永遠のロータス

真夜中に目を覚ます。
いつの間にか仕事から戻ったニルが隣で眠っている。
壁に直接穴をあけた形で存在する大きな窓から夜空が見えていた。
ニルを起こさないようにゆっくりと身を起こし、静かに窓辺まで進むと夜空を見上げる。
そこには、満月がまるで太陽のように輝いていて、真夜中だというのに、遠い森の緑もよく見えるようだった。
窓辺から部屋を振り返ると、窓から差し込む月明かりで、奥のベッドに眠るニルの姿が、天蓋から垂れる白い薄地の布越しに見えた。
こちらに背中を向けて、微かに肩を上下させながら、彼は彼の夢の世界に帰っている。
お腹が大きいせいなのか、ぐっすりと眠ることはできず、眠気もない。
私はそのまま窓のそばに置かれた椅子に腰掛けて、遠いナイル川から吹いてくる涼しい風を感じながら、太陽が再び戻るまでの時間を、あれこれ考えて過ごすことにした。
ゆっくり何かを考える時間が必要だったのだ。
空はほんのり青く、夜なのに雲は白かった。
月のある夜に闇はない。世界は彩度を失っただけで昼間と変わらずそこに存在していた。
月は自分で輝いていないと「父」に教わった。
太陽の光が反射して輝いているものだと。
そう考えて、どうして私は「この世界の父が教えてくれていたこと」を知っているのだろうと思う。
私の覚えている限りの記憶では、カルディアとイリスが見守る部屋で目覚めた時からこの人生が始まっているのに。
少し眠ったためなのか、いつの間にか私の中に、遠い幼い日に父が私に文字や天文学を教えていた映像が存在しているのに気づいた。
それは、この世界で生きていたルルウの記憶のはずだった。なのに紛れもなく「私の記憶」だと確信できる。
覚えていないどころか、そもそも経験していないはずなのに自分の中にルルウの記憶があることが不思議だった。
『記憶はあなたの内側にあるのではなくて宇宙に存在している。そこに繋がる鍵を持つ者だけが、自分の中に再現することができる。
そもそもが形を持たずただ存在している波に過ぎない記憶と呼ばれる情報は、あなたが意識することではじめて形として存在する。
あなたはルルウという肉体を持つためルルウの記憶に繋がる鍵を持つ。そのあなたの意識が月という言葉の鍵で、ルルウの記憶に揺らぎを生み出し、記憶という情報を存在させたのだ』
また声がした。
私がルルウの肉体にいるから、ルルウの肉体で繋がる記憶という名の波に触れて、形にしたということ?
よくわからないけれど、ルルウの中にいることで、彼女の記憶が自分のものとして思い出せるのは、この先ここで生きていくうえでありがたい。
するすると記憶がまるで数珠つなぎのように次々に浮かんできた。それを黙って眺めながら、ルルウとしての人生を学ぶことにした。
ルルウが少女だった頃のルルウの父は、かつて滅びた水の国のことをよく知っている人のようだ。
「この国で暮らすこの民族がこの世界に現れる前に、天文学や数学の叡智をたくさん知っている古代の民族がいて、それがこの文化に大きく影響を与えたのだよ」
父の姿がぼんやりと浮かんでくる。
水の国の妖精が着ていたのと似ている白いローブの上に、首のまわりを何重にも囲う瑪瑙とラピスラズリの首が飾りをしていた。
その父は今、「太陽が沈む西の山の向こうの冥界」にいるとニルは言った。
ニルは本気で、父は西の山の向こうにいると信じているようだった。
死に別れるということは、自分が生きているうちは死者に会えなくなることだから、死者がいる場所が地上以外の宇宙とか別の空間でも、地上の続きである西の向こうにある冥界でも同じだ。
生きた姿で二度と会えない。
いつかここからさらに西に進み、「西の果て」と人が呼ぶ場所に実際にたどり着いた人だけが、死者の本当の居場所を知ることが出来るのかもしれない。
この人生での「父」をの記憶を眺めるうちに気付いたことがある。
私に文字を教えてくれたこの父は、かつて水の国にいた時も、私の父だった。
