哀れミロは餌食となる。
ピュジェはヴェルサイユ宮殿の庭園に置くため、オオカミをライオンに変えたそうだ。その結果、王の庭にふさわしい格調が高まり、人間の傲慢さを戒める古典悲劇のような普遍性が漂うことになった。
この彫刻を宮殿で初めて見たルイ14世王妃マリ・テレーズは、かわいそうにと息をのんだといわれる。ミロの表情がいかにも苦痛に満ちている。
(しかし、この彫刻は結構ユーモラスであると井出氏はいう。幹の間の手はすぐ外せそうだし、彫刻の後ろから見るとライオンがじゃれているように見えるから)
(井出、2011年、119頁~120頁)
<6時間コース>
チェッリーニ
チェッリーニ(1500-1571)
「フォンテーヌブローのニンフ」
1542-43年/ブロンズ/高さ205㎝ /幅409㎝ Denon 1F
【泉に憩うニンフと動物に王への忠誠心がこもる】
「フォンテーヌブローのニンフ」というレリーフは、ミケランジェロの間の奥の壁上に掲げられている。これは、16世紀フィレンツェ最高の金工師チェッリーニのフランス滞在期の代表作である。
フランソワ1世に招聘されたチェッリーニは、王の居城としたフォンテーヌブロー宮殿の正面扉装飾の注文を受けた。その上部の半円形レリーフとして泉に憩うニンフと鹿や動物たちを表す大構図を考案した。ブロンズの完成品はいくつかの部分に分けてパリで鋳造し、仕上げはフランス人の助手たちに任せたそうだ。
チェッリーニのアイディアで面白いのは、王室狩猟犬ブリオが発見した泉が、Fontainbleau(フォンテーヌブロー)の語源となったという「ブリオの泉」のいわれが、右下の犬に「よってここに示されているそうだ。
さらには、立派な角を持つ牡鹿の首はフランソワ1世のエンブレムである。それをフォンテーヌブローのニンフが愛撫するという王への心配りをしている。チェッリーニは『自伝』において、この雛形を見た王の喜びぶりを得々と記している。
しかしこの完成品は実際には取り付けられず、チェッリーニが帰郷してしまい、王も没してしまう。後に1550年代に世継ぎのアンリ2世の愛妾ディアヌ・ド・ポワティエの住むアネット城の門扉上に納まった。以来、このニンフは居城の主ディアヌ=狩りの女神ディアナに見立てられて大事にされた。
(フランス革命時に貴族のコレクションとして没収されてルーヴル入りした)
(井出、2011年、121頁~123頁)
作者不詳
作者不詳(16世紀半ば)
「アネットのディアナ」
16世紀半ば/大理石/高さ211㎝ 幅258㎝ 奥行き134㎝ Richelieu 1F
【画家たちがこぞって描いたディアヌの美を実感できる】
「アネットのディアナ」はリシュリュー翼にあるが、便宜上ここで紹介するとのこと
「アネットのディアナ」は、アンリ2世の愛妾ディアヌ・ド・ポワティエの住むアネット城で庭園の泉を飾っていた彫刻である。高さ211㎝と大きな裸婦像であり、出来も素晴らしいので、作者については、チェッリーニからグージョン、ジェルマン・ピロンら大物が考えられてきたが、今日すべて疑わしいとされ、不詳のままである。
ところで、ディアヌ・ド・ポワティエは、イタリア、メディチ家から輿入れした王妃カトリーヌ・ド・メディシスと宮廷を二分する勢力を持つ実力者であった。だから、そのオマージュであるこの彫刻の作者は、純粋なフランス人であることには推測できるようだ。
様式もチェッリーニのブロンズの先例の跡を残してはいるが、さらに穏和で雅やかである。この彫像は、フランス・ルネサンスのシンボルと目されている。
この牡鹿もアンリ2世になぞらえると、首を抱く狩猟の女神ディアナは愛妾ディアヌである。王よりも20歳年上だったが、その美しさは衰えを知らなかったそうだ。フォンテーヌブロー派の画家たちはこの肖像をこぞって描いた。
(井出、2011年、124頁~125頁)
グージョン
グージョン(1510頃-1565頃)
「ニンフ」
1549年頃/石板/74×195㎝ Richelieu 1F
【ルノワールもお気に入り、優美を極めたニンフたち】
今はパリのレ・アール広場にある階段状上のお堂の泉「幼子の泉」の下の3面を飾る浅浮彫パネルがルーヴルのリシュリュー翼1階に展示されている。
1549年、アンリ2世のパリ入城の際、建築家レスコーの設計により、王の行進するサン・ドニ通りに建てられた柱廊が移され改築されたといわれる。その後、この3枚が取り外されて、1810年にルーヴル入りした。
ジャン・グージョンは「王の彫刻家」と呼ばれた16世紀最高のフランス彫刻家である。おそらくイタリアに旅して、ミケランジェロや古代ローマ彫刻に学んだ。ルーヴルの中庭が面した壁面装飾や、ルーヴルのローマ彫刻室となっている「カリアティードの間」の4つの女人柱などで有名である。
この作品は浅いレリーフであるが、ローマ風の古典主義に自国のゴシック彫刻伝統の繊細さを加味した優美の極みというべき傑作である。泉のニンフなので水に関係したトリトンや海馬も表されている。
これは印象派のルノワールも気に入り、それに倣って横長のパネルに好みのヌードを描いている(オルセー美術館蔵)。
(井出、2011年、126頁~128頁)
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