濁っていれば、全身が暗い。
だから、あなたの中にある光が消えれば、
その暗さはどれほどであろう。
『マタイによる福音書』 / 6章 23節 (新共同訳)
たとえあなたの心が
憎しみと欺瞞に満ちていても、
その心を持つあなた自身が
悲しんでいることを
神様は知っておられます。
そのこと故に、
神様はあなたを許し
いとおしんでくださっておられるのです。
■読売新聞2012年9月20日
Q.尖閣諸島は日清戦争中に中国から奪ったのですか?
A.中国は「日本は戦勝に乗じて清国から盗み取った」と主張していますが、まったくのでたらめで、根も葉もない言いがかりです。

中華民国駐長崎領事から贈られた感謝状。1919年冬に同諸島沖で遭難した中国漁民を救助したお礼に、中華民国の駐長崎領事が石垣村(当時)職員に贈った。沖縄県石垣市立八重山博物館提供
“沖縄県八重山郡尖閣諸島”と明記が……。
中国は、日本政府が日清戦争末期の1895年1月の閣議で、尖閣諸島を日本の領土に組み入れたために、勝利間近の機に乗じて略取したなどと主張していますが、これは、領土問題を歴史問題にすり替えようとするためのでっち上げです。
なぜなら、日本政府は尖閣諸島がどこの国にも属さず、しかも人が住んでいない、いわゆる国際法上の「無主の地」であることを調べ始めたのは、それより10年も前の1885年のことで、沖縄県が出雲丸という汽船を派遣し、現地調査したのがはじまりです。詳細な調査の結果、「無主の地」であることが判明したため、すぐに日本の領土とすればよかったのですが、当時はそれができない理由がありました。
それは、当時の清国が日本より軍事的に強大だったからです。それが証拠に、1886年には、世界最強の軍艦である「定遠」と「鎮遠」など4隻の清国北洋艦隊が長崎沖に現れ、上陸した清国水兵は暴行や略奪を繰り返し、多くの日本人が死傷するという「長崎事件」を引き起こしました。圧倒的な軍事力を背景にわが物顔の清国の前に、明治政府はなすすべもなく、賠償金なども妥協しなければなりませんでした。時の井上馨外相は、清国と事を構えれば、沖縄を取られてしまう、という危機感があったといわれています。

鎮遠(写真) ドイツに発注され、シュテッティンのフルカン造船所で建設。当時の世界最新鋭の清国海軍の主力艦であった。
逆に言えば、当時、強大な清国が尖閣諸島を自国領だと言えば、誰も文句が言えなかった時代だったのです。尖閣諸島の調査後、沖縄県は同諸島周辺で漁業活動を続けていましたが、清国を含めどこからも、自国の領土主権を侵害しているという抗議がなかったことから、ようやく95年に正式に日本領としたのです。

尖閣諸島を開拓した古賀辰四郎氏(写真中央で銃を持った人)
尖閣開拓の功績で文化勲章「藍綬褒章」が政府から授与された(1902年)。
国際法上、国家が領土権を主張するには、単に「無主の地」の発見による領有意思の表明だけでは不十分で、実効支配が必要とされています。このため日本政府は、尖閣諸島に「国標」である標杭を建てることに続いて、様々な開拓事業をスタートさせました。毎年のように移民を送り込み、海産物やアホウドリの羽毛を採集し、太平洋戦争が始まるまでは、カツオ節の製造事業なども営まれていました。魚釣島付近で遭難した31人の中国漁民を救助したこともあり、1920年には,当時の中国の外交機関である中華民国駐長崎領事から感謝状が贈られ、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と明記し、尖閣諸島を日本領土として認めています。

1908年魚釣島て撮影。鰹ぶし工場があった。
戦後は、米国の施政権下に置かれ、人の居住が制限され、米軍は射爆場などとして利用してきました。

1979年まで米軍の射爆場として使用されてきた。尖閣諸島の一つ大正島と久場島は現在も法的には米軍軍用地である(2012年現在)
ところが、1969年5月に国連アジア極東経済委員会(ECAFE)が、尖閣諸島周辺海域に膨大な石油資源が埋蔵されているとの調査結果を公表、それを機に翌70年に台湾、そして71年に中国が正式に自国領だと主張し始めたのです。台湾、中国ともそれ以前には領有権を主張したことなどなく、日本政府は72年、沖縄返還直後の国連の場で「尖閣列島に対しては日本以外のいかなる国も主権を持っていない。中国の主張はまったく根拠がない」と毅然とした態度で反論しています。
9月下旬(27日)には国連総会が開かれますが、中国政府から送られた1920年の感謝状を示しながら、日本の主張が正しいことを、日本政府は世界に発信しなければなりません。
(調査研究本部主任研究員 勝股秀通)
(2012年9月20日 読売新聞)

※魚釣島に残る唯一の施設である海上保安庁の灯台。
■長崎事件(1886年明治19年)
清国海軍が4隻の軍艦が無断で長崎港に入港。8月13日、500人からなる清国水兵が勝手に上陸を開始。長崎市内をのし回り、商店に押し入って金品を強奪。泥酔の上、市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くす。長崎県警察部の警察官と清国海軍水兵と抜刀による市街戦に発展。

