自分の人生をスピリチュアルな視点から見た物語にしていこうと思います。
主にスピ系の意味のある出来事をテーマにつなげていこうかなぁと。
ブログでも何度か書いていることも出てきますが、まとめてだだっと書いていきますね(*^_^*)
ということで、覚えている限りで最も古いスピリチュアルなはじまりと思える思い出からはじめます。
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ここまでの道その1 はじめて声を聞いた日
たぶんこれはわたしがはじめて神を理解したときのことです。
それは幼稚園の時でした。
自分の中に、自分ではない何かが言葉を与えてくれていると気付いたのです。
その時のことを今もはっきり覚えています。
実は今年、その場所に45年ぶりに行きました。あの頃とまったく変わっていなくて感動しました。
その時見上げていた天井
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私の通っていた幼稚園では、月に1度隣接しているお寺でお坊様の話を聞くイベントがありました。
私はお寺に行くことも、お坊様の話を聞くことも大好きでしたが、たいていの幼稚園児は退屈していました。
私が真剣に聞いているとお坊様は言いました。
御仏様はいつもご覧になっています。
だから皆様が周りの友達とおしゃべりをして、私の話を聞いていないことも見ていますよ。
私は周りを見回しました。
確かにみんなおしゃべりをして話を聞いていません。
私の頭の中には、神様が天井から私たちを見ているのが想像してきました。
ちなみに御仏様とは私のイメージする神様と同じだと当時の私は思っていました。
なるほど神様は今この上にいて、みんなのことを見ているんだと思いました。
次にお坊様は言いました。
今日皆さんがおうちにまっすぐ帰らずにあちこち道草を食うこともご覧になっているのですよ。
私は、は?と思いました。
神様がここにいる全員のことがわかるのは、天井から見ているからと言う事は理解できる。
でも、市内全域から来ている幼稚園だったので、帰る方向がみんなバラバラなのです。
さすがにあんなに広い範囲の全員の帰り道を見ることなんてできない。
そう思った瞬間でした。
それはお前が人間だからそう感じるのだ。
神にはそれができるのだ。
だから神なのだ。
と声がしたのです。
それはその時まで当たり前に感じていた自問自答のような言葉だったのですが、後から思い返して、自分が知らないことを教えてる!
てことは私じゃないの?と気づくきっかけになったものです。
その時はいつものことなので声を素直に受け入れて、思わず、なるほどと思いました。
人間だからそう思っちゃうんだけど、ありとあらゆる場所でいろんな人たちを同時に見れる存在、それこそが神なのだと私は瞬時に理解したのです。
世界の全ての天井(空)と神様は同じ。それくらい大きいのだと。
次にお坊様は言いました。
皆様が、お母さんに怒られて、心の中で舌を出していることも、御仏様にはちゃんとわかっているのですよ。
今度こそ、おいおい待てよと私は思いました。
あちこちを瞬時に見れるのは、神様が広い世界を覆っているようなものだからと理解した私は、すべてのものを観察できることまではわかった。
でも心の中はまた別のものだろう。
一人ひとりの心の中は、一人ひとりのもので、他の人にはわかるはずもないものなのに。
もちろんこの時も声が聞こえました。
心の中にも神様がいるのだ。
その時私の頭に浮かんだのは、自分の肉体の中に心と言う何か丸い領域があり、その丸い領域に小さい穴のようなものがあって、その穴から神様とつながっている。
醤油を瓶に入れる時に使う器具みたいなイメージです。
あれが浮かんだのです。
うまく言えないのですがそのようなものを感覚で感じたのです。
よくわかんないけど心の中にのぞき穴のようなものがあり、全て神様に見えているんだと理解しました。
というか、よくわからないけど完全に繋がってる??
心って神様からで出てる??
ということがなんとなく理解できました。
それを言語で理解するにはうんと年数がかかりましたが、感覚で理解したのです。
その時から私は、心に嘘をつけなくなりました。
だって表ではいい子ちゃんにしても、心の中まで神様が完全に漏らさず見られているのですから。
なので心の中まで清く正しくいられるように生きていこうとその時思ったのです。
周りの人にどう思われるだろうか?といった対人間ではなくて、神様に見られても恥ずかしくない生き方、思考でいよう。
誰も見ていなくても神様を知っているから、常に神様がどう思われるかという、対神様の生き方をしようと決めたのです。
まだ4歳でしたから、今思うと子どもはやはり侮れないと思うし、年齢にかかわらず敬意を払いたいと改めて思います。
改めて今思い出したのですが、お坊様のお話はいつもためになっていて、例えば陰徳を積む話など、幼稚園の時に教わり、私は幼稚園の頃から実践してきたのです。
私の中の当たり前の前提になるものは幼稚園のお坊様の話にあった。
なんて素晴らしい環境で育ったものだと改めて感謝の気持ちがわきました。
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それからずっとその声はずっと私に道を示してくれました。
私の中にあるのに私ではない不思議な存在。
私の中にあるのに私ではない不思議な存在。
それがなんなのか当時はよくわからなかったのですが、その声の主は私のためになることをいつも教えてくれました。
時には優しく癒され、時には厳しすぎて心を閉ざしたくなった日もありました。
けれどいつもいつもその声に支えられて私はここまで歩いてきたのです。
つづく(*^_^*)