あの国での父とはあまり接点がなくて、ぼんやりとしか覚えていないけれど、大きくて強くていつも私を深く愛してくれていたエネルギーはあの頃もちゃんと伝わっていた。
その暖かさが、ルルウの父とまったく同じだった。
「お父様」
満月を見上げると自然と涙がこぼれた。
水の国、そしてこのナイルと太陽の国で私を愛てくれた父を思って泣いた。
水の国にいた頃は、つながりが薄くて父の愛を感じられなかったけれど、こうして何度も出会い、その時にできる範囲で愛を与えてくれていたのだ。
膨大な時間をかけて魂が旅する中で、何度も父として存在していたことに深い愛を感じる。
またいつかどこかで会えるのだろうか。
泣きながら、寝室がある2階の窓辺から庭園に視線を落とすと、青いロータスが眠る池の隣に、かつて水の国では貴族として生まれ、今は奴隷という人生を生きている青年が立っていた。彼はこちらを見上げていた。
真夜中に主人の部屋の下に立って見上げる行為を他の使用人に見つかってニルに報告されたら、今度こそ彼の命はないだろう。
なのにそんな危険を冒してまで、彼はそこに立ち私を見ていた。
彼の顔には、私が『かつて友人だった 』と告げたときのおびえた表情は微塵も感じられず、王族のひとりとして生き、私にたくさんの優しさを与えてくれたかつてのいとこの面影がにじんでいた。
彼はゆっくりと右手を持上げて、満月を指差した。
あの日、水の国で私と語り合った時と同じように。
彼は思い出したのだ。
奴隷として生きている今以外にもたくさんの人生があったこと。そしてこれからのたくさんの人生を経験していくことも。
かつて私とかわしたあの約束のことも!
駆け寄って懐かしい話をしたい衝動に駆られたが、それを誰かに知られてはいけなかったので、私は窓辺に沿えた左腕を静かに持ちあげると指を動かして、同じように満月を指した。
そして彼を見詰めて小さく頷いた。
彼は懐かしい笑顔を私に向けると、使用人たちが暮らす離れのほうへ帰っていった。
彼がいなくなったあとの池のロータスを眺めながら、私は胸が一杯になった。
水の国で彼は、「今度出会った時には、君は僕を覚えているけど僕は君を覚えていないかもな」 と言った。
そして満月を指差しながら「いつか再会したときに、その後に満月を眺めたら君を思い出すよ」 とも。
過去と現在が錯綜して、どちらもリアルに今、ここに、「存在」していた。
あの日、いつか思い出すと言った彼と、満月を指さして去っていった彼。
別の境遇で別の人生を歩いているはずの二人は、同じ魂を持った存在。
彼はそのことを思い出したのだ。
私はそれがとても嬉しかった。
過去を思い出したからといって、彼の今の境遇が変わるわけではない。
たくさんの人生を生きることができることを思い出したその叡智はこの先の彼の心を救ってくれるはずだ。
彼の魂まで奴隷として生きているわけではない、彼の今の境遇が奴隷なだけなのだから。
たとえ彼が自分の思い出したものを信じられなくなったとしても、私という存在が彼の叡智の証人となるだろう。
それこそが、私がすべて覚えたまま転生する意味なのかもしれない。
私と出会ったことで思い出したことが彼を救うのなら、私は何度も生まれ変わって多くの人たちと出会いつづけたいと願う。
叡智を思い出すことが、魂の救済につながっていくのだから。
殺さない、殺されない身分に生まれ変わりたいといっていた彼が、なぜ奴隷という過酷な人生を選んだのか、その理由は彼にしかわからない。
けれど、この現実もまた、流れの中のひとこまに過ぎないのだ。
命は永遠に繰り返し続ける。
それを魂が望む限り。
私は、この人生で何を学びたいのだろう。
そして何を残せるのだろう。
無意識に膨らんだ腹部をさすっていた右手に、かすかにけり返す小さな足が当たった。
この世界に再び生まれたがっている命がある。
まだ見ぬ命がたまらなく愛おしかった。
2003.2.21発行のメルマガ『翼をたたんで今日はお昼寝』より
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