清国側は士官1名が死亡し、15名あまりの水兵が負傷した。(ただし、清国側は死亡8名、負傷42名と主張)
日本側は巡査が2名死亡し、26名の重軽傷者を出した。住民も十数名負傷する大惨事となった。
だから、あなたの中にある光が消えれば、
その暗さはどれほどであろう。
『マタイによる福音書』 / 6章 23節 (新共同訳)
たとえあなたの心が
憎しみと欺瞞に満ちていても、
その心を持つあなた自身が
悲しんでいることを
神様は知っておられます。
そのこと故に、
神様はあなたを許し
いとおしんでくださっておられるのです。
■読売新聞2012年9月20日
Q.尖閣諸島は日清戦争中に中国から奪ったのですか?
A.中国は「日本は戦勝に乗じて清国から盗み取った」と主張していますが、まったくのでたらめで、根も葉もない言いがかりです。

中華民国駐長崎領事から贈られた感謝状。1919年冬に同諸島沖で遭難した中国漁民を救助したお礼に、中華民国の駐長崎領事が石垣村(当時)職員に贈った。沖縄県石垣市立八重山博物館提供
“沖縄県八重山郡尖閣諸島”と明記が……。
中国は、日本政府が日清戦争末期の1895年1月の閣議で、尖閣諸島を日本の領土に組み入れたために、勝利間近の機に乗じて略取したなどと主張していますが、これは、領土問題を歴史問題にすり替えようとするためのでっち上げです。
なぜなら、日本政府は尖閣諸島がどこの国にも属さず、しかも人が住んでいない、いわゆる国際法上の「無主の地」であることを調べ始めたのは、それより10年も前の1885年のことで、沖縄県が出雲丸という汽船を派遣し、現地調査したのがはじまりです。詳細な調査の結果、「無主の地」であることが判明したため、すぐに日本の領土とすればよかったのですが、当時はそれができない理由がありました。
それは、当時の清国が日本より軍事的に強大だったからです。それが証拠に、1886年には、世界最強の軍艦である「定遠」と「鎮遠」など4隻の清国北洋艦隊が長崎沖に現れ、上陸した清国水兵は暴行や略奪を繰り返し、多くの日本人が死傷するという「長崎事件」を引き起こしました。圧倒的な軍事力を背景にわが物顔の清国の前に、明治政府はなすすべもなく、賠償金なども妥協しなければなりませんでした。時の井上馨外相は、清国と事を構えれば、沖縄を取られてしまう、という危機感があったといわれています。

鎮遠(写真) ドイツに発注され、シュテッティンのフルカン造船所で建設。当時の世界最新鋭の清国海軍の主力艦であった。
逆に言えば、当時、強大な清国が尖閣諸島を自国領だと言えば、誰も文句が言えなかった時代だったのです。尖閣諸島の調査後、沖縄県は同諸島周辺で漁業活動を続けていましたが、清国を含めどこからも、自国の領土主権を侵害しているという抗議がなかったことから、ようやく95年に正式に日本領としたのです。

尖閣諸島を開拓した古賀辰四郎氏(写真中央で銃を持った人)
尖閣開拓の功績で文化勲章「藍綬褒章」が政府から授与された(1902年)。
国際法上、国家が領土権を主張するには、単に「無主の地」の発見による領有意思の表明だけでは不十分で、実効支配が必要とされています。このため日本政府は、尖閣諸島に「国標」である標杭を建てることに続いて、様々な開拓事業をスタートさせました。毎年のように移民を送り込み、海産物やアホウドリの羽毛を採集し、太平洋戦争が始まるまでは、カツオ節の製造事業なども営まれていました。魚釣島付近で遭難した31人の中国漁民を救助したこともあり、1920年には,当時の中国の外交機関である中華民国駐長崎領事から感謝状が贈られ、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と明記し、尖閣諸島を日本領土として認めています。

1908年魚釣島て撮影。鰹ぶし工場があった。
戦後は、米国の施政権下に置かれ、人の居住が制限され、米軍は射爆場などとして利用してきました。

1979年まで米軍の射爆場として使用されてきた。尖閣諸島の一つ大正島と久場島は現在も法的には米軍軍用地である(2012年現在)
ところが、1969年5月に国連アジア極東経済委員会(ECAFE)が、尖閣諸島周辺海域に膨大な石油資源が埋蔵されているとの調査結果を公表、それを機に翌70年に台湾、そして71年に中国が正式に自国領だと主張し始めたのです。台湾、中国ともそれ以前には領有権を主張したことなどなく、日本政府は72年、沖縄返還直後の国連の場で「尖閣列島に対しては日本以外のいかなる国も主権を持っていない。中国の主張はまったく根拠がない」と毅然とした態度で反論しています。
9月下旬(27日)には国連総会が開かれますが、中国政府から送られた1920年の感謝状を示しながら、日本の主張が正しいことを、日本政府は世界に発信しなければなりません。
(調査研究本部主任研究員 勝股秀通)
(2012年9月20日 読売新聞)

※魚釣島に残る唯一の施設である海上保安庁の灯台。
■長崎事件(1886年明治19年)
清国海軍が4隻の軍艦が無断で長崎港に入港。8月13日、500人からなる清国水兵が勝手に上陸を開始。長崎市内をのし回り、商店に押し入って金品を強奪。泥酔の上、市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くす。長崎県警察部の警察官と清国海軍水兵と抜刀による市街戦に発展。

清国側は士官1名が死亡し、15名あまりの水兵が負傷した。(ただし、清国側は死亡8名、負傷42名と主張)
日本側は巡査が2名死亡し、26名の重軽傷者を出した。住民も十数名負傷する大惨事となった。